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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第九章

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3

【1】


 その書類は、講堂で結果が告げられるより一足先に、学園の外へ出ていた。


 龍環神市学園の紋章を刻んだ封蝋は、いつもの学内文書よりやや濃い青を帯びている。薄く銀を含んだようなその色は、陽にかざすとわずかに光を返した。

 宛先は五国へ散っている。

 現役の王族。

 要職に就く名家の当主。

 そして、かつて学園で学び、今は家名を持たぬまま国を動かすほどの名声を得た者たちへ。


 送り出されたのは、課題の記録の抜粋だった。


 新入生の名は伏せられている。

 寮のみ。

 立場のみ。

 交渉記録のみ。


 誰がどの国の誰かは分からぬ。

 ただ、大帝側と教皇側、それぞれの文の置き方と、返答の運び方と、終わらせ方だけが読めるように整えられていた。


 学園は毎年、こうして外の眼も借りる。

 教員だけでなく、かつてその中で学び、卒業していった者たちの眼差しもまた、今の新入生の出来を測る物差しになるからだ。


 ユルバンフルミネでは、王都の高層街を見下ろす執務室で、銀縁の眼鏡をかけた若い官僚出身の卒業生が、その束を読んでいた。

 彼は王族ではない。

 だが学園卒業後、龍脈管理の再編で名を上げ、いまや王家の諮問会議へ常に呼ばれる立場にある。


 窓辺には濃く淹れた珈琲が置かれていた。

 香りは強く、苦みも深い。

 だが彼はひと口飲んだきり、すぐに紙へ戻る。


「面白い」


 独り言のように呟く。


 大帝側の一組へ印をつける。

 教皇側の一組へも。


「こちらは“共同防衛”で自尊を残した。いい。だが、終盤で相手に形を渡しすぎていない」

「こちらは逆に、形だけを欲しがる側の目だな……」


 言葉を追うたび、机の端へ小さな注記が増えていく。

 名はない。

 それでも読める。

 前へ立つ者の声。

 枠を組む者の手。

 痛みを知る者の“切りすぎぬ”感覚。


 サブマでは、白い石の宮殿の奥で、女王の近くに仕える老齢の卒業生が、湯気の立つ香茶を片手に書類を読んでいた。

 香茶には月桂の葉と乾いた花の香りが落とされている。

 彼は飲む前に必ず一度、香りを確かめる癖があった。


「宗教国家の理を、ただ断罪の理にしていない」


 細い指で紙を押さえ、そう言う。


「教皇側に立ちながら、“終わらせるための言葉”を残した者がいるな」

「それは高く見るべきでしょうか」


 側に控えていた若い書記が問う。


 老卒業生は頷いた。


「高く見る。切ることより、切ったあとを知っている。そういう眼は軽くない」


 コメルシオでは、港を望む商館の最上階で、かつて平民として学園へ入り、いまや巨大商会を率いる男が、朝の甘い乳茶を前に大声で笑っていた。


「これはいい」


 彼の乳茶は甘い。

 香辛料が強く、砂糖も惜しみなく入る。

 それでも彼の読みは甘くない。


「この教皇側、商売がうまい」

「商売、ですか」

「そうだ。相手に“自分で選んだ”と思わせながら、実のところ枠だけはこちらで作ってる」


 分厚い指で紙を叩く。


「家名のある連中は、こういうのを“品がない”と言うかもしれん。だが実務はこういうところに出る」


 エジェルシトでは、軍務省の奥で、制服の襟元をきっちり留めた卒業生が、黒い茶を冷めるままにして書類を見ていた。

 彼は軍人で、言葉をほとんど飾らない。


「大帝側の一組は前線の感覚がある」


 ただ、それだけ言う。


「正面から受けることと、受けたように見せて主導を失わないこと、その違いが分かっている」

「教皇側は」

「こちらは冷静すぎる」


 そこでようやく、黒茶へひと口だけ口をつけた。


「だが、戦で熱くならぬ者は信用できる」


 さらに別の場所では、王族でも貴族でもない卒業生が、書庫の片隅で薄い紅茶を片手に評定を書き入れていた。

 学園時代は学費免除の国徒。

 卒業後は著述家となり、五国の歴史書を改稿するほどの名を持つ男である。


「誰か一人だけが光っているのではなく、卓の空気が変わる瞬間がある」


 その注記だけが、妙に長かった。


「良い課題は、誰が正しいかではなく、誰が空気を変えたかで読むべきだ。この大帝側の一組は、終盤で空気を変えた。こちらの教皇側の一組は、最初から空気の流れを握っていた」


