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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十九章

【1】


 辺境に、冬の気配がいよいよ深く降りてきていた。


 朝の水は薄い刃のように冷え、夜のあいだに石へ溜まった寒気は、陽が高くなってもすぐには消えない。けれど、空だけはひどく澄んでいた。遠くの尾根はくっきりと見え、川筋の光は白く、乾いた風が吹くたび、枯れ草の匂いがかすかに立つ。


 ローディスが館へ戻ったのは、そうした空の下だった。


 門前に馬のいななきがひとつ響き、そのあとで石畳を踏む蹄の音が近づいてくる。館の者たちは誰に言われるでもなく動きを整え、廊下の空気までがわずかに引き締まる。主が戻る時には、屋敷そのものが自然にそうなるのだった。


 ヴィルギニスは広間まで出た。


 重い扉が開く。外気とともにローディスが入ってくる。外套の裾には乾いた土が薄くつき、肩にはごく小さな白い粉が残っていた。朝早くから馬を出し、冷えた道を長く戻ってきた者の姿だったが、歩みには疲れより先にいつもの確かさがあった。


「お帰りなさいませ」


 そう言うと、ローディスは一度だけこちらを見た。


「戻った」


 短い返答だった。

 それだけなのに、ヴィルギニスは胸の内で小さく力が抜けるのを感じた。数日ぶりに聞く声が、思いのほか安堵を連れてきたのだと、その時になって気づく。


 報告は、その日のうちに執務室で行われた。


 窓の外には、冬の入り口の白い光がまだ残っている。だが室内は早くも冷えを帯びており、火鉢の熱がなければ指先が固くなりそうだった。


 ヴィルギニスは、商会の件を最初から順に話した。


 四兄弟の不和。

 煙草盆。

 その引き出し。

 中に収められていた石。

 価値を見失ったあとの決裂。

 そして隕鉄を知り、再び商会へ足を運んだこと。

 山道の先にあった大きな岩と、その後の話し合いまで。


 ローディスは最後まで口を挟まなかった。


 大きな体を椅子に預け、片手を卓へ置いたまま、ただ聞いている。だがその沈黙は、関心の薄さから来るものではない。むしろ逆で、余計な合いの手を入れず、相手に最後まで話させる時の聞き方だった。


 話し終えると、しばらく静けさが落ちた。


 火のはぜる音が、ひどく小さく聞こえる。


 やがてローディスが言った。


「悪くない」


 ひどく短い評価だった。

 だが軽くない。


「お前は、途中で余計なことを言わなかった」


「そのくせ、見過ごしてもいない」


 そこで一度、視線が細まる。


「見届けるところまで行ったのはよかった」


 ヴィルギニスは黙ってその言葉を受けた。


 褒められているのかと問われれば、そうなのだろう。

 けれどそれ以上に、見られていたのだと分かる言葉だった。


 ローディスは続ける。


「とはいえ」


 その一語で、空気が少しだけ変わる。


「お前が今ここで見ているものと、学園へ入ってから求められるものは、重なる部分もあれば、そうでない部分もある」


 ヴィルギニスは目を上げた。


「はい」


「入る時期が少し遅れる以上、その遅れが、そのまま学びの遅れになっては困る」


 言い方は実務的だった。

 情に流さず、ただ必要を必要として置く声音だ。


「だから、人を呼んだ」


 ヴィルギニスは一瞬だけ言葉を失った。


「……人、ですか」


「家庭教師だ」


 ローディスは言う。


「学園へ出した時、余計なところで躓かせぬためのな」


 その一言に、胸の内で何かが静かに動く。


 自分は待たされている。

 そう思う瞬間がなかったわけではない。


 だが、待たされているだけではないのだと、その言葉ははっきり示していた。遅れを埋めるために、人が呼ばれている。備えを与えられている。そういう事実は、思った以上に胸へ深く入る。


「どなたを」


 ヴィルギニスが問うと、ローディスはわずかに口元を歪めた。


「私が若い頃、龍環神市学園で机を並べた男だ」


 その答えだけでも、ヴィルギニスの目は少し開いた。


 ローディスの学園時代を知る人間。

 しかも、いまここへ来る。


 それだけで十分に興味を引かれる。だが、ローディスの言葉はそこで終わらなかった。


「ユルバンフルミネの出だ」


 その国名が落ちた瞬間、ヴィルギニスの呼吸はわずかに変わった。


 ユルバンフルミネ。


 五国の中でも、他の国とは色の違う場所だ。科学技術と都市文明の国。書物の上では何度も見てきた。だが辺境で、その出身者に会うことはほとんどない。風土も、ものの考え方も、技術の発達も、この土地とはあまりに違う。


 ローディスは、その変化に気づいていたらしい。


「珍しい顔をする」


「……興味は、あります」


「だろうな」


 そこで初めて、ほんのわずかに笑う気配があった。


 扉が叩かれる。


 ローディスは「入れ」とだけ言った。


 入ってきた男は、辺境ではあまり見ぬ種類の人間だった。


 背は高く、痩せているわけではないが肉のつき方が軽い。着ている衣も、この館の者たちのそれより線が細く、襟や袖の作りがどこか洗練されている。飾り立ててはいないのに、余分を落とした先に残る整いがあった。目元は鋭いが、冷たいというよりよく見ている目だった。


「待たせたか」


 ローディスが言うと、男は片眉をわずかに上げる。


「君に待たされるのは、今さら珍しくもない」


 ごく自然な返しだった。

 遠慮のなさが、長い付き合いを先に語っている。


 ヴィルギニスはそれを見て、心の内で小さく驚いた。ローディスへ向かって、こういう調子で言葉を返す人間を、この辺境ではめったに見ない。


 ローディスは紹介する。


「エーリオ・ヴァレスだ」


「ユルバンフルミネの出で、学園時代に私と同級だった」


 エーリオは、ごくきれいな所作で一礼した。


「はじめまして、ヴィル殿」


 その呼び方に、余計なことを知っていても口にしない配慮が見えた。


「あなたが学園へ向かうまでのあいだ、少々骨の折れることを一緒にやるよう頼まれています」


 声は柔らかい。

 だがその柔らかさの内側に、測る者の静けさがある。


 ヴィルギニスも礼を返した。


「よろしくお願いいたします」


 エーリオはその顔をまっすぐ見て、それからほんのわずかに目を細めた。


「なるほど」


 独り言に近い声だった。


「辺境伯が手紙で言っていた通りの目をしている」


 ローディスが不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「余計なことを言うな」


「余計かどうかは、これから決まるだろう」


 エーリオは平然としている。


 そのやり取りを見ながら、ヴィルギニスは胸の奥に、まだ名前のつかぬ小さな熱が灯るのを感じていた。


 辺境では珍しい国の人間。

 ローディスの過去を知る人間。

 そして、自分の学びのためにここへ来た人間。


 遅れている時間ではない。

 備えるための時間なのだと、その場の空気そのものが、静かに教えていた。


【2】


 授業は、その翌日から始まった。


 館の東側、冬の光が比較的長く残る小部屋が使われた。広くはない。だが壁には簡素な書棚があり、窓辺には測量具と地図立てが置かれ、中央の卓はふたりで向かい合うのにちょうどよい大きさだった。もともとは帳場か記録の整理に使われていた部屋なのだろう。華やかさはなく、けれど学ぶためには不足がない。


