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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第八章

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4

【1】


 その噂を、アルケスが最初に聞いたのは、昼の課題がいったん区切られたあとだった。


 自習室区画の外れ、窓際に寄せられた水差しの前で、同じ組の新入生たちが小さく声を落としている。誰も大っぴらには言わない。だが、言わずにいられない程度には、連絡通路での一件は早くも人の口へ乗り始めていた。


「……クレイスの王子が切れたらしい」

「いや、切れたっていうか」

「弟の方が怖かったって」


 そこまで聞いたところで、アルケスは足を止めた。


 声を潜めていた二人が、こちらに気づいて口を閉じる。

 気まずそうな沈黙が落ちた。


 アルケスは怒りも咎めも見せなかった。

 ただ、水差しの前へ進み、器へ水を注ぐ。透明な水音だけが短く鳴った。


「続きを聞こう」


 低い声だった。

 柔らかくはない。

 だが、怯えさせるための調子でもなかった。


 新入生の一人が、ためらいがちに言う。


「連絡通路で、ダミアノって侯爵家の子と揉めたそうです」

「誰が」


 問いは短い。


「……カストル様が」

「ポルックスもいたのか」

「はい。途中から」


 アルケスは器を持ったまま、少しだけ目を細めた。

 途中から。

 その一言で、頭の中にいくつかの形が生まれる。


 カストルが先に動いた。

 ポルックスはあとから入った。

 しかも“弟の方が怖かった”という噂がつくなら、兄を抑えつつ相手を切ったのだろう。


 目に浮かぶようだった。


「何があった」


 今度はもう少し静かな声で訊く。


 二人の新入生は顔を見合わせた。

 見ていたわけではない。

 伝わってきた話を、さらに耳で拾っただけだ。

 だから言葉が曖昧になる。


「ケラノスの持ち物に、また何かされたらしくて」

「その侯爵子息が関わってるんじゃないかって」

「シャム様もいたと聞きました」


 そこで、アルケスの指が器の縁へわずかに強くかかった。


 シャムもいた。

 なら、単なる口喧嘩ではない。

 あの少年が絡む時は、たいてい誰かが踏まれている。考えるより先に手が出るところがあるからだ。


「教員は」

「いたそうです。あと、ズヴォルタ先輩も」

「……そうか」


 アルケスはそれ以上聞かなかった。

 聞いても、ここから先は噂の濁りが増すだけだ。


 器の水を半分ほど飲み干し、窓の外を見る。

 グラウンドの向こうでは、寮棟の白い壁が昼の光を薄く返していた。風はない。けれど胸の内だけが、妙にざわつく。


 カストルが怒るのは、珍しくない。

 だが“噂になるほど”となると話は別だ。

 しかもポルックスまで動いた。


 ポルックスは滅多なことで温度を表へ出さない。

 出すなら、よほど相手が線を踏み越えた時だ。


 アルケスは器を置いた。


「先に戻っていてくれ」


 同じ組の新入生たちは、ほっとしたように頷いて部屋へ戻っていく。

 アルケスは一人だけその場に残った。


 連絡通路の方を見る。

 今はもう人もまばらだ。

 何かの痕跡が残っているわけでもない。

 白い壁、整った床、静かな光。それだけがある。


 だが、何も残っていないからといって、何もなかったわけではない。


 ケラノスのことは気になっていた。

 器具を寮へ置いてきた昨夜の背中も、どこか無理に落ち着こうとしている顔も、目に残っている。

 だがアルケスは、そこでようやく、その件が自分の部屋の中だけで済む話ではなくなっていたことを悟った。


 ダミアノ。

 コメルシオの侯爵家の子。


 名と顔を頭の中で結ぶ。

 初日から、ああいう類の者だとは思っていた。自分の家名がどこまで通るかを、言葉より先に相手の顔で量るような、薄い笑みの者。

 ただ、ここまで露骨に線を踏むとは思っていなかった。


 しかも、王子たちにまで。


 アルケスは小さく息を吐き、ようやく自習室へ戻った。


 扉を開けると、部屋の空気はまだ課題の続きのままだった。

 紙束。

 椅子。

 同じ組の視線。


「遅かったな」


 ジェスル側の生徒が言う。


「少し」


