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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第二十章

【1】


 朝の冷気は、まだ春へ寄りきらぬ鋼のような薄さを帯びていた。

 吐いた息が白くほどけ、馬具の金具がかすかに鳴る。その乾いた音にまじって、ポルックスはひとつ咳を噛み殺した。


 喉の奥に、ここ数か月つきまとっているざらつきがある。痛むほどではない。だが、声を出すたび、以前はなかった引っ掛かりが生まれる。高く抜けるはずの音が半ばで重く沈み、次の瞬間にはまた少し幼い響きに戻る。その不安定さが、自分の口から出るたびに、どうにも落ち着かなかった。


「寒いのか」


 前を向いたまま言った声に、ポルックスは一瞬だけ目を上げた。


 アルケスの声は、もう揺れていなかった。


 少し前まで、彼もまた背の伸びに骨が追いつかぬような時期を過ごしていたはずなのに、今は違う。低くなった声は無理に作られたものではなく、呼吸の底に静かに沈んでいる。たった一言で、以前の少年じみた明るさが消えたわけではないのに、その響きだけで、年月が一気に身を越していったように思える。


「少しだけ」


 そう返した自分の声が、最初の一音でわずかに掠れた。ポルックスは眉を動かさず、そのまま息を継いだ。


「喉が、まだ落ち着かないんだ」


 言ってしまえばそれだけのことなのに、耳に触れる自分の声が妙に頼りなく聞こえる。


 アルケスが振り返る。冬を抜けつつある陽の淡い光が、その翡翠の髪の縁をわずかに透かした。輪郭そのものは以前と変わらないはずなのに、肩の線も、立ち方も、いつの間にか目に見えて変わっている。十一の終わりに並んでいたはずの目線は、今でははっきり差を持っていた。


「水を飲め。あと、無理に張るな」


 短く、だが言い切る調子だった。

 命じるのではない。ただ自然に、そう言う立場の声だと分かる。


 ポルックスは頷いた。


 誰にでも平等な長さで流れたはずだった。だが実際には、同じだけの時を過ごしたとは思えないほど、それぞれを違う形に変えていた。


 アルケスは背を伸ばし、声を深くした。顔立ちにも、幼さの縁を残しながら、すでに人前へ立つ者の張りが差している。


 ポルックス自身も手足の線は伸びた。衣の袖は知らぬ間に短くなり、鏡の前で襟を整える指先にだけ、成長したという事実が宿っている。けれど喉はまだ定まらず、内側にひとつ遅れている場所を抱えたようだった。


 カストルは、その二年を誰よりも静かに受けた。

 ――受けた、というより、受けねばならなかった。


 歩み寄ってきた足音は軽い。軽すぎるほどに。


「先に行くな」


 苛立ちを含んだ声がして、二人は振り返る。


 淡い薄桃の髪を揺らして立つカストルは、年齢だけを聞けば間違いなく十三へ届こうとしている少年であるのに、体つきだけ見ればなお、幼いままだった。かつてより目の光は鋭さを増し、ものを見る速さも、怒りの立ち上がりも変わっている。だが、石畳を打つ歩幅も、外套の裾に埋もれる肩も、どうしても同い年の者たちと並びきらない。


 その小ささを、カストル自身が知らぬはずもない。

 知らぬどころか、誰よりよく知っていた。


「まだ誰も行っていないよ」


 ポルックスがそう言うと、カストルは鼻先で息を鳴らした。


「だったら、いちいち振り返るな」


 言いながらも、その隣へ当然のように立つ。ポルックスは何も言わなかった。双子の間にあるその距離は、もう説明のいらぬものになっている。


 少し後ろでは、シャムが門の方角を見上げていた。


 王城へ迎えられてからの日々が、彼の身のこなしから露骨な粗さを削ぎ落としてはいた。けれど、完全に馴染みきったとはまだ言い難い。立つ位置を知っても、視線の配り方を覚えても、時折、身体のどこかに昔の気配が戻る。


