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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十八章3

【1】


 応接間には、言葉の形を失った気配だけが残っていた。


 音はある。

 だがそれは会話ではない。

 布の擦れる音、椅子のわずかな軋み、指先が卓に触れる微かな響き。

 それらは、互いに交わることなく、ただ場の中へ沈んでいく。


 長男は背もたれへ体を預けている。


 姿勢は崩れているようで、崩れてはいない。

 肩の位置も、顎の角度も、すべて計算の内にある。

 視線は低く、しかし確実に三人を捉えていた。


 次男は卓上の紙に指を置いたまま動かない。


 紙の端は整えられている。

 重ね方も、角の揃え方も、きっちりとしている。

 だがその整いは、内側の混乱を隠すためのものだった。


 三男は椅子に腰を下ろさず、立ったままだ。


 座れば、この場に属することになる。

 立ったままなら、まだ距離を保てる。

 そのわずかな差に、彼は留まっていた。


 末の男は少し外れた位置にいた。


 輪の外ではない。

 だが中心へ踏み込む足を、まだ選ばない。

 視線だけが兄たちの間を行き来している。


 四人のあいだにあるのは、意見ではなかった。


 譲られなかった役割。

 選ばれなかった位置。

 それらが、沈黙のまま場に残っている。


 ヴィルギニスは、その均衡を見ていた。


 崩れてはいない。

 だが、保たれているわけでもない。


 その時、視線が自然に逸れる。


 応接間の奥。


 壁際の卓。


 そこに置かれた一品。


 煙草盆。


 この場において、唯一、争いの外にあるもの。


 だがその“外側”が、かえって際立っていた。


 歩み寄る。


 足音は抑えられている。

 だが消えてはいない。


 誰かが気づいている。

 それでも止めない。


 煙草盆の前に立つ。


 組み木。


 色の異なる木が、精密に組まれている。


 赤みを帯びた木。

 深い黒。

 乾いた褐色。

 わずかに緑を含む色。


 それぞれが単体ではなく、全体の中で意味を持つ。


 縁には細やかな彫り。

 刃の運びが一定で、迷いがない。


 中央には、商会の紋章。


 新しい。


 削り跡が、まだわずかに残っている。


 ――作られて間もない。


 そして、ここに置かれている。


 応接間。


 人の目に触れる場所。


 ヴィルギニスは、触れずに見た。


 ただの品ではない。


 残されたものだ。


 その時、長男の視線が動く。


 煙草盆へ。


 測る目。


 価値を見極める目。


「……出来がいい」


 低い声が落ちる。


 それだけで、場の空気がわずかに変わる。


「値はつく」


 続けて言う。


 短い言葉。

 だが、その意味は重い。


 価値。


 すなわち、残すべきもの。


 そして――誰が持つか。


 長男の視線がわずかに動く。


「形のあるものは、形で残る」


 それ以上は言わない。


 だが、十分だった。


 継承の話だ。


 沈黙が、再び重くなる。


「……これ」


 小さな声が落ちる。


 末の男だった。


 彼は煙草盆の側面へ指を当てている。


 継ぎ目。


 わずかな違い。


「ここに」


 小さな穴。


 鍵穴のようで、違う。


 次男が動く。


 近づく。


 同じ場所を見る。


 指を当てる。


 押す。


 戻る。


 押す。


 沈む。


 戻る。


「……違う」


 低く呟く。


「鍵ではない」


 三男も寄る。