 それだけ返して席につく。

 だが、座った途端にまた別の意味で部屋の中がはっきり見え始める。目の前には教皇側とのやり取りの紙がある。共同防衛。監督権。秩序。言葉はまだ机の上のものだ。

 それなのに、さっき聞いた噂のせいで、その机の外側が急に近くなる。


 誰かが誰かを下に見て崩そうとする。

 そのやり方が、課題の外で現実に起きている。

 ならば、今自分たちが机の上で組んでいる“支配”や“保護”の言葉も、ただの模擬劇では済まない。


「アルケス?」


 呼ばれて、顔を上げる。


 紙を前にしたまま、同じ組の者たちがこちらを見ていた。

 黙り込みすぎたらしい。


「……すまない」


 短く言って、紙へ目を落とす。


「続けよう」


 そう言ったものの、自分の声がいつもより少し低いのが分かった。


 午後の討議は、思ったより早く終わった。


 終わったというより、どの組も一度区切らざるを得なかったのだろう。課題はまだ続く。だが、その日のうちにこれ以上言葉を重ねても、形より先に疲れが出る。そういう見切りが、教員側にもあったのかもしれない。


 解散のあと、アルケスは連絡通路へ出てすぐ、立ち止まった。


 向こうから、カストルが来る。


 その少し後ろに、セリノス。

 さらに離れて、ポルックス。

 シャムの姿もあった。


 同じ課題区画を使っている以上、こういうすれ違いはある。

 だが別チームである以上、ここで課題の話をすることはできない。

 ただ、顔を見るだけだ。


 カストルの顔色は、朝より悪くはなかった。

 その代わり、何かをぎりぎりで噛み締めているような硬さがある。

 ポルックスはいつも通りの顔だった。

 だが、いつも通りすぎて、むしろおかしい。


 アルケスはそこで、初めて口を開いた。


「カストル」


 呼ばれた方が足を止める。

 ポルックスも止まった。

 シャムは少しだけ視線を揺らし、セリノスは静かに息を潜める。


 アルケスは数拍、何を言うべきか測るように黙った。

 課題のことは聞けない。

 噂そのものをここで問い質すのも違う。

 だが、何も言わずに通り過ぎるには、兄としての線が残る。


「……怪我はないか」


 結局出たのは、それだった。


 カストルの眉がぴくりと動く。


「ない」

「そうか」


 そこで終えてもよかった。

 だが、ポルックスの方を見た時、アルケスはほんの一瞬だけ言葉を足したくなった。


「お前も」

「ないよ」


 ポルックスは静かに返す。


 声の温度が低すぎて、逆に分かった。

 噂は本当なのだろう。

 しかも、ただのいさかいではない。


 シャムはそこで、ほんのわずかに目を伏せた。

 掌の傷はもう見えない。

 だが、見えないから消えたわけでもない。


 アルケスはそれ以上何も聞かなかった。

 聞けば、どこかで線を越える。

 今は越えない方がいい。


 誰も逆らわない。

 そして誰も、そこで余計なことは話さない。


 すれ違いはそれで終わった。

 けれど、アルケスの胸には、ただの噂以上のものが残っていた。


 カストルは怒った。

 ポルックスは冷えた。

 シャムはまた傷ついた。

 そして、その中心にケラノスがいた。


 噂の形をしていたものが、兄弟たちの顔を見た瞬間に、もう噂ではなくなってしまった。


 寮へ戻る道は、いつもより少し長かった。


 グラウンドの向こうに夕暮れが広がる。

 白い寮棟の壁は、日が傾くにつれて薄い金を帯びていく。

 けれどアルケスの胸の内だけは、妙に冷えたままだった。


 最初のブローチを懸けた課題は続く。

 正解のない課題。

 過程を見られる課題。


 ならば今、学園が見ているのは机の上の交渉だけではない。

 誰が誰を守るのか。

 誰がどこで怒るのか。

 誰がどんなふうに人を断つのか。

 その全部を、もう静かに数え始めているのだろう。


 アルケスは歩きながら、無意識に拳を軽く握った。

 次に何かが起きた時、自分はその場にいないままでいられるのか。

 その問いだけが、言葉にならぬまま胸の奥に残った。


【2】


 翌朝、アルケスはいつもより早く目を覚ました。


 まだ起床の合図には少し間がある。窓の外は青みの薄い灰に沈み、中庭の樹々も輪郭だけを残していた。七人部屋の空気は静かで、誰かの寝息が浅く重なっている。その中で、アルケスだけが先に目を開け、しばらく天井を見ていた。


