2
【1】
春が深まり、王城の庭から白い花が減っていく頃には、三人の腹のふくらみは、誰の目にも分かるほどになっていた。
最初に懐妊を祝われた王弟妃は、相変わらず穏やかだった。
もともと慎ましい人柄で、笑う時も声を立てず、歩く時も衣擦れの音すら控えめな人である。だが腹に子を宿してからの彼女は、以前よりもどこか柔らかく見えた。王城の女官たちは口々に言った。
「お顔つきが丸くなられた」
「いえ、優しくなられたのです」
実際、王弟妃の周りには祝福の言葉が絶えなかった。
王弟レンテが兄王と共に地下街の改革へ何度も足を運び、ようやくその大事業がひと息ついたあとに授かった子である。
そのため王都の者たちは、この懐妊を一つの明るい物語として受け取っていた。
市場では、果物売りの女がこう言う。
「王弟妃様も、ようやく安心なされたのよ」
仕立て屋の老婆が頷く。
「王弟殿下が毎日のように王城を空けていたんだもの。気苦労も大きかったろうさ」
紙売りの少年は、わざと大きな声で祝詞めいたことを叫ぶ。
「王家に新しい命! めでたき春の報せ!」
平和な国は、祝いをよく覚える。
それが王家の子であればなおさらだった。
王弟妃が城下の神殿へ詣でた日には、沿道に自然と人が集まった。
誰も騒ぎすぎはしない。
ただ深く頭を下げ、時に子供を抱き上げて見せ、「どうかご無事に」と祈るように見送る。
王弟妃は馬車の小窓から、そのたびに小さく会釈を返した。
その顔には気負いがない。
だからこそ人々は、いっそう素直に祝福するのだった。
一方で、王城の中では別の花が咲いていた。
第二妃レンティアである。
彼女の腹も、もう隠しようがなかった。
だが不思議なことに、その姿は少しも重たく見えない。
むしろ以前よりもいっそう華やかで、やわらかく、見る者の心を自然に上向かせるような明るさを帯びていた。
深い青の髪は、光を受けると静かな水面のように艶を返す。
頬はほんのりと紅を差し、目元は以前にも増してやさしい。
腹が目立つようになってからは、かえってその可憐さに母となる穏やかさが加わり、侍女たちでさえ思わず見惚れるほどだった。
「本当にお綺麗」
「ええ……お腹が大きくなられても、ちっとも野暮ったくなられない」
「まるで絵巻の中の姫君のよう」
そうした言葉を、レンティアは困ったように笑って受け流す。
「おやめください」
その言い方まで、どこか愛らしい。
だが、周囲が彼女に目を奪われるのは見た目だけのせいではなかった。
王妃の体調が、次第に不安定になってきていたからである。
最初は、少し顔色が悪い程度だった。
侍女がすすめる薬湯の量が増えた。
休む時間が少し長くなった。
表へ出る予定を一つ減らした。
それでも王妃は、いつものように背筋を伸ばし、将軍家の娘としての顔を崩さなかった。
「この程度で騒ぐ必要はありません」
そう言って、侍女の心配を退けていた。
だが、その「この程度」は、日ごとに重くなっていった。
朝、起き上がるだけで息が上がる。
少し歩けば下腹に鈍い痛みが走る。
食事の匂いに顔をしかめることも増えた。
それでも王妃は無理をした。
王家の正妃である。
将軍家の娘である。
王城の女たちの視線が、自分の背中に注がれていることを知っている。
弱い顔を見せれば、それだけで何かを失う気がしたのだ。
けれど身体は正直だった。
ある朝、公的な席へ出る支度の途中で、王妃は立ったままふらついた。
侍女が悲鳴を呑み込み、すぐに抱き留める。
「王妃様!」
王妃は何か言おうとしたが、声にならなかった。
薄桃色の髪が肩からこぼれ、顔色は紙のように白かった。
すぐに医師が呼ばれ、その日の出席予定はすべて取りやめになった。
そして、王妃が本来出るはずだった席へ、代わりに第二妃レンティアが姿を見せることになる。
それは表向き、何もおかしなことではなかった。
王妃が静養を要する。
ならば、王の傍らには第二妃が立つ。
ただそれだけのこと。
だが王城の者たちは、そこに見ずにはいられないものがあった。
王と第二妃が並ぶと、絵になる。
それは残酷なほどにはっきりした事実だった。
アレスはもともと語り継がれるほどの美男である。
高い背、整った顔立ち、金の髪、透き通るような赤い眼。
その隣に、深い青の髪を持つ可憐なレンティアが立つと、まるで春の空と光が並んだようだった。
公的な謁見の場で、アレスが低く何かを告げる。
レンティアが少し首を傾げ、やわらかく微笑んで頷く。
王はその様子を見て、ほんのわずかに表情を和らげる。
その一つ一つが自然で、仲睦まじかった。
貴族たちは見て見ぬふりをする。
侍女たちは目を伏せる。
だが心の中で思うのだ。
――まるで、本当に春そのものの夫婦のようだと。
王妃がいない席でそう見えてしまうこと自体が、王妃付きの女官たちには苦しかった。
それでも第二妃を責めることはできない。
レンティアは決して出しゃばるのではなく、ただ求められた場所で、求められた役目を果たしているだけだった。
しかもその姿が、あまりにも美しく、やさしく、穏やかなのだ。
一方の王妃は、その頃、奥の部屋で寝台に横たわっていた。
窓は少しだけ開かれ、薄い風が入ってくる。
香は控えめに焚かれていたが、それでも香りに顔をしかめる日もある。
侍女たちは足音を殺して動き、声もひそめる。
王妃は天井を見つめながら、指先を腹の上に置いていた。
重い。
ただ子を宿しただけの重さではない。
身体の内側に、二つ分の熱があるような、そんな感覚があった。
だがその理由を、まだ誰も知らない。
医師たちは繰り返し脈を取り、腹の張りを確かめ、顔色を見た。
薬湯も調えた。
だが、王妃の苦しさは日によって激しくなる。
ある夕暮れ、王がようやく公務を切り上げて王妃のもとを訪れた時のことだった。
薄暗い寝室に灯がともされ、薄桃色の髪が枕の上に広がっている。
王妃は起き上がろうとしたが、アレスがそれを止めた。
「無理をするな」
その声はやさしかった。
王妃は少しだけ目を閉じる。
「……見苦しいところを、お見せしています」
「見苦しくなどない」
アレスはそう言ったが、その目の奥には隠しきれない心配があった。
王妃は、そんな王の顔を見てしまったからだろう。
ほんの少しだけ、いつもの強さを手放したように見えた。
「身体が……思うように動きません」
小さな声だった。
将軍家の娘が、自分からそんな言葉を零すのを、傍にいた侍女たちは初めて聞いた。
アレスはしばらく黙っていたが、やがて王妃の手に触れた。
「医師を増やす」
「もう十分です」
「十分ではない」
その時だった。
控えていた老医師が、静かに膝を折った。
「陛下」
アレスが振り向く。
老医師は慎重に言葉を選んでいるようだった。
王妃付きの女官たちも、息を呑んで次の言葉を待つ。
「王妃様のお身体の重さと不調は、単なる懐妊の強さだけではございません」
