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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十七章4

【1】

 昼に近づくにつれ、龍星院の空気は少しずつ乾いていった。


 朝のあいだ庭石に残っていた水は、薄い陽に温められて輪郭を失い、芝の雫もいつしか見えなくなっている。けれど王城の内側に満ちる緊張だけは薄れなかった。むしろ時が進むほど、目に見えない何かが確実に広がっているとわかる種類の重さだった。


 小会議室の机には、新たに運び込まれた紙束が置かれている。


 南倉の再照合。

 集積場ごとの受領控え。

 財務局の回付記録。

 同じ文字、同じ数字の顔をしているのに、見れば見るほど、そのどこかに人の手癖が滲んで見える。


 教師はその束のひとつを開き、丁寧に言った。


「今朝のうちに、財務局内でも聞き取りが始まっております」


 アルケスが問う。


「もう崩れた者がいるのですか」


「ええ」


 答えたのはエドレクだった。


「まだ全面的ではございません。ですが、人は自分が最後の一人になると知った時、急に賢くなります」


 カストルが鼻を鳴らす。


「賢いんじゃない」


 短く言う。


「怖いだけだ」


「はい」


 エドレクはあっさり頷いた。


「その通りでございます」


 シャムはそのやり取りを聞きながら、紙の端を見ていた。


 人が崩れる時は、叫ぶとは限らない。

 黙っていた者ほど、ある一点を越えると急に喋り出す。

 花街でも、そういう大人を見たことがある。

 最初は何も知らない顔をしていたのに、誰か一人が引き立てられた途端、自分だけは少しでも軽くなりたくて言葉を吐く者たちを。


 教師が次の一枚を差し出した。


「こちらが、南の第二集積場の受領係の供述をもとにまとめたものにございます」


 ポルックスが先に手を伸ばした。


 視線は柔らかい。

 だが、その柔らかさの下で、すでに何かを切り分け始めている顔だった。


「……少ない」


 彼が言う。


「何がですか」


 教師が問うと、ポルックスは紙から目を離さないまま答えた。


「言い訳の種類です」


 カストルがそちらを見る。


 ポルックスは淡々と続ける。


「雨で濡れた。荷崩れした。鼠が入った。運搬中にこぼれた」


 紙を指で軽く叩く。


「全部、同じ言い方に寄せてる」


 アルケスが身を乗り出した。


「つまり」


「考えた人がいる」


 ポルックスの声は静かだった。


「複数の人が別々に誤魔化したなら、もっと言い訳は散るはずだよ」


 シャムはその言葉に、ぞくりとした。


 柔らかい。

 だが、その柔らかさのまま相手の逃げ道を消していく。

 ポルックスのこういう時の声は、怒鳴る者より怖いのかもしれなかった。


 教師も頷く。


「はい。供述の癖が揃いすぎております」


「誰かが、先に教えたのでしょう」


 カストルが言う。


「ラディルだ」


「あるいは、その近くにいた誰か」


 ポルックスが訂正する。

 言い方は穏やかだ。

 けれどそこには、曖昧なまま一人に集めることを許さない冷たさがあった。


 エドレクが静かに言う。


「殿下方は、いま帳面の崩れ方をご覧になっています」


「帳面は紙ですが」


「崩れる時には、人の顔をして崩れます」


 その言葉に、部屋は少しだけ静まった。


 アルケスが問う。


「次に崩れるのは誰でしょう」


 教師は一瞬だけ迷い、それから慎重に答える。


「南倉の帳簿付けをしていた者か」


「あるいは、財務局内で回付を担っていた下役かと」


 カストルが机に肘をつく。


「下役」


「はい」


「上じゃなくて?」


 教師は頷いた。


「上の者は、最後まで“知らぬ”で通そうといたします」


「ですが下の者は、切られるとわかった時が早い」


 ポルックスが小さく笑った。


 笑った、というより、口元だけがわずかに動いた。


「自分が守られないって分かった瞬間だね」


 その言葉は静かだった。

 だが冷たかった。


 シャムは、その横顔を見た。


 表情は穏やかなのに、目だけが冷えている。

 昨日まで講義の中で見せていた理屈好きな顔とは少し違う。

 これはたぶん、カストルに近づく危険を見た時の顔に近い。

 誰かを許さず、きちんと線を引く顔だ。


 教師が新しい紙を出す。


「こちらが、今朝、財務局の下役の一人から上がった供述です」


 ポルックスが読む。

 アルケスも覗き込む。

 カストルは椅子の背にもたれたまま、目だけで追う。

 シャムも少し遅れて視線を落とした。


 内容は単純だった。

 •集積場から上がる控えは、財務局で一旦まとめられる

 •その際、“書き直し”が必要なものは別に分ける

