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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第二十章2

【1】


 白と金の光に満ちた広間から出たばかりの目には、回廊の石の色が少し鈍く見える。だが、その鈍さがかえって気持ちを引き締めた。華やかさは背後へ置かれ、前に残るのは足音と、白い列と、これから始まるものの気配だけになる。


 試験棟は食堂棟より静かだった。

 豪華さがないわけではない。高い天井にも白と金の意匠は通り、扉の枠には細やかな彫刻が施されている。けれど食堂が少年たちを一度に呑み込むための明るい豪奢さを持っていたのに対し、こちらはもっと硬い。美しく整えられた器の内側へ、人を一人ずつ測るための冷たさが沈んでいる。


 入口で列が止められた。


 上級生たちが、名簿と小さな札を手にして立っている。

 白い制服の胸元へ、順に番号札が渡された。

 名ではない。

 まずは番号で分けられるのだと、その時点ではっきり分かる。


 シャムは受け取った札へ目を落とした。

 黒い数字。

 それだけなのに、妙に重い。


「これより入学試験を開始します」


 前に立った教員の声は大きくない。だが、広い玄関ホールの端までよく通った。

 年嵩の男だった。白を基調とした学園教員の礼装に、金の縁飾りがある。柔らかい顔立ちではないが、怒鳴らずとも場を静められる種類の人間だとひと目で知れる。


「筆記、応答、礼法、身体能力、基礎観察。順路は各自異なります。掲示された番号に従い、指示なく私語を交わさず進みなさい」


 短い。

 余計な脅しはない。

 その代わり、“従うもの”として扱う前提が最初から置かれている。


 玄関ホールの先には、すでにいくつもの扉が開かれていた。

 白い壁。

 金の細い縁取り。

 その向こうへ、同じ白を着た少年たちが順に吸い込まれていく。

 試験は一つの広間でいっせいに行われるのではなく、棟全体を使って進められるのだろう。


 ポルックスは喉の奥をそっと動かした。

 さっき飲んだスープの温かさは、もうほとんど消えている。声を出せと言われた時、うまく落ち着いてくれればいいが、と思う。こんな時に限って、身体の中のいちばん不安定な部分ばかり意識される。


「番号二十八から三十六、こちらへ」


 呼ばれ、アルケスが先に動いた。

 白い上着の背が、迷いなく人の流れを割って進む。

 ポルックスは自分の番号が別列だと知ると、一度だけその背を見た。アルケスは振り返らない。振り返らなくても、ここで立ち止まる方がよほど不自然だと知っているからだろう。


 カストルは別の列へ回される時、小さく舌打ちしかけて、飲み込んだ。

 シャムはその横顔を見たが、声はかけない。

 ここで余計な一言を足すより、それぞれが自分の足で行くしかない場所なのだと、もう分かり始めていた。


 最初の部屋は筆記だった。


 扉をくぐった瞬間、外のざわめきが切れる。

 大きな教室ではない。だが天井は高く、窓も大きい。白い壁に金の装飾が走り、教壇の後ろには五国の紋章が控えめに並んでいる。机は一人ずつ距離を置いて配置され、その上にはすでに用紙と筆記具が揃えられていた。


 シャムは席へ着く。


 紙は新しい。

 触れた指先へ、わずかな張りが返る。

 教員の一人が、開始の前に用紙を裏返しのまま配っていく。歩く音まで小さい。誰も急かさないのに、空気の方が勝手に新入生たちの背筋を伸ばしていた。


「始めなさい」


 紙を返した瞬間、シャムは目を細めた。


 難しい。


 文字の読み書きができぬわけではない。王城へ入ってから、最低限の座学は叩き込まれている。だが問い方が単純な暗記ではない。

 文章を読ませ、その意味を選ばせる。

 数字を並べ、規則を見つけさせる。

 短い記述をさせ、何を優先して書くかまで測ろうとしている。


 答えが分からない、というより、何を見られているのかがすぐには掴めない。


 シャムは眉を寄せ、紙へ顔を落とした。

 周囲の筆の音が、かすかに聞こえる。

 早い者。

 遅い者。

 止まる者。


 王城で礼法を教え込まれてきた者と、後から追いつこうとしている自分とでは、最初から差がある。

 それでも、ただ悔しがっている暇はなかった。

 分かるものから拾う。

 拾えるものを落とさない。

 そういうやり方しか、自分にはまだない。


 一方、別室でアルケスは最初の頁をめくると、ほんの短く息を止めた。


 難度は高い。

 だが、まったく歯が立たぬわけではない。

 王城で学んだ範囲もあれば、そうでない問いもある。だが一度読み、二度目で問いの骨を拾えば、何を見たいのかはおおよそ見えた。

 知っているか、ではない。

 知らぬものにどう向き合うか。

 そこまで試そうとしている。


 筆を持つ手に迷いはない。

 書き出しも早い。

 白い袖が紙の端をかすめるたび、鏡のように整った机上に影が落ちる。


 ただ、その速さは焦りではなかった。

 アルケスは、人と競って書き急ぐのではなく、自分の中で順をつけて進める。そういうところに、ここ二年で形になった責任感のようなものが出ていた。


 ポルックスの部屋では、最初の設問より、三枚目の途中にある短い問答文の方が厄介だった。


 どう答えるか。

 何を省き、何を残すか。

 正しい内容より、相手へどう届くかまで問われている気がする。


 ポルックスは筆先を止め、喉の奥で小さく息を整えた。

 問題文を読むだけなら声は要らない。

 だが、こういう問いは自分の中で一度“言葉”として転がしてみたくなる。ところが今の喉は、それをするとすぐに不安定さを思い出させる。

 高いのか、低いのか。

 子供なのか、もうそうではないのか。

 そんな曖昧さが、紙へ向かう時までつきまとってくるのが少し腹立たしい。


 けれど、その曖昧さに苛立つ暇があるなら、答案を埋めた方がましだった。

 ポルックスは眉を動かさず、再び筆を走らせた。


 カストルのいた部屋では、空気の密度が少し違っていた。


 筆記そのものは苦手ではない。

 ただ、長時間座り続けることと、呼吸を乱さず一定に保つことが、身体の小ささゆえに人より余計な負担になる。机と椅子は彼に合わせて微妙に調整されていたが、そのことに気づくたび、かえって苛立ちが募る。


