第十三章4
【1】
雨は昼になってもやまなかった。王城の高窓から差し込む光は薄く、廊下の石床には灰色の影が長く伸びている。湿った空気は重く、遠くの塔で鳴る鐘の音もどこか鈍く聞こえた。王城という場所は普段から静かだが、今日はその静けさが一段と深い。毒の事件の余韻と、隣国の使節という新しい緊張が、同時に城の中を満たしていたからだ。
使節団はすでに客殿へ通されていた。雨に濡れた外套を侍従に預け、彼らは乾いた衣へ替えている。だが王城の侍従たちは、その一挙一動をよく見ていた。隣国の客とはいえ、今日はただの客ではない。麦を持ってくる国は、同時に国の弱みを見る国でもある。
会議の間では長い卓が整えられていた。厚い木で作られた卓の中央には、王国の紋章が彫られている。壁には古い王たちの肖像が並び、その視線が部屋全体を静かに見下ろしていた。窓の外では、雨が石の縁を叩き続けている。
現王はすでに席に着いていた。深い椅子に腰を下ろし、机の上に置かれた書状を一枚閉じる。その動作はゆっくりだが迷いがない。疲れは隠せないが、それを見せる余裕もない。王とは、弱っているときほど立っていなければならない存在だった。
扉が開き、四人の王子が入る。
最初に歩いていたのはアルケスだった。翡翠の髪は整えられ、衣の襟も正しく整っている。第一王子としての姿は、もはや習慣のようなものだった。背筋を伸ばし、視線を真っ直ぐに保つ。父の隣に立つ者として、それ以外の姿を見せることはできない。
その後ろにカストルがいた。薄桃色の髪は短く結われ、小柄な体を覆う衣は丁寧に仕立てられている。歩幅は小さいが、その足取りは遅くない。むしろ落ち着いている。赤い瞳は正面を見据えており、十歳の少年とは思えないほど静かな威厳があった。
ポルックスはその半歩後ろにいる。兄の背中を自然に視界に入れる位置だ。薄桃色の髪が灯りを柔らかく受け、顔は穏やかに見える。だが視線はよく動いていた。部屋の隅、侍従の動き、椅子の位置、すべてを静かに確認している。
最後に入ったのがシャムだった。金の髪は今日は結われているが、まだ少し不慣れに見える。歩き方もどこか慎重だ。王城の床は広く、花街の石畳とは違う。だがその瞳は静かだった。赤い瞳は部屋の様子を一度見回し、それから現王へ向けられる。
四人は席に着いた。
王の左右に並ぶ椅子。
そこには本来、五つの席がある。
だが今日は四つしか使われない。
現王はそれを変えようとしなかった。空いた一席はそのまま残されている。誰も触れない。誰も言葉にしない。それでも、その椅子の存在は部屋の空気に重く浮かんでいた。
やがて侍従が扉を開く。
ラルグスの使節団が入ってきた。
先頭は港で名乗った男、ローディンだった。黒い外套は乾いており、銀の刺繍が灯りに静かに光っている。彼は部屋を見渡し、そしてわずかに目を細めた。王の席、その左右の王子の席、そして——空いた椅子。
ほんの一瞬の視線だった。
だが見逃す者はいない。
ローディンはすぐに礼を取った。
「ラルグス王国使節、ローディン。陛下にお目にかかる栄誉を賜り、光栄に存じます」
現王は軽く頷く。
「遠路、ご苦労であった」
声は落ち着いていた。雨の音の向こうで、その言葉ははっきり響く。
「麦は確かに受け取った」
「我が王も、貴国の民が困窮していると聞き、心を痛めております」
ローディンはそう言った。
言葉は丁寧だったが、どこか形の整いすぎた慰めだった。ポルックスはその声を聞きながら、机の下で指を軽く組む。外交の言葉はいつもこうだ。優しい形をしているが、本当の意味は別のところにある。
現王は短く答える。
「感謝する」
それ以上は言わない。
沈黙が少し流れた。
その沈黙を破ったのはローディンだった。彼はゆっくり視線を動かし、王子たちを見る。アルケス。カストル。ポルックス。シャム。そして最後に、空いた椅子へ。
「……王子方にお会いできるとは」
彼は微笑んだ。
「光栄です」
アルケスは静かに礼を返す。
カストルは視線を外さない。
ポルックスは柔らかく頭を下げる。
シャムは一瞬遅れて礼をした。
ローディンはその様子をよく見ていた。
そして言った。
「五人の王子がおられると聞いております」
部屋の空気が少しだけ動いた。
言葉自体は自然だった。だがその裏にある意図を、ここにいる者は皆知っている。隣国は、情報を集めている。王子の数、血統、順序。それらは外交の中で重要な意味を持つ。
