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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第二十章3

【1】


 その夜、月が出ていた。


 雲は薄く、窓の高みに切り取られた夜空は、磨いた銀の裏のように冴えている。仮寮の七人部屋へ落ちる光はわずかだったが、それでも寝台の端と、机の角と、白い壁の金の細工を、冷たく細くなぞっていた。


 消灯のあとの部屋は静かだ。

 誰かが寝返りを打つ。

 布が擦れる。

 遠く別棟のどこかで、扉の閉まる音がかすかに響く。

 それだけで、あとは七人分の呼吸が、同じ暗がりの底へ沈んでいる。


 カストルは眠れていなかった。


 仰向けのまま天井を見ている。白い漆喰の上を走る金の線は、昼の間はただ豪奢に見えるだけだったのに、夜になると妙に遠い。高く、手が届かず、見上げる者の小ささばかりを教えてくる。


 昼間の訓練で折れかけた膝の感覚が、まだ身体のどこかに残っていた。

 立てる。

 走れもする。

 けれど、立ち続けられるかとなると、途端に答えが濁る。

 その濁りを、リゴーレは容赦なく言葉にした。


 望むことと、務まることは違う。


 あの声は、夜になると余計に胸の底へ沈んだ。

 跳ね返すには、静かすぎる。

 怒鳴り返すには、正しすぎる。


 目を閉じても眠気は来ない。

 その代わり、寝台の並ぶ向こうで、誰かがそっと身を起こす気配がした。


 布がずれる。

 足音はほとんどしない。

 白い寝巻きの裾が、月の薄光をかすめて窓辺へ寄る。


 セリノスだった。


 赤い髪は昼の間ほど鮮やかには見えず、夜の中では暗い銅のように沈んでいた。細身で、同年代の中では背も低い。強く目立つ体つきではない。だが、窓辺へ立つその影は妙にすっきりとしていて、余計なものが一つもないように見えた。


 彼は窓際へ立つと、しばらく外を見た。

 そして胸元へそっと指を寄せる。

 組んだというほど大げさではない。

 ただ、祈りの形を身体が覚えている者の、静かな手つきだった。


 声はない。

 長くもない。

 月が出ている夜だけの、短い祈り。


 サブマの生徒だということを、カストルはもう知っている。けれど、そうした習わしを誰かへ見せるためでなく、自分の呼吸のように当たり前にしている者を見るのは、少し珍しかった。


 やがてセリノスは手を下ろした。

 その時、気配だけでカストルが起きていると分かったのだろう。振り向く気配があったが、驚いたふうではない。


「起こした?」


 声は低く、やわらかい。

 昼間のざわめきの中では埋もれてしまいそうな声なのに、夜の部屋では不思議とはっきり聞こえた。


 カストルはしばらく黙ってから、短く言った。


「起きてただけだ」


 刺はある。

 だが、以前のように追い払う調子でもなかった。


 セリノスはそれ以上何も言わず、窓辺から離れようとした。

 その時、カストルの枕元に置いてあった薄手の上着が、寝台の端から半ば落ちかけているのが目に入ったらしい。彼はごく自然に手を伸ばし、それを拾い上げた。


「はい」


 差し出す。

 命令でも、世話焼きでもなく、ただ落ちる前に拾ったものを渡すだけの調子だった。


 カストルは受け取らず、そのままセリノスの顔を見た。


 茶色の瞳だった。

 明るいわけでも、冷たいわけでもない。

 火を落としたあとの炭のように、静かに温度が残っている色だ。


「……お前、何で毎回そうなんだ」


 言ってから、自分でも少し妙な問いだと思った。

 何で、とは何に向けた言葉なのか。

 気にかけることか。

 踏み込みすぎないことか。

 王子扱いをしないくせに、ぞんざいにも扱わないことか。


 セリノスは上着を持ったまま、小さく首を傾げた。


「毎回?」

「手を出すくせに、出しすぎない」


 口にすると、いよいよ変な言い草だった。

 カストルは眉を寄せたが、言い直さなかった。


 セリノスは少しだけ考えるように間を置いた。

 すぐ答えるのではなく、相手の言葉がどこへ着地したいのかを測る癖があるらしかった。


「困ってるように見えたら、できることはするよ」

「命令されたわけでもないのにか」

「うん」


 あっさりしている。

 だが軽くはない。


「同じ部屋だから」


 それだけだった。


 同じ部屋だから。

 王子だからでもなく、気の毒だからでもなく。


 カストルはその言葉を胸の中で転がした。

 同じ部屋。

 そんな理由で手を貸す者がいるのかと、まだどこか信じきれない。王城の中では、誰かが近づく時にはたいてい意味があった。役目か、野心か、遠慮か、あるいは恐れ。けれど目の前の少年は、そのどれでもない顔をしている。


「……変な奴」


 ようやくそう言うと、セリノスはわずかに口元を和らげた。


「よく言われる」


 それから上着を寝台の端へきちんと置き直し、自分の寝台へ戻ろうとする。

 その背に向かって、カストルはふいに言った。


「月が出てる時だけなのか」


 セリノスが足を止める。


「何が」

「祈るの」


 窓の方を見やると、彼はようやく意味を取ったようだった。


「ああ」


 声が少しだけ低くなった。


「うん。毎晩じゃない。月が見える夜だけ」


「サブマの習わしか」

「そう。家でも、そうしてたから」


 押しつけるような言い方ではなかった。

 ただ、自分の暮らしの中にあるものを、そのまま言葉にしただけだ。


「何を祈るんだ」


 そこまで聞いてしまってから、カストルはわずかに目を細めた。

 他人の祈りの中身など、本来そう軽く尋ねるものではない気もした。

 だがセリノスは気を悪くした様子を見せず、少し考えてから答えた。


「その日が静かに終わるように、とか」

「……曖昧だな」

「そうだね」


 セリノスは笑うでもなく言った。


「でも、そういう祈りなんだと思う」


 部屋の中はまた静かになった。

 ほかの寝台からは規則正しい呼吸が聞こえる。

 誰も起きてはいないのか、それとも起きていても声を挟まないのか、もう分からない。


 カストルは受け取った上着を脇へ寄せ、ようやく横向きになった。


「……お前は」


 そこで言葉が止まる。

 何を聞きたかったのか、自分でもはっきりしない。


「敬わないんだな」


 暗がりの中で、セリノスは振り返った。


「敬ってるよ」


 その返答があまりに静かで、カストルは思わず目を上げた。


「でも、床に膝はつかない」

「……そういうのは、ここでは違うと思うから」


 少しだけ言いにくそうに、それでも目を逸らさずに言う。


「同じ部屋で暮らすなら、なおさら」


 カストルはしばらく黙っていた。

 怒るほどでもない。

 納得しきることもできない。

 けれど、その言葉が嫌ではなかった。


 外では月が雲へ半ば隠れ、窓の光が少し薄くなった。

 セリノスはもう一度だけ窓の方を見てから、自分の寝台へ戻る。


 それきり会話は続かなかった。


 だが、翌日の授業のあいだ、カストルが机の脇へ落とした筆を、セリノスは何も言わずに拾って机の端へ置いた。

 昼の移動の時、列が崩れかけたところで、彼はごく自然に半歩だけ外へずれて、カストルの通る幅を空けた。

 訓練のあと、水差しが遠い位置にあるのを見れば、音を立てずにそれを寄せた。


 大げさな親切ではない。

 助けてやっているという顔もない。

 ただ、困っていることに気づけば、その分だけ手を貸す。


 それは家臣の忠誠とは違った。

 媚びでも、腫れ物に触るような遠慮でもない。

 もっと平らで、もっと静かなものだった。


 その静けさに、カストルはまだ慣れない。

 慣れないまま、それでも完全には拒みきれなくなっていく。


 夜、寝台へ横たわると、向かいではセリノスがもう目を閉じていた。赤い髪が枕へ散り、細い肩が布の下でかすかに上下する。大きな体ではない。同年代の中でも低い方だろう。けれど、その小ささはカストルのように人の目を刺さない。ただ静かに、そこへ収まっている。


