第十四章3
【1】
朝はゆっくりと王城へ降りてきた。
夜の灯がまだ廊下の奥で揺れているのに、窓の外ではすでに春の光が広がり始めている。庭の草には露が残り、薄い霧が石の道の上を静かに漂っていた。鳥の声はまだ遠い。王城は、まるで何か大きな出来事のあとに息を整えているかのように、ひどく静かだった。
その静けさの中心に、王妃の寝室がある。
厚い幕の向こうで灯がいくつも燃え、夜の名残のような橙の光が部屋の壁を照らしていた。湯の匂いと薬草の匂いが混じり、白い布がいくつも重ねられている。出産のあと特有の、重く、温かく、どこか現実味の薄い空気だった。
王妃はまだ横たわっていた。
薄桃色の髪は汗で湿り、肩のあたりまでほどけている。頬は白く、唇の色も薄い。長い夜の疲れがそのまま残っていた。それでも、瞼の下の眼差しには、まだかすかな光があった。
身体はひどく重い。
双子の出産は、ただでさえ女の命を削る。
その上、昨夜の王妃はほとんど最後の力を振り絞って二人を産んだ。
それでも、目を開いた時に最初に見たのは、侍女でも医師でもなく――
小さな籠だった。
布に包まれた赤子が二人、そこに並んでいる。
王妃はしばらく、それを見つめていた。
まだ頭が完全には働いていない。
夜が終わったのかどうかさえ、少し曖昧だった。
だが、胸の奥にゆっくりと理解が降りてくる。
――産んだのだ。
自分は。
二人の子を。
侍女がそっと近づいた。
「王妃様……」
王妃は目だけを動かした。
「……二人とも」
声はかすれていた。
侍女は頷く。
「ご無事でございます」
その言葉に、王妃の胸がわずかに上下した。
無事。
その言葉は嘘ではない。
だが完全な真実でもない。
侍女はそっと小さな方の籠へ手を伸ばした。
「こちらが第一子様でございます」
布が少しめくられる。
王妃は、ゆっくりと顔を向けた。
小さかった。
あまりにも小さい。
夜のうちにも見たはずなのに、朝の光の中で見ると、さらに小さく見える。まるで早く生まれすぎた春の花の芽のように、細く、頼りなく、まだこの世界に触れる準備ができていないかのようだった。
王妃は、しばらく言葉を失った。
医師たちは昨夜、遠回しな言い方をしていた。
「小さい」と。
「弱いかもしれない」と。
だが実際にその姿を見ると、その言葉がどれほど慎重な言い方だったかが分かる。
それでも、赤子は息をしていた。
小さく、かすかに。
胸がゆっくり上下している。
王妃は、手を伸ばした。
震える指先が、布の端に触れる。
「……この子が」
声は、ほとんど囁きだった。
侍女が答える。
「はい。第一子様でございます」
第一子。
王妃の長子。
王位継承権一位。
その言葉が、王妃の胸の奥で静かに沈む。
王妃はその小さな顔を見つめた。
あまりにも小さく、あまりにも儚い。
それでも、この子は自分の腹から生まれた。
それだけは確かな事実だった。
王妃の指先が、そっと赤子の頬へ触れる。
温かい。
その温もりが、胸の奥へゆっくりと広がっていく。
「……生きている」
王妃は呟いた。
それは誰へ向けた言葉でもない。
ただ、事実を確かめるように。
侍女は黙って頷いた。
そして、もう一つの籠へ視線を移す。
「こちらが第二子様です」
布がめくられる。
そこには、先ほどとは違う姿があった。
この子は、普通の大きさだった。
頬はしっかり丸く、手足の動きも強い。
眠ってはいるが、時おり口を動かし、まるで夢の中で泣く準備でもしているかのようだった。
王妃はその姿を見て、ほんの少し息を吐いた。
自分でも気づかないほど小さな安堵だった。
「……よく泣きましたか」
侍女が微笑む。
「はい。とても元気に」
王妃は目を閉じた。
二人の子。
一人はあまりにも小さく、もう一人はしっかりとした命の重みを持っている。
その対比は、あまりにもはっきりしていた。
「名前は」
王妃が言う。
侍女はまだ答えなかった。
王が決めることだからだ。
王妃はそれ以上訊かなかった。
代わりに、もう一度小さな方の赤子へ視線を戻す。