 長男も動く。


 四人の視線が、初めて同じ一点へ揃う。


 次男が再び試す。


 だが、分からない。


 手が止まる。


 その時、彼の指先が、別の木片へ触れた。


 色の違い。


 配置。


 そこで、ふと――


 記憶がよぎる。


 幼い頃。


 まだ背丈が低く、工房の机が高く見えていた頃。


 父の手元を覗き込んでいた。


 木を選ぶ手。


 色を確かめる指。


 そして――


 組み上がった箱。


 同じように、開かなかった。


「順だ」


 父が言った。


 振り返りもせず。


「木は、ただの色ではない」


 幼い自分は、意味を理解していなかった。


 だが、父は続けた。


「役割がある」


「役割の順で動かせば、形は崩れない」


 その時の指の動き。


 迷いのない手。


 そして、開いた箱。


 次男の指が止まる。


 呼吸がわずかに変わる。


 現実へ戻る。


 目の前の煙草盆。


 同じ構造。


 同じ考え方。


 だが――


 完全には思い出せない。


「……違う」


 小さく呟く。


 記憶はある。

 だが、繋がらない。


 その時、長男の声が落ちる。


「色だ」


 短い。


 だが、的確だった。


 長男は煙草盆全体を見る。


 部分ではなく、面。


 色の配置。


 流れ。


 そして、


「父は」


 低く言う。


「用途で色を変えた」


 次男の記憶と、繋がる。


 三男の視線も変わる。


 末の男は息を止める。


 長男の指が動く。


 赤。


 黒。


 褐色。


 緑。


 順。


 意味。


 そして――


 押す。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 内部で何かが噛み合う。


 音はない。


 だが、確かに動いた。


 次の瞬間、


 引き出しが、静かにせり出す。


 誰も、すぐには手を出さなかった。


 空気が、そこへ集まる。


 中身。


 それが、この場を決めるかもしれない。


 長男が、ゆっくりと引く。


 完全に開く。


 中にあったのは――


 石。


 無造作に入れられた石。


 形は揃っていない。


 大きさもまちまち。


 だが、光るものがある。


 虹色。


 玉虫のような光沢。


 それでも――


 宝ではない。


 沈黙が落ちる。


 張りつめていたものが、音もなく崩れる。


 長男の視線が離れる。


 次男の指が止まる。


 三男が、わずかに息を吐く。


 末の男は動かない。


 ヴィルギニスは、そのすべてを見ていた。


 期待が裏切られた瞬間ではない。


 意味が、まだ見つかっていない瞬間。


 煙草盆は、開かれたままそこにあった。


 父の手を経て。


 言葉を持たず。


 ただ、残されていた。


【2】


 引き出しの中にあったものが石だと分かった瞬間、応接間の空気は崩れたのではなく、静かに冷えた。


 先ほどまでそこにあった張りつめた期待は、音を立てて壊れるようなものではなく、熱を失っていくように薄れていき、代わりに残ったのは、何とも形にしづらい重さだけだった。


 長男はしばらくその中身を見ていたが、やがて興味を失ったように視線を外し、背もたれへ預けていた身体をほんのわずかだけ起こす。その動きには焦りも迷いもなく、ただ“ここにはもう用はない”という判断だけが込められていた。


 次男の指は引き出しの縁に触れたまま止まり、何かを確かめるように一度だけ軽く叩いたあと、すぐにその手を引く。さきほどまでのように構造を探ろうとする気配はなく、考える対象が別のものへ移ったことが、その指の静けさから分かった。


