第ニ章
【1】
翌朝、いつもどおりに目を覚ました。
鐘が鳴り、侍女が廊下を渡り歩き、兵が交代を告げる。大人たちは変わらぬ顔で働いている。
けれど五人の王子の胸には、昨夜の言葉が沈んだままだった。
王とは、決断する者だ。
十歳には、まだ大きすぎる言葉。
アルケスは夜明け前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。ただ、目が覚めてしまったのだ。
翡翠の髪を結い直し、庭へ出る。
露に濡れた芝が冷たい。
訓練用の剣を握る。
一、二、三。
打ち込みながら、父――金髪に赤茶の瞳を持つ現王の姿を思い出す。兄王の崩御により即位した父。その背は、いつもまっすぐだ。
決断する者だ。
自分にできるのか、とアルケスは思う。
「……早いな」
控えめな声がした。
振り向くと、ヴィルギニスが立っている。青に近い髪を後ろで結び、長弓を抱えていた。
彼はいつも一歩引いている。
母の身分が低い。それを誰よりも自覚しているからだ。
背筋は伸びているのに、どこか影のように静かだ。
「眠れなかったのか?」
アルケスは自然に声をかける。
ヴィルギニスは一瞬、目を伏せた。
「……少し」
言葉は短い。必要以上に話さない。
弦が鳴る。矢は的の中央を外れ、端に刺さった。
「惜しいな」
アルケスが言うと、ヴィルギニスは首を振る。
「惜しいでは駄目だ」
その声音は静かだが固い。
「少しの誤りは、許されない」
自分に言い聞かせるように。
アルケスは眉を寄せた。
「俺は、少しくらいならいいと思う」
ヴィルギニスが驚いたように顔を上げる。
「誰でも外す。俺も外す。お前だけが完璧でいなくていい」
言ってから、照れたように視線を逸らす。
ヴィルギニスはわずかに口元を緩めた。
「……殿下は、甘い」
「アルケスでいい」
即座に返す。
ヴィルギニスは少し困ったように黙る。
その沈黙を、アルケスは急かさない。
二人はそれぞれ、再び武器を握る。
同じ庭にいても、互いの時間を侵さない。それが彼らの距離だ。
朝餉は、いつも二つに分かれている。
大広間にはアルケス、ポルックス、シャム。そして離れた小卓にカストル。
ヴィルギニスはその傍らに立つ。
カストルは病弱で、機嫌を損ねやすい。些細なことで癇癪を起こし、手近な調度品を叩き割ることもある。
以前、ヴィルギニスが水をこぼしたときだった。
「何をしている!」
甲高い声とともに杯が床へ叩きつけられた。陶片が飛び散る。
そのときから使用人たちは気を遣い、食事を分けた。
今日も、カストルは咳をしていた。
「……水」
短く命じる。
ヴィルギニスがすぐに杯を差し出す。
「冷たい」
眉を吊り上げる。
「申し訳ございません」
即座に頭を下げる。
アルケスは食事の手を止めた。
「俺のを使え」
自分の杯を差し出す。
場が一瞬、凍る。
カストルはアルケスを見る。
「……いらない」
そっぽを向くが、怒鳴らない。
ポルックスが静かにカストルの肩に手を置く。
「今日は喉が荒れてるのです」
低く穏やかな声。
カストルは小さく舌打ちし、咳き込んだ。
シャムは黙って見ている。
花街で見た、壊れやすい大人たちの顔を思い出す。怒る者ほど、弱いことを知っている。
やがて側近が現れ、七日間の視察が告げられる。
王子たちは顔を見合わせるが、誰も余計なことは言わない。
彼らはそれぞれ、自分の時間を大切にしている。
共に育ちながら、互いの領域を侵さない。
アルケスは北を選ぶ。
ヴィルギニスは「西でよろしいでしょうか」と控えめに言う。
誰も反対しない。
カストルは南を望み、ポルックスが当然のように同伴を選ぶ。
シャムは東を選ぶ。
北の堤。
石の隙間から水が滲む。
アルケスは膝をつき、土に触れる。
「積み直せるか」
兵が戸惑う。
「今からでは難しいかと」
迷う。
だが言う。
「今からやろう」
声はまだ子供だ。それでも、兵は頷いた。
西の水門では、ヴィルギニスが濡れた石段に立つ。
誰もいないとき、彼は少しだけ表情を緩める。
水の流れを読むのは好きだ。水は身分を問わない。
だが兵が近づくと、すぐに姿勢を正す。
「ここ、流量が違います」
簡潔に告げる。
余計な言葉は足さない。
南の市では、カストルが値上げに腹を立てていた。
「どうして上げるんだ!」
声を荒げる。
商人が困る。
ポルックスが間に入る。