 石の隙間や、門扉の継ぎ目や、雨水の逃げ道に目が行くような、そういう抜けきらぬ現実感が残っていた。


 それでも今朝の彼は、いつもより静かだった。


 高くそびえる学園の外壁を見上げる横顔に、怯えがないわけではない。だが、怯えに呑まれてもいない。知らぬ場へ踏み込む者の目をしている。


 その視線の先に、龍環神市学園の門があった。


 王城の正門とは違う。


 神殿のそれとも違う。

 厚く積まれた石と、古い時代の威容を残したまま整えられた左右の棟。重厚な鉄扉の上には、五国を示す紋章が等距離に置かれ、そのどれもが一国の従属物ではない顔をしていた。


 歴史の中に幾度も補修と増築を重ねてきたのだろう線が、朝の光の下ではむしろ誇らしげに見える。遠目には宮殿にも似ているのに、王宮のような私的な輝きではなく、人を収め、人を測り、人を育てるために築かれた冷ややかな均整があった。


 そしてその外壁には、国ごとに通じる門が設けられている。


 生徒が入る門には、すでに何人もの新入生と従者が集まっていた。付き従う者たちは最後の外套を整え、手袋の皺を伸ばし、控えた声で何ごとかを確認している。


 だが、その中で王子たちが姿を見せると、空気はすぐに引き締まった。


 まず道が空いた。

 ついで、頭が下がる。

 言葉にするより早く、敬意の形がそこに生まれる。


「アルケス殿下」

「ポルックス殿下」

「カストル殿下」


 抑えた声が、順に落ちる。


 シャムに対しては一拍の揺らぎがあったが、それでも無礼に崩れる者はいなかった。王城の内で何が起き、いかなる順で誰が迎えられたか、そのすべてを知る者ばかりではないにせよ、少なくとも“王家の子である”という認識は、もう広く共有されているのだろう。


 門の手前までは、彼らは紛れもなく王子たちだった。


 そのことを、アルケスは当然の顔で受けた。

 ポルックスは視線を伏せすぎず、かといって威を示しもせず、自然な角度で応じる。

 カストルは不機嫌そうに顎を上げたが、それでも乱暴には振る舞わない。

 シャムだけが、ほんのわずかに肩へ力を入れた。


 誰に教えられずとも、ここまでの敬意は国のものだ。

 けれど、その先まで同じだとは限らない。


 門が開く。

 重い鉄の擦れる低音が、石壁の内側でわずかに反響した。


 そこから先に、学園の空気があった。


 わずかに違う、としか言いようがない。


 風の冷たさが変わるわけでも、石の色が急に変わるわけでもない。けれど一歩を踏み入れた瞬間、ここでは何をもって上とし、何をもって正すのか、その基準が王城のそれではないのだと身体が先に悟る。


 迎えに立っていたのは、同国出身の高等部三年生だった。


 名乗ったのは、ネレウス。


 十七、あるいは十八に近いだろう。新入生たちの父兄ほどの威圧はない。だが、成長しきった骨格に無駄なく洗練された制服姿。


 置いた手の位置、視線を向ける順序、そのすべてがすでに学園の側へ整えられている。王城で見る近衛とも違う。廷臣とも違う。若いのに、若さだけでは済まぬ均衡を身に付けていた。


 彼は一礼した。

 深すぎず、浅すぎず、正確な礼だった。


 そこに臣下の恭順はない。

 だが無礼もない。

 ただ、この場で許される最も正しい角度があるだけだった。


「ようこそ、龍環神市学園へ」


 よく通る声だった。まだ若いが、すでに擦れも迷いもない。


「本日、ロンエマフィリア国の門から入学される皆様の案内を担当します。名はネレウス」


 王子たちの前に立ちながら、彼の声音は必要以上に低くも高くもならない。敬称は整っているのに、王城で聞くような過剰な重みは乗せなかった。


 アルケスがわずかに顎を引く。


「頼む」


 その二文字が、朝の冷気の中で静かに落ちた。

 低い。揺れがない。もう完全に変わりきった声だと、ポルックスはあらためて思う。以前ならもう少し明るく跳ねていた語尾が、今は端正に収まっていた。


 対して、自分の喉の奥にはまだ乾いた小骨のような違和感がある。ポルックスは無意識に、飲み下すように息を動かした。


 ネレウスはその場の全員へ視線を巡らせてから、淡々と告げた。


「学園内に入る前に、まず三点、お伝えいたします」


 風が、門柱の陰を抜けて白い息を散らした。


【2】


「第一に、学園内では学園の規律が絶対です。各国の慣習、家ごとの取り決め、身分による例外は原則として認められません」


 ざわめきが、ごく小さく走る。

 だが彼は待たない。


「第二に、本日ここへ入る皆様は、この時点より新入生として扱われます。王族、貴族、国徒、その区分が消えるわけではありません。しかし、学園内における序列と生活の基準は、学園が定めます」


