第十八章2
【1】
翌朝の空は、冬の入り口らしく澄んでいた。
王城の高い窓から射す朝の光は白く、夜のあいだに冷えた石床の上へまっすぐ落ちている。庭の木々は葉を減らし、枝の輪郭が前日よりもいっそうはっきり見えた。風はまだ強くはない。だが、吹けば肌の表面だけを薄く削るような冷たさがあった。
朝食の席には、まだ柔らかな眠気の名残がある。
とはいえ、王城の食卓に本当の意味での気の緩みなどない。白い卓布は皺ひとつなく張られ、銀器は磨かれ、湯気の立つ皿はちょうどよい順で並べられている。侍女たちは音を立てずに動き、給仕の手は早いのに慌ただしさを見せない。
その整いの中に、王子たちの朝があった。
アルケスはすでに席についていた。
背筋は朝から変わらずまっすぐで、湯気の立つ茶にも慌てて手を伸ばさない。
ポルックスはその向かいで、静かな顔をしている。
まだ朝だというのに、目の奥にはもう薄い眠気もない。
カストルは椅子へ腰を下ろしたまま、少しだけ不機嫌そうに匙を指で回していた。
薄桃の髪は整えられているが、そのぶん顔つきの棘はまだ隠れていなかった。
シャムは一番遅く席についた。
昨夜の言葉が、まだ頭のどこかに残っている。
話をしている相手だけは、ちゃんと見る。
ただそれだけでいい、とアルケスは言った。
それならできるかもしれない、と昨夜は思った。だが朝になってみると、どこまでが「ちゃんと」で、どこからが「見過ぎ」なのか、自分にはまだ分からない。
だから今朝のシャムは、いつもより少しだけ背筋を伸ばしてはいるものの、誰かとまだ目を合わせてはいなかった。
杯を持つ手首。
皿へ伸ばす指。
そういうところへ意識が向いて、視線は自然と低くなる。
それに最初に声をかけたのは、やはりカストルだった。
「何だ、お前」
朝の低い声が、卓の上を滑る。
シャムははっとして顔を上げた。
赤い瞳がこちらを見ている。
揶揄う時の目だ、とすぐに分かった。
「今日はやけに静かだな」
カストルは言う。
「昨夜、よほどありがたい話でも聞いたのか」
棘のある言い方だった。
いつものシャムなら、そこで目を伏せ、短く答えて終わらせただろう。
けれど今朝は違った。
今、話している相手はカストルだ。
だったら、その目を見る。
そう思って、シャムは真正面から赤い瞳を見た。
「はい」
返事は思ったよりはっきり出た。
「ありがたい話でした」
卓の空気が、ほんの少しだけ止まる。
カストルの眉が上がる。
ポルックスの手が一瞬だけ止まり、アルケスは杯の縁へ視線を落としたまま、わずかに息を止めたようだった。
シャムは続ける。
「学園へ行く前に、覚えることがまだたくさんあると教えられました」
「だから」
そこで一度、小さく息を継いだ。
「話している相手は、ちゃんと見た方がいいと聞いたので」
まっすぐに言いながら、視線は逸らさなかった。
いつもなら、ここで怖くなって下を向く。
けれど今は、相手の目を見ることの方へ意識が向いている。
すると、ほんの一瞬だったが、カストルの赤い瞳の奥に、ごく短く揺れが走る。
それは怯えと呼ぶには小さすぎる。だが、少なくとも、いつものように一方的に刺す側ではいられなかった瞬間だった。
「……お前」
カストルは少しだけ顔をしかめた。
シャムはまだ見ていた。
昨夜言われた通りに。
「目を見過ぎだ」
吐き出すように言ってから、さらに続ける。
「むかつく」
今度こそポルックスが肩を震わせた。
笑いを呑んだ時の、かすかな動きだった。
カストルがそちらを睨む。
「笑うな」
「笑ってないよ」
ポルックスは涼しい声で返す。
だが、目の奥は明らかに楽しんでいた。
シャムは、自分がまた何か間違えたのかと思った。
