第十四章
【1】
僕がまだ小さかった頃、王城の廊下は今よりもずっと広く見えた。
石の床はいつも磨かれていて、窓から差し込む光が長く伸びる。その光の帯の上を、僕は何度も走った。翡翠の髪を揺らして、侍女たちに何度叱られても懲りなかった。
「アルケス殿下、走ってはいけません」
そう言われるたびに僕は振り返る。でも足は止まらなかった。廊下の先には、必ず父がいたからだ。
父は王ではなかった。
その頃、玉座に座っていたのは父の兄――先代王アレスだった。
父はその隣に立っていた。
地図が広げられるときも、騎士が報告をする時も、外交使節が来るときも、父は王のすぐ横に立ち、静かに耳を傾けていた。父が口を挟むことはほとんどなかったが、王は時折父の方を振り返り、短く言葉を交わした。
そのやり取りは不思議だった。
長い説明はない。
だが、二人の間には言葉以上のものが通っていた。
僕はそれを眺めるのが好きだった。
ある日、僕は父に聞いた。
「どうして父上は座らないの?」
玉座はひとつしかない。
でも父はいつもそのすぐ横に立っていた。
父は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「王は一人でいい」
その言葉は簡単だったが、父の声にはどこか温かいものがあった。父は玉座に座る兄王を見ていた。その視線には羨みも焦りもなく、ただ穏やかな敬意があった。
先代王アレスは、優しい人だった。
強い王だったと誰もが言う。
戦でも外交でも、負けを知らない王だったと。
だが僕の記憶に残っているのは、もっと違う姿だ。
ある日、城門の前で、泥だらけの農民が跪いていた。干ばつで畑が枯れたと訴えに来た男だった。兵が遠ざけようとしたが、王はそれを止めた。
「立ちなさい」
そう言って、王は自ら男を立たせた。
「王の前で土に伏す必要はない。土は畑のためにある」
男は震えていた。王はその肩を軽く叩いた。
「麦はまた実る」
その声は強い命令ではなく、約束のようだった。
その日の夕方、倉から麦が運び出されるのを僕は見た。王は民の言葉を聞き、そして動いた。
そういう人だった。
そしてもう一つ、僕の記憶に残っている光景がある。
玉座の前の広間。
そこには小さな二つの影があった。
カストルとポルックス。
二人は王の子だった。
僕と同じ年に生まれた。
カストルは小さかった。
僕よりも背が低く、体も細い。
でも先代王はよく彼を抱き上げた。まるで壊れやすい宝物のように、慎重に、優しく。
「重いな」
そう言いながら笑う王の声を覚えている。
カストルはその腕の中で、少し照れくさそうに顔を背けていた。
ポルックスはその横で、静かに王の袖を掴んでいた。
僕は少し離れた場所からそれを見ていた。
羨ましかったわけではない。
ただ、不思議だった。
王はいつも忙しいのに、あの二人を見つけると必ず足を止めた。膝を折り、目の高さを合わせ、言葉を交わした。
ある日、王は僕にも声をかけた。
「アルケス」
僕は驚いた。
王が自分の名前を呼ぶのは珍しかった。
「はい」
「剣は好きか」
僕は少し考えてから頷いた。
王は笑った。
「剣は重い。だが王の言葉はもっと重い」
そして僕の肩に手を置いた。
その手は大きくて、温かかった。
「人を守るために使うなら、剣は良いものだ」
それだけ言って、王は歩き去った。
父はその背中を見ていた。
僕も見ていた。
その背中は大きかった。
その背中が、川の濁流に消えた日まで。
行幸の帰りだった。
川が氾濫した。
橋が壊れ、民が取り残された。
王は最後まで民を渡らせた。
そして――戻らなかった。
城の空気が変わった。
父が王になった。
僕は第一王子になった。
そしてカストルは第二王子になった。
あの日、僕はカストルの横顔を見た。
彼は泣かなかった。
赤い瞳で、ただ玉座を見ていた。
長い時間。
その目の奥には、怒りと、悲しみと、何か言葉にできないものが混ざっていた。
ポルックスはその隣に立っていた。
兄の袖を静かに握っていた。
僕は少し離れた場所にいた。
父が王の衣を着て玉座へ座るのを見ながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。
その夜、父は僕に言った。
「アルケス」
「はい」
「お前は王になるかもしれない」
僕は首を振った。
「王子はカストルです」
父は少し黙った。
そして静かに言った。
「そうだ」
その声は否定ではなかった。
ただ、重かった。
父は僕の肩に手を置いた。
「だからこそ」
父の目は真っ直ぐだった。
「よく見ておけ」
「王とはどういうものか」
僕は玉座を見る。
そして、王を思い出す。
先代王アレス。
優しくて、強くて、民を守ることを当たり前のようにしていた人。
もし王が今も生きていたら。
王太子はきっとカストルだった。
血が違う。
僕の父は王弟で、彼の父は王だった。
それは覆らない。
でも――
僕は時々考えてしまう。
王は優しい人だった。
そして優しさは、必ずしも人を守れない。
だからこそ、王は強くなければならない。
窓の外で風が吹いた。
港にはラルグスの船が並んでいる。麦を積んだ船。飢えを止める船。
王の秤は、今も動いている。
僕は窓を見ながら小さく呟いた。
「……伯父上」
その声は誰にも聞こえない。
けれど僕は思った。
もし先代王が今も生きていたなら、きっと同じことをするだろう。
民を守る。
そのために王はいる。
翡翠の髪が風に揺れた。
そして僕は静かに息を吸った。
僕はまだ王ではない。
ただの十一歳の王子だ。
それでも――
いつか、この秤の上に立つ日が来る。
その時、先代王のような王になれるのか。
その答えを、僕はまだ知らない。
【2】
カストルが五つか六つのころ、王城の廊下はいつも静かだった。
足音はよく響く。
石の床が広いからだ。
だから、誰が歩いているのか、遠くからでも分かる。
侍女たちは、カストルの足音をすぐに覚えた。
とん、とん、とん。
軽くて、少し急いでいて、
そして途中で急に止まる。
そうすると侍女たちは身を固くした。
怒るかもしれない。
何か言われるかもしれない。
そう思うからだ。
その日も、カストルは廊下の途中で止まった。
目の前には侍女がいた。
若い侍女で、まだ仕事に慣れていない。
手に衣を抱えている。
カストルはそれを見て言った。
「おそい」
侍女はびくっとした。
「も、申し訳ありません」
「おそい」
カストルはもう一度言った。
侍女の手が震える。
カストルはそれを見ていた。
震えている。
どうしてだろう。
怒っていないのに。
カストルは眉を寄せた。
「ヴィルギニス」
廊下の壁の近くで、本を持っていた少年が顔を上げた。
青い髪の王子。
第四王子ヴィルギニス。
カストルと同い年だ。
ヴィルギニスはすぐに本を閉じて歩いてきた。
「はい」
「これ」
カストルは侍女の持っている衣を指差した。
「やれ」
ヴィルギニスは侍女から衣を受け取った。
侍女は一瞬迷ったが、何も言えなかった。
そしてヴィルギニスはカストルの肩に衣をかけた。
静かな手つきだった。
カストルはそれを当然のように受けた。
昔は違った。
カストルがヴィルギニスに何かをさせようとすると、必ず誰かが止めた。
侍女が言う。
「殿下、それは……」
侍従が言う。
「第四王子にそのようなことは」
でも、その声は少しずつ減っていった。
理由は、皆わかっていた。
カストルは王の子だった。
先代王の嫡子。
血統の一番上。
それに対してヴィルギニスは――
亡くなった第二妃の子。
しかも母は、滅びた国の王女。
城の大人たちは、最初はヴィルギニスを守ろうとした。
だが年が経つにつれ、その声は小さくなっていった。
王の子を止めるのは、難しい。
それが分かっているからだ。
カストルはそのことを知らない。
ただ、誰も止めなくなったことだけ知っている。
衣の紐が結ばれる。
ヴィルギニスが言った。
「できました」
カストルはうなずいた。
それから侍女を見た。
侍女はまだ立っている。
顔が青い。