 その朝、ヴィルギニスが部屋へ入ると、エーリオはすでに窓辺に立っていた。


 辺境の朝は白い。

 硝子の向こうで、遠い尾根の線が冷たく光っている。


「時間ぴったりだ」


 振り返りもせずにそう言ってから、エーリオはようやくこちらを見た。


「辺境伯は、遅れぬことを良しとする人だ」


「遅れれば怒られるから、ではなく」


 そこで口元をわずかに動かす。


「遅れぬ方が、後で楽だから」


 ヴィルギニスは小さく頷いた。


「はい」


「君はその点、ずいぶん既に楽を知っている顔をしている」


 からかわれているのか、見られているのか、すぐには分からぬ言い方だった。


 だが不快ではない。


 エーリオは卓へ向かい、白紙を一枚置いた。


「では始めよう」


 最初に書かれたのは、一本の線だった。


 まっすぐでもなく、かといって大きく蛇行もしていない、ゆるく曲がる一本の線。


「これは何だと思う」


 ヴィルギニスは紙を見る。


「川ですか」


「そう見える理由は」


 問いがすぐ返る。


 ヴィルギニスは一瞬だけ黙った。


 川だと思った。

 だが“そう見える理由”までは口の先に乗っていない。


「流れの線に見えるから、です」


「曖昧だ」


 エーリオはそう言ったが、責める響きはなかった。


「曖昧というのは、間違いと同じではない。ただ、他人へ伝えた時に弱い」


 そう言ってもう一本、別の線を引く。


 今度は少し短い。

 最初の線を途中で横切るような位置に置かれた。


「ではこれは」


「道、かもしれません」


「かもしれない、ではなく」


 そこでエーリオは紙から顔を上げた。


「君が他人へ伝えるなら、何として出す」


 ヴィルギニスは視線を落としたまま考える。


 辺境で見てきたものなら、目の前にあれば分かる。

 水か道か。

 土の湿り、轍の深さ、風の抜け方で、おおよそは身体が先に判断する。


 けれど紙の上では、それだけでは足りない。


「……道として記します」


「よろしい」


 エーリオは頷いた。


「大切なのは、まず“自分がどう定めるか”だ」


「学園では、見たものそのものより、見たものをどう名づけ、どう他者へ渡すかを問われる場面が多い」


 それはローディスの教えとは違った。


 ローディスはまず「見ろ」と言う。

 どこがどう違うか、何がどう流れているか、見えるまで見ろと。


 だがエーリオは、「見たあと、どう立てるか」から入る。


 同じ学びではない。

 けれど、別のものでもなかった。


 午前のあいだ、ヴィルギニスは何度も紙の上へ線を引かされた。


 川。

 道。

 境界。

 堰。

 集落。

 見張り台。

 倉。

 橋。


 それぞれをどう記し、どう区別し、どの順で他者へ見せるか。

 地図を描くのではない。

 構造を立てる練習だった。


 昼前になると、エーリオは紙を重ねて脇へ置き、今度は小さな帳面を開いた。


「次は逆だ」


「逆、ですか」


「そう」


 帳面を卓の上へ滑らせる。


「書かれているものから、現場を立ち上げる」


 記されているのは簡素な報告だった。


 雨量。

 水位。

 破損。

 労働者数。

 所要日数。


 一見すればただの数字と単語の列にすぎない。

 だが、エーリオはそれを指先で押さえながら言う。


「辺境伯は、現場へ出れば分かる」


「だが学園では、出る前に読んで分からねばならぬこともある」


 ヴィルギニスは帳面の文字を追った。


 乾いた記録だ。

 血も匂いもない。

 けれど、そこから立ち上がるべき現場がある。


 壊れた堰。

 増水した流れ。

 足りぬ人手。

 削られる日数。


 それらを、数字の裏から一つずつ拾い上げていく。


「……三日では足りません」


 ヴィルギニスがそう言うと、エーリオは目だけで頷いた。


「なぜ」


「人手が足りないから、では弱い」


 問いは、すぐ続く。


 ヴィルギニスは言葉を探した。


「崩れた範囲に対して、記されている人数が少ないです」


「それに、雨量のあとに水位の戻りが遅い」


「土が重くなっているはずです」


「なら、掘り返しと補強の両方に時間がかかる」


 言いながら、自分の中で現場が立ち上がっていく。


 これは辺境で見てきたものだ。

 ただ、それをいまは紙から逆に引き出している。


 エーリオが初めて少しだけ笑った。


「よく見ている」


「君は、現場の匂いをまだ覚えているね」


 その言い方に、ヴィルギニスの胸の内は静かに温まる。


 学園へ向かうための学び。

 けれど、それは辺境で得たものを消して別のものへ作り替える学びではないらしい。

 むしろ、ここで得た目を、別の形へ通じるよう整えている。


 それが分かっただけで、肩のどこかが少し軽くなる。


 午後になると、授業はまた違う顔を見せた。


 今度は礼法だった。


 だが王城の作法とは少し違う。


「礼は姿勢だけではない」


 エーリオはそう言って、椅子へ座る。


「沈黙の置き方も礼だ」


「視線を外す角度も礼だ」


「相手の話を遮らぬ間も礼だ」


 ヴィルギニスは静かに聞いていた。


 王城では、礼法は“正しさ”として教えられることが多かった。

 だがエーリオはそれを、“対話の構造”として教える。


「辺境では、黙ることに意味がある場合が多い」


「だが都市では、黙ることで相手に主導を渡しすぎることがある」


 そこで、わずかに指先を動かす。


「逆に、すぐ答えることが軽さに見える場もある」


「だから、礼法は形だけ覚えても足りない」


「どういう場で、どういう沈黙が最も適切か」


「そこまで分かって、初めて“身についている”と言える」


 ヴィルギニスは思わず問い返した。


「そこまで、皆考えているのですか」


 エーリオは小さく笑う。


「考えていない者も多い」


「だが学園には、考えずにそれをやってのける家の子と、考えねばできない子が同時にいる」


