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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第九章

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4

【1】


 午後の光は、学園棟の白い壁をひどく無機質に見せていた。


 講堂を出たあとの廊下は、いったん緩んだはずの空気を、すぐに元へ戻してしまう。誰もが結果を受け取った。卓ごとの勝敗も、ブローチの有無も、最優秀の名も、もう隠しようがない。けれど、それをどう胸へしまうかはまだ決まらないまま、白い制服の列だけが静かに流れていく。


 ポルックスは、講堂から少し離れた連絡通路の窓際で、一度だけ立ち止まった。


 外では風が細くグラウンドを渡っている。陽は高いのに、どこか冷たい。遠くの寮棟の白壁に、午後の光が薄く貼りついていた。


 胸元のブローチへは触れない。


 触れれば、それが重みより先に飾りへ見えてしまう気がした。あれは嬉しがるためのものではない。少なくとも今は、そう思っていた。講堂で名を呼ばれた瞬間から、胸の内には別の線の方が濃く残っている。ダミアノ。取り巻き。学園街の工房。帳場の不自然な金の流れ。終わったのは課題だけで、こちらはまだ終わっていない。


「いた」


 軽い声がして振り向くと、シャムが立っていた。


 白い制服の胸元は、まだ何もない。けれど、講堂へ入る前より少しだけ背が伸びたように見える。名を呼ばれたわけではない。ブローチもない。それでも、この数日のあいだにただ傷ついていただけでは終わらなかった者の顔だった。


 ポルックスは小さく頷いた。


「どうしたの」

「別に」


 シャムは言ってから、窓の外を見た。


「なんか、終わったなって思っただけ」


 その言い方に、ポルックスはほんの少しだけ口元を動かした。笑いに近いが、笑い切るほど軽くはない。


「終わったのは課題だけだよ」

「うん」


 シャムはすぐに頷いた。


「それも分かってる」


 分かっている。だからこそ、今こうして言葉にするのだろう。終わった、と言わなければ、胸の内に溜まったままのものがどこにも座らない。


 しばらく黙って風の音だけを聞いたあと、シャムが低く言った。


「悔しい?」


 問いは急だったが、ポルックスには何を指しているのか分かった。

 ブローチのことではない。

 もっと別のこと。

 ダミアノの線を、まだきれいに断ち切れていないことだ。


「少し」


 そう答えると、シャムは意外でも何でもない顔で頷いた。


「だよな」


 その“だよな”が妙に自然で、ポルックスは今度こそ少しだけ笑った。


「きみも?」

「すごく」


 シャムは白い壁へ背を預けるでもなく、ただ立ったまま言った。


「講堂で終わった顔してるやつ多くて、ちょっと腹立った」

「皆、終わったんだよ」

「課題はね」


 その返しに、ポルックスはもう何も言わなかった。


 同じ頃、クレイス棟へ戻る道では、カストルが一人で歩いていた。


 本当は一人ではない。少し後ろにセリノスがいる。だが、今のカストルにとっては、自分の足音と胸の内のざらつきの方がよほど近かった。講堂で名は呼ばれなかった。最優秀でもなければ、卓の授与もない。それは分かっていた。分かっていたのに、胸の奥のどこかが少しだけ熱を持っている。


 悔しい。


 だが、それが何に対しての悔しさなのかがきれいに分からない。ポルックスが取ったからか。アルケスの卓が取らなかったからか。自分の卓が届かなかったからか。あるいは、講堂で教員の言葉を聞いて、自分が見られていたと知ったからか。全部が少しずつ混ざっていて、うまく形にならない。


「怒ってるね」


 後ろからセリノスの声がした。


 カストルは振り向かない。


「怒ってない」

「そう」


 相変わらず、それ以上を押してこない。

 だからこそ余計に腹が立つ。

 けれどその静けさの方が、今は助かるのも本当だった。


「……あいつが取るのは分かる」


 ぽつりと出た声は、思ったより低かった。


 セリノスは少しだけ歩幅を合わせる。


「うん」

「でも、分かるのと気に食わないのは別だ」


 そこで初めて、セリノスが小さく笑った。


「それはそうだね」


 カストルは顔をしかめた。

 笑うな、と言いたい。

 だが、その笑いに馬鹿にした色がないことも分かる。


「きみも、そのうち取るよ」

「いらない」

「うん。でも、取る時はちゃんと嫌な顔して取ってほしい」


 それはふざけているようでいて、妙に真面目な声音だった。

 カストルは返事をしなかった。

 けれど、胸のざらつきがほんの少しだけ形を失った。


 その一方で、ダミアノは学園棟の北側へある使われていない閲覧室に入り込んでいた。


 ここは新入生が好んで来る場所ではない。古い書誌や過去の行事記録が並び、紙と埃の匂いが混ざっている。窓は高く、午後の光が棚の端だけを淡く照らしていた。こういう場所は嫌いだ。明るくもなければ、人の気配も薄く、何より“見られる側”でいられない。けれど今は、人の少ない場所の方がましだった。