「すみません」
反射的に謝ると、カストルはさらに不機嫌そうな顔になる。
「謝るな」
「……おい、逸らすな」
「じろじろ見るな」
理不尽だった。
理不尽なのだが、本人の中では筋が通っているらしい。
シャムは少しだけ困った顔になる。
「難しいです」
その返しがあまりに真面目だったので、今度はアルケスの口元までわずかにやわらいだ。
カストルはそれに気づいて、ますます顔をしかめる。
「お前、ほんとにそのままやってるのか」
「はい」
シャムは頷いた。
「話している相手だけは、ちゃんと見ろと聞いたので」
アルケスがそこで、ようやく静かに言った。
「ずっと睨むように見るんじゃない」
シャムがそちらを向く。
「……あ」
「相手が話している間、きちんと聞いていると分かるくらいでいい」
落ち着いた説明だった。
昨夜の言葉を、今度は朝の食卓に合う形へ少し直して渡している。
シャムは小さく頷く。
「分かりました」
カストルはなおも不満そうに匙を持ち直しながら、ぼそりと言った。
「分かってない顔だ」
けれど、その声にはさっきまでの刺々しさが少しだけ減っていた。
シャムはようやく息をひとつついた。
目を見て話す。
たったそれだけのことが、こんなにも難しいとは思わなかった。だが同時に、カストルの方がわずかに言葉に詰まるのを見た時、自分の中でも何かが小さく変わった気がした。
朝食はそのまま進み、湯気の立つ皿が順に取り替えられていく。
外の光はだんだん強くなり、窓辺の木の枝を白く浮かび上がらせていた。王城の朝は何事もなかったように整っている。だがその整いの中で、ほんの小さな変化だけが確かに起きていた。
シャムは自分の杯を持つ手首を見下ろした。
まだ少し固い。
けれど、昨日よりはわずかにましな気がした。
その日の午後、お茶の時間に合わせるように、一人の男が現れた。
彼は壮年に差しかかっていた。背は高く、無駄な肉のない体つきで、衣も動きも整っている。近衛のような鋭さとも、侍従長のような包み込む静けさとも少し違う。王の言葉をそのまま預かり、そのまま損なわず運んでくる者にだけ宿る澄んだ緊張が、その人にはあった。
茶の間は、朝の食卓ほど公的ではないが、それでも私的な場とも言い切れない。白い卓布の上には菓子皿と茶器が整えられ、焼き菓子のあたたかな匂いに、細く焚かれた香が混じっている。王子たちはそれぞれの席につき、侍女たちは控えめに壁際へ退いていた。
その時、扉の外に人の気配が止まる。
「陛下の御名代にございます」
室内の空気が、目に見えぬほど静かに引き締まる。
扉が開き、男が入ってくる。
その後ろには二人の侍従が続き、布に包まれた箱をいくつか捧げ持っていた。留め紐には王の印が押されている。
男は深く礼を取った。
「陛下のご命により、お届けに上がりました」
その声を聞いた瞬間、アルケスの表情がわずかに引き締まる。
ポルックスもまた、茶器から視線を上げた。
カストルは露骨に訝しげな顔をしたが、姿勢そのものは崩さない。
シャムは、男の後ろにある箱を見ていた。どれも飾り物のように大きくはない。だが軽々しい贈り物でもないことが、一目で分かった。
「学園へ入るにあたり、必要となる品々にございます」
男がそう言うと、侍従たちが最初の箱を卓の脇へ運ぶ。
蓋が開かれる。
中に収められていたのは、文具一式だった。
筆、細筆、墨、小ぶりな硯、折りたたみ式の定規、計測用の細紐、革表紙の帳面、薄くて丈夫な記録帖、封蝋印と小さな印箱。どれも華やかさを誇るための品ではない。だが、使う者の手へ入れば違いがすぐ分かるだろう、そういう質の良さがある。
「こちらは、殿下方皆さまへ」
次の箱が開かれる。