「……ちっ」


 紙の隅へ落ちた舌打ち未満の音を、教員が一度だけ見た。

 何も言わない。

 それが余計に癪に障る。


 けれど、カストルは紙から目を上げなかった。

 設問の一つに、粗悪な食料をどう判別するかという短文があった。

 彼の筆はその箇所だけ妙に速い。

 自分の身体が弱いからこそ、何が危うく、何が紛らわしく、何が後から効いてくるかを知っている。

 そういう問いでは、他の誰より先に勘が働く。


 試験は筆記だけでは終わらなかった。


 部屋を出ると、今度は二人ずつ呼び出され、別室へ送られる。

 そこでは立たされたまま、短い応答があった。


「名を」

「出身を」

「朝食の席で、最初に見たものは」

「今、隣にいる者の顔立ちを答えなさい」

「この部屋へ来るまでに、左へ何度曲がりましたか」


 思っていた類の質問ではない。

 家名や成績や希望を問うのではなく、見ているか、覚えているか、落ち着いているかをその場で探ってくる。


 シャムは三つ目の問いで、一瞬だけ言葉を失った。


 朝食の席で最初に見たもの。

 豪華な天井。

 白い皿。

 バルコニー席。

 どれを答えるべきなのか分からない。


「……天井です」


 答えると、試験官は頷きも首振りもしない。


「なぜ」

「高かったからです」

「高いものは、他にもあったはずです」

「……絵が、見えたから」


 自分でも説明になっているのか分からぬ答えだった。

 だが、試験官は書き留めるだけで何も言わない。

 正解か不正解かを教えないまま、次へ進む。

 そのことが、余計に落ち着かない。


 アルケスは同じ問いに対して、「人の流れ」と答えた。

 即答だった。

 それが格好をつけた答えではなく、本当にそう見ていたのだと声で分かる。


「なぜ」

「立ち止まれば後ろが滞ると思ったからです」


 低く整った声が部屋の白い壁へ落ちる。

 試験官の筆が一度だけ止まり、それからまた動いた。


 ポルックスは「二階の席」と答えた。

 そこから何が見えるのかが気になった、と続ける。

 声は途中でわずかに掠れた。

 自分でもそれを意識したが、言い直しはしない。

 今の喉もまた自分の一部であり、それを隠そうとして崩れる方がよほど悪いと、どこかで分かっていた。


 カストルは「配膳台」と答えた。

 試験官が理由を問う前に、


「食べられないものが混じってたら分かるだろ」


 と返した。

 棘がある。

 だが、ただの反抗とも言い切れない。

 試験官は顔色一つ変えず、そのまま書き留めた。


 その次は礼法だった。


 広間へ通される。

 白い床。

 金の縁取りのある壁。

 端には上級生が並び、中央には長卓も椅子もない。立ち居振る舞いを見るためだけに空けられた空間だった。


 歩く。

 止まる。

 一礼する。

 椅子を引く。

 座る。

 立つ。

 挨拶を返す。

 名を名乗る。


 たったそれだけのことが、思った以上に難しい。


 誰もがやり方を知っているつもりで来ている。

 だが、学園が求める“正しさ”は、家で叩き込まれた所作と微妙に違う。

 角度。

 間。

 視線を落とす深さ。

 手を添える位置。

 ほんのわずかな違いが、次々と炙り出される。


 シャムは、そこで初めてはっきり遅れを感じた。


 分かっていたことではある。

 王城へ入ってから急いで身に入れた礼法は、身体の芯まで染みてはいない。

 頭で順番を追うから、一手遅れる。

 一礼のあと、顔を上げる間。

 椅子へ触れる指先。

 そういうところで“後から覚えた者”の硬さが出る。


 だが、崩れたくはなかった。

 分からぬなりに真っ直ぐやるしかない。

 変に器用に見せようとすると、もっと壊れる。


 アルケスは大きく崩れなかった。

 王城で育っただけある。

 ただ、学園式の礼は王城のそれと完全には同じではない。二度目の一礼で、ほんのわずかに手を引く位置が早かった。上級生の視線がそこへ止まる。アルケス自身も気づいたのだろう、三度目では修正していた。


