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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第八章

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5

【1】


 午後の鐘が鳴り終わると、白い廊下に散っていた生徒たちは、またそれぞれの扉へ吸い込まれていった。


 アルケスも大帝側の部屋へ戻る。

 扉が閉まると、外の気配は一段遠のいた。高い窓から差す光は少し傾き始めている。机の上に広げられた紙は白く、その白さばかりが妙に目についた。


 向かいの席に着いたジェスル生が、低く言う。


「今日は向こう、強く来ない」


 アルケスは頷かなかった。

 だが同じことを考えていた。


 教皇側は、露骨な言葉を避けている。

 破門も、廃位も、監督権も、どれも一歩だけ引いた形で置いてくる。引いているように見せて、受けた瞬間に広げられる位置へ置いてくる。そういうやり方だ。

 そしてその“引き方”が、いかにもポルックスらしかった。


「だから厄介だ」


 ようやくアルケスが言う。


 紙の端へ指を置き、ゆっくりと文を追う。

 昨日より一段だけ細い。

 その細さの中に、向こうの本心がある。


「最初に強く否定しないのは、こっちに自分から乗らせたいからだ」


 クレイス生が顔を上げる。


「なら、逆にこちらも選んだふりをすればいい?」

「選んだふり、では足りない」


 アルケスは短く返した。


「実際に、相手にとっても得だと思える形を残さないと、向こうは飲んだあとでいつでも切り返せる」


 それは大帝側としての話でもあり、同時に兄としての直感でもあった。

 ポルックスは、“今は受けていい”と思える条件しか前へ出さない。

 だからこそ怖い。

 受けたあとの形まで、すでに頭の中にあるからだ。


 向こうの部屋では、ポルックスもまた似たようなことを考えていた。


 大帝側は、昨日よりもさらに慎重だった。

 正面から弾いてこない。

 こちらの言葉をまるごと拒むのではなく、“どこまでなら受けられるか”の線を探ってくる。その探り方が、昨日より明らかに整っていた。


「アルケスが立て直してる」


 同じ組のジェスル生がぽつりと漏らす。


 ポルックスは紙から目を上げた。


「立て直してるんじゃない」

「違う?」

「最初から崩れてなかった」


 声は静かだった。

 だが、その静けさの裏に、薄い苛立ちのようなものが混じる。


 兄を侮るつもりはない。

 だが課題の中では、兄であることは判断を甘くする毒にもなる。

 だからポルックスは、できるだけ“アルケス”ではなく“大帝側の相手”として見ようとする。

 それでも、どこかでどうしても顔が浮かぶ。

 言葉を選ぶ時の癖。

 相手を真っ直ぐ見たまま、譲る線だけを切り取る手つき。


 それを知っていること自体が、今は厄介だった。


「じゃあ、今日の二手目は?」

「“監督権”を押し切らない」


 ポルックスははっきり言う。


「向こうが一番嫌う語だと分かった。なら、別の名で同じものを置く」


 クレイス生が眉を寄せる。


「言い換えるのか」

「言い換えじゃない。枠を作る」


 紙の上へ指を置く。


「“監督”じゃなく、“確認”にする。こちらは見たい。向こうは見られたくない。なら、支配の語を抜いて秩序の語だけ残す」


 同じことを、別の顔で出す。

 それがどれほど嫌らしいやり方か、部屋の何人かはすぐに理解したらしい。

 だが理解したからといって、否定できるとは限らない。


 シャムの組では、その頃、言葉の置き方そのものが少しずつ変わっていた。


 昨日までなら、誰かが強い言葉を出せば、別の誰かがそれを受けて押し返すだけだった。

 けれど今日は違う。

 “切る言葉を先に置くな”

 “残すものを一つ見せろ”