 昨夜から胸に残っているのは、噂そのものではない。


 カストルの短い返事。

 ポルックスの、低すぎるほど低い声。

 シャムの目を伏せたあの一瞬。


 あれだけで十分だった。

 何かが起きた。

 しかも、軽く済ませてよいことではない。


 アルケスは寝台から起き上がり、足音を立てぬよう衣を整えた。白い制服の襟を正す。袖口を払う。机の上へ置いていた紙束を手に取ると、昨夜まとめた文面がきちんと揃っているのを確かめ、それでも一度だけ、最初の一枚を見返した。


 今日の対面で、教皇側は条件をさらに狭めてくる。

 ならばこちらも、どこで折れず、どこで譲るかを決めておかなければならない。

 課題だけを見れば、それで十分のはずだった。

 だが今は、机の外のことまで胸へ引っかかっている。


「早いな」


 低い声がして振り向くと、ズヴォルタが扉のところに立っていた。朝練へ出る直前なのだろう、上着の前をまだ留めきっていない。けれど、その立ち姿だけで部屋の空気が少し締まる。


 アルケスは短く答える。


「目が覚めた」

「そうか」


 ズヴォルタはそれ以上詮索しなかった。

 だが去り際に、一度だけこちらの机上の紙へ目を落とす。


「課題の前に、視野を狭めるな」


 それだけ言い残し、扉を閉める。


 アルケスはその背を見送った。

 視野を狭めるな。

 課題だけを見るな、という意味なのか。

 それとも、課題以外へ気を取られすぎるな、という意味なのか。

 どちらにも聞こえる言葉だった。


 朝食の列は、昨日までよりさらに静かだった。


 最初の数日は新入生同士の小さなざわめきがあった。食堂の料理や教室の広さ、どの上級生が怖いか、どの棟の階段が迷いやすいか。そういう些末な話が、緊張の逃げ道になっていた。だが課題が始まってからは違う。皆、それぞれ別の卓の続きを頭の中へ持ち込んだまま食堂へ来る。口に入れているのがパンかスープか、そのくらいのことしか意識が表へ出ない。


 アルケスは食堂棟の入口近くで、ケラノスの姿を見つけた。


 あちらもこちらに気づいたらしい。

 だが、すぐには近づいてこない。


 それが却って、昼の一件の尾を長く見せる。普段のケラノスなら、器具のことでも食堂の焼き菓子のことでも、思いつけばそのまま声をかけてきたはずだ。今は違う。無理に軽くしないよう、自分で自分を押さえているのが分かる。


