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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十六章

【1】


辺境の朝は、王都のそれよりも早く訪れる。


まだ空が白み始めたばかりの頃、風はすでに畑を渡っていた。遠い山の稜線の上には雲が低く垂れ、夜の冷えがそのまま地面に残っている。土は乾ききってはいないが豊かとも言えず、ところどころ石を噛んだ痩せた色をしていた。


鳥の声が一つ、遠くから響く。


その静けさの中で、一人の少年が鍬を握っていた。


少年の名は――ヴィル。


それがこの土地での名だった。


背丈はまだ成長の途中にあり、肩幅も広くはない。だがその動きは驚くほど整っていた。鍬を入れる角度、土を返す力、呼吸の取り方。どれもが慎重で、無駄がない。


鍬が土を割る。


乾いた音が畑に響いた。


「……そこは浅いぞ」


隣で働いていた老人が言う。


ヴィルは顔を上げ、すぐに頷いた。


「ありがとうございます」


声は穏やかだった。

短く、それでいて礼を欠かない。


少年は鍬を持ち直し、言われた場所にもう一度刃を入れる。今度は少し深く、石を避けるように土を崩した。


老人は鼻を鳴らす。


「飲み込みが早いな」


ヴィルは何も言わない。ただ軽く頭を下げた。


辺境の農民たちは、この少年を不思議な子だと思っていた。


この土地の子供にしては言葉が丁寧すぎる。怒鳴られても言い返さない。作業を教えればすぐ覚える。しかも、誰よりも朝が早い。


だが、働きぶりに文句を言う者はいない。


むしろ、少しずつ信頼され始めていた。


風が畑を渡る。


遠くの水路が、かすかな音を立てていた。


ヴィルはその音を聞いていた。


鍬を止める。


耳を澄ます。


「どうした」


老人が問う。


ヴィルは視線を水路へ向けた。


「……少し、水の音が変です」


老人は眉を上げる。


「音?」


「はい」


ヴィルは鍬を置き、歩き出す。


水路は畑の端を通っている。石を積み上げて作られた古い溝で、川から水を引いていた。


覗き込む。


水は流れている。

だが、ほんのわずかに濁っている。


ヴィルは石を触る。


冷たい。


それから流れを見た。


水は速すぎる。


この速さでは、畑へ回る前に下流へ抜けてしまう。


「……」


ヴィルは少しだけ考えた。


頭の中で、昨日の景色がよみがえる。


川の曲がり。

土の傾斜。

畑の高さ。


そしてその時だった。


「ヴィル」


声がした。


振り向く。


そこには少女が立っていた。


年はヴィルと同じくらいか、少し下。日に焼けた肌、土のついた服。畑仕事をしている者の手だった。


少女は桶を抱えていた。


「水、少ない」


ヴィルは頷いた。


「そうですね」


少女は首を傾げる。


「わかるの?」


ヴィルは水路を見た。


「少しだけ」


少女は桶を置いた。


「この畑、いつもこうなんだよ」


その言葉に、ヴィルは目を向けた。


「春は水が多すぎるの。畑が流れる」


少女は腕を広げる。


「夏は逆」


空を指す。


「水が来ない」


ヴィルは黙って聞いていた。


その声の調子。

水の話。

桶を抱える姿。


ふと、胸の奥で何かが引っかかった。


遠い記憶。


大雨の日。


石の井戸。


濡れた手。


「……」


少女が言う。


「ヴィル?」


ヴィルは小さく首を振った。


「大丈夫です」


それから水路を見る。


石の隙間。

水の角度。

土の傾き。


そして静かに言った。


「水を分けられるかもしれません」


少女は瞬きをした。


「え?」


ヴィルは水路の先を見る。


「少しだけ流れを変えれば」


少女は首を傾げる。


「川?」


ヴィルは首を振る。


「いいえ」


そして言った。


「水の道です」


風が吹いた。


畑の草が揺れる。


少女はしばらくヴィルを見ていたが、やがて笑った。


「変なこと言うね」


ヴィルは否定しない。


ただ水路を見つめていた。


その視線は静かだった。


だがその静けさの奥で、すでに考えは動き始めている。


土の高さ。

石の位置。

水の重さ。


少年の頭の中で、流れが形になり始めていた。


遠くの丘の上から、その様子を見ている男がいた。


ローディス辺境伯だった。


長い茶髪に白いものが混じり、風に揺れている。目は細く、口元にはいつものように少しだけ笑みがあった。


隣の家臣が言う。


「また畑ですか」


ローディスは肩をすくめた。


「いいじゃないか」


視線は少年に向いている。


「よく見る子だ」


家臣は言う。


「ただの下級貴族の子では?」


ローディスは答えない。


ただ遠くの赤い瞳を見ていた。


「……」


やがて小さく呟く。


「さて」


風が強くなる。


雲が流れる。


「どこまでやるかな」


その頃、ヴィルはまだ水路を見ていた。


土を触る。


石を動かす。


そしてゆっくりと立ち上がる。


少女が聞く。


「どうするの?」


ヴィルは答えた。


「考えます」


短い言葉だった。


だがその声には、奇妙な確信があった。


この土地の水の流れは、まだ誰も変えたことがない。


だが。


もしそれが出来たなら。


畑は救われる。


村も救われることにつながっていく。


【2】


辺境の空は、昼になっても高くはならない。


雲は低く流れ、風は畑の上を斜めに渡る。草は絶えず揺れ、土の表面には乾いた筋が残っていた。山の水が届く土地でありながら、この村はいつも水に困っていた。


春には多すぎる。


夏には足りない。


それがこの土地の宿命だった。


ヴィルは水路の脇にしゃがみ込み、流れを見ていた。石を組んだ古い溝を、川から引いた水が細く流れている。だがその流れは畑の奥まで届いていない。途中で勢いを失い、いくつもの畝の手前で途切れてしまう。