 カストルはしばらく天井を見ていた。

 白い漆喰の上を走る金の模様は、相変わらず遠い。


 望むことと、務まることは違う。

 見えているものを、見えているまま捨てるな。


 リゴーレの言葉は、まだ胸の底に重いままだった。

 けれどその重さのそばへ、昨夜よりは少し違う感触が加わっている。


 同じ部屋だから。


 それはあまりに単純で、だからこそ、今のカストルにはかえって難しかった。

 だが難しいまま、頭のどこかへ残る。


 窓の外で雲が切れ、また月が出た。

 部屋の隅がほの白くなる。

 カストルは目を閉じた。


 すぐに眠りが来たわけではない。

 それでも、胸の中のざらつきは、ほんの少しだけ昨夜より浅くなっていた。


【2】


 カストルは深く眠ってはいなかった。


 眠りは浅い。

 けれど、目が覚めたからといってすぐ身体がついてくるわけでもない。起き抜けはいつも、腕も脚もどこか重く、呼吸までまだ布団の中へ残っているような感覚がある。ぼんやりしたまま起き上がると、それだけで支度が遅れる。遅れれば、点呼までのわずかな時間がたちまち足りなくなる。入学して一週間、もう何度も同じ朝を繰り返して、それでもまだ身体の方が先に慣れきってはいなかった。


 その時、寝台のすぐ脇で、かすかな気配が止まった。


「おはよう」


 低く、やわらかい声だった。

 夜のつづきのような静かな声音で、けれど寝惚けた耳にもきちんと届く。


 カストルは薄く目を開ける。


 そこに立っていたのはセリノスだった。

 赤い髪は朝の暗がりの中ではまだくすんで見え、茶色の瞳だけが灯りの薄さを拾って静かに光っている。細身で、同年代の中でも背は低い。


「……何」


 眠気の残る喉から落ちた声は、思ったより掠れていた。


「少しだけ早いけど、起きた方が楽だと思って」


 言い方に押しつけがない。

 起きろでも、急げでもない。

 ただ、そうした方がいいと思ったから伝えに来た、という調子だった。


「きみ、起きてすぐは体が重そうだから」


 カストルは半ばまで起き上がり、そこでようやく目を細めた。

 そう見えていたのかと思うと気まずい。

 だが見られていなかったはずもない。同じ部屋で暮らしていれば、誰が朝に強く、誰が夜に遅くまで起きているかくらいは、嫌でも分かる。


「……余計な世話」


 そう言ったものの、声音には昨夜までの刺があまり残っていなかった。


 セリノスも、それを言い返しとは受け取らなかったのだろう。ほんの少しだけ口元を和らげる。


「うん。でも、起きる?」


 カストルは小さく息を吐いた。

 眠い。

 まだ寝台のぬくもりの方が勝っている。

 だが、ここで起きておけば、確かに少しはましだと分かってしまうのが悔しい。


「……起きる」


 そう言うと、セリノスはそれ以上何も足さず、自分の寝台の方へ戻った。

 起こしたからには立たせるまで付き合う、というような鬱陶しさがない。

 それがカストルにはありがたかった。


 部屋の中では、ほかの新入生たちも少しずつ起き始めていた。

 白い寝具がずれ、足音が静かに床へ落ちる。

 洗面器に水を汲む音。

 衣擦れ。

 低く抑えた挨拶。


 まだ正式な起床前だからか、誰も大きな声は出さない。七人部屋全体が、息を殺したまま朝の支度へ入っていくようだった。


 カストルは寝台から足を下ろした。

 床の冷たさが足裏へ触れて、ようやく意識が少しはっきりする。

 眠気が残ったままだと、手元が鈍い。衣の紐を結ぶだけでも半拍遅れる。だからこそ今まで、朝はいつもぎりぎりだった。誰より早く起きる必要はなくとも、誰より遅く動くとそれだけで全体から置いていかれる。


 今日の手元は、少しだけましだった。


 洗面を済ませる。

 制服を整える。

 襟を直す。

 白い上着の皺を払う。

 机の上を片づける。


 いつもとやることは同じなのに、わずかに早いだけで順番に余裕ができる。余裕ができれば、息も荒れない。息が荒れなければ、次の動きも少しだけ楽になる。そんな当たり前のことを、カストルは今朝になって初めて身体で知った。


 セリノスは自分の支度を終えると、窓際のカーテンをほんのわずかにずらした。

 夜明け前の青が、細く室内へ落ちる。

 それだけで、閉ざされていた部屋の空気が少し動いた。


「そこ、襟」


 低い声がしたので振り向くと、セリノスが自分の首元を指していた。

 カストルは無言で手をやる。確かに片側が僅かに折れている。

 苛立つほどではない。

 ただ、指摘されなければそのままだったかもしれない。


「……分かってる」

「うん」


 それだけで終わる。

 余計な笑いも、得意げな顔もない。

 カストルは襟を直しながら、こういうやり取りにはまだ慣れないと思った。命令でもなく、媚びでもなく、ただ目についたことを静かに言われるのは、妙に居心地が悪い。悪いのに、拒みきれない。


 その時、廊下の向こうで足音が止まった。


 扉が開く。


 朝練を終えたリゴーレが入ってきた。

 まだ完全に陽が昇る前だというのに、すでに額にはわずかな汗がある。着崩れは一つもなく、クレイスの色を帯びた上着の肩には夜明け前の冷気が残っていた。


 彼はまず部屋全体を見た。

 寝台。

 机。

 衣装棚。

 新入生たちの姿勢。


 その目がカストルのところで止まる。


 いつもなら、リゴーレが入ってきてからが本当の始まりだった。そこから起床の合図があり、急いで残りを整え、ぎりぎりで列へつく。それが今朝は違う。カストルはもう制服を着て、襟元も整え、寝台も直し終えている。


 リゴーレの目が、ごく僅かに動いた。


「今日は早いな」


 それだけだった。

 声は変わらず低い。

 だが初めて、そこに感心のようなものが混じった。


 カストルは一瞬、どう返せばいいのか分からなかった。

 褒められた、のか。

 少なくとも咎められてはいない。

 それだけで胸の奥に小さな熱が灯る。


「それでいい」


 短い。

 だが、確かに認めた声だった。


 セリノスは自分の机の脇でそれを聞いていたが、何も言わなかった。

 ただ、目だけがほんの少し和らいでいた。

 カストルはそれに気づいて、気づかないふりをする。


 正式な起床の合図がその直後に落ちる。


「整列」


 低い声が部屋の空気を引き締める。

 七人が一斉に動いた。

 今朝のカストルは、そこへ慌てず入れた。

 それだけのことで、足元がいつもより少しだけ確かだった。


 点呼と朝練を終えたころには、空もだいぶ明るくなっていた。


 白い息はもう薄く、窓から差す朝の光が床の金の縁を細く照らしている。ほかの部屋からも、新入生たちが次々と出てきて、食堂へ向かう列へ混じり始めていた。


 そこでふいに、カストルの足が止まる。


 朝食の場にケラノスがいる。

 アルケスもいる。

 昨日の授業の空気が、まだ胸のどこかへ残っている。

 大した騒ぎではなかったのかもしれない。けれど、自分が口を荒げたことも、ケラノスが静かに線を引いたことも、忘れたふりですぐ同じ卓へつけるほど、カストルは器用ではなかった。