この子が第一子。
この子が――
王の長子。
その意味を、王妃は誰より理解していた。
胸の奥に、言葉にできない感情が静かに広がる。
悲しみではない。
不安でもない。
それらをすべて含んだ、もっと深い何か。
しばらくして、王妃はふいに言った。
「陛下は」
侍女が答える。
「夜のうちに……」
そこで一瞬言葉を止める。
王妃は視線を上げた。
侍女は正直に言った。
「第二妃様のご出産の折、あちらへ」
王妃の瞳がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
すぐに、元の静かな顔に戻る。
「……そう」
それだけ言った。
責める声ではない。
ただ、理解した声だった。
王妃は知っている。
王は一人ではない。
王家の子も一人ではない。
この城では、どの命も同時に生まれ、同時に秤へ乗せられる。
だから王がどこへ行くかも、また秤の一部なのだ。
王妃は再び籠を見つめた。
小さすぎる赤子。
そして、もう一人の赤子。
「二人とも」
王妃は静かに言う。
「生きます」
それは祈りではなかった。
決意だった。
侍女は何も言わない。
ただ、頭を深く下げた。
窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっている。
庭の露が輝き、王城の塔の影がゆっくり動き始める。
新しい一日が始まる。
その朝、王城の奥では四人の赤子が眠っていた。
十日前に生まれたアルケス。
昨夜生まれたヴィルギニス。
そして、カストルとポルックス。
まだ何も知らない四つの命。
けれどその小さな胸の上には、すでに王家の運命が静かに降り始めていた。
【2】
春の光は柔らかかった。
王城の東門から龍星院へ続く石の道には、朝露を含んだ風が流れている。遠くの鐘楼では、まだ一度しか鐘は鳴っていない。だがその音は王都の空へ静かに広がり、人々に今日が特別な日であることを知らせていた。
四人の王子が、初めて民の前に姿を見せる日だった。
龍星院は王都の中央、丘の上に建つ古い神殿である。白い石で組まれた階段が長く続き、その先には龍の紋を刻んだ巨大な扉がある。神殿の屋根は青銅で覆われ、朝の光を受けて淡く輝いていた。
王家の子が生まれたとき、必ずここで洗礼を受ける。
それは王国の古い慣わしだった。
龍の加護の下で生まれた子であることを、神と民の前で示す儀式。
だからこそ、今日の龍星院の広場にはすでに多くの民が集まっていた。
市場の商人、職人、農民、旅人。
貧民街からも多くの者が来ている。
王都では最近、食糧不足の噂が広がっていた。空は雨が多く、麦は十分に育たない。それでも王子の誕生という知らせは、人々の心を少しだけ明るくしていた。
「四人も生まれたんだってな」
「龍の加護が戻るかもしれねえ」
「王妃様が双子を産んだらしいぞ」
そんな声が広場のあちこちで聞こえる。
龍星院の階段の上には、すでに神官たちが並んでいた。長い白衣の胸には龍の紋章が刺繍されている。中央には龍星院の大司祭が立っていた。白髪の老人で、その声は鐘のように澄んでいる。
やがて、王城の方角から楽の音が聞こえ始めた。
人々が一斉に振り向く。
王家の行列がやってくる。
先頭を歩くのは近衛騎士たちだ。鎧の銀が朝日に反射し、槍の先端が一列に並ぶ。その後ろに王の紋章旗が揺れていた。
青い旗に金の龍。
王国の象徴である。
そしてその後ろに、四つの揺り籠を運ぶ侍女たちが続いていた。
広場がざわめく。
「赤子だ」
「王子様だ」
「見えるか?」
人々は背伸びをする。
侍女たちはゆっくりと階段を上っていく。揺り籠は白い布で包まれ、その上には薄い金糸の布が掛けられていた。
最初の籠。
そこには、アルケスが眠っていた。
まだ十日ほどの赤子だが、体つきはしっかりしている。産毛は母と同じ緑を帯び、柔らかな光の中で淡く輝いていた。
民の間から、感嘆の声が上がる。
「王弟様の子か」
「きれいな色だ」
「龍の色みてえだな」
次の籠が運ばれる。
その中には、カストル。