水は嘘をつかない。


それは彼が辺境へ来てから学んだことの一つだった。


土を触る。


指先で軽く崩す。


乾いている。


その乾きは、ほんの少しの差で作物を枯らす乾きだった。


「また見てるの?」


声がした。


顔を上げると、桶を抱えた少女が立っていた。日焼けした腕、草の種がついた服。畑仕事をしている者の姿だった。


ヴィルは軽く頭を下げた。


「はい」


少女は水路を覗き込む。


「ここ、いつも水弱いんだよ」


言いながら、桶の水を溝へ流す。


小さな波が立ち、すぐに消える。


「春は逆だけどね」


少女は続ける。


「雪が溶けると川が暴れる。畑、よく流れる」


ヴィルは頷いた。


それはすでに分かっていた。


この村へ来てから、彼は畑と川を何度も歩いている。朝も昼も夕方も。水の高さ、流れ、土の湿り、全部を見てきた。


水は多すぎても足りなくても人を困らせる。


その均衡を取るものが、この村にはなかった。


少女は言った。


「ヴィルってさ」


「はい」


「なんでそんなに水見てるの?」


ヴィルは少し考えた。


答えを選ぶ。


「畑を助けられるかもしれないと思って」


少女は笑った。


「畑を?」


その声には疑いではなく、ただの驚きがあった。


ヴィルはそれ以上説明しない。


代わりに立ち上がる。


水路の上流へ視線を向けた。


川がある。


この村の水はすべてそこから来る。


「川を見ます」


そう言うと、ヴィルは歩き出した。


少女は肩をすくめながらも後ろをついてくる。


二人は畑を抜け、少し傾斜のある草地を上った。


そこに川があった。


山から来る水は冷たく、石を滑りながら流れている。今は落ち着いているが、岸の削れ方を見るだけで、春の激しさが分かる。


ヴィルは川岸にしゃがみ込んだ。


流れを見る。


石を見る。


岸の高さを見る。


指先で土を触る。


しばらくして、小さく言った。


「……ここです」


少女は首を傾げた。


「なにが?」


ヴィルは川岸の少し低い場所を指す。


そこはほんのわずかに土が下がっている。誰も気づかないほどの差だった。


だが水はそこへ向かっている。


「ここに溝を作れば」


ヴィルは言う。


「水は分かれます」


少女は眉を上げた。


「川の?」


「はい」


「そんなの出来るの?」


ヴィルは少しだけ首を振った。


「川を変えるわけではありません」


水の流れを見る。


「水が選ぶ道を作るだけです」


少女はしばらく黙っていた。


それから笑った。


「やっぱり変」


ヴィルは否定しない。


「そうかもしれません」


その頃、丘の上ではローディス辺境伯がその様子を眺めていた。


長い茶髪が風に揺れる。


その隣で家臣が言う。


「また畑の子供たちです」


ローディスは腕を組む。


「子供、ね」


目を細める。


「よく見る子だ」


家臣は言った。


「ただの居候の少年でしょう」


ローディスは答えない。


ただヴィルの動きを見ていた。


川を見ている。


石を触る。


土を調べる。


それは農民の動きではない。


測っている。


考えている。


川を読む人間の目だった。


ローディスは小さく笑った。


「なるほど」


家臣が聞き返す。


「何がです?」


ローディスは言う。


「水は嘘をつかない」


それだけ言う。


その視線は、ずっと赤い瞳の少年を追っていた。


【3】


その日の夕方、ヴィルは一人で川へ戻った。


風は少し弱くなっていたが、空にはまだ重たい雲が残っている。遠くで雷が鳴り、山の上には灰色の影が落ちていた。


ヴィルは川岸に立つ。


昼に見た場所。


ほんのわずかに低い土地。


そこをもう一度確かめる。


足で土を踏む。


石を持ち上げる。


水は確かにそこへ流れたがっている。


ヴィルは考えた。


水路。


畑。


高さ。


もしここに溝を作れば、水は二つに分かれる。


春の洪水は畑を避けて流れる。


夏の水は畑へ回る。


問題は一つ。


誰もそれを試したことがないということだった。


村人たちは長い間この川と付き合ってきた。暴れる川を恐れ、触れないようにしてきた。


だが水は、道を与えられればそこを通る。


ヴィルは石を並べ始めた。


川の端から少しずつ。


大きな石を転がす。


土を削る。


小さな溝を作る。


水が流れるかどうかを確かめる。


作業は遅かった。


一つ石を動かすたびに、流れを確かめる。


何度もやり直す。


日が傾く。


空が暗くなる。


その時だった。


「何してる」


低い声がした。


振り向く。


ローディス辺境伯が立っていた。


外套を羽織り、腕を組んでいる。


ヴィルは立ち上がり、礼をした。


「水を見ていました」


ローディスは溝を見る。


「それは見れば分かる」


そして少し笑う。


「だが、それは川だ」


ヴィルは答える。


「はい」


「怖くないのか」


ヴィルは少しだけ考えた。


それから言った。


「水は怖いものです」


ローディスは眉を上げる。


「だが」


ヴィルは続ける。


「怖いからこそ、道を作るべきだと思いました」