現王は答えた。
「今日は四人だ」
それだけだった。
ローディンはすぐに頷いた。
「なるほど」
それ以上追わない。
だが追わないことが、逆に意味を持つ。
知っている。だが今は触れない。
ポルックスはそのやり取りを聞きながら、心の中で一つの線を引いていた。向こうは確かめた。王城は答えた。これで最初の探りは終わった。
その時、カストルが口を開いた。
「使節殿」
部屋の視線が一斉に彼へ向く。
小柄な少年が、椅子に座ったままローディンを見ていた。赤い瞳は揺れない。
「麦を持ってきたのはありがたい」
言葉はゆっくりだった。
だが次の一言は、静かに落ちた。
「だが国は麦だけで立つわけではない」
ローディンの眉がほんのわずか動いた。
カストルは続ける。
「今日は麦の話をする。だがそれだけでは終わらない」
小さな手が机の上に置かれる。
「そうだろう?」
その問いは、十歳の少年の声とは思えないほど落ち着いていた。
ローディンは、しばらくカストルを見ていた。
そしてゆっくり微笑む。
「……ええ」
彼は答えた。
「まったくその通りです」
雨はまだ降っている。
王城の会議の間で、双龍の旗を背負った国と、五人の王子を持つ国の交渉が、今まさに始まろうとしていた。
【2】
雨はまだ止まなかった。
会議の間の高窓には細い水筋が絶えず走り、灰色の空が歪んで見える。遠くで雷が鳴ったような気がしたが、それはただ風が塔を抜けた音だったのかもしれない。王城の石壁は湿り気を帯び、灯された燭台の炎さえ、いつもより静かに揺れていた。
長い卓を挟んで、王国とラルグスの者たちが向かい合っている。
王の隣にアルケス。
その向こうにカストル。
ポルックス。
そしてシャム。
四つの席。
そして使われない一席。
ローディンはその椅子をもう一度見たわけではない。だが最初に視線を置いた場所というのは、自然と頭のどこかに残る。外交官というものは、言葉よりも配置を読む。誰が座り、誰が立ち、誰がいないのか。その並びが、国の事情を語るからだ。
ローディンはゆっくりと口を開いた。
「まずは麦の件から」
彼の背後に立っていた従者が一歩前へ出て、小さな木箱を卓の上へ置いた。箱の中には封のされた書状と、いくつかの帳面が入っている。湿気を避けるため、油紙で丁寧に包まれていた。
「今回、我が国より運ばれた麦は三百二十袋」
従者が帳面を開きながら言う。
「港の倉にすでに搬入済みです」
アルケスは視線を動かさずに聞いていた。
三百二十袋。
頭の中で数字が形を作る。王都の人口、炊き出しの量、備蓄の減り方。だがその計算はすでにポルックスが終えている。
ポルックスは静かに言った。
「袋の重量は?」
ローディンがわずかに目を細める。
「一袋、約五十斤」
「それなら」
ポルックスは机の上の帳面を開いた。
「王都の炊き出しは二十日ほど延びます」
部屋の空気が一瞬だけ止まる。
外交の席で、数字を先に出す者は多くない。普通は礼や言葉が先に来る。だがポルックスは最初からそこへ踏み込んだ。麦の話をする席で、麦を遠回しにする必要はない。
ローディンは少し笑った。
「よくご存じで」
「必要なので」
ポルックスの声は穏やかだった。
「飢えは待ってくれません」
その言葉は柔らかく、しかし正確だった。王城の中にいれば飢えは見えない。だがポルックスは穀倉の数字を知っている。数字は嘘をつかない。
ローディンは頷く。
「その通りです」
そして続けた。
「ですから、我が国も可能な限りの援助を」
彼はそこで一度言葉を止めた。
「……ただし」
やはり来た。
アルケスは心の中でそう思った。麦はただの麦ではない。飢えた国へ送る麦は、必ず何かと一緒に運ばれてくる。
ローディンは指先で卓の上を軽くなぞる。
「交易条件の見直しを」
現王は黙っている。
話の続きは予想できているからだ。聞くべきは内容であり、驚くことではない。
ローディンは三本の指を立てた。
「三つです」
その指の動きはゆっくりで、芝居のように整っている。
「一つ。港税の軽減」
ポルックスは顔を動かさない。
アルケスは軽く眉を寄せる。
カストルは腕を組んだ。
港税。
つまりラルグス商人が王都で商売しやすくなる。
ローディンは続ける。
「二つ。ラルグス商人の倉庫設置」
これは一歩踏み込んだ条件だった。倉庫を持つということは、商人がこの国の中に拠点を持つという意味になる。つまり麦だけではなく、商人そのものが根を下ろす。