小さかった。
布の中で眠る姿は、ほとんど人形のように見える。顔も体も、他の赤子よりずっと小さい。
広場の後ろの方にいた貧民の男が言った。
「ちっせえな」
隣の女が笑う。
「赤ん坊なんてそんなもんさ」
「まだ生まれたばかりなんだろ」
貧民たちは特に深く考えない。
赤子は小さいものだ。
それだけの認識だった。
だが、階段の上の貴族たちは違った。
将軍家の老臣が、わずかに眉を寄せる。
宰相が視線を落とす。
医師の報告を思い出していた。
――小さすぎる。
――成長に問題が出る可能性。
その言葉が、彼らの胸に静かに蘇る。
言葉には出さない。
だが理解していた。
この子は――
病を持って生まれた。
三つ目の籠が運ばれる。
ヴィルギニス。
深い青の産毛が、朝の光を受けて柔らかく光っている。その色は母の髪色を受け継いでいた。異国の海のような色。
人々がざわめく。
「青い髪だ」
「珍しいな」
「第二妃様の子だろ」
亡命王女の噂は王都でも広く知られていた。人々は好奇心と敬意の混じった目で、その赤子を見つめる。
そして最後の籠。
ポルックス。
この子はよく動いていた。布の中で手足を小さく動かし、時折かすかな声を出す。
「元気だ」
誰かが笑う。
「よく泣きそうだ」
四つの籠は、神殿の前に並べられた。
大司祭が前に出る。
広場のざわめきが静まる。
老人はゆっくりと両手を上げた。
「龍の御名において」
その声は広場全体に響いた。
「今日、この四人の子を祝福する」
神官たちが祈りの言葉を唱え始める。
低く、重い声が重なり、龍星院の石壁に反響する。
大司祭は一人ずつ赤子の額に水を落とした。
「アルケス」
静かな水滴が額に触れる。
「カストル」
小さな額。
水はすぐに布へ染み込んだ。
「ヴィルギニス」
青い産毛の上で水が光る。
「ポルックス」
赤子が小さく声を出した。
広場の民は静かにその様子を見守っていた。
そして、儀式が終わったとき。
鐘が鳴った。
龍星院の大鐘。
重く、長い音。
その音が王都の空へ広がる。
民の間から歓声が上がった。
「王子様だ!」
「龍の子だ!」
「王家に四人も!」
誰かが帽子を投げ、誰かが祈りの印を切る。
広場の空気が明るくなる。
だがその喧騒の中で、貴族たちの視線だけが静かだった。
彼らは見ていた。
四つの揺り籠。
その中で、ひときわ小さな赤子を。
カストル。
第一王子アルケスのあとに生まれた王妃の第一子。
血統は最も高い。
だが――
その体はあまりにも小さい。
老臣の一人が小さく呟いた。
「……秤だ」
その声は誰にも聞こえなかった。
だが、確かに言葉は落ちた。
王家の子は生まれた瞬間から秤に乗る。
そして今日。
四つの星が、初めて同じ空に現れたのだった。
【3】
二月の出産から、半年が過ぎていた。
王都の空は、夏の光に満ちている。
雲は高く、青い空の奥へと流れ、太陽は石畳を白く照らしていた。
王城の外では、朝から人々の声が絶えない。
市場はいつも以上に賑わい、屋台には果実や焼き菓子が並び、子供たちは色のついた旗を振りながら走り回っている。
今日は、王国の例大祭――
**龍祭**の日だった。
この国では、龍の加護を讃える祭りが年に一度開かれる。
龍星院の鐘が三度鳴ると、王家が姿を現し、民とともに祈りを捧げる。
王国の安寧と、作物の実りを願う日。
今年の祭りは、例年よりも人が多かった。
理由は誰もが知っている。
四人の王子が生まれたからだ。
しかも同じ年に。
「王家に星が四つも」
そんな言葉が王都のあちこちで囁かれていた。
龍星院へ続く石段の下には、すでに多くの民が集まっている。
職人、農夫、商人、貧民街の子供たち、旅人。
皆、王家の姿を見るために集まっていた。
やがて、鐘が鳴る。
低く、長い音。
龍星院の扉が開いた。
神官たちが左右に並び、その奥から王家の一行が姿を現す。
最初に歩いてきたのは、王アレスだった。
金の髪は夏の光を受けて輝き、白い外套の裾が風に揺れる。
その姿は相変わらず美しく、民の間から思わずため息が漏れた。