 シャムの指先が、外套の端でわずかに止まった。

 アルケスの表情は動かない。

 カストルだけが、面白くなさそうに目を細める。

 ポルックスは、隣に立つ者たちの呼吸が一瞬だけ揃って浅くなったのを感じていた。


「第三に、本日の試験結果により、仮寮は即日決定されます。皆様はこの後、仮寮生としての装いを受け取り、入学試験へ進んでいただきます」


 ネレウスはそこで、ほんのひと息だけ言葉を切った。


「どうぞ、ご理解ください。ここは王城の延長ではありません」


 静かな声だった。

 しかし門の外で誰もが自然に示した敬意より、その一文の方がよほど重かった。


 アルケスはまっすぐにネレウスを見た。試されることそのものに不満はない、という顔だった。

 ポルックスは、その横顔にわずかな硬さが差したのを見逃さない。

 カストルは口を開きかけ、だが閉じた。

 シャムは視線を上げたまま、黙っていた。


 門の外では、彼らはロンエマフィリアの王子だった。

 だが、門の内では、それだけでは済まない。


 古い石造りの廊下の向こうに、まだ見えぬ中庭がある。


 さらにその先には、高等部の棟と、もう一つの中庭があるのだと、先ほど控えめに告げられた。実際に足を運ばなければ見えぬ造りなのだろう。建物は一目で全貌を明かさず、入る者へ少しずつ己の大きさを知らしめる。そういう種類の威厳を持っていた。


 ネレウスが身を返す。


「参りましょう。制服の受領所までご案内いたします」


 促され、列が動き出す。


 石床に靴音が重なった。

 門の外の土とは違う、乾いて硬い響きである。

 ポルックスは歩きながら、喉の奥に残るざらつきをもう一度だけ意識した。声はまだ落ち着かない。身体のどこかに、子供の終わりが引っ掛かったままだ。


 けれどアルケスの声は、もう戻らないところまで来ている。

 カストルの歩幅は、小さいまま変わらない。

 シャムの沈黙には、知らぬ場へ踏み入る者の硬さがある。


 同じ二年が過ぎても、失われ方は皆違った。

 幼さは均等には剥がれない。

 それでも彼らは、同じ門をくぐった。


 この先、まず白を着せられるのだと、誰もが知っていた。

 まだどの寮にも染まっていない者の色。

 血にも、国にも、個々の願いにも、ひとまず覆いを掛けるための白。


 その白を受け取る前に、ポルックスは一度だけ、門の方を振り返った。


 外では、まだ同国の者たちが控えている。

 だがもう、そこは遠かった。


 石の冷えを帯びた廊下の先で、朝の光が細く曲がる。

 龍環神市学園は、入ってきた子供たちを迎えるのではなく、静かに呑み込んでいく場所のように見えた。


【3】


 受領所は、中等部棟へ渡る回廊の手前に設けられていた。


 外から見れば古城の一部にしか見えなかった石造りも、内へ入ってみれば、ただ古いだけの建築ではないと分かる。高い天井を支える梁の意匠は往時のまま重厚であるのに、壁際には新しい導線が目立たぬよう埋め込まれ、灯りは火ではなく、淡い光を均一に落としていた。床を磨き上げた蝋の匂いの奥に、金属と、乾いた紙の匂いがある。昔からの威厳に、後から足された技術が静かに寄り添っているのだ。


 ユルバンフルミネの生徒であれば、あるいはその仕組みに先に目が行ったのかもしれない。けれどロンエマフィリアから来た新入生たちは、まず並べられた衣装箱の白さに足を止めた。


 白だった。


 並んだ箱も、掛け渡された上着も、紐リボンも、肩章も、手袋も、金具を除けばほとんど余色を持たない。強いて言えば、織りの陰影と布地の厚みだけが、同じ白の中に幾つもの階調を作っていた。