風が吹く。


草が揺れる。


ローディスはしばらく黙っていた。


それから小さく息を吐いた。


「……いい」


外套を翻す。


「やれ」


ヴィルは顔を上げた。


「よろしいのですか」


ローディスは笑う。


「この土地はな」


遠くの畑を見る。


「ずっと水に振り回されてきた」


それからヴィルを見る。


「一度くらい、子供に任せてみても面白い」


ヴィルは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


ローディスは去っていく。


その背中を見送りながら、ヴィルはもう一度川を見た。


水は流れている。


静かに。


だが確実に。


ヴィルは再び石を持ち上げた。


この川はまだ知らない。


この場所に新しい道が出来ることを。


だが水は必ずそこへ行く。


正しい高さを与えれば。


正しい石を置けば。


流れは嘘をつかない。


ヴィルは黙って作業を続けた。


その小さな背中の向こうで、夜の風が静かに強くなっていった。


【4】


夜の風は、昼よりも冷たかった。


山から降りてくる空気は、日が沈むと急に鋭さを帯びる。川の水は昼よりも黒く見え、流れは静かなのにどこか深い音を含んでいた。


ヴィルは川岸に膝をついていた。


石を一つ、動かす。


重い。


両手で抱え、ゆっくりと位置をずらす。


石と石の間に土を詰める。


足で踏み固める。


そしてまた川を見る。


水はまだ変わらない。


当然だった。


この程度の石では川は動かない。


だがヴィルは焦らない。


水は急がない。


だからこそ嘘をつかない。


遠くで虫が鳴いた。


その声に混じって、草を踏む音がする。


「……まだやってる」


少女だった。


桶は持っていない。両手を腰に当てて、川を覗き込んでいる。


「暗いのに」


ヴィルは顔を上げた。


「水の高さが変わるので」


少女は眉を寄せる。


「夜で変わるの?」


「はい」


ヴィルは川を見る。


「昼は雪解けの水が来ます」


上流の山を指す。


「夜は少し落ち着きます」


少女は黙った。


ヴィルは続ける。


「流れが変わる時間を見ておきたいのです」


少女はしばらくその横顔を見ていた。


子供の顔だった。


だが考えている目は、どこか大人のように静かだった。


少女は言った。


「……ヴィルってさ」


ヴィルは石を動かしながら答える。


「はい」


「やっぱり変」


ヴィルは否定しない。


ただ小さく言った。


「そうかもしれません」


少女は肩をすくめる。


「でも」


川を見た。


「水、ほんとに変わるの?」


ヴィルはしばらく答えなかった。


代わりに一つ石を置く。


その横に小さな溝を掘る。


土を削る。


水が触れる。


ほんのわずかに、流れが揺れる。


ヴィルはそれを見ていた。


「……変わります」


その声は静かだった。


だが確信があった。


少女は川を見る。


流れはまだほとんど同じだ。


それでも、ほんの少しだけ、波の形が変わったようにも見える。


「……ほんと?」


ヴィルは頷く。


「水は道を探します」


そして付け加える。


「見つかれば、必ずそこへ行きます」


少女はその言葉を理解できたわけではなかった。


だが不思議と反論する気にもならなかった。


風が吹く。


雲の隙間から月が少しだけ顔を出す。


川の水が銀色に光る。


ヴィルは石をもう一つ運ぶ。


腕が震える。


それでも置く。


高さを確かめる。


流れを見る。


何度も繰り返す。


その様子を、少し離れた丘の影から見ている者がいた。


ローディス辺境伯だった。


隣に控える家臣が言う。


「本当に任せるのですか」


ローディスは腕を組んでいた。


「川ですよ」


家臣は続ける。


「もし堰を崩せば、畑が流れる」


ローディスは目を細める。


「そうだな」


家臣は言う。


「子供の遊びではありません」


ローディスは答えない。


ただ少年の動きを見ていた。


石を置く。


離れる。


水を見る。


また石を動かす。


何度も繰り返す。


それは偶然の作業ではない。


測っている。


水の重さ。


土の高さ。


石の形。


それを全て頭の中で組み合わせている。


ローディスは小さく息を吐いた。


「……」


家臣が聞く。


「辺境伯?」


ローディスは言った。


「子供じゃない」


家臣は眉を寄せる。


ローディスは笑う。


「水を読める人間はな」


川を見る。


「そう多くない」


そして視線を少年に戻す。


「しかもこの年で」


風が強くなる。


雲が月を隠す。


川は暗くなった。


だがヴィルは動きを止めない。


石を並べる。


土を削る。


流れを待つ。


その時だった。


ほんのわずかに、水が変わった。


今までまっすぐ流れていた水の一部が、ヴィルの作った浅い溝へ触れた。


ほんの一筋。


細い水。


だが確かに、そこへ流れた。


少女が息を呑む。


「……あ」


ヴィルは動かない。


ただ見ている。


水は少し迷った。