「王様だ……」
「やっぱり綺麗な方だ」
続いて現れたのは、王妃。
薄桃色の髪は丁寧に結われ、白と金の衣装が夏の光に映えていた。
半年前に双子を産んだとは思えないほど姿勢はまっすぐで、顔色も穏やかである。
将軍家の娘として育った気品は、どんな場でも揺るがない。
民の間から安堵の声が上がる。
「王妃様もお元気そうだ」
「よかったなあ」
王妃の腕の中には、一人の赤子が抱かれていた。
ポルックス。
双子の弟。
半年が過ぎ、赤子はしっかりとした顔つきになっている。
頬は丸く、目はよく動き、時折きょろきょろと周囲を見回していた。
その隣に、乳母に抱かれているもう一人の赤子。
カストル。
体はやはり小さい。
半年経っても、弟ほどには大きくなっていなかった。
民の多くは、それを深く気にしない。
「小柄なんだな」
「兄弟でも違うもんだ」
そんな程度の認識だった。
だが、貴族席に並ぶ者たちは違う。
将軍家の老臣が静かに目を細める。
宰相が腕を組む。
言葉には出さないが、皆理解していた。
――病。
王妃の第一子には、何らかの障りがある。
だが、それを口にする者はいない。
その後ろに現れたのは、第二妃レンティアだった。
深い青の髪は光を受けて輝き、軽やかな衣装が風に揺れる。
彼女の姿は、相変わらず可憐だった。
半年の時が経っても、その華やかさは変わらない。
むしろ母となったことで、柔らかな光が増しているようにも見える。
腕の中にはヴィルギニス。
青い産毛はすでに濃くなり、母の髪と同じ色を帯びていた。
民の間から声が上がる。
「青い髪の王子様だ」
「第二妃様の子か」
「異国の血だって話だ」
レンティアは微笑みながら、ゆっくりと歩く。
その姿は優雅で、どこか軽やかだった。
最後に現れたのは、王弟レンテと王弟妃。
王弟妃の腕には、アルケスが抱かれている。
六か月の赤子はすでにしっかりしていた。
産毛の緑色は柔らかく光り、目は父に似て落ち着いた色をしている。
王弟妃は誇らしげだった。
民の間から祝福の声が上がる。
「王弟様の子だ!」
「元気そうだな!」
王城の塔から楽の音が響き始める。
龍祭の祈りが始まる合図だった。
神官たちが祈りの言葉を唱え、王家の者たちは龍の像の前に並ぶ。
夏の風が広場を通り抜ける。
その風の中で、民の視線は四人の赤子へ注がれていた。
王家の未来。
四つの星。
だが、その祝福の空気の裏で、別の動きもあった。
龍星院の外れ。
人混みの奥。
そこに、一人の男が立っていた。
衣装は商人のもの。
だが、その目は周囲を鋭く観察している。
男はゆっくりと視線を動かした。
第二妃。
青い髪の女。
そしてその腕の中の赤子。
ヴィルギニス。
男は小さく呟く。
「……見つけた」
それは、ラルグスの言葉だった。
ラルグス。
隣国。
かつてレンティアの一族を滅ぼし、王位を奪った新王朝。
その使者が、今、王都にいた。
男は人混みの中をゆっくり動く。
だが、その動きは途中で止まった。
近衛騎士の影が近づいたからだ。
王家の警護は厳しい。
男は何もせず、ただ視線を落とす。
だがその目は、最後までヴィルギニスを見ていた。
青い髪の赤子。
亡国の血。
ラルグスが長く探している存在。
そして、その背後には――
王家。
夏の空の下で、龍祭は続いていた。
民は歓声を上げ、祈りの歌が広場に響く。
だが、その明るい空のどこかで、
まだ誰も知らない影が、静かに動き始めていた。
【4】
王都で龍祭が行われた同じ頃、国境の向こうでもまた、別の静かな動きがあった。
ラルグス王国。
王国の西の山脈を越えた先にある隣国である。両国のあいだには長い交易路があり、隊商や使者が絶えず行き来している。かつては血で争った時代もあったが、今は表向き平穏な関係が続いていた。
だがその平穏は、決して完全な信頼ではない。
ラルグス王城は黒い石で築かれている。高い塔と重い城門は、王国の白い城とはまるで違う。厳しく、堅固で、どこか冷たい印象を与える城だった。
その奥の一室。
