第十七章
【1】
夜の辺境は静かだった。
王都の夜とは違う。灯火の数が少ないからではない。空が広すぎるからだ。山に囲まれたこの土地では、星が近い。雲のない夜には、天の川が川のように流れている。
ローディス辺境伯は屋敷の外の石段に立ち、その空を見上げていた。
遠くで水の音がする。
昼間に完成した水路だ。畑を巡り、谷を越え、静かに水を運んでいる。昼間の賑わいはもうない。村人たちはそれぞれの家に戻り、明日からの仕事を思いながら眠りについている。
だが水は眠らない。
ただ流れ続ける。
ローディスは腕を組み、ゆっくり息を吐いた。
「……先代王よ」
空に向かって呟く。
「あなたは、面白いものを残していきましたな」
アレス王の顔がふと浮かぶ。
王は、こういう子を好んだ。
礼儀や血筋ではなく、実際に土地を見て動く人間を。
だからこそ、ローディスのような男を辺境に置き続けた。
そして今、その王の血を引く子供がここにいる。
ローディスは石段を降り、庭の奥へ歩いた。
夜風が草を揺らしている。
少し離れた場所に、小さな灯りがあった。
屋敷の裏手。
簡素な机。
紙と石。
そして、少年。
ヴィルだった。
灯りの下で何かを書いている。
水路の図だろう。
昼間完成したばかりなのに、もう次を考えている。
ローディスはその背をしばらく見ていた。
肩はまだ子供のものだ。
細い。
小さい。
だがその背には、不思議な落ち着きがある。
子供の背ではない。
年齢よりもずっと長い時間を歩いてきた者の背だ。
ローディスは近づいた。
足音にヴィルが顔を上げる。
赤い瞳が灯りを反射した。
「辺境伯」
ヴィルはすぐ立とうとする。
ローディスは手を上げて止めた。
「いい、座れ」
ヴィルは静かに座り直す。
ローディスは机の紙を見た。
川の図だった。
昼間の水路とは別の場所。
もっと上流だ。
ローディスは笑った。
「もう次を考えているのか」
ヴィルは頷いた。
「まだ水があります」
その言葉は静かだった。
だが確信があった。
ローディスは言う。
「疲れないのか」
ヴィルは少し考えた。
そして言った。
「考えるのは、疲れません」
その答えにローディスは小さく笑った。
本当に変な子だ。
普通の子供なら、昼間の成功で浮かれる。
誇る。
自慢する。
だがこの少年は違う。
もう次を見ている。
ローディスは石の椅子に腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れる。
水の音だけが聞こえる。
やがてローディスは言った。
「ヴィル」
少年が顔を上げる。
「はい」
ローディスはゆっくり言葉を選んだ。
「お前は、ここへ来るのが嫌だったか」
普通の王子なら答えは決まっている。
王城を離れる。
家族を離れる。
嫌に決まっている。
だがヴィルはすぐには答えなかった。
少し考える。
そして言った。
「わかりません」
ローディスは眉を上げる。
ヴィルは続けた。
「王城は……大事な場所です」
言葉を探しながら。
「でも」
少し間があった。
「ここも、大事です」
ローディスは黙って聞いていた。
ヴィルは言う。
「ここは、働く人がいます」
「畑があります」
「川があります」
「困っていることがあります」
ヴィルは机の紙を見る。
「直せるかもしれません」
それだけだった。
だがローディスは理解した。
この少年は逃げてきたのではない。
ここを見ている。
この土地を。
人を。
そして問題を。
ローディスは静かに立ち上がった。
空を見上げる。
星が流れている。
遠い王都では今も政治が動いているだろう。
王子たちは争う。
貴族は策を巡らせる。
王は悩む。
だが。
この辺境では。
一人の少年が川を動かした。
ローディスはゆっくり言った。
「ヴィル」
少年が顔を上げる。
ローディスは笑った。
「明日から教育だ」
ヴィルは少し驚いた顔をした。
ローディスは続ける。
「水だけではない」
「土地」
「税」
「兵」
「交易」
「全部だ」
ヴィルは黙って聞いている。
ローディスは言った。
「この土地を動かす方法を教える」
そして最後に言う。
「ただし」
ヴィルを見る。
赤い瞳。
アレスと同じ瞳。
「覚悟しておけ」
ローディスは笑った。
「私は甘くない」
ヴィルは静かに頷いた。
「はい」
その返事は小さかった。
だが揺れなかった。
ローディスは満足そうに頷く。
そして空を見上げた。
星が流れている。
遠い未来。
まだ誰も知らない。
この少年がどこへ行くのか。
何を成すのか。
ただ一つだけ確かなことがある。
この夜。
辺境の水路のそばで。
一人の少年の道が、静かに始まった。
【2】
朝の空気は、いつの間にか秋の匂いを帯びていた。
夏の熱はまだ王都の石壁の奥に残っているが、空を流れる風は軽く、乾いている。龍星院へ続く石段には昨夜の雨がまだ少し残っており、薄い水の膜が光を反射していた。
僕は、その石段をゆっくり上っていた。
石の隙間に残った水たまりに空が映る。雲が流れるたびに、その形が静かに崩れていく。
その様子を、僕は何となく見ていた。
「アルケス、遅い」
前から声が飛んできた。
顔を上げると、石段の上にカストルが立っている。腕を組み、少しだけ苛立ったような顔でこちらを見ていた。その隣にはポルックスがいる。ポルックスはいつものようにカストルの半歩後ろに立っていた。
「ごめん」
僕は少し歩く速度を上げた。
ポルックスが穏やかに笑う。
「アルケス、また考え事?」
「少しだけ」
そう答えながら僕は空を見上げた。
秋の雲は高い。
ゆっくり流れている。
こういう空を見ると、僕はなぜか遠い土地のことを思い出す。
辺境。
そこにいるはずの少年。
ヴィルギニス。
彼が王城を離れてから、もう半年以上が過ぎていた。誰もその名前を頻繁に口にはしない。けれど時々、ふとした瞬間に思い出すことがある。
カストルが言った。
「今日の講義、水の話だってさ」
ポルックスが肩をすくめる。
「それだけじゃないみたいだよ。ラルグスの学者が来ているらしい」
僕は足を止めた。
「ラルグス?」
隣国の名だった。
王国と長く交易を続けている国だが、学問や技術の方向は少し違う。特に水利技術に関しては、あちらの国は非常に発達していると聞いたことがあった。
川。
堰。
水路。
水の流れを読む学問。
龍星院の大門が見えてきた。
門の前にはすでに多くの学生が集まっている。普段よりも少しざわめきが強い。
中庭の奥に、見慣れない人影があった。
長い外套。
革の袋。
荷車。
そこには奇妙な道具が積まれていた。
細い金属の輪。
測量の棒。
重りのついた紐。
職人の道具のようでもあり、学者の器具のようでもある。
その時、シャムが僕たちの後ろから顔を出した。
金色の髪が朝の光を受けて柔らかく揺れている。
「すごいな」
シャムは荷車を見ながら言った。
「川を測る道具みたいだ」
ポルックスが頷く。
「多分そうだろうね」
カストルは鼻を鳴らした。
「学者だろ」
その瞬間、講堂の鐘が鳴った。
低く長い音だった。
学生たちは一斉に動き始める。靴音が石の中庭に広がり、ざわめきが講堂へ流れ込んでいく。
僕たちもその流れに加わった。