「そして、どちらも同じ場に立たされる」


 窓の外で風が吹いた。


 乾いた枝が硝子をかすめるように鳴る。


 ヴィルギニスは、その言葉を胸の内で反芻した。


 考えずにできる者。

 考えなければできぬ者。


 そして、自分は間違いなく後者だ。


 けれど、不思議と惨めではなかった。


 考えれば届くのなら。

 学べば間に合うのなら。

 それはむしろ、進める道があるということでもある。


 数日もすると、授業の時間は生活の一部になった。


 朝、冷えた空気の中を歩いて小部屋へ向かう。

 紙に線を引き、帳面を読み、異国の考え方に触れ、問いを返され、言葉を探す。


 エーリオは決して甘くなかった。


 曖昧な答えには曖昧だと言い、甘い推測はその場で崩す。

 だが、分からぬことを恥とはしない。

 むしろ、分からぬと知ったあとにどう立て直すかを見ていた。


 ある日、夕方近くになって、エーリオはふと窓の外を見た。


 そこには、辺境の乾いた光が傾きかけている。


「君は、この土地をよく見ている」


 唐突な言葉だった。


 ヴィルギニスは顔を上げる。


「はい?」


「辺境だ」


 エーリオは言う。


「水も、風も、土も、人も」


「それは悪くないどころか、かなり強い」


 そして、そこで一度だけ声を落とす。


「だが学園へ行けば、そこに“それだけでは足りない”瞬間が来る」


 ヴィルギニスは黙って聞いた。


「だから私は、君に別の見方を足している」


「辺境を捨てさせるためではなく」


「持って出て、なお足りるようにするために」


 その言葉は、思っていた以上に深く胸へ入った。


 遅れているのではない。

 足されているのだ。


 ローディスのもとで見てきたもの。

 この土地で身体に入ったもの。

 それらを失わぬまま、さらに別の知が重なっていく。


 夕方の白い光の中で、ヴィルギニスははじめて、自分が少し遅れて学園へ向かう時間そのものを、前ほど冷たく感じていないことに気づいた。


【3】


 その日の夕食は、小さな食卓で取られた。


 大広間ではない。

 客を迎えるための部屋でも、家の者を多く集めるための場でもなく、ほんの限られた人数のために使われる静かな一室だった。壁際の燭台には低く火が入り、卓の上へ落ちる明かりは柔らかい。窓の外はもう暗く、冬へ向かう辺境の夜が、石壁の向こうにひっそりと沈んでいる。


 料理は温かかった。


 肉を香草とともに煮込んだ皿から湯気が立ち、焼かれた根菜にはまだ火の甘みが残っている。割ったばかりのパンの内側は白く、指先へかすかな熱を返した。華やかさはない。けれど、この土地で日々の働きを支えるには、こういう食事の方がずっとふさわしいのだと、ヴィルギニスはもう知っていた。


 ローディスは向かいに座っていた。


 重い外套は脱いでいるが、その肩の厚みと両手の大きさだけで、卓の向こうにいる人の存在は十分に分かる。昼間に執務室で向かい合う時とは、空気が少し違う。物事を裁くためではなく、一日の終わりを受け止めるために座る時だけの静けさがあった。


 しばらくは、食器の触れ合う音だけが続いた。


 無理に埋める必要のない沈黙だった。

 こういう時間が流れることに、ヴィルギニスは少しずつ慣れ始めている。王城にいた頃の食卓なら、沈黙はもっと別の意味を持った。誰が何を考え、何を伏せ、何を待っているのかを測るための時間になることも少なくなかった。だがここでは、黙っていることがそのまま不穏にはならない。


 ローディスが先に杯へ手を伸ばし、ひと口だけ口に含んでから言った。


「授業はどうだ」


 問いは短かった。


 それだけに、あらかじめ用意された会話ではないことが分かる。

 何をどう答えるかは、こちらへ預けられていた。


「……面白いです」


 ヴィルギニスはそう言ってから、自分でも少し考える。

 もっと別の言葉もあったかもしれない。難しい、骨が折れる、頭を使う、疲れる。どれも間違いではない。けれど、それらをまとめてなお先に立つのは、その一語だった。


 ローディスは、それを聞いてごく小さく頷いた。


「そうか」


 それだけなのに、その返しは軽くなかった。

 見立てが外れていなかったことへの納得に近い。


「辺境で学んだこととは、かなり違います」


 ヴィルギニスは続けた。


「ここで見て覚えたものを、他の者にも分かるように言葉にするのが、思っていたより難しい」


 ローディスはナイフを置かずに言う。


「当たり前だ」


 肉を切り分ける動きに迷いがない。


「見えている者は、自分の見えているものを軽く思いがちだ」


「自分には見えているからな」


 そこでいったん手を止める。


「だが、それを他人へ渡すとなれば話は変わる」


 ヴィルギニスは卓の上に落ちる灯りを見た。


 ローディスの言葉はいつも飾らない。

 だが、その飾らなさの中に、長く積み上げてきたものの確かさがある。だからこそ、短くても揺れない。


「エーリオ殿は」


 ヴィルギニスは少しだけ考えてから言葉を継いだ。


「見たものそのものより、見たあとで何をどう立てるかを先に問います」


「うむ」


「閣下はまず、見ろとおっしゃる」


 ローディスはそれを聞き、今度はほんのわずかだけ目を細めた。


「どちらも要る」


 ひどく簡潔な答えだった。


「見えぬものは立てられん」


「だが、立てられぬものは他人に使えん」


 その二つが並べられた時、ヴィルギニスの胸の中で、辺境で学んできたことと、いま新しく与えられているものが、ようやくひと続きのものとして繋がる感覚があった。


 しばらくのあいだ、再び静かな食事の時間が流れる。


 外では風が石壁を撫でていた。窓の向こうの夜は深く、ガラスの向こう側にはもう光らしい光もない。だが部屋の中には湯気と火と、食事の匂いがある。そのあたたかさの中で、ヴィルギニスはふと、自分が口にしようとしていることに気づいた。


