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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十五章

【1】


 夏の朝は早かった。


 王城の東庭にはまだ薄い影が残っているが、太陽はすでに塔の上へ顔を出し始めている。露を含んだ芝は柔らかく、白い石の道には朝の光が細く差し込んでいた。


 噴水の水が静かに弧を描いている。


 王城の庭は本来、王族が静かに散歩するための場所だが、この時間だけは少し違っていた。


「キャスの!」


 突然、甲高い声が響いた。


 芝の上に転がっているのは、木でできた小さな龍の玩具だった。王城の工房で作られたものだ。翼がついており、紐を引くと地面を滑るように動く。


 それを握っているのは、小さな手。


 カストルだった。


 まだ五歳になったばかりの少年だが、その声は庭の端まで響いた。赤い瞳が怒ったように光っている。


「キャスのなの!」


 目の前には、もう一人の少年が立っていた。


 ポルックス。


 双子の弟だ。


 ポルックスは少し困った顔をしている。薄桃色の髪が風に揺れ、兄と同じ赤い瞳が不安そうに動いた。


「キャスのだよ」


 ポルックスはそう言った。


 だが言いながらも、兄の手を止めることはしない。


 その後ろで、小さな声がした。


「……ヴィル、いい」


 ヴィルギニスだった。


 青い髪の少年は、少し離れたところに立っている。両手を前で握り、芝の上を見ていた。


 その足元には、紐が落ちている。


 玩具の龍はもともとヴィルギニスが持っていたものだった。


 だが、カストルが見つけて――


 そして、今こうなっている。


 カストルはヴィルギニスを見た。


 赤い瞳が細くなる。


「ヴィル、ちがう」


 短く言った。


「キャスの」


 それだけだった。


 ヴィルギニスは何も言わない。


 ただ小さく頷いた。


「……うん」


 その様子を見ていた侍女が、少しだけ眉を寄せた。


 だが口は出さない。


 少し前までは違った。


 カストルがこうして他の子の物を取ると、大人が止めていた。

「いけません、王子様」と。


 だが最近は違う。


 理由は簡単だった。


 カストルは、王位継承の最上位にいる。


 王妃の第一子。


 王の血を最も強く継ぐ子。


 その事実が、城の空気を少しずつ変えていた。


 侍女は黙って視線を逸らす。


 そのとき、庭の反対側から足音が聞こえた。


 小さな足音。


 ぱたぱたと軽い。


「アルも!」


 声がした。


 アルケスだった。


 緑色の髪が朝の光を受けて柔らかく光っている。まだ幼いが、どこか落ち着いた顔立ちをしていた。


 アルケスは芝の上まで走ってきて、龍の玩具を見た。


「それ、アルもやる」


 カストルが振り向く。


「ダメ」


 即答だった。


「キャスの」


 アルケスは少しだけ考えた。


 そして言う。


「じゃあ、順番」


 ポルックスが言った。


「アルのあと、ポル」


 カストルは唇を尖らせた。


「キャス!」


 そして玩具を強く引っ張る。


 龍の翼が地面を擦った。


 ヴィルギニスは黙ってそれを見ている。


 アルケスは首をかしげた。


「ヴィルの?」


 小さく聞く。


 ヴィルギニスは少しだけ顔を上げた。


「……うん」


 アルケスはカストルを見る。


「キャス」


 静かな声だった。


「ヴィルのだよ」


 カストルの目が少し細くなる。


 一瞬だけ沈黙が落ちた。


 庭の噴水の音が聞こえる。


 そのあと。


 カストルは龍を地面へ投げた。


「じゃあいい!」


 怒った声だった。


 玩具は芝の上を転がる。


 ポルックスはすぐに拾った。


「兄上」


 静かに言う。


「ポル、あとで直す」


 カストルは何も言わない。


 ただ芝を蹴る。


 侍女たちは遠くから見ている。


 その光景は、ただの子供の喧嘩だった。


 だが庭の奥、回廊の影――


 いや、石の廊下の窓からその様子を見ている者がいた。


 アレス王だった。


 王は腕を組み、四人の子供を見下ろしている。


 夏の光がその顔を照らしていた。


 アルケス。

 カストル。

 ポルックス。

 ヴィルギニス。


 まだ幼い。


 泥だらけになって走り回る、ただの子供。


 だがアレスには見えていた。


 カストルの怒り。


 ポルックスの忠実さ。


 ヴィルギニスの沈黙。


 アルケスの静けさ。


 王は小さく息を吐いた。


 庭では再び子供たちの声が響いている。


 ポルックスが笑い、アルケスが走り、ヴィルギニスがその後ろを追う。


 カストルは少し離れて立っていた。


 その小さな背中を見ながら、王は思う。


 ――この城は。


 いつか嵐になる。


 まだ誰も知らない。


 だが王には分かっていた。


 四つの星が同じ空にあるとき。


 夜空は、必ず揺れるのだ。


【2】


 王城の長い廊下は、昼になると少し涼しかった。


 夏の光は窓から強く差し込むが、石壁が厚いため中はひんやりとしている。床は磨かれた石で、子供の足音がよく響いた。


 その廊下を、ばたばたと小さな足が走っていた。