そしてもう一度、溝へ触れた。


今度はさっきより長く。


細い線ができる。


それはまだ小さかった。


だが確実に流れ始めていた。


少女は呟く。


「……ほんとだ」


ヴィルは静かに言った。


「まだです」


石をもう一つ動かす。


溝を少し広げる。


そして再び水を見る。


川はまだ大きくは変わらない。


だが流れは、もう道を見つけ始めていた。


丘の上で、ローディス辺境伯が笑った。


「……見つけたな」


家臣が聞く。


「何をです」


ローディスは答えた。


「水の道を」


そして静かに続ける。


「いや」


視線は少年に向いている。


【5】


川は、誰のものでもない。


それは山の雪が溶け、岩を削り、森を抜け、何百年もかけて形を変えながら流れてきたものだった。


人が生まれるより前からあり、人が死んだあとも流れ続ける。


だから村の者たちは言う。


「川は変えられない」


そう信じていた。


だが、ヴィルは違った。


川岸に膝をつき、水面をじっと見つめている。


風が吹く。

水面に細かな波が生まれる。

その下を、流れが動く。


ヴィルは石を一つ拾った。


川へ投げる。


ぽちゃん、と音がする。


波紋が広がる。


そして水は、ほんの少しだけ形を変えた。


「……」


ヴィルは小さく息を吐く。


川は変わる。


ほんの少しのきっかけで。


大きな力はいらない。


ただ、道を作ればいい。


川はその道を選ぶ。


それだけだ。


「またやってる」


ヴィルは振り向かない。


少女は言う。


「川を見てるだけじゃ畑はできないよ」


ヴィルは静かに答えた。


「川が畑を作ります」


少女は首をかしげた。


「どういうこと?」


ヴィルは川の蛇行を指差した。


「ここ」


そこは大きく曲がっている。


流れは速い。

岸は削れている。


「ここを少しだけ直します」


少女は眉を寄せる。


「直す?」


ヴィルは頷いた。


「蛇行を戻すと」


少し考えてから言う。


「水が落ち着きます」


少女は理解していない。


だがヴィルは続けた。


「水が落ち着くと、土が残ります」


「土?」


「畑の土です」


少女はぽかんとした。


「……そんなことできるの?」


ヴィルは答えなかった。


ただ川を見ていた。


赤い瞳が、水の流れを追っている。


【6】


三日後。


ヴィルは石を並べていた。


川岸に低い壁を作る。


流れを少しだけ押し返す。


大きな工事ではない。


だが水は確かに変わる。


そこへ声がした。


「またやってる」


振り向くと村の少年が二人立っていた。


畑の子供たちだ。


「川いじり」


一人が笑う。


もう一人は腕を組んで言った。


「無駄だよ」


ヴィルは言い返さない。


ただ石を動かす。


少年が聞く。


「それ何?」


ヴィルは答えた。


「水の道です」


少年たちは顔を見合わせる。


「川に道なんてあるの?」


ヴィルは頷いた。


「あります」


石を一つ置く。


「ただ」


少し考えてから言う。


「見えません」


少年は笑う。


「変なの」


もう一人は少しだけ興味を持った。


「それやるとどうなるの?」


ヴィルは川を見る。


「畑になります」


少年は黙る。


畑。


それはこの村で一番大事な言葉だった。


今年は雨が少ない。


畑は乾いている。


作物は弱い。


もし本当に水が来るなら。


少年は言った。


「……石運べばいい?」


ヴィルは頷く。


それが最初だった。


次の日には三人になった。


その次の日には五人。


誰も「工事」とは呼ばない。


ただ「ヴィルの川遊び」と呼んでいた。


だが石は確実に積み上がっていった。


春が終わり、夏が近づく。


川は少しずつ形を変えていた。


ヴィルは地面に線を引く。


枝で地図を描く。


少年たちが覗き込む。


「これ何?」


「川です」


「川?」


「昔の川」


少年は驚く。


「昔?」


ヴィルは頷く。


「川は曲がりすぎました」


今の流れを指す。


「ここは速すぎます」


岸が削れる。


土が流れる。


だから畑ができない。


ヴィルは別の線を引く。


「ここを戻します」


蛇行復元。


それは川の曲がりを、元の形へ近づけることだった。


大きな工事ではない。


ただ石を置き、流れを導くだけ。


川は自分で道を作る。


ヴィルはそれを知っていた。


少年が聞く。


「誰に教わったの?」


ヴィルは少し考える。


「本です」


ローディス辺境伯の書庫。


そこにあった古い治水の書。


王都の学者が書いたものだった。


少年は言う。


「ヴィルってさ」


ヴィルは顔を上げる。


「頭いいよね」


ヴィルは答えなかった。


ただ石を置いた。


【7】


夏の終わりに近い頃だった。


山から吹く風が少しだけ乾き、草の匂いが強くなる季節。畑では若い穂がようやく顔を出し始めていた。水路が出来てから、村の空気は確かに変わっていた。畑は以前より湿り、土は柔らかくなり、農夫たちの表情にもほんのわずかな安堵が浮かんでいる。