王妃がゆっくり顔を上げる。
アレスの表情も固くなる。
老医師は深く頭を垂れた。
「おそらく……双子にございます」
部屋の空気が止まった。
侍女の一人が思わず口元を押さえる。
もう一人は目を見開いたまま動けない。
王妃はしばらく何も言わなかった。
ただ、自分の腹へそっと手を重ねる。
その薄い指の下に、二つ分の命がある。
ようやく、王妃は小さく息を吐いた。
「……そうでしたか」
声は弱い。
だが、その言葉にはどこか腑に落ちた響きがあった。
重かった理由。
苦しかった理由。
自分の身体がこれほど早く悲鳴を上げた理由。
すべてが一つに繋がる。
アレスはすぐには言葉を出せなかった。
王としてであれば、これはめでたいことだった。
双子。
それは王家にとって大きな意味を持つ。
だが夫として見るなら、王妃が一番苦しんでいる理由でもある。
歓ぶにも、苦しむにも、どちらにも振り切れない顔で、王はただ王妃を見つめていた。
王妃はその視線に気づき、かすかに笑った。
「そのようなお顔をなさらないでください」
「お前がそのような顔をしているのに、どうしろと言う」
珍しく、アレスの声に少しだけ感情が出る。
王妃は目を細めた。
そして、将軍家の娘らしく、どこか凛とした声音で言った。
「ならば、わたくしは二人分の子を守ります」
その強がりを、誰も笑えなかった。
寝台の脇に立つ王も、涙ぐむ侍女も、老医師も。
皆、その細い身体の中に二つの命を抱えた女の強さと危うさを、同時に見ていたからだ。
部屋の外では、春の風がまた一つ、庭木を揺らしていた。
王弟妃は国民に祝福され、穏やかに母となる日を待っている。
第二妃は華やかに公の場を支え、王の傍らで春の花のように笑っている。
そして王妃は、誰よりも静かな部屋で、誰よりも重い命を抱いていた。
王家の春は、明るく華やかに見えた。
だがその奥では、それぞれの女が、それぞれの形で命の重さに耐えていた。
【2】
その診断が下された夜から、王城の空気は目に見えぬかたちで変わった。
それまでも三人の懐妊は十分に大きな話題だった。
だが、王妃がただの懐妊ではなく、双子を宿していると知れた瞬間から、その話は祝いであると同時に、運命めいた重みを帯び始める。
王太后は、その報せを聞いてすぐには何も言わなかった。
ただ長く目を閉じ、指先で数珠の珠を一つ撫でた。
それから静かに言った。
「……そう」
その一言だけだったが、部屋にいた侍女たちは誰もが背筋を伸ばした。
双子。
王家において、それはただ珍しいというだけのことではない。
一つの腹に二つの命があるということは、喜びが二倍になるという単純な話ではないのだ。祝福と不安、強さと危うさ、そして人の口にのぼる物語まで、すべてが二つになる。
王太后は窓辺へ歩いた。
春の夜はやわらかかった。
庭の木々は黒い影となり、その向こうに王都の灯が淡く滲んでいる。
「王妃は」
王太后は振り返らぬまま尋ねる。
「体調は」
侍女が慎重に答えた。
「よろしいとは申せません。ですが、気丈にお過ごしです」
王太后は小さく息を吐く。
気丈に。
それはつまり、苦しいのだ。
将軍家の娘は、痛みを痛みと口にしない。
弱いとは言わない。
だからこそ周囲が気づかねばならぬのに、その強さゆえに気づくのが遅れる。
王太后は白い指先で窓の桟をなぞった。
「強い女ほど、目を離してはいけません」
その言葉は、自分自身にも向けられているようだった。
翌朝から、王妃の周囲には一段と厳しい静けさが敷かれた。
医師が二人から三人に増え、侍女の交代も細かくなる。
食事はさらに慎重に調えられ、香も控えられ、部屋へ入る者の足音まで気を配られる。
だがそれでも、王妃は王妃だった。
寝台に身を横たえながらも、報告を受ければ短く判断を返し、必要とあれば侍女へ指示を出す。腹の重みのせいで起き上がるだけでも息が上がるというのに、その声にはまだ、将軍家の娘としての芯が通っていた。
「その書状は、夕刻までに返します」
「王妃様、今は――」
「今だからです」
細い声なのに、逆らえない。
侍女たちは顔を見合わせるしかない。
王妃の強さは、人を安心させる強さであると同時に、人を困らせる強さでもある。
その頃、第二妃レンティアの周囲には、相変わらず明るい光が漂っていた。
深い青の髪は、春が進むにつれいっそう艶を増し、ゆるやかに大きくなっていく腹でさえ、彼女の可憐さを損なうことがなかった。歩くたびに衣の裾が柔らかく揺れ、笑えばその場の空気がふっと和む。
王妃が出られぬ席には、引き続きレンティアが姿を見せた。
彼女自身は、決してその立場を喜んでいるわけではない。
むしろ王妃の不在を埋めるような形で人前へ出るたび、胸の奥にかすかな心苦しさを覚えていた。
それでも求められれば応じる。
王の隣に立てば微笑む。
大勢の前で頭を下げれば、その可憐さはますます際立つ。
王と並ぶその姿は、相変わらずよく似合った。
アレスが低く何かを告げる。
レンティアが少しだけ首を傾けて頷く。
王の横顔が、ほんの少しやわらぐ。
その一瞬を、宮廷の者たちは見てしまう。
見て、見なかったふりをする。
そして心の中で、それぞれ別の名をつける。
仲睦まじい。
お似合いだ。
春めいている。
あるいは――王妃が不在の席だからこそ目についてしまう、と。
レンティアはそうした視線に鈍いわけではなかった。
だが、気づいたからといって身を縮めることもできない。
王に求められた場で、王の顔を潰すわけにはいかない。亡命してきた時から、彼女はそれを身にしみて知っていた。
ある日、短い謁見を終えて奥へ戻る廊下で、レンティアはふと立ち止まった。
腹の子が内側で小さく動いたのだ。
思わず手を添える。
その様子を見たアレスが、すぐに歩みを緩めた。
「苦しいか」
「いいえ」
レンティアは微笑む。
「少し、元気なだけです」
その言い方に、王も小さく笑った。
「母親に似たのかもしれぬな」
「でしたら陛下は大変です」
「なぜ」
「きっと、手のかかる子になります」
その会話は何でもないものだった。
だが、何でもないからこそ、二人のあいだに流れる親しさは隠しようがない。
それを遠くから見ていた若い女官が、後で仲間にそっと言った。
「……本当に、お似合いなのね」
すぐに別の女官が小声でたしなめる。
「口にしてはいけません」
「ええ、でも……」
その「でも」の先にあるものを、女たちは皆知っている。
王妃の重みと、第二妃の華やかさ。
どちらも本物だ。
どちらも偽物ではない。
だからこそ、人の口は勝手に比べたがる。
一方、王弟妃の方は、さらに穏やかな祝福の中にいた。
彼女の腹は、三人の中でも最も早く目立ちはじめていた。
王都の民にとって、彼女の懐妊は分かりやすく喜べる話だった。
王弟レンテが兄王を支え、地下街の改革という国の一大事を共に担い、そのあとに授かった子。
