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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第九章

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42/50

1

【1】


 夕方の鐘が鳴り終わっても、その場に残った冷えはすぐには解けなかった。


 ダミアノたちは、結局それ以上何も言わずに去っていった。

 取り巻きのうち一人が、去り際に一度だけこちらを振り返ったが、その目にももう先ほどまでの薄い余裕はなかった。笑えば済む段を、越えてしまったのだと分かっているのだろう。


 残されたのは、白い廊下と、高窓から落ちる夕方の光、それからまだ荒く残る呼吸だけだった。


 カストルはしばらく動かなかった。


 小柄な身体の内側で、怒りの熱だけがまだ抜けきらない。

 胸が上下している。

 けれど、もうさっきのように前へ飛び出す気配はない。その代わり、行き場を失った苛立ちが、指先から肩口までずっと細かく震えているようだった。


 アルケスはその横顔を見た。

 怒り慣れている顔だ。

 けれど、今日のそれは少し違った。

 ただ癇癪を起こしたのではない。見下されたくないもの、守りたいもの、そして守れなかった自分自身への腹立たしさまで混ざって、うまく息が整わない顔だった。


 ポルックスは何も言わず、ただ兄の横へ立っていた。


 あの冷えた声のまま、今度はもう少し和らいだ空気を纏っている。怒りを出し切ったわけではない。むしろ逆だ。まだ内側へきれいに納めたままだからこそ、その顔はよけいに静かだった。


