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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第八章

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39/50

3

【1】


朝から空気が乾いていた。


 雲は高く、光は白い。窓の外に広がるグラウンドも、昨日までより輪郭が硬く見える。寮棟から学園棟へ向かう連絡通路には、早い時間から白い制服の列が続いていた。歩く者は皆、紙束を抱え、頭のどこかに別の卓のことを抱えたまま、口数だけを少なくしている。


 最初のブローチを懸けた課題は、もう単なる“最初の課題”ではなくなっていた。

 どの組も、自分たちの言葉がどこまで届き、どこで弾かれるかを知り始めている。

 その知り始めた重さが、廊下を歩く足取りにまで少しずつ滲んでいた。


 アルケスは、今日も自分の組の先頭を歩いていた。


 大帝側として、昨日は最初の顔を見せた。

 今日はその顔をどう保ったまま、教皇側の条件を削り返すかが問われる。

 共同防衛。

 権威の保全。

 監督権。

 どれも一つずつは整っている。だが整っているだけでは足りない。相手が実際に飲む形へ組み替えなければ、文はただの見栄に終わる。


 彼の後ろで、ケラノスが紙束を抱え直した。


 器具は今日は寮へ置いてきた。

 それ自体は正しい判断なのだろう。

 だが、好きなものを自分から遠ざけるのは、思っていた以上に落ち着かないらしかった。手が無意識に鞄の口元を探る癖だけが残っている。


 アルケスは、それに気づいていた。

 気づいていて、何も言わない。

 不用意な慰めは、今のケラノスには軽い気がしたからだ。


 教皇側の部屋へ入ったポルックスは、いつもより早く席へ着いた。


 紙はすでに机の上に広げてある。

 昨日の返答。

 大帝側の文。

 自分たちが今日狭めるべき条件。

 そのどれもが、夜のあいだに一度頭の中で組み替えられていた。


「今日は、向こうに先に喋らせる」


 席につくなり、そう言った。


 向かいのクレイス側が眉を上げる。


「昨日はこっちが返したろ」

「だから今日は、昨日の返答を向こうがどう読んだかを先に見たい」


 ポルックスの声は乾いていた。

 ただ冷たいわけではない。

 相手の一手を待つことで、こちらが何を取るかの幅が増えると知っている声だった。


「急がせれば、向こうは強い言葉を使う。強い言葉を使ったら、その分だけこちらは楽になる」


 その時、シャムは紙から顔を上げた。


 教皇側に置かれてから、自分の口から出る言葉が以前より少し重くなっている気がする。

 破門。

 廃位。

 監督権。

 そうした語へ、自分の傷が勝手に重なってくるからだ。


「強い言葉を使わせたいなら、こっちも静かにしてた方がいい」


 ぽつりと言う。


 部屋の数人がそちらを見る。


「静かに?」

「煽らない方が、向こうは“自分で立とうとする顔”を保とうとする」


 シャムはそれ以上を言わなかった。

 けれどその感覚は確かだった。

 人は、露骨に押されると、かえって意地で立とうとする。

 だから切る時ほど、最初は静かな方がいい。


 ポルックスは頷いた。


「それでいく」


 短い返答だったが、シャムにはそれで十分だった。


 一方、別の大帝側の部屋では、カストルが今日も机の端を指で叩いていた。


 音は小さい。

 だが静かな室内では、それだけでも苛立ちの輪郭になる。


「そこを突いても、教皇側は引かない」


 ジェスル側の生徒が言う。


「じゃあ何なら引くんだ」

「引かせるんじゃなくて、乗る形にしろって昨日から言ってる」


 言い返されるたびに、胸の奥の熱がうまく逃げない。

 カストルは大帝側という札そのものには納得している。前へ立つ役だ。守る側だ。そこに異論はない。