だが、まだ十分ではなかった。


川から引いた水は途中で止まり、畑の奥までは届かない。土地の起伏が原因だった。畑の手前に小さな谷があり、水路はそこで途切れてしまう。


ヴィルはその谷の縁に立っていた。


深い。


大きくはないが、水を通すには厄介な地形だった。谷底には乾いた草が揺れ、土は崩れやすく、ただ溝を掘るだけでは水は流れない。


村の男が腕を組んで言った。


「ここは無理だ」


別の男も頷く。


「水は落ちるだけだ」


確かにそうだった。谷をそのまま水路で越えようとすれば、水は途中で落ちてしまう。これまで誰もここを越えて水を通そうとは考えなかった。


だがヴィルは黙って谷を見ていた。


水は下へ流れる。


それは変えられない。


ならば。


水を落とさなければいい。


ヴィルは地面に枝で線を引いた。


村の子どもたちが覗き込む。


「なに?」


「水路」


ヴィルは言う。


線は谷の手前で止まり、そこから空中を渡る。


「橋?」


少年が言う。


ヴィルは首を振る。


「水の橋です」


村人たちは顔を見合わせた。


水の橋。


そんなものを聞いたことがない。


ヴィルは説明する。


「木をくり抜きます」


地面に描いた線の上に棒を置く。


「中を水が通ります」


少年が声を上げる。


「筒?」


ヴィルは頷いた。


「はい」


それは懸樋かけひというものだった。


山間の土地では時折使われる古い技術だが、この村では誰も見たことがなかった。


最初は笑われた。


「水が木の中を流れる?」


「そんなの持つわけない」


だがヴィルは言い返さない。


ただ森へ行き、真っ直ぐな木を選んだ。


木こりが腕を組んで言う。


「それで作るのか」


ヴィルは頷く。


「中を抜きます」


木こりはしばらく少年を見ていた。


それから斧を担ぐ。


「貸せ」


それが始まりだった。


木を倒す。


枝を払う。


幹を切る。


中をくり抜く。


作業は想像よりもずっと大変だった。木は固く、くり抜くには時間がかかる。少年たちだけでは出来ない。


だがいつの間にか、村の男たちが集まっていた。


農夫、木こり、鍛冶屋。


誰も声を掛けたわけではない。


それでも皆、手を動かしていた。


筒が出来る。


谷の両端に柱を立てる。


そしてその上に木の水路を渡す。


風が吹く。


水路がわずかに揺れる。


村人たちは息を呑んだ。


「……落ちるぞ」


誰かが言う。


ヴィルは静かに頷いた。


「水を流します」


川から桶で水を運ぶ。


最初の一杯。


木の筒へ注ぐ。


水はゆっくり進む。


筒の中を流れる。


そして。


ぽたり。


谷の向こうへ落ちた。


沈黙。


次の瞬間。


「流れた!」


少年が叫んだ。


もう一杯。


また一杯。


やがて細い流れが出来る。


水は谷を越えた。


村人たちは信じられない顔でその光景を見ていた。


谷を越える水。


それはこの村では初めて見る景色だった。