 シャムは掌を開いたり閉じたりしていた。

 自分の胸の中にまだ残る棘と、今目の前で起きたやり取りの鋭さと、そのどちらへ先に気持ちを向ければいいのか、まだ決めきれていないようだった。


 セリノスだけが、少し離れた位置で皆を見ていた。

 赤い髪に夕光が差し、茶色の瞳は相変わらず静かだ。

 何も言わない。

 だが、誰がいま何を言われたら一番困るか、その境目だけは正確に見ている目だった。


 結局、その場の空気を動かしたのはケラノスだった。


「……戻ろう」


 声は低かったが、妙にまっすぐ通った。


 皆の視線が集まる。

 ケラノスは鞄の口を押さえたまま、少しだけ困ったように笑った。


「ここで立ってると、今度は本当に課題に遅れる」


 軽口のようでいて、軽くしすぎない言い方だった。

 その匙加減が、逆にありがたい。


 アルケスは小さく頷いた。


「そうだな」


 そこでようやく、足が動き始める。

 別チームの者同士がここで長く固まっているのもよくない。学園は課題の外まで見ている。だからこそ、今は散る方が正しい。


 最初に動いたのはポルックスだった。

 彼はカストルの肩へ目をやり、何も言わないまま一歩引く。

 「落ち着け」とも「行こう」とも言わない。

 けれどその引き方そのものが、もうこれ以上は広げるな、という合図になっていた。


 カストルはそれを感じ取ったのか、舌打ちをひとつだけ飲み込み、ようやく踵を返した。


「……気に食わない」


 ぽつりと落ちた言葉は、誰へ向けたというより、まだ自分の中で燃えているものへ向けた呟きのようだった。


 アルケスは、それに返事をしなかった。

 返してしまえば、また別の火種になる気がしたからだ。


 代わりにシャムが、ほんの少しだけ顔を上げた。


「うん」


 短い相槌だった。

 だが、その一言には、ダミアノへの怒りだけではなく、自分の傷も、ケラノスの悔しさも、全部が薄く混じっているように聞こえた。


 カストルは一瞬だけシャムを見た。

 何か言い返すかと思ったが、結局何も言わなかった。

 その代わり、顔を背けるように先へ歩き出す。


 そこから先の道は、また静かだった。


 白い廊下を抜け、連絡通路へ出る。

 高窓の向こうでは、空がもう薄い藍へ変わり始めている。グラウンドを越えた先に見える寮棟の白壁も、昼間よりずっと冷たく見えた。

 別チームの者同士は、自然と距離を取る。

 それでも、今日ばかりは完全にばらばらの群れにはならなかった。


 アルケスとカストル。

 その少し後ろにシャム。

 反対側へポルックスとケラノス。

 さらにその外側を、セリノスが静かに歩く。


 同じ道を行きながら、誰も課題の話はしない。

 できない。

 してはならない。

 それでも、机の外で起きたことが、机の上の空気まで変えてしまったことだけは、誰にも分かっていた。


 グラウンドの縁を回る石畳に差しかかったところで、ようやくアルケスが口を開いた。


「ケラノス」


 呼ばれた方が足を止める。


「荷は、今日のうちに見せろ」

「……ズヴォルタ先輩に?」

「それでもいい。教員でもいい。だが、そのままにするな」


 声は低く、短い。

 兄らしい口調というより、もう少し固い。

 見逃してはならないものを見逃すなと、自分にも言い聞かせるような声音だった。


 ケラノスは数拍黙ってから頷いた。


「分かった」


 そこでポルックスが続ける。


「擦れた紙も残しておけ」

「まだ持ってる」

「ならそれも」


 静かな確認だった。

 もう感情の熱は見せない。

 だからこそ、言葉だけが現実の形を持つ。


 カストルが、前を向いたまま言う。


「……次は、絶対に逃がすな」


 それが誰へ向けた言葉なのか、一瞬分からない。

 ダミアノへか。

 教員へか。

 あるいは、自分自身へか。


 ポルックスは振り向かなかった。

 だが、ほんの少しだけ目を細める。


「逃がさないために、今は手を出さない」


 その返答に、カストルはまた舌打ちを飲み込んだ。

 正しい。

 正しいから腹が立つ。

 だが今は、その腹立たしさをどうにか噛み砕くしかない。


 寮棟の前まで来ると、各寮で動線が分かれる。


 クレイス棟へ向かう者。

 ジェスル棟へ向かう者。

 そこで立ち止まり、誰もすぐには別れなかった。


 夕方の風が、制服の裾を小さく揺らす。

 中庭の方から、どこかの水音が細く聞こえた。


 アルケスはそこで、改めて兄弟たちの顔を見た。


 カストルは、まだ目に火が残っている。

 ポルックスは、火を刃へ変えたあとの顔をしている。

 シャムは傷を抱えたまま立ち、けれどさっきより少しだけ真っすぐ前を見ていた。


 自分もまた、昨日までと同じではいられないのだろうと思う。


 カストルが最初に身を翻し、クレイス棟の方へ歩き出す。

 その後ろへセリノスがつく。

 ポルックスとシャムは、それぞれ別の棟へ向かう前にほんの一瞬だけ視線を交わし、何も言わずに別れた。

 ケラノスは最後にもう一度だけ鞄の口を押さえ、それから小さく息を吐いてジェスル棟の方へ歩いていく。


 アルケスはその背中を見送った。


 最初のブローチを懸けた課題は、まだ終わらない。

 正解のない課題。

 過程を見られる課題。


 ならば今、学園が見ているのは、机上の交渉だけではない。

 誰がどこで怒り、誰がそれを抑え、誰が傷を抱えたまま立ち、誰が小さな悪意をどう記憶するのか。

 そういうものまで、静かに数えられている気がした。


 夜はまだ浅い。

 けれど、もう昨日までと同じ形には戻れない。


 アルケスは白い寮棟の扉をくぐる前に、一度だけ振り返った。

 夕闇の向こう、学園棟の窓にはまだ灯りがいくつも残っている。

 あの中で、まだ誰かが紙をめくり、文を削り、次の一手を考えているのだろう。


 机の上でも、机の外でも。

 次はもう、ただの噂では済まない。

 そんな予感だけが、冷えた夕方の空気の中に細く残っていた。


【2】


 課題が終盤へ差しかかった頃には、自習室の空気そのものが変わっていた。


 最初の数日は、皆まだ与えられた役に身体を合わせようとしていた。大帝側ならどう振る舞うべきか、教皇側ならどこまで強く出るべきか。そうした“役らしさ”を先に探していた。


 翌朝は、妙に静かだった。


 空は薄曇りで、光は白く平たい。寮棟から学園棟へ向かう道も、いつもより色を失って見える。グラウンドを渡る風も弱く、連絡通路の高窓には、ただぼんやりとした明るさだけが落ちていた。

 それなのに、生徒たちの間には、目に見えぬ細い緊張が前日よりはっきり流れている。


 課題が、終わりへ近づいているからだ。


 最初のブローチを懸けた課題は、もはやただの“模擬”ではなくなっていた。どの組も、相手の文面だけでなく、その出し方や黙り方まで見始めている。誰が一歩先に出て、誰が最後に折れるか。そういうものが、もう隠せない。