 •書き直しの判断はラディル、またはラディルの指示を受けた者がする

 •南倉第三蔵に回す数字は、他より細かく指定されていた


 カストルが言う。


「やっぱり」


 ポルックスは紙から目を上げた。


「ううん」


「まだ」


 カストルの眉が寄る。


「まだ?」


 ポルックスの声は穏やかだった。


「これは、やり方の話」


「でも」


 紙を裏返す。


「誰が得をしたかがまだない」


 その一言で、アルケスの目つきが変わる。


 そうだ。

 帳簿を整える役目と、得をする役目は同じとは限らない。


 エドレクが頷く。


「その通りでございます」


「流れを変える者と、水を飲む者が一致するとは限りません」


 カストルが低く言う。


「面倒だな」


「はい」


 教師が疲れの滲む声で答えた。


「政とは、そのようなものでございます」


 その時、扉が叩かれた。


 近侍が一礼して入ってくる。


「失礼いたします」


 教師が立ち上がりかけると、近侍は首を振った。


「殿下方に」


 皆の視線が集まる。


「陛下より、本日の夕刻、再び御前へとの仰せでございます」


 アルケスが頷いた。


「わかりました」


 近侍が去る。


 部屋の中には、また紙の匂いと沈黙だけが残った。


 シャムは、その沈黙の中で小さく息を吐いた。


 また王の前に立つ。

 昨日より、もっと先へ進んだ話を持って。


 少し怖い。

 だが昨日のように、自分だけが場違いだとは思わなかった。


 ポルックスが、机の上の紙を揃えながら言った。


「夕刻までに、もう少し崩れるね」


 カストルが言う。


「当然だ」


「一人捕まったんだ」


 ポルックスは首を傾ける。


「うん。でも」


「その“当然”を、ちゃんと形にしないと」


 そのまま教師を見る。


「いま一番怖がってるのは誰ですか」


 教師は驚いたように目を瞬かせる。


「誰、と申しますと」


「ラディルの次です」


 ポルックスの声は静かだ。


「自分が二番目に名前を出されると思ってる人」


「そういう人が、一番早く喋る」


 部屋が静まり返る。


 シャムは、思わず手を止めた。


 アルケスもじっとポルックスを見ている。

 カストルだけは驚かない。

 当然だろうという顔だった。


 教師は慎重に口を開いた。


「……南倉第三蔵の帳簿付け役かと」


 ポルックスは頷く。


「なら、その人の前に」


「ラディルが何を認めたか、少しだけ伝わると崩れますね」


 その言い方は、あくまで静かだった。

 提案の形をしている。

 だが実際には、かなり冷たい。


 誰をどう揺らせば、どこから崩れるか。

 それを柔らかな声のまま言えてしまうところに、ポルックスの本質があるのだと、シャムは初めてはっきり感じた。


 エドレクが細い目をさらにわずかに細めた。


「……殿下は、脅しの順序までお分かりになるのですね」


 ポルックスは微笑んだ。


「脅しではありません」


 一拍置く。


「流れを早めるだけです」


 カストルがそこで初めて、少しだけ楽しそうに見えた。


 ほんの僅か、唇の端が上がる。


「ポルックスらしい」


 その言葉に、ポルックスの視線だけが一瞬やわらいだ。


 カストルに向ける時だけの、薄い温度だった。


 だが次の瞬間には、もう元へ戻っている。


 教師は咳払いをひとつして、紙を整えた。


「では、夕刻までに整理いたします」


「南倉第三蔵の帳簿付け役を軸に、供述の順序も含めて」


 アルケスが頷く。


「お願いします」


 シャムは、そのやり取りを静かに見ていた。


 昨日まで、自分に見えていたのは数字の歪みだけだった。

 今日見えているのは、人の崩れ方だ。

 同じ帳面を前にしていても、人によって見えるものが違う。


 アルケスは流れ全体を見る。

 カストルは最初に不自然を嗅ぎ取る。

 ポルックスは崩れる順番まで読む。

 自分はまだ、そのどれにも届かない。


 けれど。


 それでも、目を逸らさずに見ていれば、いつか少しは届くだろうか。

 そんなことを考えた時、窓の外の雲がようやく割れ、細い陽光が机の端を照らした。


 紙の白が、一瞬だけ鋭く光る。


 そこに書かれた数字は冷たい。

 だがその冷たさの下で、いま確かに何人もの人生が崩れ始めている。


 そしてその崩れを、王子たちは学びとして見ている。


【2】


 夕刻の王城は、昼のざわめきをすっかり脱ぎ捨てていた。


 高い窓の外では、雨上がりの空がようやく薄く割れ始めていたが、日そのものはもう傾いている。濡れた石と冷えた空気が混じり合い、廊下には夜の始まりに似た静けさが満ちていた。燭台の火はまだ強くはない。それでも、暮れかけた光と火の色が重なり、壁や床に落ちる影を深くしていた。