 だが、この“前へ立つ”は、斬り込むこととは違う。言葉の幅を見て、相手が自分から乗る場所を作る。そういう前線の立ち方が、どうにもまだ身体へ馴染まなかった。


「だったら、向こうが守らなきゃ困るものを先に数えろ」


 低く言う。


 部屋が少し静まる。


「秩序でも信徒でもいい。教皇側が失いたくないものを並べて、その中に大帝側を入れればいいだろ」


 粗い。

 だが、ただの苛立ちではなかった。


 向かいのジェスル生が、少しだけ考える顔になる。


「……それは使える」

「最初からそう言え」


 吐き捨てるように返してから、カストルは自分でも少し驚いた。

 言い方は悪い。

 だが、今日は昨日より一歩だけ、机の上へ自分の考えを置けた。


 その頃、ケラノスは自習室区画の外れで、水差しの脇へ紙束を置いていた。


 器具は持っていない。

 だから今日は何も起きないかもしれない――そう思いたかった。

 けれど、何も起きないと信じるには、昨日までの二度は十分すぎるほど嫌だった。


 後ろで足音が止まる。


 振り向く前に、気配で分かった。

 ダミアノだ。


「今日は静かだね」


 あの薄い笑みのまま言う。


「お気に入りは置いてきたの?」


 ケラノスは紙束へ手を伸ばした。

 返事をしないつもりだった。

 だが、その時、ダミアノの取り巻きの一人が、わざとらしくよろけるように肩をぶつけてきた。


 衝撃は大きくない。

 避けきれぬ偶然にも見える。

 だがその一瞬で、机代わりにしていた窓際の台から紙束が滑り落ちた。


 ばさり、と音がして、課題用の文面と下書きが床へ散る。


 白い紙が石床へ広がる。

 その上へ、取り巻きの靴先が半歩だけ乗る。


「悪い」


 口ではそう言う。

 けれど退き方が遅い。

 しかも、散った紙の中で一枚だけ、教皇側へ出す前の下書きの端が靴底で擦られ、黒く汚れた。


 ケラノスの顔色が変わる。


「どいて」

「そんな怒るなよ」


 ダミアノは笑ったままだ。


「落としたのはきみだろ」


 その言い方が、あまりにもきれいだった。

 触れたのは自分たち。

 だが落としたのは相手。

 誰が見ても、言い逃れできる線だけを残している。


 少し離れたところで、それを見たポルックスは足を止めた。


 紙の落ち方。

 靴の位置。

 汚れた一枚が、よりによって下書きであること。

 偶然にしては、都合が良すぎる。


 その時、反対側の連絡通路からシャムが来た。


 散った紙。

 ダミアノの笑い。

 ケラノスの顔。


 それだけで、昨日の続きだと分かる。


「どいて」


 今度はシャムが言った。

 低い声だった。

 だが、昨日より迷いがなかった。


 取り巻きがゆっくり足を退ける。

 紙の端に残った黒い汚れが、妙にくっきり見えた。


「また庇うの?」


 ダミアノが首を傾げる。


「ずいぶんと忙しいね。王子ごっこも大変だ」


 その言葉で、シャムの胸の内側がひやりと冷えた。

 昨日の痛みが、まだ消えていないところへ、そのまま重なる。


 けれど今日は、喉が止まらなかった。


「ごっこでも何でもない」


 はっきり言い返した自分に、逆に少し驚く。


「きみたちの方が、事故みたいに見せるのに忙しそうだ」


 空気が変わる。


 ダミアノの口元の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。

 図星を刺された時の薄さだった。


「証拠は?」

「昨日の留め金と、今日の紙」


 シャムは一歩も引かない。


「どっちも、“本人の不注意”に見えるようにしてる」


 ダミアノの後ろで、取り巻きの一人が息を呑む。

 ほんの僅かな乱れ。

 それだけで十分だった。


 ポルックスはそこで、ようやくこちらへ歩み寄った。


「その紙、触るな」


 ケラノスへ向けた声だったが、ダミアノたちにも十分届く。


「汚れの位置が分からなくなる」


 冷たい言い方だった。

 感情を前へ出さないぶん、却って空気を切る。