 リゴーレが一度だけ振り向く。


「どうした」


 カストルは少し間を置いてから答えた。


「今日は、寮の食堂で食べる」


 学園の中央食堂だけが食事の場ではない。仮寮の期間中、棟ごとに簡易な朝食を取れるようにしてあることは、すでに知らされている。朝の導線を乱さぬためでもあり、体調を崩した者や気分の整わぬ者のためでもある。


 リゴーレは理由を問わなかった。

 ただカストルの顔を見て、一拍置いてから言う。


「遅れるな」


 それだけで済んだことに、カストルは少しだけ救われた。


 セリノスが列の後ろから近づいてくる。

 彼もまた中央の食堂へ向かうものと思っていたが、カストルの横で足を止めた。


「僕も寮の方へ行くよ」


 あまりにも自然な調子だったので、カストルは思わず眉を寄せた。


「何で」

「今日はその方が静かそうだから」


 答えはやわらかい。

 気を遣っていると見せる言い方ではない。

 だが実際には、気にかけているのだと分かる。


 カストルは少しだけ口を引き結んだ。

 来るなとも、勝手にしろとも言えない。

 結局、何も言わないまま歩き出す。


 寮の小食堂は、中央の食堂ほど大きくはなかった。

 白い壁と金の細い装飾は同じでも、置かれた卓は少なく、灯りも落ち着いている。すでに数人の新入生が来ていたが、中央の食堂のような華やかなざわめきはない。器の触れ合う音も、小さくまとまっていた。


 席につくと、ようやく胸のつかえが少しだけ下りた。


 ケラノスの顔を見ずに済んだこと。

 アルケスと同じ卓で、昨日の続きを思い出さずに済むこと。

 それが逃げであるのは分かっている。

 だが今朝は、まだ真正面から戻るには早すぎた。


 向かいに座ったセリノスは、何も言わずに盆を置く。

 赤い髪が朝の光を受けると、昨夜より少し明るく見えた。

 茶色の瞳は相変わらず静かで、急かしもしなければ、慰めもしない。


 ただ同じ卓につく。


 その沈黙が、かえってありがたかった。


 カストルは温かなスープへ手を伸ばした。

 湯気が立ち上り、朝の冷えを少しだけ押し返す。

 向こうの大食堂では今ごろ、アルケスはいつも通りまっすぐ座り、ケラノスは機械の話でもしているかもしれない。


 それを思うとまだ胸の奥がざらつく。

 だが、そのざらつきのそばに、今朝リゴーレが見せたごくわずかな感心の色が残っていた。


 今日は早いな。

 それでいい。


 その二つの短い言葉が、思いのほか長く胸に残る。


 セリノスがパンをちぎる音がした。

 外では朝の列がまだ続いている。

 カストルはスープをひと口飲み、ようやく少しだけ、肩の力を抜いた。


【3】


 仮寮の暮らしが一週間を越えた頃、朝の空気はもう、初日のそれとは少し違っていた。


 白い制服の襟を整える手つきも、寝台を直す速さも、回廊を曲がる足も、皆それぞれに学園の刻みに慣れ始めている。まだ完全ではない。


 その朝、新入生たちは講堂へ集められた。


 回廊はいつも通り、白い壁に金の細い縁取りが走り、柱には龍や蔓草の彫刻が絡み、磨かれた床が朝の光を静かに返していた。だが講堂の扉をくぐると、空気が変わる。


 そこには、回廊のような華やかな装飾はなかった。


 高い天井。

 白を基調とした静かな壁。

 余計な色を落とした講壇。

 音が過度に跳ね返らぬよう抑えられた広い空間。


 豪奢ではないわけではない。材のよさも、造りの正確さも、ひと目で分かる。だが人の目を奪うための美しさではなく、思考と集中のために整えられた静けさがあった。


 白い新入生たちが列を整えていく。

 カストルもその中にいた。


 前方の上段席には、白ではない制服の生徒たちがもう座っている。新入生ではない、とひと目で分かる。誰もあからさまにこちらを見下ろしたりはしない。けれど、見られている気配だけは確かにあった。


 カストルは思わずそちらを見た。


 ただ見る、というより、彼の目は元から人を刺すように向く。何かを測る時も、気に食わない時も、相手の奥まで覗き込むような目つきになる。


 隣でセリノスが、ほとんど口を動かさずに言った。


「少しだけ、目をやわらかく」


 カストルは眉を寄せる。


「何で」

「見すぎると、喧嘩を売ってるみたいに見える」


 声は低く、静かだった。


 カストルは舌先で息を返した。


「見ただけだ」

「うん。でも、きみは見ただけに見えにくい」


 それが妙にもっともで、なおさら腹立たしい。

 けれど前を向いてみると、上段席にいた一人がこちらから目を外したところだった。やはり見られていたのだと分かる。


 カストルは不機嫌なまま、視線を正面へ戻した。

 セリノスはそれ以上何も言わない。助けたぞという顔もせず、同じように前へ向き直る。


 やがて、壇上へ教員が進み出た。


 年嵩の男だった。


「諸君に、最初の課題を与える」


 その声は大きくない。

 けれど、講堂の隅までよく通った。


 白い列のどこかで、息がわずかに浅くなる。

 シャムは指先へ少しだけ力が入るのを感じ、アルケスは表情を動かさずに壇上を見たまま、ポルックスは喉の奥のざらつきを一度だけ飲み下した。


「この課題の過程と、その果てに見せるものに応じ、最初のブローチを授ける者が出る」


 ブローチ。


 その一語は、これまでのどんな規則よりもはっきりと、新入生たちの胸へ触れた。

 目に見える評価。

 形として残るもの。

 ただ褒められるより重い。


 だが教員はそこで間を置いた。


「ただし、正解はない」


 講堂の空気が、ごくわずかに揺れた。


「勝敗だけでもない。結論だけでもない。何を選び、何を捨て、誰とどう関わり、どのように責を負うか。学園が見るのは、そこへ至る過程だ」


 アルケスはそこで、これは模擬戦でも座学でも終わらないと悟った。

 答えではなく、選び方そのものを見られる。

 ならば出るのは結局、その人間の骨だ。


 教員が合図すると、左右の扉から上級生たちが入ってきた。

 手には細長い板札がある。


「これよりチームを編成する。クレイス仮寮の一部屋と、ジェスル仮寮の一部屋を一組とし、十四名で課題へ当たらせる」


 白い列の中で、視線がわずかに動く。


 クレイス。

 ジェスル。


 その二つの名は、学園へ入ってからまだ幾度も耳にしたわけではない。けれど、新入生たちはすでに、その響きにまとわりつく重みだけは感じ取り始めていた。


 クレイス。

 硬い名だ。

 鍵の歯を噛み合わせるような、冷えた金属の音を思わせる。

 守る者、責を負う者、前へ立つ者。学園はその名の中へ、そうした気質を押し込めているのだと、教えられずとも分かる。


実際、クレイスには代々、名だたる軍人や前線指揮官となった卒業生が多いと、仮寮へ入ってからすでに何度か耳にしていた。戦場で名を上げた者、国の防衛線を預かった者、軍の再編を成した者。そうした人間たちの名が、寮そのものの影のように今も残っているのだろう。クレイスへ置かれた新入生たちは、同じ白い制服を着ていても、どこか人の前へ立つつもりの者、あるいは立たねばならぬ者の空気が、まだ未熟なままそこにある。