「もういい」
カストルが言う。
侍女は慌てて頭を下げた。
「失礼します」
走るように去っていく。
廊下が静かになる。
カストルはヴィルギニスを見る。
「ほん」
ヴィルギニスはすぐに本を開いた。
カストルはそれを聞きながら窓の外を見た。
城の庭。
騎士が訓練している。
剣がぶつかる音。
カストルはそれを見て言った。
「おれもやる」
ヴィルギニスが言う。
「医官が」
カストルは顔をしかめた。
「しらない」
医官はいつも同じことを言う。
走るな。
無理をするな。
休め。
カストルはそれが嫌いだった。
だって自分は王の子だからだ。
王は強い。
皆そう言う。
だからカストルは思う。
自分も強い。
そうじゃないといけない。
でも、時々。
走ると胸が痛い。
長く立つと息が苦しい。
その時、侍従たちが小さな声で言う。
「第二王子は……」
「体が」
その言葉の続きを、カストルは聞かなくても分かった。
だから怒る。
机を蹴る。
花瓶を割る。
本を投げる。
侍女が泣く。
騎士が困る。
そうすると、皆は言う。
「カストル殿下は」
「わがままです」
「癇癪持ちです」
カストルはそれを知っている。
でも思う。
それでもいい。
弱いと思われるより。
怖い方がいい。
カストルはヴィルギニスを見る。
ヴィルギニスは本を読んでいる。
声は静かだ。
怒らない。
逃げない。
カストルは言った。
「おまえ」
ヴィルギニスが顔を上げる。
「なんですか」
「いや?」
ヴィルギニスは少し考えた。
それから言う。
「いいえ」
カストルは少し笑った。
「うそだ」
ヴィルギニスは何も言わなかった。
窓の外で風が吹いた。
雲が流れている。
カストルは小さく言った。
「おれは」
ヴィルギニスは聞いている。
「おうになる」
その言葉は子供の声だった。
でも、それだけは揺れなかった。
「だって」
カストルは胸を張る。
「おうのこだから」
ヴィルギニスは静かに本を閉じた。
そして言った。
「はい」
その声は、とても静かだった。
廊下の向こうで侍女たちの声がする。
「第二王子は」
「こわい方です」
カストルはその言葉を聞いていない。
でもその噂は、城の中で少しずつ広がっていった。
【3】
その頃、カストルはまだ六つだった。
王城の南の庭は、春になると柔らかな光に包まれる。石造りの城の影も、この庭に落ちるとどこかやさしい形になる。芝の上には小さな白い花が咲き、遠くの噴水の水音が、静かな風に混じって聞こえていた。
カストルは走っていた。
走ると胸が苦しくなると、医官は何度も言った。侍女も、侍従も、騎士も、同じことを言う。
「殿下、走ってはいけません」
だがその日は、どうしても走りたかった。
庭の端に、父がいたからだ。
先代王アレスは噴水のそばに立っていた。王衣ではなく、軽い外套を羽織っている。騎士も侍従も少し離れた場所に下がり、王と王子の間には静かな空気だけが残されていた。
カストルは息を切らして走り寄った。
「ちちうえ!」
声が弾む。
王は振り向いた。
その顔に浮かんだ笑みは、王としての顔ではなかった。柔らかく、どこか嬉しそうで、まるで普通の父親のようだった。
「カストル」
王は膝を折り、目の高さを合わせた。
「また走ったのか」
声は叱っていない。
ただ、少し困ったように笑っている。
カストルは胸を張った。
「はやい!」
王はその小さな肩に手を置いた。
その手は大きくて温かかった。
「速いのは良いことだ」
そう言ってから、王は少しだけカストルの胸に手を当てた。
鼓動を確かめるように。
「……だが、無理はするな」
カストルは首を振る。
「だいじょうぶ」
子供の声だった。
王はしばらくカストルを見ていた。赤い瞳。小さな体。まだあどけない顔。
その中に、自分と同じ血が流れている。
王はそのことを誰よりも知っていた。
「ポルックスは?」
王が聞く。
カストルは振り返った。
少し離れた芝の上に、もう一人の少年が立っている。淡い桃色の髪を揺らしながら、静かにこちらを見ていた。
ポルックスだった。
「兄上」
ポルックスは歩いてくる。
その歩き方は落ち着いていて、まるで年上のようだった。
王は笑った。
「お前はいつも落ち着いているな」
ポルックスは少し照れたように頭を下げた。
「兄上が走るので」
カストルはそれを聞いて眉を寄せた。
「おれ、はやい!」
ポルックスは微笑んだ。
「はい、兄上は速いです」
その言葉に、カストルは満足したように頷いた。
王は二人を見ていた。
双子。
同じ日に生まれた二人。
だが体は違う。
ポルックスはすらりとした体つきで、息も乱さない。
カストルは小さく、胸が早く上下している。
その差を、王は知っていた。
医官の報告も聞いている。
病。
成長。
将来。
それらの言葉は、すべて王の耳に届いていた。
だが王はそのことを、子供たちの前で口にしたことはない。
その日も、ただカストルの頭を撫でた。
「今日は風が良い」
王は空を見上げる。
「剣の稽古には良い日だ」
カストルの目が輝く。
「やる!」
王は笑った。
「だが今日は見るだけだ」
カストルは不満そうに唇を尖らせた。
「どうして」
王は少し考えた。
そして言った。
「王は」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「まず、よく見るものだ」
カストルは首を傾げる。
「みる?」
王は頷く。
「人を見る」
「国を見る」
「そして」
少しだけ間を置く。
「自分を見る」
カストルはよく分からない顔をした。
だが王はそれで良かった。
まだ六歳の子供に、すべてを理解させる必要はない。
その時、侍従が静かに近づいてきた。
「陛下」
王は振り向く。
侍従は耳元で何かを囁いた。
王の表情は変わらなかった。だが瞳の奥に、ほんのわずかな影が落ちる。
医官の報告だった。
カストルの体のこと。
王は頷いた。
「分かった」
侍従は下がる。
王は再び子供たちを見た。
カストルは噴水の水を触ろうとしている。ポルックスはそれを止めている。
「兄上、濡れます」
「いい!」
二人は笑っている。
その光景を見ながら、王の胸の奥に静かな痛みが生まれる。
もし。
もしこの子が健康だったなら。
もし体が強かったなら。
王は視線を落とす。
王は父でもある。
だが同時に王でもある。
王位。
血統。
国。
それらは情だけで決められるものではない。
それでも。
王はゆっくり歩き、カストルの隣に立った。
そしてその小さな手を握った。
「カストル」
「なに」
王は言う。
「お前は私の子だ」
それは簡単な言葉だった。
だが王にとっては、誓いに近い言葉だった。
カストルは笑った。
「しってる!」
王も笑った。
その笑顔は、王ではなく父の顔だった。
だがその夜、王は一人で長い時間、灯の前に座っていた。
机の上には医官の書状がある。
そこには、冷たい文字でこう書かれていた。
――王子の体は、強くはない。
王はそれを見つめた。
長い時間。
そして静かに呟いた。
「……それでも」
その声は小さかった。
誰にも聞こえない。
「それでも」
王は書状を閉じる。
そして灯を消した。
庭ではまだ、子供たちの笑い声が残っているような気がした。
【4】
その頃、王城にはまだ子供の声がなかった。
広い庭は静まり、廊下も昼間でさえ落ち着いている。王の居城でありながら、どこか広すぎるほどの静けさがあった。
夜になると、その静けさはさらに深くなる。
アレスは廊下を歩いていた。
灯りが壁に並び、足音が遠くまで響く。城の夜は、昼とは別の場所のようだった。昼は王として人に囲まれる。夜は一人になる。
王という存在は、昼と夜で違う顔を持つ。
アレスは窓の前で足を止めた。
庭が見える。
月が芝を照らし、噴水の水が静かに落ちている。
この城にはまだ王子がいない。
それは国にとっても、王にとっても小さくない問題だった。
王家は続かなければならない。
血は絶えてはならない。
アレスはそれを理解している。
その時、後ろで扉が開いた。
「陛下」
振り向くまでもない。
正妃だった。