講堂の中はひんやりしていた。石造りの建物は外よりも温度が低い。高い天井と長い窓があるため、光は柔らかく広がっていた。
僕たちは木の長机に座る。
前方には見慣れない机が置かれていた。
その上には石と水瓶が並んでいる。
やがて一人の男が壇上に立った。
黒い髪。
痩せた顔。
鋭い目。
男は静かに言った。
「私はラルグス王国の水理学士、エドレクという」
その声は穏やかだった。
だが講堂の隅までよく響いた。
ざわめきが止まる。
男は水瓶を持ち上げた。
ゆっくりと瓶を傾ける。
水が机の上に落ちた。
透明な滴が木の机を流れていく。
ただそれだけのことだった。
だが講堂は静まり返っていた。
エドレクは言った。
「水は命令を聞かない」
水は机の上をゆっくり流れる。
男は小さな溝を彫った。
すると水はその溝へ吸い込まれるように流れた。
僕は思わず身を乗り出していた。
水は細い線になり、机の上を進む。
エドレクは続けた。
「水は自由だ」
「だが道を選ぶ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸にある記憶が浮かんだ。
遠い辺境。
川のそば。
石を動かしながら、水を見つめていた少年。
【3】
講堂の空気は、いつの間にか完全に静まっていた。
誰も声を出さない。
机の上を流れる水の音だけが、微かに聞こえている。
エドレクは石を一つ持ち上げた。
それを水の流れの中に置く。
水は石にぶつかり、二つに分かれる。
男は言った。
「川も同じだ」
その声は静かだった。
「水は常に最も楽な道を選ぶ」
エドレクはもう一つ石を置いた。
流れが変わる。
「だが人は道を作ることができる」
水は新しい溝へ流れた。
僕はその様子を見つめていた。
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
その時だった。
隣から声がした。
「違う」
カストルだった。
僕は顔を向ける。
カストルは机の水をじっと見ていた。
眉を寄せている。
ポルックスが小声で言う。
「カストル?」
カストルは指で机を示した。
「そこじゃない」
講堂がざわめく。
エドレクが顔を上げた。
鋭い目がカストルを見る。
「理由は?」
カストルは水を見たまま答えた。
「そこだと水が溢れる」
その瞬間、カストルの顔が少し赤くなる。
「俺なら」
講堂が完全に静まり返った。
エドレクは石を動かした。
水の流れが変わる。
今度は溢れない。
流れは静かに溝へ進んでいく。
ポルックスが小さく息を呑んだ。
「すごい」
カストルは顔をそむけた。
「別に」
僕は水を見ていた。
不思議だった。
カストルは怒りやすい。
衝動的で、癇癪も起こす。
けれど時々こうして、驚くほど鋭い。
まるで川の流れが見えているようだった。
エドレクはしばらく机を見ていた。
それから言った。
「面白い」
そしてカストルを見た。
「君は川を見たことがあるか」
カストルは答えた。
「ある」
「どこで」
カストルは少し考えた。
「城の外」
それ以上は言わなかった。
エドレクは頷いた。
「水を見る者は少ない」
「多くの人は川を見ても流れを見ない」
僕は窓の外を見た。
空は青い。
雲がゆっくり流れている。
そして僕は思った。
ヴィルギニスは、きっと今も水を見ている。
遠い辺境で。
水の流れを読みながら。
不思議だった。
僕たちは今、王都で水の話を聞いている。
ヴィルギニスは遠い土地で、同じことをしているかもしれない。
水は自由だ。
だが道を選ぶ。
その言葉が、静かに胸に残っていた。
【4】
水の講義は思っていたより長かった。
石の机の上を流れる水は、最初こそ面白かったけれど、やがて僕の頭の中は別のことでいっぱいになっていた。
川の流れ。
堰。
溝。
言葉は難しくない。だけどそれが何度も続くと、僕の意識は少しずつ遠くへ逃げていく。
龍星院の窓の外には青い空が広がっていた。秋の雲はゆっくり動き、遠くの塔の上を滑っている。
(外、いいな)
僕は思った。
昔の僕なら、こんな場所に座っていることはなかった。
花街の朝はもっと騒がしい。夜の客が帰る時間、靴を磨き、廊下を走り回り、女たちの呼び声に振り向く。そんな生活だった。
学校なんて知らない。
机も知らない。
講義も知らない。
だから最初は面白かった。
でも今は、少し違う。
ずっと座っていると、体がむずむずしてくる。
エドレクというラルグスの学者は、まだ机の上の水を動かしていた。
「水は低い場所へ行く」
石を置く。
流れが曲がる。
「だが人は流れを導く」
講堂の中は静かだった。
アルケスは真剣に聞いている。
ポルックスも同じだ。
カストルは腕を組んでいるけれど、目は水の動きを追っている。
みんな、ちゃんと勉強している。
(すごいな)
僕は思う。
だけど同時に、別のことを考えていた。
(ルカ、元気かな)
市場の裏通り。
あの少年。
僕が王城へ来てからも、何度か会いに行ったことがある。護衛の目を盗んで、こっそり抜け出して。
ルカは驚かない。
僕が王子になっても、何も変わらない。
それが、少し嬉しかった。
鐘が鳴った。
講義の終わりだった。
学生たちがざわめきながら立ち上がる。
自由時間。
龍星院では次の講義まで少し時間がある。
アルケスたちは講師の周りに集まり始めた。水路の話を聞いている。ポルックスも質問している。
カストルも残っていた。
僕はその様子を少し見ていた。
それから思った。
(今なら)
講堂の外に出る。
廊下には人が多い。
衛兵は入口にいる。
でも僕はもう知っている。
警備の目を抜ける道を。
花街で育った子供は、人の視線の隙間を見つけるのが得意だった。
階段を降りる。
裏庭。
厨房の裏。
小さな門。
そこから外へ出た。
風が顔に当たる。
自由だった。
僕は少し走った。
【5】
城下の通りは、午後の光を受けて柔らかく輝いていた。
石畳は乾き始めているが、ところどころに残る水が陽の光を反射している。人の往来は多く、商人の声や荷車の軋む音が入り混じっていた。王城の中とは違う、生活の音だ。
僕はその中を歩いていた。
横にはルカがいる。
「本当に来るとは思わなかった」
ルカは笑いながら言った。
僕も少し笑う。
「僕も」
王城を抜け出してここへ来るのは、少し久しぶりだった。
龍星院の講義は嫌いではない。でも、ああして長い間座っていると、どうしても外の空気が恋しくなる。石の壁に囲まれた世界ではなく、風が通り抜ける場所へ。
ルカが前を指した。
「ほら」
その先には見慣れた通りがあった。
花街。
赤い提灯が昼の光の中でぼんやり揺れている。夜のように灯りがともる時間ではないが、それでもこの場所には独特の華やぎがある。
細い路地。
格子窓。
朱塗りの柱。
僕は少し足を止めた。
胸の奥に、懐かしい匂いが広がる。
「行こう」
ルカが言う。
僕は頷いた。
路地に入る。
昼の花街は夜とは違う。
夜のように豪華な衣装ではない。けれど、その代わりに生活の匂いがある。洗ったばかりの布が干され、髪を結い直す女の姿があり、店の戸口では笑い声が響いていた。
一人の女がこちらを見た。
長い黒髪をゆるく結い、薄い紅を指で整えている。寝起きなのだろうか、襟元が少し緩んだままの着物を着ている。その姿は夜の飾り立てた華やかさとは違うが、それでも自然な色気があった。