 迷いはあった。

 けれど、いったん浮かんだものは、そのまま沈まなかった。


「……遅れていると、思うことがあります」


 言ってしまってから、杯の縁へ目を落とす。

 自分でも、今この場で出すつもりのなかった言葉だった。


 ローディスはすぐには答えなかった。


 火のはぜる音が、やけに小さく聞こえる。

 その沈黙のあいだに、ヴィルギニスは自分の言葉が軽く扱われなかったことを知る。


「遅れているだろう」


 やがて返ってきたのは、否定ではなかった。


 ヴィルギニスは顔を上げない。


「実際、遅れている」


 その事実は、そのまま置かれる。

 慰めもごまかしもない。


 それが、この人らしいと思った。


 だがローディスは、そこで終わらせなかった。


「だが、遅れは一つではない」


 その声は低いままだったが、どこかで温度が変わる。


 ヴィルギニスはそこでようやく目を上げた。


「時期が遅れていることと、中身が遅れていることは別だ」


「お前は今、その違いを埋めている」


 言葉は短い。

 けれど、その短さの中にあるものは重い。


 学園へ行く時期が遅れることは、胸のどこかにずっと刺さっている。王の手紙に詫びが添えられていたからこそ、それはなおさら現実の痛みとして残っていた。

 けれど今、ローディスはその痛みを消そうとはせず、その上へ別の足場を渡してきた。


 遅れている。

 だが、それだけではない。


 それをそう言われるだけで、胸の奥のどこかが、少しだけ息をつける。


 ローディスはそれ以上、その話を長く引かなかった。


 代わりに、皿の脇へナイフを置きながら言う。


「商会の方は、報告どおりか」


 ヴィルギニスは頷いた。


「はい。大きく崩れた様子はありません」


「末の者は」


「まだ完全には信じられていません」


 答えながら、あの山道の空気を思い出す。

 岩の前に立っていた時の、四人の顔の変わり方を。


「ですが、外されてもいません」


 そう言うと、ローディスは小さく息をついた。


「それでいい」


 そして、少し考えるように目を伏せる。


「長男はどうだ」


「前より、他の三人を“使う”方向で見ています」


 言ってから、ヴィルギニスはわずかに言葉を探した。


「……ただ、まだ信じているとは言えません」


 ローディスは即座に首を振った。


「信じる必要はない」


 その言い方は、どこまでも実務に根ざしている。


「最初からそんなものを求めるな」


 少しだけ間を置く。


「家を回す時にまず要るのは、信頼より順序だ」


「順序があれば責任が生まれる」


「責任が積もれば、その後でようやく信頼が育つ」


 ヴィルギニスはその言葉を聞きながら、煙草盆の組み木を思い出していた。


 違う色の木が、違う木のまま、一つの面を作っていた。最初から同じではない。だが順序があり、役目があり、それぞれがその場所に収まっていた。


「煙草盆のことを、まだ考えているな」


 ローディスがふいに言う。


 ヴィルギニスは思わず顔を上げた。


「……はい」


「顔に出ている」


 いつも通りの、少しだけ素っ気ない言い方だった。

 だが、叱る響きはない。


 ヴィルギニスはわずかに息をついた。


「父親は、最初からあれを残すつもりだったのだと思います」


 言葉を選びながら続ける。


「ただ財を隠したかったのではなく」


「四人が、違うままでも一つの形を作れると、そういうものを置きたかったのではないかと」


 ローディスは黙ってそれを受け止めた。


 すぐには何も言わない。


 窓の向こうで風がまた石壁を撫でる。

 燭台の火が、ほんの小さく揺れた。


「そうかもしれん」


 やがて返ってきた声は低く静かだった。


「そして、そう読めるようになったなら、お前はあの件で十分に得るものを得た」


 それは商会の問題を収めたこと以上の評価のように、ヴィルギニスには聞こえた。


 物事を、ただ表の出来事としてではなく、残された形の意味まで読む。

 そういう目が育ったのだと、そう言われている。


 食卓の上の灯りは低く、湯気はもう薄くなっていた。


 豪華な夕食ではない。

 けれどこの静かな食卓で交わされる言葉の一つひとつが、学園へ出る前に与えられるものとして、確かに胸へ積もっていく。


 最後にローディスが杯を置き、何でもないような顔で言った。


「授業は続けろ」


「商会も、ときどきは見ておけ」


 そして、そこでほんのわずかに言葉を切る。


「疲れた顔は、隠せるうちは隠しておけ」


「隠しきれなくなってからでは遅い」


 気遣いなのか、忠告なのか、その境をあえて曖昧にした言い方だった。


 ヴィルギニスは短く答える。


「……はい」


 それで十分だと、互いに分かっている。


 それ以上、夜の食卓に多くの言葉は要らなかった。

 ただ、火の色と食事のぬくもりの中で、辺境で見てきたものと、これから学ぶものとが、静かにひとつへ寄っていくような夜だった。


【4】


 少女と久しぶりに言葉を交わしたのは、風の弱い午後だった。


 冬の入り口の空は明るいのに、陽のぬくもりはもう薄い。館の裏手へ回ると、石壁の影は冷たく、地面には朝の冷えがまだ少し残っている。けれど、その奥にある小さな温室だけは別だった。硝子越しの光がやわらかく落ち、湿った土の匂いと、季節外れの緑の匂いが、外の乾いた空気を少しだけ忘れさせる。


 ヴィルギニスは、ただ少し外の空気が吸いたくてそこへ足を向けた。


 授業のあとだった。

 紙とインクと、答えを急がぬ問いの中に長くいた頭を、そのまま狭い部屋へ閉じ込めておきたくなかったのだと思う。


 温室の扉を開けると、そこで少女が振り返った。


 膝の上に布を広げ、小さな針を動かしていたらしい。日差しがその指先へ落ち、白い糸だけが淡く光っている。


「あ」


 先に気づいたのは向こうだった。


「ヴィル」


 その呼び方に、ヴィルギニスは肩のどこかがわずかにゆるむのを感じた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 少女はそう返してから、すぐには針を戻さなかった。膝の上の布を軽く押さえたまま、こちらを見ている。


 その視線が、少しだけ長い。


「……何かついていますか」


 ヴィルギニスがそう言うと、少女は首を振った。


「ううん」


 それから、少し考えるように眉を寄せる。


「なんか、疲れてる」


 言い方はまっすぐだった。

 飾りも遠慮もない。


 ヴィルギニスは一瞬だけ言葉を失った。


 ローディスやエーリオに見られるのとは、少し違う。もっと生活の近くから来る見方だった。眠れているか、食べているか、ちゃんと座れているか、そういうところから相手の具合を測る人間の言い方だ。


「そう見えますか」


「見える」


 少女はあっさり言う。


「前より、ちょっとだけ顔が薄い」


 顔が薄い、という言い回しが妙にこの子らしくて、ヴィルギニスは思わずほんの少しだけ目元をやわらげた。


「痩せた、とかじゃなくて?」


「それもあるかも」


 少女は素直に頷く。


「でも、なんか、ちゃんと寝てない人の顔」


 そこまで言われると、さすがに苦笑せざるを得ない。


「寝ています」


「ほんとに?」


 疑う響きではない。

 ただ、見たままの感想を重ねてくるだけだ。


 ヴィルギニスは答えに少し詰まった。


 寝ていないわけではない。

 けれど深く眠れているかと言えば、少し違う日もあった。考えることが多い夜もある。灯りの下で紙と向き合っているうちに、外の風の音だけが深くなっていく夜も。


 その短い沈黙で、少女には十分だったらしい。


「やっぱり」


 そう言って、膝の上の布を畳んだ。


「座る?」


 向かいの小さな椅子を、顎で示す。


 ヴィルギニスは頷いて、少し距離を置いて腰を下ろした。


 温室の中はあたたかい。硝子の向こうでは風が木々を揺らしているのに、その音は一枚隔てるだけでだいぶ遠くなる。土の匂いが近い。葉のこすれる音も小さい。


 少女は針仕事を再開しなかった。


 布を膝の上へ置いたまま、少しだけ首を傾げてこちらを見る。


「忙しいの?」


 その問いは、事情を知っている人間のものではなかった。

 ただ、最近の様子を見ていて自然に出てくる問いだった。


「……少し」


「ローディス様に、何か頼まれてるとか?」


「はい」


 それは嘘ではない。


 少女は小さく頷いた。


「そっか」


 それから、すぐに別のことを言う。


「でも、頼まれごとがある時の顔だけじゃない」


 ヴィルギニスはそちらを見た。


「どういう顔ですか」


「んー……」


 少女は考える。


「ちゃんとしなきゃって思ってる顔」


 その言葉に、ヴィルギニスはすぐには返事ができなかった。


 自分では、そんなふうに外へ出ているとは思っていなかった。だが言われてみれば、その通りなのかもしれないと思う。ローディスの前でも、エーリオの前でも、商会の者たちの前でも、ここしばらくずっと、遅れぬように、抜けぬように、崩れぬようにと気を張っていた。