 ポルックスは所作そのものは滑らかだ。

 だが名乗りの一節で声が揺れた。

 低く落ちるはずが、途中で少し浮く。

 それはほんの僅かな乱れでしかなかったが、自分にはよく分かった。

 喉の奥が熱い。

 けれど顔には出さない。


 カストルは、所作ではなく立っているだけで視線を集めた。

 小さい。

 その事実は隠しようがない。

 だが、立つ位置へ足を置いた瞬間の目だけは、誰より鋭かった。礼の角度にはまだ粗があっても、見返す眼差しの強さが、それを安っぽくはさせない。


 昼が近づく頃、最後に身体能力の試験があった。


 広い屋内訓練場。

 天井は高く、白壁の上部に金の装飾が巡る。


だがここでは装飾も、広さを美しく見せるための額縁のようなものだった。床は磨かれた木。転倒しても致命的な怪我をせぬよう、わずかに弾む。

 走る。

 跳ぶ。

 体勢を保つ。

 投げる。

 受ける。

 瞬時に方向を変える。


 ここで、差ははっきり出た。


 アルケスは強い。

 ただ腕力任せではない。重心がぶれず、踏み込みが深い。十三になった身体へ、すでに「前へ出る者」の形が入り始めている。


 ポルックスは目立つほど派手ではない。

 だが無駄がない。

 走るにしても、受けるにしても、一つ一つをきれいに収める。乱れを立て直すのも早い。


 シャムは最初の動きこそ少し粗かったが、途中から急に伸びた。

 教え込まれた型より、実際に身体を使って覚えてきた種類の反応がある。足場、距離、相手の癖。そういう“生きたもの”への感覚が強い。


 カストルは、ここで最も難しい顔をした。


 できないわけではない。

 むしろ目は誰より速い。合図への反応も、落ちてくるものを追う視線も鋭い。

 だが身体が追いつかない。

 踏み込みの幅。

 跳ぶ高さ。

 持久。

 全部に限界がある。


 それを誰より知っているのが、カストル自身だった。


「そこまで」


 止められた時、カストルは何も言わなかった。

 けれど白い袖の下で握った拳だけが、小さく震えていた。


 試験官の一人が、そのまま別の課題を示す。

 今度は距離感を測る反応試験だった。

 鳴った音の方向を向く。

 落ちる札を見分ける。

 複数の合図から本物だけを拾う。


 ここでカストルの目が変わる。


 最初から、速かった。

 走れと言われれば苦しい。

 跳べと言われれば足りない。

 だが、気づくことだけなら違う。

 何が落ち、どれが紛れ、どこが危ういか。そういうものへ伸びる感覚だけは、体の強い者より先にある。


 試験官が、初めてわずかに眉を動かした。


 それを見て、カストルは息を整える。

 誇らしいわけではない。

 腹立たしさが消えるわけでもない。

 それでも、ここで拾えるものが自分にもあるのだと、身体の奥のどこかが先に知った。


 試験がすべて終わった時には、朝の冷たさはもう消えていた。


 新入生たちは再び集められ、番号札を付けたまま広間へ戻される。

 白い制服の裾が揺れ、靴音が石床へ重なる。

 誰も朝より静かだった。

 疲れただけではない。

 自分が何を見られ、どこでつまずき、どこで思いがけず拾われたのか、はっきり分からぬまま何かだけを残してきた顔になっている。


 シャムは掌を開いた。

 指先に、まだ少しだけ力が残っている。


 アルケスは表情を崩さない。

 ポルックスは喉を気にすることもせず、ただ前を見ていた。

 カストルは機嫌の悪い顔のままだが、朝ほど棘立ってはいない。


 そして少し離れたところに、カイロスたち国徒の五人がいた。

 同じ白を着て、同じだけ試されたはずなのに、どこか立ち方が違う。

 最初から寮が変わらぬ者たちの静けさ。

 けれど、だからといって軽いわけではない。

 彼らもまた、この学園が何を見るかを、肌で知り始めているのだろう。


 前方で、ネレウスが戻ってくる。


「これより仮寮の発表に移ります」


 その一言で、広間の空気がわずかに変わった。


 試験は終わった。

 だが、終わったからといって楽になるわけではない。

 ここから先、白の上へ最初の意味が置かれる。


 誰がどこへ入るのか。

 誰がそのまま進むのか。

 誰がまだ測られ続けるのか。


 白い列の中で、誰かがごく小さく息を呑んだ。

 それが誰だったのか、シャムには分からなかった。

 たぶん、自分も同じように息を詰めていたのだろう。


 広間の奥で、封を切る音がした。


【2】


 広間の奥で、封を切る音がした。


 それはひどく小さな音だった。

 けれど、白い制服に包まれた新入生たちのあいだへ落ちると、不思議なほど深く響いた。朝から幾度も見せつけられてきた学園の秩序が、ついに一人ひとりの行き先となって手の内へ渡される、その最初の綻びのようでもあった。


 前に立つネレウスの手には、厚みのある封書の束がある。

 白地に金の縁取り。

 表には名ではなく番号が記されていた。誰の前でも同じ顔をしていた白が、ここで初めて、わずかな差を帯びる。


 広間には物音らしい物音がなかった。

 靴先をほんの少し寄せる音。

 袖が擦れる音。

 喉をひそめて息を呑む気配。

 それらがあるだけで、誰一人として声を立てない。


 シャムは指先へ力が入っているのを感じて、そっと拳を開いた。

 試験が終わった時より、今の方がよほど胸の奥が落ち着かない。答えの善し悪しなら、すでに紙と所作と身体で出し切った。


だが、そこから先を自分で決めることはできない。見られ、量られ、置かれる。その受け身が、かえって足元を曖昧にする。


 ネレウスが、一つ目の番号を呼んだ。


 呼ばれた少年が前へ出る。

 封書を受け取る。

 一礼し、脇へ退く。


 ただそれだけのやり取りなのに、目に見えぬものが一つずつ決まっていく。

 仮寮。

 部屋番号。

 そして、その隣室に住むことになる高等部三年の名。


 白い列の中で、誰かが微かに肩を落とし、別の誰かがわずかに顎を上げた。だが、そのいずれも声にならない。ここで露骨に喜ぶことも、あからさまに失望することも、すでに学園の空気にはそぐわぬと、皆どこかで知り始めている。


 アルケスの番号が呼ばれたのは、そう遅くなかった。


 彼は列を離れ、真っ直ぐ前へ出る。

 歩幅に迷いがない。

 朝、門をくぐった時と同じように、いや、それよりいっそう静かに、前へ出るべき時の形を身体へ納めている。


 封書を受け取る手もぶれなかった。

 ただ、戻る途中でごく短く目を落としたその瞬間だけ、翡翠の睫毛の下に、わずかな緊張が差した。


 クレイス。


 封書の最上段に記されたその寮名を、彼は声には出さない。だが、手にした紙を握り直す指の加減だけで、それが自分にとってまるきり意外ではなかったのだと分かる。


 守る者。

 責を負う者。

 鍵を持つ者。


 王城を出る以前から、あるいはまだそう呼ばれる前から、アルケスの歩みは結局そこへ向いていたのだろう。本人が望んだかどうかは別として、前に立つ者の影は、すでに彼の肩へ落ち始めている。