 三男は息を吐くでもなく、ただ視線を落とす。ほんのわずかな変化だったが、興味を保つだけの理由が消えたことを示すには十分だった。


 ただ一人、末の男だけが動かなかった。


 石を見ている。


 手も伸ばさず、言葉も挟まず、ただ視線を置いたまま離さない。その姿は、価値を測っているというより、何かを取りこぼさぬように見つめているようにも見えた。


 ヴィルギニスは、その様子を見ていた。


 石に価値があるとは思っていない。だが、価値がないと断じるには、あまりにも場が整いすぎている。


 あの煙草盆。


 組み木の精度、彫りの深さ、紋章の新しさ。

 あれほどのものを、ただの石を収めるために用意するだろうか。


 父が残したものだという言葉が、胸の奥で静かに残っている。


「……閉じろ」


 長男の声が落ちた。


 強くはない。だが、逆らう余地もない。


 次男が静かに引き出しを押し戻すと、煙草盆は何事もなかったかのように元の形へ戻り、そこにあった時間ごと閉じ込めてしまったように見えた。


 長男は立ち上がる。


 椅子の脚が床をわずかに擦り、その音がやけに広く響く。


「決める」


 それだけを言う。


 それ以上の説明は必要ないという声音だった。


 その一言で、流れが戻る。


 石は忘れられる。


 話は元の位置へ戻る。


 継ぐか、離れるか。


 残るか、切るか。


 それだけの問題に、再び形が与えられていく。


 誰も声を荒げない。だが、沈黙の中に置かれる言葉の重さが、かえって逃げ場をなくしていた。


 ヴィルギニスは口を挟まなかった。


 ここで何かを言っても、この流れを変えることはできないし、変えるべきでもない。


 やがて話はまとまり、決まりは形を持つ。完全ではないが、動き出すには足りる程度のものとして。


 外へ出た時、空気が変わるのを感じた。


 応接間の中にあった重さが、外の空気に触れたことでわずかにほどける。それでも、胸の奥に残ったものまでは消えなかった。


 それは言葉にできるほど明確ではないが、確かに残っている。


 館へ戻る。


 報告のために。


 だが、ローディスは不在だった。


「数日、戻られません」


 告げられた言葉は簡潔で、それ以上の余地を与えない。


 初めてだった。


 屋敷の主がいないまま時間が過ぎるということが。


 屋敷は変わらない。

 人の動きも、物の流れも、すべて整っている。


 それでも、どこかが少しだけ違う。


 中心が抜けた時にだけ生まれる、わずかな空白。


 自室へ戻ると、静けさがはっきりとした形を持っていた。


 音が少ない。


 整えられた空間の中で、自分の動きだけがやけに際立つ。


 ふと、煙草盆の中の石が浮かぶ。


 あの色。


 あの光。


 ただの石にしては、妙に印象に残る。


 理由は分からない。

 だが、意識から離れない。


 書棚へ手を伸ばす。


 探しているわけではない。

 ただ、手が動いた。


 本を一冊引き出し、頁をめくる。


 紙の擦れる音が、静かな部屋の中でやけに大きく感じられる。


 そのまま何頁か進んだところで、指が止まった。


 視線が引き寄せられる。


 描かれているのは、鉱石。


 光の反射。


 色の揺らぎ。


 そして、その中にあるものと、よく似ている。


 名が記されている。


 隕鉄。


 頁を読み進めるうちに、胸の奥で何かが繋がる。


 空から落ちた鉄。

 特異な構造。

 加工すれば、通常の金属とは異なる強度と美しさを持つ。


 希少。


 そして、高価。


 あの石。


 虹色に光っていたもの。

 玉虫のような反射。


 無造作に置かれていた理由。


 価値があるからこそ、目立たぬ形で残した。


 そう考えれば、すべてが繋がる。


 ヴィルギニスは本を閉じる。


 動きに迷いはなかった。


 翌朝、再び商会へ向かう。


 中へ入ると、空気は昨日と同じようで、しかしどこか違っていた。


 静かではない。


 だが、声が出る直前で止まっているような張りつめ方。


 四人は同じ場所にいる。


 だが、配置がわずかに変わっていた。


 末の男が、ほんの一歩だけ前へ出ている。


 その一歩が、場の重心を変えている。


 ヴィルギニスが口を開く。


「昨日の石について」


 短い言葉だったが、それだけで空気が止まる。


 視線が集まる。


 逃げ場はない。


「価値があります」


 続ける。


 説明は簡潔だが、曖昧さはない。


 隕鉄。


 その性質。


 用途。


 そして、それがもたらすもの。


 沈黙が落ちる。


 だが昨日とは違う。


 今度の沈黙は、何かが動く前のものだった。


 長男の視線が変わる。


 次男の指が、再び動き出す。


 三男の体が、わずかに前へ寄る。


 その沈黙の底に、最初にわずかな波を立てたのは、末の男だった。


 それまで彼は、兄たちのあいだに割って入ろうとはしていなかった。

 いや、できなかったと言う方が正しいのかもしれない。


 長男が決めようとし、次男が理を立て、三男が現場の重みを背にして睨み返すあいだ、彼はずっと半歩だけ外側に立っていた。輪の外ではない。けれど、輪の中心へ踏み込めば、その瞬間に何かが壊れると知っている者の位置だった。


