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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十四章3

【1】


 朝はゆっくりと王城へ降りてきた。


 夜の灯がまだ廊下の奥で揺れているのに、窓の外ではすでに春の光が広がり始めている。庭の草には露が残り、薄い霧が石の道の上を静かに漂っていた。鳥の声はまだ遠い。王城は、まるで何か大きな出来事のあとに息を整えているかのように、ひどく静かだった。


 その静けさの中心に、王妃の寝室がある。


 厚い幕の向こうで灯がいくつも燃え、夜の名残のような橙の光が部屋の壁を照らしていた。湯の匂いと薬草の匂いが混じり、白い布がいくつも重ねられている。出産のあと特有の、重く、温かく、どこか現実味の薄い空気だった。


 王妃はまだ横たわっていた。


 薄桃色の髪は汗で湿り、肩のあたりまでほどけている。頬は白く、唇の色も薄い。長い夜の疲れがそのまま残っていた。それでも、瞼の下の眼差しには、まだかすかな光があった。


 身体はひどく重い。


 双子の出産は、ただでさえ女の命を削る。

 その上、昨夜の王妃はほとんど最後の力を振り絞って二人を産んだ。


 それでも、目を開いた時に最初に見たのは、侍女でも医師でもなく――


 小さな籠だった。


 布に包まれた赤子が二人、そこに並んでいる。


 王妃はしばらく、それを見つめていた。


 まだ頭が完全には働いていない。

 夜が終わったのかどうかさえ、少し曖昧だった。


 だが、胸の奥にゆっくりと理解が降りてくる。


 ――産んだのだ。


 自分は。


 二人の子を。


 侍女がそっと近づいた。


「王妃様……」


 王妃は目だけを動かした。


「……二人とも」


 声はかすれていた。


 侍女は頷く。


「ご無事でございます」


 その言葉に、王妃の胸がわずかに上下した。


 無事。


 その言葉は嘘ではない。

 だが完全な真実でもない。


 侍女はそっと小さな方の籠へ手を伸ばした。


「こちらが第一子様でございます」


 布が少しめくられる。


 王妃は、ゆっくりと顔を向けた。


 小さかった。


 あまりにも小さい。


 夜のうちにも見たはずなのに、朝の光の中で見ると、さらに小さく見える。まるで早く生まれすぎた春の花の芽のように、細く、頼りなく、まだこの世界に触れる準備ができていないかのようだった。