 アルケスは席に着く前に、彼のそばへ寄った。


「鞄は」

「大丈夫」


 返事はすぐだった。

 無理に笑ってもいない。


「器具は」

「寮に置いてきた」


 そこでようやく、ケラノスの口元が少しだけ動く。


「しばらくは、そうする」


 その言い方に、子供っぽい不満も、意地も混じっていなかった。

 ただ悔しさだけが薄く残っている。

 アルケスはそれを見て、昨日聞いた噂の外側にあるものを、少しだけ実感した。壊されたのは器具ではない。器具を手にする時の、あの気安い顔の方だ。


「……分かった」


 それ以上は言わない。

 言えば軽くなる気がした。


 その頃、別の卓ではポルックスが水差しの位置を確かめていた。


 自分の組の生徒たちがどこへ座るか、誰が最初に口を開きやすいか、そんなことまで、今の彼の目には自然と入ってくる。だが今朝、頭の中の半分は別のところにあった。


 ダミアノは今日も普通の顔で現れるだろう。

 取り巻きも同じように。

 何もなかったように。

 そういう人間だ。


 ならばこちらも、何もなかったようにして見ているしかない。

 見て、次に余計な手が伸びる瞬間を逃さないしかない。


「ポルックス」


 呼ばれて顔を上げると、同じ組のジェスル生が紙を差し出してきた。昨日の文面を少し手直ししたものらしい。


「“監督権を留保する”の次に、“大帝側の防衛構造の透明化”を足したい」

「露骨だ」


 ポルックスは一目で返す。


「その語を入れた瞬間、向こうは監督権を“干渉”として読み直す」

「でも、いずれ欲しいのはそこだろう」

「欲しいのと、最初に出していいのは別だ」


 声に温度はない。

 だが、だからこそ周囲は黙って聞く。


 シャムは少し離れた席で、そのやり取りを見ていた。

 同じ教皇側でも、ポルックスの組の空気は、こちらの組とは違う。話し合いの運び方、言葉の選び方、引く場所。あれを見ていると、教皇側の役がただ“断罪する側”ではなく、“どうやって相手を枠の中へ入れるかを組む側”なのだとよく分かる。