「ヴィル!」


 声が響く。


 カストルだった。


 薄桃色の髪を揺らしながら、廊下をまっすぐ走ってくる。五歳の子供とは思えないほど動きが速く、侍女たちは慌てて壁際へ避けた。


「キャス、見て!」


 カストルは何かを掲げていた。


 王城の庭で拾った石だ。


 ただの丸い石だったが、光を受けて少しだけ白く光っている。


「龍!」


 カストルはそう言った。


「これ龍の石!」


 誰もそんなことは言っていない。だがカストルの中ではそう決まっていた。


 廊下の端に立っていたヴィルギニスは、ゆっくり顔を上げた。


 青い髪の少年。


 両手を前で握っている。


 カストルは走り寄ると、その石をヴィルギニスの目の前に突き出した。


「ヴィル!」


 ヴィルギニスは小さく頷いた。


「……うん」


 それだけだった。


 カストルは満足そうに笑う。


「キャス見つけた!」


 そしてすぐ次の瞬間には、もう別のことに気を取られていた。


 窓の外を見た。


 鳥が飛んでいる。


「鳥!」


 そう叫ぶと、今度は窓へ走る。


 廊下の侍女が思わず声を出した。


「第二王子様、走ってはいけません」


 カストルは聞いていない。


 窓枠に手をかけて外を覗く。


「高い!」


 そして振り向いた。


「ヴィル!」


 手招きする。


「来い!」


 ヴィルギニスはすぐに歩いた。


 何も言わず、ただ近づく。


 カストルは満足する。


「見ろ!」


 鳥はもういなかった。


 だがカストルは気にしない。


「さっきいた!」


 そう言ってまた廊下を走り出す。


 今度は反対側へ。


 途中で壁に掛けられている装飾の盾を見つけた。


「剣!」


 カストルはジャンプして触ろうとする。


 届かない。


 もう一度跳ぶ。


 侍女が慌てる。


「王子様、危の――」


 言い終わる前に、カストルは近くの椅子を引き寄せた。


 上に乗る。


 盾に触る。


 満足そうに笑う。


 だがその拍子に椅子が揺れた。


 侍女が駆け寄る。


「危ないです!」


 カストルは振り向いた。


 赤い瞳が大きく開く。


 そして叫ぶ。


「触るな!」


 廊下に響く声だった。


 侍女は動きを止める。


 カストルは不機嫌そうに椅子から降りた。


「キャスできる!」


 それだけ言う。


 侍女は何も言わない。


 最初の頃は違った。


 叱った。


 止めた。


 だが今は誰も強く言わない。


 王妃の第一子。


 王位継承の最上位。


 それが城の空気を変えていた。


 カストルはすぐにまた歩き出す。


 今度は廊下の端にあった花瓶を見つけた。


 じっと見ている。


 触る。


 回す。


 侍女が緊張する。


 花瓶は高価なものだ。


 そのとき。


「キャス」


 小さな声。


 ポルックスだった。


 双子の弟。


 ポルックスは静かに近づく。


「それ落ちるよ」


 カストルは少しだけ考えた。


 そして花瓶から手を離した。


「ポル」


 満足そうに言う。


「キャス見つけた」


 ポルックスは笑う。


「うん」


 それだけだった。


 ヴィルギニスは少し後ろに立っていた。


 カストルが振り向く。


「ヴィル」


 短く呼ぶ。


 ヴィルギニスは顔を上げる。


「……はい」


 カストルは言う。


「ヴィル持て」


 指差す。


 床に落ちている石。


 龍の石。


 ヴィルギニスは拾う。


「……はい」


 カストルはそれを見て満足する。


「いい」


 ポルックスがヴィルギニスを見る。


 少しだけ困った顔をする。


 だが何も言わない。


 カストルがまた歩き出すからだ。


「次!」


 カストルは次の扉へ向かう。


 また新しいものを探す。


 また触る。


 また走る。


 興味は次から次へ移る。


 一つのことを長く続けることはない。


 廊下の侍女たちは遠くから見ている。


 小声で話す。


「第二王子様は…」


「元気ですね」


 その言葉の裏には、別の意味もある。


 だが誰もはっきり言わない。


 ポルックスは兄の後ろを歩く。


 ヴィルギニスもその後ろ。


 ヴィルギニスは何も言わない。


 名前も言わない。


 ただ


「はい」


「うん」


 それだけ。


 青い髪の少年は、静かに歩く。


 カストルの後ろを。


 廊下の奥から、それを見ている人がいた。


 王太后だった。


 長い杖をつきながら、立っている。


 四人の子供を見ている。


 カストル。


 走る。


 叫ぶ。


 笑う。


 ポルックス。


 その後ろを歩く。


 ヴィルギニス。


 黙って従う。


 王太后はゆっくり目を細めた。


 そして小さく呟いた。


「……子供は正直だ」


 廊下にはまだ子供の足音が響いていた。


 走る音。


 笑う声。


 その中に、青い髪の少年の声だけはほとんど混ざっていなかった。


【3】


 夏の庭には、昼の光がゆっくりと広がっていた。


 芝の上では、さっきまで三人で作っていた小さな石の城が、また少し形を変えて立っている。枝の塔は少し曲がり、葉っぱの旗はもうしおれていたが、それでもカストルは満足そうだった。