 ポルックスは、その背が列へ戻ってくるのを見ながら、自分の喉の奥がまた少し狭くなるのを感じた。

 乾いているわけではない。

 痛むのでもない。

 ただ、声が変わりきる前の何かが途中で引っ掛かったまま落ち着かぬ感じが、こういう時に限ってはっきりする。


 自分の番号が呼ばれた時、返事をする一拍だけ、それを意識した。

 以前より低くなったはずの声は、まだ完全には沈みきらない。

 だが、それでも何とか外へ出した。


「はい」


 短い返答だった。

 かすかな掠れを、自分だけが知っている。


 前へ出る。

 封書を受け取る。

 白い紙の重みは軽いはずなのに、手の内では妙にしっかりしていた。


 視線を落とす。


 ジェスル。


 橋を架ける者。

 調整し、渡し、結ぶ者。


 ポルックスはそこで目を止めた。

 意外ではない。まったくの不意打ちでもない。けれど、自分の中のどこかは、別の名もあり得たと思っていた。クレイスでもなく、リチェルカでもなく、ジェスル。

 それは誰かの後ろへ隠れて従う者の名ではない。むしろ、人と人との間へ立ち、崩れぬよう支える側の名だ。


 その時ふいに、カストルの顔が脳裏へ過った。


 まだ呼ばれていない。

 あの小柄な身体で、あの鋭すぎる目で、どの名を渡されるのか。


 列へ戻ると、カストルがじろりと封書を見た。

 口を開きかけ、けれどやめる。

 ここで尋ねるのは違うと分かっているのか、それとも自分の番を待つ方が先だと思ったのか、理由は見えなかった。


 カストルの番号が呼ばれたのは、その少し後だった。


 彼は露骨に不機嫌そうな顔のまま列を離れた。

 だが歩き方そのものは乱れない。

 小柄な体を人に見られることへ敏い者ほど、こういう場ではなおさら背筋を立てる。白い制服に包まれたその背には、子供っぽい癇の強さとは別の、刺のような意地があった。


 封書を受け取る。

 視線を落とす。


 そこで初めて、カストルの眉がわずかに動いた。


 クレイス。


 ポルックスは、その横顔を見た。

 朝からの試験の中で、カストルの鋭さは何度も現れていた。粗悪なものを嗅ぎ分けるような感覚、危うさを拾う目、落ちる札の真を捉える速さ。それらは本来、別の方向へも伸びうる資質だ。だが今この時点で学園が拾ったのは、そこではない。


 本人の強い願い。

 前へ立ちたいという、意地に近いまでの思い。

 そして、鋭さをまずは“守る側の本能”として見ることのできる表の輪郭。


 それが、仮寮ではクレイスとして置かれたのだろう。


 カストル自身、その名を完全には不服と思わなかったようだった。

 むしろ、目の奥で一瞬だけ、張りつめたものが固まった。

 自分はまだ前へ立つ側であり得るのだと、誰よりまず自分自身へ言い聞かせるような、そういう細い光だった。


 列へ戻ると、ポルックスが何も言わないのを、彼は気にした風もなく鼻を鳴らした。

 だが封書を持つ手は、少しだけ強く握られている。

 喜びとも、安堵とも、単純には言えない。

 それでも、クレイスの名を得たことが、この時のカストルには必要だったのだと分かる。


 シャムの番号が呼ばれるまで、時間はそう長くなかった。

 けれど、待っているあいだの胸の内は妙に静かだった。


 自分がどこへ置かれるか。

 守る者か、繋ぐ者か、探る者か、調べる者か。

 そんなふうに言葉へ分けて考えようとすると、どれも少し違う気がする。王城へ入る前の暮らしは、どの寮の語にもきれいには収まらない。けれど、その汚れや雑多さも、もうまるごと捨てたわけではない。


 番号が呼ばれる。


 シャムは前へ出た。


 封書を受け取る。

 手の中の紙は、思っていたより温かかった。

 それがネレウスの手の温度なのか、自分の掌が熱を持っていたのかは分からない。


 視線を落とす。


 ジェスル。


 シャムは一度、瞬きをした。


 クレイスではない。

 そうではないことに、まず驚きがある。

 けれど、見つめ直すうちに、現実味が湧いてくる。


 橋渡しをする者。

 異なるものの間に立つ者。

 庶民の暮らしの匂いを知り、それでいて今は王家の子としての責を学び始めた自分にとって、その名は、守る者の名よりもむしろ深いところへ触れてくる。


 王城の外を知っている。

 内も知り始めている。

 その両方を知るからこそ、まっすぐ一方へ立つ前に、間へ置かれる。


 そう思うと、胸の奥の驚きは少しずつ静かになった。


 列へ戻ると、アルケスが短くこちらを見た。

 ジェスルだと分かったのだろう。

 だが何も言わない。

 その沈黙が、かえってありがたかった。


 広間の別側では、国徒たちにも封書が渡されていく。

 各国五人。合わせて二十五。

 彼らは最初からスフェラに属する。寮は変わらない。けれど封書が不要というわけではない。仮寮兄、部屋、生活導線、そのすべてはここで初めて手の内へ渡されるのだ。


 カイロスは封書を受け取っても、表情をほとんど動かさなかった。

 だが、無感動ではない。

 白い紙の端を持つ指先へ、ほんのわずかに力が入る。最初から定まっているからといって、それが軽いということにはならない。むしろ、最初から逃げ道なく“ここだ”と置かれていることの重さを、国徒たちは別の仕方で引き受けているのだろう。


 全員へ封書が行き渡ると、広間の奥の扉が左右から開いた。


 そこに立っていたのは、高等部三年たちだった。


 白い新入生の中へ現れた、すでに色を持つ者たち。

 クレイスの、ジェスルの、シェルシェの、リチェルカの、スフェラの色が、それぞれに静かに映える。年はまだ若い。だが新入生から見れば、その若さも含めてすでに別の岸に立つ者たちのようだった。


 立ち方が違う。

 視線の置き方が違う。

 広間の空気へ自分を混ぜるのでなく、その空気を崩さぬまま立つことを知っている者の姿だった。


 ネレウスが一歩退き、教員が前へ出る。


「これより、仮寮兄との引き合わせを行う」


 低い声が、白と金の広間へ落ちる。


「諸君は本日より三か月、観察のもとに置かれる。学業、礼法、起居、生活全般、そのいずれも仮寮兄の監督と導きのうちにある」


 それを聞いて、広間の空気がまた一段静まった。

 試験は終わった。

 けれど終わった先が自由ではないことを、その一言が改めて知らせる。


「呼ばれた者から前へ」


 最初の名が告げられる。


 新入生が進み出る。

 高等部三年が一人、前へ出る。

 一礼。

 短い名乗り。

 それだけで終わるのに、何かが確かに結ばれていく。


 アルケスの前へ現れたのは、クレイスの色をまとった長身の少年だった。

 背筋はまっすぐで、目元は硬い。

 けれど冷たすぎるわけではない。

 名乗りも短く、礼も正確で、無駄がない。アルケスがそれを受ける姿には、まだ初日でありながら、どこか早くも同じ方向の線が通って見えた。


 ポルックスの前へは、ジェスルの仮寮兄が現れた。

 整った物腰をしているが、張りつめすぎてはいない。人と向き合うことに慣れた者の目だった。ポルックスはその眼差しを受けた時、自分が最初に置かれた場所の意味を少しだけ理解した気がした。まだ完成していないにせよ、自分はまず“間を見る者”としてここへ立たされるのだと。