 ガイオスとリセアスは扉の近くで立ったまま、こちらの顔色を窺っている。


 その顔が、気に障る。

 従うなら従うで、もっと静かに従えばいい。

 不安を前へ出すから、こちらが余計に汚れるのだ。


「工房の帳場は、誰が持ってる」


 ダミアノが訊くと、リセアスがすぐには答えなかった。


「……老いた男」

「名は」

「知らない」


 ダミアノは目を細めた。


「使えないな」

「顔は分かる」

「それで十分だ」


 そう言いながらも、胸の内では舌打ちしたくなる。顔が分かったところで何になる。結局、今手元にあるのは不安だけだ。しかも、その不安の中身はどれも薄汚い。支払い、帳場、借り。父の前へ持っていけば一瞬で顔をしかめられる類のものばかりだった。


 リセアスが低く言った。


「もう、やめた方がいい」


 ガイオスがぎょっとしてそちらを見る。

 ダミアノも、しばらくその顔を見た。


「何を」

「……あの子へのことも、工房のことも」


 あの子。

 ケラノスのことだろう。

 そういうところが、また腹立たしい。名をはっきり言えばいいのに、中途半端に濁す。


「今さらか」

「今だからだよ」


 珍しく、リセアスは目を逸らさなかった。


「講堂でああ言われた。見られてる。だったら――」

「怖いのか」


 言葉の途中で切ると、リセアスの喉が動いた。


「怖いよ」


 その返答があまりにも早くて、ダミアノは一瞬だけ言葉を失った。


 怖い。

 そんなものを口に出すな。

 そう思った。

 だが、思っただけで、すぐに否定はしなかった。リセアスの顔色の悪さは本物だ。講堂のあとからさらにひどい。侯爵家の子ではない者にとって、“記録される”という言葉の重みは、自分の想像よりずっと現実なのかもしれない。


 その時、遠くの廊下で鐘が一つ鳴った。

 午後の授業へ戻る合図ではない。

 教員呼び出しの短い鐘だ。


 ガイオスがびくりと肩を揺らす。

 ダミアノは苛立ちのままにそちらを睨みつけた。

 だが、次の瞬間、閲覧室の扉が軽く叩かれた。


 三人の身体が、同時にこわばる。


「入るぞ」


 返事を待たぬ声だった。


 扉が開き、入ってきたのは若い補助教員だった。白い制服ではなく、薄灰の上着に学園章をつけている。感情の少ない顔で、こちらを順に見た。


「ダミアノ、ガイオス、リセアス」

「……はい」


 ダミアノは、声が一段だけ低くなるのを感じた。


「記録確認のため、別室へ来てもらう」


 それだけだった。


 問い詰めるでもない。

 名指しした理由も言わない。

 だが、その“記録確認”の四字が、講堂で聞いた最後の一言と結びついて、冷たく腹の底へ落ちる。


 ガイオスの顔が青ざめた。

 リセアスは、むしろ妙に静かになった。

 ダミアノだけが、その場で一度だけ顎を上げる。


「何の記録でしょう」


 せめてそれくらいは、整った顔で言わねばならない。

 侯爵家の子として育てられた身体が、そういうところだけは忘れていない。


 補助教員は瞬き一つせずに答えた。


「来れば分かる」


 その言い方には、逃げ道も挑発もない。

 ただ、順序だけがある。


 ダミアノはその瞬間、妙に父のことを思い出した。

 問題を起こすな。

 家を繁栄させろ。

 余計なことで名を汚すな。


 もし今ここで、侯爵家の名を出してみたらどうなるだろう。

 たぶん、この学園では何も変わらない。

 それが嫌だった。

 嫌で、怖くて、腹立たしくて、それでも表へは出せない。


「行こう」


 そう言った自分の声が、ひどく行儀よく聞こえた。


 補助教員が先に立ち、三人はその後ろへつく。

 閲覧室を出ると、廊下はやはり白く静かで、何も知らない顔をして続いていた。


 だが、ダミアノにはもう分かっていた。

 課題は終わった。

 ブローチも配られた。

 講堂での評価も下りた。


 それがどこまで自分を汚すのか、まだ分からない。

 分からないまま、白い廊下を歩くしかなかった。


【2】


 白い廊下は、どこまでも同じ顔をして続いていた。


 学園棟の奥へ進むほど、人の気配は薄くなる。食堂へ向かう時の香りも、講堂へ集まるざわめきも、ここまでは届かない。磨かれた石床に靴音だけが細く響き、その音さえ壁へ吸われていくようだった。