そこには、学園で携える実用品が整然と収められていた。小型の時刻具、方位針、携帯用の筆記板、丈夫な手袋、細工の控えめな革の小物入れ。どれも飾るためではなく、日々の手に馴染ませるためのものばかりだ。
カストルが低く言う。
「……やけに実用的だな」
そのひと言に、男はほんのわずかに目をやわらげた。
「陛下は、学園で必要となるのは飾りではなく、手に馴染む道具であると仰せでした」
その言い方に、アルケスは静かに箱の中へ目を落とす。
王から子へ与えられる贈り物ではある。
だが同時に、それは学園がもう遠い話ではないと分からせるものでもあった。
そこへ行く日が、確かに近づいている。その現実を、品という形で前へ置かれているのだ。
ポルックスが革表紙の記録帖へ目を留める。
「全員、同じものですか」
「基本の品は同じでございます」
男は答えた。
「ただし幾つかは、それぞれに応じて整えられております」
その言葉に、侍従たちが別の小箱を一つずつ前へ運んだ。
アルケスの前には、地図留め具と細い計測紐、それに簡素ながら精度のよい折りたたみ定規。
カストルの前には、手の小ささに合わせて作られた筆軸と、軽く扱いやすい特製の短鞭杖。
ポルックスの前には、より上質な観察帳と交換用の細筆。
シャムの前には、丈夫で小ぶりな革の小物入れと、持ち歩きやすい簡易方位針、それに薄手の丈夫な手袋。
シャムは、思わず目を見開いた。
「……僕にも」
口をついて出た声は、自分でも少し幼いと思った。けれど、引っ込めることはできなかった。
男はまっすぐに答える。
「皆さまへ、でございます」
平らかな言い方だった。
慰めも、特別扱いもない。
だからこそ、それがただの気遣いではなく、事実として響いた。
自分も、その「皆さま」の中に入っている。
そのことが、胸の奥で静かに音を立てる。
カストルは短鞭杖を見て、少しだけ顔をしかめた。
「気を遣われたみたいで腹が立つな」
棘のある言い方だったが、箱を押し返しはしない。
その反応に、ポルックスの目がごく小さく揺れた。笑ってはいない。ただ、兄が受け取るつもりでいることを最初から見抜いている目だった。
アルケスは計測紐を手に取る。
指先で軽く引いてみて、そのしなりを確かめ、また元へ戻す。扱い方がもう落ち着いている。
ポルックスは観察帳を開き、紙の質を見ていた。
シャムは方位針にそっと触れる。掌の中へおさまるほど小さいのに、確かに重みがある。歩く者の手に添うように作られた物の重みだった。
男は最後に、王の言葉をそのまま伝えるように、いっそう静かな声になった。
「陛下より、お預かりしております」
そして一度だけ、王子たちを見渡した。
「持たせるのは道具であるが、使うのは自分たちだと」
室内が静まる。
「学園では、与えられた品の良し悪しよりも、それをどう扱うかが、そのまま人を見ることになる、と」
アルケスが最初に頭を下げた。
「ありがたく拝受いたします」
ポルックスもそれに続く。
カストルは少し遅れて頷き、シャムも慌てずにそれへ倣った。
今度は、話している相手をちゃんと見て。
その小さな実践に気づいたのかどうか、誰も何も言わなかった。
けれどシャムは、自分の前に置かれた方位針を見ながら思った。学園はもう、ただ遠くにある名ばかりの場所ではない。こうして手に触れられる物とともに、自分の前へ静かに近づいてきているのだ。
窓の外では、冬へ向かう光が少しずつ薄くなっていた。
王城の中では、まだ温かな茶の香りが残っている。
そのぬくもりの中で、子どもたちの前には、はじめて「その先」で使うための道具が並べられていた。
それは贈り物であると同時に、もう子どものままではいられぬ者たちへの、静かな予告でもあった。