その流れがあまりにも「よい話」だったから、人々は素直に祝福した。
神殿へ参れば人々が頭を下げる。
市場の通りを馬車で通れば、果物を持った女たちが「どうかご無事に」と言う。
花売りの少女が、まだ早い時期から小さな白花の束を差し出し、「王弟妃様に」と恥ずかしそうに言う。
王弟妃はそうした祝福に、いつも同じように微笑んだ。
控えめで、けれど心からの微笑み。
そして誰もが思うのだ。
ああ、この方はよい母になる、と。
その穏やかな祝福の裏で、王城の奥では、王妃の寝室だけが静かな戦場になっていた。
医師たちは日に何度も脈を見、腹の張りを確かめ、湯の温度まで細かく調える。
侍女たちは夜も浅くしか眠らない。
王太后は日に一度は必ず様子を聞かせた。
だが、もっとも王妃を疲れさせていたのは身体の重さだけではなかった。
心だった。
夜更け、灯を落とした寝室で、王妃はひとり目を開けていることが増えた。
腹に手を当てる。
そこには、確かに二つの命がある。
二つ。
その事実は、祝福であると同時に、責任だった。
この国の王妃として、王の子を宿すこと。
しかも双子であること。
それがどれほど人の口を動かすか、王妃はよく知っている。
強くなければならない。
揺らいではならない。
自分が弱れば、そのまま王家の弱さとして語られる。
そう思うほど、身体のつらさを誰にも言えなくなる。
ある夜、侍女がそっと薬湯を差し出した時、王妃は受け取りながらふいに尋ねた。
「……レンティアは、今日も出たのですか」
侍女は一瞬だけ迷った。
嘘はつけない。
「はい。陛下とともに、短い謁見に」
王妃は薬湯を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
怒ったのではない。
責めたのでもない。
ただ、わずかに睫毛が揺れた。
侍女は胸が詰まる思いだった。
王妃は王妃である前に、人でもある。
その当たり前のことを、王城はしばしば忘れる。
やがて王妃は薬湯を飲み、静かに言った。
「……よいことです」
侍女は何も返せなかった。
それが本心であり、同時に本心ではないことを、分かってしまったからだ。
だが、その夜遅く。
アレスが王妃の部屋を訪れた。
灯りは低く、部屋は静まり返っている。
王妃は起きていた。寝台に半ば身を起こし、薄桃色の髪を肩へ流している。その顔は白い。だが目だけはまだ強い光を持っていた。
アレスは近づくと、何も言わずに椅子を寄せて座った。
王妃が先に口を開く。
「今日はお戻りが遅うございました」
「公務が長引いた」
「レンティア様もご一緒だったとか」
その問いは静かだった。
静かすぎるほどに。
アレスは一拍だけ言葉を失った。
それだけで、王妃は十分だったのかもしれない。
「……代わりが必要だった」
「ええ」
王妃は頷く。
「わたくしが出られぬのですから」
王は眉を寄せた。
その表情の動きだけで、王妃は少し救われる。
この人はまだ、自分の痛みに気づく人だと分かるから。
アレスは低く言った。
「お前に代わりなどない」
それは、王としての言葉ではなかった。
王妃は目を伏せる。
「ですが、席は空けられません」
「だからこそ、俺が埋める」
「陛下が」
王妃はわずかに笑った。
「全部をお埋めになるわけには参りません」
その会話のあいだも、腹の内で小さな動きがあった。
一つではない。
確かに二つ。
王妃はそっと息を吸う。
苦しい。
だが、ここで顔をしかめたくなかった。
それでもアレスは気づいてしまう。
「痛むのか」
「……少し」
「少し、ではないだろう」
王妃は返事をしなかった。
王はしばらく黙ったあと、そっと寝台の端へ手を置いた。
その手は、何かを押しつける手ではなかった。
ただ、ここにいると示すための手だった。
「双子だ」
アレスは呟くように言う。
「二人分だ。つらくて当然だ」
その言葉に、王妃は初めて少しだけ顔を歪めた。
つらくて当然。
その当たり前の言葉を、誰かに言われたかったのかもしれない。
王妃は長く息を吐いた。
「……二人とも、生かします」
王はその横顔を見た。
「もちろんだ」
「いいえ」
王妃は首を振る。
「もちろん、ではありません」
その声は細い。
だが、将軍家の娘の声だった。
「この国では、命が宿る前から人が数えます。立場を、順を、価値を」
アレスは何も言えない。
それが真実だからだ。
王妃は続ける。
「ならば、わたくしは産みます」
「二人とも」
王はその言葉を受け止めるしかなかった。
窓の外では、春の夜が更けていく。
遠くの王都では、王弟妃の懐妊を祝う歌がまだどこかで歌われているかもしれない。公の場では、第二妃が微笑みながら人々の視線を受けている。だがこの部屋では、薄桃色の髪を持つ正妃が、誰よりも重い春を抱えていた。
その夜、王は長く王妃のそばにいた。
何か特別な言葉を言うわけではない。
ただそこにいた。
そして王妃は、ようやく少しだけ、肩から力を抜いた。
春の王家は華やかだった。
だが華やかさの下には、誰にも見せぬ苦しみと、見せてはならぬ強さが幾重にも重なっていた。
その重なりの中で、まだ見ぬ子らは静かに育っている。
やがて生まれてくる命たちは、誰もが祝福される。
だが、同じように祝福されても、同じ場所へ辿り着くとは限らない。
【3】
アルケスが生まれた日、王都には朝から鐘が鳴った。
それは凶事を告げる鐘ではない。
戦の始まりを知らせる鐘でもない。
高く、澄み、何度も重ねて打たれる、祝賀の鐘だった。
春の終わりの空は明るく、昨夜まで低く垂れていた雲も朝には薄くほどけていた。王城の白壁は柔らかな陽を受け、塔の上の旗は風に乗って大きくはためく。王都の人々は、最初の一打で顔を上げ、二打目で足を止め、三打目にはもう笑っていた。
「お生まれになった」
市場の女が胸の前で手を組む。
荷車を押していた男が、思わず帽子を取り、空を見上げる。
水売りの少年は鐘の数を途中で数えきれなくなり、それでも飛び跳ねるように通りを走った。
「王弟妃様が!」
「お子が!」
「王家に、新しい御子だ!」
その声はまたたく間に広がった。
王都は平和な国だった。
平和であるということは、人々が慶びに飢えているということでもある。だから祝いの報せは、乾いた土に落ちる雨のように早く、深く、街に染み渡っていく。
王弟妃の出産は、特別に祝われた。
もともと彼女は人々に好かれていた。慎ましく、穏やかで、王弟レンテの長い不在にも弱音を吐かず、地下街改革という国の大きな事業が落ち着いたあとに授かった子である。人々はそこに、王家の私事ではない、国そのものの明るい兆しを見ていた。
神殿では朝の祈りが急きょ祝いの言葉に変わり、街路には花売りの籠から白い花が次々に買われていった。菓子屋は焼き立ての甘菓子を店先に山と積み、酒場でさえ昼から「今日はめでたい日だ」と声を張る。
王城の門前にも、自然と人が集まり始めていた。