 ジェスル。

 こちらは、もっと静かな名だった。


 橋を架ける者、間に立つ者、異なる立場のあいだで言葉を通す者。その役割が、声高ではなく、名の底へ沈んでいる。ジェスルもまた、代々、有名な外交官や交渉役、他国との調停で名を残した卒業生を多く出してきたと聞く。王と王のあいだへ入り、戦を避けた者。


断絶しかけた同盟を繋ぎ直した者。あるいは、一つの言葉で国の面子と現実を両立させた者。そうした者たちの名が、この寮の見えぬ背骨になっているのだろう。ジェスルへ置かれた新入生たちは、クレイスのように前へ出る形では目立たない。その代わり、人の息づかいや場の温度差を先に拾うようなところがある。白い列の中に立ちながら、視線だけがよく動いていた。


 前へ立つ者と、間に立つ者。

 押し返す者と、通す者。

 噛み合いそうでいて、実のところものの見方はかなり違う。


 ポルックスはそこで、喉の奥のざらつきとは別の意味で、浅く息を呑んだ。

 同じ気質の者同士を固めるのではない。違うものを隣へ置き、どうぶつかり、どう折れ、どう支え合うかを見ようとしているのだ。


【4】


 番号が順に呼ばれていく。


 アルケスの部屋と、シャムのいるジェスルの部屋。

 カストルの部屋と、別のジェスルの部屋。

 そしてポルックスの部屋は、さらに別のクレイス部屋と組まれた。


 アルケスは一度だけ講堂の向こう側を見た。

 ポルックスがいる。

 互いに視線が触れたのは、ほんの一瞬だった。


 同じ課題の中にいる。

 だが同じ卓ではない。


 それを、次の札がさらに鮮やかにした。


「諸君には、役を与える」


 板札が組ごとに渡される。


「ある組は大帝側。ある組は教皇側」


 ごく小さなざわめきが走った。


 ただの討論ではない。

 ただの歴史のなぞりでもない。

 もっと古く、もっと重い。正統と断絶、保護と廃位に触れる役だと、その名だけで分かる。


 アルケスたちの組へ渡された札には、大帝側とあった。


 今は亡き、大陸統一を成し遂げた大帝の側。

 だが今やその足場は揺らぎ、教皇側からどうにか軍事的保護を取りつけねば立ちゆかぬ側。


 一方、講堂の反対側、ポルックスたちの組へ渡された札には、教皇側。


 宗教的に相容れぬ大帝側を破門し、廃位した後、新たな統一の正統を自らの手へ引き寄せようとする側。


 ポルックスは札を受け取った時、胸の奥がかすかに冷えるのを感じた。


 大帝側にアルケス。

 教皇側に自分。


 偶然とも言える。


血と責と立場が濃い者ほど、役の中で自分を見失えない。


 シャムは自分の手の中の札を見た。


 大帝側。


 守りを求める側。

 正統を持ちながら、それだけでは立ちゆかぬ側。

 その立場は妙に胸へ触れてきた。認められなかった者が、認めを求める。その脆さを、彼はもう知っている。


 教員は新入生たちの顔を見渡し、淡々と続けた。


「大帝側の課題は、教皇側から軍事的保護を獲得すること。ただし宗教的譲歩は無制限にはできない。従属と見えてもならぬ」


 そこでごく短く間を置く。


「教皇側の課題は、大帝側を破門、廃位した後、自らの正統を立てて統一を成すこと。ただし民心の離反と軍事的不安定を避けよ」


 難しい、と思うより先に、重いと感じる課題だった。

 どちらにも理がある。

 どちらにも無理がある。

 そしてどちらも、ただ一つの正しさだけでは進めない。


「勝つことより、どう進めるかを見る」


 最後にそう告げられると、講堂に漂っていたわずかなざわめきも沈んだ。


 解散の指示が出ると、新入生たちは組ごとに別室へ移された。


 白い廊下は静かだった。

 食堂や回廊にあった華やかな装飾はここにはない。高い壁と整った床、よく通る足音だけがある。考える場所へ向かう道筋には、余計なものを置かない――学園のそういう趣味が、こういうところではっきり出る。


 アルケスたち大帝側の部屋もまた、静かだった。


 広さはある。

 だが目を奪うものは何もない。机が並べ替えられ、十四人が顔を合わせられるよう中央へ寄せられているだけだ。白い壁、高い窓、整った椅子。議論のためにだけ整えられた部屋だった。


 クレイスの新入生たちは、入るなりまず位置を測る。

 どこへ座れば全体が見えるか。

 どこなら声が通るか。

 前へ出る者の目だ。


 ジェスルの新入生たちは、座る前にまず人を見る。

 誰がすぐ話し始めるか。

 誰が譲らないか。

 どこで割って入るべきか。


 アルケスは札を机へ置いた。


「まず、条件を読む」


 命令口調ではない。

 けれど自然に、その声の方へ人の意識が寄る。


 一方、別室へ入ったポルックスとシャムの教皇側も、同じように静かな部屋へ通されていた。


 白い壁。

 高い窓。

 音のよく通る空気。

 だが置かれた札が違うだけで、部屋の温度まで少し変わって思える。


 ポルックスは紙へ手を置いた。

 シャムはまだ、教皇側という役の重さを胸の奥へ置ききれていない。

 けれど、始まった以上は考えなければならない。


 しばらくは、誰もすぐには喋らなかった。

 文章が短いぶん、そこへ込められているものが重い。軍事的保護を求めよ。従属に見えてはならない。宗教的譲歩は無制限にはできない。たったそれだけの行で、相手へ頭を下げろと言っているのか、頭を下げるなと言っているのか分からなくなる。


 最初に口を開いたのは、ジェスル側の一人だった。


「保護を求めるなら、見返りが要る」


 細い声だったが、よく通る。


「当然だ」


 クレイス側がすぐに返す。


「だが、譲りすぎれば終わる」


「譲らなければ始まらない」


 言葉がぶつかる。

 机の上の紙は一枚なのに、そこから見ている景色がすでに違う。


 アルケスは腕を組まず、机へ手もつかず、ただ立ったまま皆の声を聞いていた。すぐに押さえつける必要はない。どこで話が割れ、どこで拾えるかを見ている。


 シャムはいない。

 ポルックスもいない。

 その不在が、かえって部屋の空気を研がせている気がした。


 カストルもまた、別室でまったく違う空気の中にいた。


 彼の組も大帝側だった。

 だがそこには、アルケスのように自然に人の視線を集める者はいない。だからなのか、誰もが少しずつ前へ出たがり、少しずつ噛み合わなかった。


「教皇側が欲しいものを先に決めるべきだ」


 ジェスル側の生徒が言う。


「欲しいものなんて決まってるだろ。従わせたいんだよ」


 クレイス側の一人が返す。


「従わせるだけなら保護なんて名目はいらない」

「名目が要るから面倒なんだろ」


 机の向こうで、細い笑いもなく言葉だけが刺さる。


 カストルは紙を睨んでいた。

 大帝側。

 それ自体は気に食っている。自分が教皇側へ置かれていたら、その時点でもっと腹が立っていたはずだ。だが、前へ立つとはつまり剣を抜くことではないのだと、この課題は最初から突きつけてくる。


