第十七章2
【1】
書庫の机の上には、まだ巻物が広がっていた。
南倉。
その名の下に並ぶ数字は、整っている。
整いすぎている、と言ってもよかった。
アルケスは静かに言った。
「南倉の穀は、どこから来る」
教師が答える。
「主に南方平野の村々でございます」
「先ほど拝見した農地台帳の地域と重なります」
ポルックスが帳簿をめくる。
「収穫は減っている」
「でも納める穀は減っていない」
カストルが言う。
「なら」
指で机を叩く。
「どこかから持ってきてる」
シャムが言った。
「別の村?」
教師はゆっくり首を横に振る。
「記録にはございません」
エドレクが静かに言った。
「可能性は三つでございます」
指を一本立てる。
「倉に古い穀が残っていた」
二本目。
「別の倉から移された」
三本目。
少し間を置く。
「帳簿の数字が動いている」
カストルが言う。
「やっぱり嘘じゃないか」
教師は慎重に答えた。
「断言はできません」
「しかし」
「説明が不足していることは確かでございます」
ポルックスが言う。
「この穀倉、去年だけ数字が増えてる」
アルケスが静かに言った。
「倉を満たした」
エドレクが頷く。
「はい」
「倉を満たす理由は一つ」
「不安があるからでございます」
書庫の空気が重くなる。
シャムが言う。
「不安?」
教師が答えた。
「食糧不足の兆しでございます」
ポルックスが息を吸う。
「でも」
「まだ足りてる」
エドレクは言った。
「ええ」
「まだ足りております」
「ですが」
巻物を指す。
「減っております」
カストルが低く言った。
「静かに」
その言葉に誰も反論しなかった。
静かな減少。
それは洪水や飢饉のような分かりやすい災いではない。
ゆっくりと、誰にも気づかれない形で進む。
アルケスが机を見つめたまま言った。
「つまり」
「誰かは気づいている」
教師は頷いた。
「その可能性はございます」
「そして」
ポルックスが言う。
「数字を整えた」
エドレクは答えた。
「少なくとも」
「帳簿は整っております」
カストルが言う。
「整えすぎだ」
机を指す。
「自然じゃない」
沈黙が落ちる。
龍星院の書庫は、変わらず静かだった。
だが机の上の記録は、別のことを語っていた。
水が足りない。
畑が痩せる。
収穫が減る。
倉が埋められる。
帳簿が整えられる。
そのすべてが、同じ流れの上にある。
アルケスが言った。
「父上に」
皆が顔を上げる。
「報告すべきだ」
教師はすぐに頷いた。
「それがよろしいかと存じます」
エドレクも静かに頭を下げた。
「賢明なご判断でございます」
カストルが椅子から立つ。
「やっと動くな」
ポルックスが言う。
「まだ何も分かってないよ」
カストルは言った。
「でも」
赤い瞳が帳簿を見る。
【2】
夕刻の王城は、昼の喧騒が引いたぶんだけ、かえって張りつめていた。
西日に染まる廊下は長く、磨き上げられた床には窓枠の影が端正に落ちている。秋の夕暮れの光はやわらかいはずなのに、その色はどこか冷たく見えた。
王の執務室の前で、四人の王子は足を止めた。
アルケスが先頭に立っている。
その一歩後ろにポルックス。
少し離れてカストル。
そして最後にシャムがいた。
シャムは、胸の内にまだ小さなこわばりを抱えていた。
昨日、ここで叱られたばかりなのだ。
怒鳴られたわけではない。
けれど、静かな声で諭された言葉は、怒声より深く胸に残ることがある。
――お前の命は、お前だけのものではない。
その一言が、まだ身体のどこかに留まっているようだった。
近侍が静かに扉を開ける。
「殿下方をお連れいたしました」
室内は落ち着いていた。
高い窓から射し込む夕日の光が、重厚な机の端と、整然と重ねられた書簡の角を赤く染めている。机の向こうには、レンテがいた。
赤茶の瞳は穏やかだった。
だが、そこに宿る静けさは、安易な言葉を許さない。
四人は進み、机の前で立ち止まる。
教師とエドレクは、その少し後ろに控えた。
レンテはすぐには口を開かなかった。
一人ひとりを順に見ていく。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