重い机の上に、一通の報告書が置かれていた。
窓辺に立つ男が、その紙を読み終え、静かに息を吐いた。
ラルグスの宰相、グラドールである。
彼は老いていたが、目の光は鋭かった。白髪の混じった黒髪を後ろで束ね、細い指で報告書を机に置く。
その内容は、すでに驚くものではない。
むしろ、確認だった。
「……やはり生きていたか」
低く呟く。
部屋にはもう一人の男がいた。
密偵だ。
長旅の埃をまとった外套を脱ぎ、膝をついている。王都から帰ってきたばかりだった。
「間違いないのか」
宰相が尋ねる。
密偵は迷いなく答えた。
「はい」
「第二妃レンティア」
その名が静かに落ちる。
「我らが滅ぼした旧王家の王女でございます」
宰相は目を細めた。
それはすでに知っている事実だった。
数年前、ラルグスでは内戦が起きた。古い王家は滅び、新しい王朝が王座を奪った。その混乱の中で、王女の一人が姿を消した。
レンティア。
その名は当時から記録に残っている。
だが彼女は死んだと思われていた。
あるいは、どこかで身を潜めていると。
しかし――
彼女は隣国の王城にいた。
しかも王の第二妃として。
宰相はゆっくりと椅子に座る。
「そして」
視線を上げた。
「子を産んだ」
密偵は頷く。
「男児でございます」
「青い髪」
「そして赤い瞳」
その言葉で、宰相の指がわずかに止まった。
青い髪。
それは旧王家の特徴だった。
王女レンティアもまた、その色を持っていた。
宰相は静かに言う。
「名は」
密偵は答える。
「ヴィルギニス」
しばし沈黙が落ちる。
遠くで城の鐘が鳴った。
宰相はその音を聞きながら、ゆっくりと考える。
亡命王女。
隣国の王の子。
そして王子。
これは単なる血の話ではない。
政治の話だ。
もしこの子が成長すれば、どうなる。
旧王家の血。
隣国の王家の血。
その二つを持つ存在。
宰相は小さく呟いた。
「厄介だな」
密偵は顔を上げない。
宰相は続ける。
「だが、まだ赤子だ」
「今すぐ何かをする必要はない」
そして視線を窓の外へ向けた。
遠くの山が見える。
その向こうに、隣国の王都がある。
「問題は」
宰相の声は低かった。
「王国がどう育てるかだ」
密偵が言う。
「王城の警護は厳重です」
「龍祭の日も近衛が何重にも」
宰相は軽く手を振る。
「今は触れるな」
そして報告書を折りたたむ。
「ただ」
その声は静かだった。
「見ておけ」
「青い髪の王子を」
そしてもう一つ、別の報告書に目を落とした。
そこには別の名前が書かれている。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
王妃の子。
王弟の子。
四人の王子。
宰相は小さく笑った。
「隣国も賑やかだ」
王家の子が四人。
それは祝福であると同時に、争いの種でもある。
宰相は窓の外を見た。
遠くの空に、夏の雲が流れている。
「いずれ」
彼は呟く。
「その星のどれかが、こちらを見上げる日が来る」
そして、静かに命じた。
「監視を続けろ」
密偵は深く頭を下げた。
その命令は短かったが、意味は重い。
青い髪の王子。
ヴィルギニス。
彼の存在は、すでに隣国の記録に刻まれた。
まだ誰も知らない。
この赤子が将来どこへ立つのかを。
だが一つだけ確かなことがあった。
王国の王城で生まれた四つの星。
その一つは、すでに隣国の空にも映っていたのである。
【5】
夏の光は、王城の石壁を柔らかく照らしていた。
龍祭から幾日かが過ぎ、王都の喧騒はようやく日常へ戻りつつある。広場の旗はまだ残っているものの、人々の話題は少しずつ市場の値段や畑の雨へと戻っていた。
それでも王城の奥では、まだ四つの小さな命が話題の中心だった。
王太后の居室は、城の北塔の高い場所にある。
窓は大きく、遠くの丘や城下町の屋根まで見渡せた。長い年月を生きた人だけが持つ静けさが、その部屋には漂っている。
その日、王太后は侍女たちに命じて、四つの揺り籠を並べさせていた。
窓辺に光が落ちる場所。