もちろん勝手に押し寄せることはない。兵が制し、一定の距離は保たれる。だが人々はその場を離れようとしない。祈るように手を合わせる者もいれば、幼い子を抱き上げて「見なさい、よい日ですよ」と囁く母親もいる。
やがて王城の高窓が開かれ、侍従が姿を見せた。
広場はしんと静まる。
そして告げられる。
「王弟殿下、王弟妃殿下の御子、男子にございます」
歓声が上がった。
それは下品な騒ぎではない。
大きいが、どこか敬虔な歓声だった。
男子。
王家に男児が生まれた。
それだけで、人々の胸には一つの安堵が生まれる。
だがそのあと、さらにもう一つの言葉が続いた。
「御子は、ご母堂に似て緑の髪を宿しておられます」
一瞬、広場にいた者たちは意味を測りかねたように顔を見合わせる。
緑の髪。
王家の象徴は金。
だが、だからといって人々は戸惑いを長く引きずらなかった。
むしろ、次の瞬間には、ざわめきが祝福へと変わる。
「まあ、王弟妃様のお色を」
「お母君に似たのだわ」
「なんと愛らしい」
「それもまた龍の思し召しでしょう」
人々は、そういうふうに受け取った。
王家の子に宿る色は、ただの色ではない。
どの色であれ、そこに物語を見つけ、兆しを読む。
ましてそれが、慎ましく人々に愛されてきた王弟妃の髪色であれば、なおさらである。
花売りの老婆が涙ぐみながら言った。
「母君に似たなら、きっとやさしい殿下になるよ」
近くの若い女が笑って頷く。
「ええ、きっと」
そして誰からともなく、祝福の声が広場を満たしていく。
緑を宿した産毛。
それさえも、いや、それだからこそ、人々にはめでたいものに見えた。王家に新しい風が吹いたように感じられたのかもしれない。
国内だけではなかった。
昼を過ぎる頃には、近隣の有力貴族から祝賀の使者が立て続けに到着し、夕方には国外の使節にも報が届く。書状には、慶賀、祝福、今後の王家の繁栄を寿ぐ言葉が連ねられた。
国の内も外も、この誕生を吉事として受け止めていた。
王弟レンテは、生まれたばかりの子を腕に抱いていた。
赤子はまだ小さく、目もきちんとは開いていない。
薄い産毛は、たしかに母と同じ緑を宿していた。春の若葉をそのまま撫でてきたような、やわらかく、頼りない色だった。
レンテはしばらく何も言わず、その小さな顔を見つめていた。
王弟妃は寝台の上で疲れ切っていたが、その表情には深い安堵がある。
汗に濡れた髪が頬に張りついていても、目元は穏やかだった。
「……似ていますか」
細い声で問う。
レンテは顔を上げ、少し笑った。
「似ている」
「どちらに」
「お前に」
王弟妃は目を細めた。
その笑みには、ようやくたどり着いた者だけが持つ静かな幸福があった。
だが、王城のすべてが同じ幸福に満ちていたわけではない。
その同じ時刻、別の棟の奥では、王妃が唇を噛んでいた。
彼女の腹は、すでに人目にもはっきりと分かるほど大きくなっている。
双子を宿した身体は重く、ただ寝台から半身を起こすだけで息が切れた。
陣痛はまだ本格的ではない。
だが近づいている。
それは医師でなくとも分かる種類の痛みだった。
腹の底で、鈍く深く、時折息を奪うような波が起こる。しかも一度去っても、次には前より少しだけ重くなって戻ってくる。
王妃はそれを侍女に気づかれぬよう、爪を掌に立てて堪えた。
「王妃様、少しお休みを」
「休んでいます」
そう答える声は、まだ崩れていない。
薄桃色の髪はゆるく結われ、顔色は白い。だがその白さを病的に見せないだけの気丈さが、彼女にはまだ残っていた。
侍女が薬湯を差し出す。
王妃は受け取り、顔もしかめずに飲み干した。
その直後、腹の奥をぎゅうと締めつけるような痛みが走る。
一瞬だけ、視界がかすむ。
それでも王妃は眉一つ動かさなかった。
双子を宿している。
自分は正妃だ。
この身体は自分だけのものではない。
そう思えば思うほど、弱い顔を見せることができなくなる。
侍女たちは王弟妃の出産の報せに浮き立っていた。
それは自然なことだ。祝いの日なのだから。
王妃はそれを責める気にはなれない。
なれないからこそ、余計に、自分だけが別の場所に取り残されたような気分になる。
同じ王城の中で、新しい命の誕生が鐘となって響いている。
だが自分の身体の中では、祝いの鐘ではなく、もっと低く、重い鼓動が二つ、近づいてくる。
「王妃様……」
侍女の一人が、さすがにその白さに気づいて声を潜める。
王妃はわずかに首を振った。
「騒がなくてよいのです」
「ですが」
「王弟妃の出産の直後です」
その一言で、侍女は口をつぐむ。
祝いの最中に、別の不安を広げるな。
王妃はそう言っているのだ。
そして別の棟では、第二妃レンティアもまた、自分の痛みを飲み込んでいた。
彼女の腹も、王弟妃に続くように大きくなっている。
双子ではない。
それでも、妊娠が進めば当然、身体は重い。だるさもある。時折、下腹に鈍い張りが走ることもある。
だがレンティアは、それをほとんど口にしなかった。
公の場では相変わらず可憐で華やかに振る舞い、王の傍らに立てば、誰よりも柔らかな笑みを浮かべる。
その笑顔の裏に、夕方になると脚がむくみ、夜には腰が痛み、時に立ったまま目の前が白くなることがあるなどと、誰が気づくだろう。
彼女自身も、言おうとはしなかった。
王妃が双子を宿して苦しんでいる。
そのことを、レンティアはよく知っていた。
だから自分まで不調を訴える気にはなれなかったのだ。
ある夕刻、公的な祝賀の言葉を受ける短い席から戻ったあと、レンティアは廊下の角で一瞬、壁に手をついた。
深い青の髪が肩から流れ落ちる。
顔色が、ほんのわずかに失われる。
付き添いの侍女が慌てて近づいた。
「第二妃様」
レンティアはすぐに微笑んだ。
「なんでもありません」
「ですが、お顔が――」
「少し、立ち続けただけです」
声はやわらかい。
いつもの通りの、春風のような声だ。
侍女はなおも心配そうだったが、レンティアは首を振って歩き出す。
その姿は、やはり美しかった。
美しいからこそ、痛みを抱えているようには見えない。
だが、部屋へ戻って一人になった瞬間、彼女はそっと腹に手を当てた。
「……ごめんなさいね」
誰に向けた言葉か、自分でも分かっていなかったのかもしれない。
腹の子か。
あるいは、王妃か。
あるいは、自分自身か。
王家の春は明るい。
王弟妃の子は祝福を一身に受け、緑を宿した産毛さえ吉兆として人々に愛されている。
国外からも書状が届き、国内の市場では今日一日が祭りのようだった。
けれど同じ王城の中で、薄桃色の髪を持つ王妃は、双子の痛みに耐え、深い青の髪を持つ第二妃は、華やかな笑顔の下で自分の異変を押し隠している。
一人は正妃として。
一人は第二妃として。
どちらも、自分の役目を運命を受け入れて痛みを飲み込む。
夜が更ける頃、アレスはようやく一人の時間を得た。