「キャスの城」


 もう一度言う。


 自分で言って、自分でうなずく。


 ポルックスが芝の上に座りながら言う。


「兵いる」


 カストルはすぐに振り向いた。


「ヴィル!」


 青い髪の少年が顔を上げる。


「はい」


「兵!」


 カストルは城の横を指差す。


 ヴィルギニスは歩く。


 そこに立つ。


 まっすぐ。


 動かない。


 ポルックスは笑う。


「ヴィル兵」


 ヴィルギニスは何も言わない。


 そのときだった。


 庭の向こうから足音が聞こえた。


 石畳を走る、小さな足音。


「アル!」


 声がした。


 振り向くと、アルケスが走ってきた。


 緑の髪が揺れている。


 手には木の剣が握られていた。


「みて!」


 アルケスが言う。


「剣!」


 カストルの目が大きくなる。


「それ!」


 アルケスは胸を張る。


「兵がくれた」


 北の砦の視察から戻ったばかりだった。


 兵士たちが、練習用の木剣をくれたのだ。


 カストルは近づく。


 じっと見る。


「キャスの!」


 手を伸ばす。


 アルケスは少し笑う。


「いっしょ」


 カストルはすぐに納得した。


「キャス王!」


 枝を持ち上げる。


「アル騎士!」


 アルケスが笑う。


「いいよ」


 ポルックスも立ち上がる。


「ポルも騎士」


 カストルは考える。


「ポル兵!」


 ポルックスは笑う。


「うん」


 そしてカストルがヴィルギニスを見る。


「ヴィル兵!」


 ヴィルギニスはうなずく。


「はい」


 アルケスはその様子を見ていた。


 そしてヴィルギニスに言う。


「ヴィル騎士」


 カストルが振り向く。


「兵!」


 アルケスは首をかしげる。


「騎士」


 ヴィルギニスは少しだけ迷った。


 カストルを見る。


 アルケスを見る。


 そして小さく言う。


「……兵」


 それだけだった。


 カストルは満足そうにうなずく。


「いい!」


 そして枝を振り上げる。


「敵!」


 四人の遊びが始まった。


 芝の上で走る。


 木剣を振る。


 枝の旗が倒れる。


 ポルックスが笑う。


 アルケスが追う。


 ヴィルギニスは後ろからついていく。


 カストルは一番前を走っていた。


 夏の庭に、子供の声が広がっていく。


 その日、夕方になっても遊びは終わらなかった。


 夜。


 城の奥にある静かな部屋。


 レンティアの自室だった。


 窓は閉じられ、薄い灯りだけが部屋を照らしている。


 ベッドの上にレンティアが横になっていた。


 青い髪が枕の上に広がっている。


 顔色は少し青かった。


 医師が小さく息を吐く。


 アレスがその前に立っていた。


「……どうだ」


 声は低かった。


 医師は慎重に言葉を選ぶ。


「疲れが続いております」


「ただの疲れか」


 医師はすぐには答えなかった。


 そして静かに言う。


「心臓が……少し弱っております」


 アレスの表情が動く。


 レンティアは目を開けた。


「そんな顔をしないで」


 少し笑う。


「ただの疲れです」


 アレスはベッドの横に座る。


 その手を取る。


「昼、ヴィルが転んだ」


 レンティアが言う。


「見てしまいました」


「すぐ立った」


 アレスが言う。


 レンティアはうなずく。


「ええ」


 少し黙る。


「……あの子は」


 言葉がゆっくり出る。


「優しい子です」


 アレスは何も言わない。


 レンティアは天井を見る。


「キャスは元気ですね」


「そうだな」


「ポルも」


「そうだ」


 少し沈黙が続く。


 そしてレンティアが小さく言う。


「ヴィルは」


 声が弱くなる。


「大丈夫でしょうか」


 アレスはその手を強く握る。


「大丈夫だ」


 迷いのない声だった。


「私がいる」


 レンティアは微笑む。


 青い髪が揺れる。


「……そうですね」


 灯りが揺れた。


 部屋の外では、夜の城が静かに眠っていた。


【4】


 その年の雨は、まるで空そのものが泣いているようだった。


 夏の終わりに差しかかってから、王都には何日も重たい雲が垂れこめていた。朝になっても空は明るくならず、昼になっても陽は差さない。ただ鈍い灰色が城の上に広がり、風が湿った匂いを運び、やがて堪えきれなくなったように雨が落ちてくる。