ヴィルはただ静かに水を見ていた。


水は嘘をつかない。


正しい高さ。


正しい道。


それさえあれば、必ず流れる。


その姿は、子どものそれとは思えないほど落ち着いていた。


丘の上から、その様子を見ている男がいた。


ローディス辺境伯だった。


彼はゆっくりと笑う。


「……面白い」


家臣が言う。


「辺境伯?」


ローディスは目を細める。


「川を変えた」


そして静かに続けた。


【8】


秋が近づく頃、水路は村を横切るようになっていた。


蛇行を戻した川。


谷を越えた懸樋。


だが、まだ最後の問題が残っていた。


水の量だ。


川の水はそのままでは用水路へ流れない。水位が低いと水路に入らず、そのまま下流へ流れてしまう。


ヴィルは川岸に立っていた。


流れを見る。


石を拾う。


指で高さを測る。


そして言った。


「堰を作ります」


村人が聞き返す。


「せき?」


ヴィルは川の端を指す。


「ここを少しだけ止めます」


大きな堤防ではない。


ただ水の高さを上げるだけ。


そうすれば水は自然と水路へ入る。


農夫は腕を組んだ。


「そんな簡単か」


ヴィルは答える。


「簡単ではありません」


だが出来る。


石を積む。


大きな石。


人の腕ほどある石。


それを川の端に並べる。


水がぶつかる。


泡が立つ。


石は動く。


何度もやり直す。


一日では終わらない。


二日。


三日。


一週間。


村の人間が集まる。


最初は数人。


やがて十人。


二十人。


畑仕事が終わったあと、皆が川へ来た。


石を運ぶ。


積む。


また崩れる。


それでも積む。


秋風が吹く。


水は少しずつ変わっていった。


そしてある朝。


水が止まった。


ほんの少し。


川の高さが変わる。


流れの一部が、水路へ向かう。


最初は細い線。


やがてそれは太くなる。


水路を走る水。


畑へ流れる水。


村人たちは言葉を失った。


乾いていた土が濡れていく。


畝が黒くなる。


少女が呟いた。


「……畑だ」


ヴィルは何も言わない。


ただ水を見ていた。


その背中は、どこか静かだった。


丘の上でローディス辺境伯が腕を組んでいた。


家臣が言う。


「完成です」


ローディスはゆっくり頷く。


「違う」


家臣は首を傾げる。


ローディスは言う。


「始まりだ」


視線は赤い瞳の少年に向いている。


「あれは水を引いたんじゃない」


そして静かに笑う。


「未来を引いた」


川はもう、昔とは違う形で流れていた。


そしてその流れは、静かに村を変え始めていた。


【9】


堰が完成した日の夕暮れ、村の空は深い茜色に染まっていた。


山の影がゆっくりと畑へ伸び、風は昼よりも柔らかくなる。新しく通った水路は、細い銀の線のように畑のあいだを走っていた。そこを流れる水の音は小さく、けれど確かな存在感を持っていた。