 カストルの前へ現れたのは、クレイスの上級生だった。

 体格は大きい。肩の線も、立つ姿も、誰が見ても前へ出る側の人間だと分かる。

 カストルは一瞬、その姿を見上げた。

 小さな体に、細い怒りにも似たものが走る。羨望か、反発か、その両方か。

 だが相手の目に、憐れみはなかった。

 ただ値踏みもしない、真っ直ぐな視線だけがある。

 それが、この時のカストルにはむしろ救いだったのかもしれない。


 シャムの前へは、ジェスルの色を着た少年が歩み出た。

 声は穏やかで、礼の角度も柔らかい。

 けれど、柔らかさの底に揺るがぬ芯がある。

 シャムは一礼を返しながら、自分がこれから三か月、この人物の隣で見られ、整えられ、試されるのだと、ようやく実感した。


 広間のあちらこちらで、同じ引き合わせが続く。

 白い新入生と、色を持つ高等部三年。

 国徒たちの前にも、スフェラの仮寮兄が立つ。各国五人ずつ、二十五人の白が、最初から定められた白金の色へ静かに引き取られていく。


 引き合わせが終わる頃には、広間の空気もまた朝とは別のものになっていた。


 白だけだったものへ、まだ淡いながらも意味が差し始めている。

 仮の所属。

 仮の導き手。

 それでも、人は名を与えられた途端に、その場所へ少しずつ形を合わせ始める。


 ネレウスは少し離れた場所から、その光景を見ていた。

 朝、門の内側で規律を告げた時と変わらぬ顔で。

 だが目だけは、ほんのわずかに和らいでいるようにも見えた。

 毎年見てきた光景なのだろう。

 それでも、白い少年たちがそれぞれの色の方へ連れて行かれる瞬間には、見慣れぬものが残るのかもしれない。


 最後の指示が告げられる。


「各仮寮兄は担当新入生を隣室へ案内せよ。本日残る説明は各寮ごとに行う」


 その一言で、広間の空気がようやく少し緩んだ。


 長い一日だった。

 まだ日が高いのに、朝の門前はもう遠い。

 白い制服を受け取り、他国の生徒と同じ卓へ着き、試験を受け、封書を受け、そして今、自分の隣に立つ上級生がいる。


 アルケスは歩き出す前に一度だけ周囲を見た。

 カストルがクレイスにいること。

 シャムがジェスルであること。

 ポルックスが同じくジェスルであること。

 そこまでを確かめるような、ごく短い視線だった。


 ポルックスはそれを受け、僅かに頷いた。

 喉はまだ落ち着かない。

 けれど今は、言葉よりこの沈黙の方がちょうどよかった。


 カストルは仮寮兄の背を睨むように見てから、すぐに視線を逸らした。

 クレイスの名を得たことは、まだ彼の胸を支えている。

 その先に何が待つかは、まだ知らない。

 知るのは三か月後でいい。

 今はただ、前に立つ側へ置かれたという、その事実だけが必要なのだ。


 シャムは封書を握り直し、自分の隣に立つジェスルの仮寮兄を見上げた。

 庶民の暮らしも、王家の重みも、そのどちらもまだ途中までしか知っていない自分が、まず“間に立つ者”のもとへ送られる。そのことが、不思議なほどしっくり胸へ収まっていた。


 広間の上では、天井画の龍が長く身を伸ばし、白と金の光の中を静かに泳いでいた。


 白い少年たちが、それぞれの色の方へ連れられていく。

 学園は彼らを迎えたのではない。

 測り、置き、これから先どう育てるかを静かに決めたのだ。


 そして、それはまだ始まりにすぎなかった。


【3】


寮の棟へ入ると、廊下の空気が少し変わった。


 白と金を基調にした意匠はここでも途切れていない。だが食堂棟のように、人の目を奪うための豪奢な装飾ではなかった。


夜へ向かう時刻のせいか、灯りはやや落とされ、白い柱の彫刻と金の縁取りだけが静かに浮かび上がっている。花と蔓と龍の尾を絡めた彫りが、壁際の灯りに照らされ、磨かれた床へ長く影を落としていた。


 その廊下を、ズヴォルタが先に立って歩く。


 背が高い。肩も厚い。まだ若いのに、歩く姿にはすでに軍人めいた迫力があった。足音は決して荒くない。けれど一歩ごとに無駄がなく、揺れがない。前へ出る者の歩き方だった。


 途中、彼は振り返らずに言った。


「明日の起床は朝六時半。点呼はそのすぐ後だ。それまでに寝台を整え、顔を洗い、制服の襟まできちんと直しておけ」


 声は低く、よく通った。

 怒鳴るのではない。聞き流すことを許さないだけだ。


「一人が遅れれば、部屋の七人全員が同じように見られる」


 その一言で、七人部屋というものの意味が、アルケスにもようやくはっきりした。


 ズヴォルタは足を緩めることなく続ける。


「規則は飾りじゃない。守る側へ立ちたいなら、まず自分が崩れるな」


 それだけ言って、また黙った。


 言葉は硬い。

 けれど、ただ厳しいだけでもない。


 部屋の前で足が止まる。


 扉が開くと、七人分の同じ机と寝台があった。


 広い。

 だが私室の広さではない。

 寝台が左右へ分かれて並び、その足元に机と衣装棚が整然と収められている。中央には低い卓がひとつ。窓は高く、外の夜を少しだけ見せる位置にあった。白木の肌に金具が光り、飾りは少ないのに、部屋全体にきちんとした品がある。