「仮寮生用の制服です」


 先頭に立つネレウスが言う。


「本日より三か月、皆様は観察期間中の新入生として、こちらを着用していただきます。寮色はまだ付きません。功績章も、監督生章も、いかなる家格を示す付属もありません」


 その説明の硬さが、むしろ白さを際立たせた。


 何者でもないとは、もちろん言えない。


 ここに集められた少年たちは、王族であり、名家の子であり、国に選ばれた者たちであり、あるいはそのいずれでもある。


 過去が消えるわけではない。血も、家も、育ちも、持ってきた知識も消えはしない。


 だが、学園はまずそれらの上へ白を被せるのだ。


 まだ属していない者の色。

 まだ定められていない者の色。

 そして、まだ測り終えていない者の色。


 シャムは、目の前に差し出された上着を受け取るとき、ほんの一瞬だけ手を止めた。


 王城へ入ってから与えられた衣は、どれも柔らかく、重く、仕立てのよいものだった。


 袖の長さひとつ、襟の当たりひとつにまで気を配られた服だ。だが今、手の中へ置かれた白い制服には、それとは別種の緊張がある。布地は上質だが、飾るための柔らかさではなく、長く着せることを前提とした張りを備えていた。表地のきめは細かく、裏地も滑る。それなのに、肌へ載せたときの印象はどこか冷たい。


「サイズに不備があれば、後ほど申し出てください。ですが、本日は試験が優先です。軽微な違和はそのまま着用を」


 別の上級生が、列の向こうで淡々と告げている。


 少年たちは順に箱を受け取っていく。

 ロンエマフィリアの高位貴族の子も、地方領主の子も、王子も、同じ箱を抱える。その光景にわずかなざわめきはあったが、驚きの声が上がるほど無作法な者はいない。皆、視線だけで互いを量り、すぐに箱へ目を戻した。


 アルケスは箱を受け取ると、蓋を開け、中の配置をひと目で確かめた。無駄がない。上着、シャツ、ズボン、白の紐リボン、手袋、靴下、必要最低限の留め具。その確認の速さに迷いはなく、あらかじめこういう場を想定していたのではないかと思わせる手つきだった。


 ポルックスは、箱の縁に指先を掛けたまま喉をひとつ鳴らした。乾いた違和感はまだ残っている。けれど、それよりも今は、この白が誰の上にも等しく落ちるという事実の方が、静かに胸へ沈んできた。王子である自分と、列の後方に立つ見知らぬ国徒とが、少なくともこの瞬間、同じ色を手にしている。学園が言う“同じ”は、情けでも慰めでもなく、制度として置かれるものなのだと分かる。


 カストルは受け取った箱を乱暴には扱わなかったものの、その視線はあまり面白くなさそうだった。白い上着をつまみ上げ、袖丈を見て、眉を寄せる。年齢相応に伸びた者たちと同じ規格でないことを悟ったのではなく、むしろ、あまりに自分に合わせてあることに気づいたのかもしれなかった。誰かが事前に寸法を把握していたのだ。この学園は、入る前からすでに見ていたのだと、言葉にされずとも伝わる。