【2】
その日、辺境の空は高く晴れていた。
冷えは強いが、雲は薄い。冬の初めの光が地を浅く照らし、遠くの地平線を白く際立たせている。
川面は白い光を返し、遠い山の尾根には、夜の名残のような冷たい青が薄く残っていた。
ローディス辺境伯は、朝から珍しく執務室へ籠もらなかった。
「今日は付き合え」
そう言って、まだ湯気の立つ茶を半分も飲まぬうちにヴィルを外へ連れ出した。
館の表へ出ると、空気が頬を切った。
王都の冬とは違う。湿りが少なく、痛むほど冷たいのに、吸えば胸の奥が妙に澄んでいく。
「まずは上を見ろ」
ローディスはそう言って、館の裏手から小高い尾根へ続く坂を歩き出す。
ヴィルは黙ってついていく。
ここへ来たばかりの頃なら、なぜ今日に限ってそんなことをするのかと問い返したかもしれない。けれど今は、ローディスが理由を先に説明しない時ほど、そこに何かあるのだと知っていた。
尾根へ上がると、辺境の地がよく見えた。
蛇行を戻した川筋。
新たに整えた堰。
遠くの耕地。
さらにその向こうには、まだ人の手が十分に届いていない野が広がっている。
風は高いところほど強い。
外套の裾が鳴り、髪が乱れる。
「覚えておけ」
ローディスが言った。
「地図で見た線と、自分の目で見た線は違う」
ヴィルは黙って頷く。
「ここでお前が見てきたものは、紙に落とした数字より先に身体へ入っている」
「水がどこで痩せるか」
「土がどこで重くなるか」
「風がどの屋根を越え、どの村へ先に冷えを運ぶか」
辺境伯の声は低く太い。
「そういうものを一度身体で知った者は、あとで別の土地を見ても強い」
ヴィルは目を細め、川筋の光を見た。
たしかに、王都で見ていた書物の中の水と、ここで堰に手を入れ、靴を泥に沈めて見た水とはまるで違った。前者は知識で、後者は重みを持っている。手を入れれば冷たく、音を聞けば量が分かり、流れを変えればすぐ土地の顔が変わる。
ローディスはそれ以上は言わず、今度は集積場の方へ向かった。
昼に近い時間になると、人の動きも増える。荷を運ぶ者、綱を引く者、声を飛ばす者、馬を宥める者。辺境は王都より静かだが、静かなまま生きている土地ではない。黙っていても、働く音がどこかから立つ。
集積場では、年かさの職人がヴィルに気づき、いつものように顎を引いて挨拶した。
「ヴィル様」
それ以上は言わない。
ここではそれで足りる。
ローディスもまた、余計なことは言わない。
この地でヴィルは、王家の名を伏せたまま、だが軽んじられもせず生きてきた。
「ここの梁、前より落ち着いたな」
ローディスが言うと、職人は少しだけ誇らしげに答えた。
「前に見ていただいた継ぎを変えましたので」
ヴィルはそこで足を止め、木の継ぎ目を見る。
削り方が違う。
以前より、雪の重みが一方向に偏っても耐えるようになっている。
「よいと思います」
そう言うと、職人の顔が少しだけやわらいだ。
こういうやり取りを、ローディスは今日は何度もわざと作った。
鍛冶場でも。
用水の見回りでも。
市場に近い通りでも。
どこへ行っても、「ヴィル」と呼ばれる。
それは隠し名というより、この土地で彼が生きてきた名になりつつあった。
昼を回る頃には、風の冷たさの中にも少しだけ乾いた温みが混じってきた。
ローディスは珍しく、館へ戻る前に町外れの石橋のところで足を止めた。
橋の下では、細い流れが陽を受けてきらついている。
村の子どもが二人、少し離れたところで石を投げていた。彼らはヴィルたちを見ると、遠慮して道を空け、だが怯えはしない。
「どうだ」
ローディスが橋の欄干へ手を置いたまま言う。