「わたし」


 少女が言う。


「そういう人、前にも見たことある」


 視線が、膝の上の布へ一度だけ落ちる。


「ずっとちゃんとしてる人って、急にだめになる時あるから」


 それは、きっとこの子が生きてきた場所で見てきたことなのだろう。貧しいところでは、人は余裕をなくした顔のまま働き、それでも倒れる直前まで“平気”なふりをすることがある。そういう現実の近くで生きてきた者の言葉だった。


 ヴィルギニスは静かに聞いていた。


 少女は続ける。


「だから、ちょっとくらい変な顔しててもいいんじゃないの」


 その言い方に、ヴィルギニスは思わず目を瞬いた。


「変な顔」


「うん」


 少女は頷く。


「疲れてるとか、やだとか、眠いとか」


「そういうの、顔に出てても別に死なないし」


 妙に率直で、妙に現実的だった。


 けれど、だからこそ胸へ入る。


 高いところから言われる慰めではない。

 きれいに整えられた気遣いでもない。

 ただ、自分のそばにいた人間が、いま少し無理をしているように見えるから、そう言ってくる。


 それだけのことなのに、ひどくやさしい。


 ヴィルギニスは少しだけ息をついた。


「死にはしないと思います」


「でしょ」


 少女は、ほんの少しだけ笑った。


 それから、脇に置いていた小さな包みを引き寄せる。


「食べる?」


 中には、温室の隅で育てている実を使った小さな菓子が入っていた。形は不揃いで、焼き色も均一ではない。けれど、甘い匂いがする。


「わたしが作ったんじゃないけど」


「台所で分けてもらったの」


 ヴィルギニスは一瞬だけ迷ったが、差し出されたものをそのまま断る方が不自然に思えて、ひとつ受け取った。


 ひとかじりすると、甘さは控えめで、少しだけ酸味が残る。辺境の果実らしい味だった。


「どう?」


「……おいしいです」


「よかった」


 少女は、それだけで満足したように頷く。


 しばらくふたりとも黙ったまま、小さな菓子を食べた。

 外では風が吹き、硝子がわずかに鳴る。

 温室の中はあたたかく、湿った土の匂いが静かに漂っている。


「ねえ」


 少女が、ふいに言った。


「無理に元気な顔しなくても、ここではたぶん平気だよ」


 ヴィルギニスは、その言葉をすぐには受け止めきれなかった。


 ここでは。


 たったそれだけなのに、どこか深い。


 王城ではない。

 広い学び舎でもない。

 ただこの温室と、この少女の前だけであっても、元気な顔をしなくてよい場所がある。


 そのことが、思いのほか胸にしみた。


「……ありがとうございます」


 そう言うと、少女は少しだけ不思議そうにした。


「何に?」


 ヴィルギニスは答えに迷う。


 気づかれたこと。

 見逃されなかったこと。

 事情を知らなくても、ちゃんと見てもらえたこと。


 けれど、そのどれもがうまくまとまる前に、少女の方が先に笑った。


「そのままでいいよ」


 言葉は軽い。

 けれど、温室の光の中では、その軽さがかえってあたたかかった。


 ヴィルギニスは、膝の上に置いた手を静かに見た。


 指先の固さは、まだ残っている。

 けれど、その固さの上に、ほんの少しだけ別のぬくもりが乗った気がした。


 こういう小さな時間があるから、人は次の朝を楽しみに眠るのかとその時ふと思った。


【5】


 辺境の年越しは静かに、けれど土地そのものの息づかいを深く感じさせる形で訪れた。


 年の最後の朝は、ひどく白かった。


 雪が降っているわけではない。空は晴れている。だが夜の冷えが地に深く残っていて、石畳の継ぎ目には薄く霜が光り、井戸から汲み上げた水は桶の縁にうっすらと氷を寄せていた。吐く息は白く、屋敷の壁も、村の家々の屋根も、まだ夜の寒気を抱えたまま黙っている。


 ヴィルギニスは、まだ暗さの名残るうちに目を覚ました。


 館の中は、いつもより少しだけ足音が少ない。働き手たちはいる。火は起こされているし、台所ではもう煮炊きの匂いも立っている。けれど、普段の朝のようなきびきびした張りつめ方とは違い、今日はどこか、家ごと呼吸をひとつ深くしているような空気があった。


 年越しの午前は、それぞれの家で過ごすのがこの土地の習わしだと、ヴィルギニスは少し前に聞いていた。


 家族と食卓を囲み、去年の無事を確かめ、夜までのあいだに家の火を整える。辺境の冬では、年の境目もまた“暮らし”の延長にある。王城の年越しのように、儀礼が先に立つのではない。火が消えぬこと、食べられること、朝を迎えられること。その確かさの上に、新しい年が重なるのだ。


 午前の館は、静かだった。


 ローディスも執務室へはこもらず、書類を広げる気配もない。廊下ですれ違った時も、ただ短く「今日は暗い顔はするな」とだけ言って通り過ぎた。そのひと言には命令というより、この日の空気を崩すなという、辺境伯なりの合図があった。


 ヴィルギニスは午前のあいだ、自室の窓から外を眺めていた。


 村へ続く道を、何人かの人影が急がずに行き来している。女たちは籠を抱え、子どもたちはいつもより厚着をさせられて、走りたいのを少しだけ我慢しているような歩き方をしていた。老人が戸口に立ち、来た者へ挨拶を自ら行う。


 その一つひとつは小さい。だがその小ささが、年の終わりをたしかなものにしていた。


 王城の外で迎える、初めての年越しだった。


 それも、家族とではなく、家族ではない人々の暮らしのすぐそばで。


 奇妙な感覚だった。


 疎外ではない。

 けれど、完全に混ざっているわけでもない。

 自分はこの土地の生まれではないし、この村の子でもない。それでも今、こうして同じ空の下で年の終わりを迎えている。


 その不思議さが、胸の内に静かに広がっていた。


 午後になると、空気が変わった。


 館の前を通る人の数が目に見えて増える。広場の方からは木材を運ぶ音、鍋を据える音、布を張る音が聞こえてきて、静かだった午前の村が、ゆっくりとひとつの場所へ向かって息を合わせ始める。


 ローディスが主催する年越しの祝祭は、領民への慰労と感謝を込めて、毎年広場で開かれるのだと聞いていた。


 それは施しではない。

 まして、領主が恩を見せるための場でもない。


 一年を働き、耐え、冬へ備え、食を絶やさずに土地を支えてきた民へ向けて、辺境伯が「よく生き抜いた」と返す場なのだと、館の古参の者は言った。その言い方が、この土地にはよく似合っているようにヴィルギニスは思った。


 広場へ出ると、すでに暖かな家庭がそれぞれ笑みを浮かべている。


【4】


 年の終わりの朝、辺境の空はひどく澄んでいた。


 雪が深く積もっているわけではない。だが夜の冷えは強く、石畳の継ぎ目や屋根の端には薄い霜が残り、井戸から引いた水は桶の縁でわずかに張りかけていた。空は高く、光は白い。晴れているのに、ぬくもりは地上へほとんど届かない。吐く息だけが、朝の空気の中へ白くほどけていく。