将軍家の娘。
王国の武門を束ねる名門の家に生まれた女性だ。幼い頃から軍の規律の中で育ち、背筋の伸びた姿には武家の気風が宿っている。
しかしその顔立ちは、驚くほど静かな美しさを持っていた。
アレスは少し笑った。
「まだ起きていたのか」
正妃は首を振る。
「陛下の灯りが見えました」
彼女は窓の隣に立つ。
夜の庭を見た。
「お考え事ですか」
アレスは少しだけ息を吐いた。
「王とは考える仕事だ」
正妃は小さく笑う。
「将軍家でも同じです」
沈黙が落ちる。
遠くで風が木を揺らした。
やがてアレスは言った。
「今日、亡命者が到着した」
正妃の視線が少し動く。
「ラルグスの」
アレスは頷いた。
隣国ラルグス。
その国では王朝が倒れた。内戦だった。新しい王家が古い王家を追い落とし、宮廷は焼かれ、王族の多くが命を落とした。
そして今日。
その王家の最後の生き残りが、この城へ来た。
王女だった。
アレスは彼女を見た時のことを思い出す。
城門の前で馬を降りた少女。
衣は旅で汚れ、靴は泥にまみれていた。長い髪は乱れている。
だがその姿には、消えない気品があった。
王族の血は消えない。
それをアレスは知っている。
彼女は頭を下げなかった。
膝もつかなかった。
ただ静かに言った。
「保護を願います」
その声は震えていた。
だが誇りは残っていた。
正妃が言う。
「お美しい方だと聞きました」
アレスは少し笑った。
「見たのか」
「いいえ」
正妃は言う。
「侍女たちの話です」
王城では噂はすぐ広がる。
亡命王女の話もすでに広まっていた。
正妃は続ける。
「まだ若いそうですね」
「若い」
アレスは答える。
「そして」
少し言葉を止める。
「孤独だ」
祖国を失い、家族を失い、宮廷も失った。
王族でありながら、行き場を失った少女。
アレスは窓の外を見た。
そして言った。
「私は彼女を保護した」
正妃は頷く。
それは王として当然の判断だった。
亡命王族を守ることは外交の意味を持つ。
だがアレスは続ける。
「だが」
その言葉は重かった。
正妃は黙って聞く。
アレスは言う。
「それだけでは済まない」
夜風が庭を渡る。
旗が遠くで揺れた。
アレスはゆっくり言った。
「彼女を第二妃として迎えるべきか」
正妃はしばらく黙っていた。
驚きはしない。
彼女は将軍家の娘だ。
王の婚姻が政治であることを、最初から理解している。
やがて正妃は言った。
「それは」
少しだけ間を置く。
「国のためですか」
アレスは頷く。
「ラルグスの旧王朝を保護する」
「それは外交の均衡になる」
新王朝への牽制にもなる。
王女を保護することは、政治的な意味を持つ。
正妃は庭を見る。
「……そうでしょうね」
その声には悲しみも怒りもなかった。
ただ理解があった。
「陛下」
正妃は言う。
「私は将軍家の娘です」
その言葉は静かだった。
「王の婚姻が国のためであることは承知しています」
アレスは彼女を見る。
正妃は続けた。
「ただ」
少しだけ微笑む。
「その王女を大切にしてください」
アレスは目を細める。
正妃は言う。
「祖国を失った人です」
「王城は冷たい場所ですから」
その言葉を聞いた時、アレスは改めて思った。
この女性を正妃に迎えたことは、王として正しかった。
そして。
遠くの塔の鐘が鳴る。
夜は深い。
だがその夜、王の運命は静かに動いた。
亡命王女は、やがてこの城に住むことになる。
【5】
その春、王城には風がよく通った。
冬の冷たさが消え、石造りの城壁の隙間を柔らかな空気が流れる。庭の芝は新しく芽吹き、噴水の水は陽を受けて淡く光っていた。
だがその穏やかな季節に、王城の空気だけは静かに揺れていた。
隣国ラルグスの内戦。
王朝が滅び、宮廷が焼かれ、王族の多くが命を落としたという報せが届いたからだ。
そしてその数日後。
一つの知らせが城門に届いた。
――亡命者。
しかもそれは、ただの亡命者ではなかった。
旧王朝の王女。
その知らせを聞いた時、城の者たちは顔を見合わせた。
王族を保護することは、王として当然の行いだ。
だがそれは同時に、ラルグスの新王朝を敵に回す可能性を意味する。
貴族たちは囁き合った。
神官たちは眉をひそめた。
宰相は長く沈黙した。
それでも――
アレスは城門へ向かった。
その日の空は曇っていた。
雨は止んでいたが、空気にはまだ湿りが残っている。城門の石畳には水が残り、馬の蹄がその水を踏み散らしていた。
門の前に、一台の馬車が止まっている。
豪華なものではない。
むしろ粗末だった。
旅の泥で汚れ、車輪には乾いた土がこびりついている。護衛の騎士たちの鎧も傷だらけだった。
長い逃避行を物語っていた。
兵が扉を開ける。
最初に降りたのは侍女だった。
衣は破れ、顔には疲労が色濃く残っている。
続いて護衛の騎士。
そして最後に――
少女が降りた。
城門の前の空気が止まる。
少女は旅の衣をまとっていた。
薄い青の衣は泥に汚れ、裾はほつれ、袖口には乾いた血の跡さえ残っている。靴も擦り切れ、長い旅をしてきたことは一目で分かった。
だが。
その姿は、どうしても目を引いた。
長い髪が風に揺れる。
本来は柔らかな金に近い淡い色なのだろうが、今は雨と泥で少し暗く見える。頬には薄く土がつき、指先も汚れていた。
それでも。
その顔は――
驚くほど愛らしかった。
小さな顔立ち。
白い肌。
そして大きな瞳。
その瞳は深い水のように澄んでいた。
恐怖がある。
疲れもある。
だが、その奥に消えていないものがある。
王族の誇り。
兵たちが思わず息を呑む。
侍女が後に語った。
「まるで壊れた花が歩いてきたようでした」と。
その時、王が前へ出た。
アレスだった。
彼は人目を引く男だった。
背が高く、肩幅は広く、姿勢は真っ直ぐだ。黒い外套が風に揺れ、その下の王衣が静かに光る。
そして何より、その顔だった。
整った顔立ち。
深い瞳。
優しさと強さを同時に持つ表情。
王国では昔からこう言われていた。
「アレス王は龍が愛した男だ」と。
それはただの比喩ではない。
龍神院の神官たちさえ、その容姿と気質を「天に選ばれた者」と語った。
少女はその王を見た。
そしてほんの一瞬、驚いた顔をした。
アレスは少女の前で止まる。
彼女は膝をつかなかった。
ただ真っ直ぐ立っている。
その姿が、かえって儚かった。
やがて少女は静かに言った。
「……ラルグス王女、レンティアと申します」
声はかすれていた。
長い旅で喉が傷んでいるのだろう。
それでも言葉は崩れていない。
「祖国は滅びました」
その時、指先がわずかに震えた。
だが涙は落ちなかった。
「どうか」
少女は目を伏せる。
「保護を」
沈黙が落ちる。
城門の兵も、騎士も、誰も動かない。
アレスはしばらく少女を見ていた。
泥に汚れた衣。
疲れた瞳。
それでも折れていない姿。
王は静かに言った。
「顔を上げなさい」
少女はゆっくり顔を上げる。
その瞬間、周囲の者たちは思わず息を呑んだ。
汚れた頬でさえ、その美しさを隠せなかった。
まだ少女の顔だった。
だがその表情には、不思議な可憐さがあった。
守りたくなるような。
手を差し伸べたくなるような。
それは単なる美貌ではない。
人の心を柔らかくしてしまう何かだった。
アレスはその瞳を見て、すぐに決めた。
この少女を、守る。
王は言う。
「ここは王城だ」
少女の肩がわずかに揺れる。
アレスは続けた。
「お前は守られる」
その言葉は静かだった。
だが王の命令だった。
少女は深く頭を下げた。
その日から王城は揺れた。
貴族は騒ぎ。
神官は警告し。
外交官は顔を青くした。
ラルグスの新王朝を刺激する。
危険すぎる。
皆がそう言った。
だがアレスは耳を貸さなかった。
そして数日後。
王は正妃の前で言った。
「私は決めた」
正妃は静かに顔を上げる。
アレスは言った。
「彼女を第二妃として迎える」
正妃の指先が、ほんの少しだけ動いた。
それだけだった。
やがて正妃は言う。
「……そうですか」
声は穏やかだった。
表情も変わらない。
将軍家の娘としての、強い仮面だった。