だがその胸にあるのは、新たに生まれた甥への祝福だけではない。
祝福の鐘の余韻の向こうで、王は知っている。
次の痛みが、もうすぐ来る。
春の祝いは、まだ終わっていない。
けれど、祝いの次に来るものが、必ずしも穏やかであるとは限らなかった。
【4】
アルケスが生まれてから、十日ほどが過ぎていた。
王城の春は、まだ終わっていない。
だが最初の祝福に満ちていた明るさは、深い色へ変わり始めていた。
王弟妃の産んだ御子は健やかに育ち、王城の奥では日に何度も「母君によく似ておいでです」と囁かれていた。緑を宿した産毛は、十日を経てもなお柔らかな若葉のようで、乳母が抱き上げるたびに、その小さな頭の上へ春の光がそっと降りる。
王都の人々もまた、その誕生の余韻の中にいた。
市場にはまだ祝いの名残があった。
花売りの籠には白い花が多く積まれ、菓子屋は「王家のお祝いの春ですから」と言って、蜜を多めに落とした焼き菓子を店先に並べる。神殿へ祈りに行く女たちは、王弟妃と赤子の無事を祈る言葉を、ついでのようでいて決してついでではなく、毎朝の祈りに添えていた。
国の内にも、外にも、王家の新しい命を祝う空気が静かに流れている。
けれど王城の奥では、その明るさと正反対の、息を潜めるような時間がゆっくり満ちていた。
王妃の部屋である。
窓は半ば閉じられ、春の風さえ薄絹を通してしか入らない。
柔らかな微香が焚かれて、まだ暮れないうちから柔らかな燈に変えられていく。
侍女たちの足音も、器を置く音も、布の擦れる音までもが小さい。そこだけ、王城の中にもうひとつの夜が降りているようだった。
双子を宿した王妃の腹は、十日前よりもさらに重く見えた。
人の目には同じ十日でも、腹の内に命を抱える女の体には、十日という時は決して短くない。わずか十日で、息の継ぎ方が変わる。起き上がる時の肩の震え方が変わる。何より、腹の底で育つものの重さが、日ごとに別のものになっていく。
王妃は寝台に横たわり、薄桃色の髪を緩く編まれていた。
その色は、春の朝に咲く花びらのようにやさしい。けれどその色を持つ女自身は、少しもやさしいだけの人ではなかった。将軍家の娘として、痛みをこらえること、顔を変えずに耐えることを、呼吸と同じほど自然に身につけてきた人だった。
だから、侍女たちはよけいに恐れていた。
王妃が「大丈夫です」と言うたび、本当は大丈夫ではないのではないかと。
王妃が眉をしかめぬたび、その痛みはきっと言葉にならぬほど深いのではないかと。
その夜もまた、痛みの兆しはひどく静かに始まった。
最初は、王妃が目を閉じる時間が少し長くなっただけだった。
次に、寝台の布を握る指先に力が入る。
やがて、息を吐く音に、ほんのわずかな苦しさが混じる。
侍女の一人が、息を呑んで近づいた。
「王妃様」
王妃はすぐには返事をしなかった。
長い睫毛の影が、白い頬に落ちている。
しばらくして、ようやく瞼が上がった。
「……医師を」
その声は細かったが、命令としては十分だった。
侍女たちは一斉に動き出す。
湯が運ばれ、清潔な布が揃えられ、王家付きの医師たちが呼ばれる。
王妃の部屋は、たちまち静かな緊張に包まれた。
廊下の外では、夜の空気がゆっくり濃くなっていく。
春の夕空には薄い紫がにじみ、その向こうに一番星がかすかに瞬き始めていた。庭の木々は風を含み、葉擦れの音が、水の上を渡る手のようにやわらかく窓辺へ届く。
その頃、別の棟では第二妃レンティアもまた、腹を押さえていた。
王妃より遅れて懐妊したはずの彼女の身にも、その夜、同じように波のような痛みが訪れ始めていたのである。
けれど、レンティアはすぐにはそれを口にしなかった。
深い青の髪が肩から流れ落ちる。夜の灯を受けると、その色は昼間よりも深く、静かな湖水の底のように見えた。もともと彼女は、いるだけで空気をやわらげる女だった。可憐で、華やかで、誰もがつい「大丈夫そうだ」と思ってしまう。
今夜もそうだった。
侍女が見れば、顔色は少し悪い。
けれど笑えば、やはりいつも通りやさしい。
腹に手を当てる仕草さえ、絵物語の一場面のように美しい。
だからこそ、彼女は言えなかった。
王妃が双子を抱え、十日前からなお苦しさを深めていることを知っている。
正妃であるあの人の部屋へ、医師たちが最優先で向かうのは当然だとも分かっている。
自分まで同じ夜に痛いと言えば、どれほど場を乱すことになるだろう。
そう思った。
「第二妃様、お顔の色が……」
付き添いの侍女が心配しても、レンティアは首を振る。
「少し疲れただけです」
その言い方はいつも通りだった。
いつも通りであることが、余計に侍女を不安にさせる。
けれどその直後、腹の奥をえぐるような痛みが来た。
レンティアは息を止め、そっと寝台の縁を掴んだ。
白い指先が、布の上でかすかに震える。
それでも声を上げない。
王妃の部屋では、すでに王も呼ばれていた。
アレスが部屋へ入ると、まず目に入ったのは薄い灯の色だった。
暗いわけではない。けれど明るくもない。人を慰めるための灯ではなく、命を迎えるための灯だと分かる色だった。
寝台の上の王妃は、十日前の王弟妃とはまるで違う出産の顔をしていた。
王弟妃の時は、痛みの中にもまだ柔らかな幸福が前へ出ていた。
だが王妃の顔には、幸福より先に、耐えるという意志が見える。
双子。
その事実は、祝いである前に、王妃の身体へひどく具体的な重さを与えていた。
アレスは寝台の傍へ行き、その手を取った。
ひどく冷たかった。
「来ましたか」
王妃が言う。
その声は、かすれながらもまだ静かだった。
「来た」
王は短く答える。
王妃は目を閉じたまま、かすかに笑った。
「よろしい」
「何が」
「王は……遅れてはなりません」
その言葉に、アレスは眉を寄せる。
こういう時まで、この女は王妃なのだ。
ただ痛いと言い、苦しいと言い、泣いても許される夜のはずなのに、まだ王家の顔を捨てない。
「今は王ではなくていい」
王が低く言う。
王妃はそれに答えなかった。
次の痛みが、すでに来ていたからである。
部屋の空気が張りつめる。
医師たちの声が低く交わされ、侍女たちが湯の器を運ぶ。窓の外では、さきほどのやわらかな風がやみ、王城の木々が息を潜めたように静かになっていた。
その同じ頃、レンティアの部屋では、ついに侍女が泣きそうな顔で膝をついた。
「もう、お呼びいたします」
レンティアは苦しげな息の合間に、かすかに首を振る。
「王妃様が……」
「ですが、第二妃様も」
「まだ、耐えられます」
その言葉はやさしかった。
やさしすぎて、侍女はますます泣きたくなる。
レンティア自身も、もう耐えられる限界が近いことは分かっていた。
けれど彼女は、自分の痛みを王妃の痛みと比べてしまう。双子を宿した人の苦しさに比べれば、自分のこの痛みはまだ軽いのではないかと。そんな比較に意味がないと頭では分かっていても、心がそうしてしまう。