「何だよ」


 小さく呟いた声音に、ポルックスがだけ目を向ける。


「別に」

「別にって顔じゃないだろ」


 掠れた声が少しだけ跳ねた。自分でも分かったのか、ポルックスは口元を引き結ぶ。カストルは鼻で笑うように息を抜いたが、それ以上は言わなかった。


 いつもなら棘の一つも飛んできそうなところで黙ったのは、周囲の気配を読んでいるからか、それともこの白い空気そのものが、短い苛立ちを飲ませたからか。


 アルケスはすでに更衣の指示板へ目を向けている。

「区画別更衣室」の文字。

「受領番号順」。

「十分以内」。

「遅延者は減点」。

 端的で、情けがないほど分かりやすい。


「行くぞ」


 その一言が低く落ちた。

 もう誰も、アルケスの声に以前の名残を探したりはしないだろう。少年の喉を過ぎた響きではあっても、すでにそれは人を動かす声音になっていた。


 更衣室へ向かう列が分かれる。


 シャムは自分の箱を抱えたまま、足を踏み出す前に一度だけ辺りを見回した。天井の高い受領所の奥、半ば開いた扉の向こうに、別の一団が見える。


 王族や貴族の列とは空気の質が少し違う。箱を受け取る手つきに無駄がなく、ざわめきも小さい。目を引いたのは、その中の一人だった。


 王族や高位貴族の列とは空気の質が少し違う。だがそれは、他国の者だからではなく、最初から背負う役割の違いによるもののように思えた。


 その中に、一人の少年がいた。


 灰みを帯びた青銀の髪。

 背は同年代ではやや高い方だろう。

 白い箱を抱える仕草に派手さはない。なのに、どこか妙に目に残る。


 その少年――カイロスは、自分の箱を開く前に、周囲の位置関係を見ていた。誰がどちらの列へ分かれ、どの上級生がどの位置に立ち、どの扉がまだ開いているのか。白い箱を持ちながら、布地より先に場の仕組みを見ているようだった。


 学園へ入るまで、シャムは国徒というものを“国に選ばれて来る生徒”としか捉えていなかった。

 だが、その少年はただ選ばれた者には見えない。

 最初から自分の立つ位置を知っている者の落ち着きがあった。


 カイロスの視線が、ふとこちらへ向く。

 王子だからではない。

 白い列の中で、誰がまだ場へ馴染みきっていないかを見た目だった。


 シャムは先に目を逸らさなかった。

 逸らせなかった、という方が近いかもしれない。


 カイロスもまた、余計な礼を足さず、すぐに自分の更衣室へ入っていく。

 その背を見送りながら、シャムは胸の内に言葉にならぬものをひとつ抱いた。

 王子ではない者もまた、この学園ではただ置かれるのではなく、自分の足で立っているのだ。


 更衣室の中は、簡素な石室に木の長椅子と姿見が並ぶだけだった。だが簡素であることと粗末であることは違う。壁の金具一つ、衣を掛ける横木の角度一つにまで、使う者の動きが計算されている。窓は高く、外からは覗けず、それでいて光だけは十分に入る。ここにもまた、見栄ではない機能の豊かさがあった。


 ポルックスは上着を脱ぎながら、喉を気にして軽く唾を飲んだ。

 布擦れの音。

 留め具の触れ合う小さな金属音。

 少年たちの呼吸が、石壁に吸われていく。


 アルケスは着替えも早かった。シャツの襟を正し、白い紐リボンを結び、上着の肩を整える。その一つ一つに躊躇がない。白はまだ仮の色であるはずなのに、彼が身につけると、不思議と“途中”の色には見えにくかった。定まらぬはずのものまで、自分の側へ引き寄せてしまう立ち姿だ。


 ポルックスは鏡越しにその姿を見て、少しだけ息を詰めた。

 兄弟であることに変わりはない。

 同じように年を越し、同じようにこの門をくぐった。

 けれど十三の輪郭は、誰の上にも同じかたちでは落ちてこない。


 自分の首元へ手をやる。

 白い紐が、以前より長い指にすんなり馴染む。

 鏡の中の顔立ちも、もう幼子のものではない。

 それでも、声だけがまだ追いつかない。


「何回も触るな、曲がるぞ」


 アルケスが言った。

 低い。落ち着いた声だ。


 ポルックスは手を止め、苦笑ともつかぬ表情を鏡へ返した。


「分かってる」

「ならいい」


 短い会話だった。

 けれど、その短さの中に以前よりずっと大人びた静けさがある。


 一方、別室ではカストルが袖を通した白衣の裾を睨んでいた。

 鏡の前に立つと、整った仕立ては残酷なほどに身体の線を映す。小柄な肩、薄い胸、年相応の者の衣とは違う詰め方で合わせられた胴回り。学園側が配慮したのだと分かるからこそ、腹立たしかった。


「……最初から知ってたってことだろ」


 誰にともなく落とした声を、ポルックスだけが聞いた。


「入る前から」

「そうだろうね」


 返事は静かだった。慰めでも否定でもない。ただ事実を言う声である。その方が今のカストルにはましだったのか、彼はそれ以上荒れなかった。


 シャムが最後に白衣へ腕を通したとき、布地の内側が思いのほか体温に馴染まぬことに気づいた。王城で纏う衣のような、包み込まれる安心はない。むしろ姿勢を正させ、動きを整えさせるための服だ。だがそれが嫌だとは思わなかった。学園は着る者を楽にさせるためではなく、型の中へ納めるためにこれを与える。そういう場所なのだ。