 言葉で前へ出る。

 譲歩を選ぶ。

 守るために下がる。

 そういう立ち回りは、気に食わないわけではない。ただ、どうにも身体へ馴染まなかった。


「脅しは駄目なのか」


 カストルが低く言うと、向かいにいたジェスル側の少年が顔を上げた。


「脅しだけでいける相手なら、この課題にならない」


 その返しは正しい。

 だからこそ腹が立つ。


 カストルは椅子へ背を預けず、机の縁を指で叩いた。小さな音だったが、静かな部屋では妙に耳についた。


 一方、教皇側の部屋では、ポルックスが紙の上へ視線を落としていた。


 シャムは向かいに座っている。

 同じ組だという事実が、まだ少し落ち着かない。

 食堂や回廊で顔を合わせるのとは違う。今は同じ側で、同じ理屈を組み立てなければならない。


「破門を先に置きすぎると、相手に退く余地がなくなる」


 ポルックスが言う。


 最初の言葉としては冷たい。

 だが、誰かを押しのけるための冷たさではない。条件の骨だけを先に机へ置くような声だった。


 クレイス側の生徒が眉をひそめる。


「こちらが上なんだろう」

「上でも、追い詰めすぎれば交渉にならない」


 ポルックスは顔を上げた。喉の奥にはまだ少しだけざらつきが残っている。だが話すべき時に、その違和感は前へ出てこない。


「教皇側が本当に欲しいのは何だ。大帝側を潰すことか、それとも従わせたまま秩序の下へ入れることか」


 紙の上の言葉が、少しずつ形を変える。

 破門。

 廃位。

 統一。

 どれも強い語だ。けれど強い語ほど、そのまま振り回せば空疎になる。


 シャムはしばらく黙っていた。

 教皇側。

 誰かを認めず、切り離す側。

 その役回りは、まだ胸の奥へ収まりきらない。


「切るだけなら、簡単なんだよな」


 ぽつりと落ちた声に、何人かがそちらを見る。


 シャムは自分でも、なぜ口にしたのか分からなかった。

 ただ、頭より先に出た。


「でも切ったあと、残る方が面倒だ」


 教皇側の紙の上に置かれた指先が、わずかに動く。

 切ることそのものは権威でできる。

 だが、切られた者の側にまだ人も兵も土地もあるなら、それで終わりではない。


 ポルックスはシャムを見た。

 整った理屈ではない。

 けれど、机上だけで作った言葉とも違う。


「なら、教皇側は罰だけじゃ足りない」


 ポルックスが静かに継ぐ。


「残す秩序を先に示さないと」


 向かいのクレイス側が、ようやく腕を組むのをやめた。

 言い負かされたからではない。

 話が“勝つか負けるか”から、“どう成り立たせるか”へ少し動いたのだ。


 昼前の休憩が挟まった。


 白い廊下へ出ると、教室の静けさから解かれた声が、ようやくあちこちに戻ってくる。とはいえ食堂ほど賑やかにはならない。課題が始まったばかりの新入生たちは、皆まだ自分の言葉の置き場を探している。


 ケラノスは回廊の窓際にいた。


 小型の龍脈器具を手にしている。蓋を開くと、内側で薄い青い光が輪のように巡る。こういう静かな時間になると、彼はついそれへ手を伸ばしてしまうらしい。好きなものは、好きなまま指先へ戻ってくるのだろう。


「またそれか」


 声がして、ケラノスが顔を上げた。


 どこかの良い家の子息と、その取り巻きだった。

 笑い方だけが薄い。


「今度は何を壊す気だ」

「壊さないよ」


 ケラノスは軽く返した。


 だがその瞬間、器具の光がぴしりと小さく弾けた。


「……あれ?」


 青い輪が一瞬だけ強く明滅し、ついで不自然な熱を持つ。

 ケラノスは反射的に指を離した。金属の縁が窓際の石へ当たり、甲高い音が鳴る。


 その拍子に、脇へ置いていた紙束が床へ散った。

 切り傷にもならぬほど小さな擦れが、指先へ一筋だけ走る。


「危ないな」


 侯爵子息の口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「そういうものを授業の合間にいじるからだろ」


 ケラノスは器具を拾い上げた。

 おかしい。

 さっきまでこんな反応はしていなかった。

 だがそれをどう言えばいいのか分からないうちに、取り巻きの一人が肩をすくめる。


「許可があっても、不注意なら意味がないよな」


 通りすがりの生徒たちは足を止めない。

 けれど、目だけは向く。


 少し離れたところで、それを見ていたのはカストルだった。


 回廊の柱へ寄りかかるように立ち、何も言わずに見ている。

 姑息だと思った。

 真っ向から壊すでも、奪うでもない。誤作動を起こさせ、不注意に見せ、本人のせいのように整える。そういうやり方がひどく気に食わない。


 けれど足は動かない。


 ケラノスを助けたいわけではない。

 好きでもない。

 正義を気取って前へ出るのも違う。

 ただ、嫌なやり口だと思うだけだ。


 その近くを、ポルックスが通りかかった。

 彼は一度だけ小さな輪へ目を向け、器具の青い光がまだ不自然に揺れているのを見た。

 だが今は課題の途中で、自分たちの側もまだ形になりきっていない。しかも狙われているのは兄弟ではない。


 だから立ち止まらない。


 ただ、侯爵子息の笑い方だけは覚えておいた。


 アルケスはその場にいなかった。

 大帝側の部屋で、紙の上へいくつもの譲歩案と拒否線を書き出していた。譲っていいものと、譲れば終わるもの。その境目を探るのに、思った以上に時間がかかっている。


 シャムは別の回廊から、その場へ偶然近づきつつあった。


 ケラノスは器具を握り直し、何か言い返そうとしていた。

 だが、青い光がもう一度だけ不自然に弾ける。


 その小さな明滅を見た瞬間、シャムの足が止まった。


 何かが、少しずつ嫌な方へ動き始めている。

 そう感じるには十分だった。


 シャムの足は、考えるより先に動いていた。


「触るな」


 声が出たのは、ケラノスの手から器具を取り上げようとした取り巻きの指先が見えたからだった。勢いのまま間へ割り込み、散った紙束を拾い寄せる。白い紙の端が指に当たり、乾いた音を立てた。