水は、流れている。


それだけで、畑の空気は違った。


土は黒く湿り、畝のあいだにはまだ細いが力強い芽が並んでいる。葉の色は濃く、夏の乾いた畑とはまるで別の土地のようだった。


村人たちはしばらく言葉を失っていた。


誰も声を出さない。


ただ水を見る。


そして畑を見る。


ようやく一人の老人が言った。


「……育つ」


その声は掠れていた。


長く農をしてきた者の声だった。


「これは、育つぞ」


誰かが笑った。


別の誰かが畝の土を握る。


そしてまた別の誰かが言う。


「水だ」


まるで当たり前のことのように。


だがこの村にとって、その当たり前は長いあいだ遠かった。


ヴィルはその光景を少し離れた場所で見ていた。


水路の脇に立ち、流れを確認する。


石は動いていない。


水は予定通りの高さで流れている。


堰も安定している。


ヴィルはしゃがみ込み、手を水へ入れた。


冷たい。


山の水だ。


それは変わらない。


水はただ流れている。


その流れを少しだけ変えただけだ。


それなのに。


村はこんなにも変わる。


背後で声がした。


「ヴィル」


振り向く。


少女だった。


畑の手伝いをしている農家の娘だ。いつも土にまみれているが、その顔には以前より明るい表情があった。


少女は畑を見ながら言う。


「父さんがさ」


ヴィルは聞く。


「はい」


少女は少し笑う。


「今年は飢えないかもしれないって」


その言葉は重かった。


この村にとって「飢えない」という言葉は、それだけで祈りに近い。


ヴィルは何も言わなかった。


少女は続ける。


「ヴィルが来てから変」


「変ですか」


「うん」


少女は水路を見る。


「水がある」


それだけだった。


それだけの言葉だった。


だがその言葉の重みを、ヴィルは理解していた。


遠くから声が上がる。


子どもたちだった。


「流れてる!」


「こっちも!」


畑の奥まで水が届いている。


水路の先にある土地は、これまでほとんど使われていなかった。乾きすぎていたからだ。


そこにも水が届いていた。


農夫たちが集まり始める。


腕を組む。


土を見る。


水を見る。


そして一人が言った。


「ここも畑になるな」


別の男が頷く。


「倍になる」


それは村の畑が倍になるという意味だった。


倍。


その言葉が静かに広がる。


ヴィルはその様子を見ていた。


喜びの中心にはいない。


ただ少し離れて、水を見ている。


水は変わらない。


ただ流れている。


その背後に、重い足音が近づいた。


「なるほど」


ローディス辺境伯だった。


長い茶髪を後ろで束ね、外套を肩に掛けている。いつもの軽い笑みを浮かべながら、水路を見ていた。


「見事だな」


ヴィルは頭を下げる。


「ありがとうございます」


ローディスは水路の縁に立つ。


石の並びを見る。


堰を見る。


懸樋を見る。


そして小さく笑った。


「全部つながっている」


ヴィルは頷く。


「はい」


「川」


「蛇行」


「水路」


「谷」


ローディスは言う。


「全部計算したのか?」


ヴィルは少しだけ考えた。


そして答える。


「水を見ました」


ローディスは笑った。


「それが一番難しい」


しばらく水路を見ていた。


それから言う。


「お前は何歳だったか」


「十一です」


ローディスは肩をすくめる。


「恐ろしいな」


ヴィルは黙っていた。


ローディスは空を見た。


秋の雲がゆっくり流れている。


そしてぽつりと言う。


「この村だけでは終わらない」


ヴィルは顔を上げる。


ローディスは続けた。


「この土地には、まだ同じ問題が山ほどある」


川は多い。


谷も多い。


乾く土地も多い。


ローディスは笑った。


「つまり」


ゆっくり言う。


「やることが増えた」


ヴィルは水を見る。


流れている。


安定している。


この水路は成功だ。


だが。


それは始まりでもある。


ローディスは背を向けた。


「さて」


外套を翻す。


「次はどこだ」


ヴィルは川を見た。


そして遠くの土地を見る。


この水は、まだ行ける。


もっと遠くへ。


もっと多くの畑へ。


ヴィルは小さく言った。


「上流です」


ローディスは振り向く。


「理由は」


ヴィルは答える。


「まだ水が余っています」


ローディスは声を上げて笑った。


「なるほど」


そして言う。


「やはり面白い」


村の上空を風が通り過ぎる。


水は静かに畑を流れていた。


そしてその流れは、これからもっと遠くまで広がっていくことになる。


まだ誰も知らない。


この水路が、やがて辺境一帯を救う最初の道になることを。


【10】


ローディス辺境伯は、石造りの屋敷の高い窓から外を眺めていた。


夕方の光が丘を斜めに照らしている。風は乾き、畑のあいだを走る水路が細い銀の線のように光っていた。


その水は、昨日まで存在しなかった。


ほんの数か月前まで、この村は乾いた土の上で作物を育てようとしていた。春には水が暴れ、夏には消える。農夫たちはそれを運命のように受け入れていた。