 王妃は、しばらく言葉を失った。


 医師たちは昨夜、遠回しな言い方をしていた。

「小さい」と。

「弱いかもしれない」と。


 だが実際にその姿を見ると、その言葉がどれほど慎重な言い方だったかが分かる。


 それでも、赤子は息をしていた。


 小さく、かすかに。


 胸がゆっくり上下している。


 王妃は、手を伸ばした。


 震える指先が、布の端に触れる。


「……この子が」


 声は、ほとんど囁きだった。


 侍女が答える。


「はい。第一子様でございます」


 第一子。


 王妃の長子。


 王位継承権一位。


 その言葉が、王妃の胸の奥で静かに沈む。


 王妃はその小さな顔を見つめた。


 あまりにも小さく、あまりにも儚い。

 それでも、この子は自分の腹から生まれた。


 それだけは確かな事実だった。


 王妃の指先が、そっと赤子の頬へ触れる。


 温かい。


 その温もりが、胸の奥へゆっくりと広がっていく。


「……生きている」


 王妃は呟いた。


 それは誰へ向けた言葉でもない。


 ただ、事実を確かめるように。


 侍女は黙って頷いた。


 そして、もう一つの籠へ視線を移す。


「こちらが第二子様です」


 布がめくられる。


 そこには、先ほどとは違う姿があった。


 この子は、普通の大きさだった。


 頬はしっかり丸く、手足の動きも強い。

 眠ってはいるが、時おり口を動かし、まるで夢の中で泣く準備でもしているかのようだった。


 王妃はその姿を見て、ほんの少し息を吐いた。


 自分でも気づかないほど小さな安堵だった。


「……よく泣きましたか」


 侍女が微笑む。


「はい。とても元気に」


 王妃は目を閉じた。


 二人の子。


 一人はあまりにも小さく、もう一人はしっかりとした命の重みを持っている。


 その対比は、あまりにもはっきりしていた。


「名前は」


 王妃が言う。


 侍女はまだ答えなかった。


 王が決めることだからだ。


 王妃はそれ以上訊かなかった。


 代わりに、もう一度小さな方の赤子へ視線を戻す。


 この子が第一子。


 この子が――


 王の長子。


 その意味を、王妃は誰より理解していた。


 胸の奥に、言葉にできない感情が静かに広がる。


 悲しみではない。

 不安でもない。


 それらをすべて含んだ、もっと深い何か。


 しばらくして、王妃はふいに言った。


「陛下は」


 侍女が答える。


「夜のうちに……」


 そこで一瞬言葉を止める。


 王妃は視線を上げた。


 侍女は正直に言った。


「第二妃様のご出産の折、あちらへ」


 王妃の瞳がわずかに揺れた。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに、元の静かな顔に戻る。


「……そう」


 それだけ言った。


 責める声ではない。


 ただ、理解した声だった。


 王妃は知っている。


 王は一人ではない。

 王家の子も一人ではない。


 この城では、どの命も同時に生まれ、同時に秤へ乗せられる。


 だから王がどこへ行くかも、また秤の一部なのだ。


 王妃は再び籠を見つめた。


 小さすぎる赤子。


 そして、もう一人の赤子。


「二人とも」


 王妃は静かに言う。


「生きます」


 それは祈りではなかった。


 決意だった。


 侍女は何も言わない。


 ただ、頭を深く下げた。


 窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっている。


 庭の露が輝き、王城の塔の影がゆっくり動き始める。

 新しい一日が始まる。


 その朝、王城の奥では四人の赤子が眠っていた。


 十日前に生まれたアルケス。

 昨夜生まれたヴィルギニス。

 そして、カストルとポルックス。


 まだ何も知らない四つの命。


 けれどその小さな胸の上には、すでに王家の運命が静かに降り始めていた。


【2】


 春の光は柔らかかった。


 王城の東門から龍星院へ続く石の道には、朝露を含んだ風が流れている。遠くの鐘楼では、まだ一度しか鐘は鳴っていない。だがその音は王都の空へ静かに広がり、人々に今日が特別な日であることを知らせていた。


 四人の王子が、初めて民の前に姿を見せる日だった。


 龍星院は王都の中央、丘の上に建つ古い神殿である。白い石で組まれた階段が長く続き、その先には龍の紋を刻んだ巨大な扉がある。神殿の屋根は青銅で覆われ、朝の光を受けて淡く輝いていた。


 王家の子が生まれたとき、必ずここで洗礼を受ける。


 それは王国の古い慣わしだった。


 龍の加護の下で生まれた子であることを、神と民の前で示す儀式。


 だからこそ、今日の龍星院の広場にはすでに多くの民が集まっていた。


 市場の商人、職人、農民、旅人。

 貧民街からも多くの者が来ている。


 王都では最近、食糧不足の噂が広がっていた。空は雨が多く、麦は十分に育たない。それでも王子の誕生という知らせは、人々の心を少しだけ明るくしていた。


「四人も生まれたんだってな」


「龍の加護が戻るかもしれねえ」


「王妃様が双子を産んだらしいぞ」


 そんな声が広場のあちこちで聞こえる。


 龍星院の階段の上には、すでに神官たちが並んでいた。長い白衣の胸には龍の紋章が刺繍されている。中央には龍星院の大司祭が立っていた。白髪の老人で、その声は鐘のように澄んでいる。