ヴィルはすぐには答えなかった。
「何が、ですか」
「この土地だ」
辺境伯はぶっきらぼうに言う。
「最初に来た時よりは、ましに見えるか」
ヴィルは遠くを見る。
最初に来た頃、この土地はただ厳しく、粗く、冷たく見えた。人も風も、王都のように包まない。自分がここへ置かれたことの意味も、まだ整理がついていなかった。
だが今は違う。
風の癖も分かる。
水の匂いも分かる。
どの道が雨に弱く、どの村に冬の備えが足りぬかも、少しずつ見えるようになった。
館の者の足音も、職人の手の速さも、用水路の音の違いも、この土地のものとして身体へ入っている。
「……まし、というより」
そこで言葉を探した。
「相手の困ってることが分かるようになりました」
ローディスは鼻を鳴らす。
「そうか」
それだけだった。
だが、それで十分だった。
館へ戻ると、門前に大きな荷馬車が止まっていた。
木箱が幾つも積まれている。どれも頑丈な造りで、留め具には王家の封印が押されていた。館の者たちは、ただの物資ではないとすぐに察して動いているが、詳しくは知らない。知らぬまま、余計な口を利かずに働いている。
ローディスは馬車をひと目見ると、ヴィルへ顔を向けた。
「来たぞ」
それだけで十分だった。
館の者を下がらせ、運ばれた箱はローディスの執務室へ置かれた。
扉が閉まる。
そこではじめて、辺境伯はいつもより少し低い声で言う。
「わし宛に届いた」
「だが、中身はわしのものではない」
ヴィルは静かに立っていた。
「王都より、お前にだ」
王家の名は出さない。
ここでそれを口にする必要はないし、この男はそういう不用意をしない。
「わしが預かる形で届いた」
「受け取れ」
ヴィルは一礼し、封印へ手を伸ばした。
革帯を外し、留め具を起こし、最初の箱を開ける。
中には、学園で必要となる品々が整然と収められていた。
革表紙の帳面。
折りたたみ式の定規。
計測紐。
封蝋印。
観察帳。
携行用の筆記板。
細筆。
どれも実用に徹した、質のよい道具ばかりだった。
次の箱には、より個別の品がある。
小型の測量具。
方位針。
弓指を保護するための細工物。
野外で記録を取る時に便利な小型の道具入れ。
辺境での暮らしと、これから先の学びと、その両方を見て選ばれたのではないかと思うほど、よく考えられていた。
最後の小箱を開けた時、ヴィルの手が止まった。
そこにあったのは、花々のブローチだった。
華奢で、可憐で、小さな花弁が幾つも寄り添うように作られている。金とも銀ともつかぬ淡い光の中に、春の名残のようなやわらかさがあった。辺境の冬の光の下では、その繊細さがかえって胸に刺さる。
箱の底に、一通の手紙が添えられている。
ヴィルはそれを取り上げた。
「読め」
ローディスが言う。
ヴィルは封を切った。
手紙は長くなかった。
だが、書かれている文字はどこまでも整っていて、短いからこそ一行ごとの重みが逃げなかった。
ヴィルギニスへ。
そなたが辺境において、土地と水と人の働きをよく見ていることは、報告にて受けている。
見るだけで終わらせず、それを覚え、次へ繋げようとしていることも。
まずは、そのことをよしとする。
本来であれば、そなたもまた、他の者たちと同じ折に龍環神市学園へ入れるべきであった。
だが、そなたの母に関わる事柄について、なお内々に整えねばならぬことが残っている。
王家の内にあるものを曖昧なまま外へ持ち出すわけにはいかぬ。
そのため、そなたの入学はしばらく遅らせる。
これは王としての判断である。
だが、判断であるからこそ、待たせることを当然と思うつもりもない。
そなたに遅れを負わせる形となることは、私の本意ではない。
ここに詫びる。