 補助教員の背は大きくない。

 だが、先に立って歩くその後ろ姿には、振り返らずとも従わせるだけの冷たさがあった。


 ダミアノは、その一歩後ろを歩きながら、胸の内で苛立ちを噛み潰していた。


 講堂を出たばかりだというのに、気持ちはまだ少しも整っていない。

 白いままの胸元。

 敵卓に渡ったブローチ。

 最優秀まで取っていったポルックスの静かな顔。

 どれも胸の奥へ棘のように残っている。


 そのうえ、今度は呼び出しだ。


 記録確認。


 たったそれだけの言い方が、かえって気に障る。

 何を、どこまで、誰が見ているのか。

 学園は何かも知っている顔をしながら、決定的なことだけは口にしない。そういうところが、この場所はいちいち厭らしい。


 ガイオスの呼吸が、後ろで少し乱れている。

 リセアスは、さっきより静かだった。

 青白いまま、妙に静かだ。ああいう顔は嫌いだった。怯えているくせに、どこかでもう諦めたような顔をする。諦めるなら最後まで役に立ってからにしろ、とダミアノは思う。


 やがて補助教員が立ち止まった。


 扉がある。

 重厚でも華美でもない、ただ無駄のない木の扉だ。

 磨かれた取っ手の上にだけ、小さく学園章が刻まれている。


「入れ」


 短く告げられ、補助教員が先に扉を開いた。


 中は、思っていたよりも明るかった。


 窓は高いが広く、午後の白い光が机の上へまっすぐ落ちている。部屋の中央には長机が一つ、向かい合うように椅子が置かれ、その奥に教員が二人座っていた。

 一人は、講堂で結果を告げた年嵩の教員。

 もう一人は、細い縁の眼鏡をかけた女教員だった。紅茶の香りがかすかに残っている。先ほどまで机の端に置いていたのだろう、薄い琥珀色の液面がまだ少しだけ揺れていた。


 ダミアノは部屋へ入るなり、その机の上の紙束に目をやった。


 厚くはない。

 だが薄すぎもしない。

 嫌な量だった。


 補助教員が扉を閉める。

 乾いた音が、部屋の空気を完全に切り分けた。


「座りなさい」


 女教員が言った。


 声は穏やかだった。

 けれど、その穏やかさが慰めのためでないことはすぐに分かる。刺激せず、逃がさず、ただ座らせるための声音だ。


 ダミアノは椅子へ腰を下ろした。

 ガイオスとリセアスも、その左右へ続く。


 机の向こうで、年嵩の教員が紙を一枚だけ指先で整えた。


「まず伝えておく」


 低い声が落ちる。


「これは懲罰の宣告ではない。現時点では確認だ」

「ただし、確認のために必要な虚偽のない応答を求める」


 ダミアノは頷かなかった。

 頷けば従ったことになる気がしたし、頷かなくても別に困らないはずだった。


「何についてでしょう」


 口調だけは整えて言う。

 侯爵家の子として、人前で崩れた声を出すなとは、父に何度も言われた。怒っても、怯えても、まず声から整えろ。そういう躾だけは身体に残っている。


 女教員が、一枚の紙を開いた。


「連絡通路における接触」

「課題用文書への不自然な汚損」

「物品留め具の破損」

「学園街側施設への不自然な出入り」


 読み上げられるごとに、机の向こうの空気が冷えていく。


 ガイオスの肩がぴくりと動いた。

 リセアスは視線を落としたままだ。


 ダミアノはそこで初めて、自分の胸の内へ入ってきた冷たさが、怒りより少し深い場所まで落ちたのを感じた。


 学園街側施設。


 そこまで出るのか。


「順に聞く」


 年嵩の教員が言う。


「ケラノス・ネレウスの私物について、意図的な接触を行ったか」


 名が出る。

 まっすぐに。

 曖昧に濁さないところが嫌だった。


 ダミアノは一拍だけ黙り、口を開いた。


「いいえ」


 嘘ではない。

 少なくとも、自分の手では触っていない。

 そういう意味では、嘘ではない。


「意図的に、は?」

「ありません」


 そこで、女教員の視線がほんの僅かに細くなる。

 否定を信じたわけではない。

 言い方を記録しただけだ。

 その程度の反応だった。


 次の紙が開かれる。


「課題用文書が床へ落ちた際、靴先で押さえたのは事実か」

「偶然、そう見えただけです」

「偶然」

「はい」


 女教員が、別の紙へ目を落とした。


「複数の証言では、“退き方が遅かった”とある」

「証言は、たいてい感情が入ります」


 それを言った瞬間、自分で少しだけ手応えを覚えた。

 そうだ。

 証言など、いくらでも曇る。

 目撃したからといって、見たものが正しいとは限らない。

 父もよく言っていた。問題は、正しさより、どう記録されるかだと。


 だが、その小さな手応えは、次の一枚であっさり薄れる。


 女教員が、静かに別の紙を表へ滑らせた。


「では、こちらについても感情の入った証言と言うかしら」


 そこには、学園街側の記録が写されていた。

 搬入口。

 修理工房。

 文具商。

 出入りの時刻。

 仮寮生の名。


 ガイオス。

 リセアス。


 ダミアノは、その文字を見た瞬間、表情を変えないことだけに神経を使った。


「これは」

「君たちの名だ」


 年嵩の教員が言う。


「課題期間中の出入りとしては不自然な頻度だ」