 その日も、朝からひどい雨だった。


 王城の屋根を叩き、石畳を打ち、庭の木々を濡らし尽くす。水は石の溝をあふれ、噴水の水音さえ雨にかき消されていた。


 六歳になって数か月が過ぎた王子たちは、その雨の向こう側を見ていた。


 城の奥の広間は、灯りをいくつもともしているのに、どこか薄暗かった。厚い布で覆われた壁は音を吸い込み、遠くで鳴る雷の余韻だけが、時おり低く床を震わせる。


 その中央に、白い花で囲まれた棺が置かれていた。


 第二妃レンティア。


 青い髪の王女であり、亡命して王城へ入り、王に愛され、そしてヴィルギニスの母となった人。


 彼女の亡骸は、淡い白の衣に包まれていた。顔には薄い布がかけられている。だが、その下にあるであろう穏やかな輪郭を、王城の者たちは皆思い描くことができた。


 可憐で、優しく、笑うと場の空気をやわらかく変えてしまうような人だった。


 そして今、その人はいない。


 広間の前方には貴族たちが並んでいた。


 黒い衣。沈んだ顔。抑えた声音。表向きには皆、静かに頭を垂れている。


 だがその沈黙の裏に、別の色が混じっていることを、誰もが知っていた。


 第二妃の葬儀を、国葬にする。


 その決定が下された時、貴族たちは反対した。


 当然だった。


 レンティアは第二妃ではあったが、もともとはラルグス前王朝の生き残りの王女だ。亡命してきた身であり、この国の正妃ではない。しかも、異国の血を引く妃を、王国の名において正式に弔うなど前例がない。