とはいえ、遅らせることは、道を閉ざすことではない。
そなたをその列から外したわけではないことを、まず忘れるな。
待つあいだに何を積むかで、その遅れは後れにも、備えにもなる。
そなたであれば、ただ待つだけでは終わるまい。
学園にて要る品を、先んじて送る。
飾りではなく、使うためのものを選ばせた。
手に馴染ませておけ。
道具は持たされるものだが、使い方はその者自身の品位を表す。
学園では、持つ物の価値より、それをどう扱うかを見られると心得よ。
最後の品は、そなたの母がかつて賜ったものと聞く。
年長の后より贈られ、長く手元に置かれていた由だ。
学園へ向かう日が遅れようとも、そなたがそこへ至る道の上にいることは変わらぬ。
そのしるしとして、受け取れ。
辺境にて学んだことを軽く見るな。
土地を知り、水を知り、人の働きを知ることは、書物のうえだけでは得られぬ。
それは後に、そなたの支えとなる。
焦って粗くなるな。
だが、緩んで鈍るな。
来るべき時まで、備えておけ。
そこまで読んだところで、ヴィルは少しだけ目を閉じた。
辺境伯は黙って待っている。
「遅らせる、と」
ヴィルが言うと、ローディスは頷いた。
「読めば分かる」
「……はい」
短い沈黙が落ちる。
ローディスは椅子へ重い身体を沈め、腕を組んだ。
「腹が立つか」
ヴィルは考えた。
「……少し」
「それから」
喉がわずかに詰まる。
「母のことが、まだ“整えねばならぬこと”として残っているのだと思うと」
続きを言う前に、辺境伯が受けた。
「面白くないな」
「はい」
「当然だ」
その返しがあまりに当然で、ヴィルは少しだけ顔を上げる。
ローディスは続けた。
「だが、詫びを書いたのなら、ただ遠ざけるつもりではない」
「放っておく相手に、わざわざ詫びなど書かん」
それは慰めではなかった。
事実として置かれた言葉だった。
そしてローディスは、花のブローチへ視線をやる。
「それに、これは良い」
ヴィルは思わずその言葉を聞き返すように目を上げた。
「良い、ですか」
「良い」
辺境伯は言う。
「鎧にもならん」
「腹も満たさん」
「弓の腕も上げぬ」
「だが、旅立つ前の人間には、こういう物が要る」
その声は低い。
「どこから出て、どこへ戻るかを忘れぬための物だ」
ヴィルはブローチを見た。
母はこれを、どんな時に身につけたのだろう。
誰の前で笑い、どの衣へ留めたのだろう。
そのどれも知らない。
それでも今、この小さな花だけが、自分の手へ届いた。
ローディスは少しだけ身を乗り出した。
「今日は、あちこち連れ回した」
急な話で、ヴィルはまばたきをした。
「……はい」
「何のためだと思う」
問い返されて、ヴィルは少しだけ考える。
尾根。
用水。
集積場。
石橋。
町外れ。
働く人々の顔。
「覚えさせるため、ですか」
「半分だ」
ローディスは言う。
「もう半分は、持って行かせるためだ」
ヴィルは黙った。
「人はな」
辺境伯の声は、いつもの実務の調子より少しだけ低かった。
「次の土地へ行く時、前の土地をただ“いた場所”としてしか持たぬと弱い」
「だが、“帰ってこられる場所”だと思える土地が一つあると違う」
執務室の石壁が、冷たいまま静かにその声を返す。
「ここはお前の生まれた場所ではない」
「だが、それだけで故郷にならぬとも限らん」
ヴィルの手の中で、花のブローチがひどく小さく感じられた。
小さいのに、その言葉と一緒になると、急に重みを増す。
「覚えておけ」
ローディスが言う。
「王都へ戻ろうが、学園へ行こうが」
「お前はここで水の音を覚えた」
「風の向きを覚えた」
「土の癖を覚えた」
「人の働く手を見た」