「家からの便です」


 リセアスが低く答えた。

 声が少し震えている。

 愚かだ、とダミアノは思う。震えるな。震えた瞬間に、言葉の値打ちは半分落ちる。


「家から」

「はい」

「修理工房へ?」

「……学用品の補修で」


 女教員はそこで、初めて少しだけ顔を上げた。


「何の」

「留め具です」

「どの学用品の」

「……」


 リセアスが詰まる。


 終わった、と思った。


 終わったというのは、大げさな意味ではない。

 ただ、この場で“きれいに抜ける”道は一つ減った、という意味だ。


 ガイオスが慌てて口を挟む。


「自分は、ただ付き添っただけです」

「頼まれて?」

「……はい」

「誰に」


 ガイオスの目が泳ぐ。

 こちらを見るな、とダミアノは思う。

 見るな。

 口を閉じろ。

 そう念じるより早く、ガイオスの喉が動いた。


「リセアスに」


 その瞬間、リセアスの顔から血の気が引くのが見えた。

 使えない。

 どいつもこいつも。

 ダミアノの胸の内で、怒りがまた熱を持つ。だが、その熱をここで表へ出すほど愚かではない。


 年嵩の教員は、紙の上へ視線を落としたまま言った。


「では、リセアス」

「はい」

「なぜ君が、修理工房へ行く必要があった」


 長い沈黙が落ちた。


 部屋の中の光は明るい。

 それなのに、呼吸だけがやけに苦しい。

 窓の外からは何も聞こえない。

 世界ごと静かだ。


 リセアスは、そこで初めてダミアノではなく、机の向こうの教員たちを見た。


「……借りがあります」


 声は小さかった。

 だが、はっきりしていた。


 ダミアノは、その一言で、自分のこめかみの奥が冷たくなるのを感じた。


 借り。


 やはり、そこを口にするのか。


 女教員は少しも驚かず、ただ次を待った。


「誰に」

「……家に」

「家?」

「侯爵家の商会筋です」


 その答えで、部屋の空気が決定的に変わった。


 侯爵家。


 今度は、はっきりと自分の家が言葉の上へ乗った。


 ダミアノはそこで初めて、背中の内側へ冷たい汗が流れるのを感じた。

 父の顔が浮かぶ。

 家を繁栄させろ。

 問題を起こすな。

 余計なことで名を汚すな。


 今、この机の上にあるのは、まさにその“余計なこと”だ。


 年嵩の教員は、リセアスの顔を見ていた。


「君の家は、侯爵家の商会へ借りを負っている」

「……はい」

「ゆえに、君は侯爵家の子息の頼みを断れなかった」

「……はい」


 その“はい”が落ちた瞬間、ダミアノはようやく、自分の足元で何が崩れたのかを正確に知った。


 取り巻きはただの腰巾着ではなかった。

 縛られていた。

 しかも、自分の家の名で。


 侯爵家の子息としてあるまじき下劣さとは、こういうことだ。

 自分では手を汚さず、家の借りを通じて、立場の弱い者に細工をさせる。

 父が最も嫌うのは、きっと失敗そのものではない。

 こんな小さく薄汚い形で、家名を使ったことだ。


 女教員の声が静かに落ちる。


「ダミアノ」


 名を呼ばれた。


「この点について、説明はあるか」


 部屋は明るい。

 白い。

 逃げ場はどこにもない。

 それでもダミアノは、すぐには答えなかった。


 講堂でブローチを受け取るポルックスの姿が、なぜか一瞬だけ脳裏を掠めた。

 あの静かな横顔。

 あれがここまで拾っていたのだとしたら。

 課題の中だけでなく、その外まで。


 悔しい。

 腹が立つ。

 認めたくない。

 それでも、ここで下手な嘘を重ねるほど、もう足場は厚くない。


 ダミアノは唇を開いた。


「……頼んだことはあります」


 その声は、自分で思った以上に整っていた。


「ですが、そこまで大げさなことになるとは思っていませんでした」


 言いながら、胸の内では別の声が笑っていた。

 父に聞かせたら、そこで終わりだ。

 “大げさになると思わなかった”など、最も愚かな言い訳だと切って捨てられるだろう。


 年嵩の教員は、やはり表情を変えなかった。


「思わなかった、か」


 その復唱だけで、十分冷たかった。


 そしてダミアノは、その時はっきり理解した。


 ここから先は、課題の結果ではない。

 卓の勝ち負けでも、ブローチでもない。

 学園が、学園の規律として、自分へ返してくるものだ。


 それがどこまで重いかは、まだ分からない。

 だがもう、白いままの胸元が不愉快だなどと言っていられる段階ではなかった。


【3】


 講堂でのざわめきは、学園棟の外へ出た途端に、別の種類の静けさへ変わった。


 勝った卓の者たちは騒がない。

 騒げば品がないと知っているからではなく、そんな気分にまでまだ辿り着いていないからだ。

 負けた卓の者たちも、あからさまに俯きはしない。

 だが胸元の白さは、思った以上に目に残る。


 白い制服の列が、連絡通路をそれぞれの寮へ向かって流れていく。高窓から入る午後の光は冷たく、床へ長い影を落としていた。食堂棟の方からは、遅い昼の香りがわずかに流れてくる。焼いた小麦の匂い、煮込まれた肉の脂、香草を落とした温かな汁。空腹を呼ぶはずのそれらが、今は誰の心も素直にほどかなかった。