 貴族たちは口々に言った。


 慎重にすべきだ。

 格式を越えている。

 ラルグスとの関係を考えるべきだ。

 せめて王家の私的な葬儀に留めるべきだ、と。


 だが、アレスは退かなかった。


 王権をもって、強行した。


 第二妃レンティアの葬儀は、国葬とする。


 その一言で、すべてを押し切った。


 反対した者たちはなお言葉を尽くした。けれど最後には皆、諦めた。


 それは王の気まぐれではなかったからだ。


 王が、王である前に一人の男として、その女を深く愛していたことを、誰もが知っていたからだ。


 もう、誰も止められなかった。


 アレスは棺の前に立っていた。


 黒い喪服の上に、王の外套をまとっている。金の髪は灯りを受けても鈍く沈み、赤い瞳にはほとんど光がなかった。


 その横顔は美しいままだった。だが、その美しさは今、ひどく痛ましかった。


 泣いてはいない。

 取り乱してもいない。

 声も荒げない。


 ただ、あまりにも静かだった。


 その静けさが、かえって広間の空気を重くしている。


 王妃は少し離れた位置に立っていた。


 薄桃色の髪はきちんと結われ、黒の衣装は一分の隙もない。正妃としての姿を崩さず、六歳になった双子を左右に置いていた。


 カストルは棺を見ていた。


 小さな顔は強ばり、赤い瞳が揺れている。普段ならじっとしていられない子だった。だが今日は、妙に静かだった。


 ポルックスは兄の手を握っている。

 兄がどこかへ飛び出してしまわないようにする癖が、もうすっかり身についていた。


 その少し離れた場所に、ヴィルギニスが立っていた。


 青い髪の少年。

 黒い衣に包まれた小さな背中は、誰よりも細く見える。


 その目は、ずっと棺に向けられていた。


 最初は泣かなかった。


 泣いてしまえば、本当に母がいなくなってしまう気がしたのかもしれない。ただ、じっと見ていた。まばたきも少なく、呼吸さえ忘れているように。


 けれど、神官が祈りの言葉を唱え始め、棺のまわりへ花が増やされ、白い布がさらに幾重にも重ねられた時、ヴィルギニスの小さな唇が震えた。


「……母さま」


 誰にも届かないほど小さな声だった。


 それでも、その一言は、近くにいた者の胸を刺した。


 ヴィルギニスは一歩前へ出ようとした。

 だが侍女がそっと肩へ手を添える。


 少年は振り払わない。


 ただ、目だけが棺から離れない。


「母さま……」


 もう一度、今度は少しだけはっきり。


 その声で、ついに堰が切れたように涙が落ちた。


 頬を伝う。

 ぽたぽたと衣へ落ちる。


 ヴィルギニスは泣く時も、声を大きく上げることができなかった。ぐっと喉を詰まらせ、必死に音を押し殺しながら泣く。その泣き方が、よけいに周囲の胸を締めつける。


 アレスが振り向いた。


 王の目が、息子を見る。


 その瞬間、初めて彼の顔に感情が動いた。


 歩み寄る。

 ひざを折る。

 そしてヴィルギニスの肩を抱いた。


「ヴィル」


 低い声だった。


 ヴィルギニスは涙で濡れた顔を上げる。

 父の顔を見る。

 その顔もまた、いつもの王の顔ではなかった。


「僕……」


 ヴィルギニスの声は震えていた。


「僕、母さまに……」


 言葉が続かない。


 アレスは息子を抱き寄せる。


 強く。

 ひどく強く。


「分かっている」