「王の婚姻は国のものです」
アレスはその言葉を聞き、頷いた。
臣下の声も、宮廷の騒ぎも、神官の忠告も。
王は聞かなかった。
そして春の終わり。
亡命王女レンティアは第二妃となる。
王城の庭には白い花が咲き続けていた。
【6】
春の終わり、王城の庭では白い花がまだ揺れていた。
石造りの回廊――いや、長い廊下の窓から見えるその花は、風が吹くたび小さく身を震わせる。
まるで季節そのものが、これから起こる出来事を静かに待っているかのようだった。
王城が最初に祝賀に包まれたのは、十日前のことだった。
王弟レンテの妃が懐妊したのである。
その知らせは朝のうちに城中へ広がり、昼には宮廷中がその話題でもちきりになっていた。
王弟は現王アレスの弟であり、政務を支える柱の一人でもある。慎み深く穏やかな人物で、兄王に忠実でありながらも決して影に隠れることのない知恵を持つ男だった。
その妻――王弟妃もまた、慎ましく気品ある女性だった。
王城の女たちは皆、その性格をよく知っていた。
だからこそ、その知らせは自然と喜びを伴って受け入れられた。
「めでたいことです」
宰相が穏やかに言い、
神官長は静かに祈りを捧げた。
侍女たちは笑顔で廊下を行き交い、厨房では祝いの料理の準備が始まる。
王城という場所はいつも静かだが、その日はどこか柔らかい空気に包まれていた。
王弟妃は、まだ腹の目立たない身体で静かに座っていた。
その顔には控えめな喜びが浮かんでいる。
侍女が温かい薬湯を差し出すと、彼女は小さく微笑んで受け取った。
王弟レンテはその隣に立っていた。
普段は落ち着いた男だが、その日ばかりは少しばかり照れくさそうにしていた。
兄王アレスが部屋を訪れたとき、レンテは軽く頭を下げた。
「兄上」
アレスは笑った。
その笑みは、宮廷の誰もが知っている笑みだった。
この王は、語り継がれるほどの美貌を持っていた。
高い背、整った顔立ち、深い瞳。
だが人々が語るのは顔立ちだけではない。
その瞳に宿る優しさだった。
アレスは弟夫婦の前に立ち、言った。
「良い知らせだ」
声は柔らかかった。
「王城に新しい命が来る」
王弟妃は深く頭を下げる。
レンテは少し照れたように笑った。
その場にいた者たちは皆、未来を想像した。
王家に生まれる新しい命。
だが――
王城の運命は、それだけでは終わらなかった。
王弟妃の懐妊が知られてから十日ほど経ったある朝。
王城の奥、正妃の居室で、侍女がふと足を止めた。
正妃は鏡の前に座っていた。
背筋はまっすぐで、いつものように落ち着いた表情をしている。
将軍家の娘として育った女であり、王城の女たちの中でもひときわ強い気質を持つ女性だった。
侍女はその背を見て、わずかな違和感を覚えた。
「王妃様……」
正妃は鏡越しに侍女を見る。
「どうしました」
「お顔の色が……」
正妃はしばらく黙った。
そして小さく息を吐いた。
「……医官を呼びなさい」
その日の午後、宮廷は再び揺れる。
正妃が懐妊していた。
王の正妃。
王国で最も尊い母となる存在。
知らせは瞬く間に広がった。
神官が呼ばれ、祈祷が行われ、王城の鐘が静かに鳴る。
侍女たちは嬉しそうに囁き合い、貴族たちは祝賀の準備を始めた。
王もまた、その知らせを聞いて静かに頷いた。
だが――
それから三日後。
王城は三度揺れる。
今度は第二妃レンティアだった。
亡命王女として城に迎えられた少女。
泥に汚れた旅衣で城門をくぐった、あの可憐な王女。
その彼女が、王の子を宿していた。
知らせは慎重に伝えられた。
侍女たちは顔を見合わせ、
宮廷の女たちは静かに息を飲んだ。
同じ春。
ほとんど同じ時期。
王弟妃、正妃、第二妃。
三人の女性が命を宿していた。
廊下の隅で、女官たちは小声で囁く。
「奇妙な巡り合わせ」
「星の巡りでは」
「龍の御加護かもしれない」
神官長は長い沈黙のあと、静かに言った。
「満ちる年かもしれません」
その言葉の意味を、まだ誰も理解していなかった。
だが王城の奥――
王太后はその夜、窓辺に立っていた。
年老いた女王。
白い髪をゆるく結い、長い外套をまとっている。
窓の外には夜空が広がっていた。
月が浮かんでいる。
まだ満月ではない。
だが確実に満ちていく月だった。
王太后はゆっくり目を細めた。
そして呟く。
「……星が集まる年」
その声は静かだった。
だがその言葉は真実だった。
この年に生まれる子供たちは、
同じ年を生きる。
同じ時代を歩く。
そして――
やがて王国の運命を巡って並び立つ。
白い花は、まだ揺れていた。
春の風は穏やかだった。
【7】
王城の春は、華やかな季節だった。
だがその年の春は、例年とは違う色を帯びていた。
同じ城の中に、まるで異なる季節が二つ並んでいるようだった。
ひとつは――正妃の季節。
もうひとつは――第二妃レンティアの季節。
王城の女たちは、その違いを誰よりも敏感に感じていた。
正妃の居室は、いつも静かだった。
厚い絨毯が敷かれ、家具は古く重厚で、壁には歴代の王や将軍の肖像が並ぶ。
代々この国を守ってきた将軍家の娘である彼女の部屋は、まるで一つの砦のようだった。
そこに漂うのは、華やぎではない。
規律だった。
侍女たちは声を潜めて歩く。
歩幅も、姿勢も、すべて整えられている。
正妃自身もまた、その空気そのものだった。
背筋は常に真っ直ぐ。
椅子に座るときも、立ち上がるときも、無駄な動きは一切ない。
懐妊した身体であっても、その姿勢は変わらなかった。
侍女が心配して言う。
「王妃様、少しお休みになっては……」
正妃は静かに首を振る。
「将軍家の娘が、この程度で休む必要はありません」
その言葉は決して強い声ではない。
だが、誰も反論できない重みがあった。
彼女は幼い頃から、同じ言葉を教えられてきた。
――王を守る者は、弱みを見せない。
だから彼女は笑わないわけではない。
だがその笑みは、慎ましく整っていた。
まるで礼法の中で咲く花のようだった。
一方――
第二妃レンティアの居室は、まるで違う場所のようだった。
光が多い。
窓は大きく開けられ、春の風がよく入る。
白い薄布のカーテンが揺れ、花瓶には毎日違う花が飾られていた。
そこには笑い声があった。
侍女たちは自然に微笑み、足音も軽い。
誰も声を潜めてはいない。
レンティア自身が、そういう空気を作る人だった。
彼女は窓辺に座るのが好きだった。
細い指で花を触り、時には侍女の髪を結ってやる。
侍女が恐縮すると、レンティアはくすぐったそうに笑う。
「そんなに緊張しないでください」
その声は柔らかかった。
亡命してきた時の泥の跡はもうない。
湯に浸かり、丁寧に髪を整えられた彼女は、王城の女たちが思わず見惚れるほど可憐だった。
薄い色の衣がよく似合う。
光を受けると、髪は柔らかく輝き、頬はほんのり桃色に染まる。
笑うと、その顔はまるで花が開くようだった。
侍女たちは密かに言った。
【8】
「絵物語に出てくる姫のよう」
その部屋を訪れた者は、皆どこか肩の力が抜ける。
神官さえも、つい微笑んでしまうほどだった。
同じ城。
同じ王の妃。
だがその空気は、あまりにも違った。
そして――
王アレスは、その二つの部屋を行き来していた。
正妃の部屋では、アレスは昔と同じだった。
椅子に腰を下ろし、穏やかな声で言う。
「無理をしていないか」
正妃は少しだけ笑う。
「あなたこそ」
二人の会話は、どこか静かだった。
幼い頃から知っている二人だった。
彼女は将軍家の娘として王城に出入りし、アレスは王太子として成長してきた。
長い年月。
戦の報告。
政務の相談。
同じ時代を歩いてきた。
アレスの声は、優しかった。
「体を大事にしてくれ」
正妃は頷く。
「ええ」
そのやり取りには、長い信頼があった。
幼馴染としての情。
共に国を背負う者としての敬意。
それは穏やかな愛だった。
だが――
第二妃の部屋に入ると、アレスの表情は変わった。
窓の光の中で、レンティアが振り向く。
「陛下」
その声を聞いた瞬間、王の瞳は柔らかくなる。