 更衣室の外へ出ると、白い少年たちがもう幾列もできていた。


 先ほどまで、門の外ではそれぞれがそれぞれの国の色を背負っていた。服飾の差、装身具の差、付き従う者の数の差。見れば一目で分かる違いが幾つもあった。

 それが今は、ほとんど白で埋められている。


 もちろん完全には消えない。

 立ち方、目線、顎の引き方、袖口を整える速さ。

 そうした細部に、その者がどこで育ち、何を教え込まれてきたかは滲む。

 だが少なくとも、一目で身分を言い当てられるほどの差は消された。


 カイロスは列の中にいた。

 白い制服を着ても、彼だけが特別目立つわけではない。だが、白を“着せられている”のではなく、すでに自分のものとして落ち着かせているように見えた。国徒でありながらロンエマフィリアの側門から入ってきた少年の静けさが、そこにはあった。


 彼は、王子たちの方をちらと見た。

 アルケスにはほんの一拍だけ目を留める。白でもなお崩れぬ姿勢へ。

 ポルックスには、列の乱れではなく、乱れそうな者を先に見ている視線へ。

 カストルには、その小柄さの奥にある反発の火へ。

 シャムには、馴染みきらぬのに視線だけは伏せぬ硬さへ。


 白は等しい。

 けれど、その白をどう着るかは、少しも等しくなかった。


 受領所の奥で、小さな鈴が鳴る。

 試験開始の合図ではない。次の案内へ移るための呼び音だと、すぐに分かった。


 再び姿を見せたネレウスが、列の前へ戻る。


「全員、受領は完了しましたね」


 確認の声音にも揺れはない。


「これより試験棟へ移動します。道中の私語は禁じませんが、歩を乱さぬこと。指定の順を越えぬこと。質問は要点のみ、短く」


 短い説明のあと、彼はわずかに身をずらし、回廊の先を示した。


「あちらに見える庭は中等部側のものです」


 白い列の視線が、つられて奥へ向く。

 石柱の間、遠く切り取られた向こうに、まだ全貌の見えぬ中庭がのぞいていた。冬の名残を残す低木、刈り込まれた芝、中央に置かれた水盤らしき影。近づかねば全体は見えない。むしろ見せきらないことで、建物の奥行きを悟らせるような造りだった。


「高等部側にも、同様の中庭が設けられています。使用区分は異なりますので、無断での立ち入りは減点対象です」


 あくまで案内の一環として言われたのに、その一言だけで建物の広さがひと回り大きく感じられた。これで片側だけではないのだ。まだ見ぬ棟があり、まだ踏み入れていない階があり、まだ自分たちの知らぬ規則が幾重にもある。


 龍環神市学園は、最初から全貌を見せない。

 門をくぐらせ、白を着せ、それでもなお、先を見切らせない。

 そのことが、シャムには少し恐ろしく、少しだけ心を引いた。


「では、参ります」


 列が動き出す。


 白、白、白。

 石の廊下を、まだどの寮にも属さぬ少年たちが進んでいく。

 その中には、やがて王国を継ぐ者も、国の知恵袋となる者も、軍を率いる者も、橋を架ける者もいるのだろう。けれど今はまだ、誰も色を持たない。


 ただ一つ違うのは、その白を着せられた意味を、誰がどこまで理解しているかだけだった。


 シャムは自分の袖口へ目を落とした。

 白い布の上で、指先だけがわずかに日に焼けて見える。

 この色は、過去を消してくれるわけではない。

 だが過去だけでこれからを決めさせもしない。


 そのことが、かえって恐ろしい。

 そして、少しだけ救いにも思えた。


【3】


 試験棟へ向かうのだと思っていた列は、回廊の半ばで静かに折れた。


 先にあったのは、もう一つの大きな棟だった。

 外から見上げた時には、ほかの建物と同じく重厚な石造の一部にしか見えなかったのに、近づくにつれ、その扉の向こうにあるものの気配が変わる。


 扉が開く。


 まず、温かな空気が頬を撫でた。

 焼いたパンの匂い。

 煮た野菜の甘さ。

 溶けた乳脂のやわらかな香り。

 その向こうに、白く磨かれた空間がひらける。


 シャムは一歩、足を入れたところで目を上げた。


 高い天井だった。

 ただ高いのではない。白を基調とした曲面に、金の縁取りが細く流れ、その間を埋めるように天井画が広がっている。雲を裂いて伸びる龍の影、光に照らされた穂波、帆を膨らませる船、祈る人影、剣を掲げる者。遠くからでは細部までは見えないのに、それでも一つの国だけの誇りではないと分かる絵だった。