女は目を細めた。
「……あら」
その声に、別の女が振り向く。
二人目の女は長い袖をたくし上げ、桶を持っていた。洗い物の途中らしい。濡れた手で髪を払う仕草が妙に艶めいて見える。
「あらまあ」
三人目の女が顔を出す。
その瞬間、皆の視線が僕に集まった。
「シャムじゃない」
その声に、周りの女たちが振り向く。
「本当?」
「まあ」
「久しぶり」
その瞬間、女たちの顔が少しだけ変わった。
王城へ行ったことは、この街でも知られている。
一人の女が少し姿勢を正した。
「殿下」
その言葉に、僕はすぐ首を振った。
「やめて」
僕は笑った。
「僕はシャムだよ」
女は少し驚いた顔をした。
それからふっと笑う。
「そうね」
「シャムね」
別の女が近づいてきた。
「背、伸びたじゃない」
「ほんとよ」
「前はこんなだったのに」
手で僕の背丈を示す。
笑いが広がる。
女たちは皆、昼の姿だった。
派手な化粧はない。
けれど薄い紅の色、ゆるく結われた髪、襟元からのぞく白い肌。何気ない仕草の一つ一つが、やはりこの街の女たちなのだと感じさせる。
夜の舞台で磨かれた魅力は、昼でも消えない。
一人の女が僕の髪を見た。
「金色ねえ」
「昔は泥だらけだったのに」
「ほんと」
「洗ってもすぐ泥つけてたじゃない」
笑い声がまた広がる。
ルカが肩をすくめて女が笑う。
「そうだったわね」
その空気は、昔と同じだった。
王子としての僕ではない。
花街の子どもだった頃の僕。
ただのシャム。
その時だった。
路地の入口に男が立っているのに気づいた。
普通の服。
商人のようにも見える。
けれど僕はすぐ分かった。
王城の兵士だ。
私服の近衛兵。
男は静かに近づいてくる。
ルカが少し警戒する。
男は僕の前で止まった。
そして静かに言った。
「シャム殿下」
僕はため息をついた。
やっぱり見つかった。
男は続ける。
「お迎えに参りました」
周りの女たちは黙っている。
何も言わない。
ただ静かに見ていた。
男は少し声を落とした。
「城が騒ぎになっています」
僕は苦笑した。
「そうだよね」
男は頷く。
「王城中が探しています」
僕はもう一度花街を見た。
提灯。
格子窓。
女たちの笑顔。
一人の女が言った。
「また来なさい」
僕は頷いた。
「うん」
ルカが手を振る。
「今度はもっとゆっくりな」
「うん」
僕は振り返りながら歩き出した。
私服の近衛兵が静かに後ろにつく。
近衛兵が現れたことで、路地の空気は一瞬だけ張りつめた。
だが――それはほんの一瞬だった。
「おやおや」
低く、年季の入った声が路地の奥から聞こえてきた。
皆が振り向く。
そこに立っていたのは、背筋の曲がった小柄な老婆だった。灰色の髪をきっちりとまとめ、濃い色の着物を着ている。花街では誰もが知っている人物だ。
遊郭の遣り手婆だった。
「これはこれは」
遣り手婆は近衛兵を見て、まるで旧知の客でも迎えるようにゆっくり笑った。
「王城のお役人様がこんなところまで」
近衛兵は少しだけ姿勢を正す。
「失礼する。シャム殿下をお迎えに――」
「まあまあ」
遣り手婆は手をひらひら振った。
「そんな急ぎなさるな」
近衛兵の前に、するりと立つ。
背は低いのに、不思議と退けない迫力があった。
「この子はうちの子みたいなもんだよ」
遣り手婆は僕を見て言った。
「久しぶりに顔見せたんだ。少しくらい昔話させておくれ」
近衛兵は困った顔をする。
「しかし――」
「王城の規則も大事だろうけどね」
遣り手婆はにやりと笑った。
「花街の義理もあるんだよ」
そう言って、近衛兵の前に立ちはだかった。
その瞬間だった。
「ほら!」
「早く!」
遊女たちが一斉に動き出した。
「ちょっとシャム!」
一人が僕の腕を掴む。
「これ持ってきなさい」
別の女が何かを差し出す。
「え?」
僕は戸惑った。
手の中に押し込まれたのは、香りのする小さな木箱だった。
「香木よ」
女が言う。
「昔、あんたが好きだったでしょ」
ふわりと甘い香りが漂う。
その間にも、別の女が包みを持ってくる。
「これも」
布だった。
深い紅色の布地で、刺繍が入っている。
遊女が舞うときに羽織るような華やかな上衣だった。夜の舞台で使うものよりは簡素だが、それでも美しい。
「これ、いいの?」
僕は驚く。
女は笑った。
「王城の物の方が立派でしょうけどね」
「でもこれは私のお気に入りなの」
別の女が言った。
「持っていきなさい」
さらに誰かが僕の手を取る。
「これも」
それは櫛だった。
木の櫛。
細かい細工が施されている。
「高いものじゃないけどね」
女が笑う。
「昔、あんたの髪とかしてやったじゃない」
次から次へと手渡される。
香木。
布。
小袋。
飾り紐。
僕の腕はあっという間にいっぱいになった。
「ちょっと待って」
僕は笑ってしまう。
「持てないよ」
「大丈夫よ」
女たちが言う。
「王子なんだから侍女に持たせればいい」
「そうそう」
ルカが横で笑っている。
その頃。
路地の入口では、遣り手婆がまだ近衛兵を止めていた。
「若いの」
遣り手婆が言う。
「花街ってのはね」
近衛兵は困った顔をしている。
「……はい」
「別れの挨拶くらいはさせるもんだよ」
近衛兵はため息をついた。
「早くお願いします」
遣り手婆はにやりと笑う。
「ほら」
振り向く。
「もういいだろ」
僕は両腕いっぱいの贈り物を抱えて立っていた。
女たちは笑っている。
一人が僕の頬を軽くつついた。
「また来なさい」
別の女が言う。
「今度はもっとゆっくりね」
僕は頷いた。
「うん」
近衛兵が歩いてくる。
「殿下」
僕は大きく、みんなに見えるように手を振った。
花街の人たちに向かって。
女たちは少し驚いた顔をした。
それから優しく笑った。
遣り手婆が言う。
「立派になったじゃないか」
路地の灯り。
笑う女たち。
ルカ。
その景色は、昔と同じだった。
僕は近衛兵と一緒に歩き出した。
腕にはまだ、たくさんの贈り物が抱えられていた。
【6】
王城の門をくぐると、空気が変わった。
花街の匂いも、城下の喧騒も、ここにはない。石の壁に囲まれた静かな空気。磨かれた床。遠くで衛兵の足音が反響している。
僕は私服の近衛兵に案内されて歩いていた。
両腕にはまだ、花街の女たちからもらったものが抱えられている。香木の箱、布の包み、木の櫛。持ちきれないほどだった。
廊下の角を曲がると、そこに三人の王子が立っていた。
アルケス。
ポルックス。
そしてカストル。
三人ともすでに話を聞いていたのだろう。ポルックスは僕を見ると、ほっとしたように息をついた。
「シャム……」
ポルックスが歩み寄る。
「無事でよかった」
その声には、本当に安心した気配があった。
アルケスも僕を見て、小さく頷いた。
「見つかってよかった」
その言葉は穏やかだった。
だが、もう一つの視線があった。
カストルだった。
カストルは廊下の柱にもたれ、腕を組んでいる。赤い瞳が僕をじっと見ていた。
その視線は冷たい。
怒っているわけではない。
軽蔑でもない。
もっと静かなものだった。
――逃げた者を見る目。
龍星院の講義。
王子としての教育。
そこから抜け出した僕を見る目だった。