 やがて、王城の方角から楽の音が聞こえ始めた。


 人々が一斉に振り向く。


 王家の行列がやってくる。


 先頭を歩くのは近衛騎士たちだ。鎧の銀が朝日に反射し、槍の先端が一列に並ぶ。その後ろに王の紋章旗が揺れていた。


 青い旗に金の龍。


 王国の象徴である。


 そしてその後ろに、四つの揺り籠を運ぶ侍女たちが続いていた。


 広場がざわめく。


「赤子だ」


「王子様だ」


「見えるか?」


 人々は背伸びをする。


 侍女たちはゆっくりと階段を上っていく。揺り籠は白い布で包まれ、その上には薄い金糸の布が掛けられていた。


 最初の籠。


 そこには、アルケスが眠っていた。


 まだ十日ほどの赤子だが、体つきはしっかりしている。産毛は母と同じ緑を帯び、柔らかな光の中で淡く輝いていた。


 民の間から、感嘆の声が上がる。


「王弟様の子か」


「きれいな色だ」


「龍の色みてえだな」


 次の籠が運ばれる。


 その中には、カストル。


 小さかった。


 布の中で眠る姿は、ほとんど人形のように見える。顔も体も、他の赤子よりずっと小さい。


 広場の後ろの方にいた貧民の男が言った。


「ちっせえな」


 隣の女が笑う。


「赤ん坊なんてそんなもんさ」


「まだ生まれたばかりなんだろ」


 貧民たちは特に深く考えない。


 赤子は小さいものだ。

 それだけの認識だった。


 だが、階段の上の貴族たちは違った。


 将軍家の老臣が、わずかに眉を寄せる。


 宰相が視線を落とす。


 医師の報告を思い出していた。


 ――小さすぎる。


 ――成長に問題が出る可能性。


 その言葉が、彼らの胸に静かに蘇る。


 言葉には出さない。


 だが理解していた。


 この子は――


 病を持って生まれた。


 三つ目の籠が運ばれる。


 ヴィルギニス。


 深い青の産毛が、朝の光を受けて柔らかく光っている。その色は母の髪色を受け継いでいた。異国の海のような色。


 人々がざわめく。


「青い髪だ」


「珍しいな」


「第二妃様の子だろ」


 亡命王女の噂は王都でも広く知られていた。人々は好奇心と敬意の混じった目で、その赤子を見つめる。


 そして最後の籠。


 ポルックス。


 この子はよく動いていた。布の中で手足を小さく動かし、時折かすかな声を出す。


「元気だ」


 誰かが笑う。


「よく泣きそうだ」


 四つの籠は、神殿の前に並べられた。


 大司祭が前に出る。


 広場のざわめきが静まる。


 老人はゆっくりと両手を上げた。


「龍の御名において」


 その声は広場全体に響いた。


「今日、この四人の子を祝福する」


 神官たちが祈りの言葉を唱え始める。


 低く、重い声が重なり、龍星院の石壁に反響する。


 大司祭は一人ずつ赤子の額に水を落とした。


「アルケス」


 静かな水滴が額に触れる。


「カストル」


 小さな額。


 水はすぐに布へ染み込んだ。


「ヴィルギニス」


 青い産毛の上で水が光る。


「ポルックス」


 赤子が小さく声を出した。


 広場の民は静かにその様子を見守っていた。


 そして、儀式が終わったとき。


 鐘が鳴った。


 龍星院の大鐘。


 重く、長い音。


 その音が王都の空へ広がる。


 民の間から歓声が上がった。


「王子様だ!」


「龍の子だ!」


「王家に四人も!」


 誰かが帽子を投げ、誰かが祈りの印を切る。


 広場の空気が明るくなる。


 だがその喧騒の中で、貴族たちの視線だけが静かだった。


 彼らは見ていた。


 四つの揺り籠。


 その中で、ひときわ小さな赤子を。


 カストル。


 第一王子アルケスのあとに生まれた王妃の第一子。


 血統は最も高い。


 だが――


 その体はあまりにも小さい。


 老臣の一人が小さく呟いた。


「……秤だ」


 その声は誰にも聞こえなかった。


 だが、確かに言葉は落ちた。


 王家の子は生まれた瞬間から秤に乗る。


 そして今日。


 四つの星が、初めて同じ空に現れたのだった。


【3】


 二月の出産から、半年が過ぎていた。


 王都の空は、夏の光に満ちている。

 雲は高く、青い空の奥へと流れ、太陽は石畳を白く照らしていた。


 王城の外では、朝から人々の声が絶えない。

 市場はいつも以上に賑わい、屋台には果実や焼き菓子が並び、子供たちは色のついた旗を振りながら走り回っている。


 今日は、王国の例大祭――

 **龍祭りゅうさい**の日だった。


 この国では、龍の加護を讃える祭りが年に一度開かれる。

 龍星院の鐘が三度鳴ると、王家が姿を現し、民とともに祈りを捧げる。


 王国の安寧と、作物の実りを願う日。


 今年の祭りは、例年よりも人が多かった。


 理由は誰もが知っている。