まるで少年のようだった。
アレスはその姿を見るたび、少しだけ驚いていた。
自分がこんな顔をするとは思っていなかった。
レンティアは笑う。
「今日は風が気持ちいいです」
その声を聞くと、王の胸の奥が静かに温かくなる。
それは――
初恋のような感情だった。
若い頃の王には、そんな時間はなかった。
王太子として育ち、戦と政務に追われてきたからだ。
だがレンティアの前にいると、
彼はふと忘れる。
王であることを。
ただの男として、笑ってしまう。
アレスは言う。
「今日は顔色がいい」
レンティアは少し恥ずかしそうに笑う。
「侍女たちが心配しすぎるのです」
その笑い声は軽い。
まるで春の風のようだった。
王城の人々は気づいていた。
王の態度の違いを。
正妃には、深い慈しみ。
レンティアには、初めての恋のような愛。
だが正妃は、それを知っていた。
そして――
何も言わなかった。
将軍家の娘は、そういう女だった。
その春、王城には二つの花が咲いていた。
一つは、強く凛と咲く花。
もう一つは、柔らかく人を癒す花。
そしてその花の奥で、
新しい命が静かに育っていた。
【9】
王城の春は、噂で満ちていた。
城の外では、市場の広場に紙売りが立ち、声を張り上げていた。
王都は平和な国である。戦火は遠く、治安は安定し、街路には商人が並び、子供たちが走り回る。
だからこそ、人々は「物語」を欲しがった。
そして今年の春、王都の人々にとって最高の物語があった。
王家の懐妊である。
最初に広まったのは、王弟妃の懐妊だった。
王弟レンテとその妻は、穏やかな夫婦として知られている。王弟は王の補佐として政務に携わり、妃は慎ましく宮廷の礼儀を守る女性だった。
城下町の者たちは素直に喜んだ。
「王家に子が生まれる」
それは良い兆しだった。
だが、十日も経たないうちに新しい噂が流れる。
今度は王妃が懐妊した。
城下町はさらに盛り上がった。
王の正妃。将軍家の娘。王国の母となる女性。
人々は祝福した。
だが――
さらに三日後。
もう一つの知らせが届く。
第二妃レンティアの懐妊。
亡命王女として王城に迎えられた可憐な姫君。
その姫が王の子を宿した。
この三つの知らせは、王都を一気に賑わせた。
広場の酒場では商人たちが笑いながら話す。
「これは面白い」
「同じ春に三人とはな」
「星が並ぶってやつだ」
だが王都にはもう一つの娯楽があった。
噂紙である。
朝になると紙売りが叫ぶ。
「王城の春の噂!
王家の三つの胎動!」
その紙には、もっと刺激的な言葉が並んでいた。
――王妃と第二妃の競い合い
――同時懐妊は王位争いの前触れか
――王城の女たちの静かな戦
もちろん、それはほとんどが想像である。
だが人々はそういう話を好んだ。
ある噂紙はこんなことまで書いた。
「王妃は将軍家の誇りを守るため、
第二妃は亡国の姫として地位を得るため、
互いに腹の子を武器に王城で争っている」
酒場では笑いが起こる。
「王家も大変だ」
「女の戦いだな」
平和な国では、こうした話が娯楽になる。
だが――
その噂は、やがて王城の耳にも届いた。
王太后はそれを聞いたとき、静かに目を細めた。
王太后は老いていた。
だがその姿にはまだ威厳があった。
白い髪は丁寧に結われ、背筋はまっすぐで、言葉遣いは気高い女王そのものだった。
侍女が慎重に言った。
「城下では……」
王太后は手を上げて言葉を止める。
「聞こえております」
その声は静かだった。
怒っているわけではない。
ただ、決めている声だった。
「王家の妃たちが争っているなど」
ゆっくりと茶を口に運ぶ。
「そのような話は、この家には相応しくありません」
侍女は頭を下げた。
王太后はしばらく黙っていた。
窓の外には庭が見える。
白い花が風に揺れていた。
やがて王太后は言った。
「茶会を開きましょう」
侍女が顔を上げる。
「茶会、でございますか」
王太后は頷く。
「祝いの席です」
そしてゆっくり続けた。
「王弟妃、正妃、第二妃――
三人の懐妊を祝う」
侍女は理解した。
これはただの茶会ではない。
王家の姿を見せるための場だった。
王城の女たちは争っていない。
互いを祝福している。
そう王都に示すための茶会。
王太后は続けた。
「王家とは、民の鏡です」
その声は穏やかだった。
「鏡が曇れば、国も曇ります」
そしてわずかに微笑む。
「春ですもの」
「明るい話題の方がよろしいでしょう」
その日の午後、王城の庭では準備が始まった。
白いテーブルクロス。
銀の茶器。
春の花。
侍女たちは忙しく動き回り、庭の木陰には椅子が並べられていく。
城の奥で、三人の妃にも招待が届いた。
王弟妃。
王妃。
そして第二妃レンティア。
王城の春は、これから新しい舞台を迎える。
それは――
王太后の茶会。
【10】
王太后の茶会は、春の光と女たちの声で満ちていた。
庭の中央に置かれた白布の卓には、焼き菓子、蜂蜜を落とした薄い菓子、果実の砂糖煮、小さな塩気のある焼き物まで整然と並べられている。銀の茶器はやわらかな陽を受け、静かな湖面のように光を返していた。春の風は温く、花の香りを淡く運ぶ。木々の若葉が揺れるたび、卓上の影もまた水面のようにかすかに揺れた。
王太后はその中心に座していた。
誰よりも年長でありながら、誰よりも背筋が伸びている。
その姿ひとつで、この場がただの女たちの寄り合いではなく、王家の「見せる場」であることが分かる。
「さあ、堅くならずに」
王太后はそう言って、自ら茶を注がせた。
その声は穏やかだったが、庭にいる者たちは皆、その言葉が命令に近いことを知っている。笑うなら、上品に。はしゃぐなら、王家の範囲で。そんな見えない線が、この茶会には最初から引かれていた。
最も近くの席には王弟妃がいた。
淡い緑の衣は春の若葉のようで、もともとの慎ましい人柄がそのまま形になったような装いだった。腹はまだ大きくはない。だが、その両手は自然とそこへ添えられていて、彼女自身が新しい命を意識していることが分かる。
その隣に王妃がいる。
濃い青の衣。
装飾は控えめで、布地の良さだけが静かに物を言う。
そして、きちんと結い上げられた薄桃色の髪は、色だけを取ればやわらかく優しいのに、その印象は少しも甘くない。背筋はまっすぐで、座り方に隙がない。
同じく懐妊中でありながら、その姿には弱さが見えない。
まるで将軍家に代々伝わる家訓そのものが、その細い肩に形を取って座っているかのようだった。
そして少し遅れて第二妃レンティアが席についた。
彼女が座ると、庭の空気が変わる。
それは誰が悪いというものではない。
ただ、そうなってしまうのだ。
淡い桃色の衣をまとい、深い青の髪が光を受けてしっとりと艶めいている。風が吹くたび、その青は花影のように揺れ、亡命してきた頃の儚さをどこか残しながらも、今は王城の春に溶け込む華やかさを持っていた。座るだけで、周囲の女たちの顔が少し和らぐ。侍女たちでさえ、茶器を置く手つきがどこか優しくなる。
「まあ、本当にお綺麗」
王太后の従妹にあたる老婦人が、ため息のように言った。
その声に、周囲の女たちも曖昧に笑う。
王妃はその言葉に反応しなかった。
王弟妃はわずかに目を伏せた。
レンティアは困ったように微笑んだ。
「おやめくださいませ」
その言い方まで可憐だった。
声を潜めた令嬢の一人が、隣の婦人へそっと囁く。
「本当に、お人形のよう……」
「ええ。でもただ美しいだけではないのよ。あの方、見ているだけで少し心が軽くなるでしょう?」
「わかります」
そうした囁きは、決して悪意ばかりではない。
むしろ半分は本心の感嘆だった。
レンティアにはそういう力があった。
人に好かれようとしているわけではないのに、自然と人の緊張をほどいてしまう。亡命してきた時の痛ましいほどの可憐さは、いまでは柔らかな光となって彼女の周囲に漂っている。
一方で、王妃の方を見れば、空気はまた別の意味で張りつめる。
彼女が茶器を持つ手は美しい。だがその美しさは、花ではなく刀身のそれに近い。細く、整い、決して震えない。薄桃色の髪はやわらかな色をしていながら、その所作に甘さはなく、むしろ将軍家の娘としての厳しさを際立たせていた。