 その感覚が、部屋の中へ少しずつ広がっている。


「教皇側が先に保証を見せるのは弱く見えないか」


 向かいのクレイス生が言う。


 シャムは首を振った。


「保証じゃない。逃げ道だ」


「逃げ道?」

「向こうが折れる時、自分で折れたって思い込めるようにする」


 言いながら、自分の胸の奥がかすかに疼く。

 それは机上の理屈であると同時に、自分自身が知ってしまっている痛みの形でもある。


「全部を奪われたら、人は残らない」


 室内が少し静まる。


 言い過ぎたかもしれないと思ったが、もう引っ込める気にはなれなかった。

 教皇側に置かれたからには、切る論理だけでなく、残す論理も見なければならない。

 そうしなければ、この役の中で自分が立っていられない気がした。


 カストルの部屋では、相変わらず熱の逃げ場が見つからなかった。


「向こうにとっての損を数える、まではいい」


 ジェスル生が言う。


「でも、その次に何を差し出す?」

「大帝側がいるから守れるものだ」


 カストルは即答する。

 昨日よりも言葉が出るのは早い。

 だが、出た言葉がそのまま噛み合うわけではない。


「それじゃ抽象的だ」

「抽象的でも本当だろ」

「本当でも通るとは限らない」


 そこでまた、胸の奥がざらつく。

 分かっている。

 分かっていて、それでも自分の言葉がまだ粗いことが苛立たしい。


 セリノスは、少し離れた位置でそのやり取りを聞いていた。

 赤い髪は窓の光を受けると、夜よりも柔らかく見える。茶色の瞳は相変わらず静かだ。彼はすぐには口を挟まない。カストルが今、自分で言葉を前へ出しかけていると分かっているからだろう。