 学園へ戻ってきたそれらの外部評は、教員たちの机に別の束として重ねられていく。


 講堂で最初の結果を告げる前に、学園はこうして外の眼差しを重ねる。

 それは新入生のためでもあり、学園そのものの矜持のためでもあった。


 そして、その同じ頃。


 辺境の朝は、学園とはまったく違う匂いをしていた。


 冷えた石ではなく、湿った土の匂い。

 磨かれた廊下ではなく、風の抜ける木戸の音。

 遠くでは水路を流れる水が鳴り、屋敷の外では干し草の混ざった風が庭を渡っていく。


 ローディス辺境伯の屋敷へ届いた封書は、他の文書より一回りだけ上等な紙に包まれていた。


 封蝋は、学園の紋章。


 偶然、それを最初に見つけたのはヴィルギニスだった。


 廊下の陽だまりに立ったまま、彼は従者が盆へ載せて運ぶ封書へ目を留めた。

 銀を薄く含んだ青の封蝋は、この屋敷で日常的に見るものではない。


「それは」


 思わず口にすると、盆を持つ従者が足を止める。


「エーリオ様宛です」


 エーリオ。

 ユルバンフルミネ出身の家庭教師。

 構造、礼法、記述、考えを他者へ届く形へ整えることを教える人。


 ヴィルギニスはその封蝋をもう一度見た。

 どこかで見たことがある、というより、見たことがなくても“学ぶ場”を連想させる紋章だった。

 龍を抱いた輪。

 都市と神域の両方を示すような細工。


「学園のものですか」


 問うと、従者は少し首を傾げ、それから曖昧に微笑んだ。


「そのようです」


 そこでちょうど、エーリオが廊下の向こうから現れた。


 相変わらず無駄のない身なりで、目の奥だけが静かに鋭い。

 封書へ視線をやるなり、その人はほんの僅かに眉を動かした。


「こちらへ」


 それだけ言って、盆から封書を受け取る。

 ヴィルギニスは一歩だけ迷い、それでもあとを追った。


 書斎へ入ると、エーリオは封書を机へ置き、封蝋を壊す前にヴィルギニスを振り返った。


「気になりますか」

「……はい」


 正直に答えると、エーリオの口元がわずかに和らぐ。


「よろしい」


 封蝋が静かに割られる。

 中から出てきたのは、評定用紙と、課題記録の抜粋だった。


 名はない。

 寮のみ。

 大帝側、教皇側。

 交渉記録。

 そして教員たちの短い評。


 ヴィルギニスは紙へ目を落としたまま、小さく息をついた。


「学園では、こういう課題をするのですか」


 エーリオは頷いた。


「一つの正解を当てるためではありません」

「過程を見るため」

「ええ」


 そこで、ヴィルギニスはほんの少しだけ目を細めた。


 辺境で学んでいる今の自分にも、その言い方は分かる。

 水路の整備も、商会の件も、答えは最初から机の上に置かれていたわけではない。何を見て、どこから手をつけ、誰を動かし、どう終わらせるか。その過程そのものに、人の本質は出る。