僕は一瞬だけ目を逸らした。
その時、アルケスが言った。
「行こう」
アルケスは僕の横に立つ。
「父上が待っている」
その言葉で胸が少し重くなった。
王――レンテ。
僕はまだ、あの人に叱られたことがなかった。
アルケスは歩きながら、小さく言った。
「シャム」
僕は顔を上げる。
アルケスは少しだけ困った顔をしていた。
「さっき、兵に話したのは僕なんだ」
「え?」
「ルカのところかもしれないって」
僕は驚いた。
アルケスは苦笑した。
「シャムが城下に行く時は、だいたいそこだから」
ポルックスが後ろで頷く。
「アルケスはずっとそう思ってた」
僕は少し黙った。
アルケスは続けた。
「怒っているわけじゃない」
静かな声だった。
「ただ」
少し言葉を探す。
「逃げ出すくらいなら」
アルケスは僕を見る。
「僕を頼ればよかった」
僕は何も言えなかった。
アルケスは続けた。
「王子の教育が苦しいのは分かる」
「僕もそうだから」
少し笑う。
「でも、勝手にいなくなると大騒ぎになる」
ポルックスが後ろで言った。
「城中が探してた」
僕は俯いた。
アルケスは優しく言う。
「困った時は」
「僕たちに言えばいい」
その言葉は、慰めだった。
廊下の奥に重い扉が見えてくる。
王の執務室だった。
近衛兵が扉を開ける。
「殿下をお連れしました」
部屋の中は静かだった。
窓から秋の光が差し込んでいる。
そしてその奥に、王がいた。
レンテは机の前に立っていた。
赤茶の瞳。
落ち着いた表情。
だがその空気は、普段より少し重かった。
僕は歩み出て頭を下げた。
「……申し訳ありません」
部屋は静かだった。
レンテはすぐには言葉を返さない。
しばらく僕を見ていた。
その視線は鋭いわけではない。
だが逃げ場がない。
やがて王は静かに言った。
「顔を上げなさい」
僕はゆっくり顔を上げた。
レンテは声を荒げない。
その声は落ち着いている。
だが、その静けさが逆に重かった。
「シャム」
「はい」
「今日はどこへ行った」
「城下です」
「誰に会った」
「ルカです」
レンテは小さく頷いた。
怒鳴らない。
責めない。
ただ確認している。
そして言った。
「友に会うことを咎めるつもりはない」
僕は少しだけ驚いた。
レンテは続ける。
「だが」
声が少し低くなり僕の胸が痛くなる、怖い。
「お前が姿を消したとき」
「城では何が起きたと思う」
僕は答えられなかった。
レンテは言う。
「護衛が動いた」
「衛兵が動いた」
「城門が確認された」
「城下にも兵が出た」
言葉は淡々としている。
だが一つ一つが重い。
「王子が行方不明になるというのは」
「ただの外出ではない」
レンテは僕を見た。
「多くの人間が動く」
「多くの時間が使われる」
「多くの者が心配する」
少し間があった。
その沈黙の方が重かった。
レンテは言った。
「それは」
「王家に生まれた者の責任だ」
僕は小さく頷いた。
「……はい」
レンテの声が少し柔らぐ。
「お前はまだ子供だ」
「だが」
「自分がどの立場にいるかは理解しなければならない」
僕はもう一度頭を下げた。
「申し訳ありません」
レンテはしばらく僕を見ていた。
それから静かに言った。
「次に外へ行くときは」
「護衛を連れて行きなさい」
「はい」
その時だった。
レンテの机の上に置かれた書簡に、僕の目が止まった。
封蝋には見慣れない紋章が押されている。
波のような線。
川の印。
レンテはその視線に気づいた。
一瞬だけ書簡を見た。
そして言った。
「ラルグスからの学者が来ているらしいな」
アルケスが答える。
「はい。龍星院で講義を」
レンテは小さく頷いた。
その瞳は少しだけ遠くを見ていた。
「水の話か」
窓の外で風が動く。
秋の空が広がっていた。
【7】
翌朝、龍星院の空気はいつもより冷たく感じられた。
秋の朝の光は淡く、白い石の建物の壁をやわらかく照らしている。昨夜の雨がまだ地面に残っていて、庭の砂利道は少しだけ湿っていた。風が吹くたびに木の葉が擦れ、遠くから水の音が聞こえる。王都の川だ。
シャムは机の上の羊皮紙を見つめていた。
昨日のことがまだ胸の奥に残っている。レンテの声は静かだったが、その言葉は重かった。王子がいなくなることがどれほど多くの者を動かすのか。護衛、衛兵、城門、城下。ひとりの子供の行動がどれほど多くの人間を振り回すのか。
怒鳴られたわけではない。
だがその方が、胸に残る。
講義室にはすでに四人の王子が揃っていた。
アルケスは机に肘をつき、静かに窓の外を見ている。赤茶の瞳は落ち着いていて、何かを考えているときの顔だ。
ポルックスは羊皮紙に何かを書きつけている。講義の前でも、前日の内容を整理する癖があるらしい。
カストルは椅子の背にもたれ、足をぶらぶらと揺らしていた。
その赤い瞳が、ちらりとシャムを見る。
昨日のことを言う気はないらしい。ただ、冷たい。
王子としての教育から逃げた者を見る目だ。
シャムは視線を逸らした。
そのとき、講義室の扉が開いた。
教師が入ってくる。
そして、その後ろにもう一人。
ラルグスから来ている水理学士――エドレクだった。
初めて見るわけではない。
だがその朝のエドレクは、昨日とは少し違って見えた。
静かな目だった。
学者の目でもあり、観察者の目でもある。
エドレクは講義台の前に立ち、ゆっくりと机の上の布をめくった。
そこには昨日までなかったものが置かれていた。
大きな木の箱だった。
箱の上面には浅い溝が彫られている。川の形だ。蛇行し、分かれ、また合流する。細い水路がいくつも刻まれている。
ポルックスが思わず声を上げた。
「模型?」
「ええ」
エドレクは頷いた。
「川の模型です」
教師が補足する。
「王都周辺の流れを簡略化したものだ」
カストルが身を乗り出した。
「王都?」
「正確には王都近郊」
エドレクは小さな水瓶を持ち上げた。
そして模型の上流に水を注ぐ。
水は細い溝を伝い、ゆっくりと流れ始めた。
講義室の学生たちが静まり返る。
机の上の小さな川。
水は分かれ、合流し、溜まり、また流れる。
エドレクは石を一つ置いた。
流れが変わる。
水は別の溝へ流れた。
「水は、常に道を選びます」
静かな声だった。
「ですが」
石をもう一つ置く。
水が溢れる。
「人の作った道は、必ずしも水の道ではありません」
アルケスが腕を組む。
「つまり」
エドレクは頷いた。
「放置すれば流れは変わる」
ポルックスが言う。
「そして」
「人の作った仕組みが壊れる」
「その通りです」
カストルが机を指した。
「ここ」
皆の視線が集まる。
カストルが示したのは、川が大きく曲がる場所だった。
「ここ溢れる」
エドレクは石を少し動かす。
水の流れが急に速くなる。
ポルックスが息を呑んだ。
「本当だ」
カストルは腕を組み直す。
「橋とか建てたら崩れる」
教師が少し驚いた顔をする。
エドレクは静かに頷いた。
「鋭いですね」
カストルは視線を逸らした。
「別に」
アルケスは模型を見ていた。
水は静かに流れている。
だがほんの少し石を動かすだけで、流れはまるで別の形になる。
アルケスが言った。
「この模型は」
「実際の川と同じように動くのか」
エドレクは少しだけ笑った。
「完全ではありません」