 それだけを言う。


 それしか言えなかった。


 王妃はその光景を見ていた。


 胸の奥に、言いようのない痛みが走る。

 レンティアがいなくなったことへの哀しみ。

 ヴィルギニスの涙への哀れみ。

 そして、自分には到底入り込めない場所で結ばれていた父と子への、静かな距離。


 王妃は目を伏せた。


 その横で、カストルが小さく言った。


「……あめ、うるさい」


 ポルックスが兄を見た。


「泣いてるんだよ」


「だれが」


「空」


 カストルは何も言わなかった。


 ただ窓の外を見た。


 確かに雨はひどかった。


 空はずっと鳴いていた。

 雷が遠く低く響き、そのたびに窓硝子が震える。まるでこの国の空そのものが、青い髪の妃を失ったことを嘆いているようだった。


 そして王都の人々もまた、悲しんでいた。


 第二妃レンティアは、正妃ではなかった。

 この国に生まれた人でもなかった。

 それでも人々は彼女を愛していた。


 祭りで微笑む姿を見たこと。

 王の隣に立つと、場の空気がやわらいだこと。

 子を抱く姿があまりにも優しかったこと。


 皆、覚えていた。


 だから国葬の日、王城の外にも大勢の民が集まった。


 門の前。

 濡れた石畳の上。

 傘も差さず、ただ雨に打たれながら立つ者たち。


 花を抱えた女。

 帽子を取って頭を垂れる男。

 泣いている子供を胸に抱く母親。


 誰も大声は出さない。

 ただ、雨の中で静かに、王家の葬列を待っていた。


 やがて棺が運び出される。


 白い花に囲まれ、黒い布をかけられた棺が、ゆっくりと広間を出る。


 その時、貴族たちは一斉に頭を垂れた。


 反対していた者たちも。

 不満を抱いていた者たちも。

 皆、頭を下げた。


 もう、逆らう意味はなかった。


 これは王の命令である前に、王の祈りだったからだ。


 王は棺の後ろを歩いた。


 ヴィルギニスの小さな手を握って。


 そのさらに後ろに、王妃と双子が続く。


 カストルは珍しく黙っていた。

 ポルックスは兄の手を握っていた。


 雨はますます強くなった。


 棺が王城の門をくぐる頃には、石畳の上で跳ね返る水が白く煙って見えるほどだった。黒い衣は濡れ、髪も頬も濡れる。けれど誰も立ち止まらない。


 民はその葬列を見ると、静かに道を開けた。


 誰かが泣いた。

 誰かが祈った。

 誰かが「レンティア様」と小さく呼んだ。


 その声はすぐ雨に溶けた。


 ヴィルギニスは歩きながら、ずっと棺を見ていた。


 小さな手は父の手の中にある。

 けれど心は、もう届かないところへ行ってしまった母のもとへ必死に伸びていた。


「母さま」


 また、小さく呟く。


 アレスはその手を握る力を少しだけ強くした。


 それが答えだった。


 葬列は龍星院へ向かう。


 大雨の中を、まるで国そのものが喪に服しているように。


 そしてその日、王国の人々は忘れなかった。


 青い髪の妃の国葬の日、空がずっと泣いていたことを。

 王が、王であることを忘れたような顔で、ただ一人の女を見送っていたことを。

 そして、小さな青い髪の王子が、父の手を握って泣いていたことを。


 それは後に、長く語られる日の一つとなった。

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