 ダミアノが初めて、はっきりとポルックスを見た。


「へえ。きみも入るんだ」

「入るも何もない」


 ポルックスは床へ散った紙のうち、踏まれていないものだけを見た。


「二日続けて、偶然にしては都合がよすぎる」


 静かな声だった。

 だが、もう後には引いていない。


 ダミアノは数拍の間、何も言わなかった。

 それから、いつもの薄い笑みを戻す。


「面白いね。学園の課題って、そういう遊びも含まれてるのかな」


「含まれていない」


 その声は、別の方向から落ちた。


 全員が振り向く。


 そこにいたのは、ズヴォルタだった。


 いつから立っていたのか分からない。

 連絡通路の影の中に、クレイスの色を纏った高等部三年の姿があった。背は高く、肩は厚い。軍人めいた迫力を隠そうともしないまま、こちらを見ている。


 その隣には、教員もいた。

 白い礼装の襟元へ、細い金の線。

 講堂で課題を告げたあの年嵩の男だ。


 ダミアノの笑みが、今度こそ一瞬だけ消えた。


 ズヴォルタは彼らの間へ歩み寄る。

 急がない。

 だが一歩ごとに、場の温度が変わる。


「紙を拾うな。そのままにしろ」


 低く言う。

 今度は誰も逆らわない。


 教員が床の紙を一枚ずつ見ていく。

 黒く擦れた端。

 靴底の筋。

 散り方。

 何も断定はしない。

 だが、見ている目は鋭かった。


 シャムはその場で初めて、肩の奥の力が少し抜けるのを感じた。

 昨日も見ていてほしかった、という気持ちがないわけではない。

 けれど今は、見られたこと自体が救いだった。


 カストルも少し離れた場所から、その光景を見ていた。

 動けなかったわけではない。

 動かずに済む場へ、ようやく誰かが入ってきた。

 そのことにほっとしながら、同時に、昨日の自分の立ち尽くし方が胸へ重く戻る。


 ズヴォルタはダミアノへ目を向けた。


「侯爵家の子であろうと、新入生であろうと、学園の規律の前では同じだ」


 声は怒鳴らない。

 怒鳴らなくても十分だった。


「課題に関わる文書への故意の干渉、他生徒の物品への不正な接触、その疑いが生じた時点で、記録は取られる」


 ダミアノは口を開きかけ、閉じた。


 言い逃れが利かないわけではない。

 だが今ここで無理に言葉を重ねると、かえって自分の足場が滑る。その計算くらいはできる顔だった。


「……誤解です」


 ようやくそう言う。


 教員は淡々と返した。


「それを含めて確認する」


 それだけだった。


 学園は、国の法律より規律と校則が先に立つ。

 その数がどれほど多いのか、新入生たちはまだ全部を知らない。

 けれど今、目の前にあるのはその一端だった。

 説明より先に、場の締まり方で分かる。


 ケラノスは散った紙を見下ろしていた。

 拾うなと言われたから、拾わない。

 その代わり、握った手だけが少し震えている。


 ポルックスは、その震えを見た。

 それからダミアノの顔を見て、胸の中で静かに線を引く。


 もう十分だ。

 偶然ではないと、自分の中でははっきりした。


 シャムは掌の傷跡を無意識に指でなぞった。

 昨日の痛みは消えていない。

 だが、今日、自分は言い返した。

 そのことが、胸の中で小さく熱を持っている。


 そしてカストルは、柱の陰から動かないまま、自分の奥に残っていたものの正体をようやく少しだけ知った気がした。


 嫌悪。

 苛立ち。

 そして、見ているだけで終わる自分への怒り。


 それらは全部、同じ根に繋がっている。


 午後の鐘が鳴った。


 課題はまだ終わっていない。

 最初のブローチも、まだ誰の胸にもない。


 けれどこの一件で、いくつかのことだけはもう動かしようがなかった。


 ダミアノたちは目をつけられた。

 ケラノスは狙われていたのだと、少なくとも何人かは明確に理解した。

 シャムは、自分の傷に触れられてもなお立てる場所があると知り始めた。

 ポルックスは、見ているだけの段階を越えた。