 そして、自分の胸の中では、また別の痛みがまだ消えていない。

 ダミアノの言葉。

 カストルの怒り。

 ポルックスの、冷たい声。


 あの場で何が起きたのかを、アルケスはもう噂として知っているのだろうか――そう思った時、シャムは知らず知らずスプーンを握る指へ力を入れていた。


 カストルはその朝、寮の小食堂を選ばなかった。


 自分でも、なぜ中央の食堂へ足を向けたのかははっきりしない。

 逃げるように別の卓へ座るのが、今朝はひどく腹立たしかったのかもしれない。

 それとも、昨日のままの自分でいるのが嫌だったのか。


 いずれにせよ、食堂棟へ入った瞬間、視線はいくつも向いた。

 久しぶりのことではない。

 ただ、今朝のそれには少し違う色が混じっている。

 噂を知っている者の目だった。


 カストルはそれを無視して進む。

 隣へセリノスがつく。

 赤い髪の少年は、やはり何も言わない。ただ、こちらが孤立しすぎぬ位置を選んで一緒に歩く。


 席へ着く直前、カストルは遠くの卓にアルケスの背を見つけた。

 そのさらに向こうには、ポルックスもいる。


 兄弟が同じ空間にいる。

 けれど課題の中では、それぞれ別の陣営にいる。

 しかも昨日の一件がその上へ重なっている。


 妙な朝だ、とカストルは思った。


 課題用の自習室区画へ入る頃には、もう外の光は十分明るくなっていた。


 四つの課題用自習室の扉が、それぞれ半ばまで開いている。

 別チームの生徒たちは、廊下で顔を合わせても、課題の話はしない。

 それがかえって、空気を張らせる。


 アルケスが自分の部屋へ入ろうとした時、向かいの扉から出てきたポルックスと、ほんの短く目が合った。


 昨日とは違い、今朝のアルケスは先に口を開かなかった。

 ポルックスも同じだ。


 代わりに、互いの顔を一拍ぶんだけ見た。

 それで十分だった。

 夜のあいだに何を抱えたか、今朝どんな顔をしてここへ来たか、そのくらいは兄弟なら分かる。


 扉が閉まる。


 アルケスの大帝側は、今日まず教皇側へどこまで譲るかを決めなければならない。

 紙の上では、小さな修正が重ねられていた。


「“共同防衛の確認を願う”だと、まだ弱い」


 ジェスル生が言う。


「弱くていい」


 アルケスは返した。


「最初から強くして、向こうに強く返す理由を渡したくない」


 その一言で、昨日聞いたポルックスの声が頭の中で重なる。

 向こうもきっと同じように、こちらへ理由を渡さぬ形を考えている。

 互いに相手の刃の長さを測りながら、一歩ずつ机の上へ出してくる。

 そういう相手だ。


 ポルックスの部屋では、逆に“どこまで静かに締めるか”が詰められていた。


「今日、こちらから監督権の細目を広げすぎる必要はない」


 ポルックスが言う。


「向こうに“大帝側の面目”を守らせる余地を少し残す」

「残す必要があるか?」

「ある」


 彼は紙へ指を置く。


「面目が完全に潰れたら、向こうは理ではなく意地で返してくる」


 その言い方に、同室の生徒が小さく息をつく。

 兄を相手にしているからではない。

 相手がどういう時に理から外れるか、その手前まで読んでいる声だからだ。


 シャムの部屋では、まだ“切るための理”と“残すための理”が揺れていた。


「教皇側なんだから、相手を下へ置くのは当然だろ」

「当然でも、見せ方がある」


 シャムは昨日より落ち着いていた。

 傷が消えたわけではない。

 けれど、傷ついたまま口を開くしかないのだと、ようやく腹が据わってきた。


「認めないって言葉を、最初に出しすぎたら駄目だ」


 紙へ目を落としたまま言う。


「切られる側は、その一言で戻れなくなる」


 その部屋の空気が少しだけ変わる。

 上手い言い方ではない。

 それでも、机上だけで組まれた論ではないことが伝わる。


 カストルの部屋では、また違う形で言葉が擦れていた。


「向こうが守りたいものを数える、は分かった」


 ジェスル生が言う。


「でも、その次はどうする」

「その中に大帝側を入れる」


 カストルは即答した。

 昨日より早い。


「大帝側が崩れたら、教皇側の秩序も崩れるって形にすればいい」


 粗い。

 だが一歩、前へ出ている。

 その一歩がまだ自分自身を苛立たせても、出てきたこと自体は確かだった。


 そして午前の対面へ向かう直前、アルケスはようやく、自分から兄弟の誰かへ言葉を向けることになる。


 それは課題の内容についてではない。

 そんなことは許されない。

 けれど、課題の外側で起きていることについてなら、完全に沈黙しているわけにもいかなかった。


 自習室区画の外れ、連絡通路へ出る手前で、シャムが一人で立っていた。

 掌を見ている。

 もう傷など残っていないはずなのに、その仕草だけが昨日の続きを抱えていた。


 アルケスは足を止める。


「シャム」


 呼ばれて、シャムが顔を上げた。

 その一瞬だけ、驚いたような顔になる。

 無理もない。今この区画で、別チーム同士がわざわざ言葉を交わすことは多くない。


 アルケスは一拍だけ黙ってから言った。


「聞いた」


 それだけで、何をかは通じたらしい。

 シャムは目を逸らさなかった。


「……そう」


 短い返事。

 それ以上の説明はしない。


 アルケスも問わない。

 ここで詳しく聞けば、それはもう課題の外の線を越える。


「無理はするな」


 出た言葉は、結局それだった。


 兄らしいのか、王子らしいのか、自分でも分からない。

 だがシャムはほんの僅かに目を細め、そして小さく頷いた。


「うん」


 その“うん”が、かえってアルケスの胸に残る。

 子どものようでいて、そうではない返し方だった。


 そこへ、少し遅れてカストルが来た。

 アルケスとシャムが同じ場所に立っているのを見て、顔をしかめる。


「何してる」

「何もしていない」


 アルケスが先に答えた。

 事実だ。

 課題の話はしていない。

 ただ、それで済ませられるほど、三人のあいだの空気は軽くない。


 カストルはさらに何か言いたげだったが、連絡通路の向こうからポルックスの姿が見えると、結局口を閉ざした。


 四人が一度、同じ視界に入る。

 それだけで、昨日の噂と今日の静けさが、妙に一つのものとして胸へ落ちてくる。


 アルケスはそこで、初めてはっきりと思った。


 次に何かが起きた時、自分はもう、噂として聞くだけでは済まされない。


 昼の鐘が鳴る。


 誰もそれ以上は言わず、それぞれ別の自習室へ散っていく。

 扉が閉まるたび、空気も切り分けられていく。


 最初のブローチを懸けた課題は、まだ先が長い。

 けれど兄弟たちのあいだには、机の上の敵味方とは別の緊張が、もう確かに生まれていた。


【3】


 午後の対面が始まる直前、アルケスは一度だけ深く息を吸った。


 白い自習室の中は静かだった。高い窓から差す光が、机の縁をまっすぐに照らしている。外の連絡通路では生徒たちの足音がまだ細く響いていたが、扉が閉じると、その気配も遠のいた。残るのは紙の匂いと、椅子を引く音と、これから交わされる言葉の重みだけだ。


 大帝側の席に着いた生徒たちは、それぞれ紙を前にしていた。昨日までのやり取りで、教皇側がどう締めてくるかは見え始めている。だからこそ、今日こちらが一つ置く言葉で、流れの向きが変わる。