柔らかな夏の風が入る場所。
「こちらへ」
王太后の声は落ち着いていた。
年老いた声だが、威厳がある。
侍女たちは慎重に籠を運ぶ。
一つ目の籠。
そこにはアルケスがいた。
半年が過ぎた赤子は、もうただの新生児ではない。腕も足もしっかりしており、布の中でよく動く。柔らかな産毛は緑色を帯びており、光に当たると春の葉のように淡く輝いていた。
王太后は少し身を屈め、顔を近づける。
赤子が目を開けた。
瞳は赤茶。
父レンテから受け継いだ色だった。
王太后は小さく頷く。
「……王弟の子だ」
その声には、どこか満足があった。
次の籠。
カストル。
この子は静かだった。
他の赤子ほど動かない。だが目はよく開き、周囲をじっと見ている。赤い瞳は、亡き王のものと同じ色をしていた。
王太后は、その瞳を長く見つめた。
「アレスの目だ」
誰にも聞こえないほど小さな声。
だがその次の瞬間、王太后の視線は体へ落ちる。
小さい。
半年が経っても、やはり小さい。
弟よりも。
王太后の表情は変わらない。
だが、その沈黙は少し長かった。
三つ目の籠。
ポルックス。
こちらはまったく違う。
よく動き、よく声を出す。侍女の指を掴もうとして手を伸ばし、布を蹴り上げる。
王太后は思わず笑った。
「元気だ」
瞳は兄と同じ赤。
だがその光は、どこか軽やかだった。
王太后は小さく呟く。
「双子でも違うものだな」
そして最後の籠。
ヴィルギニス。
この子は静かに眠っていた。
青い髪。
それはすでに産毛の段階を過ぎ、はっきりとした色になり始めている。深い海のような青。
王太后はその色を見て、わずかに目を細めた。
亡命王女。
あの少女が初めて城に来た日のことを、王太后は覚えている。
泥に汚れた靴。
それでも隠しきれない美しさ。
青い髪。
あの時の少女の血が、この赤子に流れている。
ヴィルギニスが目を開けた。
瞳は赤。
王家の色。
王太后はその赤と青をしばらく見ていた。
そして静かに息を吐く。
「……不思議な子だ」
侍女が言う。
「とても大人しい王子様です」
王太后は微笑んだ。
「赤子は皆、大人しい」
だが視線はまだ赤子に向けられている。
青い髪。
赤い瞳。
この子は、王国の血と異国の血を同時に持つ。
王太后はゆっくりと椅子へ戻った。
四つの籠が並ぶ。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
ヴィルギニス。
四つの命。
四つの未来。
窓の外では夏の雲がゆっくり流れている。
王太后はその光景を見ながら、静かに言った。
「星は多いほど空は美しい」
侍女は意味を理解しない。
ただ頷くだけだった。
王太后は続ける。
「だが」
声は低かった。
「王は一つでよい」
その言葉は、部屋の中で静かに消える。
四人の赤子は何も知らない。
ただそれぞれの布の中で手足を動かし、時折声を出す。
だが王太后の目には見えていた。
この子たちが大きくなったとき、
同じ空の下に立つ日が来ることを。
その時、四つの星は互いを見上げる。
そしてどれか一つが――
王の星になる。
王太后はゆっくりと目を閉じた。
その未来を、すでに見ているかのように。
【6】
夜の王城は、昼とはまるで別の場所のように静かだった。
夏の夜風が長い石の廊下の窓から流れ込み、壁にかけられた燭台の炎をゆらゆらと揺らしている。昼間の龍祭で満ちていた歓声はもうどこにもなく、王城の奥にはただ、ゆっくりとした時間だけが残っていた。
その奥の一室に、王アレスはいた。
重い机の上には書簡がいくつも広がっている。だが王はそれを読むでもなく、ただ窓の外を見ていた。夜空には雲が流れ、月がその隙間を行き来している。
王の指先が、ゆっくりと机を叩く。
その時、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、王弟レンテだった。
金の髪は兄と同じ色だが、表情はどこか柔らかい。鎧ではなく軽い外衣だけを羽織っている。
「まだ起きているのか」
レンテが言った。