そして最後にシャムへ視線が留まる。
シャムは、思わず背筋を正した。
やがてレンテが言った。
「龍星院で、帳簿を見たそうだな」
「はい、父上」
答えたのはアルケスだった。
その声は落ち着いている。
もう、王の前で話すことに慣れつつある声だった。
「何を見た」
レンテの問いは簡潔だった。
アルケスは一度だけ息を整え、言葉を選ぶ。
「南方の穀倉地帯の収穫量が、数年かけて少しずつ減っております」
「しかし」
「王都南倉へ納められた穀の量は、それほど減っておりません」
レンテの表情は動かない。
「続けなさい」
今度はポルックスが口を開いた。
「去年の記録だけ、数字が不自然に増えていました」
「別の倉から移した可能性もありますが、その説明が帳簿には見当たりません」
レンテは小さく頷く。
それからカストルを見る。
「お前はどう見た」
カストルは腕を組んだまま、短く答えた。
「変です」
その言い方はいつも通りだった。
「収穫が減ってるのに、倉が減ってない」
「だったらどこかで無理をしてるか、数字を整えてるかです」
教師がわずかに息を呑む。
だがレンテは何も咎めない。
ただ静かに、次の視線をシャムへ向けた。
シャムはその眼差しを受け、ほんの少し喉が詰まるような気がした。
昨日とは違う意味で、緊張する。
この場に自分がいてよいのか、まだ時々分からなくなることがある。
けれどレンテは待っていた。
シャムは、控えめに口を開いた。
「……僕は」
一度だけ言葉を切る。
「記録の数字は整って見えました」
「でも」
視線を机の書簡ではなく、少し下へ落とす。
「整いすぎている気がしました」
遠慮がちな声音だった。
他の三人のように、はっきりとは言えない。
けれど黙っていることもできなかった。
「もし足りないものがあるなら」
「どこかで、誰かが苦しくなっているのだと思います」
言い終えると、シャムはそっと口を閉じた。
部屋は静かだった。
レンテはしばらく何も言わない。
その沈黙の中で、窓の外を渡る風の音だけが微かに聞こえた。
やがて王は、ゆっくりと机の上の一枚の書簡へ手を伸ばした。
封蝋には、財務局の印が押されている。
「小さな歪みは」
レンテが言う。
「多くの場合、歪みとしては上がってこない」
その声音は静かだった。
「不足は不足として来る」
「不満は不満として来る」
「だが」
書簡を机へ戻す。
「その前の段階では、こうして数字の形をしている」
四人の王子は黙って聞いていた。
「帝王学とは」
レンテは続ける。
「美しい言葉を覚えることではない」
「帳簿の隅にある、こうしたわずかなズレを見落とさぬことだ」
西日が机を赤く染めている。
その光の中で、レンテの横顔は静かだった。
怒ってはいない。
むしろ、どこか確かめるような目をしている。
「誰が最初に気づいた」
その問いに、四人は一瞬だけ顔を見合わせた。
真っ先に答えたのはポルックスだった。
「皆で、です」
カストルがすぐに言う。
「最初に変だって言ったのは僕です」
アルケスが苦笑する。
「ですが、繋げたのは皆です」
その言葉に、レンテの視線がわずかにやわらいだ。
そして最後に、シャムへ向けられる。
シャムは思わず小さく頭を下げた。
「……僕は、後から気づきました」
言葉は控えめだった。
前へ出るのではなく、少し遅れて、そっと置くような言い方だった。
レンテは、そのまましばらくシャムを見ていた。
昨日の叱責を思い出しているのかもしれない。
あるいは、今日ここに立つ四人の姿を見ているのかもしれない。
やがて、王は静かに言った。
「よく見た」
その一言は短かった。
だが、その場にいた四人には十分だった。
ポルックスの肩がわずかに緩む。
アルケスも息をひとつ吐いた。
カストルは表情を変えないが、腕を組む力が少しだけ抜けたように見えた。
シャムも、胸の奥にあった硬いものが、少しだけほどけるのを感じた。
レンテは立ち上がる。
「この件は、私が確認する」
「財務局にも、穀倉役所にも話を通そう」
教師とエドレクが深く頭を下げる。