 その彼が、いま、初めてほんのわずかに前へ出る。


 たったそれだけの動きなのに、場の空気が変わった。


 兄たちも、ヴィルギニスも、誰もすぐには声を立てない。

 目だけが、その一歩の先を追う。


 末の男は、息を吸うまでに少し時間をかけた。


 喉の奥に言葉がある。

 だが、それを外へ出してしまえば、もう引き返せないことを自分でも分かっている顔だった。


 彼の視線は、兄たちを見ていない。

 もっと遠く、もっと確かなものを見ている。


 やがて、低く言った。


「……見せる」


 声は大きくなかった。


 けれど、それは曖昧な提案でも、窺うような申し出でもなかった。

 小さいのに、妙に重い。

 自分の内側に長く抱え込んでいたものを、ようやく地の上へ置く時の声だった。


 誰もすぐには動かなかった。


 長男の眉が、ほんのわずかに寄る。

 次男の指先が止まる。

 立ったままだった三男は、組んでいた腕をほどきかけて、やめる。


 その短い静止の中で、末の男だけが目を逸らさなかった。


 怯えていないわけではない。

 むしろ、怯えははっきり見えた。

 それでもなお、自分から言わねばならぬことがある時、人はこういう顔をするのだと、ヴィルギニスは思った。


「何をだ」


 最初に返したのは長男だった。


 低く、抑えた声だった。

 だが、その抑え方の下には、見過ごされたくない者の苛立ちがある。


 末の男は、そこで初めて兄の方へ視線を向けた。


「父上が、よく歩いていた場所」


 その一言で、空気の質がまた変わる。


 父。


 その名は、今でもこの場においては重かった。


 誰もその死を乗り越えていない。

 ただ、それぞれ別の仕方で背負っているだけだ。


 三男が先に反応する。


「山の方か」


 末の男は頷いた。


「ずっと、ひとりで行っていた」


「時々、僕も連れていかれた」


 その言い方には、思い出を語る者のやわらかさはなかった。

 むしろ、ようやく繋がったものを不用意に壊したくない者の慎重さがあった。


 長男は黙っている。


 だが、その沈黙は拒絶ではない。

 弟の言葉を値踏みしている沈黙だった。


 次男は目を伏せていた。

 父が何を見ていたのか、何を残そうとしたのか、それを自分が見落としていたのではないかという思いが、いまになって胸の奥で鈍く疼き始めたのかもしれない。


 ヴィルギニスは、その場に流れるものを静かに受けていた。


 末の男が前へ出た、その事実だけで、この話はもう昨日までのものではない。

 石の価値がどうであれ、いま彼は、兄たちに向かって初めて“自分の知っている父”を差し出そうとしている。


 それは、商会を継ぐか継がぬかという話より、もっと深いところに触れていた。


「いま行くのか」


 三男が聞く。


 末の男は、すぐには答えなかった。

 窓の外へ一度だけ目をやる。


 昼を回ったばかりの光は薄い。

 山へ入るには遅くない。

 けれど、帰る頃には冷えが強くなるだろう。


「今日でないと」


 やがて言う。


「また、言えなくなる気がする」


 その言葉は飾られていなかった。


 ただ、それだけに胸へ落ちる。


 兄たちは顔を見合わせなかった。

 けれど、それぞれの沈黙の置き方が変わる。


 長男は、ようやく椅子から身を起こした。

 次男は揃えていた紙から手を離した。

 三男はもう腕を組んでいない。


 誰も「行こう」とは言わない。

 それでも、場はもう動いていた。


 ヴィルギニスもまた、その流れの中へ静かに身を置く。


 商会の外へ出ると、風は応接間の中にいる時よりも冷たかった。


 空は高く、雲は薄い。

 冬の入り口の光は、景色を明るく照らしながら、そこにぬくもりを足さない。