 柱には彫刻が絡み、白い石の肌の上で、金が朝の光をかすかに返している。


 食堂というより、祝宴の広間のようだった。

 だが王城のそれよりも、整い方が冷たい。


 長卓が幾列も伸び、そのあいだを通るための空間まで美しく揃っていた。卓上には白い皿と銀のカトラリーがすでに置かれ、椅子の背も、足元の間隔も、何百もの少年をいっせいに座らせるためにきっちり測られているように見える。


 上を見れば、二階の縁に張り出したバルコニー席があった。

 欄干は白い石に金の細工。そこにも、すでに何人かの生徒が座っている。彼らは新入生と同じ白ではなく、すでに所属の色を身につけていた。


 ネレウスが歩を止めずに言う。


「朝食はこちらです」


 それだけだった。

 けれど十分だった。

 ここがただ腹を満たす場所ではないことは、空気の方が先に教えてくる。


 列がほどけていく。


 ここで初めて、他国の新入生たちが同じ場へ集まった。


 白い制服はみな同じはずなのに、混じれば違いが見える。

 ユルバンフルミネの生徒は目の動きが速く、壁や灯りまで一度に見ている。

 サブマの生徒は肩や顎の引き方が端正だった。

 コメルシオの生徒は流れへ入るのがうまい。

 エジェルシトの生徒は立つだけで背筋の線が硬い。


 ロンエマフィリアの少年たちもまた、その中へ入る。


 白は等しい。

 それでも、誰一人同じには見えない。


 ポルックスは食堂へ入ってすぐ、卓の並びより先に二階を見た。

 あの席からは下の長卓がよく見えるはずだ。どの列が乱れ、誰が落ち着かず、誰が周囲を見すぎているかまで。喉の奥にはまだ乾いたざらつきが残っていたが、それ以上に、この空間そのものが肌へひっかかった。


「……すごいな」


 誰かが小さく漏らす。

 感嘆とも、怯えともつかない声だった。


「面倒そう、の間違いだろ」


 カストルが吐き捨てるように言う。

 その声は鋭いが、食堂の広さに飲まれて遠くへは響かなかった。


 アルケスは振り返らないまま言う。


「騒ぐな」


 短い。

 けれど、その低い声だけで三人の歩幅がそろう。

 かつての高い響きはもうどこにもなく、今のアルケスの声は石の床に落ちてそのまま沈むようだった。


 ポルックスは黙ってついていく。

 喉の奥で、自分の声だけがまだ定まらない。

 兄弟で同じ年を越したのに、成長はこうも違うのかと、こういう時だけ嫌でも思う。


 配膳台の上には、一人分ずつ整えられた盆が並んでいた。


 焼いた平たいパン。

 卵料理。

 温野菜。

 肉。

 果実。

 湯気を立てるスープ。

 飲み物。


 一見すれば、どれも同じだ。

 だが近くへ寄ると、肉の種類が違うもの、香辛料を抜いたもの、乳を使わぬ飲み物へ替えられたものが静かに混じっている。小さな札が置かれているだけで、遠目には目立たない。