「向こうは監督権を広げたい」


 ジェスル側の一人が低く言った。


「なら、その正当性をこちらで先に限定する」


 アルケスは紙へ目を落としたまま答える。


「秩序維持のため、という名目は認める。だが軍の中枢には入れない」


「線を引くわけだな」

「最初に引いておかないと、向こうが引く」


 それ以上は言わない。

 言葉を足せば、余計な力みが出る。


 扉の外で足音が止まり、教皇側が入ってきた。


 先頭にいるのはやはりポルックスではない。だが視線は自然と彼の方へ寄る。目立とうとしていない者の目立ち方だ、とアルケスは思った。前へ押し出さなくても、場の芯へ立ってしまう。そういう種類の存在感がある。


 向かい合って座る。

 教員が壁際へ退く。

 昨日と同じ構図なのに、空気は明らかに違っていた。


 もう互いに、ただ役を与えられた新入生ではない。相手がどういう形で言葉を置くか、一度は見たあとの対面だ。知った上で、知らぬふりをして向かい合う。そこに生まれる緊張は、初日のぎこちなさよりずっと濃い。


 最初に口を開いたのは教皇側だった。


「昨日の文面を受け、教皇側から条件を改めて示す」


 読み上げたのはポルックスではなく、同じ組のクレイス生だった。

 だがその文は明らかに、ポルックスの手を通っている。


 大帝側の軍事安定は認める。

 ただし、その安定が教皇庁の秩序維持と整合する限りにおいて。

 防衛線と補給線については、教皇側が監査の権限を留保する。


 昨日より一歩だけ狭い。

 だが、あからさまに締めすぎてはいない。

 受けようと思えば受けられる。受けた瞬間に、こちらの首へ細い紐が掛かる――そういう文だった。


 アルケスは紙を受け取ると、すぐには返さなかった。

 数拍置いてから言う。


「監査の名で、軍の息まで数えたいのか」


 低い声は静かだった。

 責める色を乗せず、それでも問いの芯だけは鈍らせない。


 ポルックスが初めて口を開く。


「息を数えるつもりなら、昨日のうちにもっと強い語を置いている」


 冷えた声音だった。

 だが薄くはない。

 静かなまま、相手に“読め”と迫るような声だ。


「教皇側が要るのは、反乱の芽を事前に潰せる位置だ。軍そのものを奪いたいわけじゃない」


「奪いたくないと言いながら、触れたがる」


 アルケスが返す。


「触れずに保てる秩序なら、そもそも条件にしない」


 言葉が交差する。

 室内の誰も、もう軽々しく口を挟めない。


 この二人は似ていない。

 だが、似ていないからこそ同じ線の上へ立っている。

 アルケスは正面から受け、押し返す。

 ポルックスは道を細くしながら、相手がそこへ乗るしかない形を作る。


 同じ王家の血を引く者が、今はまるで別の刃を使っているようだった。


 シャムは別室で、自分たちの対面に集中しようとしていた。

 だが時折、先ほどの短いやり取りが胸に戻ってくる。


 無理はするな。


 あまりにも兄らしい、まっすぐすぎる言葉だった。

 それが今さらのように胸へ残る。


 教皇側として向かい合う相手は、アルケスではない。

 けれど役の中で突きつけられる言葉の重さは変わらない。


「大帝側が守りたいものをまず示してほしい」


 シャムの組のジェスル生が言う。


「それを隠したまま保護だけ求めるなら、こちらは形を作れない」


 向かいの大帝側が顔を見合わせる。

 守りたいもの。

 その一語が、妙に生々しい。


 シャムはそこへ静かに重ねた。


「全部じゃなくていい」


 全員の目が向く。


「一つでも分かれば、切らずに済む線が引ける」


 自分で言いながら、胸のどこかがひりついた。

 全部を奪うのではなく、一つだけ残す。

 それは昨日自分が感じた痛みの裏返しでもある。


 向かいの大帝側の生徒が、迷うように口を開く。


「……兵だ」


 その小さな一言で、部屋の空気が変わる。

 机の上の役が、初めて少しだけ人間の顔を持った瞬間だった。


 カストルの組では、その変化がもっと遅かった。


 彼の部屋の大帝側は、まだどこか力任せだった。

 前へ出たい声が多く、譲るべきところまで押し切ろうとする。

 そのたびに、カストルの苛立ちは募る。