王太后の姪にあたる侯爵夫人が、感心したように言った。
「王妃様は、本当にお変わりありませんね」
王妃は静かに首を傾げた。
「何がでしょう」
「懐妊なさっているとは思えないほど、お姿が揺るがないのです」
その言葉は褒め言葉だった。
王妃は少しだけ笑う。
「そう見えるなら、家の躾が役立っております」
短い答え。
だがその中には、将軍家の娘としての誇りがまっすぐに通っていた。
レンティアがその横顔を見て、小さく目を伏せた。
王妃と自分は、あまりに違う。
自分はもともと宮廷向きの華やぎを持っている。
だが王妃の持つものは華やぎではなく、王家の柱にふさわしい静かな重さだった。
そこへ王太后が口を開く。
「皆、好き勝手に城下が囁いているのを知っているのでしょう?」
庭の空気がわずかに止まった。
誰もすぐには答えない。
だが婦人たちの目元には、気まずさと好奇心が一瞬同時に浮かんだ。
もちろん知っている。
知らぬはずがない。
王太后は茶碗を置く。
「王妃と第二妃が腹の子を競わせている、などと」
声は穏やかだった。
しかし、その穏やかさゆえに逃げ場がなかった。
遠縁の若い令嬢が慌てて言う。
「そのような下世話な噂、まともに受ける者など――」
「おりますよ」
王太后は遮るでもなく、ただ事実として言った。
「平和な国では、噂は酒の肴になります」
その言葉に、庭のあちこちで小さな笑いがこぼれた。
否定しようとしても出来ない種類の笑いだった。
王太后は続ける。
「それ自体は止められません」
「ですが」
その白い瞳が、三人の妃をゆっくりと見渡す。
「王家がその噂にふさわしい顔を見せる必要もありません」
王弟妃が静かに頷く。
王妃は姿勢を崩さず、ただまっすぐ王太后を見た。
レンティアは少し緊張した面持ちで、しかし逃げるような顔はしなかった。
王太后はそこで、わずかに声を和らげた。
「今日は祝いの日です」
「先に王弟妃の腹に命が宿り、それに続いて王妃、第二妃にも命が宿った」
「これは競いではなく、寿ぎでなくてはなりません」
その言葉は、茶会の名目をはっきりと定めるものだった。
祝い。
王家の中に新しい命が続けて宿ったことを、正しい名で呼び直すための席。
王弟妃がゆっくり口を開く。
「このような席を設けていただき、光栄です」
その声には、安堵があった。
王城の女たちの中で、最初に懐妊を祝われたのは自分だった。
だが王妃と第二妃の懐妊が続いてからは、その喜びも、どこか人の噂の中に呑まれつつあった。
王妃も静かに言う。
「王家に宿る命を、同じ席で寿げることをうれしく思います」
それは王妃らしい、寸分違わぬ言葉だった。
無駄がなく、けれど冷たくはない。
視線が自然とレンティアへ向く。
第二妃は少しだけ頬を赤らめていた。
大勢の目が自分に集まることには、今もまだ慣れていないのだろう。可憐な顔に、ほんのり差す紅が春の花のように見える。
「わたくしも……」
その声は細いが、確かだった。
「とても、うれしく思っております」
一拍置いて、彼女は王妃の方を向く。
「王妃様と、ご一緒に祝っていただけることが」
庭の空気が少しだけ柔らかく変わる。
王妃はすぐには答えなかった。
その沈黙に、周囲の婦人たちは思わず息を潜める。
やがて王妃は、ほんのわずかに口元を和らげた。
「祝いは、分け合うほど良いものです」
その言葉は、王妃なりの受け入れだった。
レンティアの表情が、ほっとしたようにほどける。
その顔を見ると、周囲の女たちまでつられて息をつく。ああ、この人は本当に、人を緊張させるより和ませる方が得意なのだ、と誰もが改めて感じた。
王太后はその様子を見て、静かに満足した。
そう、これでいい。
王家の女たちは争っていない。
少なくとも今日この庭においては、そう見えなければならない。
そして見せるだけでなく、ほんのひとときでも本当にそうであれば、なお良い。
「では」
王太后が言う。
「母となる者たちに、改めて杯を」
侍女たちが一斉に動いた。
白磁の杯に、淡い花の香りを移した茶が満たされる。
春の庭の真ん中で、三人の妃が同じように杯を持つ。
王弟妃の慎み。
王妃の規律。
第二妃の可憐。
それぞれまったく違う花が、同じ季節に咲いている。
その光景を見た王太后の親族たちは、今この場にいることの意味を、ようやくきちんと悟り始めていた。
これは単なる女たちの賑やかな茶会ではない。
王家の秩序を、春の陽の下で、美しく見せるための場なのだと。
だがその一方で、庭の隅では、やはり小さな囁きが完全には消えていなかった。
「どのお腹の子が先に生まれるのかしら」
「王妃様の御子なら、やはり――」
「でも第二妃様のお子がもし男子なら……」
王太后はそれを聞こえないふりで聞いていた。
人は囁く。
囁きは止まらない。
だからこそ、王家はただ黙っていてはならない。
その時、風が少し強く吹いた。
白い花びらが一枚、卓の上に落ちる。
レンティアが思わずそれを指先で受け止めた。
深い青の髪が風に揺れ、その白い指先に花びらが載る光景は、絵物語の一場面のように儚く、美しかった。王太后の従妹などは「まあ」と声を漏らして微笑んでしまう。
一方で王妃は、その花びらが茶に落ちぬよう、静かに卓布の端を押さえていた。薄桃色の髪はほとんど揺れず、その所作にだけ育ちのすべてが現れていた。
同じ一枚の花びらに対する、その違い。
可憐さと規律。
華やぎと重み。
どちらが良いというのではない。
ただ、あまりにも対照的だった。
王太后は心の内で小さく息を吐いた。
――さて。
この違いを、城下がどう語るか。
それはもう止められないだろう。
だが少なくとも今日、王家の庭には笑い声があった。
祝いの茶があり、風があり、まだ見ぬ命たちを包む春があった。
それだけで十分だ、と王太后は思った。
【11】
茶会の庭に満ちているのは、花の香りと茶の香りだけではなかった。
女たちの声である。
それも、笑いを薄く含み、けれど目の奥では相手の反応を測るような、宮廷に生きる女たち特有の声だった。王太后の親族たちは、皆それぞれに身分も家柄も申し分ない。礼儀も知っている。沈黙が美徳であることも、どこまでが許された好奇心で、どこからが下品な詮索であるかも、よく心得ている。
だからこそ、彼女たちの噂話は露骨にはならない。
露骨にはならないが、甘く煮詰めた果実のようにねっとりと、ゆっくりと、春の庭の隅々へ広がっていく。
王太后の従妹にあたる年かさの婦人が、茶器を持ち上げながら、いかにも何気ないふうに言った。
「それにしても、王弟妃様はようやく安心なさったでしょうね」
その言葉に、向かいの侯爵夫人が目を細める。
「ええ。あれほど王弟殿下がお城を空ける日が続いていたのですもの」
「地下街の件でしょう?」
「そう、あの地下街の改革」
声は低い。
だが確実に耳へ届く大きさだった。
庭の奥では侍女が茶を注ぎ、別の卓では若い令嬢たちが花の話をして笑っている。表向き、この茶会は明るく、春らしい祝賀の席だった。だが、その明るさの裏を縫うようにして、こうした声は流れる。
「貧民街などと一括りに言うけれど」
別の婦人が、菓子を小さく割りながら言う。
「地下街は長く放っておかれましたものねえ」
「ええ、王都の下に、もう一つ王都があるようなものだと聞きますわ」
「湿気もひどく、病も流れやすく、賭場に流れる者も多いとか」
「治安も乱れておりましたしね」
「王弟殿下は、陛下に付き従って何度も視察へ出ておられたとか」
その言葉に、周囲の女たちが一斉に「まあ」とでも言いたげに目を合わせる。
王太后の姪の一人が、やや若い声で続けた。
「しかも一度や二度ではなかったのでしょう? 聞きましたわ。夜明け前に出て、夜半過ぎに戻られることもあったとか」
「王弟妃様も、さぞかし気を揉まれたでしょうね」
「ええ、あのお優しい方ですもの。顔には出されなくても」
「もともと慎ましい方ですしね。王弟殿下のお務めを妨げまいとして、何もおっしゃらなかったのでしょうけれど」