 四人の王子は、近侍に導かれて執務室へ入った。


 先頭はアルケス。

 その後ろにカストル。

 半歩ずれてポルックス。

 最後にシャム。


 部屋の中央には重い机があり、その向こうにレンテがいた。


 今日の王は、朝よりも静かだった。

 その静けさは疲労によるものではない。

 一日を通して、誰を呼び、何を聞き、どこで言葉を切るかを選び続けた者だけが持つ、研がれた静けさだった。


 机の上には帳簿も供述書もある。だが、昼間のように散らばってはいない。必要なものだけが、整然と重ねられている。

 乱れた記録を受け取ったあと、それを王の手の中でいったん秩序へ戻したのだと、部屋の空気だけでわかった。


 四人が進み出て礼を取る。


 レンテはすぐには口を開かなかった。


 一人ずつを見る。

 アルケス。

 カストル。

 ポルックス。

 シャム。


 その視線は平等だった。

 だが平坦ではない。

 それぞれが今日どのように紙を見て、何を考えたかをすでに知っている者の目だった。


 やがて、レンテが言った。


「南倉の件は、さらに進んだ」


 声は低く、無駄がなかった。


「財務局付き補佐官ラディルは昨夜、逃亡を図り、捕縛された」


 シャムは、知っていたはずのその事実を、王の口から聞くと別の重さで胸に受けた。

 教師から聞くのとは違う。

 王の言葉になった瞬間、それは噂でも途中経過でもなく、国の事実になる。


 アルケスが答える。


「はい、父上」


 レンテは頷く。


「お前たちが見つけた歪みは、単なる帳簿の乱れではなかった」


「人がそこにいた」


「そして、その人間は動いた」


 部屋の空気が張る。


 カストルは王をまっすぐ見ていた。

 その赤い瞳には苛立ちに似た熱がある。

 見つけた以上、先を知りたい。

 その熱だ。


 ポルックスは、表情こそ穏やかだったが、視線は冷えていた。

 静かな水面の下で、何かが絶えず動いているような目だった。


 レンテは続ける。


「ここで一つ、お前たちは知っておかなければならない」


「見つけることと、裁くことは別だ」


 その言葉は短かった。

 だが机の上へ置かれた刃のように、部屋の中央へまっすぐ落ちた。


 ポルックスが、そこで初めて口を開いた。


「……では」


 声音は静かで、いつも通り柔らかい。

 だが、その柔らかさの下にごく薄い刃があった。


「ラディルに会う許可をいただけますか」


 シャムがわずかに目を上げる。

 アルケスも、ほんの少しだけ横目でポルックスを見る。

 カストルは驚かない。ただ、当然そう言うだろうという顔だった。


 ポルックスは続けた。


「どこで、どの順で、誰を庇い、誰を切ろうとしているのか」


「直接見た方が早いかと」


 言葉は整っている。

 礼も崩れていない。

 だがその奥にあるのは、知りたいというより、掴みたいという意志だった。

 相手の目を見て、どこが揺れるかを確かめたい。

 そのためなら、まだ捕らえられたばかりの男の傷口へ指を入れることもためらわない。

 そんな冷たい熱が、その一言の底にあった。


 レンテは、すぐには答えなかった。


 静かにポルックスを見ている。


 その沈黙は長くはなかった。

 だが、ポルックスの願いを軽く退けるためのものではないとわかるだけの長さがあった。


 やがて王は言う。


「会わせない」


 きっぱりしていた。

 声は穏やかだが、そこに揺れはない。


 ポルックスは表情を変えない。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 その問いにも礼はある。

 だが、引く気のない礼だった。


 レンテはそれを咎めなかった。

 むしろ、問うこと自体は認めるように頷き、静かに言葉を重ねた。


「理由は一つではない」


「まず」


 王の指先が、机の上の紙に軽く触れる。


「取り調べとは、答えを引きずり出すことではない」


「引きずり出された言葉が、真実であるとは限らないからだ」


 ポルックスの目が、わずかに細くなる。


 レンテは続ける。


「追い詰められた者は、喋る」


「だが、喋ったことの順序、間、視線、そこで切り捨てた名――」


「それらを読むには、聞く者の側にも技が要る」


「怒りや正しさだけで席につけば、相手に使われる」


 部屋は静かだった。


 シャムは、その言葉を一つずつ胸の内で受け止めていた。

 喋ることと、真実を言うことは違う。

 花街にも、まったく同じことがあった。

 泣いているから本当とは限らないし、落ち着いているから嘘とも限らない。


 レンテの声は低く続く。


「次に」


「お前たちは、この件を最初に見つけた者たちだ」


「だからこそ、今の段階で当人に会わせれば、あちらはお前たちを測る」


 アルケスが僅かに息を止める。


 レンテは彼にも、カストルにも、ポルックスにも、シャムにも等しく届くように言った。


「誰に反応するか」


「誰が怒りやすいか」


「誰が沈黙に耐えられないか」


「誰を揺らせば、次に王家のどこが動くか」


「それを見られる」


 ポルックスの睫毛が、ほんのわずかに動いた。