「兄上、落ち着いて」
だがカストルは机を叩き、果物籠を落とす。
その瞬間、ヴィルギニスの姿を探すように視線が揺れた。
いないとわかると、さらに苛立つ。
八つ当たり先を求める癇癪。
東の穀倉で、シャムは鼠穴を見つける。
「こういうの、放っておくと全部食われる」
倉番に言う。
子供の声だが、真剣だ。
夕刻、庭に戻る。
五人は揃わない。
カストルは部屋に戻り、ポルックスが付き添う。
ヴィルギニスは少し離れて立つ。
アルケスが手招きする。
「来いよ」
一瞬ためらうが、近づく。
「今日、どうだった」
アルケスは自然に尋ねる。
「……問題ありません」
簡潔な答え。
「そうか」
それ以上、踏み込まない。
月が雲間に浮かぶ。
まだ丸くない。
七日後、何かが起きる。
けれど彼らはまだ十歳だ。
怒りも、遠慮も、誇りも、未熟なまま抱えている。
雨が降り出す。
静かに、長く。
北の堤に水が溜まり、西の水門に圧がかかる。
城の高みで、現王は灯を落とさない。
赤茶の瞳が、闇を見つめている。
選ぶのは、誰か。
選ばれるのは、誰か。
庭で、アルケスは小さく呟く。
「お前は、俺と同じだ」
ヴィルギニスは答えない。
だが、ほんの少しだけ距離が縮まっていた。
十歳の、ほんの一歩分だけ。
【2】
雨は夜のあいだ降り続き、明け方になってようやく細くなった。
城の石畳は濡れ、庭木の葉から雫が落ちる。空はまだ低く、灰色の雲が重く垂れ込めていた。
七日間の視察、その二日目。
まだ「何か」が起きる前の、静かな始まりだった。
アルケスは父に呼ばれた。
謁見の間ではなく、小さな書斎だった。金髪の現王は簡素な衣をまとい、地図を広げている。赤茶の瞳が息子を見上げた。
「北はどうだ」
声は穏やかだが、試す響きがある。
「石の継ぎ目から水が滲んでいました。積み直させています」
言い終えたあと、自分の声が少しだけ震えていたことに気づく。
現王は黙って地図に指を置く。
「判断は早いな」
叱責でも賞賛でもない。
「早さは刃だ。だが刃は、握りを誤れば己を傷つける」
アルケスは唇を結ぶ。
「……はい」
まだ意味を完全には理解していない。それでも頷く。
現王はふと視線を柔らげた。
「恐れたか」
問われ、アルケスは正直に答える。
「少し」
現王は小さく息を吐いた。
「それでいい」
書斎を出たアルケスは、廊下の端に立つヴィルギニスを見つけた。
呼ばれていない者は、扉の外で待つ。それが彼の立場だった。
「待ってたのか」
「いえ、通りかかっただけです」
嘘だとわかるほど律儀な声音。
アルケスは何も言わず、隣に立つ。
二人でしばらく雨の庭を見た。
「西は」
アルケスが聞く。
「水門の継ぎ目が古い。補強を願い出ました」
淡々とした報告。
「父上には?」
「……まだ」
ヴィルギニスは視線を落とす。
自分が直接進言することを、躊躇っているのだ。母の身分が低いという事実が、いつも喉に引っかかる。
アルケスは眉を寄せる。
「言えよ」
「ですが」
「王子だろ」
強い口調ではない。ただ当然のように言う。
ヴィルギニスは一瞬だけ、赤茶の瞳を思い出すように目を細めた。
「……考えておきます」
一方、南の市では朝から騒がしかった。
昨日の値下げで不満を抱いた商人が、別の品を高く売り始めたのだ。
カストルは咳をしながら机を叩く。
「どうしてだ!」
怒りが先に立つ。
商人は口ごもる。
ポルックスが間に入る。
「兄上、まず話を」
だがカストルの苛立ちは収まらない。手近な木箱を蹴り、果実が転がる。
「殿下、どうか……」
商人の声が震える。
カストルの視線が揺れた。
探すように、誰かを。
だがヴィルギニスはいない。
いないことに、さらに苛立つ。
「……帰る」
咳を堪えながら背を向ける。
ポルックスは静かに後を追う。
兄の弱さも怒りも、受け止めるのが自分だと知っているから。
東の穀倉では、シャムが湿った袋を日に当てていた。
「雨、長いな」
倉番の老人が言う。
「うん。でも、今のうちに干さないと」
手際よく縄を張る。
城に来るまで、誰も自分を知らなかった。
現王と、自分を連れてきた側近だけが知る存在。
それが今、穀倉の老人に名前で呼ばれている。
「シャム殿下」
その響きがまだ少し不思議だ。
午後、五人はそれぞれの場所へ再び散った。
個々の時間を守るように。
アルケスは北へ向かう途中、ふと足を止めた。