 アルケスは朝食を終えると、いつもより少し早く自習室区画へ向かった。


 大帝側の紙束は昨夜のうちにある程度整えた。

 今日やるべきことは明確だ。

 教皇側が押してくる“様式の承認”を、どこまで受け、どこから先を拒むか。

 完全に撥ねれば、向こうへ強く返す理由を渡す。

 飲みすぎれば、結局はこちらの首へ細い縄が掛かる。


 扉の前で立ち止まり、アルケスは一度だけ紙へ目を落とした。

 そこへ、低い声が背後から落ちる。


「迷ってるな」


 ズヴォルタだった。


 朝練帰りらしく、肩にはまだ外気の冷たさが残っている。無骨で実務的な立ち姿は相変わらずだ。だがその目は、ただ厳しいだけではない。相手がどこで足を止めているかを見ている目だ。


「少し」


 アルケスは正直に答えた。


 ズヴォルタは紙の方を見ない。

 代わりに、アルケスの顔だけを見た。


「受けるか、拒むかで迷ってる顔じゃない」

「……では」

「どこまで残すかで迷ってる」


 短い言葉だった。

 だが、芯を突いていた。


 アルケスは黙る。

 その沈黙自体が、答えになったのだろう。


「相手に残すものを考えるのは悪くない」


 ズヴォルタが言う。


「だが、残したものがそのまま刃になることもある」

「分かっています」

「なら、その刃を誰が握るかまで決めろ」


 それだけ言って、ズヴォルタは先に歩き去った。


 誰が握るか。

 その一言が、アルケスの胸へ小さく残る。

 教皇側に形式を承認させるのか。

 大帝側が先に形を出し、それを教皇側が受けるのか。

 どちらにしても、最初の文を握った側が、あとから広げる余地を持つ。


 その頃、ポルックスは別の場所で、課題用の紙とは違うものを見ていた。


 まだ授業開始には少し早い。

 自習室区画の一角、管理棚の近くには、朝の時間帯だけ一時的に文書や鍵の受け渡しをする机が置かれる。教員でもなければ立ち止まりにくい場所だが、あくまで学園の記録棚の延長にある空間なので、生徒が通っても不自然ではない。


 ポルックスはそこを通り過ぎるふりで、昨日目に留めた名をもう一度確認していた。


 ダミアノ本人ではない。

 取り巻きの名だ。


 一人はエジェルシト出身。

 学園街の物品搬入口付近へ、不自然な頻度で出入りしている。

 もう一人はサブマ出身。

 文具商と、学園街外れの小さな修理工房へ何度も足を運んでいる。


 修理工房。


 その名を見た瞬間、ポルックスの指先がほんの僅かに止まった。

 工房の種別までは台帳に書かれていない。

 だが、学園街のあの一角には、金具や細工物を扱う小さな店が多い。

 もしケラノスの器具の留め金へ誰かが手を入れたのだとしたら、ただの悪戯では済まない。仕組みを知る者か、触り方を教えられた者がいるはずだ。


 そこへ、別の記録が重なる。


 サブマ出身の取り巻きは、学園へ入る前から家格のわりに金回りがよかったらしい。学園街での支払い記録に残る額が、生徒の小遣いの範囲を超えている。もちろん侯爵家の取り巻きとして便宜を受けている可能性もある。だが、その“便宜”が何のためかが問題だった。