 館の中も、いつもとは少し違う静けさをまとっていた。


 人はいる。火も起きている。台所からは煮込みの匂いが立ち、廊下の向こうでは誰かが薪を運ぶ音もする。だが、普段のようなきびきびとした張りつめ方ではない。今日は皆、朝の仕事を早く整えたあと、それぞれの時間へ戻っていく。年越しの午前は、家ごとに過ごすのがこの土地の習わしだとヴィルギニスは聞いていた。


 王城では、そうではなかった。


 年の終わりの日は、朝から人の出入りが多い。家臣が来る。貴族が来る。地方から上がってきた者たちも、それぞれ定められた順に謁見を許される。王へ新年の挨拶を述べ、王子たちにもまた、決まりきった言葉を向けて去っていく。


 ――来年もお健やかに。

 ――ますますご立派に。

 ――よいお年を。


 どれも丁寧で、誤りはなく、失礼もない。

 けれどその多くは、口にする者にとっても、受け取る側にとっても、すでに慣例の内に収まった言葉だった。


 豪華な食卓も同じだった。


 王城では日々の食事そのものがすでに整えられている。年越しともなれば、地方から献上された名産も並ぶ。珍しい果実、海から届く塩漬け、寒地の燻製、南から上がった香辛料を使った料理。けれどそれらは、王子たちにとって“特別なものが届く日”であっても、“知らない土地で生きる人々の暮らしが、そのままここへ来る日”ではなかった。


 献上品は美しく整えられて食卓へ上る。

 その向こうにある風土や、働く手や、厳しい季節までは、王城の火のそばでは見えにくい。


 ここは違う、とヴィルギニスは朝の窓辺で思った。


 館の高い位置から村を見下ろすと、年越しの午前は静かに動いていた。戸口に人が立ち、家の中へ薪が運ばれ、女たちが大鍋を見に外へ出て、子どもが一度だけ走って叱られる。


 どの家も、まず自分たちの火を整え、自分たちの食卓を囲む。その小さな家々の集まりがあって、午後の祝祭へ続いていく。


 それは王城のように、中心から外へ広がる年越しではなかった。

 外側にあるたくさんの小さな家が、それぞれ火を保ったうえで、あとからひとつの広場へ集まってくるのだ。


 昼を回る頃になると、村の気配はゆっくり変わった。


 館の前を通る人影が増え、広場の方から木を運ぶ音、鍋を据える音、布を張る音が聞こえてくる。静けさが破られるのではなく、静けさそのものが少しずつ賑わいへ姿を変えていくようだった。


 ローディスは、午後になってからヴィルギニスを呼んだ。


「広場へ出る」


 それだけだった。


 説明を要する人ではない。

 だが今日は、その短い言葉の向こうにあるものを、ヴィルギニスは少し前より分かる気がした。


 これはただの祭りではない。


 一年、民が働き、寒さに耐え、領地を支え続けたことへ、辺境伯が返す日なのだ。施しではない。恩着せでもない。主が領民の労に報いるという、もっと無骨で、もっとこの土地らしい年越しだった。


 広場へ出ると、そこにはもう、冬の午後とは思えぬ熱が立っていた。


 中央には大きな焚火が組まれ、そのまわりに長机が並ぶ。煮込みの鍋からは湯気が上がり、焼いた肉の脂の匂いが風に混じる。平たいパン、干した果実を煮戻した甘い菓子、香草を混ぜ込んだ温かい酒。どれも王城の食卓に並べば、素朴だと片付けられるものばかりだろう。


 けれど、ここでは違う。


 それは見せるための品ではなく、今日ここに集まった人間が、寒さの中で身体をあたため、腹を満たし、笑うための食べ物だった。鍋の中身は、台所の都合ではなく、この土地で冬に必要なものの形をしている。


 人々の顔も、王都で見る祭礼の時の顔とは違った。


 王都でも市は立つ。広場には人が集まる。だがあそこでは、誰がどこに属し、どの立場でそこにいるのかが、見えないままでも見えてしまう。服、言葉、距離、視線。それぞれが、それぞれの階層のままに賑わいへ混じる。


 この辺境の広場にも、もちろん差はある。

 だが今日、そこへ集まっている者たちは、まず同じ冬を越える者たちとして火のまわりに立っていた。


 ローディスが姿を見せると、ざわめきは一度大きくなり、それから自然にひとつの向きを持った。


 誰も芝居がかった敬礼などしない。

 膝を折って頭を垂れるわけでもない。

 だが人々は顔を向け、道を開け、杯を上げる。


 それは、王城での礼とは違う。

 けれど、軽さとは少しも結びつかない。


 辺境伯は広場の中央、焚火の前で立ち止まった。


「一年、よく持ちこたえた」


 最初の言葉は短かった。


 けれどその短さが、妙に深く届く。


 今年も水の少ない時期があったこと。

 道が崩れたこと。

 商いの揉め事があったこと。

 それでも、今日こうして皆で立っていられるのは、お前たちが働いたからだ、とローディスは言った。


 その言葉を聞いて、ヴィルギニスは胸の内で小さく息を止めた。


 王城では、王が民へ向けてそう語る場面はほとんどない。

 王はもっと大きな単位で国を語り、年を語り、秩序を語る。

 けれどここでは、ローディスは“この一年、よく働いた”と、顔の見える人々へそのまま返している。


 主催する貴族が、民を祝い、ねぎらう。


 それを、ヴィルギニスは初めて目の前で見ていた。


 しかも、それは見世物のように整えられていない。

 この土地に生きる人間が、この土地の主へ向ける信と、主がその信へ返す労いとが、寒空の下でそのまま形になっている。


 広場は再び動き始めた。


 鍋から椀へ煮込みがよそわれ、焼き上がった肉が切り分けられ、子どもたちは火のまわりを走ろうとして母親に呼び戻される。年寄りたちは少し離れた場所で肩を寄せ、去年の雪の深さを語り、若い職人たちは火のそばで声を上げて笑っていた。


 誰もが祝いの客であり、同時にこの広場を作っている側でもあった。


 ひとりの女が、ヴィルギニスへ木椀を差し出す。


「ヴィル様もどうぞ」


 身分を知らぬままの呼び方。

 けれど、そこに遠慮はあっても、よそよそしさはない。


 ヴィルギニスは椀を受け取った。


 中の煮込みは熱く、湯気の向こうに豆と肉と根菜の匂いが立つ。口へ運ぶと塩気と熱が身体へ染みた。王城の食卓に並ぶ料理の方が、もちろん洗練されている。だが、この一椀の方が、今日という日にはよほど正しいように思えた。


 別のところからは、甘い菓子まで差し出される。


 果実を練り込んだ生地を焼いただけの、不揃いな小さな菓子だった。王城なら食卓の端にも置かれぬようなものだろう。けれど頬張れば、冬の間に蓄えておいた甘みが、思いがけずやさしく口へ広がる。