 アルケスは一歩中へ入って、まず寝台の位置を見た。

 どこが入口に近く、どこが窓に寄っているか。誰の気配がどこまで届くか。七人で寝起きするには十分だが、互いを忘れてしまえるほど離れてはいない。仮寮の部屋とは、こういうものなのだとすぐ分かった。


「クレイスの新入生部屋は七人で使う」


 ズヴォルタが言う。

 そのまま寝台のあいだへ足を入れ、手近な一角を軽く示した。


「ここでは、お前たちは一人ずつじゃない。ひと部屋で見られる。ひと部屋で減点もされる」


 それから、初めて一人ずつへ視線を巡らせた。


「名乗れ」


 先頭にいたアルケスが口を開く。


「アルケス」


 敬称はつけない。

 求められていないからだ。


「ロンエマフィリア王家の出です」


 ズヴォルタは頷きもせず、次を促した。


 地方領主の子。

 軍人の家の息子。

 サブマの司祭の血を引く少年。

 ユルバンフルミネから来た一人。

 名乗りはどれも短く、余計な飾りがない。それでも、その一つひとつに、ここへ来るまでの土地の匂いが残っていた。


 最後に名乗った少年が、口元へいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「ケラノス。ユルバンフルミネ出身。よろしく」


 その「よろしく」が、妙に軽かった。


 だが不躾というほどでもなかった。

 ただ、王子へ向けるにはあまりにそのままで、余計な身構えを伴わないだけだった。


 ケラノスは、荷を置きながら何でもない調子でアルケスの方を見た。


「きみ、さっき食堂でも目立ってたね」


 部屋の空気が、ごくわずかに止まる。


 王族へ向けるにしては、距離の詰め方が近い。

 けれど嘲りはない。

 まるで本当に、同じ部屋へ入ることになった同学年の少年に声をかけるような口ぶりだった。


 アルケスはすぐには返さなかった。

 こういう調子で話しかけられることに慣れていないわけではない。だが、王城の中でのそれは大抵、無邪気さを装った探りか、あるいは距離を誤った軽率さのどちらかだった。


 目の前の少年は、そのどちらにも見えなかった。


「……そうか」


 低くなった声が短く落ちる。


 ケラノスは気を悪くした様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。


「うん。目立つって、別に悪い意味じゃないよ。白い制服でも、最初からちゃんと立ってる人って分かるから」


 その言い方が妙に率直で、アルケスは少しだけ目を細めた。


「ケラノス、だったかな」

「そう。きみはアルケス」


 名前を返される。

 殿下でも、王子でもなく。


 それが無礼かと問われれば、学園へ入った今、必ずしもそうとは言い切れなかった。


門の中では学園の規律が優先されると、朝から何度も言われている。王子という身分を忘れろとまでは言わずとも、それだけで扱いを変える場所ではないのだろう。


 ズヴォルタが一人ずつへ寝台を割り当て、必要な決まりを短く告げていくあいだ、ケラノスはそれ以上余計なことを言わなかった。軽いが、空気を読めぬわけでもないのだと分かる。


 白い寝台。

 衣装棚。

 机。

 七人分の暮らしが、端正に切り取られてそこへ置かれていた。


「今夜は荷を解くだけでいい。だが明日の朝からは違う」


 ズヴォルタの声は低い。


「起床は朝六時半。点呼はそのすぐ後だ。それまでに寝台を整え、顔を洗い、制服の襟まできちんと直しておけ」


 誰にも視線を偏らせない。

 アルケスにも、ほかの六人にも、同じだけの硬さで言葉を置く。


「一人が遅れれば、部屋の七人全員が同じように見られる」


 それから、少しだけ間を置いた。


「ここでは、お前たちは一人ずつではない」


 その一言が、部屋の広さよりもはっきり、七人部屋の意味を示していた。


 荷を解き終える頃には、夜もだいぶ深くなっていた。


 アルケスが寝台の脇へ腰を下ろすと、向かいからケラノスが小さな金属の器械を取り出した。白い鞄の底にしまっていたものらしい。手のひらに収まるほどの大きさで、側面に細かな龍脈回路めいた線が刻まれている。