 侯爵子息が、ゆっくりとこちらを見た。


 年の頃は同じだ。だが、身のこなしにだけ妙に余裕がある。濃い亜麻色の髪を後ろへ流し、笑う時だけ口元が薄く歪む。


コメルシオの侯爵家の子、ダミアノ――講堂で名が呼ばれた時、周りがわずかにざわめいたので覚えていた。


「へえ」


 ダミアノは目を細めた。


「きみが入るのか」


 シャムは返事をしなかった。拾い集めた紙束をケラノスへ押し返す。ケラノスの指先は、よく見れば少し赤くなっていた。熱を持った金具に触れた跡だろう。


 器具の内側では、まだ青い光が不安定に揺れている。

 シャムはそれを見て、胸の奥がざわついた。


 最初の明滅だけなら、偶然かもしれない。

 けれど、さっき回廊を曲がる前に、シャムは見ていた。


 ダミアノが笑いながら「見せて」と言って、ケラノスの器具を一度手に取ったのを。

 感心したふうな顔をしながら、親指の爪で蓋の蝶番の脇をなぞり、侯爵家の印章を嵌めた指輪の縁で、器具の側面をひどく自然に押したのを。


 何をしたのかまでは分からない。

 だが、ただ眺める手つきではなかった。

 返されたあとの器具は、ケラノスがまだ何も触っていないうちから、薄く熱を持っていた。


 そして今、二度目の明滅が起きた。


 偶然にしては、出来すぎている。


「さっき触っただろ」


 シャムはまっすぐにダミアノを見た。


「何かしたんじゃないのか」


 回廊の空気が、ぴたりと止まる。


 ケラノスが息を詰めたのが分かった。

 取り巻きたちのうち一人が、わざとらしく眉を上げる。


「証拠があるのか?」

「見た」


 シャムは短く言った。


「返す前に、そこを押してた」


 ダミアノは笑わなかった。

 代わりに、ほんの少しだけ顎を傾ける。


「そこ?」


「蝶番の横だ」


 ケラノスが器具を裏返す。

 側面の細い金具が、ほんの僅かずれていた。普段から使っている者でなければ見落とすほどの差だ。けれど本人には分かったのだろう、顔色が変わる。


「……安全留めが、半端に外れてる」


 声が低くなる。

 侯爵子息の取り巻きが、すぐに口を挟んだ。


「自分でいじっただけじゃないのか」

「違う」


 今度はケラノスがはっきり言った。


「ここ、使う時は最後にしか触らない。さっきは閉じたままだった」


 シャムはそこでようやく、胸の奥のざわつきの形が少し定まるのを感じた。

 やはり偶然ではない。

 詳しい仕組みは分からなくても、ダミアノが触ったあとにだけ異常が出ている。しかも本人の不注意に見えるような、いやらしい崩れ方だ。


 ダミアノはそれでも慌てなかった。


「面白いね」


 低く、よく通る声だった。


「僕が壊したって言いたいのか」


 シャムは一歩も引かなかった。


「壊したかどうかは知らない。でも、何かした」


「知らないのに言うんだ」


 そこでようやく、ダミアノの口元にあの薄い笑みが戻る。


「さすがだな。最近まで王族に数えられていなかった子は、飛び込むのが早い」


 言葉が、皮膚へ直接触れるみたいに冷たかった。


 回廊の空気が、もう一度変わる。

 取り巻きたちの視線が、一斉にシャムへ向く。

 好奇でも、驚きでもない。もっと湿ったものだ。


「血が繋がっていれば、それで王子になれると思ってた?」

「言い過ぎだろ」


 ケラノスが低く言った。

 だがダミアノはそちらを見もしない。


「だって本当じゃないか。つい最近まで城の外側だったんだろう? そういう子は、誰かを庇えば自分の居場所が固まると思いがちだ」


 シャムは何も言えなかった。


 腹が立たないわけではない。

 けれど怒りより先に、胸の奥の深いところを指で抉られたみたいな感覚が来た。

 知っている。

 そんなことは自分がいちばん知っている。

 最近まで王族として認められていなかったことも、今なお完全に同じ顔では見られていないことも。


 だからこそ、言い返す言葉が喉で止まる。


 その沈黙を、ダミアノは肯定と取ったのかもしれなかった。


「まあいい」


 彼は肩をすくめる。


「でも、ものを持ち歩くなら気をつけた方がいいよ、ケラノス。次はその程度じゃ済まないかもしれない」


 その言い方が、ただの忠告でないことは誰にでも分かった。


 シャムが息を吸う。

 何か言わなければと思う。

 けれどその前に、別の声が落ちた。


「脅してるように聞こえる」


 カストルだった。


 いつの間にか、柱際から一歩だけこちらへ寄っていた。

 前へ出るわけでもない。

 庇う位置にも立たない。

 ただ、あまりに気に食わぬものを見た時だけ出る、あの冷えた声で言う。


 ダミアノが初めて、はっきりとカストルを見た。


「そう聞こえた?」

「聞こえた」


 短い。

 それだけなのに、回廊の温度がさらに下がる。


 だがカストルは、それ以上進まない。

 助けるわけでも、掴みかかるわけでもない。

 ただ線だけを引いた。


 ポルックスも少し離れた場所で立ち止まっていた。

 彼は何も言わない。

 けれど、ダミアノが器具の不具合より先に、シャムの出自へ話を滑らせたことだけは見逃さなかった。

 関係ないように見えて、関係がある。

 そこを突いてくる人間は、偶然より先に意図を持っている。


 ダミアノは数拍の沈黙ののち、薄く笑った。


「気をつけるよ」


 そう言って踵を返す。

 取り巻きたちも後に続いた。

 だが去り際、一人がわざとらしく言った。


「玩具は大事にしろよ」


 足音が遠ざかる。


 残ったのは、まだ熱を引ききらない器具と、紙束の角で赤くなったケラノスの指先、それから妙に冷えた回廊の空気だった。


 ケラノスはしばらく器具を見つめていた。

 それからようやく、息を吐く。


「ありがとう」


 誰に向けたのか、一瞬分からないくらい小さな声だった。

 たぶんシャムへだろう。

 それでもシャムは、すぐには返せなかった。


 胸の中でさっきの言葉がまだ棘のように残っている。

 最近まで王族に数えられていなかった子。

 それは否定できない。

 できないから痛い。


「……別に」


 ようやくそれだけ言うと、声が思ったより硬かった。


 ケラノスはそれ以上何も尋ねなかった。

 ただ器具の留め金を親指でそっと戻し、青い光が安定するまで見つめていた。


「さっき、あいつに渡した時までは、ちゃんとしてた」


 シャムは頷く。


「見た」

「だよな」


 そこで初めて、ケラノスの口元に力のない笑いが浮いた。


「こういうの、いちばん面倒なんだよ。壊された方がまだましだ」


 完全に壊されれば、壊されたと分かる。

 だがこれは違う。

 使った本人の不注意に見えるよう、半端に崩される。

 そのいやらしさが、ようやく回廊の皆にも伝わり始めていた。


 カストルはそれを聞きながらも、なお柱の近くから動かない。

 助けたわけではない。

 その自覚はある。

 けれど、さっきのやり取りを黙って見ていたことも、胸のどこかへ重く残った。


 ポルックスは静かに視線を落とす。

 器具の安全留め。

 ダミアノが触った位置。

 そのあとに起きた二度の明滅。

 偶然と片づけるには、筋が通りすぎている。


 向こうの廊下では、次の課題へ戻る足音がもう鳴り始めていた。


 最初のブローチ。

 正解のない課題。

 見られるのは過程だと、さっき講堂で告げられた。


 ならば、今ここで露わになったものもまた、過程のうちなのかもしれなかった。


 シャムは拳を開いた。

 紙束の角で浅くついた傷が、掌に細く残っている。


 痛みは大したことがない。

 けれど、その細い赤い筋だけが、今の一件が夢ではなかったのだと教えていた。


【6】


 教室へ戻る道すがら、誰もすぐには口を開かなかった。


 連絡通路は長く、昼の光を細く通していた。高窓から落ちる明るさは白い壁の上をすべり、足もとの石を淡く照らしている。食堂や玄関広間のような華やかな装飾はここにはない。だからこそ、靴音だけが妙に耳についた。


 シャムは歩きながら、一度だけ掌を見た。

 紙の角でついた細い傷は、もう血も浮いていない。けれど、さっき浴びせられた言葉の方は、まだ胸の内側へ熱を残していた。


 最近まで王族として認められていなかった。


 そんなことは、自分がいちばん知っている。

 知っているからこそ、正面から言われると、何も返せない。怒るより先に、足場を一枚剥がされたような気持ちになる。


 少し前を、ケラノスが歩いていた。器具はもう鞄へしまってある。肩越しに見える横顔は、いつもより黙っている。軽い者ほど、黙り込んだ時の静けさが際立つものだと、シャムは今さらのように思った。