「ですが」
「流れの癖は似ています」
シャムは黙ってそれを見ていた。
水が石に当たり、渦を作る。
小さな流れが集まり、大きくなる。
そして溢れる。
その時だった。
カストルが机を軽く叩いた。
「そこ」
エドレクが見る。
カストルが指している。
川の下流の曲がり角だった。
「そこ削れる」
ポルックスが首を傾げる。
「削れる?」
エドレクは石を動かす。
水が速くなる。
模型の砂がわずかに動いた。
教師が小さく呟く。
「……本当だ」
エドレクはカストルを見る。
「なぜそう思いました」
カストルは少し考えた。
「流れ」
短い言葉だった。
「速い」
ポルックスが言う。
「つまり」
「底が削れる」
エドレクは頷く。
「その通りです」
講義室の空気が少し変わった。
ただの水遊びではない。
これは国の話だ。
アルケスが言う。
「もしそこが削れ続けたら」
エドレクは答える。
「岸が崩れます」
「倉が近ければ倉が崩れる」
「橋があれば橋が傾く」
「水路があれば流れが変わる」
ポルックスが小さく言う。
「つまり」
「放置できない」
エドレクは頷く。
「ですが」
静かに続ける。
「多くの場所では、気づかれません」
シャムが言う。
「どうして?」
エドレクは模型の水を見た。
「流れは静かだからです」
水は机の上を流れている。
音もなく。
怒りもなく。
ただ削り続ける。
アルケスがゆっくり言った。
「城は」
「いつ気づく」
エドレクは答える。
「被害が出たときです」
講義室が静かになる。
ポルックスが小さく言う。
「遅い」
カストルが言った。
「だから見る」
ぶっきらぼうだった。
「気づく前に」
エドレクはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
「その通りです」
窓の外では風が木々を揺らしている。
龍星院の庭は静かだった。
王子たちは城の外へ出ることはできない。
だが今この講義室の机の上で、小さな川が流れている。
そしてその流れを、四人の少年が見つめていた。
水は静かに動く。
だがその動きは、やがて国を動かす。
【8】
講義が終わったあとも、王子達は席を立たなかった。
学生達はざわめきながら部屋を出ていく。木の椅子が擦れる音、紙を巻く音、低い話し声。やがて講義室は静かになった。
机の上では、まだ水が流れている。
エドレクが置いた小さな石の周りを、水は細く分かれて流れていた。
カストルがそれを見つめている。
腕を組んだまま、動かない。
ポルックスが言った。
「気になる?」
カストルは短く答えた。
「うん」
エドレクが石を片付けながら言う。
「水は面白いでしょう」
カストルが言う。
「面白いんじゃない」
少し間を置く。
「嫌いだ」
ポルックスが驚く。
「どうして?」
カストルは水を見る。
「静かだから」
その言葉に、アルケスが顔を上げた。
カストルは続ける。
「壊す時も静かだ」
講義室の空気が少し冷える。
エドレクは微かに笑った。
「確かに」
「水は怒鳴りません」
アルケスが机に近づく。
「さっきの場所」
エドレクが頷く。
「曲流部ですね」
ポルックスが模型を覗き込む。
「ここ」
砂が少し削れている。
ほんのわずかだ。
だが確かに削れている。
アルケスが言う。
「実際の川でも起きるのか」
「ええ」
エドレクは答える。
「むしろ実際の方が早い」
シャムが言った。
「どうして」
エドレクは模型の砂を指す。
「ここは乾いた砂です」
「実際の川底はもっと柔らかい」
カストルが呟く。
「ならすぐ削れる」
「その通りです」
エドレクは頷いた。
アルケスが腕を組む。
「王都の川は管理されているはずだ」
教師が言う。
「定期的に確認はしている」
カストルが鼻で笑う。
「確認」
教師が眉をひそめる。
カストルは続けた。
「人が見てるだけだろ」
誰も否定しない。
エドレクが静かに言った。
「流れは毎日変わります」
「人が見ない時間にも」
シャムが模型の水を見る。
確かにそうだった。
今この瞬間も、水は少しずつ砂を動かしている。
音もなく。
誰にも気づかれず。
アルケスが言う。
「王都の水の記録はあるか」
教師が頷く。
「龍星院の書庫に」
ポルックスの目が輝く。
「見てみたい」
カストルも言う。
「僕も」
教師は少し困った顔をする。
「王子達が興味を持つとは思わなかったな」
アルケスは静かに答える。
「国の話だから」
教師はそれ以上言わなかった。
やがて皆で講義室を出る。
龍星院の廊下は静かだった。
高い天井。
白い石の壁。
王城とつながる渡り廊下の窓から、秋の光が差し込んでいる。
シャムは歩きながら思った。
さっきの水の流れ。
静かだった。
でも確かに削っていた。
「エドレク殿」
アルケスが声をかける。
「はい」
「もし放置したら」
エドレクは答えた。
「崩れます」
短い言葉だった。
ポルックスが言う。
「どれくらいで?」
エドレクは少し考える。
「場所によります」
「数年」
「あるいは数十年」
カストルが言う。
「でも崩れる」
「ええ」
エドレクは頷く。
「必ず」
沈黙が落ちる。
廊下の窓の外で風が動いた。
庭の木が揺れる。
水の音は聞こえない。
ここには川がない。
だが国のどこかで、川は流れている。
そしてその流れは――
今も静かに形を変えている。
ポルックスがぽつりと言った。
「水って」
少し考える。
「眠ってるみたいだね」
カストルが言う。
「違う」
ポルックスが見る。
カストルの赤い瞳は真っ直ぐだった。
「起きてる」
そして静かに言う。
「人が寝てるだけ」
その言葉は、廊下の静けさの中で長く残った。
【9】
龍星院の書庫は、静かな場所だった。
高い天井まで届く棚。
古い羊皮紙の匂い。
窓から差し込む午後の光が、埃をゆっくり浮かび上がらせている。
王子達は長い机の周りに座っていた。
アルケス、カストル、ポルックス、シャム。
そして向かいに、エドレクと龍星院の教師。
机の上には幾枚もの図面が広げられていた。
水路の図。
畑の配置図。
収穫量の記録。
エドレクが一枚の羊皮紙を指した。
「こちらは王都周辺の耕作地の記録でございます」
アルケスが身を乗り出す。
「畑の記録か」
「はい」
エドレクは丁寧に頷く。
「川の流れは、必ず畑へ影響いたします」
ポルックスが言った。
「水が多ければ豊作になる?」
エドレクは微笑んだ。
「必ずしもそうとは限りません」
ポルックスが少し驚く。
「違うの?」
エドレクは図面の一角を指す。
「水が多すぎますと、根が腐ります」
「逆に少なすぎれば枯れる」
教師が補足した。
「農は水を求めるが、水に溺れてもいけない」
カストルが言う。
「面倒だな」
教師は穏やかに笑った。
「はい。農は面倒なものです」
シャムが羊皮紙を見る。
小さな数字が並んでいる。
「これ全部、収穫?」
「その通りでございます」
エドレクは答える。
「こちらは十年分の記録です」
アルケスが言った。
「十年」
「はい」
エドレクは続ける。
「農は一年では分かりません」
「最低でも十年」
「できれば三十年」
「その流れを見ます」
ポルックスが感心したように言う。
「川と同じだ」
「おっしゃる通りです」
エドレクは頷いた。