「承知いたしました」
レンテは四人を見た。
「今日の学びを忘れるな」
「川も、畑も、帳簿も」
「すべては国の流れだ」
窓の外では、秋の空が静かに暮れようとしていた。
王都のどこかで、川は今日も流れている。
畑があり、倉があり、人が働いている。
そのどこかで、まだ名を持たぬ小さな歪みが、静かに広がっている。
だが、その歪みに最初に目を留めたのは、まだ王ではない四人の王子だった。
そしてその夜、シャムは一人で廊下を歩きながら、ふと思った。
昨日は、叱られた。
今日は、見てよく考えたと認められた。
王家にいるということは、きっとこういうことなのだろう。
ただ守られるだけではない。
ただ閉じ込められるだけでもない。
見ること。
気づくこと。
そして、黙って通り過ぎないこと。
廊下の先では、アルケスたちが待っていた。
けれどシャムは、すぐには声をかけなかった。
まだ少しだけ距離がある。
幼い頃を共にしたわけではない。
その隔たりは、簡単には埋まらない。
それでも。
同じ方向を見ていた時間が、今日たしかにあった。
そのことだけを、シャムは胸の中で静かに抱えた。
【3】
その夜、王城はひどく静かだった。
昼のあいだは人の気配に満ちている廊下も、日が落ちると急に広く感じられる。磨かれた石床には燭台の火が淡く映り、窓の外には秋の闇がゆっくりと降りていた。
レンテは執務室に残っていた。
机の上には、先ほど王子たちが見たものと同じ帳簿がある。穀倉の記録、南方平野の収穫量、そして要約された報告書。どれも整っている。整いすぎていると言ってよかった。
レンテは一枚の書類を持ち上げる。
財務局から上がってきた月次報告だった。文面は簡潔で、無駄がない。王都南倉の備蓄は安定、納穀に大きな問題なし、今期の見通しもおおむね順調――そう記されている。
だが、その簡潔さが、今夜は妙に薄く見えた。
「……要約、か」
小さく呟く。
昼にアルケスが言った言葉が、まだ耳に残っている。
本当の数字は、ここへ来る前に削られているのではないか。
レンテは視線を上げた。
部屋の隅には、まだエドレクと教師が控えている。アルケスたちはすでに下がっていた。
「エドレク殿」
「はい、陛下」
「今日ご覧になった記録について、率直に申し上げてほしい」
エドレクは一礼した。
「率直に、とのことでございましたら」
少しだけ間を置く。
「流れが不自然でございます」
「収穫の減少は緩やかに続いておりますのに、南倉の出納はそれを滑らかに覆っております」
レンテは椅子の背にもたれた。
「不正、とまでは言わぬのだな」
「現時点では」
エドレクの声は静かだった。
「断じる材料が不足しております」
「ただし」
目を伏せる。
「水路の管理不足と、帳簿の整い方が、あまりに都合よく重なっております」
教師も慎重に口を開く。
「陛下、少なくとも現地の再確認は必要かと存じます」
「南方平野の水路、穀倉、納穀の照合を、別経路で行うべきかと」
レンテはしばらく黙っていた。
怒ってはいない。
だが、机の上に置かれた指先が、かすかに二度ほど叩かれた。
それが、この王の考える時の癖だった。
やがて言う。
「財務局には、まだ知らせぬ」
教師が顔を上げる。
「よろしいのでございますか」
「知らせれば、先に帳面が整う」
レンテは淡々と言った。
「見たいのは、いまの流れだ」
エドレクが静かに頷く。
「賢明でございます」
レンテは続ける。
「南倉の実見は、王城側から別に出す」
「財務局を通さず、内々に」
それから教師を見る。
「龍星院には、引き続き水利と農政の講義を進めてもらいたい」
「はい、陛下」
「王子たちには、今日の続きとして帳簿の読み方を学ばせる」
一瞬だけ視線が柔らかくなる。
「小さな歪みに気づいたのだ。ならば、その先まで見せるべきだろう」
エドレクが言った。
「殿下方は、よくご覧になっておられました」
レンテは小さく息を吐く。
「まだ子どもだ」
そう言いながらも、その声にはわずかな誇りが混じっていた。
「だが」
窓の外の闇を見る。
「国の流れは、子どもになるのを待ってはくれぬ」