 ポルックスは紙へ何か書きつけることはしなかった。

 頭の中へ順番だけを刻む。


 搬入口。

 修理工房。

 不自然な支払い。

 侯爵子息の取り巻き。


 まだ足りない。

 だが、線は太くなり始めている。


「何を見ている」


 声がして振り向くと、教員だった。

 講堂で課題を告げた、あの年嵩の男である。


 ポルックスは一礼だけして答える。


「課題用自習室の使用記録です」

「なぜ」

「誰がどの時間に部屋を使っているか、把握しておきたかったので」


 嘘ではない。

 全部ではないが、嘘でもない。


 教員はしばらくポルックスの顔を見ていた。

 それから、咎めもせずに言う。


「把握だけならよい」


 その一言が妙に重かった。

 “だけなら”。

 それ以上は言わないが、見ているという意味だった。


 ポルックスはもう一度だけ礼をし、その場を離れた。


 教員は気づいているのかもしれない。

 全部ではないにしても、少なくとも“何かを拾い始めている”ことには。

 それでも止めないのは、まだ見ている段階だからか、それとも敢えて泳がせているのか。そこまでは読めなかった。


 午前の対面は、昨日よりさらに静かなものになった。


 アルケスとポルックスが向かい合う部屋では、もう誰も余計な前置きを置かない。

 紙を開き、文を読み、必要なところだけを問う。

 そうしたやり取りの精度だけが上がっていく。


「“承認”は受ける」


 アルケスが言った。


 室内の何人かが目を上げる。


「だが、一度ごとの承認ではなく、年単位の規定に限る」

「広いな」


 ポルックスがすぐ返す。


「戦時も平時も同じ規定で通すつもりか」

「戦時は別記する」


 アルケスの指が一行を押さえる。


「別記した内容を、大帝側が先に出す。その形式への承認を求める」


 向こうが様式を作るのではない。

 こちらが先に様式を示し、その承認を求める。

 昨日までの“承認する”という教皇側の一手を、そのまま利用し返す形だった。


 ポルックスはその文を読み、顔を上げた。


 巧い。

 ただ拒まない。

 だが、枠の最初の一線はこちらが引く、と言っている。


「教皇側が追記を求めた場合は」

「理由と期間を明示する」


 アルケスは即答した。


「恒常化は認めない」


 そこで、大帝側の後列にいたジェスル生が静かに息を吐く。

 今、自分たちの組が立っている線が見えたからだろう。


 受ける。

 だが飲まれない。

 秩序に名を貸す。

 だが首元は渡さない。


 それは大帝側として、かなりぎりぎりの落とし所だった。


 ポルックスは紙を机へ置き、数拍考えた。

 向こうはここで、教皇側にも“断らせにくい”形を出してきた。

 完全な受諾ではない。

 だが拒めば、教皇側が秩序維持より支配を優先したように見える。


 そういう置き方だ。


「……受ける条件が一つある」


 教皇側の空気が少し動く。

 大帝側も同じだ。


「大帝側が示す別記の内容に、教皇庁への即時通達が必要な事項を明記すること」


 即時通達。

 それは日常の報告よりずっと強い。

 何かが起きたその場で、教皇側へ知らせなければならないということだ。


 アルケスの目が細くなる。


「戦時の即応に支障が出る」

「なら、教皇側が支障を認める範囲を絞る」


 ポルックスは一歩も退かない。


「どのみち、教皇側が秩序維持を担うなら、急変だけは把握していなければ意味がない」


 向こうも、ぎりぎりの線へ戻してきた。


 アルケスはそこで初めて、小さく息を吐いた。

 やはり、同じところで終わらない。


 この対面は、どちらかが完全に勝つためのものではない。

 それでも、誰がどこで線を引き、どこで相手の線を呑ませるかは、はっきりと見られている。


 シャムの組では、その頃、別の形で決着へ向かっていた。


 教皇側として、向こうへどう“切らずに折らせるか”。

 その組では、シャムの言葉がいつの間にか軸になりつつあった。


「“自壊を望まない”は残す」


 クレイス生が言う。


「その代わり、“正統の保全のために必要な範囲で”を後ろにつける」

「柔らかさは消えないか」

「消えない」


 シャムが返した。


「向こうに残るのは、“終わらせる気がある”って方だから」


 それは教皇側の論理として、かなり効く形だった。

 ただ切るのではない。

 切ったあとに終わらせる。