 その一瞬の変化を、レンテは見逃さない。


「お前は相手を見たいのだろう」


「だが同時に、お前も見られる」


 静かな声だった。

 だが、逃げ場がない。


 ポルックスは、そこで初めて目を伏せた。

 否定しない。

 できないのだ。

 王は感情を責めているのではない。構図を示している。


 レンテはさらに言った。


「そして最後に」


「裁きとは、一人の罪人と向き合うことではない」


「その背後にいる者」


「その裁きが波及する先」


「今ここで名を落とせば誰が黙るか」


「逆に、今はまだ落とさぬことで誰が安心して口を滑らせるか」


「そこまで含めて裁く」


「だから、会わせない」


 その説明は簡潔だった。

 だが十分だった。


 単に“子どもだからだめだ”とは言わない。

 立場、機密、技、そして裁きの波及。

 すべてを示したうえで、なお会わせないと言う。


 それが王の拒絶だった。


 ポルックスはしばらく黙っていた。


 その沈黙のあいだ、部屋には誰の息遣いも大きくならない。

 カストルさえ口を挟まない。

 シャムは、ポルックスがどう返すのかを見ていた。


 やがてポルックスは顔を上げ、深く一礼した。


「……失礼いたしました」


 声は静かだった。

 その静けさの中に、完全な諦めではなく、理解して引いた者の冷たさがある。


 レンテは頷く。


「問うことは咎めない」


「だが、今はまだお前たちの席ではない」


 その一言で、引かれた線が明確になる。


 カストルが、そこで口を開いた。


「じゃあ」


 短い言葉だった。


「僕たちは、どこまで見る」


 レンテは答えた。


「見つけるところまで、ではない」


「崩れ方を見るところまでだ」


 アルケスが静かに問う。


「裁きの手前まで、ですか」


「そうだ」


 レンテは言う。


「人は、罪を見つければすぐ裁けると思いがちだ」


「だが実際には、そのあいだに最も多くの判断がある」


「誰を先に呼ぶか」


「何を先に問うか」


「何を知っていて、何をまだ伏せるか」


「ひとつ順を誤れば、真実より先に恐怖だけが広がる」


 教師が目を伏せる。

 エドレクもまた、静かに王の言葉を聞いていた。


 レンテは続ける。


「王とは、怒りの速さで裁く者ではない」


「裁くべき時を、誤らぬ者だ」


 その言葉は、四人の前へ重く置かれた。


 シャムは、自分の胸の内に小さく刺さるものを感じていた。

 花街では、早い怒りがそのまま強さになることもあった。

 先に声を荒げた者が場を取る。

 だが王城では違う。

 王は怒りを見せる前に、順番を見ている。

 誰をいつ呼び、何をどこまで言わせるか。

 その順番そのものが、もう裁きなのだ。


 ポルックスはまだ黙っていた。


 だが、その沈黙は先ほどまでとは少し違う。

 会えないことへの不満だけではない。

 自分が見ようとした相手に、逆に自分も測られるという構図を、きちんと飲み込んだ者の沈黙だ。


 そして、わずかに唇を引いて言った。


「……なるほど」


 その一言だけだった。

 けれど、それで十分だった。


 カストルは横目で双子の弟を見たが、何も言わない。

 アルケスはそのまま王を見ていた。

 シャムは、ポルックスの静かな横顔に、朝見た冷たさとは別のものを感じていた。


 それは狂気ではない。

 けれど、相手の急所へ手を入れることを迷わない冷たい資質だった。

 王が今それを止めたのは、その冷たさが未熟だからではなく、未熟なまま使えば、相手ではなく自分の輪郭まで見せてしまうからなのだろう。


 レンテは最後に言った。


「お前たちは、よく見た」


「だから次は、見つけたものが人をどう動かすかを見る」


「それが、今日の続きだ」


 窓の外では、雲の切れ間から夕日の名残が薄く差し込んでいた。

 濡れた石がその光を鈍く返している。


 南倉は封じられた。

 ラディルは捕らえられた。

 だが、それで終わりではない。

 そこから誰が崩れ、誰がなお黙り、どこで裁きが下されるか。


 その先を見届けることもまた、王子たちにとっての帝王学だった。


 四人は一礼し、部屋を辞した。


 廊下へ出たあともしばらく、誰も口を開かなかった。

 先に歩くアルケスの背はまっすぐだ。

 カストルは不機嫌そうに見えるが、頭の中では今聞いた言葉を噛み砕いているのがわかる。

 ポルックスは静かだった。あの一言きりで、もう余計なことは言わない。

 シャムはその少し後ろを歩きながら、裁くという言葉の重さを考えていた。


 見つけるだけでは足りない。

 怒るだけでも足りない。

 誰かを罰することは、誰かを黙らせることとも、誰かを守ることとも繋がっている。


 王の座は、そういう重さの上にある。


【2】


 翌日の王城は、晴れているのに明るくは見えなかった。


 雨に洗われた空は高く澄んでいたが、その青さがかえって石壁の冷たさを際立たせている。庭の樹々は雫を失い、葉先は乾き始めているのに、城の内に流れる空気だけは依然として湿っていた。いったん水を吸った布が、まだ芯まで乾いていない時のような重さだった。