 エーリオは一枚の記録を差し出した。


「読んでみなさい」


 ヴィルギニスは受け取る。


 大帝側。

 共同防衛。

 監督権。

 承認。

 秩序維持。


 文面は短い。

 だが短いからこそ、そこへ置かれた語の違いがよく見えた。

 どちらが先に“保護”と言わずに済ませたか。

 どちらが“支配”を“承認”へ言い換えたか。

 どちらが最後に“終われる形”を作ったか。


「どう思います」


 エーリオが問う。


 ヴィルギニスはすぐには答えなかった。

 紙をもう一度見て、教員の短い注記を読む。


 前へ立つ責任を理解し始めている。

 冷静すぎるほど冷静だ。

 切る言葉を先に置きすぎない。

 未熟だが鋭い。


 そのどれもが、名のないままに、生徒の輪郭だけを浮かび上がらせていた。


「……この大帝側は、最初は面目を守ろうとしすぎていたのではないでしょうか」


 ヴィルギニスは静かに言った。


「けれど途中から、面目そのものより“終わらせ方”へ寄っています」

「なぜ、そう思う」

「“共同防衛”を残したまま、“承認”を受けているからです」


 エーリオは小さく頷く。


 ヴィルギニスは別の記録へ目を移した。


「こちらの教皇側は、最初から欲しいものを全部取りにはいっていません」

「はい」

「たぶん、最初から全部を取ろうとすると、相手が折れないと分かっていた」


 言いながら、ヴィルギニスは少しだけ首を傾げた。


「……でも、これは」

「何です」

「教皇側が、相手を負かしたいのではなく、枠へ入れたい時のやり方です」


 その言葉に、エーリオの目がわずかに細くなる。

 教師の顔だった。

 気づいてほしいところへ、ちゃんと指が届いた時の、あの静かな顔である。


「よく見ていますね」


 ヴィルギニスはそこで少しだけ視線を落とした。

 褒められたからではない。

 この記録の向こうにいる名も知らぬ生徒たちが、もうこういう卓へ座っていることに、胸のどこかが静かに動いたからだ。


「この教員評も、面白いです」


 そう言って、別の束へ指を置く。


「“傷を知る者の視点が効いている”……」

「それはどう読みますか」

「言葉の強さより、受けた側の残り方を知っている人です」


 エーリオは腕を組まなかった。

 ただ机へ手を置き、少しだけ身を乗り出す。


「では、こちらは」


 別の評定を示す。

 未熟だが鋭い。

 前線の資格とは別だが、見落としにくい資質。


 ヴィルギニスはそこをじっと見た。


「……最初は、前へ立つ役が似合うと思われていた人かもしれません」

「なぜ」

「“前線の資格とは別”とわざわざ書いてあるからです」


 風が窓を撫でる。

 辺境の書斎には、学園のような白と金の静けさはない。

 だが、そのかわりに、木の匂いと紙のざらつきと、外から届く水音がある。

 その素朴な静けさの中で、ヴィルギニスの声だけがよく通る。


「でも、教員は“鋭い”を消していない」

「はい」

「なら、その人は思っていた場所とは別の形で使えるのだと思います」


 エーリオはようやく、小さく息をついた。


「あなたは、記録の中の“勝ち負け”より、“どう見られたか”を先に読むのですね」

「その方が、次に繋がるからです」


 ヴィルギニスはそう答えてから、自分でほんの少しだけ驚いた。

 次に繋がる。

 それは、辺境でローディスに教わり、エーリオに整えられてきた見方そのものだった。


 エーリオは机上の紙を静かに揃えた。


「学園では、評価はその場で終わりません」

「ええ」

「だからこそ、外の卒業生の眼も借りるのです」


 彼は、別の束も見せた。

 そこには卒業生たちの短評が記されている。

 大帝側の面目の残し方。

 教皇側の枠の組み方。

 傷を持つ者の言葉。

 未熟な鋭さ。

 それぞれが違う立場から、同じ記録へ別の光を当てていた。


 ヴィルギニスはその一つひとつを読んだ。


 学園とは、ただ学ぶ場所ではない。

 国の外へ出て、名も顔も伏せたまま、それでも“どう交わったか”だけで見られる場所なのだと、ようやく少しだけ実感が湧く。


 知らぬ生徒たちの記録であるはずなのに、どの卓にも、人の癖や呼吸が残っている。

 それが不思議で、少しだけ羨ましくもあった。


 エーリオは最後に一枚だけ、別の評を示した。


「では、この卓はどうです」


 ヴィルギニスは読んだ。

 そこにはこうある。


 前へ立つ責任を理解し始めている。

 ただし、自分一人で終わらせようとしすぎる傾向あり。


 しばらく見てから、ヴィルギニスは静かに言った。


「この人は、たぶん“守る”ことを先に考える人です」

「なぜ」

「終わらせる、と書かれているのではなく、“一人で終わらせようとする”とあるからです」


 エーリオの目が、今度ははっきりと和らいだ。


「よく読みました」


 その書斎の外では、辺境の風が草を揺らしていた。

 学園は遠い。

 だが封蝋一つで、その遠い場所の空気が、こうして今ここへ届く。


 ヴィルギニスはもう一度だけ、銀青の封蝋の欠片を見た。

 知らぬ生徒たちの卓。

 知らぬ教員たちの評。

 それなのに、それらは不思議なくらい、自分が今学んでいることの延長にも思える。


 学ぶとは、たぶん、何かを知ることだけではない。

 誰かのやり方を読み、自分ならどうするかを考えることでもある。


 そうして書斎の机の上に広げられた記録は、学園の外にいるヴィルギニスにとっても、もうただの他人の課題ではなくなっていた。


【2】


 白い壁は静かで、高い天井は声を押し返しすぎない。華やかな回廊や食堂とは違い、ここには人の目を奪うための飾りがほとんどない。だからこそ、集められた新入生たちの息づかいだけが、妙にはっきりと伝わってくる。


 純白の制服が列をなす。

 仮寮生たちの白は、まだどの寮の色にも染まっていない。

 だからこそ、誰がどう見られたのかという不安も期待も、そのままむき出しになっていた。


 クレイスの新入生たちは、肩の線がやや固い。

 ジェスルの新入生たちは、視線ばかりがよく動く。

 それは初日に見た違いと同じようでいて、今はもう少しだけ深い違いになっていた。


 アルケスは列の前方寄りに立っていた。


 姿勢は崩れていない。

 だが、胸の内まで静かとは言い切れなかった。課題そのものへの緊張は、昨日の時点である程度まで尽きている。今残っているのは、自分たちがどう見られていたのかを受け取るための緊張だった。


 ポルックスは少し離れた列にいる。

 表情は変わらない。

 けれど、変わらなすぎるその顔に、アルケスはかえって昨日からの続きのような冷たさを感じた。


 カストルは、講堂の空気そのものがあまり好きではない顔をしていた。

 静かに待つことが苦手なのだ。

 それでも今日は、ただ不機嫌なだけではない。何かを待つあいだ、人は自分がどこまで足りなかったかまで思い出してしまう。その苛立ちが、いつもより少し深く目に出ていた。


 シャムは掌を軽く握っていた。

 もう傷はない。

 けれど、その掌の内側には、ここ数日の痛みや言い返した声や、誰かに守られた瞬間までが、まだ熱の名残のように残っている気がした。


 講壇の前へ、年嵩の教員が進み出る。


 白い礼装。

 襟元の細い金の線。

 講堂で最初に課題を告げたのと同じ男だ。

 彼が立つと、それだけでざわめきにもならぬ気配がすっと沈んだ。


「諸君」


 大きくはない声だった。

 だが、講堂の隅までよく届く。


「先日の課題について、学園側の評価を伝える」


 その言い方は簡潔で、無駄がない。

 勝者を告げる、という響きではなかった。

 何を見たかを返す、という響きに近い。


 列の中で、何人かの呼吸が浅くなる。

 アルケスは前を見たまま、指先だけに少し力を入れた。


「まず、諸君に明確に伝えておく」


 教員は紙を見ずに言った。


「今回の課題に、単純な勝者はいない」


 講堂の空気がわずかに揺れる。


「大帝側として、何を守り、どこで譲り、どのように終わらせるか。教皇側として、どのように枠を組み、どのように切りすぎず、どのように秩序へ回収するか。そのいずれも、単なる勝敗では量れない」