 しばらくして、ようやく低く言う。


「“守れるもの”じゃなくて、“失うと困るもの”の方が通じるかも」


 カストルが顔を上げる。


「同じだ」

「少し違う」


 セリノスは紙へ目を落としたまま続けた。


「守れる、だと向こうに利があるみたいに聞こえる。失うと困る、なら向こうの損の話になる」


 部屋が静まった。

 小さな言い換えだ。

 けれど、その差は確かにある。


 カストルは舌の先で一度だけ息を返し、それから言った。


「……じゃあ、それでいく」


 素直ではない。

 けれど拒まない。

 それだけで昨日までとは違った。


 午後の半ば、再び短い休憩が入る。


 自習室の扉が次々に開く。

 白い廊下に出ると、閉ざされていた空気が少しだけほどける。だが、ほどけるといっても賑やかにはならない。皆まだ、頭の中へ次の一手を抱えたままだ。


 アルケスは廊下へ出るなり、無意識に連絡通路の先を見た。

 ダミアノの姿はない。


 それでも、見えないから安心できるわけではなかった。

 むしろ見えぬ時の方が、何かを仕掛ける余地は大きい。


 ケラノスは今日は器具を持っていない。

 なら狙うものは別になる。

 紙か、鞄か、移動の流れか。

 そう考えた時、自分でも驚くほど、視線が周囲を拾っていることに気づく。


 そこへ、ポルックスが出てきた。


 同じ廊下の、斜め向かいの扉。

 距離は近い。

 けれど話せる距離ではない。


 ポルックスもまた、連絡通路の先を一度だけ見た。

 その目が何を探しているのかは、アルケスにも分かった。

 兄弟でありながら、今は互いにそこへ口を出せない。

 そのことが、妙に窮屈だった。


 シャムは別の扉から出てきて、連絡通路の窓際へ寄った。

 何もない。

 誰もいない。

 それでも昨日と今日のことが重なるせいで、ただ静かなだけの場所が、少し嫌な気配を帯びて見える。


 カストルも、少し遅れて廊下へ出る。

 その後ろにセリノス。

 四人の王子が同じ区画へいる。

 だがそれぞれが別の組で、別の課題を抱え、別の方向を見ている。


 その時、遠くの階段の方で小さな物音がした。


 誰かが書類を落としたような、乾いた音。


 全員の視線がそちらへ向く。

 けれどすぐに、それが別の寮の生徒の失敗だと分かる。

 何事もない。

 ただの偶然。


 それなのに、誰もすぐには目を戻さなかった。

 皆、今はもう「何もない」を信じきれなくなっている。


 ポルックスが先に視線を外した。

 アルケスもそれに倣う。

 シャムは掌を軽く握り、カストルは舌打ちを飲み込む。


 休憩は終わる。

 また別々の扉へ戻る。

 別々の席へ着く。


 最初のブローチを懸けた課題は、少しずつ人の輪郭を剥き出しにし始めていた。

 前へ立つ者。

 静かに締める者。

 傷を持ちながらも言葉へ変える者。

 そして、怒りをまだうまく扱えぬまま、それでも前へ出ようとする者。


 そのどれもが、机の上だけで完結しない。

 学園はたぶん、最初からそのつもりなのだろう。


 正解はない。

 だが、どういう人間かは出る。


 扉が閉まり、自習室の静けさがまた戻る。

 その静けさの奥で、誰かの薄い笑みと、誰かの冷たい声と、誰かの噛み殺した怒りが、まだ消えずに残っていた。


【2】


 次に空気が動いたのは、その日の最後の対面の半ばだった。


 大帝側と教皇側の机は、昨日までよりわずかに近く感じられた。実際に位置が変わったわけではない。ただ、互いの言葉がどこまで届き、どこで引き、どこで刺さるかを、一度ならず味わったあとでは、距離の感じ方そのものが変わる。