 シャムはそこに妙な感心を覚えた。

 違うものを違うと大きく掲げずに、最初から一つの流れに収めてある。

 この学園は、誰かを特別に気遣っているようには見せない。けれど、見えないところで最初からそうなるよう組んでいる。


 少し離れた列に、ロンエマフィリアの国徒たちがいた。

 各国五人ずつ。最初からスフェラに属する者たち。

 王子たちのように視線が集まるわけではないのに、その中の一人がシャムの目に留まる。


 灰みを帯びた青銀の髪。

 白い盆を受け取る前に、食堂の奥行きと二階の席をひと目で見ている。


 その視線は、豪華さに呑まれている者のものではなかった。どこへ立てばよく見えるか、どこから見られているかを先に掴もうとする目だ。


 カイロス。


 先ほど名簿の流れの中で耳にしたその姓を、シャムはまだ声には出さない。

 相手もこちらを王子として見るというより、同じ白を着せられた新入生の一人として見ているようだった。


 席は国ごとにきっちり分けられてはいなかった。

 かといって、完全に散らされてもいない。

 自国の者の姿は見える。だが自国だけでは固まれない。そういう並べ方だ。


 アルケスの隣にはエジェルシトの少年が座り、その向かいにはサブマの生徒がいた。

 ポルックスの斜め前にはコメルシオ。

 シャムの卓にはユルバンフルミネの生徒がいる。

 カストルは席へ着くなり、まず椅子の高さを確かめるように小さく体を動かした。


 上から視線が落ちてくる。

 見上げなくても分かる。

 二階の特別生徒たちは、露骨に新入生を品定めしたりはしない。だが、見ていないわけでもなかった。


 白い皿に、食器の触れる音が小さく鳴る。


「いただきます」


 どこからともなく上がった声が、広い食堂の中で波のようにひろがった。

 号令ではない。

 それでも揃ってしまう。


 アルケスは迷いなく食べ始めた。

 早すぎず、遅すぎず、周囲を不必要に意識もしない。そういうところが、いちいち似合うのだとポルックスは思う。


 ポルックス自身は最初にスープへ手を伸ばした。

 温かさが喉を通ると、ざらつきが少しだけ和らぐ。


 声変わりの途中にいる喉は、些細なことで機嫌を損ねる。こういう時、それを意識している自分が少し嫌だった。


 カストルは肉に目をやったあと、先にパンを取った。

 不機嫌そうな顔のままでも、体へ負担の少ない順を自然に選んでしまうあたりが、かえって痛々しい。


 シャムはスープを口に運んで、ほんの少し目を見開いた。

 温度がちょうどいい。

 ぬるくもなく、熱すぎもしない。

 何百人に出す朝食で、これを崩さないのかと、それだけで学園の大きさが分かる。


 向かいのユルバンの生徒は、食べながらも時折天井画へ目をやっていた。

 隣のサブマの少年は、器を置く音まで静かだ。

 エジェルシトの生徒は背を崩さない。

 コメルシオの生徒は、誰かに話しかけるとしても今ではないと分かっている顔をしている。


 五国の少年たちが、同じ朝食の席についていた。


 王族。

 貴族。

 国徒。

 育ちも血も、これまで立っていた場所も違う者たちが、白と金の光の下で同じ皿を前にしている。


 シャムはそのことを、ようやく実感しはじめていた。

 王城の外に出たのだと頭では知っていた。

 けれど今、知っていた世界よりずっと大きなものの中へ、自分が置かれているのだと身体で分かり始めている。


 食事の半ば、二階で椅子が引かれる音がした。


 静かな音だったのに、広い食堂にはよく通った。

 一人の特別生徒が立ち上がり、欄干のそばまで歩く。


「新入生諸君」


 若い声だった。

 だが空間の上から落ちてくるその声は、下にいる全員を自然と黙らせた。


「朝食後、入学試験を開始する。皿を置くまでが朝食だ。移動の際に列を乱すな。私語は禁じないが、必要以上に周囲の妨げとなるな。以上」


 短い。

 それだけで十分だった。


 カストルが小さく鼻を鳴らす。


「本当に、食うだけじゃ済まない」


 ポルックスは笑いそうになって、喉を気にしてやめた。

 アルケスはもう食器を揃え始めている。

 シャムは最後の一口を飲み込み、白い皿の縁を見つめた。


 学園は、空腹のまま試験へ送り出さない。

 けれど、満たして安心もさせない。


 食べ終えた者から立ち、盆を返却台へ運んでいく。

 白い列が、長卓のあいだをゆっくり流れる。


 カイロスもその中にいた。

 盆を置く手つきに無駄がなく、一度だけ二階の席を見上げてから、すぐ正面へ向き直る。

 怯えてはいない。

 けれど、見ていないわけでもない。

 自分がどの位置から始まるのかを、最初から理解している者の目だった。


 食堂の外には、朝の冷たい光がまだ残っている。

 そこへ出れば、もう試験棟だ。


 白い少年たちが、再び列をなして動き始める。

 今度は食べるためではなく、測られるために。


 石床へ落ちる靴音が、さっきより少しだけ重く聞こえた。

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