そして三つ目。
「三つ。航路の優先権」
アルケスはわずかに息を吸った。
港税。倉庫。航路。
麦の袋の重さが、今ようやく見えてきた。
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、カストルだった。
「高いな」
短い一言だった。
ローディンは微笑む。
「麦は命です」
「命は売り物か?」
カストルは真っ直ぐ聞いた。
その声は子供の高さだ。
だがその問いは鋭い。
ローディンは答える。
「命を守るには、力が必要です」
「麦は力か」
「ええ」
ローディンは頷いた。
「そして力は、対価と共に動きます」
それは正しい。
そして残酷でもある。
カストルは机を指先で軽く叩いた。
小さな音が、部屋に響く。
「なるほど」
彼は言う。
「じゃあ、こっちも力を見せる」
ローディンの目がわずかに動く。
カストルは横に視線を向けた。
「ポルックス」
呼ばれた弟はすぐに顔を上げた。
「はい」
カストルは顎で帳面を指す。
「説明してやれ」
ポルックスは少しだけ笑った。
兄はこういう時、必ず自分を前へ出す。
それは命令でもあり、信頼でもあった。
ポルックスは帳面を開いた。
「王都の穀倉は確かに減っています」
彼は穏やかな声で言う。
「ですが、空ではありません」
ローディンは黙って聞いている。
ポルックスはページをめくる。
「地方の備蓄を合わせれば、冬までは持つ」
それは半分本当で半分嘘だった。
冬まで持つ。
だがその間に地方は飢える。
ポルックスは続ける。
「つまり我々は、麦を『買う』必要はありません」
ローディンの眉が少しだけ動いた。
ポルックスは静かに言った。
「ただ、時間を短くしたいだけです」
その言葉は柔らかい。
だが意味は明確だった。
麦は欲しい。
だが屈するほどではない。
ローディンは少し黙り、そして笑った。
「……なるほど」
彼はゆっくり椅子にもたれた。
「王子方は、面白い」
そして視線を動かす。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
そして最後に、シャム。
「では」
ローディンは言った。
「最後の王子にも聞いてみましょう」
部屋の空気が変わる。
シャムは一瞬だけ目を瞬いた。
ローディンは穏やかな声で言う。
「王子は、この麦をどう思いますか」
問いは簡単だった。
だがそれは、飢えと外交の両方を含んだ問いだった。
シャムは少し黙る。
花街で見た飢え。
城下の炊き出し。
濡れた麦袋。
それを全部思い出してから、口を開いた。
「……重い」
短い言葉だった。
ローディンが少し首を傾ける。
「麦が?」
シャムは首を振った。
「違う」
そして言った。
「人が生きる重さ」
その声は小さかった。
だが、部屋の中で誰も動かなかった。
雨はまだ降り続いている。
【3】
シャムの言葉は短かった。
「人が生きる重さ」
その一言が落ちたあと、会議の間にはしばらく雨の音だけが残った。高窓の外で水が石を打ち、遠くの屋根を叩く。その規則的な音が、誰の言葉も遮るように静かに続いている。
ローディンはしばらくシャムを見ていた。
赤い瞳。
金の髪。
亡き王に似ていると噂されるその顔を、隣国の使節はじっと観察している。だがその視線には嘲りも侮りもなかった。むしろ何かを測るような、静かな関心があった。
やがて彼はゆっくり頷いた。
「……なるほど」
そう言ってから、視線を王へ戻す。
「重さ、ですか」
現王は黙っていた。
代わりにアルケスが口を開く。
「麦は軽くありません」
彼の声は落ち着いていた。
「袋一つで、子供が一人、冬を越せる」
アルケスは言葉を慎重に選んでいた。外交の席では、言葉の重さそのものが交渉になる。だが飢饉という現実は、そうした慎重さを時に追い越してくる。
「我々はそれを理解している」
ローディンは腕を組み直した。
「だからこそ、我が国も麦を運んできました」
「感謝している」
アルケスはすぐに答える。
「だが」
彼は少しだけ視線を落とし、それから真っ直ぐ見上げた。
「飢えた民の命は、交渉の道具ではない」
その言葉は強くはなかった。
だが静かに芯が通っていた。
ローディンはそれを聞き、わずかに笑みを浮かべる。
「王国の第一王子らしい言葉です」
そして卓の上の箱を指で軽く叩いた。