 そこで一度、短く間を置く。


「だが、見えていたものはある」


 その言葉で、今度こそ講堂は完全に静まった。


「前へ立つ責任を理解し始めた者がいる」

「役の内側へ、自分の思考をきちんと持ち込んだ者がいる」

「切る言葉の重さを知り、それゆえに残す言葉を選べた者がいる」

「未熟でありながら、看過しがたい鋭さを見せた者がいる」


 名を呼ばない。

 だが、その一つひとつが、講堂のどこかの胸へ確かに落ちる。


 アルケスは、自分の呼吸が少しだけ深くなるのを感じた。

 “前へ立つ責任”。

 それは自分の卓へ向けられた言葉のようにも聞こえる。

 だが、そう思い込むのもまた違う。学園はそういう“思い込み”を嫌う場所だと、もう知っている。


 ポルックスは、瞼すらほとんど動かさなかった。

 けれど耳だけは、明らかに一つひとつの語へ向いている。

 “役の内側へ、自分の思考を持ち込む”。

 “枠を組む”。

 そういう評価の響きは、自分の卓へも十分に当たっているように聞こえた。


 シャムは、逆に少しだけ目を伏せた。

 “切る言葉の重さを知る”。

 それを自分は知ってしまった。

 知ってしまったから使えた。

 そのことが、高く見られるのなら、それは嬉しいより先に、まだ少し痛かった。


 カストルは、“未熟でありながら”のところで、ほんの僅かに口元を強張らせた。

 分かっている。

 自分が未熟なのは、自分がいちばんよく知っている。

 だからこそ、そのあとに“鋭さ”が続くと、かえって胸の内がざらつく。


 教員はそこで初めて、手元の紙へ目を落とした。


「学園は、教員だけの眼で新入生を量らない」


 講堂の後列で、誰かが微かに息を呑む。


「今回の記録は、名を伏せた上で、卒業生たちへも送られた。各国の王族、貴族、そして家名を持たぬまま名声を得た卒業生たちから、外部評も戻ってきている」


 ざわめきは起こらない。

 起こらないが、その知らせは確かに全員の胸を打った。

 学園の中だけで見られていたのではない。外の眼にも、すでに届いている。


「彼らの評も、今年の諸君を測る一助とした」


 そして、教員は一枚目の紙を置いた。


「まず、クレイスとジェスルの課題全体について告げる」


 空気が張る。


「両寮ともに、今年は例年より卓の成立が早かった。前へ出る者と間へ立つ者、その噛み合わせが早い段階で見られた」

「その一方で、初動の粗さも目立った。特に、前へ立つ役を“押し切ること”と取り違えた卓は、終盤まで修正に時間を要した」

「逆に、役の内側へ痛みや実感を持ち込めた卓ほど、終わらせ方が静かだった」


 講堂のあちこちで、呼吸の置き方が変わる。

 自分たちのことだと分かる者もいれば、そうでない者もいる。

 だが、どの卓もどこかしらで今の評へ引っかかっていた。


 教員はさらに続けた。


「大帝側と教皇側の対面で、特に高く見られたのは、“相手に選んだと思わせながら成立させる力”と、“自尊を守りながら終わらせる力”だ」


 アルケスとポルックスは、互いに顔を見なかった。

 見る必要がなかった。

 その言葉が、どの卓を指しているかくらいは、もう分かる。


「よって、今回の最初のブローチ候補として、まず二つの卓を挙げる」


 講堂の空気が、音もなく張り詰める。


「一つ。大帝側として、面目と成立の両立を示した卓」

「一つ。教皇側として、支配の形を保ちながら相手の退路を残した卓」


 名はまだ呼ばれない。

 だが、列のどこかで肩が僅かに動く。

 アルケスはまっすぐ前を見ていた。

 ポルックスも同じだった。


 教員はそこで紙を置き換える。


「次に、個の評価へ移る」


 個。

 その一語は、団の評価よりずっと鋭く刺さる。


「課題の中で、言葉そのものの重みを変えた者がいた」

「また、前へ立つことの意味を学び始めた者もいた」

「さらに、卓そのものの流れを変えた者、未熟でありながら見落とせぬ着眼を示した者もいた」


 教員はそう言って、そこで一度言葉を切った。


 講堂の空気が、細く張る。

 誰も身じろぎしない。

 最初の課題に、正解はない。

 それでも評価は下る。

 その評価がどういう形で返されるのかを、新入生たちは皆、息を潜めて待っていた。


「だが、学園は諸君を、一人ずつ切り離して最初から量ることはしない」


 白い講堂の壁へ、その声が静かに返る。


「今回の課題でまず見たのは、卓がどう成立したかだ」

「どのように役を引き受け、どのように噛み合わせ、どのように相手と向き合い、どのように終わらせたか」

「ゆえに、最初の評価は個ではなく卓に下る」


 そこで、純白の列の中にごく小さな緊張が走った。

 個人の名がすぐ呼ばれるのではない。

 まず卓。

 まず集団。

 それは学園らしい順序だった。


「また、敵チームと比較した上で、明確に一歩抜けたと判断された卓にのみ、最初のブローチを与える」


 言葉が落ちる。


「よって、成立していても、両卓が同等と見なされた場合、ブローチは出ない」


 その一言は、講堂にいる者たちの胸へ、思った以上に重く沈んだ。

 悪くなかった、だけでは足りない。

 まとまっていた、だけでも足りない。

 向かい合った敵チームより、なお一歩優れていなければならない。


 教員は紙を置き換えた。


「今年の課題では、クレイスとジェスル、双方に、成立の早い卓が見られた」

「前へ立つ者と間へ入る者の噛み合わせが早く整った卓もあった」

「一方で、終盤まで“押すこと”と“成立させること”の差を掴みきれぬ卓もあった」