その頃、王子たちはそれぞれの部屋へ戻っていた。
アルケスは机に向かい、講義で見た帳簿の数字を書き写している。整った文字は、彼の性格そのもののようだった。王である父が何を考えているのか、その一端を今日初めて掴んだ気がしていた。
ポルックスは窓辺に立ち、庭の暗がりを見ていた。数字は嘘をつかないと思っていた。だが、数字を並べる人は嘘をつける。そこにあるのは、どこか冷たい驚きだった。
カストルは寝台に腰を下ろしながら、昼の模型を思い出していた。静かに削る流れ。気づかぬうちに崩れる橋脚。ああいうものが一番嫌いだと、改めて思う。見えないところで進む歪みは、いっそ腹立たしい。
そしてシャムは、窓を少しだけ開けて夜風を入れていた。
花街でも、王城でも、結局人は流れの中にいるのだと、ぼんやり考えていた。井戸の前に並ぶ子も、帳簿に数字を書く役人も、みな同じ国の中にいる。昨日はそれをよく分かっていなかった。だが今日は、少しだけ見えた気がした。
遠くで鐘が鳴る。
王城の夜を刻む音だった。
その音の下で、いくつもの流れが静かに動いていた。
南方平野の水路。
王都南倉の帳簿。
財務局の書類。
そして、王がまだ口にしない疑念。
翌日から、王城は表向きこれまで通りに動く。誰も騒がず、誰も異常を口にしない。けれど、水面の下では確かに流れが変わり始めていた。
【4】
秋の雨は、音もなく王城を濡らしていた。
夜のあいだに降り始めたらしく、朝になっても空は明るくならない。龍星院へ渡る廊下の窓は白く曇り、石床には湿り気を含んだ冷たさがあった。庭の木々はしっとりと濡れ、葉の先から雫が規則正しく落ちている。
その朝、王子たちは講義室ではなく、龍星院奥の小会議室へ通された。
普段は教師たちが記録を整理するための部屋で、机は長く、窓は狭い。外光は薄く、代わりに燭台の火が幾つも灯されていた。机の上には、昨日見たものよりさらに厚い帳簿の束と、封を切られていない数通の報告書が積まれている。
アルケスは、部屋へ入った瞬間に空気の重さを感じた。
昨日までの講義とは違う。
今日ここで扱われるものは、学びではなく、もう半ば実務なのだ。
「おはようございます」
教師が深く一礼する。
その傍らにはエドレクもいた。いつもと同じ静かな顔をしているが、机の上の記録へ向ける視線には、学者というより検分役のような厳しさがあった。
カストルが椅子へ腰を下ろしながら言った。
「今日は最初から帳簿か」
教師は穏やかに答える。
「はい、カストル殿下」
「陛下より、昨日の続きとして確認するよう仰せつかっております」
ポルックスが目を上げる。
「父上が?」
「はい」
その一言で、部屋の空気がさらに引き締まった。
シャムは最後に部屋へ入り、そっと席についた。昨日の夜から、胸の奥に小さな緊張が居座っている。自分がここにいてよいのか、まだ時々わからなくなる。けれどレンテは昨夜、確かに「よく見た」と言った。
だったら、今日は逃げてはいけない。
教師が一冊の帳簿を開く。
「こちらは王都南倉の出納記録」
次に別の束を指す。
「こちらは同時期の南方平野の納穀村別台帳」
さらに地図。
「そして、穀を運ぶための街道と川運の経路でございます」
アルケスが静かに問う。
「父上は何を見ろと言った」
教師は一瞬だけ間を置き、慎重に答えた。
「数字がどこで歪み始めるか、でございます」
その言葉は、まるで細い針のように机の上へ置かれた。
エドレクが淡々と続ける。
「収穫が減っている」
「ですが、南倉に入る穀は急に増えた年がある」
「その差が、どこで生まれたのか」
ポルックスはすぐに帳簿へ手を伸ばした。
アルケスは地図を自分の方へ引き寄せる。
カストルは腕を組んだまま数字の列を睨む。
シャムは少し遅れて、納穀村の名が並ぶページを覗き込んだ。
雨の音は届かない。
ただ、紙をめくる音だけが部屋に満ちていた。
やがて、最初に口を開いたのはポルックスだった。
「村ごとの減り方が違う」
教師が頷く。
「ええ」
「均等ではございません」
ポルックスは指で列をなぞる。
「水が届きにくい場所ほど減ってる……でも、全部じゃない」