 その“終わり方”を見せることで、相手の意地を降ろす。


 カストルの組もまた、ようやく最後の文面へ辿り着こうとしていた。


 完全ではない。

 それでも、昨日までのような空転は減った。

 カストル自身も、自分の怒りをそのまま机へ叩きつけるのではなく、少しずつ言葉へ削れるようになっている。


「“大帝側を切れば教皇側も損をする”は残す」


 彼が言う。


「でも、そのあとに“損を避けるための共同行為”を置く」

「共同行為?」


「共同防衛でもいい」


 少しだけ間を置く。


「向こうにとっても、それを選ぶ方がましだと思わせる」


 その言い方は、以前よりずっと整っていた。

 セリノスは隣で何も言わず、それでも茶色の瞳だけが静かに頷く。

 カストルはそれを見て、見なかったふりをした。


 午後の終わり、対面が一区切りついたあとで、ポルックスはまた短い時間を見つけて学園街側の動きを確かめた。


 今度は自分で行くのではない。

 直接足を運べば、目立つ。

 だから廊下の窓から見える範囲と、戻ってくる生徒の靴の汚れ、手にしている包み、そういう細部を拾う。


 取り巻きの一人――あのサブマ出身の生徒は、今日も学園街側から戻ってきた。

 手には小さな布袋。

 袋の角が硬く張っている。

 金具か、工具か、細かな部品の形だ。


 その横顔を見た瞬間、ポルックスの胸の内で、昨日までの線がもうほとんど一つに結ばれた。


 器具の留め金。

 修理工房。

 不自然な支払い。

 そして今日の布袋。


 ただの下劣ないじめではない。

 物へ手を入れるために、外の手まで使っている。

 侯爵家の子息としてあるまじき品のなさだ、とポルックスは思った。家名の高さを誇る者ほど、普通はこういう手は汚さない。汚すにしても、もう少し格好をつける。ダミアノは違う。薄く笑ったまま、証拠の残りにくい小さな崩し方だけを選んでいる。


 しかも取り巻きたちの動きは、ただの忠義では片づかない。


 ポルックスはそこで初めて、一つの可能性に思い至った。


 取り巻きの一人は、自分の意思だけでは動けないのではないか。

 何かを握られている。

 あるいは、学園街側の出入りや支払い自体が、ダミアノ個人の下劣さ以上のものに繋がっている。


 まだ断言はできない。

 だが、“大きな秘密”と呼べるものの輪郭が、ようやく霧の向こうに見え始めた気がした。


 夕方、寮へ戻る道すがら、アルケスはいつもより少しだけ長くグラウンドの方を見た。


 課題は、そろそろ決着へ向かう。

 だが、その前に机の外の線がどこまで濃くなるのか。

 その気配が、日に日に増している。


 ポルックスは隣を歩くわけでもないのに、同じことを考えている顔をしていた。

 カストルは不機嫌そうに前を向き、シャムはやや遅れて続く。

 ケラノスの鞄は、今日も強く口を押さえられていた。

 セリノスはその隣で、何も言わずに歩いている。


 どの背中にも、今日一日ぶんの重さが積もっていた。


 課題の決着は近い。

 だが、ダミアノの線はまだ終わっていない。


 むしろ今、終わりに向かうための形を、ポルックスが静かに揃え始めているところだった。


【3】


 雲は高く、光は薄い。学園棟の白い壁へ落ちる日差しは柔らかいのに、その白さばかりがやけにはっきりして見える。自習室区画へ向かう廊下を歩く生徒たちも、皆どこか口数が少ない。最初のブローチを懸けた課題が、いよいよ終わりへ近づいているのだと、言葉にせずとも分かる朝だった。


 アルケスは、扉の前で一度だけ足を止めた。


 大帝側の文面は、昨夜のうちにかなり詰めた。

 教皇側へ渡せるもの。

 渡してはならないもの。

 記録を見せることと、内部へ権威を入れることの違い。

 紙の上ではもう、かなり形になっている。


 それでも胸のどこかが静まりきらないのは、課題だけのせいではない。


 机の外で起きたことが、もう課題の外側だけへ押しやれなくなっている。

 ケラノスの器具。

 汚れた紙。

 ダミアノの薄い笑み。

 カストルの怒り。

 ポルックスの冷えた声。


 あれらを見たあとで、なお机の上だけを見ているのは、不自然に思えた。


 けれど、だからといって机の上を疎かにもできない。

 アルケスはその矛盾を抱えたまま扉を開けた。


 白い部屋の空気は相変わらず静かだった。高い窓から差す光が机の縁を細く照らし、紙の白さだけが浮き上がっている。そこへ座る十七人の新入生たちの顔は、もう初日のものではなかった。