 そこまで告げてから、教員は講堂全体を見渡した。


「そのうえで、今回、敵チームとの比較において、より優れていたと判断された卓を告げる」


 白い列のどこかで、誰かがごく浅く息を吸う。


「大帝側の一卓」

「教皇側の一卓」


 それだけでは、まだどの卓か分からない。

 だが、講堂の空気はそこでさらに張った。


「大帝側については、面目と成立の両立を、終盤において明確に示した卓を上とする」

「教皇側については、支配の形を保ちながら、相手の退路と終わり方を整えた卓を上とする」


 その評価の響きだけで、自分たちの卓のことだと察する者もいただろう。

 察しても、まだ顔は動かせない。

 ここはまだ、名前も部屋番号も告げられていない段階だ。


 教員は、ようやく卓を特定した。


 大帝側の卓、ひとつ。

 教皇側の卓、ひとつ。

 その二卓が、敵チームとの比較で上位と判断され、最初のブローチ授与対象となる。


 そこで講堂の空気が、ようやくわずかに揺れた。

 大きなざわめきにはならない。

 だが、純白の列の中を確かに波が走る。


「なお、授与は卓へ下る」

「したがって、該当卓の生徒全員へ、最初のブローチを与える」


 その言い方は明瞭だった。

 誰か一人の華々しい勝利ではない。

 卓が勝ったのだ。

 だから、まず授与されるのは卓の成員全員へ。


 王子であろうと、そうでなかろうと、ここではその順序が崩れない。

 学園の内側では、まず卓を成立させた者たちとして見られる。

 その徹底が、この場所の規律だった。


 教員はそこで、さらに一枚紙をめくった。


「ただし」


 また空気が締まる。


「同一卓の中で、明らかに一段抜けた働きを見せた者がいた場合に限り、卓へのブローチとは別に、最優秀ブローチを一つだけ加える」


 講堂の白い静けさが、今度は別の意味で張りつめた。


 一つだけ。


 卓の勝利とは別に。

 誰か一人だけに。


「これは、毎回出るものではない」

「敵チームに勝った卓であっても、その中で働きが拮抗していると判断した場合は、卓への授与で止める」

「今年もまた、すべての卓にこれを出すわけではない」


 その言い方が、かえって重みを増す。

 つまり本当に、よほど抜けて見えた場合だけなのだ。


 教員はその紙を見下ろし、少しだけ間を置いた。


「今回、最優秀ブローチを加えるかどうかについては、教員側でも意見が割れた」


 講堂の後方、教員たちの列が静かにそれを聞いている。

 外部評まで重ねたうえで、なお割れたのだろう。

 そのこと自体が、この年の新入生の出来を示していた。


「結果として、該当卓のうち一卓についてのみ、最優秀ブローチを追加する」


 白い列のどこかで、呼吸が止まる気配があった。


「理由は明確だ」

「卓の流れそのものを変えたからだ」

「ただ優れていたのではない。卓が敵チームと向き合う角度そのものを変えた」

「それゆえ、この最優秀ブローチは、その一名へ与える」


 名はまだ呼ばれない。

 だが、それで十分すぎるほど講堂は静かになった。


 王子だから。

 貴族だから。

 そういう目立ち方ではない。

 卓の中で何をしたかだけで、ここまで言われる。


 教員はそこで初めて、候補卓の成員へ授与の準備を命じた。


 該当する二卓の生徒たちが前へ出る。

 人数のまとまりとして見れば、誰が王子で誰がそうでないかより、まず“卓”としての輪郭が立つ。

 その見え方こそが、学園の意図なのだと分かる。


 卓への最初のブローチが、順に手渡される。


 純白の制服へ、最初の色が加わる。

 それは個人の栄誉でありながら、まずは卓の勝利の印だった。


 そして最後に、教員は最優秀ブローチの名を一つだけ告げた。


 その名が落ちた瞬間も、講堂は決して大きく騒がなかった。

 ただ、静けさの質だけが変わった。


 卓の中で一人。

 流れを変えた者。

 その評価は華やかというより、むしろ重い。


 教員は授与を終えてから、さらに続けた。


「なお、諸君も理解している通り、学園は課題の内側だけで卓を見ているわけではない」


 その一言で、今度は別の意味で空気が冷える。


「規律の外へ零れた振る舞いもまた、記録される」


 名は挙げない。

 だが、その言葉がどこへ落ちたかくらいは、講堂の中の何人かにははっきり分かったはずだった。


 これで、まず表の評価は終わる。

 卓。

 ブローチ。

 最優秀ブローチ。


 個を過剰に前へ押し出さず、それでいて、卓の中で本当に流れを変えた一名だけはきちんと拾う。

 学園らしい、厳しく冷静な返し方だった。


【3】


  講堂の空気は、朝から腹立たしいほど澄んでいた。


 白い壁も、高い天井も、磨かれた床も、何も知らない顔をして静まり返っている。結果を返す日なのだから、もっとざわついていてもよさそうなものを、学園はそういう無駄を嫌うらしい。

 新入生たちの白い制服だけが並び、その白さの中へ、それぞれの落ち着かなさだけが透けていた。


 ダミアノは、その白さが嫌いだった。


 褒められる前の白。

 選ばれる前の白。

 まだ何もついていない胸元を見せつけられているみたいで、不愉快になる。


 隣には、いつもの二人がいた。

 ガイオスと、リセアス。


 この二人の名は覚えている。使うからだ。

 ほかの生徒は、いちいち覚えていない。どこの誰で、どういう家か、そんなものは最初の値踏みで足りる。必要になれば思い出すし、必要にならなければそのまま埋もれればいい。