「それはもう、お前の中から抜けぬ」
ヴィルは答えられなかった。
辺境の地を、第二の故郷と思え。
そういう露骨な言い方ではなかった。
だが、言われたことはそれに近かった。
ローディスは最後に鼻を鳴らす。
「入学が遅れるなら、その分までここで先へ進め」
「待たされた分、追いつけばよい」
「いや、追い越せ」
そこでようやく、いつもの辺境伯の調子が戻る。
「計測具は明日から使う」
「観察帳もだ」
「花を眺めてしんみりするのは今夜までにしておけ」
無骨だった。
けれど、その無骨さに救われる。
ヴィルはごく小さく息をつき、ようやく頷いた。
「……はい」
ローディスも頷く。
「よし」
それだけだった。
けれど、そのひと言で十分だった。
ヴィルは花のブローチを箱へ戻さなかった。
掌の中へそっと収める。
小さく、壊れそうで、それでも確かな重みがある。
窓の外では、乾いた風がまた一度、石壁を撫でていった。
辺境の午後は早く傾く。
その薄い光の中で、王都から届いた品々は、ただの贈り物ではなく、遅れてなお続いている道のしるしとして、静かにそこにあった。
そしてヴィルは、その道を思うと同時に、今日歩いた尾根や橋や水辺の光景を胸の内に並べていた。
学園へ向かう時、自分はこの土地を後ろへ置いていくのだと思っていた。
けれど、そうではないのかもしれない。
持って行くのだ。
水の音も、風の匂いも、働く人々の声も。
それらを抱えて、次の場所へ向かうのだ。
そのことを知った時、この辺境の地は、生まれた場所ではなくとも、確かに自分の中で一つの故郷になり始めていた。
【3】
その朝、辺境の空は高く澄んでいた。
雲は薄く、光は白い。暖かさはほとんどなく、ただ輪郭だけをくっきりと浮かび上がらせるような光だった。遠くの稜線は刃のように際立ち、川筋は凍りつかぬまでも冷たく光を返している。風は乾いていた。吹けば肌の上を滑るのではなく、削るように過ぎていく。
ローディスの執務室には、その外の空気とは別の重さがあった。
卓の上に置かれた書状は、すでに開かれている。封蝋は割られ、紙は端を押さえられたまま動かない。長く使い込まれた木の机の上に、ただ一通の報せだけが異様な存在感を持っていた。
ローディスは椅子に深く腰をかけている。
だが休んでいるわけではない。
思考の中へ沈んでいる時の姿だった。
脇に控える家臣たちも、言葉を差し挟む気配を持たない。
ヴィルギニスはその様子を、少し離れた位置から見ていた。
この男が迷いを見せることは少ない。
判断は早く、言葉は簡潔だ。
だが今は違う。
迷いではない。
選び方を慎重にしている沈黙だった。
やがてローディスが口を開いた。
「グラディオ商会だ」
低い声だった。
それだけで、この件が軽いものではないと分かる。
ヴィルギニスは視線をわずかに落とす。
辺境最大の商会。
職人の手から生まれた品を束ね、領内外へ流す要。
そこが揺れれば、単なる一商家の問題では済まない。
「先代が急死した」
続く言葉も短い。
「老いでも病でもない。倒れて、そのままだ」
ヴィルギニスは黙って聞いた。
死が急であるほど、残された側は整える時間を持たない。
「息子は四人」
ローディスは言う。
「いずれも凡ではない。むしろよく育っている」
そこで、ほんのわずかに息を吐いた。
「だからこそ厄介だ」
その意味は、説明されずとも分かる。
力のある者が複数いる時、争いは長く、深くなる。
「跡取りは」
「決める前に死んだ」
簡潔だった。
室内の空気が一段、沈む。
「遺言はある」
ローディスは指先で書状を押さえる。
「だが、一番扱いづらい形でな」
紙がヴィルギニスへ差し出される。
「読め」
