2
【1】
その夜、寮へ戻る頃には、空の色はもうすっかり群青へ沈んでいた。
学園棟から寮棟までは、グラウンドをひとつ挟むぶんだけ離れている。昼はまだ広々として見えるその距離も、夕方の冷えの中を歩くと、不思議なほど長く感じられた。連絡通路を抜け、石畳の道を渡り、白い壁と高い窓を持つ寮棟へ入る。各寮の中庭は夜の光を吸い込み、昼間には見えていた整った植え込みや噴水の輪郭も、今は濃い影となって沈んでいた。
クレイスの七人部屋へ戻っても、アルケスはすぐには腰を下ろさなかった。
上着を掛け、机の上を整え、ようやく椅子へ座る。ズヴォルタはまだ戻っていない。運動部の総長としての仕事があるのか、あるいは仮寮兄としてほかの部屋を見て回っているのか、その辺りは新入生の知るところではない。だがいないと分かるだけで、部屋の空気は少しだけ弛んだ。
ケラノスは、鞄の口へ手を入れたまましばらく動かなかった。
器具を出すべきか、出さぬべきか。
迷っているのが、その背中だけで分かる。
向かいの寝台で衣をたたんでいたアルケスは、何も言わずにその様子を見ていた。出すな、と言うのは違う気がした。かといって、気をつけろと口にするのも、今は軽すぎる。結局、口を開いたのはケラノスの方だった。
「今日は、やめとく」
誰へ向けたともつかぬ声だった。
それでもアルケスは頷いた。
「その方がいい」
短い返答だったが、命令ではなかった。
ケラノスはそれを聞くと、器具の代わりに課題用の紙束を机へ置いた。
「じゃあ、こっちを見る」
笑おうとして、少しだけ笑い損ねた顔になる。
昼の件がまだ胸に残っているのだろう。けれどそれを真正面から話題にしないあたりが、彼らしかった。
部屋のほかの新入生たちも、各々の紙を広げ始めていた。課題の内情を別の組へ漏らすことはできない。だから話してよいのは、この部屋の中だけだ。しかも、同じ部屋だからといって、十七人の全体像がそのままここへ流れてくるわけではない。今日の議論で、自分が見たこと、聞いたこと、使えると感じた流れだけを持ち帰るしかない。
アルケスは机の中央へ手元の紙を寄せた。
「最初の文は、“保護”じゃなく“共同防衛”で押す」
言うと、部屋の空気が集まる。
昼の討議で決まりきらなかったものが、夜の静けさの中では少し輪郭を持ち始める。強く出れば大帝側の面目は保てるが、相手は退く。下げれば話は始まるが、最初から負けの形になる。その綱渡りの中で、共同防衛という言葉だけが、まだ折れていない。
「向こうは、宗教を表に出して切ってくるかな」
ケラノスが言った。
器具を持っている時よりもずっと低い声だった。
「いや」
アルケスは首を振る。
「最初からそれを出したら、教皇側も話を殺す」
「断罪の言葉を先に置けば、こっちが退けなくなるから?」
「そうだ」
その返答は迷わない。
相手がポルックスなら、なおさらそうする気がした。
兄弟だから分かる、というほど安易なものではない。けれどポルックスは、言葉を切っ先として振り下ろすより、逃げ道を見せながら締める方を選ぶ。そういう気質がある。子どもの頃からそうだった。表立って奪うのではなく、相手の出方を見ながら、自分に都合のいい形へ組み替えていく。
だからこそ、敵に回ると厄介だ。
アルケスはそれを口には出さず、紙の端へ新しい文言を書き足した。
その頃、別の寮棟では、ポルックスもまた同じように紙へ向かっていた。
ジェスルの七人部屋は、クレイスほど空気が尖らない。
だが柔らかいわけでもない。
誰かが一人で前へ出るより、まず全体の温度を測る癖が部屋全体にしみついている。そのせいか、議論は一度始まると長い。
「“監督権を留保する”は弱くないか」
同室の一人が言う。
ポルックスは寝台へ腰を下ろしたまま、紙を見ていた。
「強く見せたいだけなら“保有する”でいい」