それは同情の言葉でありながら、同時に一つの物語でもあった。
王弟レンテは、兄王アレスに付き従い、地下街の改革という国の大事業に何度も赴いた。
王都の地下に広がる貧民街。
昼なお暗い石の通路。
湿り気を含んだ空気。
崩れかけた住居。
雨が降れば汚水が溢れ、晴れれば悪臭がこもる。
そこに住む者たちは、王都の民でありながら、王都の明るい地上からは見えにくい場所へ追いやられていた。
それを放置していてはならないと、アレスは決めた。
王弟レンテもまた、その決断に従った。
婦人たちの噂は、そうした実情をどこまで知っているのか怪しいものだった。だが、断片的な真実を含んでいるからこそ面白く、また広がる。
「陛下は本当にご熱心でしたものね」
「ええ。あのような場所までご自身で足を運ばれるなんて」
「王弟殿下も、ずいぶんお痩せになったと聞きましたわ」
「それでもお止めにならなかった」
「兄王をお支えするために」
この「兄王をお支えするために」という言葉は、婦人たちの間で特別に好まれるらしかった。弟の忠義。兄の理想。王家の美しい物語として語るには都合がいい。
王太后の従妹が、ことさらにしみじみとした口調で言う。
「ですが、あの地下街の改革も、ようやく形になったのでしょう?」
「そう聞いておりますわ。排水路を引き直し、崩れかけた通路を補強し、夜番も置いたとか」
「炊き出し場まで整えたと」
「ならば王弟妃様も、今ごろは胸を撫で下ろしておられるでしょうね」
「ええ。ようやくご主人が、少しは落ち着いて王城におられるようになったのですもの」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
悪意は薄い。
だが無邪気でもない。
女たちは知っている。
夫が何日も家を空け、しかもそれが国の大事であればあるほど、残される女は弱音を吐けなくなるということを。王弟妃ほどの立場の女性なら、なおさらである。
「しかも」
侯爵夫人が声をひそめる。
「そのあとで懐妊が知れたのでしょう?」
「ええ、そうでしたわね」
「それはもう、王弟妃様にしてみれば、ようやく安堵なさった時に神仏から賜ったようなお子でしょう」
「まあ、龍の御加護、ですわね」
そこでまた、控えめな笑いがこぼれる。
表向きは祝福の笑い。
けれどそこには、王家の子の誕生を巡る微かな興奮が混じっている。
王弟妃の懐妊が最初に公表された時、王都の者たちが感じたのは純粋な慶事だけではなかった。
王家に新しい命が宿る。
しかも、国の大きな事業がようやく一段落した直後に。
それはあまりにも物語めいていた。
王弟が兄王を支え、王は地下街という日陰の民をも見捨てず、ついに改革が実を結び、そののち王弟妃が子を宿した――。
これほど人々の口にのぼりやすい話もない。
王太后の甥の妻が、少しばかり得意そうに口を挟んだ。
「うちの下の娘など、噂紙を読んで泣いておりましたよ」
「まあ」
「『王弟妃様は、ずっとお一人で夫の無事を祈っておられたのね』などと言って」
「若い娘はそういう話が好きですものね」
「ええ。でも嫌いではありませんわ。王家にそういう情があるのは」
それもまた本音だろう。
平和な国では、明るい物語が好まれる。
王が貧民街の改革に心を砕き、王弟がそれを支え、その留守を王弟妃が静かに守っていた――。そういう話は、民にとって王家を近く感じさせる。だから広まり、飾られ、少しずつ脚色されていく。
だが、その「明るい物語」は、やがて別の色も帯び始める。
王弟妃の懐妊が公表されたあと、ほどなくして王妃と第二妃の懐妊も知られたからだ。
すると、物語は途端に噂へと変わる。
一人目までは祝福。
二人目からは比較。
三人目になれば、もう立派な見世物である。
王太后の近しい親族たちは、そのことをよく知っていた。知っていてなお、茶会の席でこうして言葉を滑らせる。いかにも楽しげに、いかにも他意なく。
「最初は王弟妃様のおめでたいお話だけでしたのにねえ」
「本当に」
「それが今では、どの御腹のお子がどうなるか、などと」
「城下の者たちは、つまらぬことばかり申します」
「平和な証でもありますけれど」
また小さな笑い。
白い卓布の上で、茶の表面が陽を受けて揺れる。
王太后は少し離れた席から、その流れを聞いていた。
もちろん、止めようと思えば止められる。
一言、視線を向けるだけでもいい。
だが王太后はすぐにはそうしなかった。
女たちがどのように言葉を転がすのか。
何に興味を持ち、何を面白がり、どこで線を越えるのか。
それを知っておくのもまた、王家の年長者として必要なことだった。
庭では白い花が揺れている。
春の光は穏やかで、祝賀の茶会にふさわしい明るさを保っている。
その明るさの底を、こうした噂話が緩やかに流れていく。
王弟妃が最初に祝福されたこと。
その背後には、王弟が兄王とともに地下街の改革に奔走し、長く城を空けていたという「美しい苦労話」があること。
そして、ようやくその大事が実を結んでから授かった子であること。
だからこそ、王弟妃の懐妊は、人々の心に最も素直に祝福されたのだ。
そのあとに続いた二つの懐妊が、良くも悪くも話を複雑にしてしまっただけで。
王太后はそこで、ようやく茶碗を置いた。
小さな音だった。
だが、その音だけで近くの婦人たちの声が自然に細る。
「王弟妃は、よく待ちました」
穏やかな声だった。
誰も口を挟まない。
王太后は続ける。
「王弟は王を支え、王弟妃はその留守を支えた」
「地下街の改革は国のための事業でした」
「それをやり遂げたあとに、あの子の腹に命が宿ったのです」
言葉は淡々としていた。
だが、それゆえに重みがあった。
「ならば、それはまず寿ぐべきことです」
その一言で、さきほどまでの女たちの噂話は、少しだけ姿勢を正された。
楽しげな囁きは残る。
だが中心は、王太后の言葉によって整え直される。
祝いは、祝いとして語れ。
王家の物語を、余興だけにするな。
そういう静かな命令が、その短い言葉には込められていた。
そして王太后は、ほんのわずかに表情を和らげる。
「もっとも」
その続きを待つように、女たちが顔を上げる。
「平和な国では、少々明るい噂が立つくらいがちょうどよいのかもしれませんね」
今度こそ、庭には柔らかな笑いが広がった。
それは先ほどまでの、相手を値踏みするような笑いではなかった。
少なくともこの瞬間だけは、春の日にふさわしい、軽やかな笑いだった。
だが王太后は知っている。
この笑いも、噂も、祝いも、すべてはやがて王家の子らへと繋がっていくのだと。
まだ誰も顔を見ていない命たち。
だが、その前からすでに、人の言葉は彼らのまわりを飛び始めている。
【12】
茶会が終わったあとの王城は、妙に静かだった。
あれほど賑やかだった庭も、女たちの笑い声が引いてしまえば、ただ春の風だけが通り抜ける場所になる。白い卓布は片づけられ、銀の茶器は侍女たちの手で運ばれ、踏み固められた芝には、午後の名残のように薄い影だけが残っていた。
夕暮れは長く、王城の石壁をやわらかく染めていた。
その頃、王は離宮に近い小さな書院にいた。
政務のための広間でも、謁見の間でもない。
王が本当に考えごとをするときだけ使う、ひっそりとした部屋だった。
灯はまだ早い刻限だというのに、すでにともされている。
窓は半ば開かれ、外から春の湿った風が入りこんでいた。遠くで水音がする。庭の端の小川だろうか、それとも茶会のために満たされた水盤の水が、まだどこかで静かに揺れているのかもしれない。
アレスは文机に肘をつき、眉間を指で押さえていた。
王である男の姿としては、あまり人に見せたくない形だった。
だが今は、誰もいない。
――そう思っていた。
「兄上」
静かな声がして、扉の向こうから一人の男が入ってきた。
レンテだった。
王弟。
アレスの弟。
そして、この国で王がもっとも気を許せる相手でもある。
アレスは指を離し、顔を上げた。
「勝手に入るな」