「それじゃ向こうが乗るわけないだろ」


 つい声が荒くなる。


「じゃあどうする」

「だから――」


 言いかけて、カストルは言葉を切った。

 頭の中にはある。

 だがそれを整えて机の上へ置く前に、喉の方が先に熱くなる。


 向かいのジェスル生が、わざとゆっくり言う。


「急がなくていい。考えてからで」

「急いでない」


 反射的に返した声が、思ったより強かった。

 室内が一度、しんと静まる。


 その静けさがさらに癪に障る。

 黙らせたかったわけではない。

 なのに、自分の声はそういう働き方しかできない。


 その時だった。


 自習室の扉が、二度ほど軽く叩かれた。


 皆の視線がそちらへ向く。

 教員ではない。

 もっと控えた、しかし遠慮しすぎてもいない叩き方だった。


 扉を開けたのは同室の一人だった。

 外にいたのは、セリノスだった。


 赤い髪が廊下の光を受けて、わずかに明るく見える。細身で、背は高くない。だが立ち方に妙な落ち着きがある。彼は部屋の中を覗き込まず、開いた扉の向こうで静かに言った。


「休憩の時間、少しずれるって」


「誰が?」

「連絡が来た。別の組の対面が長引いてるから」


 それだけ伝えると、セリノスはすぐに身を引いた。

 課題の中身には触れない。

 必要なことだけを置いて去る。

 その境目の正確さに、カストルはまた少しだけ苛立つ。自分にはどうしても、ああいう風にはできない気がした。


 けれど、少し延びたその時間が、結果として各組の空気をさらに煮詰めた。


 アルケスとポルックスの対面も、予定より長く続いていた。


「監査が形式に留まると保証できるか」


 アルケスが問う。


「保証できる」


 ポルックスは即答した。


「文に入れる」

「文は変えられる」

「変えさせなければいい」


 言葉の応酬が、もはや役の外側にある個人の気質まで露わにし始める。

 大帝側の席では、クレイス生が息を呑み、ジェスル生が視線を交わす。

 教皇側の席でも同じだ。


 どちらも引いていない。

 だが、ただ意地を張っているわけでもない。

 相手がどこまで読むかを測りながら、自分の線を一歩ずつ出している。


 教員は壁際でそれを見ていた。

 表情は変わらない。

 それでも、どの言葉のあとに誰が黙り、どの瞬間に誰が椅子へ浅く座り直すか、そのすべてを記録している気配があった。


 ようやく休憩が告げられた時には、どの部屋にも細い疲れが漂っていた。


 扉が開く。

 廊下へ流れ出る。

 だが今日は誰も大きくは喋らない。

 討議の熱が冷えきらないまま、次の一手を頭の中で抱えているからだ。


 アルケスが自習室の前へ出た時、少し先でケラノスの姿が見えた。

 壁際に寄り、水差しから器へ水を注いでいる。

 その向こう、柱の陰に、ダミアノがいた。


 ほんの一瞬だった。

 視線が合う。

 ダミアノは笑わなかった。

 ただ、見ていた。


 ポルックスも同じ光景を別の角度から捉えた。

 胸の中の冷たい線が、また少しだけはっきりする。


 まだ何も起きていない。

 だが、何かをする気のある者の視線だった。


 その時、アルケスは初めて、机の上と外側の二つを同時に見る必要があると、はっきり自覚した。


 課題だけでは足りない。

 だが課題を疎かにもできない。

 その板挟みが、静かに肩へ重く乗る。


 ケラノスは気づいているのかいないのか、水を飲み干して顔を上げた。

 その横顔は昨日までより少し硬い。

 好きな器具を持ってこなくなっただけではない。

 自分が狙われること自体を、もう理解してしまった者の顔だった。


 遠くで、午後の鐘が鳴る。


 休憩は終わる。

 対面は続く。

 最初のブローチも、まだ誰の胸にもない。


 けれど、その前の段階で、何か別の選別がすでに始まっている気がしてならなかった。


 誰が机の外も見るか。

 誰が見て見ぬふりをするか。

 誰が怒りを熱のまま出し、誰が冷たい刃に変えるか。


 その全部が、もうこの学園では評価の外ではないのかもしれない。

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