 アルケスは、クレイス棟へ戻る道で、ほとんど口を開かなかった。


 胸元は白いままだった。

 それを悔しいと単純に言い切れないのが、なおさら重い。

 評価の言葉は返された。大帝側としての終わらせ方も、面目と成立の両立も、見られていなかったわけではない。

 それでも、敵卓より一歩上とはされなかった。

 その事実だけが、歩くたびに静かについてくる。


 グラウンドの縁を回る石畳で、ズヴォルタが待っていた。


 高等部三年のその姿は、白い学園の景色の中でもやはり目立つ。軍人めいた迫力は、春先のまだ硬い空気に妙によく似合う。彼は新入生たちの胸元へ順に視線を落とし、何も言わず、最後にアルケスを見た。


「取れなかった顔をしているな」


 低い声だった。

 責めても慰めてもいない。ただ事実を置く声だ。


 アルケスは一拍置いてから答えた。


「……そう見えますか」

「見える」


 ズヴォルタは短く言う。


「見られていたことと、取れなかったことは別だ」

「分かっています」

「なら、その二つを混ぜるな」


 風が一度、制服の裾を揺らした。

 グラウンドの向こうで、別の寮へ向かう白い群れが細く動いている。


 アルケスは視線を落とさなかった。

 混ぜるな、と言われれば、その通りだと思う。

 講堂で返された評価は確かにあった。卓としての成立も、終盤の形も、教員は見ていた。

 だがブローチはない。

 その二つを一つにして考え始めると、胸の内で何もかもが曖昧になる。


「焦るな」


 ズヴォルタが続けた。


「取れなかったからといって、お前の卓が空だったわけじゃない」

「はい」

「ただ、今回は向こうの方が一歩きれいだった。それだけだ」


 それだけ。

 そう言い切られると、妙に胸へ落ちた。


 負けたわけではない、と言われるより、ずっといい。

 一歩きれいだった。

 それは、次に届くかもしれない差の言い方だったからだ。


 アルケスは小さく息を吐いた。


「次は、もっと詰めます」

「そうしろ」


 ズヴォルタはそれ以上言わず、先に棟の中へ入っていく。

 その背中を見送りながら、アルケスはようやく、自分の胸の重さに少しだけ名前がついた気がした。

 悔しさだ。

 だが、沈むための悔しさではない。


 その頃、ジェスル棟へ戻る列の中で、ポルックスは自分の歩幅をほとんど変えていなかった。


 胸元には、小さなブローチがひとつ。

 さらにもう一つ。

 最優秀の印まである。

 白い制服にそれが並ぶと、さすがに目立つ。だから、周囲の生徒たちの視線が時折そこへ吸い寄せられるのも分かった。


 だがポルックスはそれに触れなかった。

 触れれば、受け取ったことが急に軽くなる気がした。

 あれは誇るための飾りではない。少なくとも今は、そう思っていた。


「最優秀って、どんな気分?」


 横から、ケラノスが言った。


 軽い声だったが、いつもの軽さとは少し違う。

 自分の胸元にブローチのない者が言うには、よく整った声音だった。


 ポルックスは少しだけ目を向ける。


「分からない」

「分からない?」

「まだ、課題が終わった感じしかしない」


 答えると、ケラノスは一度だけ目を瞬かせ、それから苦笑した。


「それ、ちょっと分かる」

「きみも?」

「うん」


 ケラノスは両手を鞄の肩紐へかけ直す。


「取れなかったけど、“終わった”って感じの方が先だった」


 その言い方は、思いのほか静かだった。

 ポルックスはそこで初めて、彼の横顔を少し長く見た。


 器具を持ち歩かなくなってから、ケラノスはどこか身軽になったのではなく、必要最低限だけで立つようになった。傷ついたぶん軽くなる者もいれば、逆に静かに重くなる者もいる。たぶん彼は後者なのだろう。