 そういうものだと思ってきた。

 自分は侯爵家の子で、周囲はまずそこへ従う。深いところでは、今も疑っていない。


 幼い頃からそうだった。

 母は優しく、使用人たちは先回りし、欲しいものは大抵こちらが言う前に用意された。

 姉だけが、ときどき笑いながら「痩せたらもっと可愛くなるのに」と言ったことがあった。

 可愛いだの何だのはどうでもよかった。大事なのは、自分が見られる側で、整えられる側だということだったからだ。

 父だけは違った。

 問題を起こすな。

 家を繁栄させろ。

 余計なことで名を汚すな。

 厳しいのは、いつもそこだった。


 だからダミアノは、人前で“下”へ置かれることに慣れていない。


 講壇の前へ、年嵩の教員が進み出た。


 白い礼装。

 襟元の細い金の線。

 あの男の声は大きくない。だが、妙なところまで届く。新入生たちはそれだけで息を潜めた。

 馬鹿らしい、とダミアノは思う。

 それでも、自分の指先が少しだけ冷えているのには気づいていた。


「諸君」


 講堂に声が落ちる。


「先日の課題について、学園側の評価を伝える」


 誰も動かない。

 白い列だけが、静かに張っている。


「まず、今回の課題に単純な勝者はない」

「だが、敵卓との比較において、より優れていたと判断された卓には、最初のブローチを授与する」

「引き分けと判断した場合、どちらの卓にも授与はしない」


 そこで、空気の張り方が少し変わった。


 ダミアノは、ようやく今日の返し方の骨を理解する。

 卓ごと。

 敵同士で比べる。

 そして、どちらか一方だけ。


 なら話は簡単だ。

 自分のチームが敵より上か、下か。

 それだけだ。


 教員は、今年の課題全体について短く触れた。

 成立の早かった卓。

 押すことと成立させることを取り違えた卓。

 終わらせ方にまで手が届いた卓。

 どれも曖昧なようでいて、曖昧ではない。

 聞いている新入生たちは、その言葉の中へ自分たちの影を必死に探していた。


 やがて、対戦ごとの結果が読み上げられ始める。


「第一対戦、引き分け。授与なし」

「第二対戦、大帝側卓を上と判断。該当卓へ授与」

「第三対戦、教皇側卓を上と判断。該当卓へ授与」


 淡々とした読み上げだった。

 それなのに、一つひとつが妙に重い。

 引き分けで消える卓もある。

 あと一歩で届かなかったのだと、その場で分かってしまう。


 ダミアノは、いつ自分の対戦が呼ばれるのかを待ちながら、胸の奥のざらつきを押さえていた。

 自分が負けるはずがない、とは言い切れない。

 学園はそういう場所ではない。

 それでも、負ける側へ置かれることを、自分のどこかは最後まで想像していなかった。


「第九対戦」


 教員の声が落ちる。


 ダミアノは、ほんの僅かに顎を上げる。


「教皇側卓を上と判断。該当卓へ授与」


 胸の内で、鼓動が一度だけ強く打った。

 その次の瞬間、自分の列ではないと分かる。


 違う。


 少し前方で、白い制服の一団が動いた。

 その中心のひとつに、ポルックスがいる。


 ダミアノは、その時、きれいに奥歯を噛みしめた。

 あれか。

 あれが取るのか。


 教員は続ける。


「当該教皇側卓は、敵卓に対し、権威の形を保ったまま終着点を握った」

「露骨な支配の語を避けつつ、敵卓が自ら選んだと感じる形で成立を導いた」

「終盤の文言処理、および卓内の運びが、敵卓を一歩上回った」


 講堂の空気が、確かにそちらへ寄る。


 ダミアノはそこでようやく、別の苛立ちも胸の中へ湧くのを感じた。

 アルケスの大帝側ではない。

 敵側のポルックスの教皇側だけが選ばれた。

 つまり、敵同士の比較で、はっきり片がついたのだ。


 アルケスの側は、成立していたのだろう。

 だが、優秀卓としては選ばれなかった。

 それが余計に腹立たしかった。

 王家の者同士でどちらも持っていくような、分かりやすく不快な終わり方なら、まだ軽蔑もしやすい。

 だが実際には、比較され、片方が落ち、片方が取った。

 その“きちんとした”評価の仕方が、学園らしくて気に障る。


「よって、当該教皇側卓の成員全員へ、最初のブローチを授与する」


 ポルックスの卓の生徒たちが前へ出る。


 ポルックス。

 その卓のクレイス生徒たち。

 ジェスル生徒たち。

 白い制服の一団として前へ出ると、そこにいる誰が王子で誰がそうでないかより、まず“勝った卓”の輪郭の方が立った。


 それがまた、腹立たしい。


 ブローチは小さい。

 だが純白の胸元へ付けられると、それだけで妙に目立つ。

 最初の印。

 学園が見ていたという印。


 ポルックスの胸元に、それが乗る。


 得意げでもない。

 当然とも思っていないような顔だ。

 その静けさがまた癪に障った。


 そして教員は、さらに紙をめくる。


「ただし」


 その一言で、講堂はもう一度張りつめる。


「すべての優秀卓に、追加の評価が与えられるわけではない」

「同一卓の中で、明らかに一段抜けた働きを示した者がいた場合に限り、卓へのブローチとは別に、最優秀ブローチを一つだけ加える」

「今年は、一名のみと判断した」


 ダミアノは、その時点でもう分かっていた。

 分かっていたからこそ、胸の奥が冷えた。


「最優秀ブローチは、当該教皇側卓の一名へ与える」


 わずかな間。


「ポルックス」


 名が落ちる。


 講堂の静けさの質が変わった。

 卓全体の勝ちとは別。

 その中でさらに一人。

 流れを変えた者。

 敵卓の立つ角度そのものを変えた者。


 それを、あれが持っていく。


 ダミアノは、その瞬間、自分の顔がどうなっているのか分からなかった。

 笑ってはいない。

 怒ってもいない。

 そのどちらでもない、妙に空いた顔をしていたのではないかと思う。


 最優秀まで、あれが持っていくのか。


 しかも、いかにも王子だからではない。

 卓の中で抜けていたから。

 それだけの理由で。


 ポルックスが前へ進み、それを受け取る。

 静かだった。

 受け取る手つきまで静かで、まるで自分だけが周囲より少し冷たい場所へ立っているように見えた。


 ダミアノは、その冷たさが嫌いだった。

 自分を見下しているのなら、もっと分かりやすくそうしてくれた方がまだましだ。

 ああいう顔は、こちらを“評価の済んだ相手”として扱う。