 四人の王子が生まれたからだ。


 しかも同じ年に。


「王家に星が四つも」


 そんな言葉が王都のあちこちで囁かれていた。


 龍星院へ続く石段の下には、すでに多くの民が集まっている。

 職人、農夫、商人、貧民街の子供たち、旅人。

 皆、王家の姿を見るために集まっていた。


 やがて、鐘が鳴る。


 低く、長い音。


 龍星院の扉が開いた。


 神官たちが左右に並び、その奥から王家の一行が姿を現す。


 最初に歩いてきたのは、王アレスだった。


 金の髪は夏の光を受けて輝き、白い外套の裾が風に揺れる。

 その姿は相変わらず美しく、民の間から思わずため息が漏れた。


「王様だ……」


「やっぱり綺麗な方だ」


 続いて現れたのは、王妃。


 薄桃色の髪は丁寧に結われ、白と金の衣装が夏の光に映えていた。

 半年前に双子を産んだとは思えないほど姿勢はまっすぐで、顔色も穏やかである。


 将軍家の娘として育った気品は、どんな場でも揺るがない。


 民の間から安堵の声が上がる。


「王妃様もお元気そうだ」


「よかったなあ」


 王妃の腕の中には、一人の赤子が抱かれていた。


 ポルックス。


 双子の弟。


 半年が過ぎ、赤子はしっかりとした顔つきになっている。

 頬は丸く、目はよく動き、時折きょろきょろと周囲を見回していた。


 その隣に、乳母に抱かれているもう一人の赤子。


 カストル。


 体はやはり小さい。

 半年経っても、弟ほどには大きくなっていなかった。


 民の多くは、それを深く気にしない。


「小柄なんだな」


「兄弟でも違うもんだ」


 そんな程度の認識だった。


 だが、貴族席に並ぶ者たちは違う。


 将軍家の老臣が静かに目を細める。


 宰相が腕を組む。


 言葉には出さないが、皆理解していた。


 ――病。


 王妃の第一子には、何らかの障りがある。


 だが、それを口にする者はいない。


 その後ろに現れたのは、第二妃レンティアだった。


 深い青の髪は光を受けて輝き、軽やかな衣装が風に揺れる。

 彼女の姿は、相変わらず可憐だった。


 半年の時が経っても、その華やかさは変わらない。

 むしろ母となったことで、柔らかな光が増しているようにも見える。


 腕の中にはヴィルギニス。


 青い産毛はすでに濃くなり、母の髪と同じ色を帯びていた。


 民の間から声が上がる。


「青い髪の王子様だ」


「第二妃様の子か」


「異国の血だって話だ」


 レンティアは微笑みながら、ゆっくりと歩く。


 その姿は優雅で、どこか軽やかだった。


 最後に現れたのは、王弟レンテと王弟妃。


 王弟妃の腕には、アルケスが抱かれている。


 六か月の赤子はすでにしっかりしていた。

 産毛の緑色は柔らかく光り、目は父に似て落ち着いた色をしている。


 王弟妃は誇らしげだった。


 民の間から祝福の声が上がる。


「王弟様の子だ!」


「元気そうだな!」


 王城の塔から楽の音が響き始める。


 龍祭の祈りが始まる合図だった。


 神官たちが祈りの言葉を唱え、王家の者たちは龍の像の前に並ぶ。


 夏の風が広場を通り抜ける。


 その風の中で、民の視線は四人の赤子へ注がれていた。


 王家の未来。


 四つの星。


 だが、その祝福の空気の裏で、別の動きもあった。


 龍星院の外れ。


 人混みの奥。


 そこに、一人の男が立っていた。


 衣装は商人のもの。

 だが、その目は周囲を鋭く観察している。


 男はゆっくりと視線を動かした。


 第二妃。


 青い髪の女。


 そしてその腕の中の赤子。


 ヴィルギニス。


 男は小さく呟く。


「……見つけた」


 それは、ラルグスの言葉だった。


 ラルグス。


 隣国。


 かつてレンティアの一族を滅ぼし、王位を奪った新王朝。


 その使者が、今、王都にいた。


 男は人混みの中をゆっくり動く。


 だが、その動きは途中で止まった。


 近衛騎士の影が近づいたからだ。


 王家の警護は厳しい。


 男は何もせず、ただ視線を落とす。


 だがその目は、最後までヴィルギニスを見ていた。


 青い髪の赤子。


 亡国の血。


 ラルグスが長く探している存在。


 そして、その背後には――


 王家。


 夏の空の下で、龍祭は続いていた。


 民は歓声を上げ、祈りの歌が広場に響く。


 だが、その明るい空のどこかで、

 まだ誰も知らない影が、静かに動き始めていた。


【4】


 王都で龍祭が行われた同じ頃、国境の向こうでもまた、別の静かな動きがあった。


 ラルグス王国。


 王国の西の山脈を越えた先にある隣国である。両国のあいだには長い交易路があり、隊商や使者が絶えず行き来している。かつては血で争った時代もあったが、今は表向き平穏な関係が続いていた。