「でも」


 ケラノスは続けた。


「取った人が取ったのは、ちゃんと見てたら分かる」


 それは嫌味ではなかった。

 事実として言っている。

 だからこそ、ポルックスは返しに少しだけ困った。


「ありがとう、と言えばいい?」

「言わなくていいよ」


 そこで、ケラノスはようやく少しだけ前に近い笑い方をした。


「その代わり、あれ」


 顎をしゃくる。

 廊下の向こう、教員控え室の閉じた扉の方だ。


「どうなってると思う?」


 ダミアノたちのことだと、言葉にしなくても分かった。


 ポルックスは視線だけで扉の方を見た。

 何の気配もない。

 だからこそ、内側で何かが進んでいる気がする。


「まだ分からない」

「そっか」

「でも、終わってはない」


 そう答えると、ケラノスは頷いた。


「うん。たぶん、それを聞きたかった」


 シャムは、ジェスル棟の廊下の端にある窓辺で、しばらく風だけを見ていた。


 名は呼ばれなかった。

 ブローチもない。

 それなのに、自分の胸の内には“何もなかった”という空白はなかった。

 むしろ逆だ。

 色々ありすぎて、うまく一つにまとめられない。


 悔しい。

 だが、それだけではない。

 講堂で読み上げられた評価の中に、たしかに自分のやってきたことの影があった。切る言葉の重み。残す言葉の置き方。終わらせ方を知る視点。

 それが卓全体の勝ちに届かなかっただけで、消えたわけではない。


「シャム」


 呼ばれて振り向くと、アルケスが立っていた。


 クレイス棟へ戻ったはずなのに、わざわざこちらまで来たらしい。

 白い制服の胸元には何もない。

 それが妙に、今の二人にはちょうどよかった。


「何」

「……少しだけ」

「何」

「顔を見にきた」


 真面目すぎる言い方に、シャムは少しだけ目を丸くした。

 それから、思わず鼻で息を漏らす。


「兄上、そういうの下手だよね」

「知っている」

「知ってるなら、もうちょっと上手くやって」


 そう言うと、アルケスは困ったようにほんの少し眉を寄せた。

 その顔を見て、シャムはようやく肩の力が抜けるのを感じる。


「……別に、大丈夫」


 先にそう言う。


「取れなかったのは悔しいけど」

「うん」

「でも、何も残らなかった感じはしない」


 アルケスはしばらく黙っていた。

 それから小さく頷く。


「それならいい」

「兄上は?」


 問うと、今度はアルケスが少しだけ目を逸らした。


「悔しい」

「へえ」

「へえ、ではない」

「でも、言った」


 その短いやり取りが、妙にありがたかった。

 兄弟である前に、同じ学園で、同じ課題のあとを歩いている者同士の会話のようだった。


 クレイス棟に戻ったカストルは、しばらく椅子にも寝台にも落ち着かなかった。


 立っては座り、座ってはまた立つ。

 窓の外を見ても何も変わらない。

 胸の中にあるものだけが、行き場を探している。


 セリノスは、机の上へ茶を二つ置いた。

 一つは自分の前。

 もう一つは、カストルの机の端。


「いらない」


 すぐに返ってくる。

 だが、セリノスは引っ込めない。


「冷めたら僕が飲む」

「勝手にしろ」

「うん」


 そこからしばらく、二人とも何も言わなかった。

 窓の外では、夕方に近づく光が中庭の植え込みを少しずつ薄青くしている。クレイス棟の中庭は、昼より夜の方が広く見える。


 やがてカストルは、机の端へ置かれた茶を一口だけ飲んだ。

 それを見ても、セリノスは特に何も言わない。

 ただ茶色の瞳が、ほんの少しだけ和らぐ。


「……悔しい」


 低く呟いたのは、かなり経ってからだった。


 セリノスは頷く。


「うん」

「でも、分からない」


 カストルは顔をしかめたまま続ける。


「自分の卓が取れなかったのが悔しいのか、あいつが取ったのが悔しいのか、兄上たちが取れなかったのが嫌なのか」

「全部かもね」

「そういうのが一番腹立つ」


 セリノスはそこで初めて少しだけ笑った。


「全部なら、全部でいいんじゃない?」

「よくない」

「でも、よくないって分かってるなら、次で削れる」


 削れる。

 その言い方が、妙にクレイスではなくジェスルじみていて、カストルは舌打ちを飲み込んだ。


「お前、たまに嫌な言い方する」

「ごめん」

「謝るな」

「うん」


 それでも、さっきまでより少しだけ呼吸はしやすくなっていた。


 夕方、学園棟と寮棟のあいだを吹き抜ける風は、昼より冷たかった。


 勝った卓も、取れなかった卓も、それぞれ自分の棟へ戻っている。

 白い制服の群れはもうばらけていて、遠目には誰がどの卓で、誰がどんな結果を受け取ったのかは見えない。

 けれど、近くへ寄れば分かる。

 胸元に光がある者。

 ない者。

 そして、そのどちらにも浮かぶ、まだ片付いていない顔。


 その日の学園は、いつもどおり鐘を鳴らし、いつもどおり食事を出し、いつもどおり夜へ向かっていった。

 だが、その“いつもどおり”の下で、新入生たちの内側だけが確かに変わっていた。


 アルケスは、届かなかった悔しさに名前をつけた。

 ポルックスは、勝ちの裏でまだ終わっていない線を手放していない。

 シャムは、受け取れなかったものの代わりに、消えなかった自分の言葉を知った。

 カストルは、届かなかったことを初めて正面から認めた。


【2】


 その日の夕刻、学園棟の西側は早く影が落ちた。


 食堂や講堂のある区画とは違い、教員室や記録保管室の並ぶ一帯は、もともと飾り気が少ない。白い壁に金の縁取りもなく、天井画もない。ただ磨かれた石の床と、無駄のない扉が淡く光を返すだけだ。

 人を圧倒するための豪奢ではなく、余計なものを削ぎ落とすことで逆に緊張を呼ぶ場所だった。


 ダミアノたちは、その一角のさらに奥へ通されていた。


 先ほどの部屋とは別の部屋だ。

 こちらはもっと狭い。窓も高く細い。外の空はもう半分ほど青を失っているのに、その細窓から差す光だけが妙に白い。長机が一つと、椅子が四つ。壁際には低い棚があり、革表紙の台帳がきちんと揃えられている。