 教皇側の紙が、静かに差し出される。


 受け取った大帝側の前列が目を落とし、数人の視線がアルケスへ寄った。

 ポルックスはそれを見ていた。

 相手が誰を軸に据えているか、今や隠す必要もない。


 アルケスは紙を読み終えると、すぐには顔を上げなかった。


 防衛線に対する教皇庁の確認権を認めること。

 補給路の監査については、教皇側の代理人を同席させること。

 昨日の“監督権”より、さらに一段だけ具体に寄せてある。

 だが、それでもなお、剥き出しの支配には見えないよう言葉が削られていた。


 厄介だった。

 露骨なら、露骨だと切れる。

 ここまで薄くされると、どこから先が干渉で、どこまでが秩序維持なのか、その境が一目では掴めない。


「大帝側としては受け難い」


 アルケスがようやく言う。


 短い。

 だが、その短さの中にもう十分な重みがあった。


 教皇側のクレイス生が、口元をわずかに動かした。


「受け難い、では足りない。どこがだ」

「確認権はまだいい」


 アルケスの指が紙の一行へ置かれる。


「だが代理人の同席は違う。防衛線に立つ者の内側へ、別の権威を入れることになる」


「それが何か問題か」


 返したのはポルックスだった。


 声は相変わらず低い。

 荒れもしない。

 なのに、問われた側だけが自然に身構える。


「問題だ」


 アルケスは顔を上げた。

 真正面から、弟を見る。


「二つの権威が同じ前線に立てば、命令が割れる」

「割らなければいい」

「割れない保証は」

「文で作る」


 即答だった。


 大帝側の後列で、誰かが小さく息を呑む。

 文で作る。

 それはあまりにも教皇側らしく、同時にあまりにもポルックスらしかった。


 アルケスはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。


「戦場は文の通りに動かない」

「だからこそ、最初の文が要る」


 ポルックスの言葉は、静かなまま一歩も退かない。


「大帝側が欲しいのは保護だ。保護を受けるなら、相手に見えない形で兵を置くわけにはいかない」


 正しい。

 少なくとも、机の上では。


 だがアルケスは、その正しさに頷かなかった。


「見せることと、入れることは違う」


 言葉が落ちる。


「教皇側が欲しいのは秩序維持じゃない。大帝側の首へ手を掛ける位置だ」


 室内が静まった。


 そこで初めて、教員が壁際から視線を上げる。

 誰が何を見抜き、どこまで言葉にするか。

 今、見られているのはそこだった。


 ポルックスは数拍、兄を見た。

 見抜かれたことへ動揺はない。

 むしろ、そこまで読んだ上でどう返すかを測っている顔だ。


「首に手を掛ける気があるなら、もっと強い語を置いている」


「置かないから厄介なんだ」


 アルケスの返しは即座だった。


 教皇側の空気がわずかに揺れる。

 クレイス側の一人が、椅子の背に預けていた身体を起こした。

 ジェスル側は誰も声を挟まない。

 今は、二人のあいだでだけ、刃が通っている。


 ポルックスはそこで初めて、紙から手を離した。


「なら、大帝側はどうする」


 問う声は低いまま。


「こちらを信用しない。だが保護は欲しい。前線の内側は渡したくない。教皇側の権威にも触れたくない」


 乾いた言葉が、机の上を滑っていく。


「それでなお、何を差し出せる」


 今度は、大帝側の空気が動いた。

 問われたのはアルケス一人ではない。

 組全体へ向けた問いでもある。


 アルケスは紙へ目を落とし、そして静かに言った。


「兵の内側は渡さない」

「なら」

「だが、兵の外側は開く」


 何人かが顔を上げる。


「補給路と防衛線の記録は見せる。こちらがどう動いたかを、あとから確認できる形で残す」


 教皇側のクレイス生が眉をひそめた。


「事後確認?」

「そうだ」


 アルケスの声は落ち着いていた。


「前線の内側へ別権威を入れるのではなく、動いた結果を照合させる。教皇側が欲しいのが本当に秩序維持なら、それで足りる」


 向かいの席で、ポルックスの目がほんのわずかに細くなる。


 それは絶妙な線だった。

 教皇側の顔も立つ。

 だが首元までは渡さない。


 しかも“兵を見せない”のではなく、“記録を見せる”と言い換えている。

 完全な拒絶にしないあたりが、昨日よりさらに整っていた。


 誰かが小さく呟く。


「……厄介だな」


 大帝側へ向けた言葉か、教皇側へ向けた言葉か、もう分からない。

 たぶん両方だった。


 別室では、シャムもまた自分の卓の中で、言葉の置き方をさらに深く見始めていた。


「“破門”を二枚目に回すのはいいとして」


 同じ組のジェスル生が言う。


「最初の一枚に何を残す?」


 机の上の紙には、消しては書き直された跡がいくつも重なっている。

 秩序。

 安定。

 保全。

 そのどれもが、使い方を少し誤るだけで急に空疎になる。