 それが耐え難い。


 教員は最後に言った。


「なお、学園は課題の内側だけで諸君を見ているわけではない」

「規律の外へ零れた振る舞いもまた、記録される」


 その一言で、背中に薄い汗がにじんだ。


 名は出ない。

 出ないが、十分だった。


 あれは自分たちに向けられている。

 そう思った瞬間、隣のガイオスの呼吸が浅くなる。

 リセアスは、さっきから青白い顔をさらに悪くしている。


 ばかどもめ、とダミアノは内心で吐き捨てた。

 そういう顔をするな。

 使われる側の愚鈍さは、こういうところに出る。

 黙っていればまだいいものを、恐れた顔は周囲へすぐ伝わる。


 講堂が解かれる。


 新入生たちは一斉ではなく、少しずつ動き出す。

 自分の胸に落ちたものの形を、まだ掴みきれない顔ばかりだ。


 ポルックスの卓には、ブローチがある。

 しかも一つは最優秀。

 その一方で、自分の胸元は白いままだった。


 白いままの制服が、こんなに不愉快に見えたことはなかった。


 講堂の外へ出ると、冷たい光が石床に落ちていた。

 ダミアノはそこで初めて、小さく息を吐いた。


「……まあ」


 ガイオスが恐る恐る口を開く。


「次がありますし」


 ダミアノは横目でだけ見た。


「黙れ」


 低く言うと、ガイオスはすぐ口をつぐむ。

 リセアスは最初から何も言わない。

 その沈黙もまた、今のダミアノには気に障った。


 歩き出す。

 白い廊下の先で、ポルックスが一度だけこちらを見た。


 勝ち誇った顔ではない。

 嘲る顔でもない。

 ただ、もうこちらを“結果の出た相手”として見ている目だった。


 その静かな目が、何より腹立たしかった。


 課題は終わった。

 結果も出た。

 ブローチは、敵卓に勝った教皇側のあの卓だけが受け取った。

 そして最優秀は、あの王子が持っていった。


 それで終わりなら、まだよかった。


 だが終わりではない。

 最後の一言。

 規律の外へ零れた振る舞い。

 記録される。


 その言葉が、講堂の白さよりも冷たく、ダミアノの胸の底へ残っていた。


【5】


 講堂を出たあとも、胸の奥のざらつきは消えなかった。


 白い廊下は相変わらず静かで、だからこそ靴音ばかりがやけに耳につく。新入生たちは皆、思い思いの顔で散っていく。胸元へ小さなブローチを得た者は、得た者でそれを見ないようにして歩いている。あからさまに触れれば下品だと、この学園では皆どこかで知っているからだ。

 それが、なおさら気に障った。


 せっかく与えられたなら、もっとはっきり嬉しそうにしていればいい。

 そうすれば軽蔑もしやすいのに、ここでは皆、中途半端に品のある顔をする。


 ダミアノは足を止めず、講堂から離れた。

 ガイオスとリセアスは黙って後ろに続く。

 その黙り方まで、今は腹立たしい。


 連絡通路へ入ると、外の光が少し薄くなった。高窓から落ちる明るさは白く、石床へ長い影をつくる。学園棟と寮棟を繋ぐこの道は広いくせに、今日に限っては妙に狭く感じられた。どこを歩いていても、誰かの目がまだ自分の胸元の“何もない白”を見ている気がする。


「ダミアノ」


 低い声で名を呼ばれ、彼は眉をひそめた。


 振り向かなくても分かる。

 リセアスだ。


「何だ」

「……少し、話が」


 そのためらいがかった声で、ダミアノはようやく足を止めた。

 振り向くと、リセアスはやはり顔色が悪い。サブマの人間らしい整った黒髪も、今は艶より青白さの方を目立たせている。こういう顔を人前で見せるから、使う側の自分が余計に見苦しくなるのだと、ダミアノは思う。


「ここで?」

「できれば……人の少ないところで」


 ガイオスが不安げに二人を見比べる。

 その顔がまた鬱陶しい。


 ダミアノは舌打ちを飲み込み、顎をしゃくった。


「来い」


 三人は連絡通路の端を折れ、あまり使われない小さな階段の踊り場へ入った。講堂や食堂へ向かう主の流れから外れたその場所は、昼間でも少し薄暗い。高窓が一つあるだけで、人の気配も遠い。


 そこでようやく、ダミアノは振り返った。


「何」


 リセアスはすぐには口を開かなかった。

 喉が乾いているのか、一度だけ唇を舐める。

 ガイオスがたまらず口を挟んだ。


「今朝の、あの言い方……」

「だから何だ」


 ガイオスの声は小さくなる。


「規律の外って……たぶん、俺たちのことも」


 その言葉で、ダミアノの目が冷えた。


「“俺たち”?」


 ゆっくりと言う。

 ガイオスが息を止める。


「僕が何かしたみたいに言うな」

「いや、そういう意味じゃ……」

「じゃあ、どういう意味だ」


 ガイオスは黙る。

 もともと押せばすぐ引く男だ。こういう時には便利だが、便利なだけでもある。深く使うには脆い。


 リセアスがそこで、ようやく口を開いた。


「修理工房のこと、誰かに見られてるかもしれない」


 ダミアノの顔から、ほんの一瞬だけ表情が消えた。

 だがそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはいつもの薄い冷えが戻る。


「誰に」

「分からない」

「分からないのに言うのか」


 リセアスはそれでも俯かなかった。

 いつもより顔色は悪いが、目だけは変に決まっている。


「帳場の老人が、昨日はこっちを見てた。今日も」

「それで?」

「それだけじゃない。学園棟の記録棚の近くで、見られた気がする」


 そこでダミアノはようやく、胸の奥へ細い棘が入るのを感じた。

 記録棚。

 その言葉は嫌いだった。

 学園は何もかも紙へ落とす。

 出入りも、持ち込みも、許可も、違反も。

 その几帳面さが、家の中で甘やかされて育った自分には時々ひどく息苦しい。


「誰に見られた」

「分からない」

「役に立たないな」


 吐き捨てると、リセアスの頬がわずかに強張った。


 ガイオスが慌てて口を挟む。


「でも、あの……ポルックスの方じゃないかって」

「何で」

「何度か、あいつ、ケラノスのこと見てただろ」


 その名が出た瞬間、ダミアノの苛立ちはまた別の形へ変わった。


 ポルックス。


 あの静かな顔。

 課題で勝ったうえに、最優秀まで持っていった男。

 自分を“終わった相手”みたいな目で見た男。


 ダミアノは、無意識に笑いそうになるのを止めた。

 あれが、こんな裏のことまで拾っている?