それが今、畑の奥まで水が走っている。


ローディスはゆっくり息を吐いた。


「……やれやれ」


低く呟く。


あの少年がやった。


まだ十一歳の子供が。


石を動かし、川の流れを読み、村の者を巻き込み、ついには堰まで作ってしまった。


ローディスは腕を組む。


彼はこの土地の主だ。


代々この辺境を守る家の当主。


王都の貴族たちは、よく彼を変わり者と呼ぶ。礼儀がない、言葉が荒い、王にも遠慮がない。確かにそうだった。宮廷のしきたりより、この土地の風の方がずっと理解できる。


だがそれでも、王は彼を追い払わなかった。


先代王アレスは特にそうだった。


ローディスは思い出す。


若い頃、王都の大広間で初めて会った時のことを。


ローディスは礼もそこそこに言った。


「陛下、あの税は愚策です」


貴族たちは青ざめた。


王に向かって愚策などと言う男は普通いない。


だがアレスは笑った。


それも声を上げて。


「ではどうする」


ローディスは答えた。


「土地を見て決めるべきです」


アレスは言った。


「なるほど」


それだけだった。


怒らない。


罰もしない。


ただ聞いた。


そして数年後、王は本当に税制を変えた。


ローディスは窓の外を見る。


「……変な王だった」


だが、あれほどの王はいなかった。


その王が死んだ。


突然だった。


王都は揺れた。


貴族は騒ぎ、商人は怯え、民は噂を流す。王がいなくなるだけで国はこんなにも弱くなるのかと、ローディスは半ば呆れて見ていた。


食料も減った。


商路は乱れた。


だがこの辺境はまだ飢えていない。


理由は簡単だ。


ローディスが備えていたからだ。


倉を満たし、塩を蓄え、穀物を保管していた。さらに個人的な交易で周辺の土地と物資を交換していた。


そのせいで王都の役人から嫌味を言われたこともある。


「備蓄が多すぎる」


「市場を乱す」


ローディスは笑った。


「飢えるよりはいい」


そして今、その備えは役に立っていた。


辺境の民はまだ働いている。


痩せてはいるが、倒れてはいない。


それで十分だった。


民が動けば国は生きる。


民が倒れれば国は終わる。


それがローディスの考えだった。


その頃だ。


王都から使者が来たのは。


現王レンテの命。


「一人の少年を預かってほしい」


その名を聞いた時、ローディスは眉を上げた。


ヴィルギニス。


先代王の第二妃の子。


つまり。


亡命王女の息子。


ローディスはため息をついた。


「面倒だな」


それが正直な感想だった。


王子。


どうせ甘やかされた子供だ。


飢えを知らず、寒さを知らず、命令だけで生きてきた子供。


辺境へ来れば泣くだろう。


王都へ帰りたがるだろう。


ローディスは家臣に言った。


「適当に世話しておけ」


そのつもりだった。


だが。


実際に来た少年は、想像と違っていた。


小さな荷物。


染めた髪。


赤い瞳。


そして。


静かな目。


「ヴィルです」


それが最初の言葉だった。


敬意はある。


だが媚びはない。


王子らしい尊大さもない。


ローディスはその時思った。


(変な子だ)


少年は屋敷に閉じこもらなかった。


村へ出る。


畑を見る。


川を見る。


木を見る。


そして命令されてもいないのに、問題を見つける。


「水が足りません」


最初にそう言ったのも彼だった。


ローディスは笑った。


「当たり前だ」


この土地は昔からそうだ。


だがヴィルは続けた。


「直せます」


ローディスは腕を組んだ。


(直せる?)


この土地の水は、彼自身でさえ長年扱いに困っていたものだ。間伐の問題、川の蛇行、谷の地形。いずれも放置されてきた。


理由は簡単。


手間がかかる。


そして成果が見えにくい。


辺境伯としての仕事は多い。


だから後回しになっていた。


だがその少年は。


一人で川を見て。


石を動かし。


水路を作り。


気づけば村人を巻き込んでいた。


誰かに頼んだわけでもない。


命令したわけでもない。


それでも人が集まった。


そして。


問題は解決した。


ローディスは窓の外を見る。


畑の水路。


谷を越える懸樋。


そして堰。


あれは十一歳の子供が考えた。


信じられない。


だが事実だった。


ローディスは小さく笑う。


「……面白い」


王命は嫌々受けた。


だが今は違う。


あの少年は、ただの王子ではない。


知っている。


考える。


そして静かに動く。


しかも。


誰かに頼らず、周囲を動かす。


ローディスは机から離れた。


外套を手に取る。


「辺境伯?」


家臣が聞く。


ローディスは答えた。


「少し教育する」


家臣は首をかしげる。


ローディスは笑った。


「放っておくには惜しい」


そして静かに言った。


「王都はまだ気づいていない」


窓の外を見る。


畑の向こうに、赤い瞳の少年がいる。


「だが私は知っている」


ローディスは外へ歩き出した。


「面白いものを預かった」


その声は、どこか楽しそうだった。

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