 カストルは、自分の中で何が残るのかを、もう誤魔化せなくなった。


 教員が床の紙を一枚ずつ拾い上げる。

 白い紙に残った黒い擦れが、やけにくっきりと見えた。


 最初のブローチを懸けた課題は、正解のない課題だと言われている。

 だが少なくとも、今日この場で誰がどう振る舞ったかは、もう消えない。


 それが何を生むのかは、まだ誰にも分からない。

 ただ一つだけ確かなのは、ここから先、昨日までと同じ顔ではいられない者が何人も出たということだった。


【2】


 白い紙に残った黒い擦れを、教員が一枚ずつ拾い上げていくあいだ、連絡通路には妙な静けさが落ちていた。


 誰も声を立てない。

 立てなくなったという方が近い。


 ズヴォルタがいる。

 教員もいる。

 それだけで十分なはずなのに、場はまだぴんと張ったままだった。何かが終わったのではなく、むしろここから何が決まるのかを、皆が息を潜めて見ているような静けさだった。


 ダミアノは、ようやく作った無難な顔を崩さずに立っていた。


「誤解です」


 さきほど口にしたその言葉を、もう一度繰り返すつもりなのかもしれない。

 表向きは下がっている。

 だが完全に折れたわけではない。口元の薄い笑みが消えきらないのが、その証のようだった。


 シャムは掌の細い傷を無意識に押さえた。

 もう痛くはない。

 けれど、その手を開けば、さっきまで自分の胸へ突きつけられていた言葉まで一緒にこぼれ落ちてしまいそうで、うまく指がほどけない。


 ケラノスは散った紙の横に立ったまま、鞄の口へ触れることすらできずにいた。

 落ちた文書。

 汚れた端。

 それが課題のための紙であることが、余計に腹立たしいのだろう。

 好きな器具を触れなくされたこととは、また別の種類の悔しさが、その顔へ浮いていた。


 そして、少し離れた柱際にいたカストルの中で、何かが切れたのは、その時だった。


 最初に動いたのは足ではない。

 胸の奥で、ずっと燻っていたものが、形を失ったまま一気にせり上がったのだ。


 ダミアノは教員の方を見ていた。

 ズヴォルタの声に応じる顔をしていた。

 それなのに、その横顔にはまだ、誰かを少し下に置いたままの余裕が残っていた。


 それが、たまらなく気に食わなかった。


「お前」


 声が落ちる。


 連絡通路の空気が、また一段冷えた。


 ダミアノがゆっくり振り向く。

 カストルはもう柱際にはいなかった。

 いつの間にか、半歩、いや一歩、前へ出ている。小柄な身体なのに、その目だけは大人の誰より鋭く見えた。


「誰を舐めてる」


 低い。

 だが、ただ低いだけではない。

 抑えていたものが押し上がってきて、声の端が少しだけ揺れている。


 ズヴォルタの目が動いた。

 教員も、拾いかけていた紙から手を止める。


 カストルは止まらなかった。


「ケラノスを潰したいなら潰せばいいと思ってるのか」

「カストル」


 誰かが名を呼んだ。

 たぶんセリノスだった。

 だが、その声はもう届いていない。


「シャムを嗤って、今度は何だ。こっちまで下に見た顔して」


 言葉が荒くなる。

 久しぶりの、あの癇癪に近い怒りだった。

 幼い頃、思いどおりにならぬことがあるたび、喉の奥から先に熱が噴き上がって、うまく自分の輪郭を保てなくなる時があった。今のそれは、あの頃よりずっと抑えが利いている。けれど抑えが利くからこそ、余計に危うい。


「王家の人間を、何だと思ってる」


 ダミアノの目が、初めてはっきりと細くなった。


 ケラノスやシャムに向けるのとは違う色だった。

 面倒なものに触れた、という顔でもない。

 もっと露骨に、相手を値踏みする顔だ。


「王家?」


 薄い笑みが戻る。


「ずいぶん大きく出るんだね」


 カストルのこめかみがぴくりと動く。


 そこでポルックスが動いた。


 それまで壁際に近い位置で見ていた彼は、まっすぐには前へ出なかった。最短で割り込む角度を取り、カストルの斜め前へ立つ。庇うためではない。視線の流れを変えるための位置だった。