 龍星院の小会議室には、その朝も帳簿が運び込まれていた。


 ただし、前日までとは種類が違う。

 南倉そのものの記録ではない。

 呼び出された役人たちの供述の要約。

 集積場ごとの再照合。

 穀車の通行票と、南方平野からの納穀村名簿。

 一つの不正を暴くための紙ではなく、一つの不正がどこまで波打っていたかを見るための紙だった。


 教師はいつも通り丁寧に一礼したが、その目元にはわずかな疲れがあった。


「おはようございます、殿下方」


 エドレクも頭を下げる。


「本日は、南倉の件が周辺へどう及んでいるかをご覧いただきます」


 カストルが椅子に腰を下ろしながら言う。


「周辺」


 その一語には、すでに嫌なものを予感している響きがあった。


 教師が頷く。


「はい。ひとつの歪みは、ひとつの場所だけで留まりません」


 アルケスは机の中央へ置かれた紙束を見た。


「崩れ始めたのですね」


「ええ」


 答えたのはエドレクだった。


「昨夜から今朝にかけて、財務局の下役二名、南倉の帳簿付け役一名、第二集積場の受領係一名が、それぞれ供述を変え始めております」


 シャムはその言葉を聞いて、心のどこかで身構えた。


 変え始める。

 それは“真実を語り始めた”と同じではない。

 昨日、レンテが言った通りだ。

 追い詰められた者は喋る。

 だがその言葉が、真実そのものとは限らない。


 ポルックスが紙へ手を伸ばした。


 表情は穏やかなままだった。

 だが、その穏やかさの下で何かを切り分けるような冷たさがある。


「最初に崩れたのは?」


 教師が一枚を抜き出す。


「南倉第三蔵の帳簿付け役にございます」


 ポルックスはそれを受け取り、静かに読んだ。


 供述は思っていたよりみじめだった。


 最初は何も知らないと言い張った。

 次に、上から言われた通りに数字を写しただけだと言った。

 そのあと、自分は“少し書き換えただけ”で、穀の不足そのものには関わっていないと弁明した。

 そして最後に、ラディルの名を出した。


 少しずつ、自分の罪を小さくしながら。


「綺麗ですね」


 ポルックスが言った。


 教師が目を上げる。


「綺麗、でございますか」


「はい」


 ポルックスは紙を机へ戻した。


「自分だけが浅いところにいたように書いてる」


「深いところにいた人間ほど、最初にこれをやる」


 その言い方は穏やかだった。

 だが切っていた。

 供述者を、言葉の上から静かに解体していた。


 カストルが鼻を鳴らす。


「自分だけ助かりたいんだろ」


「ええ」


 エドレクが頷く。


「まずは自分の足場を確保しようとしております」


 アルケスが問う。


「それで、何が波及したのですか」


 教師は次の紙を広げた。


「南倉で不足が第三蔵へ偏らせられていたため、他の蔵の帳簿付け役にも再照合が及びました」


「すると、直接の抜き取りには関わっておらぬ者まで、自らの処理の甘さを恐れ始めたのでございます」


 シャムが小さく言う。


「関わってなくても……」


 教師は頷く。


「はい、シャム殿下」


「裁きは、罪人だけを震えさせるわけではございません」


 その言葉が、部屋の中へゆっくり落ちる。


「同じ場所にいた者」


「同じ印を押した者」


「同じ日に帳面へ触れた者」


「それらすべてが、自分も疑われるのではないかと恐れます」


 エドレクが静かに補った。


「そして恐れた者は、無実であっても、しばしば不自然な動きをいたします」


 アルケスの眉がわずかに寄る。


「それが、さらに疑いを広げる」


「その通りでございます」


 シャムは、その仕組みを頭の中で追っていた。


 ひとりを捕らえる。

 すると、関わった者が怯える。

 怯えた者が隠そうとする。

 隠そうとしたことが、また別の疑いを生む。


 まるで濁り水みたいだ、とふと思った。

 一度底をさらえば、泥は一か所だけでは舞わない。


 カストルが机の上の紙を引き寄せる。


「集積場の方は」


 教師が答えた。


「第二集積場の受領係が、今朝になって供述を改めました」


「最初は“荷は帳面通りに受けた”と申しておりましたが」


「今は、“数え直せと言われた荷だけ、別に回したことがある”と」


 カストルの目が細くなる。


「別に回した」


 ポルックスがすぐに引き取った。


「つまり、抜くための荷を分けたんだね」


 教師は頷いた。


「その可能性が高うございます」


 ポルックスは、それを聞いてしばらく黙っていた。

 やがて、柔らかい声で言う。


「おかしいな」


 誰に向けたでもない調子だった。


「どうしてですか」


 教師が問う。


 ポルックスは紙を指先で整えながら言った。


「この人たち、みんな“言われたからやった”って言う」


「でも」


 顔を上げる。


「言われたことをやるだけの人間が、ここまで長く同じ形を保てるかな」


 その問いに、部屋が静まった。


 シャムはポルックスを見る。

 その表情は静かだった。

 だが目だけが冷たい。


 ポルックスは続ける。


「恐い相手に従うことと、手順を覚えて維持することは別です」


「何年も崩れずに続いたなら」


「誰かは“仕組みとして理解していた”はず」


 その声は低くない。

 鋭くもない。

 それなのに、じわじわと逃げ道を塞ぐ。


 教師がゆっくり頷いた。


「……おそらく、その通りかと」