 ふいに、ケラノスが足を緩めた。


「……さっき」


 声は低かった。

 振り返りはしない。


「助かった」


 それだけ言うと、また前を向く。


 シャムは返事をするまでに少し時間がかかった。

 喉の奥で何かがつかえている。


「別に」


 ようやく出たのは、それだけだった。

 自分でも愛想のない言い方だと思う。だが、それ以上を口にすると、今は何か別のものまで崩れそうだった。


 ケラノスは小さく笑った。

 いつものような明るさはない。けれど、無理に軽くしようとしている感じもなかった。


「うん。でも、助かった」


 それで終わる。

 続けて何かを聞いてくることも、礼を重ねることもない。その引き方が、かえってありがたかった。


 少し後ろでは、カストルが同じ速さで歩いていた。


 近づきすぎず、遠すぎず、曖昧な距離を保ったまま。

 助けるつもりはなかった。

 かといって、完全に他人事として切り捨てるには、あのやり方が気に食わなかった。

 そのどっちつかずが、そのまま歩幅に出ているようだった。


 セリノスが、いつの間にかその隣へ並んでいた。


 赤い髪は昼の明るさの下では夜よりもはっきり見える。細身で、同年代の中では背も高くない。けれど、気配は軽くない。茶色の瞳が一度だけカストルの横顔を見て、すぐ前へ戻る。


「気分悪いね」


 静かな声だった。

 問いかけではない。


 カストルは顔を向けない。


「見てたのか」

「見えてた」


 それだけで、セリノスは黙る。

 慰めもしない。正しいことも言わない。

 ただ、自分が見ていたとだけ残す。


 カストルは小さく舌を打ちかけ、飲み込んだ。

 こういう時、その静けさがかえって厄介だった。怒るほど押してこないくせに、見透かしたように隣へいる。

 

白い制服が行き交っていても、誰が課題組で、誰がそうでないかは、立ち止まり方や紙束の抱え方でなんとなく分かる。


 アルケスは、自分の組が使う部屋の前で足を止めた。


 同じ廊下の、二つ向こうの扉の前に、ポルックスたちの組が集まっている。

 距離は近い。

 声を張れば届くくらいには近い。

 けれど、その近さには意味がない。今ここで交わしていいのは視線だけで、課題に関わる言葉は一つも許されない。


 アルケスはただ一度だけ、弟の方を見た。

 ポルックスもその気配に気づく。

 ほんの一拍、目が合う。


 それで終わりだった。


 扉が別々に開く。

 別々に閉まる。

 同じ学園の同じ階にいながら、そこから先はもう違う陣営の内側だ。


 アルケスの組の部屋は、やはり静かだった。


 白い壁。

 高い窓。

 机と椅子。

 余計なものは何もない。考えるためだけに整えられた部屋だった。


 アルケスは席につく前に、机上の紙束を中央へ寄せた。


「最初の文言を決める」


 短い声だった。

 それだけで、散りかけていた意識が机へ集まる。


 大帝側として、何を最初に差し出すのか。

 守ってほしいと露骨に言えば軽い。

 かといって強く出れば、保護など得られない。

 その綱渡りを、言葉の最初の一行で始めなければならない。


「秩序のため、から入るべきだ」


 ジェスル側の生徒が言う。


「信仰じゃなく?」

「信仰を先に出したら、向こうも信仰で切ってくる」


 アルケスは黙って聞いていた。

 聞きながら、紙の余白へいくつかの語を書き、すぐに二つを消す。


「『慈悲』は使わない」


 低く言う。


 向かいにいた生徒が顔を上げる。


「弱く見える?」

「弱いというより、上下が決まりすぎる」


 アルケスの指先が、消した語の跡を軽くなぞる。


「保護を求める側でも、最初から施しを受ける顔にはならない方がいい」


 そこで部屋の空気が少し変わる。

 ただ守りを乞うのではない。

 大帝側としての骨を残したまま差し出せるものを探す。

 その方向が、ようやく皆の中で一つになる。


 一方、ポルックスの部屋では、同じ静けさが別の形を取っていた。


 教皇側の紙は、見れば見るほど乾いている。

 断つ。廃す。統べる。

 どの言葉も強い。だが強いまま口にすれば、相手は退くどころか砕ける。


 ポルックスは紙の端へ指を置いたまま、向かいのクレイス側を見た。


「最初に破門を突きつけるのは後だ」


 その一言で、部屋のざわめきが止まる。


「後?」

「先に出したら、相手が引き返せなくなる」


 クレイス側の生徒が椅子へ深くもたれる。


「それが狙いだろう」

「違う」


 ポルックスは短く言った。


「こちらが欲しいのは、逃げ場を失って暴れる相手じゃない。教皇側の秩序の中に、自分から入らざるを得ない相手だ」


 シャムの組とは別だ。

 だから今ここに、あの言葉の生々しさはない。

 その代わり、ポルックスの言葉は冷えていて、組み立てがよく見える。


 クレイス側の一人が眉をひそめたまま問う。


「じゃあ、何を先に出す」

「安定」


 ポルックスは答える。


「破門は裏にある。表に出すのは、混乱を収めるための保護と秩序だ」


 ジェスル側の生徒が小さく頷く。

 クレイス側も、完全には否定しきれない顔になる。

 柔らかいからではない。

 使えるからだ。


 シャムの組では、まだ議論の足が揃いきらなかった。


 教皇側の札が重い。

 その重さが、部屋の誰の胸にも少しずつ違う形で乗っている。


「切るだけなら簡単だ」


 シャムは、自分の前の紙を見ながら言った。


 部屋の視線が寄る。


「でも、切ったあとに残るものまで考えないと、統一なんて残らない」


 誰かが息をつく。

 誰かが椅子の背を直す。

 言葉そのものは粗い。けれど、その粗さの中に、机上だけで作った理屈ではない重みがある。


「向こうにとって、最初の一言が“拒絶”に聞こえたら終わる」


 そこまで言って、シャムは自分で少し驚いた。

 胸に残っていた痛みが、そのまま別の言葉になって机へ落ちた気がしたからだ。


 午後の半ば、再び短い休憩が入る。


 今度は、誰もすぐには外へ出なかった。

 課題が一度動き始めると、その流れを切るのが惜しくなる。

 それでも、水を取りに立つ者や、窓際へ寄る者はいる。


 ケラノスは自習室区画の外れにある水差しの台へ向かっていた。

 器具はもう鞄の奥へしまったままだ。

 それでも、ダミアノたちの姿がどこかにないか、無意識に目が探してしまう。


「もう、今日は出さない方がいい」


 低い声がして振り向くと、カストルだった。


 意外だったのか、ケラノスの目が少しだけ開く。


「心配してくれるの」

「違う」


 返しは鋭い。

 けれど、そこで終わらない。


「今あれをまた出したら、あいつらは喜ぶ」


 ケラノスは一拍置き、それから小さく息を吐いた。


「……それは、そうだな」


 素直に返されると、カストルの方が少し不機嫌そうになる。

 助けたわけではない。

 庇ったつもりもない。

 ただ、気に食わないものに気に食わないと言っただけだ。

 それでも、言葉にしてしまえば少しだけ自分の立場が変わる。


 セリノスが少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。

 何も言わない。

 ただ、目元だけがわずかに和らいでいる。


 連絡通路の向こうでは、ダミアノの姿は見えなかった。

 だがいないからといって、あの笑い方が消えるわけではない。

 ポルックスもまた、水を取りに出たふりで外へ目をやり、戻る時には何も言わなかった。

 けれど、器具に触れた指の位置と、その後の不具合の出方だけは、頭のどこかへきっちり残している。


 最初のブローチを懸けた課題は続いていく。


 机の上では、誰もまだ勝っていない。

 同時に、誰もまだ負けてもいない。


 だが、机の外側ではすでに、小さな悪意が一度かたちを取った。

 それを見た者も、見なかったふりをした者もいる。

 腹を立てた者も、胸を刺された者もいる。


 窓の外では、陽が少しずつ傾き始めていた。

 白い壁は静かなまま、机の上の紙だけを明るくしている。


 その日の最後の討議が始まる頃には、窓の外の光ももう柔らかくなっていた。


 白い壁へ斜めに差す陽が、机の端を細く照らしている。静かな部屋は、時間が経つほどむしろ音を立てなくなった。疲れてきたからではない。言葉を一つ置くだけで、次に動く駒が変わると、皆が少しずつ知り始めたからだ。