 蓋を押し上げると、内側に薄い青の光がひとつ走った。


 アルケスは思わず目を留める。


「それは」

「気になる?」


 ケラノスは笑った。


「龍脈式の小型計時器。時間を見るだけじゃなくて、龍脈の流れが強いところだと少し熱を持つんだ。まだ試作品だけど」


 アルケスは身を乗り出した。


「持ち歩いていいのか」

「申請は通してある。試験の間は封じられてたけどね」


 やはり話し方は軽い。

 だが、それが不快ではない。軽さの下に、物を好きでたまらぬ者の熱があるからだろう。


 アルケスは器械の青い光を見つめながら、小さく息をついた。


「ユルバンでは、こういうものが多いのか」

「多いよ。って言っても、皆が皆持ち歩くわけじゃないけど。僕は好きだから」


 僕。

 その一人称もまた、肩肘張らぬ感じに妙に似合っていた。


 ズヴォルタはそれを咎めなかった。

 ただ、消灯を告げるときには一度だけ二人の方へ目を向け、


「灯りは十時で落ちる。それまでに片づけろ」


 とだけ言った。


 厳しい。

 けれど、部屋の中の息の抜き方まで奪うわけではない。

 規律の外へ出ぬ限り、そこにある個々の気配まで踏みにじる人ではないのだと、その頃には少し分かり始めていた。


 翌日からの生活は、思っていたより早く身体へ入り込んできた。


 起床。

 寝台の整え。

 洗面。

 点呼。

 朝食。

 移動。

 授業。

 訓練。


 どれも一つだけを見れば大したことはない。だが、一日のすべてがきっちり繋がると、少しの乱れがそのまま全体へ響く。ズヴォルタはそこを見逃さない。


「裾が曲がっている」

「返事は短く」

「机の上へ物を出しっぱなしにするな」


 声を荒げることはない。

 その必要がないのだろう。

 言われた方が自分で正さずにいられぬ種類の、張った声だった。


 アルケスは、その厳しさに息苦しさよりも納得を覚えた。

 王子だからといって先に教えることも、甘く見ることもない。むしろ最初から、一人の新入生として扱われる方が心地よい。


 ケラノスはそうした生活の合間にも、ぽつぽつと話しかけてきた。


「アルケス、これ見て」

「今朝の灯り、昨日より少しだけ色が違ったと思わない?」

「この棟、回廊の継ぎ目だけ龍脈の流れが強いんだ」


 何かを見つけるたび、誰かへ伝えずにいられない性分なのだろう。

 それが鬱陶しくないのは、無理に話を広げないからでもあった。アルケスが答えなければ、それで引く。答えれば、その分だけ嬉しそうに続ける。


 三日目の夕方、訓練場から戻る途中で、別棟から出てきた上級生がズヴォルタへ声をかけた。


「総長、明日の試合順は」


 ズヴォルタは足を止めずに答える。


「あとで回す」


 ただそれだけ。

 その一言で相手がすぐ引くのを見て、アルケスは胸の内でだけ納得した。運動部二十六を束ねる総長。なるほど、その肩の圧は生まれつきだけのものではないのだろう。


 同じ頃、カストルは別の七人部屋にいた。


 クレイスの仮寮兄、リゴーレのもとである。


 ズヴォルタが外へ向いた迫力なら、リゴーレは刃を鞘へ収めたまま持つような静けさだった。声は低く、必要以上の言葉を使わない。だが、見ているところが鋭い。


 最初の一週間で、リゴーレはカストルへ一度も「無理をしなくていい」とは言わなかった。


「もう一度」

「違う。そこで肩を逃がすな」

「できないなら理由を言え。言えないなら続けろ」


 それだけ聞けば酷にも思える。

 だが彼は、感情で追い詰めることもしない。ただ甘やかさないだけだった。


 カストルが噛みつく。


「見れば分かるだろ」

「分かる」


 リゴーレは静かに言う。


「分かった上で言っている」


 その返しが、かえってカストルを苛立たせた。

 哀れまれない。

 王子だからと遠慮もされない。

 だが最初から無理だと切って捨てられるわけでもない。その厳しさが、彼には残酷だった。


 部屋に戻っても、その苛立ちはなかなか抜けない。


 ほかの六人は少しずつ馴染み始めている。

 笑う者もいる。

 小さな話を交わす者もいる。

 だがカストルには、その輪へ素直に入っていく余地がなかった。


 朝夕の流れが身体へ入りはじめても、それで心まで馴染むわけではなかった。


 入学して一週間。

 寝台の整え方も、点呼の位置も、授業棟へ向かう回廊の曲がり角も、もう間違えない。白い制服の襟を整える指も、初日ほどぎこちなくはない。だが、それはただ、身体が先に覚えただけのことだった。


 クレイスの七人部屋では、アルケスは静かに場所を得つつあった。

 ズヴォルタの厳しさは相変わらずで、寝台のしわ一つ、返事の間一つも見逃さない。だがその厳しさが誰かだけを狙ったものではないと分かれば、むしろ空気は整っていく。ケラノスは相変わらず軽く、けれど限度を覚えていたし、ほかの新入生たちも少しずつ声を交わすようになっていた。


 その中で、アルケスだけが特別扱いされていないことは、彼自身にとって意外なほど息がしやすかった。

 王子として敬われぬわけではない。

 だが少なくとも、ここでは「王子だから先に座る」「王子だから後でいい」という類の気遣いがない。ズヴォルタの前では、誰も等しく寝台を整え、等しく遅れを叱られる。そのことが、朝の冷たい水のようにアルケスの胸を澄ませた。


 一方、カストルの部屋では事情が違った。


 同じクレイスの仮寮であっても、リゴーレのもとに置かれた七人の空気は、もっと静かで、もっと張りつめていた。リゴーレ自身が余計な口を利かないせいもあるのだろう。新入生たちもまた、どこまで話し、どこで黙るべきかを探り合うように暮らしている。


 その中で、カストルだけがうまく馴染みきれなかった。


 最初の日に一人の少年を拒んだことが尾を引いているわけではない。

 いや、それも確かにある。

 だがそれ以上に、カストル自身が、誰かと自然に肩を並べることへまだ慣れていなかった。


王城でも、双子や兄弟と並ぶことはあっても、まったく血の繋がらぬ同年の少年たちと寝起きを共にすることはなかった。しかも相手は、自分へ敬意を払うのが当然と知っている者ばかりではない。そうした違いが、日が経つほどかえって目につくようになっていた。


 授業の合間も、それは変わらない。


 中等部の基礎講義室は、どこも白と金を基調に整えられている。天井は高く、縁の装飾は細やかで、教壇の後ろには五国の紋章が控えめに並んでいた。豪華ではあるが、王城の広間のような“見せるための豊かさ”ではない。人を長時間座らせ、考えさせ、黙らせるための豊かさだった。


 その日の授業は、龍脈の基礎構造に関する講義だった。


 講師が板へ図を引く。

 龍脈の流れ。

 地盤の差。

 そこへ都市機構をどう重ねるか。

 ユルバンフルミネの生徒たちは、露骨ではないにせよ、こういう話になるとどこか呼吸が合う。


 ケラノスも、その一人だった。


「ここの接続、二重に見えるけど、実際は補助路が逃がしてるんだ」


 授業が終わった途端、彼は板の前へ残った数人に向けてそう言った。

 講師へ尋ねるというより、近くにいた生徒たちへ思いつきをそのまま零したような口ぶりだ。


 アルケスは少し離れたところで、その図を見ていた。

 ユルバンの技術は、まだ彼にとって知らぬものが多い。だが知らぬからこそ、どういう理で動いているのか知りたかった。ケラノスの話し方は軽いが、話している内容自体は浮ついていない。その落差が、妙に興味を引く。