「でも?」
「でも、向こうが飲まない」
喉の奥にまだ少しざらつきがある。
それでも話す時には、声はほとんど揺れなかった。
「最初から支配の語を置くと、大帝側は“保護”じゃなく“服従”として受ける。そうなったら、アルケスは退かない」
自分でその名を口にしてから、ポルックスは一瞬だけ黙った。
だが部屋の誰もそこへ余計な顔を差し挟まない。
「じゃあ、相手の面子を残したまま締める?」
「そう」
紙の上へ指を置く。
「大帝側にとって飲める条件であることと、教皇側にとって後から広げられる条件であること、その両方が要る」
同室の生徒が息をつく。
「面倒だな」
「面倒だから課題になる」
そう言った時だけ、ポルックスの口元がわずかに動いた。
笑いと呼ぶには薄い。
けれど、昼間よりは少しだけ部屋の空気がほどける。
カストルの夜は、それよりずっと固かった。
同じクレイスの仮寮でありながら、彼の部屋の空気は重い。理由の半分は課題で、半分は昼の連絡通路に残してきたものだった。
自分の組の議論は、どうにも鈍い。
前へ出たい者は多い。
だが、誰も決定打を持たない。
力で押すことができない前線ほど、カストルには苛立たしいものはなかった。
「お前、さっき何か言いかけてただろ」
同室の一人が声をかけてくる。
カストルは顔を上げない。
「別に」
「別に、じゃ分からない」
鬱陶しい。
そう思って口を開きかけた時、向かいの寝台でセリノスが静かに水差しを置いた。
「焦って言っても、たぶん今日は噛み合わないよ」
茶色の瞳が、灯りの下で静かにこちらを見る。
慰めでもなければ、諭しでもない。
ただ事実だけを置く言い方だった。
カストルは苛立ちの行き場を失い、舌打ちを飲み込む。
「……分かってる」
分かっている。
分かっていて、なお腹が立つ。
しかも昼の一件がある。
ダミアノの笑い方。
ケラノスの器具に走った不自然な明滅。
自分は気に食わないと思いながら、結局決定的には何もしなかった。あのことが、課題の苛立ちと重なって胸の底で濁っている。
セリノスはそれ以上踏み込まなかった。
ただ自分の紙へ目を落とし、しばらくしてからぽつりと言う。
「明日の朝、少し早く起こす?」
カストルは顔をしかめる。
「いらない」
「そう」
それで終わる。
だがその“そう”の静けさに、かえって気持ちが乱された。
ズヴォルタが戻ってきたのは、消灯の少し前だった。
部屋へ入るなり、視線が机の上の紙束と新入生たちの顔をひと巡りする。何も聞かない。けれど、今日それぞれが課題の中で何を持ち帰ったかまで、目だけで量ろうとしているようだった。
「灯りは時間で消える」
低い声が落ちる。
「それまでにまとめろ。寝不足の顔で明日の議論に座るな」
厳しい。
だが今夜のその厳しさは、生活だけでなく課題の中身まで含んでいるように聞こえた。
翌朝、空気はひときわ冷えていた。
雲が低く、空は白い。
学園棟へ向かう連絡通路の窓から見えるグラウンドも、朝露に濡れて鈍く光っている。
カストルが目を覚ました時、まだ起床の合図までは少しあった。寝台の脇に立つ赤い髪が、ぼんやりと視界へ入る。
「起きる?」
セリノスの声だった。
低く、静かで、押しつけがましくない。
カストルは数秒、相手の顔を見たまま動かなかった。茶色の瞳には急かす色がなく、ただ今起きた方が楽だと思っている者の色だけがある。
「……起きる」
昨日よりも少し素直な返事になってしまって、カストルは自分で少し腹が立った。だが起きてしまえば、その方が体は楽だった。眠気が残ったままだと手元が鈍り、朝の準備が遅れる。その苛立ちを、昨日リゴーレに初めて拾われたばかりだ。
今朝の手元は少しだけましだった。
制服を整える。
寝台を直す。
襟元を確かめる。
机の上を片づける。