 シャムは、その中の一行へ指を置いた。


「“教皇庁は戦を長引かせる意図を持たない”」


 部屋が静まる。


「それを先に出す」

「弱くないか」

「弱く見えてもいい」


 シャムは顔を上げた。


「向こうが一番怖いのは、切られたあとに終わらないことだ」


 それは、机上の理でもある。

 けれどそれだけではない。

 誰かに“認めない”とされたあと、その先がなお続くことの苦しさを、彼は感覚として知っている。


「終わらせる気があるって先に見せれば、向こうはそこで初めて交渉の顔になる」


 向かいのクレイス生が腕を組み直した。

 否定はしない。

 むしろ、その言葉の効き方を測っている顔だった。


 カストルの卓では、もっと直接的なぶつかり方が続いていた。


「相手が困るものを並べるだけじゃ、まだ弱い」


 ジェスル生が言う。


「じゃあ何が要る」

「向こうが困るから守る、じゃなくて、守ることで向こうに得がある形だ」


 またその話か、とカストルは内心で歯噛みした。

 得。

 利益。

 そういう語が先に来ると、どうしても腹の底がざらつく。


「得なんかなくても、困るなら守るだろ」

「守らない」


 返答はあまりにもあっさりしていた。


「だから皆、それをどう作るかで頭を使ってる」


 室内に笑いは起こらない。

 起こるほど軽くない。


 カストルはしばらく黙って、それから低く言った。


「だったら、得じゃなくて“選ばせる”」


 何人かが顔を上げる。


「大帝側を守る方が、切るよりましだと思わせればいい」


 粗い。

 だが、昨日までより一歩だけ先へ出ている。

 相手に利益を与える、という言い方が嫌なら、“よりましな方を選ばせる”と組み替えればいい。

 そういう不器用な工夫が、ようやくカストル自身の形として出始めていた。


 午後の最後の休憩で、アルケスは自習室の外へ出た。


 疲れていないわけではない。

 だが疲労より、頭の中の熱を少しだけ外へ逃がしたかった。

 廊下は静かで、窓際には淡い夕方の光が伸びている。


 その先に、ケラノスがいた。


 一人ではない。

 セリノスが一緒だった。


 赤い髪の少年は壁へ背を預けず、きちんと立っている。

 ケラノスは水を飲み終えたばかりらしく、器を手にしたまま小さく息をついていた。


「……大丈夫か」


 アルケスが声をかけると、二人が振り向く。


 ケラノスは一瞬だけ目を丸くし、それから「うん」と答えた。


「今日は、まだ」

「まだ?」


 アルケスが聞き返すと、ケラノスは口元を歪めた。


「まだ何もされてない」


 その言い方に、アルケスの胸の奥がひやりとした。

 “何もなかった”ではなく、“まだ”。

 もう、そういう言い方しかできないところまで来ている。


 セリノスは口を挟まない。

 ただ、茶色の瞳でアルケスをまっすぐ見た。

 その目は静かだったが、何も知らない者の目ではなかった。


 アルケスはそこで、ほんの一拍だけ迷った。

 課題の最中だ。

 王子同士でも、別チームのことを口にするのは越えてはならない線がある。

 だが、これは課題の話ではない。


「次に何かあったら、すぐに言え」


 結局、出たのはそれだった。


 ケラノスが少しだけ笑う。

 軽い笑いではない。

 助かるとも、助けを求めるとも違う、困ったような顔の笑いだった。


「うん。言う」


 そこへ、廊下の向こうからポルックスが現れた。

 こちらに気づく。

 足は止まらない。

 だが、一瞬だけ視線がケラノスの鞄へ落ち、それからアルケスへ戻った。


 兄弟のあいだで、何かの確認が交わされたわけではない。

 それでも、互いに同じものを見ていることだけは分かった。


 ポルックスは近くまで来ると、ケラノスへだけ低く言った。


「自習室へ戻る時は一人になるな」

「え」

「今はまだ、それだけでいい」


 静かな声だった。

 命令ではない。

 だが逆らいにくい響きがある。


 アルケスは弟を見た。

 昨日までなら、こんな言い方はしなかったはずだ。

 もう観察だけでは足りないところまで来ている。

 そのことが、言葉より先に伝わる。


 セリノスが小さく頷いた。


「僕、付きます」


 自然な言い方だった。

 自分が庇うと言うのではない。

 ただ、そうした方がいいと分かっている者の言い方だ。


 ポルックスはそれ以上何も言わなかった。

 けれど、その静けさの裏にある切迫だけは残る。


 夕方の鐘が、低く鳴り始めた。


 休憩は終わる。

 また別々の扉へ戻る時間だ。


 ケラノスが先に歩き出す。

 セリノスがその隣につく。

 ポルックスも、自分の部屋へ向けて足を返す。

 アルケスは少し遅れて、それを見送った。


 その日の最後の対面は、どの組も少しずつ言葉を削って終わった。


 言い負かしたからではない。

 これ以上ここで重ねても、形より先に疲れが出ると、皆どこかで悟っていたからだ。

 課題はまだ続く。