「水も畑も、短い時間では判断できません」
アルケスは羊皮紙を見つめていた。
数字の列。
収穫量。
干ばつの年。
豊作の年。
「王は」
アルケスが言う。
「これを見るべきか」
教師は少し驚いた顔をした。
そして静かに答える。
「はい」
書庫が静まり返る。
教師は続けた。
「王は剣を見る者ではありません」
「王は国を見る者です」
エドレクも頷いた。
「そして国とは」
少し間を置く。
「畑でございます」
シャムが顔を上げる。
「畑?」
「はい」
エドレクは丁寧に言った。
「城は石で出来ております」
「兵は人で出来ております」
「ですが」
机の羊皮紙を指す。
「国は穀で出来ております」
ポルックスが小さく呟いた。
「穀」
エドレクは続ける。
「一つの畑が枯れれば、一つの村が困ります」
「十の畑が枯れれば、町が困ります」
「百の畑が枯れれば――」
静かに言う。
「城が困ります」
カストルが言った。
「つまり」
机を指す。
「これ全部、王の仕事」
教師が答える。
「その通りでございます」
カストルは少し黙った。
そして言った。
「多い」
ポルックスが笑う。
「国だからね」
アルケスは羊皮紙から目を離さない。
「川」
小さく呟く。
「畑」
「市場」
エドレクは頷いた。
「すべて繋がっております」
シャムが言う。
「人も?」
エドレクは微笑んだ。
「もちろんでございます」
そしてゆっくり言った。
「帝王学とは」
王子達を見る。
「人を知る学問でもあります」
教師が続ける。
「王は畑を耕しません」
「だが畑を守らねばなりません」
ポルックスが言う。
「どうやって?」
教師は答える。
「税を整える」
「水を整える」
「争いを止める」
そして静かに言う。
「それが王の耕作です」
書庫は静まり返っていた。
窓の外では、秋の風が木を揺らしている。
アルケスがゆっくり顔を上げた。
「もし」
皆を見る。
「畑が足りなくなったら?」
エドレクは少し考えた。
「方法は三つございます」
指を一本立てる。
「畑を増やす」
二本目。
「収穫を増やす」
三本目。
「人口を減らす」
シャムが顔をしかめる。
ポルックスも少し黙った。
教師が言う。
「三つ目は戦でございます」
書庫の空気が冷えた。
アルケスは静かに言った。
「戦は選びたくない」
エドレクは深く頷いた。
「賢明なご判断でございます」
そして続ける。
「ですから王は」
羊皮紙を指す。
「最初の二つを考え続けます」
ポルックスが言った。
「畑を増やす」
カストルが言う。
「収穫を増やす」
シャムが小さく言う。
「水」
エドレクは微笑んだ。
「はい」
「水でございます」
そして静かに続けた。
「水は畑を増やします」
「水は収穫を増やします」
「そして」
窓の外を見る。
「水は国を豊かにします」
王子達は黙って羊皮紙を見ていた。
小さな数字。
小さな畑。
だがそれが、国だった。
秋の光が書庫に差し込む。
その机の上で、四人の少年は初めて知る。
王が見るべきものは、城ではない。
剣でもない。
それは――
畑だった。
【10】
書庫の静けさは、時に講義室よりも人を緊張させる。
誰も大きな声を出さない。紙をめくる音、筆先が擦れる音、遠くで風が窓を鳴らす音。そのどれもがよく聞こえる。だからこそ、沈黙の中に落ちた言葉は、より深く胸に残るのかもしれなかった。
「王が見るべきものは、畑でございます」
エドレクの声が、まだ書庫の空気の中に残っていた。
アルケスは机の上の羊皮紙を見つめていた。
収穫量の数字、畑の広さ、水路の図。どれも一見すると乾いた記録に過ぎない。けれど、つい先ほどまでただの数字にしか見えなかったそれらが、今は別のものに思えていた。
一つの数字が減る。
それは一つの畑が痩せたということだ。
一つの畑が痩せるということは、一つの村の食卓が軽くなるということだ。
村の食卓が軽くなれば、市場の顔色が変わる。
市場の顔色が変われば、やがて城の中までその影が差す。
そういう流れを、記録は静かに語っているのだと、ようやく分かり始めていた。
ポルックスが次の巻物へ手を伸ばした。
「これは?」
教師が答える。
「王都南方、二十年分の納穀記録でございます」
「南方……」
アルケスが小さく呟く。
王都の南方は、王国でも比較的豊かな穀倉地帯だ。大河から枝分かれするいくつもの水路に支えられ、平野が広がっている。王都へ入る穀のかなりの割合が、あの地域から運ばれてくる。
ポルックスは巻物を広げた。
「……あれ」
その声に、シャムもそちらを見る。
数字が並んでいる。年ごとの収穫量。村の名。畑の面積。雨量。納められた穀の量。
ポルックスが眉を寄せる。
「減ってる」
教師が少し身を乗り出した。
「どちらでございますか」
ポルックスが指さす。
「ここ。三年前から、少しずつ」
アルケスも見る。
確かに、数字は大きく崩れてはいない。だが、ゆるやかに、静かに減っている。豊作と不作の揺れとは違う減り方だった。まるで布が少しずつ擦り切れていくように、年ごとの数字が削られている。
カストルが鼻を鳴らした。
「こんなの誤差だろ」
その言い方はぶっきらぼうだったが、教師は怒らない。
「一つの年だけなら、そうとも申せます」
エドレクが静かに言った。
「ですが」
ポルックスが次の列を指でなぞる。
「五年続いてる」
書庫が静まる。
シャムはその数字をじっと見ていた。
少しずつ減る。ほんの少しずつ。だから誰も騒がない。けれど五年積み重なれば、それはもう「少し」では済まない。
エドレクが巻物の隣へ別の記録を置いた。
「こちらは同時期の雨量記録でございます」
数字を見比べる。
ポルックスが先に気づいた。
「雨は減ってない」
「はい」
エドレクは頷く。
「むしろ二年は多いくらいです」
アルケスが顔を上げる。
「では、なぜ減る」
教師は顎に手を当てた。
「病害、地力の低下、税の改定、働き手の減少……要因はいくつか考えられます」
カストルが机に指を打ちつける。
「水だろ」
皆の視線が集まった。
カストルは巻物を見ようともせず、ただ言った。
「さっきから水の話してるんだ」
「雨があるのに穀が減るなら、水が届いてないか、届きすぎてるかのどっちかだ」
その言葉は乱暴に聞こえる。だが、芯があった。
エドレクの細い目が、わずかに細くなる。
「お見事でございます」
カストルは顔をしかめた。
褒められ慣れていない子供の、不機嫌そうな顔だ。
「別に」
ポルックスが小さく笑う。
「キャス、今日はよく当たるね」
「うるさい」
だがその耳が少し赤くなっているのを、シャムは見逃さなかった。
アルケスは巻物の端を押さえながら言った。
「確かめる方法は」
教師が答える。
「水路図と照らすことにございます」
エドレクがすぐ別の巻物を広げた。
古い水路の図だった。南方穀倉地帯の水の取り回しが細かく描かれている。主流から分かれた用水。堰の位置。調整池。水門。
「……古い」
アルケスが言う。
「はい。十九年前のものです」
「新しいものはないのか」
教師がわずかに口ごもった。
「ございますが……整った形では」
その言い方に、ポルックスが顔を上げる。
「整っていない?」
教師は少し困ったように言った。