起床の合図より先に準備が済んでいるのを見て、朝練から戻ったリゴーレはほんのわずかに目を動かした。
「今日は早いな」
声は低いままだった。
だが咎める音ではない。
「それでいい」
たったそれだけの言葉が、思いのほか胸に残る。
その頃、ケラノスは朝の支度をしながら、一度だけ鞄の奥にしまった器具へ目をやっていた。出さない。今日も出さない方がいいと、頭では分かっている。だが好きなものを自分から遠ざけるのは、思った以上に気持ちが悪かった。
朝食は、各寮の食堂でも、中央の食堂でも取れる。
カストルはしばらく迷った末に、今日も寮の食堂を選んだ。
ケラノスたちの顔を避けたかったわけではない、と言い切る自信がなかった。
ポルックスは中央の食堂へ向かう列の中で、少し離れたところにダミアノを見つけた。
相手は何食わぬ顔で取り巻きと歩いている。
だが、ケラノスがどの棟から出てくるかを知っているような視線の動かし方だけが、やはり不自然だった。
偶然ではない。
その感覚が、昨日よりさらに確かになる。
それでも今はまだ、証拠と呼べるものはない。
課題の二日目が始まる。
アルケスの大帝側は、初手の文面を携えて、教皇側との最初の対面に備え始める。
ポルックスの教皇側は、それをどう受け、どこで締めるかの組み方をさらに詰める。
シャムは教皇側の中で、言葉の“切れ味”と“残り方”を見極める役へ自然と寄っていく。
カストルは別の卓で、前へ立ちたいのにその形がまだ掴めないまま、焦燥だけを深めていく。
そして、課題の外側では、ダミアノの薄い笑みがまだ消えていなかった。
机の上の駆け引きと、机の外の悪意。
その両方が、少しずつ新入生たちの輪郭を削り出し始めていた。
最初の対面は、その日の三限のあとに置かれていた。
学園棟の一年専用自習室七部屋のうち、課題用に開けられた四部屋は、すべて同じ階の並びにある。けれど、向かい合う二組が必ずしも隣室を使うわけではない。学園側はそこまで含めて配置しているのだろう。余計な聞き耳も、偶然を装った覗き見も入り込みにくいように。
アルケスたち大帝側の組が通されたのは、区画の最も奥に近い部屋だった。
白い壁。高い窓。中央に寄せられた机。余計な装飾のない静かな空気。
部屋の中央には、すでに向かい合わせの長机が二列置かれている。片側へ大帝側、もう片側へ教皇側が座るのだと、配置だけで分かった。
アルケスは入ってすぐ、机の位置と窓の向き、扉からの距離を見た。
その視線は戦場を見る目に近い。
だがここで取るべきものは剣ではなく、最初の一文と、その声の落とし方だった。
同じ組のジェスル側の生徒が、低く言う。
「最初に文を出すのは、アルケスでいい」
異論は出なかった。
押しつけられたのではなく、自然にそこへ収まったという空気だった。
アルケスは頷いたが、すぐには座らない。
「最初の返答が予想と違った場合は、二手目を変える」
「強く来ると思う?」
「相手次第だ」
そう言ってから、アルケスは口を閉じた。
“相手”が誰であるかは、もう皆分かっている。
教皇側の組にいるのはポルックスだ。
兄弟だからといって、心が通じるわけではない。
だが、どういう時に正面から押さず、どういう時に言葉を少しずらして刺してくるか、その癖くらいは知っている。
やがて廊下の外で足音が止まった。
扉が開く。
教皇側が入ってくる。
先頭にいたのは、ポルックスではなかった。
クレイス側の大柄な新入生が、半歩だけ前へ出るようにして入室し、その後ろからジェスルの生徒たちが流れ込む。ポルックスはその中央にいた。目立とうとしているのではない。目立ちたくなくても、そこにいるだけで視線が自然に寄る位置へ立ってしまうのだ。
アルケスとポルックスの目が合う。
ただ、それだけだった。
兄弟らしい合図もない。
敵意を露わにするわけでもない。