 だがその平穏は、決して完全な信頼ではない。


 ラルグス王城は黒い石で築かれている。高い塔と重い城門は、王国の白い城とはまるで違う。厳しく、堅固で、どこか冷たい印象を与える城だった。


 その奥の一室。


 重い机の上に、一通の報告書が置かれていた。


 窓辺に立つ男が、その紙を読み終え、静かに息を吐いた。


 ラルグスの宰相、グラドールである。


 彼は老いていたが、目の光は鋭かった。白髪の混じった黒髪を後ろで束ね、細い指で報告書を机に置く。


 その内容は、すでに驚くものではない。


 むしろ、確認だった。


「……やはり生きていたか」


 低く呟く。


 部屋にはもう一人の男がいた。


 密偵だ。


 長旅の埃をまとった外套を脱ぎ、膝をついている。王都から帰ってきたばかりだった。


「間違いないのか」


 宰相が尋ねる。


 密偵は迷いなく答えた。


「はい」


「第二妃レンティア」


 その名が静かに落ちる。


「我らが滅ぼした旧王家の王女でございます」


 宰相は目を細めた。


 それはすでに知っている事実だった。


 数年前、ラルグスでは内戦が起きた。古い王家は滅び、新しい王朝が王座を奪った。その混乱の中で、王女の一人が姿を消した。


 レンティア。


 その名は当時から記録に残っている。


 だが彼女は死んだと思われていた。


 あるいは、どこかで身を潜めていると。


 しかし――


 彼女は隣国の王城にいた。


 しかも王の第二妃として。


 宰相はゆっくりと椅子に座る。


「そして」


 視線を上げた。


「子を産んだ」


 密偵は頷く。


「男児でございます」


「青い髪」


「そして赤い瞳」


 その言葉で、宰相の指がわずかに止まった。


 青い髪。


 それは旧王家の特徴だった。


 王女レンティアもまた、その色を持っていた。


 宰相は静かに言う。


「名は」


 密偵は答える。


「ヴィルギニス」


 しばし沈黙が落ちる。


 遠くで城の鐘が鳴った。


 宰相はその音を聞きながら、ゆっくりと考える。


 亡命王女。


 隣国の王の子。


 そして王子。


 これは単なる血の話ではない。


 政治の話だ。


 もしこの子が成長すれば、どうなる。


 旧王家の血。


 隣国の王家の血。


 その二つを持つ存在。


 宰相は小さく呟いた。


「厄介だな」


 密偵は顔を上げない。


 宰相は続ける。


「だが、まだ赤子だ」


「今すぐ何かをする必要はない」


 そして視線を窓の外へ向けた。


 遠くの山が見える。


 その向こうに、隣国の王都がある。


「問題は」


 宰相の声は低かった。


「王国がどう育てるかだ」


 密偵が言う。


「王城の警護は厳重です」


「龍祭の日も近衛が何重にも」


 宰相は軽く手を振る。


「今は触れるな」


 そして報告書を折りたたむ。


「ただ」


 その声は静かだった。


「見ておけ」


「青い髪の王子を」


 そしてもう一つ、別の報告書に目を落とした。


 そこには別の名前が書かれている。


 アルケス。


 カストル。


 ポルックス。


 王妃の子。


 王弟の子。


 四人の王子。


 宰相は小さく笑った。


「隣国も賑やかだ」


 王家の子が四人。


 それは祝福であると同時に、争いの種でもある。


 宰相は窓の外を見た。


 遠くの空に、夏の雲が流れている。


「いずれ」


 彼は呟く。


「その星のどれかが、こちらを見上げる日が来る」


 そして、静かに命じた。


「監視を続けろ」


 密偵は深く頭を下げた。


 その命令は短かったが、意味は重い。


 青い髪の王子。


 ヴィルギニス。


 彼の存在は、すでに隣国の記録に刻まれた。


 まだ誰も知らない。


 この赤子が将来どこへ立つのかを。


 だが一つだけ確かなことがあった。


 王国の王城で生まれた四つの星。


 その一つは、すでに隣国の空にも映っていたのである。


【5】


 夏の光は、王城の石壁を柔らかく照らしていた。


 龍祭から幾日かが過ぎ、王都の喧騒はようやく日常へ戻りつつある。広場の旗はまだ残っているものの、人々の話題は少しずつ市場の値段や畑の雨へと戻っていた。


 それでも王城の奥では、まだ四つの小さな命が話題の中心だった。


 王太后の居室は、城の北塔の高い場所にある。

 窓は大きく、遠くの丘や城下町の屋根まで見渡せた。長い年月を生きた人だけが持つ静けさが、その部屋には漂っている。


 その日、王太后は侍女たちに命じて、四つの揺り籠を並べさせていた。


 窓辺に光が落ちる場所。


 柔らかな夏の風が入る場所。


「こちらへ」


 王太后の声は落ち着いていた。

 年老いた声だが、威厳がある。


 侍女たちは慎重に籠を運ぶ。


 一つ目の籠。


 そこにはアルケスがいた。


 半年が過ぎた赤子は、もうただの新生児ではない。腕も足もしっかりしており、布の中でよく動く。柔らかな産毛は緑色を帯びており、光に当たると春の葉のように淡く輝いていた。