「勝手に入らなければ、兄上はいつまでも呼ばないでしょう」
その返し方には遠慮がない。臣下ならば決して口にしない言葉だ。だがアレスは咎めなかった。弟でなければ、こうして部屋へ通すこともない。
レンテは王の向かいへ歩み寄ると、机の端に積まれていた書状の束へちらりと目をやった。
地下街の改革についての報告書。
補修の進み具合、排水路の整備、炊き出し所の配置、夜番の人員割り、衛生面の記録。
この一年、兄弟で何度も王城を空けた理由が、紙の束になってそこに積まれていた。
「終わりましたね」
レンテが言った。
アレスは少しだけ息を吐いた。
「終わった、とは言い切れん」
「形にはなりました」
「形だけで民の腹は膨れない」
「ですが、少なくとも雨が降るたび泥水が寝台へ上がってくるような有様ではなくなりました」
アレスはそこでようやく、小さく笑った。
レンテは変わらない。
こういうところだけは、昔から変わらない。
理想を口にする兄の前で、現実を指差して地面へ戻してくる。
「王弟妃も、ようやく安心しているでしょう」
レンテがそう言ったとき、アレスは一瞬だけ弟の顔を見た。
その声音は穏やかだった。
だが穏やかであるぶん、含みがある。
「今日の茶会でも、そのような話をしていた女たちが多かった」
「聞いたのか」
「聞くつもりがなくても聞こえます」
レンテは肩をすくめる。
「兄が地下街へ何度も出向き、弟もそれに付き従い、ようやく事が済んだ。だから王弟妃の腹に宿った子は、安堵のあとに訪れた祝福だ――と」
「まあ、実際そうだろう」
「ええ」
レンテは頷いた。
「ですが今日は、その先の話もしておりました」
書院の空気がわずかに変わる。
外から入る風が、灯の火を揺らした。
アレスは何も言わなかった。
レンテもすぐには続けない。
兄弟のあいだには、こうした沈黙がよくある。互いに分かっているからこそ、言葉にする前に、わずかな間が必要になる。
やがてレンテが口を開いた。
「どうするつもりですか」
単刀直入だった。
「何を」
「兄上」
それだけで、逃げ道がない。
アレスは視線を窓の外へ流した。
春の夕空は青から薄紫へ移ろい始めていた。庭の木々は風に揺れ、その向こうに見える王都の屋根の先には、地上の街路とは別の影が広がっている。地下へ通じる古い通路のある一角。あの改革が始まる前、最も荒れていた場所に近い。
「……どうするのか、と聞いているのです」
レンテの声は低い。
「公にするのですか」
「それとも、何も知らぬ、存ぜぬで押し通すのですか」
アレスは目を閉じた。
やはり来たか、と思った。
来ないはずがない問いだった。
この一年。
地下街の改革を名目にして、王は何度も王城を空けた。
もちろん、改革そのものは本物だった。放っておけば病と飢えと汚穢が積もっていく場所を、見て見ぬふりで済ませるつもりは最初からなかった。
だが。
改革の最中に、王は一人の女と再会した。
それがすべてを、少しずつ狂わせた。
レンテは兄の沈黙を見て、静かに机の端へ手を置いた。
「兄上」
「私は、何も知らないふりを続けろと言われれば従います」
「ですが、知らないふりは、いつか誰かを傷つける」
その言葉は責めではなかった。
むしろ弟にしては、ずいぶん優しい言い方だった。
アレスはゆっくりと片手で額を覆った。
「お前は昔から、肝心な時ほど容赦がないな」
「兄上が肝心な時ほど黙るからです」
少しだけ、笑いに似た気配があった。
だがほんの一瞬で消える。
書院の中には、また静けさが戻った。
アレスの脳裏に、一年前の景色が浮かぶ。
【13】
地下街の外れ。
改修すべき水路の確認のために出向いた、花街に接する一角。
古びた格子の向こう、香の匂いと湿った土の匂いが入り交じる場所で、王はひとりの女を見た。
最初は分からなかった。
いや、顔を見た瞬間には、むしろ分かりたくなかったのかもしれない。
名家の娘だったころの面影を、あり得ないほどはっきり残していたからだ。
まだ幼かった自分とレンテが、祖父の縁で遊びに行ったことのある家。
庭に咲く薄い花の色。
笑うと目元が少しだけ下がること。
廊下を走って、よく叱られていた小さな少女。
一族が失脚し、賊に処されたと聞いた時には、もうこの世にいないものと思っていた。
それが、生きていた。
生き延びた代わりに、別の名前で、別の場所で、別の女になっていた。
花街で最も名の売れた妓女。
男たちの噂にのぼり、女たちの嫉みと憧れを一身に集めるような、美しい女。
だが王の前に現れたその時、彼女は少しだけ笑って、昔と同じ目をした。
――お久しぶりです、殿下。
その呼び方だけが、ひどく昔のままだった。
レンテの声が、現在へ引き戻す。
「兄上」
アレスは目を開ける。
「……あの場所の民は、名を持たぬまま消えていくことが多い」
ぽつり、と王は言った。
レンテは黙っている。
「生まれも、売られた先も、誰の子を産んだかも」
灯が揺れる。
王の声は低い。
それは弟へ語っているというより、自分に言い聞かせているようだった。
「公にすれば、救われると思うか」
レンテはすぐには答えなかった。
「少なくとも」
やがて静かに言う。
「存在を消されはしません」
その一言に、アレスはゆっくり息を吐いた。
存在を消される。
まさにそれを、王家は昔からやってきたではないか。
都合の悪い枝を払い、名を変え、記録を薄くし、血の形を整える。
王は民の父と呼ばれる。
だが、王家そのものは決して優しい場所ではない。
アレスは手で顔を覆ったまま、小さく言った。
「……王家が幸せな場所ではないことくらい、お前だって分かっているだろう」
その言葉には疲れがあった。
濁した言い方だった。
だがレンテには、それで十分だった。
兄は肯定も否定もしていない。
ただ、王家へ迎え入れることが救いになるとは限らない、と言っているのだ。
レンテは窓の外を見た。
地下街の改革をしてきた一年で、兄が何を見、何に心を動かされたか、すべてを知っているわけではない。
だが、少なくとも兄が「気まぐれ」で動いてはいないことは分かっていた。
「では」
レンテは静かに言う。
「まだ決めていないのですね」
アレスはすぐには答えない。
やがて、苦い笑みを浮かべた。
「王が、決めきれずにいる」
「珍しいこともあるものです」
「珍しいだろうな」
兄弟はしばし無言で向かい合った。
遠くで鐘が鳴る。
王都の夕刻を告げる鐘だ。
その響きの向こうに、王城の外の無数の暮らしがある。
地上の市場、地下の細道、花街の灯、名を持つ者と持たぬ者。
そして王は、そのすべての上に立つ。
アレスはふと、窓辺へ歩み寄った。
「……あの改革は、必要だった」
独白のように言う。
「地下街の民は、王に見捨てられてよいものではない」
「ええ」
「だが、一人を救えば、別の一人を傷つけることもある」
レンテはその背を見た。
王の背。
兄の背。
その二つは同じ形をしているようで、時々まったく違うものに見える。
「兄上」
「なんだ」
「王である前に、人でいようとなさるから苦しむのです」
アレスは振り返った。
その顔には、少しだけ笑いがあった。
「ひどい弟だ」
「よく言われます」
「誰に」
「主に、目の前の兄に」
今度こそ、アレスは短く笑った。
その笑いはすぐに消えたが、ほんの少しだけ、部屋の息苦しさを薄くした。
レンテは最後に一つだけ、低く言った。
「ただ」
アレスが見る。
「もし何も知らぬと押し通すのであれば」
レンテの声は穏やかだった。
「せめて、その先までお考えください」
何の先か、言葉にはしなかった。
だが、王には伝わった。
一夜のことは、一夜では終わらない。
過去は、時に春の雨のように、静かに戻ってくる。
アレスはしばらく弟を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「分かっている」
それは王の返事というより、兄の返事に近かった。
書院の外では、春の風がまた一つ、木々を鳴らしていった。
その音は、まるでまだ名を持たぬ誰かの気配のように、ひどく静かだった。