 整いすぎていて、息が詰まる。


 ダミアノは座ったまま、机の向こうに置かれた新しい紙束を見ていた。

 さっきより枚数が増えている。

 増えているということは、誰かがどこかから別の記録を持ってきたのだ。


 それが気に障る。


 学園という場所は、どうしてこうも、紙を増やすことで人を追い詰めるのか。

 家なら違う。家では声が先に来る。父の機嫌、母の顔、使用人の空気。そのどれかが動けば、部屋の温度が先に変わる。


だがここは違う。紙が増え、紙が開かれ、紙の順番が変わる。たったそれだけで、自分が少しずつ狭いところへ押し込まれていくのが分かる。


 年嵩の教員は、追加された紙の上へ指を置いた。


「先ほどの確認の続きだ」


 感情の見えない声だった。


「二点、確認する」


 ダミアノは黙ったまま、その手元を見た。

 視線を落とすな。

 父ならそう言うだろう。

 だが真正面から教員の目を見るのも、今は不利な気がした。


「一点」


 女教員が紙をめくる。


「学園街南端、修理工房ベルノへの出入り」

「一点」

「物品搬入口脇の下働きへの不自然な支払い」


 ガイオスの喉が、横でごく小さく鳴る。

 リセアスはもう顔色を変えなかった。変えきる段階を越えたのだろう。あの諦めたような静けさは嫌いだ。何もかも自分一人で背負う気もないくせに、最後だけ覚悟した顔をする。