 王太后は少し身を屈め、顔を近づける。


 赤子が目を開けた。


 瞳は赤茶。


 父レンテから受け継いだ色だった。


 王太后は小さく頷く。


「……王弟の子だ」


 その声には、どこか満足があった。


 次の籠。


 カストル。


 この子は静かだった。


 他の赤子ほど動かない。だが目はよく開き、周囲をじっと見ている。赤い瞳は、亡き王のものと同じ色をしていた。


 王太后は、その瞳を長く見つめた。


「アレスの目だ」


 誰にも聞こえないほど小さな声。


 だがその次の瞬間、王太后の視線は体へ落ちる。


 小さい。


 半年が経っても、やはり小さい。


 弟よりも。


 王太后の表情は変わらない。


 だが、その沈黙は少し長かった。


 三つ目の籠。


 ポルックス。


 こちらはまったく違う。


 よく動き、よく声を出す。侍女の指を掴もうとして手を伸ばし、布を蹴り上げる。


 王太后は思わず笑った。


「元気だ」


 瞳は兄と同じ赤。


 だがその光は、どこか軽やかだった。


 王太后は小さく呟く。


「双子でも違うものだな」


 そして最後の籠。


 ヴィルギニス。


 この子は静かに眠っていた。


 青い髪。


 それはすでに産毛の段階を過ぎ、はっきりとした色になり始めている。深い海のような青。


 王太后はその色を見て、わずかに目を細めた。


 亡命王女。


 あの少女が初めて城に来た日のことを、王太后は覚えている。


 泥に汚れた靴。

 それでも隠しきれない美しさ。

 青い髪。


 あの時の少女の血が、この赤子に流れている。


 ヴィルギニスが目を開けた。


 瞳は赤。


 王家の色。


 王太后はその赤と青をしばらく見ていた。


 そして静かに息を吐く。


「……不思議な子だ」


 侍女が言う。


「とても大人しい王子様です」


 王太后は微笑んだ。


「赤子は皆、大人しい」


 だが視線はまだ赤子に向けられている。


 青い髪。


 赤い瞳。


 この子は、王国の血と異国の血を同時に持つ。


 王太后はゆっくりと椅子へ戻った。


 四つの籠が並ぶ。


 アルケス。

 カストル。

 ポルックス。

 ヴィルギニス。


 四つの命。


 四つの未来。


 窓の外では夏の雲がゆっくり流れている。


 王太后はその光景を見ながら、静かに言った。


「星は多いほど空は美しい」


 侍女は意味を理解しない。


 ただ頷くだけだった。


 王太后は続ける。


「だが」


 声は低かった。


「王は一つでよい」


 その言葉は、部屋の中で静かに消える。


 四人の赤子は何も知らない。


 ただそれぞれの布の中で手足を動かし、時折声を出す。


 だが王太后の目には見えていた。


 この子たちが大きくなったとき、

 同じ空の下に立つ日が来ることを。


 その時、四つの星は互いを見上げる。


 そしてどれか一つが――


 王の星になる。


 王太后はゆっくりと目を閉じた。


 その未来を、すでに見ているかのように。


【6】


 夜の王城は、昼とはまるで別の場所のように静かだった。


 夏の夜風が長い石の廊下の窓から流れ込み、壁にかけられた燭台の炎をゆらゆらと揺らしている。昼間の龍祭で満ちていた歓声はもうどこにもなく、王城の奥にはただ、ゆっくりとした時間だけが残っていた。