「補助路?」


 アルケスが尋ねると、ケラノスはすぐに振り返った。


「うん。ほら、龍脈って強い流れだけ見ても駄目で、逃がし道がないと過熱するだろ。街の灯りも水路も、結局そこをどう作るかなんだ」


 言いながら、指先で空中へ線を引く。

 器械の話をする時と同じだ。

 好きなものを前にすると、相手が王子かどうかより先に言葉が出る。


 アルケスはその指の動きを見た。

 分かるような、まだ分かりきらぬような話だった。

 けれど面白い。

 知らないものを知る時の、胸の奥がわずかに開く感じがある。


 その時、廊下側の席から椅子を引く音がした。


 カストルだった。


 彼は講義が終わってもすぐには立たず、ずっと自分の机に片肘をついていた。龍脈の図そのものには興味がないわけではない。むしろ気になるところは多い。だが、ケラノスが中心になって人の輪ができるのを見ると、そこへ近づく気が失せる。


 しかも今、アルケスまでそこにいる。


「……ずいぶん親しいんだな」


 低く落ちた声に、周囲の空気が少しだけ変わる。


 ケラノスが振り向いた。

 その顔に、いつものような悪びれなさはあっても、軽率な挑発はない。


「親しいってほどじゃないよ。話してただけ」

「そう見えるか?」


 カストルは席を立つ。

 小柄な身体が、近づくほどに逆に棘立って見えた。

 周囲にいた生徒が、何とはなしに口を噤む。


 アルケスは言いかけて、やめた。

 ここで横から抑えれば、カストルは余計に硬くなる。

 分かっているから、まず様子を見るしかない。


 ケラノスは手を下ろした。


「気に障ったならごめん」

「ごめんで済むなら最初からそうしないだろ」


 その言葉には、初日の拒絶の続きがあった。

 敬意を示さず近づいたこと。

 王子であることを抜きにした距離の詰め方。

 カストルの中では、まだ何一つ終わっていない。


「僕は別に、無礼な振る舞いをしたかったわけじゃない」

「だったら尚更たちが悪い」


 教室の空気が静まる。

 まだ誰も止めない。

 止めるべきかどうかを測っているのだろう。


 カストルは一歩近づいた。


「相手が誰かも分からないまま、友達みたいに話しかけるのか」

「分かってたよ」


 ケラノスの声が、初めて少し硬くなった。


「分かってたけど、ここでは同じ新入生だろ」


 その一言は、決して間違っていなかった。

 学園門をくぐった時から、そういう場所なのだと何度も示されている。

 けれど、正しいことがそのまま相手の胸へ収まるわけではない。


 カストルの顔が強張る。


「同じ?」

「少なくとも、授業を受ける席は同じだ」


 そこまで言って、ケラノスは少しだけ息を吸った。

 引くべきか、言い切るべきか、測っている顔だった。


 アルケスはそこで初めて口を開いた。


「そこまでだ」


 低く、短い声だった。

 高く澄んでいた頃とは違う、落ち着いた響きが教室の空気を切る。


 カストルが振り向く。


「アルケス」

「授業のあとだ。騒ぐ場所じゃない」


 叱るというほどではない。

 だが、引くべきところだと示す声だった。


 ケラノスも口を閉じる。

 彼はアルケスを見て、それからカストルを見た。

 笑わない。言い返しもしない。

 ほんの少しだけ、目に落ちた光が沈む。


「……もう話しかけない」


 静かな声だった。


 その一言で、かえって教室の空気が冷えた。

 拒まれたから離れる。

 それだけのことなのに、子供じみた意地でも、拗ねた調子でもない。線を引くと決めた者の声だった。


 カストルは何も言わない。

 言えなかったのかもしれない。


 ケラノスは机の上の器具を拾い上げ、鞄へしまう。その動きはいつもより少しだけ早かった。

 そしてそのまま、アルケスへも余計な言葉を残さず教室を出ていった。


 残された沈黙の中で、アルケスはゆっくり息を吐いた。

 きれいに収まったとは思えない。

 だがこれ以上言葉を重ねれば、どちらにも浅くなる気がした。


 カストルはまだ立ったままだ。

 小柄な身体に、怒りと、それとは別の何かが混じっている。

 悔しさとも、惨めさとも違う。もっと名づけにくいものだ。


「……何だよ」


 ようやく落ちた声は、先ほどまでの鋭さを少し失っていた。


 アルケスは首を振る。


「何でもない」

「嘘つけ」


 噛みつくように返したくせに、その力は長く続かない。

 カストルは乱暴に鞄を掴み、教室の扉へ向かう。

 だが出ていく前に、一瞬だけ足が止まった。


 廊下の向こうでは、もう次の授業へ向かう生徒たちの足音が重なっている。

 その流れの中へ混じれば、今のやり取りもすぐ薄まるはずだった。

 それでも、カストルの肩はしばらく硬いままだった。


 その夜、部屋へ戻っても、空気は少しよそよそしかった。


 セリノスはいつも通り、必要なことだけを言い、あとは黙って寝台を整えている。

 ほかの新入生たちも、カストルへ露骨な視線は向けない。

 だが見ていないわけではなかった。


 リゴーレは何も言わない。

 ただ一度だけ、点呼のあとにカストルの顔を見た。

 それだけで十分だった。

 今日の一件も、訓練で膝を折ることと同じく、彼の目にはきちんと入っているのだと分かる。


 寝台へ腰を下ろすと、部屋の中は早々に静まり始めた。

 白い寝具。

 金具の冷たい光。

 高い窓の向こうの夜。


 カストルは天井を見上げた。

 自分から拒んだ。

 相手は本当に離れた。

 それでいいはずなのに、胸の奥には妙なざらつきが残っていた。


 敬意を払わぬ者と馴れ合う気はない。

 それは本心だ。

 だが、誰かが本当に近づかなくなると、それはそれで別の寒さになる。

 その寒さを、どう呼べばいいのか分からない。


 向こうの棟では、アルケスが今ごろまたケラノスと器械の話でもしているのかもしれない。

 そう思った時、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。


 怒りだけではない。

 羨みとも違う。

 ただ、自分がうまく馴染めずにいることだけが、ひどく鮮明になる。


 そのとき、リゴーレの声が昼間よりも低く胸の奥で蘇る。


 見えているものを、見えているまま捨てるな。


 目を閉じても、その言葉だけが残った。

 七人部屋の夜は誰にも特別な静けさをくれない。

 だが、誰か一人だけをきれいに部屋の外へ追い出しもしない。


 その窮屈さの中で、カストルはようやく、馴染めないことそのものから目を逸らせなくなり始めていた。

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