「支払いは、誰が指示した」


 年嵩の教員の問いは短い。


 ガイオスがすぐに答えられない。

 当然だ、とダミアノは思う。ここで勝手なことを言えば、その先はもう崩れる。


「僕です」


 代わりに口を開いたのは、リセアスだった。


 ダミアノは横目でだけそちらを見た。

 愚かだ。

 いや、愚かとは少し違う。

 諦めているのだ。諦めた人間は使いものにならない。だが、一番危ないのはそういう時でもある。もう失うものが少ない顔をした者ほど、勝手に喋る。


「君一人の判断で?」

「はい」


 女教員が視線を上げる。


「何のために」

「……留め具を替えるためです」

「何の留め具を」

「器具を包む革帯の」


 そこで一瞬、部屋がしんとした。


 名は出ない。

 だが何のことかは、今ここにいる全員が分かる。


 ダミアノはその静けさの中で、初めてはっきりと、自分が腹を立てているのはリセアスだけではないと知った。

 あの器具のことだ。

 青白い光を灯し、周囲の目を引き、気安く人の懐へ入り込む、あの手のもの。

 ケラノスの顔。

 いつもどこか軽く、こちらの気分を逆撫でするようなあの無邪気さ。

 たぶん最初から、あれが気に食わなかったのだ。

 侯爵家の子として尊く扱われてきた自分と、平然と人の輪の中へ入っていけるああいう手合いとは、目立ち方の質が違う。

 その違いが、ずっと嫌だったのだと、今さらのように思う。


「替える必要があった理由は」


 年嵩の教員の問いは続く。


 リセアスの唇が少しだけ震える。


「……緩めたからです」


 ガイオスが息を止める気配がした。


 その瞬間、ダミアノは自分のこめかみの奥が一度だけ鋭く脈打つのを感じた。

 言うな、と言って止まる段階ではもうない。

 ここで怒鳴れば、それこそ終わる。

 だから黙るしかない。

 黙って、どこまでリセアスが一人で背負えるのかを見るしかない。


「君が?」

「……はい」

「誰の指示で」


 そこで、ようやくリセアスが黙った。


 長い沈黙だった。

 逃げ道を探している沈黙ではない。

 言葉を選べば選ぶほど、どれを置いても足場が崩れると分かってしまった者の沈黙だ。


 女教員は急かさない。

 年嵩の教員も同じだ。

 その急かさなさが、かえって残酷だった。


 ガイオスが耐えきれずに言った。


「リセアス、もう……」

「黙れ」


 ダミアノが低く言う。


 その声はよく通った。

 怒鳴らなかったのに、部屋の空気が少し切れる。


 年嵩の教員の目が、初めてはっきりとダミアノへ向いた。


「今のは、発言を制したのか」

「無駄な口を挟んだからです」


 言い返しながら、自分でも声がよく整っていると思った。

 こういう時だけ、家で叩き込まれたものが勝手に身体へ戻る。

 崩れるな。

 感情を前へ出すな。

 まず見苦しくない声を出せ。

 父の教えは、こういう時にしか役に立たない。


 女教員が、別の紙を静かに開いた。


「では、こちらを見てみましょう」


 そこには、学園街の帳場写しがあった。

 修理工房ベルノ

 文具商セテア

 物品搬入口脇の下働きへの支払い。

 記録は小さな額で細かく分かれていたが、まとめて見れば嫌なほどはっきりしている。


「支払名義は」


 女教員が読み上げる。


「リセアス」

「ただし原資の流れについては、侯爵家商会筋の名が複数回確認されている」


 そこまで言われて、ガイオスがとうとう俯いた。

 肩の線が情けなく落ちる。

 そういう顔をするな、とダミアノは思う。

 だが、もはや思うだけだ。


 リセアスは、顔色の悪さだけを残して、妙に静かだった。


「商会筋からの借りは、事実です」


 自分から言う。


「父が……いや、家が」

「要点だけを」


 年嵩の教員が遮る。


「侯爵家の商会へ借りがある」

「はい」

「それゆえ、侯爵家子息の頼みを断れなかった」

「……はい」


 そこまで来て、ようやくダミアノは理解した。

 もうこれは、器具や留め具や紙の汚損の話だけではない。

 家の名が、紙の上へ出た。

 自分の足元の汚さだけでは済まない。

 侯爵家の名を通じて、立場の弱い者を縛り、小さな悪意の手足にしていた。

 父が最も嫌うのは、たぶんこういう“こぢんまりとした汚れ方”だ。


 無駄に大きな騒ぎを起こすより、よほど始末が悪い。

 なぜなら、それは品がないからだ。


「ダミアノ」


 年嵩の教員が再び名を呼ぶ。


「これまでの確認に照らして、君が中心的に関与していたと見るのが自然だ」


 ダミアノは、そこで初めて正面から教員を見た。


「自然、ですか」

「そうだ」

「証明ではなく」

「確認の段階だからだ」


 その答えに、ダミアノは少しだけ唇を歪めた。

 証明ではない。

 なら、まだ完全には詰んでいない。

 そう考えたい気持ちはあった。


 だが同時に分かっている。

 学園は、証明だけで動く場所ではない。

 規律に触れた時点で、疑いと関与の重さそのもので処理が決まることがある。

 しかも今ここには、工房の帳場も、搬入口の支払いも、取り巻きの借りも、全部が揃い始めている。


 女教員が、最後の紙を一枚だけ机の中央へ置いた。


「なお、君たち三名については、本日からしばらく、課題時間外の単独行動を制限する」

「加えて、学園街側への出入りは一時停止」

「後日、各家へ通知が行く」


 各家へ。


 その四字が落ちた瞬間、ダミアノの胸の内で、何かが音もなく冷えた。


 やはり、そこまで行くのか。


 父の顔が、今度ははっきり浮かぶ。

 問題を起こすな。

 家を繁栄させろ。

 余計なことで名を汚すな。


 この知らせが届いた時、父は怒鳴るだろうか。

 いや、たぶん怒鳴らない。

 怒鳴るより先に、目だけで切る。

 その方が、ずっと怖い。


 ガイオスが小さく息を漏らした。

 リセアスは目を閉じた。

 どちらも見苦しい。

 だが今のダミアノには、それを見下すだけの余裕がもうあまり残っていなかった。


「異論は」


 年嵩の教員が問う。


 ダミアノは、しばらく答えなかった。

 異論ならいくらでもある。

 こんな小さなことで。

 こんな細い記録で。

 侯爵家の名まで持ち出して。

 学園は何様のつもりだ。

 そういう言葉は、胸の内にいくらでも浮かぶ。


 けれど、それを言ったところで意味がないことも分かる。

 ここは家ではない。

 母も使用人もいない。

 姉の笑いもない。

 父の教えだけが、皮肉なほど正しい形で残っている。


「……ありません」


 そう答えた自分の声は、最後まで整っていた。


 その整い方が、かえって侘びしかった。


 年嵩の教員は頷きもしなかった。

 ただ紙を重ね、確認は終わりだと視線だけで示す。


 補助教員が扉を開けた。


 三人は立ち上がる。

 足元はふらつかない。

 ふらついたら、みっともない。

 そこだけはまだ、守れているつもりだった。


 白い廊下へ出ると、もう夕方の色が落ち始めていた。


 高窓の外の空は薄い青を失い、連絡通路の光もやわらいでいる。生徒の姿はまばらで、遠くから食堂の匂いだけが流れてきた。温かい汁と焼いた小麦の匂い。いつもなら空腹を呼ぶはずなのに、今は何も感じない。


 歩きながら、ガイオスが声にならない息を漏らす。

 リセアスは相変わらず静かだ。

 その静けさが、もうさっきまでとは違っていた。観念ではない。たぶん少しだけ、楽になっている。

 それがダミアノには、余計に癪だった。


 自分だけが、まだ終わっていない。

 家へ送られる通知。

 父の視線。

 商会筋の名。

 侯爵家の子息としてあるまじき、小さく汚い手の使い方。


 全部がこれからだ。


 連絡通路の曲がり角で、前から白い制服の一団が来た。

 ポルックスはいない。

 アルケスでもない。

 ただの新入生たちだ。

 なのに、その胸元の小さなブローチが目へ刺さる。


 ダミアノは、その時ようやく、自分が講堂で失ったものがただの飾りではなかったのだと知った。


 印だった。

 見られたという印。

 選ばれたという印。

 そして、自分の胸元にはそれがない。


 ないまま家へ通知だけが行く。

 その歪さが、遅れてじわじわと胸の内へ広がっていった。

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