 その奥の一室に、王アレスはいた。


 重い机の上には書簡がいくつも広がっている。だが王はそれを読むでもなく、ただ窓の外を見ていた。夜空には雲が流れ、月がその隙間を行き来している。


 王の指先が、ゆっくりと机を叩く。


 その時、扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、王弟レンテだった。


 金の髪は兄と同じ色だが、表情はどこか柔らかい。鎧ではなく軽い外衣だけを羽織っている。


「まだ起きているのか」


 レンテが言った。


 アレスは振り向かない。


「眠れる夜ではない」


 短く答える。


 レンテは笑った。


「四人も子が生まれた夜のあとだ。眠れない父親は兄上だけではない」


 その言葉に、アレスはようやく振り向いた。


「アルケスはどうだ」


「よく眠る」


 レンテは椅子に腰掛ける。


「泣き声も大きい」


 少しだけ誇らしげだった。


 アレスは小さく頷く。


「強い子だ」


「まだ赤子だ」


 レンテは肩をすくめた。


「だが目はしっかりしている。赤茶の瞳でじっと人を見る」


 それは、レンテ自身の瞳の色だった。


 アレスは一瞬だけ目を細める。


「お前の子だな」


 沈黙が落ちる。


 レンテが机の上の書簡をちらりと見た。


「四人」


 ぽつりと言う。


「王城は一晩で賑やかになった」


 アレスは窓の外を見たままだった。


「……そうだな」


 そして低く言う。


「アルケス」


「カストル」


「ポルックス」


「ヴィルギニス」


 名前を一つずつ口にする。


 それはまるで、星の名前を数えるようだった。


 レンテが静かに言う。


「兄上」


 アレスは視線を戻した。


 レンテの表情は、先ほどの軽さとは少し違っていた。


「もう考えているのか」


 王は何も言わない。


 レンテは続けた。


「王位のことだ」


 その言葉は、部屋の空気をわずかに重くした。


 王妃の子。


 第二妃の子。


 王弟の子。


 四人の王子。


 レンテは椅子の背にもたれた。


「まだ赤子だ」


 自分で言いながらも、その声は少し低かった。


「だが城はもう考えている」


 アレスは苦笑した。


「城だけではない」


「王都もだ」


 それは事実だった。


 民は祝福している。


 だが貴族たちは違う。


 誰が王になるか。


 すでに秤に乗せ始めている。


 レンテが言う。


「カストル」


 その名前が落ちた。


 王妃の第一子。


 王位継承権の最上位。


 アレスの表情がわずかに曇る。


 レンテはゆっくり続けた。


「小さいな」


 アレスは否定しない。


「医師は何と言っている」


「生きる」


 王は短く言う。


「それだけだ」


 レンテは目を閉じた。


 それで十分だった。


 意味は分かる。


 アレスが静かに言った。


「だが」


「目は強い」


 レンテが顔を上げる。


「俺を見ていた」


 王は言う。


「まるで怒っているようだった」


 その言葉に、レンテは少し笑った。


「兄上の子だ」


「俺の子でもある」


 アレスは言った。


 その声には、父としての響きがあった。


 そして少し間を置いて続ける。


「ポルックスは強い」


「ヴィルギニスは静かだ」


 レンテが言う。


「青い髪の王子か」


 アレスは頷いた。


「目は赤い」


「王家の目だ」


 レンテは窓の外を見る。


 夜風が入ってくる。


 遠くで城の見張りが交代する音がした。


 レンテはゆっくり言う。


「兄上」


 アレスは答えない。


「四人だ」


「王子が」


 その言葉は軽くない。


 アレスはようやく椅子に座った。


 そして両手で額を押さえる。


「……分かっている」


 声は低かった。


 レンテはそれ以上何も言わない。


 しばらくして、王は小さく言った。


「お前はどう思う」


 レンテは笑う。


「俺か」


 そして少し考えてから言った。


「分からない」


 正直な答えだった。


「まだ赤子だ」


「だが」


 レンテは窓の外の空を見た。


 夏の星がいくつか輝いている。


「星は四つだ」


 その言葉を聞いて、アレスも空を見上げた。


 四つの星。


 どれが一番強く光るのか。


 それはまだ誰にも分からない。


 レンテは立ち上がった。


「アルケスが起きる」


 笑いながら言う。


「夜泣きは強い」


 アレスは小さく笑った。


「父だな」


 レンテは扉へ向かう。


 その前で、少しだけ振り返った。


「兄上」


 アレスが顔を上げる。


 レンテは静かに言った。


「四人だ」


 同じ言葉をもう一度言う。


「王城は静かではいられない」


 そして扉を開けた。


 廊下の灯りが差し込む。


 レンテは出ていった。


 扉が閉まる。


 アレスは一人になった。


 王はゆっくりと窓の外を見た。


 夜空には星がある。


 四つではない。


 無数に。


 だがその中で、王の星は一つだけだ。


 アレスは静かに呟いた。


「……誰だ」


 その答えはまだ、どこにもなかった。


【7】


龍祭からしばらくして、王城はようやく本来の静けさを取り戻し始めていた。


夏の空気は重く、昼になると石壁がゆっくりと熱を抱え込む。庭では噴水の水が細い弧を描き、遠くでは近衛兵の訓練の掛け声が聞こえていた。蝉の声はまだ少ないが、草の匂いと日差しの強さが、季節の移ろいを確かに伝えている。