記された内容は、簡潔で、そして十分だった。
帳簿の持ち出し。
職人の囲い込み。
出荷の遅延。
取引先の不信。
まだ崩れてはいない。
だが、崩れ始めている。
「私が出向かれますか」
ヴィルギニスの問いに、ローディスはわずかに目を細めた。
「私が行けば、形は整う」
そこで言葉を切る。
「だが、それは表だけだ」
視線が鋭くなる。
「内側は割れたまま残る」
それでは意味がない。
ヴィルギニスは頷いた。
「では」
わずかに言葉を選ぶ。
「どうなさいますか」
ローディスはまっすぐに彼を見る。
「お前が行け」
短い。
だが、重い。
ヴィルギニスは一瞬だけ呼吸を止めた。
「私が」
「そうだ」
ローディスは続ける。
「私の代理として見て来い」
室内に、ごくわずかな緊張が走る。
ただの使いではない。
判断を伴う場へ立てという命だ。
「侮られるでしょう」
ヴィルギニスは言う。
「当然だ」
ローディスは即答する。
「若さも、立場の軽さも、相手は使う」
そして、わずかに声を落とす。
「だからよい」
「最初から頭を下げてくる相手では、本性は見えない」
ヴィルギニスは沈黙する。
「見て来い」
ローディスは続ける。
「何を欲しているか」
「何を恐れているか」
「何を手放せないか」
「家を継ぎたいのか」
「父に認められたかったのか」
「それとも、ただ他の三人に負けたくないだけか」
言葉は静かだが、重い。
「口に出さぬなら、別のところを見る」
「人の動き、物の置き方、空気の流れ」
「見れば分かる」
それは、この地で叩き込まれてきた見方そのものだった。
「……承知しました」
ヴィルギニスがそう答えると、ローディスは小さく頷いた。
「ただし」
一拍置く。
「最初から収めようとするな」
「崩れ方を見ろ」
その言葉を胸に、ヴィルギニスは商会へ向かった。
出迎えた四人の男たちは、露骨に顔をしかめた。
その表情に、遠慮はない。
失望。
苛立ち。
そして、軽視。
それでよかった。
ここからしか見えないものがある。
【4】
応接間は、静かで重かった。
壁に並ぶ工芸品は見事だったが、今はその一つ一つが、主人の不在を際立たせているように見えた。積み上げられてきたものが、そのまま場の圧となっている。
四人は、互いを意識しながら席につく。
均衡は、すでに崩れていた。
長男が口を開く。
次男がそれを遮る。
三男が否定する。
末子が別の理を持ち出す。
言葉は重なり、ぶつかり、収まる気配を見せない。
それぞれが正しい。
それぞれが不十分だ。
ヴィルギニスは口を挟まず、聞いていた。
声の高さ。
言葉の選び方。
沈黙の取り方。
そこに、それぞれの焦りが現れていた。
やがて、静かに言う。
「遺言を」
差し出された紙は簡潔だった。
誰の名もない。
ただ、
――力を合わせて継げ
それだけがある。
それが、最も難しい。
「守る気がないのですか」
問いが落ちる。
四人は沈黙する。
否定も、肯定もできない沈黙だった。
ヴィルギニスは続ける。
「役を分ければよいではないですか」
言葉は簡単だ。
だが、その中身は軽くない。
「皆さまは、それぞれ違う強みを持っている」
「それを削り合っている」
「それでは、父君が残したものは減るばかりです」
視線が、順に四人へ向けられる。
「貴族との折衝」
「帳簿と金」
「職人と工房」
「外との取引」
「いずれも、欠ければ回らない」
沈黙が、少し変わる。
ただの反発ではなく、考える間へ変わる。
「問題は」
ヴィルギニスは言う。
「皆さまが“上に立つこと”を先に考えていることです」
言葉が止まる。
「父君は、“支える形”を残した」
それは、これまで誰も口にしなかった視点だった。