 石畳の上を進む靴音が、やけに硬く響く。


 末の男が先を歩く。


 急がない。

 けれど、迷いもしない。


 その背には頼もしさよりも、ようやく決めた者だけが持つ危ういまっすぐさがあった。


 町外れを抜け、道は次第に細くなる。

 踏み慣らされた土が残り、ところどころに草が枯れたまま伏している。

 さらに進むと、そこには人の暮らしの気配よりも、風と岩の気配の方が濃くなる。


 三男が足を止めずに言う。


「父上は、こんな奥まで来ていたのか」


 末の男は振り返らない。


「よく来てた」


「ひとりでも」


 その返事を聞いて、長男の表情がわずかに動いた。

 父が商会と家のことだけを考えていたのではなく、こうして人の目から離れて歩く場所を持っていたことを、あまり知らなかったのかもしれない。


 やがて、末の男が立ち止まる。


 道の先、ひらけた場所。


 その中央に、大きな岩があった。


 最初に見れば、ただの岩にしか見えない。

 山の中にあるには不自然ではない大きさで、色も特別ではない。

 だが、その“特別でなさ”が、かえって妙だった。


 末の男は、その岩の前に立つと、ようやく振り返った。


「これだ」


 その一言は、先ほどの「見せる」よりもさらに低かった。


 軽々しく名前を与えたくないものを前にした時の、静かな声だった。


 風が吹く。


 乾いた草が擦れ、遠くで枯れ枝が鳴る。


 誰もすぐには近づかない。


 目の前にあるのはただの岩だ。

 だが、ただの岩ではないと、この場の誰もがもう感じ取っていた。


 ヴィルギニスは一歩進む。


 足元の土は硬く、冷たい。

 岩の表面に触れず、まず光の返り方を見る。


 そして、息の奥で小さく何かが繋がる。


 書物の頁。

 引き出しの中の石。

 煙草盆。

 父の散歩。

 そして、この岩。


 すべてが一本の線になる。


 彼は静かに顔を上げた。


「隕鉄です」


 その言葉は、山の冷えた空気の中へ落ちた。


 大きくは響かない。

 だが、確実に全員へ届く。


 長男の目が、初めて正面から岩を見る。

 次男は何かを測るように視線を細め、三男は半歩だけ近づく。

 末の男は何も言わない。ただ、その顔にだけ、ようやく隠しきれぬ安堵が浮かんでいた。


 誰にも信じてもらえぬかもしれないと思いながら、それでもここまで連れてきたのだろう。

 そう思うと、その安堵はひどく静かで、しかし重かった。


 ヴィルギニスは、その場に吹く風を頬で受けながら、さらに言葉を重ねた。


 この鉄がどういうものか。

 なぜ価値を持つのか。

 加工すれば何ができるのか。

 なぜ父が隠すように石を残したのか。


 その説明は、山の空気のように乾いていた。

 けれど、兄弟たちの顔は少しずつ変わっていく。


 争うための目ではなく、考える者の目へ。


 それはほんの小さな変化だった。

 だが、崩れかけていたものが、別の形で繋がり直す時には、たいていそういう小さな変化から始まるのだと、ヴィルギニスは思った。


【3】


 山から戻る道すがら、誰もすぐには口を開かなかった。


 風は変わらず冷たかったが、行きに頬を打っていた鋭さとは、どこか触れ方が違っていた。山道の土は固く締まり、踏みしめるたびに乾いた音を返す。先を歩くのは、もはや末の男ひとりではなかった。長男も、次男も、三男も、それぞれの歩幅で進んでいる。並びはばらけているのに、不思議と“別々に歩いている”感じがしなかった。


 それが、この日の最初の変化だった。


 商会へ戻ると、応接間へは入らず、そのまま内側の会議室が使われた。


 今度は壁の装飾も、飾り棚も、香もない。帳面を広げ、数字を書き、工房の名を並べ、人の出入りを確かめるためだけの部屋だった。そこへ四人が入り、ヴィルギニスもまた末席へ着く。