 ヴィルギニスは、その味の向こう側を少しだけ思った。


 これは、どこかの誰かが“献上”したものではない。

 この村の台所で焼かれ、この広場へ運ばれ、この冬を生きる人々のあいだで分けられているものだ。


 王城では、地方の名産も、珍しい果実も、いつも“届くもの”だった。

 けれどここでは違う。

 食べ物が、その土地の暮らしと切り離されずにそこにある。


 火のそばでは、子どもたちが輪になって歌をうたい、若い者たちがそれに手拍子を合わせていた。隣では、今年ようやく歩けるようになった子が転び、母親が笑いながら抱き上げる。


 向こうの卓では、去年より麦が持ったとか、水路の修繕が間に合ったとか、そういう話が杯のあいだを行き来していた。


 ヴィルギニスは、そのすべてを見ていた。


 自分は王子だ。

 その事実は消えない。

 けれどいまここで、人々はそのことを知らずに、ただ同じ火のまわりへ立つ一人の若者として自分へ椀や菓子を差し出してくる。


 そのことに、奇妙な感覚があった。


 軽くなったのではない。

 むしろ、重みが別の場所へ移ったような感覚だった。


 王城での自分は、立場の中で年越しを迎えていた。

 ここでは、立場を知られぬまま、それでも何かを受け取っている。


 それが少し寂しく、同時に少し救いでもあった。


 日が傾くにつれて、火の色はますます濃く見えた。


 白かった空は青みを深め、遠くの尾根は影の方が先に濃くなる。その中で焚火の赤だけがあたたかく揺れ、広場の顔をひとつひとつ照らしていた。


 ローディスは、中央に立ち続けてはいなかった。


 鍋のそばで足を止め、年寄りの卓へ顔を出し、子どもに裾を引かれて立ち止まる。その姿には、王城で見るような“見せるための威厳”はない。けれど、どこへいても広場の軸はそこへ寄る。


 ヴィルギニスは、その背を見ていた。


 貴族が民へ与える祝祭。

 それは、自分が王城で想像していたものとはまるで違った。


 もっと上から、もっと遠いものかと思っていた。

 けれど実際には、火の熱を同じように受け、同じ寒さの中に立ちながら、主が民へ「今年もよく生きた」と返す場だった。


 初めて見る光景だった。


 そして、初めて心を動かされた年越しでもあった。


 家族とではない。

 王城でもない。

 それでも、この辺境の広場で過ごすこの時間は、ただ異郷の祭りを眺めているだけではなかった。


 年の境目を、人はこうして渡るのかもしれない。

 家ごとの火を守ったうえで、最後には広場の大きな火へ集まり、ひとつの土地の者として新しい年を迎える。


 そのことが、ヴィルギニスの胸へ静かに残った。


 夜空には星が出ていた。

 辺境の冬の星は鋭く、王都で見るものより近く、硬く光る。


 火の色、煮込みの湯気、民たちの笑い声、冷たい星。


 その真ん中に立ちながら、ヴィルギニスは思った。


 自分はこの土地の生まれではない。

 けれど、いずれここで迎えたこの年越しは、自分の内に残るのだろうと。


 王城を出て初めて、貴族が主催する民への祝いを見た。

 そして、王族としてではなく、ひとりの若者としてその火の近くに立った。


 そのことが、新しい年の始まりよりも先に、彼の胸の中へひとつの静かな変化をもたらしていた。


 広場の火は、夜の深まりとともに、なお高く燃え上がっていた。


【5】


 広場の火の気を背にして屋敷へ戻ると、石壁の内側の空気は、外の冷えよりも少しだけ静かだった。


 扉が閉まった瞬間、風の音が一枚隔てられる。外套の裾に入り込んでいた冷気が、ようやく身体から離れていくようだった。とはいえ、頬や指先にはまだ広場の空気が残っている。


 火の熱、冷えた杯、煮込みの湯気、人の声。そうしたものが皮膚の上だけでなく、胸の内側にもまだ薄く灯っていた。


 廊下にはもう、夕の食事の支度が整っている気配があった。


 煮込みの匂い。焼かれた肉の香ばしさ。火にかけられた葡萄酒へ香草が落とされる匂い。広場の賑わいとは違う、屋敷の中の落ち着いたあたたかさだった。


 年越しの夜だからといって、屋敷の食卓が大げさに飾り立てられているわけではない。だが今日は、いつもの“辺境伯と、その日の報告を受けるための食卓”とは少し違っていた。


 卓は普段より長く、席も多い。


 ローディスが上座に座り、その右手にヴィルギニス。向かいにエーリオ。さらにその下手には、屋敷で日々ローディスを支える年長の家臣や従者たちが席についていた。


 執務室の外で書状を束ねる者、屋敷の出入りを預かる者、長く仕えてきた者たちだ。皆、年越しの夜らしく、普段より少しだけ整えた衣を身につけている。


 それでも、王城のような華やかさはない。


 あるのは、よく働いた者たちが年の終わりに一つの卓を囲む時だけの、気取らぬ整いだった。


 ローディスは先に席につき、外套を従者へ預けると、大きな手で杯を軽く持ち上げた。


「広場の方も無事に終わった」


 低い声が、卓の上へ落ちる。


「今日はここまでだ」


 それは乾杯の言葉というより、働きの終わりを告げる合図に近かった。


 皆が杯を上げる。

 火の色が硝子に映り、小さな音が卓の上で重なる。


 最初のうちは、食器の音と短い会話が続いた。


 広場の様子、今年の鍋の出来、去年より人出が多かったこと、雪が遅いこと。そうした話が穏やかに卓の上を行き来する。


 エーリオは辺境の祝い方について何度か興味深そうに問いを挟み、年長の家臣が簡潔に答える。ローディスは多くは語らないが、聞いていないわけではない。必要なところでは短く返し、そうでないところではそのまま流す。


 ヴィルギニスは、その輪の中に静かにいた。


 広場では大勢の人の声があった。

 けれど今は、火の近くで交わされる声の方が近い。

 それは賑わいの終わりではなく、その日の熱が小さな場所へ移ったような時間だった。


 食事が半ばを過ぎた頃、ローディスが杯を置いた。


 その動きだけで、卓の空気が少し変わる。


 誰かを見せしめるような緊張ではない。

 ただ、この人が何かを言う時には、自然と皆の意識がそちらへ寄る。


「そういえば」


 と、ローディスはひどく何でもないような顔で言った。


「今年、川沿いの畑が去年よりよく持った」


 年長の家臣がすぐに頷く。


「はい。水の流れが安定したおかげで、土の痩せ方がかなり違いました」


「春先に整えたところが効いたようです」


 ローディスはそこで、視線をヴィルギニスへ向けた。


 ただ向けただけだった。

 けれど、その目にはあきらかな意図がある。


「川を見て、ああした方がいいと言い出したのはこいつだ」


 卓の上が、ほんのわずかに静まる。


 ヴィルギニスは思わず顔を上げた。


 民の前では、その話は出なかった。

 広場でも、ローディスは人々全体へ向けて労を返しただけだった。だからこそ、ここでそのことが言葉にされるとは思っていなかった。


 ローディスは続ける。


「見て気づいた」


「それだけならまだいい」


「気づいたあとで、どう手を入れればよいかを考え、言い出して、自分でもやった」


 その声音は平らだ。

 だが、だからこそ重い。


「頭が回るだけの子どもなら珍しくもないが」


 そこで、ほんのわずかに口元が動く。


「気づいたことを、自分の手で実行するのは、そう簡単ではない」


 年長の家臣が、珍しいものを見るようにヴィルギニスへ視線を向けた。従者の一人は、思わず目を丸くしている。彼らにとってヴィルギニスは、辺境伯が連れ回している、少し頭の切れる貴族の子という程度の印象だったのだろう。