王妃の寝室では、ついに最初の子の姿が見え始めていた。
「見えました」
老医師の声は、低く、だが確かだった。
侍女たちが息を呑む。
アレスは王妃の手を握ったまま、その声を聞く。
王妃の額には汗が滲み、薄桃色の髪が頬へ張りついている。呼吸は浅く速く、けれど目だけはまだ閉じていない。まるで意地でもこの場を見届けるつもりでいるかのようだった。
そして――
「……小さい」
その言葉が、室内へ落ちた。
誰が言ったのか、分からないほど小さな声だった。
だが、王の耳にははっきり届いた。
生まれかけた赤子は、本当に小さかった。
医師の両手の中でさえ余るのではないかと思うほど、あまりにも小さい。肌は薄く、骨のかたちまで透けて見えそうで、呼吸ひとつ乱れればそのまま壊れてしまいそうだった。
後にカストルと名づけられる、その最初の子である。
アレスは息を呑んだ。
王妃はまだその姿を見ていない。
見る前に、次の痛みが迫ってきていた。双子の出産は終わりではない。第一子が出たその時から、次の命を迎える戦いが始まる。
その時だった。
扉の外で、誰かが駆け寄る音がした。
侍女の、切羽詰まった声。
「陛下……!」
部屋の空気が一瞬で冷える。
「第二妃様が、意識を――」
それだけで十分だった。
王の顔色が変わる。
医師たちは目を見交わす。
侍女たちは息を止める。
王妃の寝台の上だけが、なおも痛みの波の中にある。
アレスはほんのわずかに躊躇した。
その一瞬は、誰にも長く見えた。
そして王は、立ち上がった。
「医師を一人、あちらへ」
「陛下!」
老医師の声には、王を引き留める力があった。
だがアレスは顔を上げたまま、低く言う。
「すぐ戻る」
それが誰への言葉だったのか、王自身にも分かっていなかっただろう。
王妃は、その足音を聞いていたのかもしれない。
だが痛みの真っ只中にいる女の顔からは、もう何も読み取れなかった。
王が部屋を出たあとに残ったのは、あまりにも小さな赤子と、まだ終わらぬ出産の夜だけだった。
レンティアの部屋へ駆け込むと、そこには青白い静けさが満ちていた。
深い青の髪が寝台に散り、彼女はぐったりと身を横たえている。灯の色のせいか、白い頬はほとんど透けるようで、目を閉じたその姿はあまりに儚かった。
「レンティア」
アレスの声が落ちる。
返事はない。
王は膝をつき、その肩に触れた。
「レンティア」
今度はもっと近く、もっと低く。
その声に、長い睫毛がかすかに震えた。
遠くへ行きかけていた意識が、王の声に引き戻される。
まるで深い水の底から、光の射す方へゆっくり浮かび上がるように。
レンティアは、薄く瞼を開いた。
最初に見たのは、王の顔だった。
焦りを隠せない、金の髪の王の顔。
彼女はその顔を見て、かすかに笑おうとした。
「……そのようなお顔を」
アレスはその手を強く握った。
「黙れ」
けれど震えているのは王の声の方だった。
その時、痛みがまた深く来る。
レンティアは息を呑み、今度はもう隠さなかった。隠せなかった。
医師が急ぎ呼ばれ、侍女たちが動き出す。
部屋の空気が一気に熱を帯びる。
王の声が傍にある。
それだけで、レンティアの意識はかろうじてこの世へ繋ぎ止められた。
やがて、その小さな部屋にも産声が響く。
ヴィルギニス。
後にそう名づけられる子は、王妃の第一子ほど小さくはなかった。
だが、その声は驚くほど静かで、細く、それでいて水底から湧き上がるような確かさを持っていた。
レンティアはその声を聞くと、涙ぐんだように目を細めた。
「……生きている」
その言葉は祈りそのものだった。
アレスはようやく長く息を吐く。
「生きている」
王ではなく、一人の男の声でそう返した。
レンティアは汗に濡れ、疲れ切っていた。
それでもその表情には、春の夜明け前のような、淡くやわらかな幸福が差していた。
「陛下」
「話すな」
「いいえ」
レンティアはかすかに首を振る。
「王妃様……」
その一言で、王の表情が変わった。
幸福の熱が、一瞬で別の色に変わる。
レンティアはまだ息も整わぬうちに、王妃のことを思い出させた。
自分の子が生まれた喜びの中でも、なお。
アレスは立ち上がる。
「すぐ戻る」
レンティアは疲れ切った顔で、それでもやさしく微笑んだ。
「はい」
王は、再び走った。
廊下には冷たい空気が満ちているように思えた。背筋が冷えていく。
春の夜はやわらかいはずなのに、その時ばかりは水のように冷たく感じられた。灯の列が後ろへ流れ、王の影は壁に大きく伸びては消える。
王妃の部屋へ戻った時、そこにはまだ夜が終わらずに燃えていた。
湯の匂い。
汗の匂い。
生と死が紙一重で触れ合う、あの独特の熱。
そして、その真ん中に王妃がいる。
薄桃色の髪は汗に濡れ、頬へ張りつき、顔色は月光のように白い。
けれどその目は、まだ閉じていなかった。
双子を宿した女は、最後の力でなおこの世界に留まり、次の命を送り出そうとしていた。
医師の腕の中には、先に生まれた小さな赤子がいる。
あまりにも小さく、まるで春の早朝に落ちた花びらのようだった。触れれば壊れそうで、見ているだけで胸が冷たくなる。
その隣で、二つ目の命が今まさに生まれようとしていた。
そして次の瞬間、産声が重なった。
一つは、かすかで頼りない。
もう一つは、はっきりと胸を打つ。
小さすぎる赤子と、普通の大きさの赤子。
カストルとポルックス。
二つの命が、まったく違う姿で、同じ夜にこの世へ押し出された。
アレスはその場で立ち尽くした。
間に合ったのか。
遅かったのか。
そのどちらとも言えないまま、ただ二つの産声を聞いていた。
王妃はそこで、ようやく瞼を閉じた。
糸が切れるようではなく、張りつめた弓がそっと緩むように。
侍女たちは泣いていた。
医師たちはなお忙しく動いていた。
小さな赤子は弱々しく息をしている。
もう一人の赤子は、しっかりと泣いていた。
王はその光景の中で、春の夜がもう元の夜ではなくなったことを知った。
十日前に生まれた緑を宿した最初の祝福。
今夜生まれた、深い青の母の子。
そして薄桃色の髪の母が命を削って産んだ、二つの命。
王家の春は華やかだった。
だがその華やぎの奥に、こんなにも痛く、美しく、残酷な夜があることを、王はその時、骨の奥まで思い知った。
【5】
双子が生まれたあとの王城は、奇妙な静けさに包まれていた。
祝いがないわけではない。
むしろ、王家に一夜のうちに三つの命が加わったのだ。表向きには、これ以上ない吉事である。廊下を行き交う侍女たちは深く頭を下げ、神殿では感謝の祈りが捧げられ、朝になれば王都にも「王妃様に双子の御子」「第二妃様にも御子ご誕生」と知らされるだろう。
けれど、その祝いは、まっすぐな形をしていなかった。
王妃の第一子――小さすぎる赤子。