 最初に口を開いたのは長男だった。


「……隕鉄を扱うなら」


 そこで一度、言葉を切る。


 これまでなら、その沈黙のあとに続いたのは“誰が上に立つか”だった。

 だが今回は違った。


「工房の数も、人手も、今のままでは足りない」


 その声は低いが、熱を帯びすぎてはいない。

 ようやく“前へ進める時の長男”の声になっていた。


 次男がすぐ帳面を引き寄せる。


「現状の出入りだけでも余裕は薄い。隕鉄を使うとなれば、既存の品の製作と並行させるのは無理が出る」


 指先が頁をめくる。

 数字の世界へ入ると、この男の呼吸は落ち着く。


 三男は腕を組まなかった。

 卓へ手を置き、低く言う。


「工房を二つに分ける」


「既存の仕事を止めるわけにはいかない」


「なら、隕鉄の方は専任を置くべきだ」


 末の男はそこでようやく、自分の言葉を前に出した。


「……俺がやる」


 小さな声ではなかった。


 むしろ、それまで抑えていた分だけ、芯のある響きだった。


「見つけたのは俺だし、父上からも一緒に見ていた」


 そこで、兄たちの目が向く。

 だが今度、その視線は押し返すためのものではない。


 末の男は続けた。


「隕鉄の見分け方も、採れる場所も、父上が歩いていた道も、俺がいちばん知ってる」


 言い切ったあと、喉がわずかに動く。

 怖くないわけではない。

 それでも退かない顔だった。


 長男はすぐには返事をしなかった。


 次男は帳面へ視線を落としたまま、指先で何かを数える。

 三男は黙って末の男を見ている。


 しばらくして、長男が口を開いた。


「人をつける必要がある」


 それは拒絶ではなかった。


「お前ひとりでは回らない」


 末の男の表情が、ほんのわずかだけ動く。


 認められた、とはまだ言えない。

 だが、最初から切られたわけではない。

 それだけで、場の温度は十分に変わっていた。


「三人では足りない」


 三男が言う。


「五人は要る」


「腕の立つ者を回せ」


 次男が即座に返す。


「回すなら、今の工房から抜く人間を考えないと他が詰まる」


「そこは私が調整する」


 長男が言った。

 その“私”は、長男であることを押しつけるためではなく、責任を引き受けるための言い方だった。


 ヴィルギニスは、そのやり取りを見ていた。


 驚くほど劇的な変化ではない。

 むしろ遅い。

 まだ互いに完全には信じていないし、少し気を抜けばまた元の争いへ戻りそうな危うさもある。


 だが、それでも。


 いま四人は初めて、“相手の言葉の先”を聞いていた。


 自分がどう勝つかではなく、何をどう動かすか。

 その話に、ほんの少しだけ変わっていた。


 その夜は遅くまで話し合いが続いた。


 灯りが低くなり、侍従が新しい蝋燭を足しても、卓の上の紙は減らない。帳面の数字、工房の名、出入りする荷、必要となる鉄、職人の手配。話は次から次へと生まれたが、不思議なことに、もう誰も席を蹴って立とうとはしなかった。


 煙草盆から出てきた石は、会議室の隅にある小卓へ移されていた。


 何気なく置かれているようでいて、そこにあること自体が、この夜の話し合いの理由になっている。父の残したものは、結局、宝石でも金でもなく、進むべき先を指す無骨な石ころだったのだと、ヴィルギニスは思った。


 翌朝、館へ戻ると、ローディスはまだ戻っていなかった。


 辺境伯のいない館は、静かだった。


 もともと騒がしい屋敷ではない。

 だが、それでも中心にいるはずの者が不在であることは、思いのほか空気を変える。従者たちはきちんと動いているし、執務も滞っていない。けれど、どこかで皆が“戻ってくる前の仮の静けさ”の中にいるようだった。


 ヴィルギニスは、その数日を、初めて自分ひとりの時間として過ごした。


 書庫へ入り、本を読む。

 地図を広げ、辺境の川筋をなぞる。

 工房へ足を運び、職人の手元を見る。

 用水路を見て、冬の水の痩せ方を記す。

 馬を出して、館から少し離れた丘まで行くこともあった。


 誰かに命じられたからではない。

 そうした方がよいと、自分で思ったからだ。


 それは、奇妙な感覚だった。


 これまでローディスのもとで見てきたもの、学んできたものを、今度は自分の足で辿り直している。確認であり、復習であり、同時に、初めて自分のものへ変えていく時間でもあった。