アレスは振り向かない。
「眠れる夜ではない」
短く答える。
レンテは笑った。
「四人も子が生まれた夜のあとだ。眠れない父親は兄上だけではない」
その言葉に、アレスはようやく振り向いた。
「アルケスはどうだ」
「よく眠る」
レンテは椅子に腰掛ける。
「泣き声も大きい」
少しだけ誇らしげだった。
アレスは小さく頷く。
「強い子だ」
「まだ赤子だ」
レンテは肩をすくめた。
「だが目はしっかりしている。赤茶の瞳でじっと人を見る」
それは、レンテ自身の瞳の色だった。
アレスは一瞬だけ目を細める。
「お前の子だな」
沈黙が落ちる。
レンテが机の上の書簡をちらりと見た。
「四人」
ぽつりと言う。
「王城は一晩で賑やかになった」
アレスは窓の外を見たままだった。
「……そうだな」
そして低く言う。
「アルケス」
「カストル」
「ポルックス」
「ヴィルギニス」
名前を一つずつ口にする。
それはまるで、星の名前を数えるようだった。
レンテが静かに言う。
「兄上」
アレスは視線を戻した。
レンテの表情は、先ほどの軽さとは少し違っていた。
「もう考えているのか」
王は何も言わない。
レンテは続けた。
「王位のことだ」
その言葉は、部屋の空気をわずかに重くした。
王妃の子。
第二妃の子。
王弟の子。
四人の王子。
レンテは椅子の背にもたれた。
「まだ赤子だ」
自分で言いながらも、その声は少し低かった。
「だが城はもう考えている」
アレスは苦笑した。
「城だけではない」
「王都もだ」
それは事実だった。
民は祝福している。
だが貴族たちは違う。
誰が王になるか。
すでに秤に乗せ始めている。
レンテが言う。
「カストル」
その名前が落ちた。
王妃の第一子。
王位継承権の最上位。
アレスの表情がわずかに曇る。
レンテはゆっくり続けた。
「小さいな」
アレスは否定しない。
「医師は何と言っている」
「生きる」
王は短く言う。
「それだけだ」
レンテは目を閉じた。
それで十分だった。
意味は分かる。
アレスが静かに言った。
「だが」
「目は強い」
レンテが顔を上げる。
「俺を見ていた」
王は言う。
「まるで怒っているようだった」
その言葉に、レンテは少し笑った。
「兄上の子だ」
「俺の子でもある」
アレスは言った。
その声には、父としての響きがあった。
そして少し間を置いて続ける。
「ポルックスは強い」
「ヴィルギニスは静かだ」
レンテが言う。
「青い髪の王子か」
アレスは頷いた。
「目は赤い」
「王家の目だ」
レンテは窓の外を見る。
夜風が入ってくる。
遠くで城の見張りが交代する音がした。
レンテはゆっくり言う。
「兄上」
アレスは答えない。
「四人だ」
「王子が」
その言葉は軽くない。
アレスはようやく椅子に座った。
そして両手で額を押さえる。
「……分かっている」
声は低かった。
レンテはそれ以上何も言わない。
しばらくして、王は小さく言った。
「お前はどう思う」
レンテは笑う。
「俺か」
そして少し考えてから言った。
「分からない」
正直な答えだった。
「まだ赤子だ」
「だが」
レンテは窓の外の空を見た。
夏の星がいくつか輝いている。
「星は四つだ」
その言葉を聞いて、アレスも空を見上げた。
四つの星。
どれが一番強く光るのか。
それはまだ誰にも分からない。
レンテは立ち上がった。
「アルケスが起きる」
笑いながら言う。
「夜泣きは強い」
アレスは小さく笑った。
「父だな」
レンテは扉へ向かう。
その前で、少しだけ振り返った。
「兄上」
アレスが顔を上げる。
レンテは静かに言った。
「四人だ」
同じ言葉をもう一度言う。
「王城は静かではいられない」
そして扉を開けた。
廊下の灯りが差し込む。
レンテは出ていった。
扉が閉まる。
アレスは一人になった。
王はゆっくりと窓の外を見た。
夜空には星がある。
四つではない。
無数に。
だがその中で、王の星は一つだけだ。
アレスは静かに呟いた。
「……誰だ」
その答えはまだ、どこにもなかった。