 だからこそ、今日のうちに決めきれないものを無理に決めるより、持ち帰って噛み直す方がいい。そういう見切りが、新入生たちの中にもようやく育ち始めていた。


 解散の鐘が鳴ると、自習室の扉が順に開いた。


 白い廊下へ、人の気配が流れ出る。

 けれど賑やかにはならない。

 皆、各々の紙束と、今日見た相手の顔と、自分の言い損ねた言葉とを胸へ抱えたまま歩いている。

 同じ区画を使う以上、別チームの姿も見える。

 だが見えるだけだ。


 アルケスは扉を出てすぐ、無意識に廊下の先を見た。


 ケラノスとセリノスは、まだ戻っていない。

 水差しの置かれた角にも、連絡通路へ続く明るい方にも、それらしい姿はない。


 胸の奥が、ほんの少しだけ冷えた。


 別に、何があると決まったわけではない。

 それでも、“見えない”というだけで、今はもう前のようには済まされない。


「アルケス」


 呼ばれて振り向くと、同じ組のジェスル生が紙束を抱えたまま立っていた。


「今日の修正文、夜にまとめる」

「分かった」


 短く返し、それでも視線はまた先へ戻る。


 遅れて出てきたポルックスも、同じことに気づいたらしかった。

 何も言わず、廊下を一度だけ見回す。

 それから、扉の脇に立つ教員の方へ向かった。


「ケラノスがいない」


 低い声だった。

 報告と呼ぶほど堅くなく、独り言よりは明確な言い方だ。


 教員は表情を変えない。


「先ほど出たのは見ている」

「誰と」

「赤い髪の生徒と一緒だった」


 セリノス。

 それなら少しはましだと、アルケスは思った。

 だが“少しまし”でしかない。


 その時、別の方向からカストルが出てきた。

 いつも通り不機嫌そうな顔だったが、廊下の空気が僅かに変わっているのを察したのだろう、すぐに足を止める。


「何」


 短い問い。


 ポルックスが答える。


「ケラノスがまだ戻っていない」


 カストルの眉が動いた。

 すぐに何か言い返すかと思ったが、そうはならなかった。

 代わりに、視線だけが連絡通路の方へ鋭く伸びる。


 シャムもまた、少し遅れてその場へ来た。

 四人の王子が、また同じ廊下へ揃う。

 だが今度は言葉を交わす前に、向こうから足音が戻ってきた。


 ケラノスだった。


 セリノスも一緒だ。

 急いだ様子はない。

 むしろ二人とも歩幅は一定で、何かを誤魔化そうとする気配もない。

 それなのに、ケラノスの顔を見た瞬間、アルケスには何かあったと分かった。


 唇の端が、ほんの少しだけ切れていた。


 大きな怪我ではない。

 血ももう止まりかけている。

 けれど、なかったはずの線だ。


 カストルが一歩前へ出た。


「どうした」


 声が低い。

 今にも噛みつきそうな硬さがある。


 ケラノスは一瞬だけ迷う顔をした。

 だが、セリノスが隣で静かに言う。


「言った方がいい」


 茶色の瞳が、促すでもなく、ただ逃がさない。

 その言い方に、ケラノスは息を吐いた。


「階段のところで、ダミアノたちとすれ違った」


 廊下の空気が、目に見えぬ形で止まる。


「それで?」

「肩がぶつかって」


 ケラノスは指先で口の端を軽く触れた。


「このくらい」


 このくらい、で済ませる傷ではないと、そこにいる誰もが分かった。

 わざと突き飛ばしたのではない。

 殴ったわけでもない。

 ただ、避けきれぬ偶然に見える程度に強く、肩を入れたのだろう。


 また同じだ。


 はっきりとした暴力ではない。

 だが本人の不注意とも、ただの行き違いとも見える線へ、きれいに収めてくる。


「ほかは」


 ポルックスが問う。


 声は低く、薄い。


「何も」

「本当に?」

「……鞄、落としかけた。でもセリノスが取った」


 セリノスは黙って頷く。

 それだけで十分だった。


 カストルの顔が変わる。


 怒りが、今度はほとんど隠れない。

 昨日はまだ、噂の向こう側だった。

 今日はこうして、実際に傷をつけられた顔が目の前にある。


「行く」


 そう言った時には、もう身体が動いていた。


 アルケスよりも先に、ポルックスよりも早く、カストルは踵を返している。

 止める間もない速さだった。


「カストル」


 アルケスが呼ぶ。

 振り返らない。


 その背へ、今度はポルックスの声が飛ぶ。


「待て」


 待つはずがない。

 そういう熱の動き方ではないと、兄弟は皆知っている。


 カストルは連絡通路へ続く角を曲がった。

 シャムが思わず後を追う。

 アルケスもそれに続き、最後にポルックスが来る。

 セリノスとケラノスは一瞬だけ顔を見合わせ、それでも遅れてついていった。


 階段へ向かう途中の廊下は、夕方の光を半分失っていた。

 高窓から入る光は薄く、石床の上へ長い影が落ちている。

 その先に、ダミアノたちの背中が見えた。


 まだ遠くへは行っていない。

 こちらが追ってくるとは思っていなかったのだろう。


「おい」