遠く、西の方角に黒い雲が溜まっている。
胸がざわつく。
堤に着くと、兵が慌ただしく動いていた。
「水位が、想定より早い」
報告が飛ぶ。
アルケスは石段を駆け上がる。
冷たい風が頬を打つ。
――早さは刃。
父の言葉がよぎる。
「土嚢を増やせ!」
思わず叫ぶ。
兵が一瞬驚き、すぐ動き出す。
十歳の声。
だが、そこに迷いはなかった。
その頃、西の水門ではヴィルギニスが流れの変化に気づいていた。
「……速い」
呟く。
昨日より明らかに勢いが強い。
補強の許可はまだ下りていない。
歯を食いしばる。
言うべきだった。
進言すべきだった。
低い身分を理由に躊躇った自分を、胸の奥で責める。
水が唸る。
城の高みで、現王は雲を見ていた。
赤茶の瞳が細まる。
兄を呑んだ水の色と、同じだ。
まだ嵐ではない。
だが兆しはある。
これは始まりに過ぎない。
七日目へ向かう、静かな起点。
怒りも、遠慮も、恐れも、まだ幼い。
それでもそれぞれが、小さな決断を重ね始めている。
水は止まらない。
雲は流れる。
十歳の王子たちは、まだ知らない。
この雨が、互いの距離と、立場と、心を少しずつ削っていくことを。
【3】
雨脚は夕刻にかけて強まった。
朝には鈍く空を覆うだけだった雲が、今は低く垂れこめ、王都の石畳も、堤も、水門も、すべてを濡らしている。風は冷たく、水を含んだ空気が肌にまとわりついた。
北の堤では、濁流が石を叩いていた。
継ぎ目から泡立った水が噴き出し、積み上げた土嚢の隙間を削っていく。兵たちは声を張り上げ、ぬかるんだ足元を踏みしめながら土嚢を運んでいた。
アルケスは濡れた前髪を払い、堤の上からその動きを見ていた。
十歳の自分に、土嚢を運ぶだけの力はない。
だからこそ、立って見ているだけではいられなかった。
「縄を二重に」
思いついたまま口にする。
兵が一瞬だけ視線を寄越す。
王子の言葉だから従う。だがその目には、ほんのわずかな逡巡があった。
本当に持つのか、と。
アルケスはそれに気づいている。
自分がまだ子どもでしかないことも、声だけでは石は支えられないことも。
それでも言葉を止めない。
「石を噛ませて、ずれないように。そこは土だけじゃ流される」
声がかすれた。
決断とは、迷わないことではない。
震えながらでも前に出すことだと、今はそう信じるしかなかった。
兵たちは動く。
縄が結ばれ、石が噛まされ、濁流に向かって人の手が伸びていく。
完全ではない。
だが、何もしないよりはましだ。
その頃、西の水門では、ヴィルギニスが水のうねりを見つめていた。
門の脇に立つ青みがかった髪は、雨を含んで暗く沈んでいる。石段を流れる水は、昨日とは明らかに違う。ほんのわずかだが、逆巻いていた。
補強を願い出た箇所だった。
まだ正式な許可は届いていない。
ヴィルギニスは唇を噛んだ。
母の立場。
自分の立場。
出過ぎるな、控えろ、余計なことはするな――そういう言葉を、彼は幼い頃から聞いてきた。
その言葉は、今も喉の奥に棘のように残っている。
だが目の前の水は、誰の遠慮も待たない。
「杭を打ってください」
低い声だった。
けれど濁流に消されないだけの強さがあった。
兵が戸惑う。
「正式な許可が――」
「責は私が負います」
静かに言う。
十歳の声にしてはあまりに落ち着いていて、その静けさがかえって兵たちを黙らせた。
彼らは顔を見合わせ、やがて動き出す。
杭が運ばれ、槌が振り下ろされる。
水飛沫が上がる。
ヴィルギニスは濡れながら、位置を細かく指示した。
水の流れを見るのは得意だった。水は身分を問わない。正しい場所へ手を打てば、きちんと応える。
震えているのは寒さだけではない。
だが後退はしなかった。
南の市では、別の意味で空気が荒れていた。
湿気で傷みかけた穀物を、高値のまま売ろうとする商人がいたのだ。
「腐りかけを売るのか!」
カストルの声が市の屋根の下に響く。
咳き込みながらも、その赤い瞳は鋭く商人を射抜いていた。
商人は言い訳を並べるが、視線は泳いでいる。
カストルは卓を叩いた。
陶器が跳ね、果物籠が揺れ、周囲が息を呑む。
また癇癪だ、と誰もが思う。
だがその目は怒りだけではなかった。
「……病の者に食わせたら、どうなる」
掠れた声だった。
自分の身体を知っているからこその怒り。
弱い身体で、口に入るもの一つがどれほど重いか知っている怒りだった。