「今日は、向こうへ一度渡す」


 席へ着くなり、アルケスは言った。


 紙を中央へ置く。

 数人の視線が集まる。


「受けるか、撥ねるかじゃない」

「何を?」

「向こうに、“これなら飲める”と思わせる形を先に出す」


 クレイス側の生徒が眉を寄せる。


「飲ませるんじゃなく?」

「飲ませる文は、もう昨日までで見せた」


 アルケスは紙の一行を指で押さえた。


「今日は、“向こうが自分で選んだと思える形”を置く」


 その言葉に、ジェスル側の生徒たちの目が少しだけ細くなった。

 相手に勝たせるのではない。

 だが、勝ったと感じさせる余地を作る。

 それは交渉の終盤に必要な、前へ立つ者の引き方だった。


 向かいの教皇側の部屋では、ポルックスもまた似たようなことを考えていた。


 ただし、彼の組み方はもっと乾いている。

 相手に選んだと思わせる。

 そのために、どこまでの選択肢を見せ、どこから先を見せないか。

 その調整だ。


「大帝側は、今日で決めに来る」


 紙を見たまま、ポルックスが言った。


 クレイス側の一人が腕を組む。


「根拠は?」

「昨日の返し方がそうだった」


 声は静かだった。


「もう、“拒むための言葉”じゃなく、“成立させるための言葉”を選び始めてる」


 それはアルケスへの信頼ではない。

 観察の結果としての判断だ。

 兄だから分かる、という言い方を自分はしたくない。

 だが、相手がどこで強く出て、どこで引きを選ぶか、その癖まで無視して課題を組むのは愚かだ。


 ポルックスは新しい紙を一枚引き出した。


「こちらも、同じところへ行く」


 部屋が静まる。


「向こうが“選んだと思える形”を出してきたら、教皇側は“許したのではない、統べたのだ”と思える形で受ける」


 向かいのジェスル生が、わずかに息をつく。


「言葉は?」

「まだ決めない」


 ポルックスは首を振った。


「相手の文を見てから削る」


 最初から決めない。

 決めすぎれば、相手に合わせて曲げた時に綻びが出る。

 そういう几帳面さが、彼にはあった。


 けれど今日のポルックスは、課題用の紙だけを見ているわけではなかった。


 午前の対面までの短い時間に、彼はまた一度だけ、自習室区画の外れへ足を向けた。記録棚の近くではなく、今度は学園棟の南側へ延びる連絡通路の窓辺だ。そこからは、学園街側へ通じる通路の一部が見える。生徒は自由に出入りできないが、許可のある用事なら通ることもある。そのための小さな確認所が、遠くに小さく見えた。