 アルケスの組では、ようやく最初に教皇側へ差し出す文面の骨が見えつつあった。


「軍事的保護を求める、とは書かない方がいい」


 ジェスル側の生徒が言う。


「だが、欲しいものを隠しすぎても通じない」


 クレイス側が返す。


 アルケスは紙へ目を落としたまま、低く言った。


「“大陸の秩序維持のため、両者の軍の不干渉と共同防衛の確認を願う”」


 何人かが顔を上げる。

 保護とは書かない。

 だが守りを求めていることは分かる。

 しかも“共同防衛”と置くことで、一方的に庇われる顔を避けている。


「弱くない」


 クレイス側の一人が呟く。


「でも高すぎもしない」

「相手が教皇側なら、まずはこれで十分だ」


 アルケスはそこで初めて、机の上の紙を皆の方へ少し押し出した。


「最初から膝をつく必要はない。だが、剣を抜く顔も違う」


 その言い方に、部屋の空気がようやく一つに寄る。

 前へ立つ者の声だ。

 強いだけではない。場に合う強さを選ぶ声だった。


 一方、ポルックスの組でも、教皇側として相手へ返す最初の条件が形になりかけていた。


「破門の言葉は、二枚目に回す」


 ポルックスが言う。


 紙の上には、すでに二通りの文面が並んでいる。

 一つは表向き。

 一つは、相手が退かぬ場合にのみ切るための文。


「最初に出すのは“秩序の保証”。その代わり、教皇側の監督権を認めさせる」


「監督権?」


 クレイス側の生徒が眉を寄せる。


「曖昧すぎないか」

「曖昧でいい」


 ポルックスは顔を上げた。


「曖昧な方が、相手は受ける。受けたあとで広げられる」


 乾いた言い方だった。

 けれど、その乾き方が奇妙に教皇側の札と似合う。


 向かいにいたジェスル側の生徒が、紙の上へ指を置く。


「じゃあ、最初の文はこうか。“大陸秩序の維持を第一とし、教皇庁は大帝側の軍事安定に関する監督権を保有する”」

「保有する、は強い」


 ポルックスがすぐに返す。


「“留保する”に変えた方が、相手は乗りやすい」


 細い修正だ。

 だが、その細さの中に噛み方の違いがある。

 ポルックスは言葉の角を、ただ丸めるためではなく、通すために削っていた。


 シャムの組では、議論がまだ少し荒かった。


 同じ教皇側でも、部屋が違えば気質も違う。

 こちらの組は、破門と廃位の語が前へ出がちで、どうしても力で押し切る流れになりやすい。


「教皇側なんだから、切る側だろ」

「切ったあとを考えないと」


「切ったあとなんて、従わせればいい」

「それで従うなら、こんな課題になってない」


 シャムはその応酬を聞きながら、机の上の文字をじっと見ていた。

 破門。

 廃位。

 その字面だけが、妙に冷たい。


 ふいに、向かいのクレイス側の生徒が言った。


「お前はどう思う」


 シャムが顔を上げる。

 自分へ向けられた問いだと、一拍遅れて分かる。


「教皇側なら、最初にどこを突く」


 しばらく黙ってから、シャムは答えた。


「相手が守りたいものを先に知る」


 部屋が静まる。


「土地か、兵か、名前か。どれを守りたがるかで、切り方が変わる」


 それは綺麗な理屈ではなかった。

 けれど、人が本当に失いたくないものを奪う時、ただ正しさを掲げるだけでは足りないと、彼は感覚として知っている。


「全部奪うんじゃなくて、一つだけ残す」


 誰かが低く訊く。


「残す?」

「残したものがあると、自分から折れたって思いやすいから」


 その言葉は、部屋の誰よりシャム自身の胸へ重く落ちた。

 何か一つでも残るなら、人は全部奪われたとは思わずに済む。

 それは救いでもあり、残酷でもある。


 夕刻の鐘が鳴ったのは、その少し後だった。


 長いようで短い初日だった。

 課題はまだ始まったばかりなのに、どの組の空気にも、もう一日ぶんの疲れが沈んでいる。

 紙を閉じる音。

 椅子を引く音。

 誰も大きくは喋らない。


 自習室の外へ出ると、廊下の先でほかの組の扉も順に開いていた。

 同じ区画にいる以上、顔は見える。

 だがそれだけだ。


 アルケスが部屋から出る。

 少し遅れて、ポルックスも出てくる。

 目が合う。

 互いに今日、自分がどこまで行けたのかを測るような視線だった。けれどそこに言葉は乗らない。乗せてしまえば、それだけで境が揺らぐ。


 カストルも、別の扉から出てきた。

 顔色は朝より悪い。

 討議で疲れたというより、思うように前へ出られなかった苛立ちがそのまま残っている。


 その隣へ、セリノスが自然に並んだ。

 何も言わない。

 ただ歩幅だけを合わせる。


 少し前では、ケラノスが鞄の口を押さえながら歩いていた。

 器具の件が頭から離れないのだろう。普段の軽さが影を潜めている。


 シャムはその背を見た。

 夕方の光の中で、あの青い明滅だけがまだ目の奥に残っている。


 連絡通路へ出ると、外の空気は朝より冷えていた。

 遠くグラウンドの向こうに、寮棟の屋根が見える。

 学園棟と寮は離れている。その距離が、今は妙に長く思えた。


 歩きながら、ポルックスがふいに立ち止まる。


 前方の柱陰に、ダミアノの姿があった。

 こちらを待っていたわけではない。

 だが、偶然にしては立ち位置が良すぎる。


 ダミアノは一瞬だけケラノスの鞄を見て、それから何事もなかったように横を向いた。

 その横顔に、あの薄い笑みがまた浮かぶ。


 ポルックスはそれを見て、胸の中の何かがすっと冷えるのを感じた。


 偶然ではない。


 さっきの安全留め。

 明滅の仕方。

 そして今の視線。


 まだ証拠にはならない。

 けれど、筋は通り始めている。


「どうした」


 同じ組の生徒に問われ、ポルックスは首を振った。


「何でもない」


 嘘だった。

 だが今ここで言うべきことではないのも確かだった。


 先へ歩き出す。

 夕暮れの光が、連絡通路の白い壁を少しずつ薄青く変えていく。


 最初のブローチを懸けた課題は、まだ一日目が終わっただけだ。

 それなのに、机の上ではもう正統と断絶を論じ、机の外では小さな悪意が静かに動いている。


 学園は、過程を見ると言った。

 ならば、この一日ですでに、見られるべきものはいくつもあった。


 守るように前へ立つ者。

 言葉を削って通す者。

 傷つきながら飛び込む者。

 気に食わぬものを見てもなお立ち尽くす者。

 そして、笑いながら人を足元から崩そうとする者。


 夕暮れの冷えが、制服の袖口から少しずつ入り込む。

 けれど誰も、足を止めなかった。


 止まれば、それぞれが胸へ抱えたものの重みが、今よりもっとはっきりしてしまう気がした。

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