「改修の記録が途切れているのでございます」
エドレクが静かに補う。
「途中から、書式が変わっております」
「それだけではありません」
彼は別の束を机へ置いた。
紙の質も、筆跡も、ばらばらだった。正式な記録というより、後から継ぎ足された断片のようだ。
アルケスが眉を寄せる。
「なぜ、こうなる」
教師は言葉を選んだ。
「政務の優先順位が変わることはございます」
「戦、疫病、飢饉、王の代替わり……」
そこまで言って、少しだけ口をつぐむ。
シャムはふと、昨日レンテの机にあった書簡を思い出した。
波のような紋章。
川の印。
そして「水の話か」と言った王の静かな声。
あの時はただの講義の話だと思っていた。
けれど今は、それだけではなかったのかもしれない。
ポルックスは古い図と新しい断片を並べていた。
「ここ」
指が止まる。
「この用水、途中で消えてる」
エドレクが見る。
「……確かに」
アルケスも身を乗り出す。
主流から分かれるはずの水路が、新しい断片では途中から書かれていない。消されたわけではない。最初から無かったように扱われている。
「でも、古い図にはある」
ポルックスの声が少し速くなる。
「この用水が無いと、その下流の畑は」
教師が答える。
「乾きます」
シャムは、思わず息を吸った。
それだ、と直感した。
大雨でもなく、干ばつでもなく、静かに減り続ける収穫。
水はある。
だが、届いていない。
カストルが言う。
「誰かが直してない」
エドレクは首を横に振った。
「あるいは、直せなかった」
アルケスが静かに尋ねる。
「違いは大きいか」
「大きゅうございます」
教師が答えた。
「直さなかったのであれば怠慢」
「直せなかったのであれば、別の障害がございます」
「金、人手、権限……あるいは土地の所有をめぐる争いかもしれません」
その言葉に、シャムは難しい顔をした。
水が流れるだけで済む話ではない。畑があり、村があり、持ち主がいて、税がある。水の道は、土の上だけを通っているわけではないのだ。
エドレクが言った。
「食糧生産が落ちるとき、多くの者は天を見ます」
窓の外の空は高い。秋の淡い青が広がっている。
「しかし、見るべきは天だけではありません」
彼は机の上の乱れた記録を示した。
「地も、人も、記録もでございます」
アルケスは深く息を吸った。
「……これを、父上は知っているだろうか」
その問いに、教師はすぐには答えなかった。
そして慎重に言う。
「要約された形では、上がっているかと存じます」
ポルックスが眉を寄せる。
「要約?」
教師は頷く。
「王の御前には、すべての記録をそのままお出しできるわけではございません」
「整理され、まとめられ、優先順位が付けられます」
カストルが低く言った。
「削られる」
教師は、否定しなかった。
その沈黙が、かえって重かった。
シャムは巻物を見た。
数字は静かだった。
だがその静けさの奥で、何かが欠けているのが分かる。
誰も大きく騒いでいない。
まだ市場も暴れていない。
城も大きくは揺れていない。
だが、流れは変わっている。
まるで、昨日の講義で見た模型の水のように。
静かに、目立たず、けれど確かに別の方向へ進んでいる。
エドレクは巻物を丁寧に押さえながら言った。
「殿下方」
四人が顔を上げる。
「帝王学とは、立派な言葉を覚えることではございません」
「こうして」
「静かに崩れ始めた数字を見つけることにございます」
アルケスの目が、わずかに強くなる。
ポルックスは巻物から目を離さない。
カストルは腕を組み直し、椅子の背に寄りかかった。
シャムは喉の奥に、少し苦いものが残るのを感じていた。
昨日、自分はただ友に会いに行っただけだった。
けれど王は、それがどれだけ人を動かすかを諭した。
今は、その意味が少しだけ分かる。
人ひとりが消えると、流れが乱れる。
水路ひとつが止まると、畑が痩せる。
数字ひとつが削れると、国が傾く。
どれも、同じことなのかもしれなかった。
書庫の高い窓の外で、風が木を鳴らした。
秋の光は少しずつ傾き、机の上の羊皮紙の端を金色に染めている。
そしてそのとき、教師がもう一束の記録を持ってきた。
「こちらもご覧になりますか」
アルケスが言う。
「何の記録だ」
教師は少しだけ言いにくそうに答えた。
「穀倉出納の照合記録でございます」
エドレクの目が、細くなる。
「……ほう」
その一言だけで、空気が変わった。
ただの収穫量ではない。
出された穀と、入った穀。
帳簿と、現物。
もしそこに食い違いがあるなら、それはもう水の問題だけでは済まない。
アルケスが静かに言った。
「続けてくれ」
書庫の空気は、少しずつ冷えていた。
水の話は、いつの間にか畑の話になり、畑の話は帳簿の話へ移っていく。
【11】
龍星院の書庫の空気は、先ほどよりも少し重くなっていた。
教師が机の上に置いた巻物は、これまでの農地台帳や水路図とは違っていた。紙の質も新しく、書き込まれた筆跡も整っている。明らかに、城の行政の中で使われている記録だった。
「こちらは王都穀倉の出納記録でございます」
教師は丁寧に言った。
「王都に納められる穀と、倉から払い出される穀を照合するための帳簿です」
アルケスが頷く。
「城の記録か」
「はい、アルケス殿下」
教師は一礼した。
ポルックスが巻物を開く。
「すごい量だ……」
数字が並んでいる。
村の名前、納められた穀の量、倉庫の名、出納の日付。数字は整然と並んでいるが、量が多すぎて一目では何も分からない。
シャムは思わず言った。
「こんなの、全部見るの?」
教師は穏やかに微笑んだ。
「王はすべてを自分で読むわけではございません」
「ですが、異常があれば気づく必要がございます」
エドレクが横から静かに言った。
「記録とは、流れでございます」
カストルが言う。
「また流れか」
「はい」
エドレクは頷く。
「水の流れ」
「穀の流れ」
「人の流れ」
机の上の帳簿を指す。
「すべて同じでございます」
ポルックスは数字を追っていた。
指が列をゆっくりなぞる。
「……変だ」
アルケスが顔を上げる。
「どこだ」
ポルックスは少し考えてから答えた。
「ここ」
数字の列を指す。
「収穫は減ってるのに」
「納められる穀は、あまり減ってない」
シャムが言う。
「それって良いことじゃない?」
ポルックスは首を振った。
「普通は逆なんだ」
教師が説明する。
「収穫が減れば、納める穀も減る」
「農民の生活を守るため、税も調整されるからです」
シャムは少し理解する。
「じゃあ……」
カストルが先に言った。
「無理して出してる」
教師は頷いた。
「その可能性はございます」
アルケスの表情が少し変わる。
「それは」
「村が苦しいということか」
教師は答えた。
「はい、殿下」
書庫が静かになる。
ポルックスが帳簿をめくる。
「でも」
また指が止まる。
「ここ」
「急に増えてる」
アルケスが覗き込む。
確かにそうだった。
三年前から減っていた数字が、去年だけ急に増えている。
カストルが言った。
「おかしい」
エドレクが言う。
「理由は三つ考えられます」
指を一本立てる。
「豊作」
二本目。
「別の場所から穀が入った」
三本目。
「帳簿が違う」
シャムが目を丸くする。