「やめろ」


 低く言う。


 兄弟だけに向ける声だった。

 強くはない。

 けれど逆らいにくい。


 カストルは怒りのまま、横目で弟を見る。


「止めるな」

「今ここで噛みつく方が相手の得だ」


 正しい。

 正しいから、余計に腹が立つ。


「得とかどうでもいい」

「どうでもよくない」


 ポルックスの声は落ち着いていた。

 その落ち着きが、かえって兄の熱を浮かび上がらせる。


 ダミアノがその二人を見て、ふっと肩を揺らした。


「へえ」


 今度の笑みは、あからさまだった。


「兄弟で役割分担でもしてるの?」


 誰も返さない。

 だからダミアノは、もう半歩だけ踏み込んだ。


「そんなに怒るなんて思わなかった。ずいぶん短気なんだね」


 視線がカストルの身体を一度だけなぞる。


「余裕がないように見える」


 その言葉が落ちた瞬間、ポルックスの顔から、最後の温度が消えた。


 それまで彼はカストルを止める側だった。

 兄がここで噛みつけば、相手の思う壺だと分かっていたから。

 だが今、ダミアノはカストルを宥めるべき未熟な子どもとして、しかもその身体ごと軽く見た。

 そこに王家への侮りまで滲んだ。


 ポルックスは兄へ向けていた手を、静かに下ろした。


 声を荒げない。

 表情もほとんど動かない。

 なのに、その場の空気だけが一気に張りつめる。


「……余裕がないのは、どちらかな」


 言葉は小さかった。

 けれど、誰一人聞き逃さなかった。


 ダミアノの笑みが止まる。


 ポルックスは続ける。


「証拠が薄いうちにしか触れない。事故に見せる形でしか崩せない。そういうやり方を選んでおいて、まだ自分が上にいるつもりでいるなら、ずいぶん見誤ってる」


 淡々としている。

 声に怒りはほとんど乗っていない。

 だが、だからこそ怖かった。


 カストルの怒りが火なら、ポルックスのそれは刃だ。

 熱くならないまま、相手の逃げ道だけを細く削っていく。


「王家を持ち出されるのが不服なら、学園の規律だけで話してもいい」


 炎のように火を帯びた瞳が、まっすぐダミアノを射抜く。


「その場合でも、お前のやったことは同じだ」


 ダミアノが何か言おうとする。

 だがポルックスはその一拍より先に、さらに低く言った。


「次はない」


 短い一言だった。



 それだけなのに、軽く流すことができない。

 “次に同じことがあったら許さない”という類の感情的な脅しとは違う。

 次があれば、お前の逃げ道をこちらが潰す。

 そういう意味だけを、冷えたまま机上へ置くような声音だった。


 連絡通路の空気が完全に止まった。


 シャムは、息をするのを一瞬忘れた。

 カストルの怒りは見慣れている。

 だがポルックスのこういう顔は、そう多く見ない。

 静かなぶんだけ、余計に怖い。相手のどこを切ればいちばん後に残るかを、最初から見ているような目だった。


 セリノスは少し離れた位置で、その横顔を見ていた。

 茶色の瞳が、ほんのわずかに細くなる。

 驚いたのではない。

 覚えた、という顔だった。


 カストルの呼吸はまだ荒い。

 それでも、さっきまでの癇癪じみた熱は少しだけ引いた。

 ポルックスが自分をなだめたことにも、続いてあの声でダミアノを切ったことにも、苛立ちと妙な納得が同時に湧く。

 弟はそういうやり方をする。

 そういうやり方ができる。

 それが腹立たしくもあり、今は少しだけ救いでもあった。


 ズヴォルタが一歩だけ前へ出た。


「ここまでだ」


 その声は、切れた空気の縫い目へ打ち込まれる杭のようだった。

 誰も反論しない。


 教員は拾い終えた紙束を腕に抱えたまま、ダミアノとその取り巻きを見た。


「確認と記録は続ける。諸君は課題へ戻れ」


 命令口調ではない。

 だが拒む余地はない。


 ダミアノは、今度こそ笑えなかった。

 完全に折れたわけではない。

 それでも、先ほどまでの薄い余裕はもう顔に戻らない。


 踵を返し、取り巻きを連れて去っていく。

 その背へ、誰も何も言わない。

 もう十分だった。


 残された静けさの中で、カストルはようやく拳を解いた。

 爪が食い込んでいたらしく、掌に白い跡が残っている。


 ポルックスは兄を見た。

 何も言わない。

 言えば、今はまた別のところから火が噴く気がした。


 カストルもまた、何も言わない。

 ただ、喉の奥に残った熱を、まだうまく飲み下せずにいた。


 シャムはそこで初めて、小さく息を吐いた。

 胸の奥の傷が消えたわけではない。

 けれど、踏みつけられたまま終わらなかったことだけが、細く残る。


 ケラノスは鞄の口を押さえたまま、低く言った。


「……ありがとう」


 誰に向けたのか、今度ははっきりしていた。


 カストルは顔を背ける。


「別に」


 ぶっきらぼうな返しだった。

 それでも、最初の頃のように完全に突き放してはいない。


 ポルックスは何も返さず、ただケラノスの鞄へ目を落とした。


「今日はそのまま寮へ持ち帰れ」

「分かってる」


 ケラノスの声にも、もう軽さはなかった。


 課題の時間は、まだ終わっていない。

 最初のブローチも、まだ誰の胸にもない。


 それでも、この場でいくつかのものははっきりした。


 カストルは、見ているだけではいられなくなった。

 ポルックスは、静かなまま相手を切れる。

 シャムは、傷ついてもなお前へ出る。

 そしてダミアノは、自分が踏んだ線を、もう一度考え直さざるを得なくなった。


 連絡通路の窓の外では、午後の光が少しだけ傾き始めていた。

 白い壁は静かなまま、そこに立つ者たちの輪郭だけをくっきりと浮かび上がらせる。

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