 エーリオは、杯を指先で静かに回しながら、その反応を見ていた。


「なるほど」


 と、小さく言う。


「たしかに、貴族の家に生まれ育った子としては、少し珍しい」


 言い方は穏やかだ。

 だが、その穏やかさの中に、教師らしい鋭さがある。


「普通は、気づいても人に命じるところで止まる」


「手を汚すことが利益に繋がると、頭で分かっていても、実際に土の近くまで降りていく子は多くない」


 エーリオはそこで、わずかに目を細める。


「だが、民を助けることは、そのまま土地を助けることでもある」


「土地が保たれれば、そこから戻るものは結局、自分の側へ返ってくる」


「そういう意味では、ずいぶん理にかなっている」


 理にかなっている。


 褒め言葉としては少し乾いた言い方のようでいて、エーリオがそれを使う時には、むしろ高く買っているのだと分かる。


 ローディスは鼻を鳴らした。


「理が先でも構わん」


「手が動いたならな」


 その会話を聞きながら、ヴィルギニスは胸の内が静かに熱くなるのを感じていた。


 一日の中で、広場の火も、民の笑顔も、初めて見る年越しの形も、どれも心へ残った。

 けれど、この瞬間の嬉しさは、それらとは少し違う。


 自分がやったことを、民の前でなく、ここで、ちゃんと見ていたと言葉にされる。

 しかも、飾った褒め方ではなく、ローディスらしい重みで。

 それが思っていたよりずっと深く沁みた。


 ローディスは、そんなヴィルギニスの表情を見ていたらしい。


「何だ」


 と言う。


「褒められ慣れていない顔をするな」


 その一言で、卓のあちこちに小さな笑いがこぼれた。


 からかいではない。

 固くなりかけた空気が、ようやくやわらぐ時の笑いだった。


 ヴィルギニスは、少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 ひどく真面目な声になってしまった自覚がある。

 けれど、崩せなかった。


 ローディスは短く言う。


「礼は要らん」


「やったことに対して、やったと言っただけだ」


 その返しもまた、この人らしかった。


 だがヴィルギニスは、そこで言葉を止めなかった。


「それでも」


 と続ける。


 卓の上の視線が、自然とこちらへ寄る。


「私は、閣下に感謝しています」


 その場が、一瞬だけ静まった。


 ヴィルギニスは視線を落とさなかった。


「私をただ預かって、食事と寝床を与えるだけではなく」


「屋敷の中へ閉じ込めず、自由に見て、歩いて、考えることを許してくださったこと」


「学ばせてくださったこと」


「そして、エーリオ殿をここへ呼んでくださったことも」


 言葉は整っていた。

 感情がないわけではない。

 むしろ、あるからこそ崩れぬように整えられている。


「そのどれもが、私にとっては大きなことでした」


 そこまで言った時、卓の端にいた従者の一人が、目に見えて姿勢を正した。


 もう一人も、手元の杯を置き直す。

 それは意識してやったというより、身体が先にそうしてしまったような動きだった。


 さきほどまで、彼らにとってヴィルギニスは、辺境伯が連れ回している少し変わった貴族の子でしかなかっただろう。頭が切れ、礼はきちんとしているが、まだ子どもでもある。そういう認識だったはずだ。


 けれど今、その感謝の言葉には、年齢の割に整いすぎた気品が宿っていた。


 押しつけがましさはない。

 媚びもない。

 ただ、相手への敬意をまっすぐに言葉に変えて自分の言葉として立っている。


 その声を聞いた瞬間、卓についていた者たちは、なぜか自然と背を伸ばしていた。


 エーリオが、その空気を感じ取って口元をわずかに動かす。


「……これは」


 と、杯を持ったまま言う。


「君が“知り合いの下級貴族の子”ということにしておくのも、なかなか骨が折れる」


 それはひどくさらりとした調子だった。

 だが、その一言で卓のあちこちに、今度はもう少しはっきりした笑いが走る。


 ローディスは不機嫌そうに眉を寄せた。


「余計なことを言うな」


「余計かどうかは、いま卓についている者たちが一番よく分かった顔をしている」


 エーリオの返しは、どこまでも涼しい。


 年長の家臣は、咳払いで笑いを隠そうとして失敗し、結局肩を震わせた。

 従者の一人は、明らかに“いま何かを知りかけたが、知らないままでいる方がよさそうだ”という顔をしている。


 ヴィルギニスは、さすがに少しだけ困った。


「……そのようなことは」


 言いかけると、ローディスが即座に切る。


「ある」


 そして、少し遅れて続けた。


「少なくとも、食わせて寝かせるだけで終わらせずに済んだことについては、私も悪くなかった」


 その言い方があまりに不器用で、けれどあまりにこの人らしくて、今度はヴィルギニスの方が少しだけ笑ってしまった。


 それを見て、卓の空気はいっそうゆるむ。


 外ではもう、新しい年の夜が深まっている。

 民たちはきっと、午後の祝いから帰って、今ごろはそれぞれの家で食卓を囲み、近所の者や仕事仲間と交わした話の続きを家族へしているのだろう。


 今日は誰が酔っていたとか、鍋の味が去年よりよかったとか、火のそばで子どもが転んだとか、そういう話をしながら、新しい年の抱負を口にしているのかもしれない。


 この屋敷の卓もまた、その夜の一つだった。


 王城の食卓とは違う。

 けれど、ただの食事でもない。


 その年にあったことをそれぞれが胸に持ち寄り、火のそばでひとつの卓を囲む。そういう夜の形が、ここにはあった。


 ヴィルギニスは、杯を持つ手を静かに見た。


 今日という一日は長かった。

 広場の火も、人々の笑いも、辺境伯が民へ返す年越しも、すべて心へ残った。

 そのうえで、この食卓で自分のしたことを見ていたと言われ、学びを与えられたことへの感謝を口にできたことが、最後にいちばん深いあたたかさとして残っていた。


 新しい年が、外の夜気の向こうで静かに深まっていく。


 その気配の中で、ローディスは何でもないように肉を切り分け、エーリオは相変わらず人の顔を見て面白がるような目をしていて、年長の家臣たちは少しだけあたたかい顔をしている。


 その何でもなさが、ヴィルギニスにはひどくありがたかった。


 年の初めの最初の夜は、そうして小さな笑いを残しながら、ゆっくりと更けていった。



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