「つまり」


 アルケスが言う。


「末端の供述だけでは足りない」


「はい」


 エドレクが答えた。


「足りませぬ」


「ラディルひとりを中心にして終わる話ではないかと」


 カストルが言う。


「なら、もっと上か」


 ポルックスが首を横に振る。


「上、とは限らない」


「横です」


 アルケスが目を向ける。


 ポルックスは穏やかに言う。


「上から命じられるだけなら、皆もっと怯えて壊れる」


「でも、今まで形が続いた」


「なら、上下だけじゃなくて、横でも支え合ってた」


 エドレクがその言葉に、僅かに感心したような沈黙を置いた。


「共犯の網、でございますね」


「はい」


 ポルックスは頷く。


「たぶん、誰か一人が落ちても、すぐには全部崩れないように作っていた」


 カストルが低く笑う。


「気持ち悪いな」


「ええ」


 ポルックスは微笑みすら浮かべずに返した。


「とても」


 その一言に、シャムは背の内側が少し冷えるのを感じた。


 ポルックスは柔らかい。

 けれど本気で嫌悪した時、その柔らかさのまま温度を失う。

 怒鳴るわけではない。

 ただ、相手を人として暖める熱を引き上げる。

 そういう冷たさだ。


 教師は別の報告へ移った。


「南方平野の納穀村の一つでも、動揺が出ております」


 アルケスが顔を上げる。


「村が?」


「はい」


「直接の不正に関わっていた証拠はございません」


「ですが、収穫が減っているにもかかわらず、例年通りの納穀を求められていたため」


 教師は紙を見ながら続けた。


「村役人が“何かが隠されていたのではないか”と騒ぎ始めております」


 シャムは息を呑んだ。


 ついに王城の中だけではなく、村へまで波が及び始めた。


 王は、罪人を裁くだけで終われない。

 その裁きで怯える村。

 疑われる帳簿係。

 責任を押し付け合う役人たち。

 その全部を見なければならない。


 昨日、レンテが言ったことの意味が、少しずつ形を持ち始めていた。


 裁くとは、一人を斬ることではない。

 その一太刀が、どこまで波を立てるかを知ったうえで振るうことだ。


 教師が静かに言う。


「殿下方」


 四人が顔を上げる。


「これが、裁きの波及でございます」


「罪を見つければ終わりではない」


「そこから先に、どれだけの者が震え、どれだけの者が自らの身を守ろうとして新たに歪むか」


「それもまた、見なければなりません」


 部屋の中で、誰もしばらく口を開かなかった。


 窓の外では、昼の光が少しずつ傾き始めている。

 濡れた庭はもう乾いていた。

 だが、乾いたのは石だけだ。

 人の内に入った恐れは、まだ湿ったまま広がっている。


 シャムは、そのことを考えていた。


 もし花街で同じことが起きたらどうなるだろう。

 きっと、弱い者から震える。

 強い者は最初、平気な顔をする。

 だが、その強い者が落ちれば、今度は別の場所が崩れる。


 王城も同じなのだ。


 ただ、規模が大きい。

 そして、一つの崩れが村の食卓にまで届く。


 ポルックスが、その沈黙の中で、ふいに言った。


「……裁くって」


 視線は紙の上に落ちている。


「遅い方が優しい時もあるんですね」


 その言葉は柔らかい。

 だが、意味は重かった。


 レンテがすぐに斬らなかった理由。

 順番を見ていた理由。

 それは優柔不断ではなく、波及を最小にするためだったのだと、彼なりに噛み砕いた言葉だった。


 アルケスが静かに答える。


「たぶん、そうだ」


 カストルは何も言わなかった。

 ただ不機嫌そうに窓の外を見ている。

 その横顔には納得しきれない熱がある。

 けれど、昨日よりは理解に近づいているのがわかった。


 シャムは、その三人を見ていた。


 同じ話を聞いても、受け止め方が違う。

 けれど、たぶんそれでいいのだろう。

 王が一人で見るには国は広すぎる。

 だからこそ、違う目が要る。


 その時、近侍が再び現れた。


「失礼いたします」


 一礼して告げる。


「陛下より」


「本日の件につき、明朝、あらためて殿下方にお話しされるとのことにございます」


 今日の夕刻ではない。

 明朝。

 つまりその間にも、王はまだ順を整えるのだ。


 教師が頭を下げる。


「承知いたしました」


 近侍が去ったあと、部屋には再び静けさが戻る。


 だがその静けさは、朝のそれとは違っていた。

 朝は結果の報せを待つ静けさだった。

 今は、波がどこまで広がるかを知った者たちの静けさだ。


 四人の王子は、それぞれに違う形で、その重さを胸へ受けていた。


 そして王城のどこかでは、今も誰かが新たな名を口にし、誰かがそれを聞き、誰かが震えている。

 裁きはまだ下っていない。

 だがその前段階だけで、すでにこれだけの人間が動いている。


 王の座とは、そういう動きを一つずつ見届けたうえで、なお最後の一線を引く場所なのだろう。


 光はゆっくりと薄れていった。

 乾いた庭の向こうで、風が木を揺らす。


【3】


 翌朝の空は、前日よりも明るかった。


 雲はまだ高みに細く残っていたが、空そのものはようやく青を取り戻し始めている。王城の石壁は朝の光を受けて冷たく乾き、庭の芝も、もう雨の名残をほとんど留めていなかった。濡れたものが乾いていく朝は、本来なら少しだけ人の心を軽くする。だがその日、王城の内にある空気だけは、晴れた空とは裏腹に重かった。