 そこへ、昨日見かけたサブマ出身の取り巻きが現れた。


 今朝は布袋ではなく、薄い封筒を持っている。

 誰かへ渡す気配ではない。

 だが、歩き方が妙に落ち着かない。周囲を見ないふりで、見ている。


 ポルックスはその横顔を見つめた。

 家名も顔も、もう頭へ入っている。

 家は大きくない。

 侯爵家へ取り入るには、少し無理をしている位置だ。

 それなのに、学園街側での支払いが不自然に多い。

 しかも修理工房、文具商、搬入口、その三つを細く繋いで歩いている。


 そこまで見た瞬間、ポルックスの胸の中で、別の可能性が形を持った。


 取り巻きは、ただ従っているのではない。

 侯爵家の威を借りているのでもない。

 もっと俗で、もっと下劣な形の繋がりがあるのかもしれない。


 金だ。


 あるいは借り。

 あるいは弱み。


 そのいずれかで、取り巻きは動かされている。


 侯爵家の子息としてあるまじきのは、単にいじめの手口だけではない。

 自分では手を汚さず、家格の低い周囲を金か弱みで縛り、学園の規律の隙へ這わせる――そういうやり方そのものが、あまりに下劣だった。


 ポルックスは視線を外し、そのまま何食わぬ顔で自習室へ戻った。

 今の段階では、確証はまだない。

 けれど、取り巻きの秘密が見え始めている。

 そしてそれは、ダミアノ本人よりもよほど脆い。


 シャムの組では、その頃、教皇側としての決着文をどう締めるかで議論が続いていた。


「“自壊を望まない”は残す」

「その後ろに、“正統の保全のために必要な範囲で”を置く」


 何度も繰り返された言葉が、少しずつ机の上へ馴染んでいく。

 誰かを切るための言葉ではなく、切ったあとに終わらせるための言葉。

 その重さを、皆がようやく理解し始めていた。


 シャムは、紙の上へ落ちる自分の声が昨日より少し低くなっているのを感じた。


 ダミアノに言われたことは消えていない。

 けれど、その痛みがそのまま机の上へ出てしまうわけでもなくなってきた。

 痛みはまだ自分の中にある。

 ただ、それを言葉へ削れるようになっただけだ。


「向こうに残すものがある方が、向こうは自分で折れたと思える」


 そう言った時、同じ組のクレイス生が小さく頷いた。


「それ、今日いけるかもな」


 その“いける”の軽さが、少しだけありがたかった。


 カストルの部屋も、ようやく形になりつつあった。


 相変わらず彼の言い方は鋭い。

 言葉の角を削るのがまだ苦手だ。

 けれど、その角をそのままぶつけるのではなく、角のまま相手が嫌がる位置へ置けるようになり始めている。


「教皇側が大帝側を切る方が面倒なら、それでいい」


 カストルが言う。


「“守る”って言わなくても、向こうに“切らない方がましだ”と思わせれば」


 同じ組のジェスル生が、少しだけ考える顔になる。


「それなら、“維持”に寄せるか」

「維持?」

「うん。“保護”だと上下が出る。“維持”なら、向こうも自分の秩序のためにやる顔ができる」


 そこで初めて、カストルは素直に頷いた。


「……それでいい」


 それを横で見ていたセリノスは、やはり何も言わなかった。

 ただ茶色の瞳にだけ、ほんの少し柔らかい光が差していた。


 午後の対面は、各組ともほとんど決着へ向かう形で進んだ。


 アルケスとポルックスの組が向かい合う部屋では、張りつめた静けさの中に、終わりへ近づく緊張だけが細く残っている。


 アルケスが差し出した文は、予想どおりだった。


 大帝側が別記の様式を先に作成する。

 教皇庁はそれを承認する。

 ただし緊急時の即時通達事項は、教皇側が追記を求める権を持つ。

 そしてその追記は、理由と期間を明示した場合に限る。


 昨日までのやり取りを、きれいに一つへ畳んだ文だった。


 ポルックスはそれを読み終えると、しばらく黙っていた。

 大帝側の面子は残る。

 教皇側の権威も残る。

 それでいて、どちらも完全には勝っていない。

 学園が見たいのは、たぶんこういう“成立のさせ方”だ。


 彼は顔を上げる。


「教皇側は受ける」


 部屋の空気が、ようやく少しだけほどける。

 だがそれで終わらない。


「ただし」


 その一語で、また全員の視線が集まる。


「追記の拒否に対して、大帝側は文書で理由を返すこと」


 アルケスの目が細くなる。

 最後の最後まで、向こうは形を残しにくる。

 だが、それももう想定の内だった。


「それも受ける」


 短く返す。


 そこで、ようやく教員が壁際から一歩だけ前へ出た。


「本日の対面はここまでとする」


 大きくはない声だった。

 けれど、その一言で部屋の空気が完全に切り替わる。


 完全勝利ではない。

 敗北でもない。

 だが、ここまで積み上げたものがきちんと“成立”したという感触だけは、全員に残った。


 部屋を出る直前、アルケスとポルックスはほんの一瞬だけ目を合わせた。

 そこに兄弟としての温度はない。

 けれど、互いに相手の形だけは、前よりずっとはっきり見えていた。


 夕方、寮へ戻る前に、ポルックスはもう一度だけ学園街側の通路へ目をやった。


 例のサブマ出身の取り巻きがいた。

 今度は一人ではない。

 エジェルシト出身のもう一人もいる。

 二人は何かを言い争うでもなく、妙に硬い顔で並んで歩いていた。

 そして、その歩幅が揃っていない。


 片方は焦っている。

 片方は怯えている。


 その差を見た瞬間、ポルックスは確信に近いものを抱いた。


 取り巻きたちは一枚岩ではない。

 少なくとも一人は、好きでこの役をやっていない。

 そこに、まだ表へ出ていない秘密がある。


 侯爵家の子息の遊びに付き合うには、あまりにも顔色が悪すぎた。


 ポルックスは足を止めなかった。

 ただ、その二人の背を視界の端へ刻んだ。


 課題の決着はもう近い。

 表の勝負は、ほとんど終わりの形が見えている。

 だからこそ、裏で動いているものも、そろそろ表へ引きずり出せるところまで来ていた。

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