アルケスが地図を見ながら言う。
「川に近い村でも、減っている所がある」
カストルが短く言った。
「運ぶ途中だ」
皆がそちらを見る。
カストルは机に肘をつき、苛立ったように言葉を継いだ。
「畑じゃない」
「倉でもない」
「その間だ」
教師は目を細める。
「輸送、でございますか」
「そうだ」
カストルは即答した。
「畑で取れた穀が、全部南倉に入るとは限らない」
エドレクがわずかに笑った。
「良い視点でございます」
シャムはその言葉に、ふと市場の光景を思い出した。
同じ量の荷でも、運ばれ方で値は変わる。
途中で雨に濡れれば価値は落ちる。
道が悪ければ遅れる。
誰かが少しずつ抜けば、最後には大きな差になる。
花街の裏で見てきた、小さな誤魔化しと同じだ。
シャムは遠慮がちに口を開いた。
「……運ぶ人が変わる場所、ありますか」
教師が顔を上げる。
「どういう意味でございますか」
「えっと」
シャムは少し言葉を探す。
「村の荷を、村の人がずっと持ってくるわけじゃないですよね」
エドレクがすぐに地図を見る。
「集積場」
アルケスが言った。
「途中でまとめる場所があるのか」
教師は別の紙束を開いた。
「ございます」
「南方平野から王都へ入る前に、三つの集積場がございます」
カストルの赤い瞳が細くなる。
「そこだ」
集積場の記録は、穀倉の帳簿よりずっと雑だった。
紙の質も悪く、筆跡もばらついている。正式な城の文書というより、現場で使われる控え書きに近い。雨に濡れた跡のあるものまで混じっていた。
「管理が甘い」
アルケスが静かに言う。
教師は否定しなかった。
「穀倉ほど厳密ではございません」
「仮置き場でございますので」
ポルックスは、一つ一つを丁寧に見ていった。
村名。
荷車の数。
積み替えの日。
受領の印。
「同じ日なのに」
彼が言う。
「村の記録と数が合っていない」
カストルが身を乗り出した。
「どこだ」
ポルックスが指す。
「ここは村で六十俵」
「でも集積場では五十四になってる」
教師が眉を寄せる。
「運搬中の損耗としては、大きすぎます」
エドレクが言う。
「しかも、一度だけではありません」
シャムは別の頁を見ていた。
そこには同じような減り方が何度も現れていた。
五俵。四俵。六俵。
一つずつなら大きくはない。
けれど、繰り返されれば話は別だ。
「……少しずつ」
シャムがぽつりと言う。
アルケスが見る。
「何だ」
シャムは帳簿から目を離さないまま言った。
「少しずつだから、気づかれにくい」
その言葉に、部屋は静まった。
そうだ。
大きく奪えば騒ぎになる。
けれど、毎回ほんの少しずつ減るなら、雨のせい、道の悪さ、鼠、荷崩れ――いくらでも理由はつけられる。
ポルックスが言う。
「南倉の数字が減らない理由は……」
アルケスが引き取る。
「足りない分を、どこかで埋めている」
教師が答える。
「備蓄から回している可能性が高うございます」
「つまり」
カストルが机を指で叩く。
「誰かが途中で抜いて」
「倉があとで穴埋めしてる」
エドレクは深く頷いた。
「おそらく」
「しかも、何年も」
雨脚が少し強くなったのか、窓に雫が細かく当たり始めた。
アルケスは、目の前の記録を見ながら考えていた。
これは単なる盗みではない。
五俵、六俵では、盗人一人の腹は満たせても、これほど長く続く意味がない。
何年も、同じ形で。
しかも帳簿の上では、最後に辻褄が合うように整えられている。
「組織だ」
アルケスが言った。
教師もエドレクも、すぐには口を挟まなかった。
アルケスは続ける。
「村から集積場へ」
「集積場から倉へ」
「倉から帳簿へ」
「どこか一つじゃできない」
ポルックスがゆっくり頷く。
「誰か一人が抜いてるんじゃない」
カストルが言う。
「何人かでやってる」
シャムは、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
花街でも、こういうことはある。
誰か一人の悪さでは済まない話。
店、客、使い走り、仲介。
少しずつ黙っているうちに、皆が同じ泥に足を入れていく。