けれど互いに、今日ここで向かい合うのが偶然ではなく、学園側の意図を帯びた配置だということだけは分かっていた。
双方が席につく。
少し遅れて、課題監督の教員が入ってくる。
白い礼装の襟元にだけ、細い金の線がある。声を張らずとも場を締める人だった。
「本日より、対面交渉の初手へ入る」
机の両側へ視線を巡らせる。
「互いの役を忘れるな。ただし、役に溺れるな」
それだけ告げると、教員は壁際へ退いた。
見ているのは答えではなく過程だと、もう一度思い出させる立ち位置だった。
静かな間が落ちる。
最初に口を開いたのは、アルケスだった。
「大帝側より、先に文面を示す」
低く落ちた声は、前日よりさらに整っていた。
怒りも焦りも乗せない。
だが弱くもない。
差し出された紙を、教皇側の前列が受け取る。
ポルックスはその文面を、受け取る者の肩越しに読んだ。
大陸秩序の維持のため、両者の軍の不干渉および共同防衛の確認を願う。
大帝側は、教皇庁の権威を侵さず、その保全へも努める。
慈悲とは書いていない。
保護とも書いていない。
だが助けを求めていることは分かる。
面子を落としきらぬまま、守りを取りに来る文だ。
ポルックスは心の中で、ひとつだけ息を吐いた。
アルケスらしい。
正面から受ける形を残しながら、引くべきところだけ引いている。
教皇側のクレイス生が、紙から顔を上げる。
「共同防衛、か。耳触りは悪くない」
声には少しだけ試す色があった。
「だが、不干渉と共同防衛は両立しにくい。どこまでを侵さず、どこからを委ねるつもりだ」
アルケスが答える前に、同組のジェスル生が一歩だけ会話へ入る。
「軍の指揮そのものではなく、防衛線の認可です」
言い方が滑らかだ。
前へ立つ者が正面を受け、その横で間に入る者が角を削る。
クレイスとジェスルの役割が、こういうところで自然に現れる。
ポルックスはそのやり取りを見ながら、指先で机の縁を一度だけなぞった。
昼の自分たちの議論が、そのまま形になっている。
そしてそれに対し、こちらが出すべき最初の返しももう決めてある。
彼は紙を受け取り、自分の前へ引き寄せた。
「教皇側から返す」
その声は、アルケスほど前へは出ない。
だが、机上の紙も人の視線も、自然にそこへ集める。
「共同防衛の必要は認める。だが、教皇庁が秩序維持の名のもとに監督権を留保することを条件とする」
“保有する”ではなく、“留保する”。
その違いが分かる者には、すぐ分かる。
アルケスの隣で、クレイス生の一人が僅かに眉を動かした。
強くはない。
だからこそ、広がる余地がある。
「監督権の範囲を示していただきたい」
アルケスは即答した。
前へ出る。
だが、挑発には乗らない。
その声を聞いて、ポルックスは胸の奥で、少しだけ冷たい納得を覚えた。
この兄は、思っていた以上に整えてきている。
「軍の配置認可、補給路の把握、境界線の防衛監査」
ポルックスが言うと、今度は大帝側の後ろで小さな空気の揺れが起きる。
それはつまり、軍そのものに触れずに、その周囲を握ることだ。
表向きは支援でも、実際には首根を押さえるに等しい。
アルケスの組のジェスル生が、すぐに返す。
「それでは干渉です」
教皇側のクレイス生が口元をゆがめる。
「干渉でなければ、監督とは呼ばないだろう」
そこで、張っていた空気が少しだけ鋭くなる。
言葉が机の上で噛み合う音が変わった。
教員は壁際から動かない。
ただ見ている。
シャムの組は、同じ時間、別室で別の相手と対面していた。
こちらも教皇側だ。だが相手はアルケスではない。
だから空気の質も違う。
ポルックスのような細い条件整理より、もっと露骨に“切るか残すか”の議論へ流れがちだった。
「破門を認めるなら、保護の余地はある」
クレイス側の生徒が言う。