 風の向き。

 乾いた草の匂い。

 石橋の下を流れる水の音。

 夕方になると早く冷える村の通り。

 町外れから見える山の色。


 それらは王都のものではない。

 学園のものでもない。

 けれど、いずれどこへ行くにしても、自分の中から消えぬものになるのだろうと、ヴィルギニスは少しずつ思い始めていた。


 辺境の地は、最初から故郷ではなかった。

 けれど、故郷ではないまま終わるとも限らない。


 持って行くのだ。

 この土地で知った水の冷たさも、風の乾きも、人の働く手の硬さも。


 そう考えると、胸の内へ静かな熱が灯る。


 それは王都への郷愁とは違う。

 もっと無骨で、もっと言葉にしづらいものだった。


 数日後、夕方近くになって、グラディオ商会から使いが来た。


 館の門前で馬を降りた若い使者は、冷えた頬を赤くしながらも、きちんと礼を取る。


「ご報告にございます」


 通された小広間で、彼は落ち着いて言葉を整えた。


「商会の方針が定まりました」


 ヴィルギニスは黙って続きを待つ。


「長男殿が経営全体を預かります」


「次男殿が営業と対外の折衝を」


「三男殿が帳簿と売上に関わる実務を」


「そして末の殿が、隕鉄に関わる工房と職人たちを束ねる長となることが決まりました」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが落ち着いた。


 完全に丸く収まったわけではないだろう。

 これからも摩擦はある。

 兄弟である以上、比べることも、傷つくことも、きっと続く。


 それでも、いま定まった形は、少なくとも“誰かひとりを勝たせて残りを切る”形ではなかった。


 父の遺言に、ようやく届いたのだ。


「閣下には、戻られ次第あらためてご報告を」


 使者がそう言って頭を下げる。


 ヴィルギニスは頷いた。


「承知しました」


 使者が去ったあと、小広間の中にはまた静けさが戻る。


 窓の外では、日が沈みかけていた。冬の入り口の夕方は早い。光はもう薄く、庭石の輪郭だけを冷たく残している。


 ヴィルギニスは、自室へ戻った。


 棚の上には、隕鉄の小片が置かれている。


 商会を出る時、末の男が黙って差し出したものだった。


「持っていてくれ」


 それだけを言って。


 飾りには向かぬ、無骨な欠片。

 だが灯りの角度によって、玉虫のような光をわずかに返す。


 煙草盆の引き出しへ隠した石と同じ光だ。


 ヴィルギニスはその前へ立ち、しばらく何もせずに見ていた。


 これを見つけたのは末の男で、意味へ辿り着いたのは自分だった。だが、それだけでは足りなかった。長男の目があり、次男の記録があり、三男の現場があり、職人たちの手があって、初めて形になる。


 そう思うと、煙草盆の組み木のことがまた胸へ浮かぶ。


 違う色の木が、互いを侵さず、一つの面を作っていた。

 あれは箱である前に、遺言そのものだったのかもしれない。


 窓の外で風が鳴る。


 この土地の風だ。

 乾いていて、冷たくて、けれどどこか澄んでいる。


 辺境伯はまだ戻らない。

 だが、その不在の数日で、ヴィルギニスは少しだけ知った。


 誰かの背の後ろで学ぶことと、学んだものを自分の足で確かめることは違う。

 そして、その違いを知ってなお、戻ってきてほしいと思う相手がいるということも。


 棚の上の隕鉄は、灯りの下で鈍く光った。


 王都からの手紙。

 学園への遅れ。

 母の花のブローチ。

 そして、辺境の山から掘り起こされた鉄。


 どれも別々のもののようでいて、今のヴィルギニスの中では一つの線で繋がりつつあった。


 待たされることは、道を失うことではない。

 遅れることは、失われることではない。


 そのあいだに積むものがある。


 そのあいだに、知る土地がある。

 出会う人がある。

 自分の中へ入ってくる風と水がある。


 ヴィルギニスは、そっと手を伸ばし、隕鉄の小片に触れた。


 冷たい。

 だが、嫌な冷たさではなかった。


 遠い空から落ちてきたものが、今はこの辺境の屋敷の一室にあり、自分の指先へ触れている。そう思うと、この世界はひどく広く、同時に、不思議なくらい近い。


 窓の外では、夜が静かに降りてきていた。


 冬の前の夜は深い。

 けれど、その深さの底に、次の季節へ向かう気配もまた確かに潜んでいる。


 辺境の地は、いつの間にかヴィルギニスの中で、ただ預けられた土地ではなくなっていた。


 生まれた場所ではない。

 それでも、胸の内のどこかへ確かに根を下ろし始めた、もう一つの故郷だった。

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