教師が低く言った。
「厄介でございます」
「はい」
エドレクが答える。
「水路の破損よりも、よほど」
アルケスは教師を見る。
「これを、父上にそのまま出す」
教師は一礼した。
「そのために本日まとめております」
カストルが苛立ったように言う。
「まとめたら削れるだろ」
教師は顔を上げた。
「殿下」
「だから言ってる」
カストルの声が少し強くなる。
「要約したら、また見えなくなる」
その瞬間だけ、彼の一人称が揺らぎかけたのを、ポルックスだけが気づいた。
教師はしばらく黙り、それから深く頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「本日分は、原本と照らしてそのまま御前にお出しいたします」
カストルは何も言わなかった。
だが、わずかに肩の力が抜ける。
シャムはそれを見ながら思った。
この人は、冷たいんじゃない。
見えなくされることが、たぶん嫌いなのだ。
【5】
夕方近く、記録はようやく一つの形を見せた。
南方平野の収穫は、やはり減っている。
原因は水路の管理不足と、部分的な用水の機能低下。
だがそれだけなら、王都南倉の穀はもっと早く減っていたはずだ。
実際には、集積場で少しずつ穀が消えている。
その不足分を、南倉が備蓄から埋めている。
そして帳簿の上では、備蓄の移動が曖昧に処理されていた。
「これでは」
ポルックスが小さく言う。
「今年は持っても、来年は危ない」
エドレクが頷く。
「はい」
「南倉の見かけ上の数字が保たれているだけで、備えは削られております」
アルケスの顔色が変わる。
「飢饉が来れば」
教師が答える。
「一気に足りなくなります」
シャムは昨日のレンテの机を思い出した。
積まれた書簡。
整えられた数字。
何も問題がないように見える静けさ。
だが、その下では流れが歪んでいる。
そのとき、教師が新しい一枚を持ってきた。
「これが最後でございます」
それは、集積場の管理責任者一覧だった。
三つの集積場。
その上に共通して記されている一つの名。
ポルックスが息を呑む。
「同じ人だ」
アルケスが読み上げる。
「南方輸穀監督官補佐……ラディル」
教師は厳しい顔で言う。
「財務局付きでございます」
カストルが立ち上がった。
「最初からそこだ」
「キャス」
ポルックスが思わず呼びかける。
カストルは息を吐き、少しだけ落ち着く。
「……僕は、そう思う」
アルケスは管理者名を見つめていた。
「補佐官一人でできるか」
エドレクが答える。
「できません」
「ですが、入口にはなれます」
「財務局の名で集積場へ口を出し、南倉の帳簿処理にも触れられる」
教師が続ける。
「そして、水路の不備で生じる収穫減を、備蓄移動の曖昧さで覆う」
シャムは、ようやくわかった。
これはただの盗みではない。
ただの怠慢でもない。
水路の歪みを知り、それを隠れ蓑にして、穀を抜いている者がいる。
つまり――
「川の問題を利用してる」
シャムが言う。
部屋が静まる。
エドレクがゆっくり頷いた。
「はい、殿下」
「まさしく」
アルケスが深く息を吸う。
「水が崩しているのではない」
「人が、崩れている」
誰も言い返さなかった。
【6】
その夜、レンテは再び四人の王子を執務室へ呼んだ。
外はまだ雨が続いている。
窓の向こうで、王城の屋根を細かく打つ音が絶えない。
机の上には、龍星院から運ばれた原本の帳簿と、集積場の責任者一覧が並べられていた。
レンテは、最後まで黙って目を通していた。
やがて書類を置き、四人を見る。
「小さな歪みではなかったな」
その一言に、部屋の空気が引き締まる。
アルケスが答えた。
「はい、父上」
「水路の不備に隠れて、穀が抜かれております」
ポルックスが続ける。
「しかも備蓄で埋めているので、表向きは不足が見えません」
カストルが短く言う。
「気づかなければ、来年崩れます」
レンテの視線が最後にシャムへ向く。
シャムは少しだけ躊躇してから言った。
「……人が困る前に、見つけられてよかったと思います」