「帳簿が違う?」
教師は言葉を選んだ。
「書き違い、あるいは……」
少し間を置く。
「記録の誤りでございます」
カストルが低く言った。
「誤り?」
その声は少し鋭かった。
教師は慎重に言う。
「故意とは限りません」
ポルックスが言った。
「でも」
「収穫は減ってる」
アルケスが机を指す。
「なのに穀は増える」
カストルが言う。
「変だ」
誰も否定しない。
エドレクが帳簿をもう一度見た。
「殿下」
アルケスが顔を上げる。
「はい」
「もし帳簿が正しいなら」
「穀はどこから来たのでしょう」
アルケスは少し考える。
「別の地域」
「あるいは」
ポルックスが言う。
「備蓄」
エドレクは頷く。
「可能性はございます」
カストルが言う。
「でも」
帳簿を指す。
「書いてない」
教師も覗き込む。
確かに、穀の出どころの記載が曖昧だった。
書庫の空気が重くなる。
シャムはその数字を見ながら思った。
水の流れ。
畑の収穫。
そして穀倉の帳簿。
すべてが繋がっている。
もしどこか一つが狂えば――
エドレクが静かに言った。
「水路が崩れれば」
「畑が減ります」
教師が続ける。
「畑が減れば」
「税が苦しくなります」
ポルックスが言う。
「税が苦しくなれば」
シャムが言った。
「帳簿が変わる」
カストルが小さく笑った。
「ようやくつながったな」
アルケスは帳簿を見つめていた。
長い沈黙のあと、静かに言う。
「父上は」
誰も言葉を挟まない。
「この帳簿を見ているのだろうか」
教師は慎重に答えた。
「要約された形では」
またその言葉だった。
要約。
つまりすべてではない。
アルケスは巻物をゆっくり閉じた。
その音が書庫に響く。
「帝王学とは」
小さく言う。
「数字を読むことか」
エドレクは首を振った。
「いいえ」
そして静かに言う。
「数字の奥を見ることでございます」
窓の外で風が吹いた。
龍星院の庭の木が揺れる。
書庫の机の上には、まだ巻物が残っていた。
水路の図。
農地台帳。
穀倉帳簿。
それらは別々の記録に見える。
だが今、四人の王子の目には、一つの流れとして見え始めていた。
【12】
ポルックスが小さく言った。
「全部つながってる」
教師が静かに頷く。
「はい、ポルックス殿下」
エドレクは帳簿をゆっくりと押さえた。
「水が届かなければ畑は痩せます」
「畑が痩せれば収穫は減ります」
「収穫が減れば税は苦しくなります」
シャムが続けた。
「それで……帳簿が変わる」
エドレクは微かに微笑んだ。
「殿下のおっしゃる通りでございます」
カストルは椅子の背にもたれたまま言った。
「じゃあ」
腕を組む。
「この帳簿は嘘だ」
教師はすぐに否定しない。
「嘘とは限りません」
慎重な言葉だった。
「ですが」
少し言葉を選ぶ。
「何かが省かれている可能性はございます」
アルケスは静かに机を見つめていた。
「省かれている」
ポルックスが帳簿をめくる。
「収穫が減っている」
「でも納穀は減っていない」
「去年だけ急に増える」
指が止まる。
「説明がない」
カストルが言う。
「書いてないなら」
少しだけ口角を上げる。
「隠してる」
教師は穏やかに答えた。
「隠す意図があるかどうかは、断言できません」
「しかし」
エドレクが続けた。
「帳簿は人が書くものです」
静かな言葉だった。
「水は嘘をつきません」
「ですが」
机の帳簿を指す。
「人は嘘をつくことがあります」
書庫が静まり返る。
シャムはその言葉を聞きながら、数字を見つめていた。
数字は整っている。
乱れてはいない。
むしろ整いすぎている。
それが妙に不自然だった。
アルケスが言う。
「この帳簿は」
教師を見る。
「どこで作られる」
教師は答えた。
「穀倉役所でございます」
「その後」
「財務局へ提出されます」
ポルックスが言う。
「じゃあ城に来る前に」
「整理される」
教師は頷いた。
「はい」
アルケスはしばらく黙っていた。
そして言った。
「つまり」
静かな声だった。
「父上が見る頃には」
「もっと少ない数字になっている」
教師はすぐには答えなかった。
だが否定もしなかった。
その沈黙だけで十分だった。
カストルが言った。
「それじゃ意味ないだろ」
机を軽く叩く。
「数字の意味が」
「消える」
エドレクが静かに言う。
「ですから」
「殿下方が今こうしてご覧になっていることに意味がございます」
ポルックスが言う。
「でも」
少し考える。
「僕たちは王じゃない」
アルケスが答える。
「まだな」
その言葉に、皆が少し黙った。
シャムは窓の外を見た。
龍星院の庭が見える。
その向こうには王城の塔。
王はそこにいる。
この帳簿の「要約」を見ているのだろう。
本当の数字は、ここにあるのに。
エドレクが言った。
「帝王学とは」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「国の仕組みを知る学問でございます」
教師が続ける。
「そして」
「仕組みの歪みに気づく目を持つこと」
カストルが言う。
「歪んでるな」
教師は頷いた。
「少なくとも、説明が不足しております」
ポルックスが帳簿を閉じた。
「確かめる方法は?」
教師が答える。
「三つございます」
指を立てる。
「現地の収穫量を調べる」
「穀倉の実数を確認する」
「水路の状態を見る」
シャムが言う。
「でも僕たち」
「外に出られない」
龍星院は王族専用の学府だ。
王城と渡り廊下でつながっている。
安全のため、王子たちは城外へ出ることを許されていない。
教師は頷いた。
「はい」
「殿下方が直接行かれることはございません」
カストルが言った。
「じゃあどうする」
エドレクが微笑む。
「学問でございます」
皆が見る。
エドレクは帳簿を軽く叩いた。
「記録を読む」
次に水路図を指す。
「地図を読む」
そして農地台帳。
「そして」
「矛盾を探す」
アルケスの目が静かに強くなる。
「ここから分かるか」
エドレクは頷いた。
「完全ではございません」
「ですが」
「流れは見えます」
ポルックスが再び帳簿を開いた。
「この穀倉」
指を止める。
「三年前から数字が変わってる」
カストルが言う。
「そこだな」
シャムも覗き込む。
「同じ名前が多い」
教師が言う。
「王都南倉でございます」
アルケスはその名をゆっくり口にした。
「南倉」
それは王都最大級の穀倉の一つだった。
王城へ入る穀のかなりの割合が、そこを通る。
ポルックスが小さく言った。
「もしここがおかしいなら」
カストルが続ける。
「全部おかしい」
誰も否定しない。
書庫の空気が重くなる。
エドレクは静かに言った。
「水の流れは」
「小さな歪みから始まります」
机の上の帳簿を見た。
「国も同じでございます」
窓の外で風が吹く。
龍星院の庭の木々が揺れる。
静かな場所だった。
だがその机の上で、王国の小さな歪みが姿を見せ始めていた。
まだ誰も騒いでいない。
まだ誰も困っていない。
だが流れは変わっている。
そして――
その変化に最初に気づいたのは、まだ王になっていない四人の王子だった。
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