【7】
龍祭からしばらくして、王城はようやく本来の静けさを取り戻し始めていた。
夏の空気は重く、昼になると石壁がゆっくりと熱を抱え込む。庭では噴水の水が細い弧を描き、遠くでは近衛兵の訓練の掛け声が聞こえていた。蝉の声はまだ少ないが、草の匂いと日差しの強さが、季節の移ろいを確かに伝えている。
王城の奥では、四人の赤子がそれぞれの場所で眠り、泣き、笑い始めていた。
アルケスは王弟の居室で育てられていた。
王弟妃の部屋は南の棟にあり、窓からは庭の一部が見える。午後の光が床へ差し込み、白い布が風に揺れていた。
乳母がアルケスを抱き上げる。
赤子は目を開けた。
瞳は赤茶。
父レンテと同じ色だった。
アルケスは泣くことが少ない子だった。目を開けると、まず周囲をじっと見る。その視線はまだ幼いのに、どこか落ち着きがある。
王弟妃が笑った。
「また見ているわ」
レンテは椅子に腰掛けたまま、息を吐く。
「赤子は皆そうだ」
だが言いながらも、息子の顔を覗き込む。
アルケスは父の顔を見て、わずかに手を動かした。
その指はまだ小さいが、力は確かにあった。
「握る」
乳母が言う。
レンテは指を差し出した。
赤子の手がそれを掴む。
小さいが、離さない。
レンテは思わず笑った。
「強いな」
王弟妃が穏やかな目で見ている。
「あなたに似ました」
レンテは首を振る。
「まだ赤子だ」
だが声には満足が混じっていた。
同じ頃、王妃の居室でも赤子たちの声が響いていた。
双子の部屋は広い。将軍家の娘である王妃の部屋は装飾が控えめで、整然としている。白い布と薄桃の織物が静かに並び、無駄な飾りはほとんどない。
そこに二つの揺り籠が置かれていた。
ポルックスは元気だった。
布の中で足を動かし、時折大きな声を出す。乳母の指を掴もうとし、何度も腕を伸ばす。
侍女が笑う。
「元気な王子様です」
王妃はその様子を見て、小さく頷いた。
「健康なのは良いことです」
だがその視線は、もう一つの揺り籠へ向かう。
カストル。
兄。
第一子。
その赤子は静かだった。
目は開いているが、声を出すことは少ない。体も弟より小さく、布の中にすっぽり収まっている。
王妃はその顔を見つめた。
赤い瞳。
亡き王の瞳。
その色は確かに受け継がれている。
王妃は手を伸ばし、そっと頬に触れた。
赤子は瞬きをした。
小さな手がゆっくりと動く。
王妃の指に触れた。
その動きは弱くない。
王妃は静かに言う。
「この子は生きます」
侍女は答えない。
ただ深く頭を下げた。
王妃の声は決意に近かった。
「王の子です」
同じ頃、第二妃レンティアの居室では、別の静けさがあった。
部屋は明るい。
青い織物が多く、窓から入る光が柔らかい。
レンティアは椅子に座り、ヴィルギニスを抱いていた。
赤子はよく眠る子だった。
青い髪はすでにはっきりとした色を持ち始めている。母の髪と同じ深い青。
そして瞳は赤。
王家の色。
レンティアはその顔を見て微笑む。
「あなたは静かな子ね」
赤子は眠ったままだ。
乳母が言う。
「王子様は泣くことが少ないのです」
レンティアは頷いた。
「よく考えているのかもしれない」
冗談のように言う。
その声は軽やかだった。
窓の外では風が庭の木を揺らす。
夏の光が揺れる。
王城の三つの棟で、四人の赤子がそれぞれの時間を過ごしていた。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
ヴィルギニス。
まだ何も知らない。
王位も、血も、国も。
ただ眠り、泣き、笑うだけの存在。
だが王城の大人たちは違った。
侍女たちは小声で噂し、貴族たちは遠回しに話題にする。
四人の王子。
同じ年に生まれた王家の子。
それは祝福であり、同時に――
未来の秤でもあった。
夏の夕暮れが近づく。
王城の塔に影が伸びる。
遠くで鐘が鳴った。
王城は静かだった。
だがその静けさの下で、四つの命は少しずつ成長していた。
やがて彼らは歩き、言葉を覚え、互いを知ることになる。