その遠慮がちな言い方に、レンテの目がわずかにやわらいだ。
「そうだな」
王は立ち上がる。
「今夜のうちに南倉を封じる」
「財務局には知らせず、内々に」
教師とエドレクが深く頭を下げる。
「承知いたしました」
レンテは続けた。
「ラディルは生きたまま押さえる」
「口を開かせる必要がある」
その声音は静かだった。
だが、そこには迷いがない。
【7】
穏やかな声であっても、その一言で人が動く。
それが王の声だった。
四人の王子は黙ってそれを聞いていた。
レンテは、少しだけ間を置いてから言う。
「今日、お前たちは」
「川を見て、畑を見て、帳簿を見た」
「そしてその先にいる人間を見つけた」
「それが帝王学だ」
窓の外で、雨が少しだけ強くなる。
「王とは」
レンテは静かに言う。
「大きな災いに怯える者ではない」
「小さな歪みを見逃さぬ者だ」
その言葉は、四人の胸へまっすぐ落ちた。
やがて王は手を振る。
「もう下がりなさい」
王子たちは一礼し、部屋を出た。
廊下には、雨音が遠く響いていた。
アルケスが先に歩き出す。
ポルックスは深く息をついて、その後ろへ続く。
カストルは何も言わずに歩く。
シャムは少し離れて、その背を見ていた。
幼い頃を共にしたわけではない。
だから、まだ同じ歩幅では歩けない。
それでも。
今日、同じものを見た。
同じ歪みに気づき、同じ結論へ辿り着いた。
そのことだけが、シャムの胸に静かな熱のように残っていた。
王城のどこかで、すでに人が動き始めているだろう。
南倉は封じられる。
帳簿は押さえられる。
そして明日には、王都はまだ何も知らぬ顔で朝を迎える。
だが、水面の下では流れが変わった。
龍星逐鹿は、もう子どもの競い合いではない。
国の歪みに最初に気づいた者たちが、その歪みを正すために動き始めたのだ。
雨は夜を通して降り続いた。
王都の川もまた、闇の中で静かに流れていた。
【7】
雨は夜のうちに上がっていた。
けれど王都の空はまだ晴れきらず、薄い雲が高く流れていた。屋根の端には雫が残り、石畳の継ぎ目には細い水が光っている。昨夜までの湿りを抱いたまま、王城は静かに朝を迎えていた。
その静けさの下で、人は動いていた。
夜のうちに命を受けた近衛と役人たちが、誰にも大きく知られぬまま南倉へ向かい、倉の出入りを止め、帳簿と鍵を押さえたのである。王都の民はまだ何も知らない。ただ、いつもより少しだけ城門の出入りが厳しいことに眉をひそめる程度だった。
王子たちは、その朝も龍星院へ通された。
渡り廊下の窓から見える庭は濡れている。芝の先に小さな水溜まりがあり、風が吹くたび木々の葉から雫が落ちた。
アルケスは歩きながら、昨夜の父の言葉を思い返していた。
――小さな歪みを見逃さぬ者。
あれは褒め言葉ではなかった。
役目だった。
「眠そうだね」
隣からポルックスが言った。
アルケスは少し笑う。
「ポルックスこそ」
「僕はちゃんと寝たよ」
そう言いながらも、ポルックスの目の下には薄く疲れが見える。昨夜はあのあとも、帳簿の数字を頭の中で並べ直していたに違いない。
少し後ろを歩くカストルは、機嫌が悪そうだった。
「面倒だな」
それが朝一番の言葉だった。
「まだ何かあるの?」
ポルックスが聞くと、カストルは鼻を鳴らした。
「あるに決まってる」
「倉を押さえただけで終わるなら、最初から崩れない」
アルケスは振り向かずに言った。
「同じことを思っていた」
カストルが少しだけ目を細める。
「ふん」
それきり黙る。
少し離れて歩くシャムは、今日はいつもより静かだった。
昨日までのような遠慮が消えたわけではない。けれど、その沈黙の中に、ただ立ち尽くしている時の不安とは違うものがあった。考えている沈黙だ。
龍星院の講義室ではなく、その日もまた小会議室へ通される。
机の上には、昨日とは別の書類が積まれていた。
教師が一礼する。
「おはようございます、殿下方」
その後ろに立つエドレクも静かに頭を下げた。
「昨夜のうちに、南倉の帳簿と現物の照合が始まりました」
アルケスが席に着く。
「結果は」
教師はすぐには答えなかった。
代わりに、一枚の紙を机に広げる。