医師たちは夜明けまでその命をつなぎとめるために働き続けた。布を替え、身体を温め、胸の動きを見守り、泣き声ではなく、かすかな呼吸の上下に耳を澄ませる。小さな肋は薄く、指は細く、閉じた瞼はあまりにも繊細で、触れれば春の霜のように消えてしまいそうだった。
その子は生きている。
だが、生まれた瞬間から、明らかな弱さを抱えていた。
夜が明ける頃、王はようやく政務の間へ入った。
広い部屋ではない。
王が本当に重い話をする時だけ使う、小さな会議の間だった。窓は高く、差し込む朝の光はまだ白い。机の上には燭台の灯が残されており、その火が弱く揺れている。夜がまだ完全には終わっていないような部屋だった。
そこに、王の側近たちが集められていた。
宰相。
老臣。
王家付きの記録官。
将軍家の代表。
そして王家の血筋と継承を司る古参の家臣たち。
皆、いつも以上に沈黙している。
王が席につくと、布の擦れる音ひとつ消えた。
アレスはしばらく口を開かなかった。
その顔には、眠っていない者の影があった。
だが疲労だけではない。王としての顔の上に、まだ父としての痛みが残っている。
やがて、王が言った。
「報告を」
それだけで、老医師が一歩前へ出た。
昨夜から王妃の寝室に詰めていた男である。髪は白く、目の下には濃い影が落ちていた。
「王妃様の第一子は」
その言葉だけで、部屋の空気が張りつめる。
「命を得ております」
誰もすぐには息を吐かなかった。
「ただし」
老医師は続ける。
「非常に小さく、お身体も弱く……今後、常の御子のようにはいかぬ可能性がございます」
その言い方は慎重だった。
だが遠回しにはしていない。
持病を持って生まれた。
そういうことだった。
王は黙って聞いている。
老医師は視線を落とし、さらに言った。
「今はまだ、生きておられます。乳を飲む力も、泣く力も弱うございますが、命の灯は消えておりません」
生きている。
その事実が、かえってこの話を難しくしていた。
死産ではない。
生きている王の子である。
しかも、王妃の第一子。
それが意味するものを、この場にいる者で知らぬ者はいなかった。
王妃の第二子――ポルックスについては、比較にならぬほど安定していた。声もよく出る。四肢の動きも強い。第二妃の子――ヴィルギニスも、静かながら命はしっかりしている。
だからこそ、問題はより残酷に輪郭を持った。
王妃の子が、王位継承権一位である。
それは動かしがたい。
だが、その第一子が、目に見えて弱い。
ならばどうするのか。
王妃の第二子を一位と見るのか。
それとも、第一子の次に生まれた第二妃の子を一位と見るのか。
沈黙が長く落ちた。
最初に口を開いたのは、宰相だった。
「陛下」
声は低く、慎重だった。
「継承順位について、いずれ整理が必要になりましょう」
その言葉は、婉曲なようでいて、まっすぐだった。
将軍家の代表である年配の武官が、わずかに眉を寄せる。
「いずれ、では遅いのではないか」
その声音には、抑えた焦りがある。
当然だった。
王妃は将軍家の娘である。しかも双子の母になった。その第一子が継承から外れるか否かは、家にとっても大きい。
宰相が視線だけを向ける。
「では今この場で決めよと?」
「王家に三人の男子が生まれたのだ。しかも順が複雑だ」
武官は言う。
「曖昧にしておけば、いずれ諍いの種になります」
記録官が低く咳払いをした。
「生まれた順に記せば」
「記せば済む話ではあるまい」
と、今度は別の老臣が口を挟んだ。
「第一子が病を持つと見える以上、後の世に『なぜあの時に定めなかった』と言われることになる」
王はまだ黙っていた。
部屋の隅で燭の火が小さく鳴る。
朝の光は少しずつ強くなっているのに、この部屋だけがまだ夜のままだった。
将軍家の代表が、ついに言った。
「王妃様の第一子は正嫡の長子です」
その言葉は重い。
「たとえお身体が弱くとも、継承権一位であることは揺るぎません」
老臣の一人がすぐに反論する。
「ですが、王たる器は命あってこそ」
「器とは何を指す」
「国を背負うことです」
「赤子に背負わせる話をしているのではない」
「今決めねば、あとで背負わせることになる」
声は荒げられていない。
それでも、部屋の空気は張っていた。
宰相がそこで、ようやく核心へ触れる。
「論点は二つでございます」
誰もがその先を知りながら、耳を傾けた。
「王妃様の第二子を第一子に代わる継承権一位とみなすか」
一拍置く。
「あるいは、第一子の次に誕生した第二妃様の子を、順として一位に繰り上げるか」
その言葉が部屋の中央に落ちる。
誰も動かなかった。
王妃の第二子――ポルックス。
第二妃の子――ヴィルギニス。
どちらを上に置くか。
それは単なる誕生順ではない。
正妃腹か、第二妃腹か。
家の格か、実際の順か。
王家が何を優先する家であるか、その答えそのものだった。
将軍家の代表は、低く言った。
「正妃腹の第二子を越えて、第二妃の子を上に置くなどあり得ぬ」
それは感情ではなく、家格の論理だった。
だが別の老臣は静かに返す。
「しかし、第二妃の子は第一子の次に生まれております」
「王妃様の第二子は双子の後の子だ」
「腹が上でも、産声の順が下なら、記録は下になる」
「それは庶民の家の話だ」
「王家であるからこそ、記録は正確でなければならぬ」
言葉の応酬は静かに続く。
だが、その静けさがかえって鋭かった。
王は、そこでようやく顔を上げた。
それだけで、全員が口を閉じる。
アレスの赤い瞳には、ほとんど感情が見えなかった。
だがそれは、感情がないからではない。見せぬようにしているのだと誰もが知っていた。
「お前たちは」
王の声は低い。
「赤子を、もう秤に乗せるのか」
その一言に、誰もすぐには返せなかった。
王の怒りではない。
王の疲れでもない。
もっと深い、父としての痛みが混じっていた。
宰相が頭を下げる。
「陛下」
「承知しております。ですが、国は待ってくれませぬ」
「……だからこそ、今ここで線を引くべきかと」
王は机に置かれた自分の手を見た。
その手は昨夜、王妃の手を握り、レンティアの手を握り、小さすぎる赤子を前に何もできず立ち尽くした手だ。
王としては、決めねばならぬ。
父としては、まだ決めたくない。
その裂け目が、はっきりと胸の内にあった。
「第一子は生きている」
王は言う。
「それがすべての前提だ」
将軍家の武官が深く頷く。
「御意」
だが、宰相は慎重に続けた。
「生きておられる。ゆえにこそ、御病が継承へどう影を落とすかも、また見ておかねばなりません」
王の目が、わずかに細まる。
記録官が静かに進み出る。
「ならば、こう記すことはできます」
皆の視線が集まる。
「第一子を継承権一位とする」
「ただし、将来において王務に堪えぬと判断された場合、改めて順位を定め直す」
老臣がすぐに問う。
「その場合、次は誰になる」
記録官は言葉を切った。