王城の奥では、四人の赤子がそれぞれの場所で眠り、泣き、笑い始めていた。


アルケスは王弟の居室で育てられていた。


王弟妃の部屋は南の棟にあり、窓からは庭の一部が見える。午後の光が床へ差し込み、白い布が風に揺れていた。


乳母がアルケスを抱き上げる。


赤子は目を開けた。


瞳は赤茶。


父レンテと同じ色だった。


アルケスは泣くことが少ない子だった。目を開けると、まず周囲をじっと見る。その視線はまだ幼いのに、どこか落ち着きがある。


王弟妃が笑った。


「また見ているわ」


レンテは椅子に腰掛けたまま、息を吐く。


「赤子は皆そうだ」


だが言いながらも、息子の顔を覗き込む。


アルケスは父の顔を見て、わずかに手を動かした。


その指はまだ小さいが、力は確かにあった。


「握る」


乳母が言う。


レンテは指を差し出した。


赤子の手がそれを掴む。


小さいが、離さない。


レンテは思わず笑った。


「強いな」


王弟妃が穏やかな目で見ている。


「あなたに似ました」


レンテは首を振る。


「まだ赤子だ」


だが声には満足が混じっていた。


同じ頃、王妃の居室でも赤子たちの声が響いていた。


双子の部屋は広い。将軍家の娘である王妃の部屋は装飾が控えめで、整然としている。白い布と薄桃の織物が静かに並び、無駄な飾りはほとんどない。


そこに二つの揺り籠が置かれていた。


ポルックスは元気だった。


布の中で足を動かし、時折大きな声を出す。乳母の指を掴もうとし、何度も腕を伸ばす。


侍女が笑う。


「元気な王子様です」


王妃はその様子を見て、小さく頷いた。


「健康なのは良いことです」


だがその視線は、もう一つの揺り籠へ向かう。


カストル。


兄。


第一子。


その赤子は静かだった。


目は開いているが、声を出すことは少ない。体も弟より小さく、布の中にすっぽり収まっている。


王妃はその顔を見つめた。


赤い瞳。


亡き王の瞳。


その色は確かに受け継がれている。


王妃は手を伸ばし、そっと頬に触れた。


赤子は瞬きをした。


小さな手がゆっくりと動く。


王妃の指に触れた。


その動きは弱くない。


王妃は静かに言う。


「この子は生きます」


侍女は答えない。


ただ深く頭を下げた。


王妃の声は決意に近かった。


「王の子です」


同じ頃、第二妃レンティアの居室では、別の静けさがあった。


部屋は明るい。


青い織物が多く、窓から入る光が柔らかい。


レンティアは椅子に座り、ヴィルギニスを抱いていた。


赤子はよく眠る子だった。


青い髪はすでにはっきりとした色を持ち始めている。母の髪と同じ深い青。


そして瞳は赤。


王家の色。


レンティアはその顔を見て微笑む。


「あなたは静かな子ね」


赤子は眠ったままだ。


乳母が言う。


「王子様は泣くことが少ないのです」


レンティアは頷いた。


「よく考えているのかもしれない」


冗談のように言う。


その声は軽やかだった。


窓の外では風が庭の木を揺らす。


夏の光が揺れる。


王城の三つの棟で、四人の赤子がそれぞれの時間を過ごしていた。


アルケス。

カストル。

ポルックス。

ヴィルギニス。


まだ何も知らない。


王位も、血も、国も。


ただ眠り、泣き、笑うだけの存在。


だが王城の大人たちは違った。


侍女たちは小声で噂し、貴族たちは遠回しに話題にする。


四人の王子。


同じ年に生まれた王家の子。


それは祝福であり、同時に――


未来の秤でもあった。


夏の夕暮れが近づく。


王城の塔に影が伸びる。


遠くで鐘が鳴った。


王城は静かだった。


だがその静けさの下で、四つの命は少しずつ成長していた。


やがて彼らは歩き、言葉を覚え、互いを知ることになる。

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