「今朝方届いた第一報でございます」
ポルックスが身を乗り出す。
カストルも椅子の背にもたれたまま視線だけを鋭くした。
シャムは少し遅れて、その紙を見る。
そこに書かれていたのは簡潔な報告だった。
帳簿上の数量と現物に差異あり。
不足分、南倉第三蔵に集中。
管理責任者は不在。
部屋が静かになる。
カストルが言った。
「逃げたな」
教師は慎重に答える。
「その可能性が高うございます」
ポルックスが小さく息を吸う。
「こんなに早く?」
エドレクが言った。
「早いからこそ、準備していたのでしょう」
アルケスは報告紙の文面を追っていた。
「第三蔵に集中、か」
シャムが遠慮がちに言う。
「隠しやすい場所なんでしょうか」
教師が少し驚いたようにシャムを見る。
「その通りでございます」
「南倉第三蔵は古い建物で、帳簿上の整理が難しい区画にございます」
カストルが口元を歪める。
「便利だな」
ポルックスが言う。
「でも、不足分が一つの蔵に集まってるのはおかしい」
エドレクが頷いた。
「はい」
「本来なら、誤差は均等に散るはずでございます」
「一箇所に偏るのは、人の意図が入っている証拠です」
アルケスが顔を上げた。
「つまり」
「誰かが第三蔵を使った」
教師が答える。
「そのように見えます」
その時、カストルが急に身を乗り出した。
「違う」
皆がそちらを見る。
カストルは報告紙を指した。
「使った、じゃない」
少し間を置く。
「使い続けた、だ」
その声は低かった。
「これ、一回じゃない」
ポルックスも紙を見直す。
「……ああ」
「去年だけじゃない」
不足分の書き方に癖がある。小さく、しかし同じ形で記録が欠けているのだ。
カストルが言う。
「倉の人間も知ってる」
教師は沈黙した。
それが答えだった。
シャムは胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
誰か一人の悪事ではなかった。
倉。
帳簿。
運び手。
たぶん、もっと多くの人間が関わっている。
王城の外で起きたことではない。
王城へ穀が入る、そのすぐ手前で起きていたことだ。
アルケスが静かに言う。
「父上は」
「今朝のうちに動くはずだ」
教師は頷いた。
「すでに財務局と南倉の責任者は召喚されております」
ポルックスが問う。
「補佐官は?」
「まだ確保できておりません」
カストルが舌打ちする。
「遅い」
エドレクが静かに言った。
「逃げる者は、自分が何を知っているかを知っております」
その言葉は重かった。
単に盗んだのではない。
どこが崩れているのか。
どこを隠せばよいのか。
それを知っているからこそ、先に消える。
アルケスはゆっくりと息を吐いた。
「まだ終わっていないな」
教師が答える。
「はい、殿下」
「むしろ、ここからでございます」
窓の外では、雲の切れ間から少しだけ光が差し込んでいた。
濡れた庭の一部だけが明るくなる。
その光を見ながら、シャムはふと思った。
昨日、自分はただ叱られた子どもだった。
けれど今日は、同じ机を囲んで、国の歪みを見ている。
まだこの人たちのようには考えられない。
けれど、目を逸らさずに見ることならできるかもしれない。
その時、近侍が扉の外から一礼した。
「失礼いたします」
教師が振り向く。
「何事ですか」
「陛下より、アルケス殿下、カストル殿下、ポルックス殿下、シャム殿下へ」
近侍は少しだけ声を落とした。
「本日夕刻、御前にて再び話を聞きたいとの仰せでございます」
部屋の空気がまた変わる。
アルケスは小さく頷いた。
「わかった」
近侍が下がる。
ポルックスが小さく笑った。
「今日は、昨日より重そうだね」
カストルが言う。
「当たり前だ」
そして机の上の報告紙を見る。
「やっと本物が出てきた」
教師は咎めなかった。
エドレクもまた、静かに報告紙を見ていた。
南倉。
第三蔵。
不足。
不在。
言葉は短い。
だがその裏には、まだ見えていない人の流れがある。
王都の川は、今日も変わらず流れている。
だが人の流れは、すでに乱れ始めていた。