 まさか。

 そう思いたい。

 だが、思ったところで、講堂での最後の一言は消えない。


 規律の外へ零れた振る舞いも、記録される。


 父の顔が、そこで不意に浮かんだ。


 問題を起こすな。

 家を繁栄させろ。

 余計なことで名を汚すな。


 あの声は、いつも怒鳴るわけではない。むしろ淡々としている。その淡々とした響きの方が、母や侍女の甘やかしよりずっと深く残る。

 もしここで学園に記録を掴まれたら。

 もし、それが家へ返されたら。

 父は何と言うだろう。


 そこで初めて、ダミアノは自分が怒っているのか、少し怯えているのか分からなくなった。


「……大したことじゃない」


 そう言った声は、自分で思ったより乾いていた。


「留め具だの紙だの、その程度でどうなる」

「でも」


 リセアスが低く言う。


「帳簿のことまで見られたら」


 ダミアノの目が鋭くなる。


「帳簿?」

「工房の」

「そんなもの、家名でどうにでも」

「どうにもならない」


 珍しく、リセアスが言葉を切らなかった。


「うちの家の名で払ってるんじゃない。……僕個人の方へついてる」


 踊り場の空気が、一瞬だけ固まる。


 ガイオスが目を見開く。

 ダミアノは、それを見て初めて、胸の奥のざらつきの正体を少し掴んだ。


 そういうことか。


 この男は、侯爵家の威で自分に付き従っているのではない。

 すでに、自分の足元で何かを握られている。

 だから最近、顔色が悪かったのだ。

 ただ怯えていたのではない。逃げられない側の顔をしていた。


「何を勝手に」


 低く出た声は、怒鳴るより危なかった。

 リセアスが初めて目を逸らす。


「勝手にじゃない。最初に少しだけって言ったのは、きみだろ」

「少しのはずだった」

「そうだよ。でも」


 そこで、リセアスの喉が上下した。


「工房の支払い、文具商への口止め、搬入口の下働きへの手当て……全部、積もってる」


 ガイオスが半歩下がる。

 ダミアノはその気配にさらに苛立つ。

 腰の引けた人間ほど、こういう時に空気を汚す。


「黙れ」

「黙ったって消えない」


 リセアスの声は震えていた。

 だが、震えているからこそ本当なのだと分かる。


「もし学園にまで行ったら、うちの父は終わる」

「大袈裟だ」

「大袈裟じゃない」


 今度は、ダミアノが黙った。


 階段の高窓から落ちる白い光が、リセアスの顔色をさらに悪く見せている。

 それでも、この男はいま逃げたいだけではない。

 自分の家のことを言っている。

 その家は侯爵家ではない。大した力もない。だからこそ、借りひとつで沈む。


 ダミアノの脳裏へ、父の言葉がまたよぎる。


 家を繁栄させろ。

 余計なことで名を汚すな。


 その教えは、別に優しさではなかった。

 家のために、自分がどう振る舞うべきかだけを教える声だった。

 その父が、もし今のこのやり方を知ったら。

 いや、やり方そのものは怒らないかもしれない。

 怒るのは、掴まるような雑さだ。


 ダミアノはそこでようやく、自分が本当に腹を立てている相手が、ポルックスでもアルケスでもないのかもしれないと思いかけた。

 こんな程度のことで顔色を変え、足元を濁らせる取り巻きども。

 それを制御しきれていない自分。

 そのどちらにも、腹が立つ。


「……もう工房へ行くな」


 低く言うと、リセアスが顔を上げた。


「でも」

「行くなと言ってる」


 ガイオスも息を潜める。


「帳簿は」

「後で考える」


 そう言い切ったものの、何をどう考えるかまでは、まだ自分でも見えていない。

 ただ今は、焦って動く方が危ないと分かる。

 学園は見ている。

 あの白い講堂の最後の一言が、それを嫌というほど教えていた。


 その時、階段の下で小さく足音がした。


 三人とも、一瞬で黙る。


 誰かが上がってくるのかと思ったが、気配は途中で止まり、やがて遠ざかった。通りすがりだろう。

 それでも、その数秒で十分だった。

 こんな場所に固まっていること自体が、すでに薄汚い。

 ダミアノはその事実にまで腹が立った。


「戻るぞ」


 そう言って先に踵を返す。

 ガイオスはすぐに従った。

 リセアスは一瞬だけ遅れ、それでもついてくる。


 踊り場を出て、また白い廊下へ戻る。

 そこにはもう、あの階段の薄暗さはない。明るく、整い、誰も何もなかったような顔で歩いている。

 だからこそ、さっきの会話はますます現実味を帯びた。


 自分たちだけが、こういう暗いところへ沈んでいる。


 遠くの廊下の曲がり角で、ポルックスの姿が見えた。


 白い制服。

 胸元のブローチ。

 歩き方まで静かだ。


 こちらには気づかなかったのか、あるいは気づいていて見ないのか、そのまま別の通路へ消えていく。

 その横顔を見た瞬間、ダミアノの胸の奥で何かがひどく冷えた。


 あれが本当に拾っているのだとしたら。

 課題だけでなく、その外まで。


 父の顔。

 講堂の言葉。

 取り巻きの借り。

 白いままの自分の胸元。

 それらが全部、同じ場所へ押し寄せてくる。


 ダミアノはそこで初めて、まだ終わっていないのだと、はっきり理解した。

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