そこが、誰も簡単に言えぬ部分だった。
王妃の第二子か。
第二妃の子か。
王家の血は、まだ生まれたばかりの赤子の上で、すでに分かれ道を見せている。
王はゆっくりと立ち上がった。
朝の光が肩に落ちる。
夜の灯は、その光に押されて小さく見えた。
「今は」
その声は、王の声だった。
「第一子を一位とする」
将軍家の代表が、ほっとしない顔で頷く。
宰相は無言で頭を垂れる。
誰も、それで終わりだとは思っていない。
王は続けた。
「第二子と、第二妃の子の順位については」
そこで一度、言葉を切る。
「今は決めぬ」
部屋の空気が、もう一度緊張する。
「先送りにございますか」
誰かがそう言った。
王は視線を向けた。
「先送りではない」
「赤子は、まだ名を得たばかりだ」
「その上へ、いまこの場で生涯の軽重まで載せるつもりはない」
その言葉には、明らかな拒絶があった。
王としてか。
父としてか。
あるいは両方としてか。
宰相はしばらく沈黙したのち、静かに頭を下げた。
「承りました」
他の家臣たちも、それに倣う。
会議は終わったわけではない。
ただ、これ以上この朝に進めることはないと、誰もが悟ったのだ。
王が部屋を出る時、老医師が低く声をかけた。
「陛下」
アレスが振り向く。
「第一子は、まだ生きております」
その言葉の意味を、王は分かっていた。
まだ、生きている。
だから決めるには早い。
だが、いつか決めねばならない。
王はほんの短く頷き、部屋を後にした。
廊下には朝の光が満ち始めていた。
窓の外では、十日前に生まれたアルケスを祝った時と同じ春の空が広がっている。だが王の胸の内にあるのは、あの時のようなまっすぐな祝福ではなかった。
王妃の小さすぎる第一子。
王妃の第二子。
第二妃の子。
三つの小さな命は、まだ何も知らない。
ただ息をし、泣き、眠るだけの存在だ。
それなのに、王家ではその瞬間から、もう秤の上に置かれてしまう。
アレスは足を止め、春の光の中でふと目を閉じた。
王であるとは、こういうことなのだろう。
幸福の瞬間でさえ、純粋な幸福のままでは持っていられない。
そして王は、再び歩き出した。
【7】
夜はまだ完全には明けていなかった。
王城の東塔の窓から、ようやく薄い灰色の光が差し始めている。春の朝は静かで、鳥の声もまだ遠い。城の庭は夜露を抱え、若い葉の上に小さな水の粒をいくつも残していた。
第二妃レンティアの部屋は、その静かな朝の色に包まれていた。
灯はまだ落とされていない。
柔らかな橙の光が壁の織物に揺れ、薄い幕を通して寝台へ落ちている。湯の匂いと、薬草のほのかな香りが混ざり、夜の長さを物語っていた。
レンティアは、まだ半身を起こすこともできず、寝台に横たわっていた。
深い青の髪はほどけて枕へ広がり、額にはうっすらと汗が残っている。出産のあとで身体は鉛のように重く、手を動かすだけでも息が浅くなる。それでも彼女の腕の中には、しっかりと小さな重みがあった。
ヴィルギニス。
生まれたばかりの赤子は、布に包まれて静かに眠っている。
その顔はまだ皺が多く、瞼は薄く閉じられている。だが鼻筋ははっきりしていて、長い睫毛の影が頬へ落ちていた。ときどき小さく口を動かし、まるで夢の中で何かを探すように指先を震わせる。
レンティアは、そっとその手を指で包んだ。
あまりにも小さい。
けれど、確かな温かさがある。
「……あなた」
声は掠れていた。
自分の子に、初めて呼びかける声だった。
ヴィルギニスは目を覚まさない。
ただ呼吸のたびに胸がかすかに上下する。
その小さな動きが、レンティアの胸の奥をゆっくり満たしていく。
亡命して王城へ来てから、彼女は多くの夜を過ごしてきた。
華やかな宴の夜。
静かな読書の夜。
王と語り合う夜。
けれど、今の夜はそれらとはまったく違う。
自分の身体の内から生まれた命が、腕の中で眠っている。
それは、これまで経験したどんな幸福とも違う種類の静けさだった。
レンティアは、しばらくその小さな顔を見つめていた。
そして、ふと目を伏せる。
隣の棟のことを思い出したからだった。
王妃。
あの人も今夜、子を産んだ。
しかも双子。
そのことを思うと、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
レンティアは王妃のことを嫌ってはいなかった。
むしろ尊敬していた。
将軍家の娘として育った強さ。
王妃としての気高さ。
決して弱い顔を見せない、あの背筋。
王城へ来て間もない頃、レンティアは何度もその姿に救われたことがある。
亡命王女。
その言葉だけで、人は距離を置く。
同情する者もいれば、腫れ物を見るように扱う者もいる。だが王妃は違った。
表向きは冷静で、礼を欠くことはない。
必要以上に近づきもしない。
だが、軽んじることもない。
それだけで、どれほど救われたか。
だからこそ。
今夜のことが、胸に引っかかっていた。
王が一度、王妃のもとを離れて、自分の部屋へ来たこと。
その時の王の顔。
焦りと恐れを隠しきれない、あの表情。
レンティアは、王のその顔を忘れられない。
そして、自分が子を産んだあと、王が再び急いで王妃の部屋へ戻っていったことも。
それは当然だった。
当然で、正しい。
けれど、心は理屈だけでは動かない。
レンティアはそっとヴィルギニスの額へ口づけた。
「……ごめんなさいね」
誰へ向けた言葉なのか、自分でもはっきりしなかった。
王妃か。
自分の子か。
それとも、この複雑な場所に生まれてしまった運命そのものか。
その時、扉が静かに開いた。
乳母が入ってくる。
年配の女で、柔らかな目をしていた。彼女はそっと近づき、レンティアの腕の中の赤子を見て、静かに微笑んだ。
「お休みになられませんと」
レンティアは小さく首を振る。
「少しだけ……」
もう少し、この温もりを感じていたかった。
乳母はそれ以上言わなかった。
ただ赤子の布を整え、灯を少し落とす。
部屋の光が柔らかくなる。
その沈黙の中で、レンティアはもう一度思う。
王妃の子。
二人の赤子。
小さすぎる子がいると、さきほど侍女が囁いていた。
胸の奥がきゅっと縮む。
「……生きていますように」
レンティアは、誰にも聞こえない声でそう言った。
それは祈りだった。
自分の子のためではない。
王妃の子のための祈り。
その祈りは、静かな朝の空気に溶けていった。
窓の外では、夜の色が少しずつほどけている。
東の空が薄く白み、庭の露が光を受け始める。
王城の春は、まだ続いていた。
三人の母。
四人の赤子。
それぞれが別の場所で、同じ朝を迎えている。
そして、その小さな命たちはまだ知らない。
この城で生まれるということが、どれほど多くの視線と、どれほど重い運命を背負うことになるのかを。
レンティアは、腕の中のヴィルギニスを抱きしめた。
その温かさを、胸の奥へ深く刻むように。