 龍星院へ向かう四人の足取りも、どこか昨日までとは違っていた。


 ただ講義を受けるために歩いているのではない。

 帳簿を読み、報告を待ち、王に呼ばれる。

 その繰り返しの中で、もう彼らは“学び”と“政”の境を少し踏み越えてしまっていた。


 アルケスは静かだった。

 考える時の彼は、表情がいっそう整う。整いすぎて、かえって何を思っているのか見えにくくなる。


 カストルは相変わらず不機嫌そうに見えた。

 だが昨日のような、ただ刺すための苛立ちではない。

 理解しかけたことに腹を立てている顔だった。

 裁きが遅い方が優しい時もある。

 その理屈は気に入らない。だが、否定しきれない。

 そういう時の彼は、殊更に黙る。


 ポルックスは窓の外を見ながら歩いていた。

 柔らかな顔のまま、何かをずっと測っている。

 あの静かな冷たさは、今日も消えてはいない。

 けれど昨日、レンテに言葉を返されたことで、その刃の向け方を少し変え始めているようにも見えた。


 シャムは列の最後で、王の言葉を思い返していた。


 見つけることと、裁くことは別。

 裁きとは、一人の罪人と向き合うことではない。

 その背後にいる者、その裁きが波及する先まで含めて見ること。


 花街では、誰かを切り捨てる時、そんな順番を考える者はいなかった。

 強い声の者が勝ち、弱い者が泣き寝入りする。

 けれど王城では違う。

 王は、怒る前に順を見ている。

 その違いが、少しずつシャムの中で形を取り始めていた。


 その朝は、龍星院ではなく、直接王城の一室へ通された。


 執務室ほど重くはない。

 だが公的な場であることはひと目でわかる部屋だった。

 高窓からは朝の光が入り、深い色の幕が半ばまで引かれている。壁際には書架があり、机は一つ。そこに無駄はなく、必要なものだけが置かれていた。


 レンテはすでにそこにいた。


 立っていた。


 座っていないというだけで、部屋の空気が少し違う。

 まだ何かが決まっていない時の王の立ち方だった。


 四人が進み、礼を取る。


 レンテはすぐには話し出さなかった。

 一人ずつを見る。

 昨日までと同じようでいて、少し違う視線だった。

 何を見たか、ではなく、見たものをどう抱え始めているかを量るような目だった。


 やがて王は言った。


「南倉の件は、さらに進んだ」


 声は低く、落ち着いている。


「補佐官ラディルに続き、南倉第三蔵の帳簿付け役、第二集積場の受領係、財務局下役二名が、それぞれ供述を改めている」


 アルケスが頷く。


「はい」


 レンテは続けた。


「まだ終わってはいない」


「だが、流れは見えた」


 その言葉に、四人とも黙ったまま耳を傾ける。


 レンテは机の上の一枚を指先で押さえた。


「お前たちは、歪みを見つけた」


「そこまではよい」


「次に知るべきは、その先だ」


 カストルが、わずかに顔を上げる。


 王は静かに言葉を置いた。


「王が最後に背負うものは何か」


 部屋がしんとする。


 問いの形をしている。

 だが、これは試しというより、教えの入口だった。


 アルケスが最初に口を開いた。


「判断、でしょうか」


 レンテは首を横には振らない。

 否定も肯定もしないまま、次を待つ。


 ポルックスが言う。


「責任かと」


「誰を、いつ、どこまで裁くかの」


 やはり王はまだ答えない。


 カストルは少し間を置いてから言った。


「恨み」


 その一語は短かった。


「切られた方の」


 シャムは、その言葉に少しだけ息を詰めた。

 たしかにそうだ。

 裁かれる者は、黙って消えるわけではない。

 恨みも、怒りも、残る。

 王はそれを受ける側でもあるのだ。


 最後に、シャムが小さく口を開いた。


「……人、でしょうか」


 三人の視線がわずかにこちらへ向く。

 シャムは気づきながらも、目を伏せすぎないように言葉を継いだ。


「裁かれる人だけじゃなくて」


「その人の後ろにいる人も」


「怯える人も」


「守られる人も」


「全部……」


 少し言葉を探してから、そっと結ぶ。


「背負うのかなと、思いました」


 レンテはそこで、初めて小さく頷いた。


「そうだ」


 答えは簡潔だった。


「最後に王が背負うのは、人だ」


 高窓からの光が、王の肩の線を静かに照らしていた。


「罪人ひとりではない」


「その者を裁くことで救われる者」


「逆に怯える者」


「名を失う家」


「守られる倉」


「その倉で飢えずに済む民」


「すべてだ」


 言葉は低い。

 だが一つひとつが、石を積むように重なっていく。


「だから王は、早く怒るだけでは足りない」


「遅く優しいだけでも足りない」


「いつ、どこで、どの線を引くか」


「その順を違えれば、正しい裁きでも国を傷つける」