「先に破門を口にしたら終わる」
シャムが返す。
「相手が折れる前に、引き返せなくなる」
部屋の数人がそちらを見る。
シャムはそれに気づいても、目を逸らさなかった。
昨日、ダミアノに触れられた痛みが、そのまま言葉の置き方へ変わっている。
「教皇側が欲しいのが服従なら、まず残すものを一つ見せた方がいい」
「残すもの?」
「名前でも、土地でも、祈りでも」
その一言で、向かいの相手組のジェスル生が目を細めた。
誰かにとっての“残されたいもの”を先に読む。
それは、ただ力で押す者には出てこない発想だった。
カストルの組では、もっと不器用なぶつかり方が続いていた。
「大帝側なら、相手に必要とされる形を示すべきだ」
「必要とされる形って何だよ」
「教皇側が守る価値だ」
言葉の往復が空転し始めるたび、カストルの苛立ちは増した。
前へ立ちたい。
だがここで必要なのは、前へ出る勢いではなく、相手の欲しがる理を先に見抜くことだ。
その食い違いが、歯噛みするほどもどかしい。
「だったらこっちが先に、教皇側にとっての損を並べればいいだろ」
低く言うと、向かいのジェスル生が顔を上げる。
「損?」
「大帝側を見捨てたら何が崩れるか、だ」
部屋が少し静まる。
粗い。
だが、ただ怒っているだけでもない。
カストル自身はその静まりに気づかず、なお険しい顔で紙を睨んでいた。
相手を喜ばせる言葉は嫌いだ。
だが相手が困る形を先に突きつけるのなら、自分にもまだ考えられる。
その頃、ケラノスはまた別の自習室で、ようやく少しだけ普段の調子を取り戻しかけていた。
課題の最中は器具を出さない。
それでも頭の片隅では、あの留め金のずれ方を何度も思い返している。
昼の小休憩で水を取りに出た時、彼は自習室区画の角で、ダミアノの取り巻きの一人がこちらを見ているのに気づいた。すぐに視線は逸らされた。
それだけだった。
だが、それだけで十分、気分は悪くなる。
戻り際、ポルックスとすれ違う。
言葉は交わさない。
けれどポルックスの視線が一度だけ鞄へ落ち、それからまた前へ戻った。
何かを知っている目だった。
知っているが、まだ言わないと決めている目でもあった。
午後の対面が終わる頃には、どの組も最初の“顔”を出し終えていた。
大帝側としてどう見せるか。
教皇側としてどこまで切るか。
それぞれの卓で、まだ結論には遠い。
けれど、相手の出方によって自分がどう動くべきか、その輪郭だけは見え始めている。
部屋から出たアルケスは、扉の前で一度だけ息を吐いた。
疲れたというより、神経が張り続けている感じだ。
ポルックスの返しは予想どおりであり、予想以上でもあった。
向こうも、こちらを分かった上で文を置いてきている。
少し遅れて、ポルックスも自分の部屋から出た。
廊下の向こうにアルケスの姿がある。
距離はある。
だが見えてしまう。
兄弟は互いに何も言わない。
言えば、そこから先が曖昧になる。
だから言わないまま、ただすれ違う。
そのすぐ後ろを、ケラノスが歩いていた。
そしてさらに遠く、柱の陰にダミアノの姿があった。
今度は笑っていなかった。
ただ、じっと見ている。
その視線の先がケラノスの鞄にあるのを見た瞬間、ポルックスの胸の内側で、冷たい線がはっきり一本に繋がった。
やはり、偶然ではない。
だが証拠はまだ足りない。
足りぬまま動けば、向こうはそれすら利用する。
ポルックスは目を逸らした。
今はまだ、拾う時ではない。
拾うなら、もっとはっきりした形になってからだ。
夕方の鐘が鳴る。
最初のブローチを懸けた課題は、まだ二日目だ。
机の上では、王も教皇もまだ仮のまま。
だが机の外では、もう誰かが誰かを足元から崩そうとしている。
その二つの流れが、少しずつ同じ場所へ寄っていく気配を、何人かはもう感じ始めていた。