ポルックスが静かに一歩前へ出る。
「その品は引き取る。代わりに正規の値で売れ」
落ち着いた声が、場の熱を少しずつ冷ましていく。
「湿りを含んだ穀は別に分ける。混ぜるな。記録も残す」
商人はなおも渋る。
だがポルックスの瞳は穏やかなまま、逃げ道を与えない。
兄の激しさと、自分の静けさ。
双子でありながら、二人はまるで別の刃だった。
それでもポルックスにとって、兄が振り上げたものを正しい向きへ落とすことは、ごく自然なことだった。
東の穀倉では、シャムが床板の染みを見つけていた。
「ここ、濡れてる」
倉番の老人が覗き込む。
「ほんとだ……朝はなかった」
壁伝いに雨水が入り込んでいる。
このままでは、奥の袋まで湿る。
シャムはすぐ外へ回った。
石積みの裏に、わずかな隙間がある。
城へ来るまで、誰も自分を知らなかった。現王と、あの灰色の瞳の側近だけが知る名もない子だった。
それでも今、自分の前には困っている人がいる。
「布と粘土、ある?」
倉番が慌てて持ってくる。
シャムは泥に膝をつき、小さな手で隙間を塞いだ。
指先はすぐ泥だらけになる。袖も汚れる。けれど気にしない。
守るというのは、こういうことかもしれない、とふと思う。
誰にも気づかれなくても、崩れないように支えること。
派手な決断ではなくても、明日の飯を守ること。
夜が近づくにつれ、雨はさらに強まった。
北の堤で兵の叫びが上がる。
「水位が上がる!」
アルケスは胸が締めつけられるのを感じた。
もし判断が遅れていたら。
もし誤っていたら。
石の一部が軋む。
濁流がぶつかり、堤全体が小さく震えた。
だが、積み増した土嚢と縄が、かろうじて踏みとどまらせている。
完全ではない。
けれど崩れてもいない。
アルケスは拳を握りしめた。
震えが止まらない。
西では、打ち込まれた杭によって水の向きがわずかに変わっていた。
流れの癖が変わる。
ほんの少しだが、門への圧が逃げる。
ヴィルギニスは息を吐いた。
成功とは言えない。
だが最悪は避けた。
兵の一人が、小さく言う。
「助かりました、殿下」
その言葉に、ヴィルギニスの胸が詰まる。
殿下。
自分に向けられることの少なかった呼び名だった。
呼ばれて当然の立場であるはずなのに、当然と思えずに生きてきた。
南の市では、ようやく騒ぎが収まり始めていた。
カストルはまだ咳をしている。
ポルックスは兄の肩に外套をかけ、商人に最後の確認をしていた。
「傷んだ分は分ける。値を上げるなら、その理由を先に出して」
淡々とした声。
カストルは不機嫌そうに顔を背けたまま、ぼそりと言う。
「二度とやるな」
商人は何度も頭を下げた。
東の穀倉では、染みがそれ以上広がることはなかった。
倉番の老人が、塞いだ跡を見て唸る。
「助かったよ」
シャムは泥のついた手を見下ろした。
王子と呼ばれても、この手はまだ泥の方が似合う気がした。
城の高みでは、現王が報告を受けていた。
窓の外では雨が塔を叩いている。
赤茶の瞳が細められる。
「動いたか」
短い言葉。
兄を奪ったあの日も、雨だった。
水は奪う。だが同時に、人を試しもする。
五人の子らは、まだ幼い。
怒りも、遠慮も、恐れも、未熟なままだ。
それでも今日、それぞれが自分の足で立とうとした。
夜半、雨はようやく弱まった。
城へ戻った王子たちは、顔を合わせない。
それぞれの部屋へ向かう。個々の時間を守るために。
だが胸の奥では、互いの行動を思い出していた。
アルケスは、西で杭を打ったヴィルギニスを思う。
ヴィルギニスは、北の堤が持ちこたえたかを案じる。
カストルは、傷んだ穀物を病人に食べさせることの怖さを思い出す。
ポルックスは、兄の震えた手の感触を覚えている。
シャムは、泥の匂いをまだ指先に感じていた。
七日間はまだ始まったばかりだ。
だがこの雨は、確かに何かを浮き彫りにした。
身分への遠慮。
怒りの裏にある弱さ。
平等であろうとする意志。
名を知られず育った孤独。
月は雲の向こうで、静かに満ちていく。
やがて来る七日目。
そのとき、誰が何を選ぶのか。
まだ誰も知らない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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