 ポルックスが、そこでわずかに目を伏せた。


 昨日、自分がラディルに会いたいと願ったことを思い返しているのだろう。

 相手の揺れを見たい。

 順を早めたい。

 その冷たい衝動自体は間違いではなかったかもしれない。

 だが王の座は、その衝動だけでは足りない。


 レンテはポルックスを見た。


「お前は、相手を崩す順を読む」


 静かに言う。


「それは才だ」


 ポルックスの睫毛が、わずかに動く。


「だが王は」


「崩した後に、何が残るかまで見なければならない」


 その言葉は責めてはいなかった。

 だからこそ、まっすぐ深く入る。


 ポルックスは小さく頭を垂れた。


「……はい」


 柔らかな声だった。

 けれどそこには、昨日より少しだけ温度があった。

 ただ納得したのではない。

 自分の冷たさの先に、さらに大きな冷たさと重さがあると知った声だった。


 レンテは次にカストルを見る。


「お前は、最初に不自然を嗅ぎ取る」


「それも才だ」


 カストルは何も言わない。


 王は続ける。


「だが、見つけた瞬間に斬りたくなるだろう」


 カストルの赤い瞳が、わずかに揺れる。


「……はい」


 短い。

 それでも否定はしなかった。


「わかります」


 レンテは頷く。


「それでよい」


「だが、王がそのまま斬れば、ただの激情だ」


「刃は早ければよいものではない」


「遅すぎても腐る」


「だから順を見る」


 カストルは唇を引き結んだまま、黙って聞いていた。

 腹の底ではまだ納得しきれない熱が残っている。

 だが、それを王が見抜いたうえで言葉にしていることは分かる。

 そのことが、かえって彼を黙らせていた。


 レンテはアルケスへ向く。


「お前は全体を見る」


「流れを読む」


「それは王に最も必要なものの一つだ」


 アルケスは静かに頭を下げる。


「はい」


「だが」


 王は続ける。


「全体を見る者ほど、一人を見失う」


 アルケスの眉が、ごくわずかに動いた。


「帳簿の向こうにいる、顔のある一人を」


「村で震える者を」


「理に合う裁きのために、切り捨てるべきでないものまで切ることがある」


 アルケスは答えない。

 だがその沈黙は、言葉の意味をきちんと受け取った者のものだった。


 そして最後に、レンテはシャムを見る。


 その視線に、シャムは少しだけ背筋を伸ばした。


「お前は、人の怯えに先に気づく」


 シャムは目を上げる。


 王は続ける。


「それも才だ」


「だが、人の痛みに近い者ほど、裁く手をためらう」


「ためらいは悪ではない」


「だが王が最後までためらえば、守るべき者を守れなくなる」


 シャムの胸に、その言葉は静かに落ちた。


 守るために切る。

 切らなければ守れないことがある。

 花街では、そういう形の守りはほとんど見たことがない。

 だからこそ、その重さがまだうまく掴めない。


 レンテは四人を見渡し、言った。


「お前たちには、それぞれ違う目がある」


「だからこそ」


「どれか一つだけで王にはなれない」


 朝の光は、もうすっかり部屋に満ちていた。


「龍星逐鹿とは、龍の血を測るだけのものではない」


「国をどう見るか」


「人をどう背負うか」


「その器を試すものだ」


 教師も、エドレクも、少し離れたところでその言葉を聞いていた。


 王が王子たちへ語っている。

 だが同時にそれは、この国の形そのものを言葉にしているようでもあった。


 レンテは最後に、机の上の紙をそっと押さえた。


「南倉の件は、やがて裁きに至る」


「その時、お前たちは結果だけを聞くのではない」


「ここへ至る流れも、今後よく見ておきなさい」


「王が最後に背負うものを、忘れぬために」


 四人は一斉に頭を垂れた。


「はい」


 その声は揃っていた。

 けれど、その内側にあるものはそれぞれ違う。


 アルケスは、全体と一人の両方を見る難しさを。

 カストルは、斬りたい衝動と順を待つことの苛立ちを。

 ポルックスは、崩す順のさらに先にあるものを。

 シャムは、人を背負うという言葉の重みを。


 それぞれに抱えながら、その朝の教えを受け取った。


 部屋を辞したあと、四人はしばらく無言で廊下を歩いた。


 王城の高窓からは、ようやく晴れた空が見える。

 風はもう雨の匂いを残していなかった。


 それでも、昨日までとは違う重さが、四人の肩には確かに乗っていた。


 見つけること。

 裁くこと。

 背負うこと。


 その三つは、同じ線の上にある。


 その線の先へ、自分たちはいつか歩いていくのだと、誰も口にはしなかったが、もう分かっていた。

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