 カストルの声が、廊下へ鋭く走る。


 ダミアノたちが振り返る。

 薄い笑みが、あまりにも早く口元へ戻るのが見えた。


「何」

「何、じゃない」


 カストルはそのまま距離を詰める。

 小柄な身体なのに、足取りだけはまっすぐだ。

 止まる気がない。


「ぶつかった?」

「ぶつかったよ」


 ダミアノは肩をすくめる。


「廊下なんだから、そういうこともある」


「あるわけないだろ」


 声が一段高くなる。

 荒れる。

 昨日よりさらに、熱が先に出ていた。


「昨日も今日も、そんな都合よく“ある”のか」

「偶然って知ってる?」


 その言い方が、油を注いだ。


 カストルの目が、ほとんど射抜くような鋭さになる。


「偶然に見せてるだけだ」

「そう思いたいんだね」


 ダミアノの笑みは消えない。

 むしろ、相手が熱くなるほど薄く整う。


「でも、いちいち噛みつかれる筋合いはないな」


 その瞬間、アルケスは後ろから追いついた。

 シャムもだ。

 だが前へ出たのはカストルが先だった。


「筋合い?」


 吐き捨てるように言う。


「王家を馬鹿にして、まだそんな顔するのか」


 昨日から燻っていたものが、今度こそ表へ噴き出していた。

 ケラノスへの嫌がらせ。

 シャムへの揶揄。

 そして今、自分たちまで軽く見たままの、その顔。


 ダミアノが目を細める。


「王家って、誰のこと」

「分かってて聞くな」

「皆、同じ顔じゃないだろ」


 その一言で、シャムの肩が強張った。

 カストルの呼吸が荒くなる。

 アルケスが一歩出ようとした、その前に、ポルックスが静かに兄の腕を取った。


「やめろ」


 低い声だった。

 それでも、兄弟にしか通じない重さがある。


「放せ」

「今ここで手を出す方が向こうの得だ」


 昨日と同じ言葉。

 だが今は、昨日よりずっと切迫している。


 カストルは振り払おうとした。

 その瞬間、ダミアノがふっと笑う。


「ずいぶん扱いやすいんだね」


 視線がカストルの身体を上から下まで一度なぞった。


「そんなに怒るなんて、思ったより余裕がない」


 それは昨日と同じ侮りだった。

 ただ今日は、昨日よりもっと明確に、カストル自身を下に見ていた。


 ポルックスの手が、兄の腕から離れる。


 離れたのに、空気はかえって冷えた。


「……余裕がないのは、どちらかな」


 昨日と同じ、低い声。

 だが今日は、さらに温度がない。


 ダミアノの笑みが止まる。


「証拠が薄いところでしか触れない。偶然に見せる形でしか崩せない。そういうやり方しか選べない時点で、もう自分がどこに立ってるか分かってるだろ」


 淡々としている。

 怒鳴らない。

 けれど、その一言一言が逃げ道の幅を削っていく。


「王家を引き合いに出したくないなら、それでもいい」


 ポルックスはまっすぐダミアノを見る。


「学園の規律だけで話しても、お前は同じところに落ちる」


 沈黙が落ちる。


 アルケスはその横顔を見ていた。

 ここまで冷えた声を、そう何度も聞いたことはない。

 弟は怒っている。

 その怒りが熱にならず、刃の形で外へ出ている。


 ダミアノがようやく言い返す。


「言いがかりだ」

「そう思うなら、次も同じことをすればいい」


 静かなまま、ポルックスは言った。


「次は、もっときれいな形で押さえる」


 その一言で、ダミアノの後ろにいた取り巻きの一人がわずかに目を揺らした。

 それだけで十分だった。


 カストルはまだ息が荒い。

 けれど、昨日のようにただ怒りの熱だけで立っているわけではない。

 ポルックスの声を横で聞きながら、自分の中の怒りが、別の形を持ち得るのだと嫌でも見せられていた。


 シャムは掌を強く握っていた。

 もう傷はない。

 けれど、その痛みの名残が、今は別の熱に変わっている。


 アルケスは、兄としてでも第一王子としてでもなく、ただ場を壊さぬために前へ出た。


「ここまでだ」


 低い声で言う。

 ポルックスもカストルも、そこで初めて少しだけ動きを止めた。


「これ以上は、課題の外を越える」


 正しい。

 だから皆、すぐには返せない。


 ダミアノは笑いを戻せないまま、小さく肩をすくめた。


「じゃあ、終わりにしようか」


 その言い方すら、まだ薄く人を見下ろしている。

 けれど今は、もう誰もそれに噛みつかなかった。


 噛みつく代わりに、全員がそれを覚えた。


 夕方の鐘が、遠くで鳴り始める。


 最初のブローチを懸けた課題はまだ続く。

 だが、机の外側で積もったものは、もう昨日までのようには戻らない。


 アルケスはカストルの肩越しに、ダミアノの顔を見た。

 王家を軽んじたこと。

 シャムを踏んだこと。

 ケラノスを狙ったこと。

 その全部が、この学園のどこまで届くのかはまだ分からない。

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