「ですが、王子」
彼の声は落ち着いている。
「国は理想だけでは動きません」
「分かっている」
答えたのはカストルだった。
彼は椅子の背に体を預けたままローディンを見ている。小柄な体だが、その視線には奇妙な落ち着きがあった。十歳の子供の目ではない。王の血を引く者の目だった。
「だから聞いている」
カストルは続ける。
「ラルグスは、なぜここまで麦を持ってくる」
ローディンは少し首を傾けた。
「友交です」
カストルはすぐに言った。
「違う」
その言葉は静かだったが、はっきりしていた。
会議の間の空気が一瞬だけ止まる。
ポルックスが兄の横顔を見る。
アルケスも同じだった。
カストルは続ける。
「友交だけで船を三隻も出す国はない」
ローディンは黙っている。
カストルは指先で卓を軽く叩いた。
「港税」
「倉庫」
「航路」
一つ一つ、ゆっくり言う。
「それだけじゃない」
ローディンの瞳がわずかに細くなる。
「では?」
カストルは言った。
「何を探してる」
沈黙。
窓の外で雨脚が強くなった。
ローディンはその音を少し聞くように目を伏せ、それから小さく笑った。
「王子」
声は穏やかだった。
「外交とは、互いに探るものです」
「そうだな」
カストルは頷く。
「だから聞いた」
ローディンは小さく息を吐く。
そして言った。
「では、こちらからも一つ」
彼はゆっくりと王子たちを見た。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
シャム。
そして——空いた椅子。
「五人の王子」
彼は静かに言う。
「と聞いています」
誰も答えない。
ローディンは続けた。
「しかし今日は四人」
彼の指先が卓の端を軽く撫でる。
「もう一人の王子は」
その言葉は穏やかな問いの形をしていた。
「どこに?」
空気がわずかに変わる。
ポルックスは机の下で手を組み直した。
アルケスは視線を動かさない。
シャムは小さく息を飲む。
カストルだけが表情を変えなかった。
そして言った。
「さあ」
あまりにもあっさりした答えだった。
ローディンが眉を上げる。
カストルは続けた。
「王子は五人」
「それは事実だ」
「だが」
彼は肩をすくめた。
「今日は四人しかいない」
ローディンはしばらくカストルを見つめ、それから小さく笑った。
「……なるほど」
彼は椅子にもたれた。
「王国の王子たちは、思っていたより面白い」
そして視線を現王へ戻す。
「陛下」
彼は言った。
「交渉はまだ始まったばかりです」
現王は短く答える。
「そうだな」
雨はまだ降り続いている。
港には双龍の旗。
倉には麦の袋。
王城には四人の王子。
そして、ここにはいないもう一人の王子を、ラルグスは確かに探していた。
【4】
雨は細くなっていた。
朝から降り続いた水は、今は霧のように静かに港を覆っている。石畳の隙間に溜まった水が鈍く光り、船の舳先から落ちる雫がゆっくりと輪を広げていた。
港は普段よりも人が多い。
ラルグスの船がもたらした麦は、まだ倉へ運び込まれている最中だった。麻袋は雨で濡れ、濃い色に変わっている。荷車の車輪が石を擦る音、兵の短い合図、そして遠くから聞こえる波の音。それらが混ざり、港特有の低いざわめきを作っていた。
シャムはその光景を見ていた。
もちろん一人ではない。
背後には護衛の騎士が二人いる。王子が城外へ出る時には必ず付く影だ。外套の中に鎧を着込み、視線だけで周囲を見張っている。港の労働者たちは彼らを見て、自然と距離を取った。
それでもシャムは止められない。
王子ではあるが、まだ十歳の少年でもある。港の匂いは、彼にとってはどこか懐かしいものだった。湿った木、濡れた麻袋、塩を含んだ風。花街の裏通りとは違うが、城の中の香とは遠い。
倉の前では、炊き出しが続いていた。
大鍋の湯気が雨と混ざり、白い靄のように立ち上る。列は長い。子供も老人もいる。器を両手で抱え、順番を待つ人々の顔には疲れが浮かんでいた。
その列の横に、見覚えのある背中があった。
黒い髪。
細い肩。
だが立ち方は覚えている。
シャムは自然に声をかけた。
「ルカ」
少年は振り向いた。
少し驚いた顔をして、それからすぐに笑う。
「シャムじゃん」
その呼び方は、王城の者たちとは違う。
王子でも殿下でもない。ただ名前だけ。
シャムはその方が落ち着いた。
「また来たの?」
ルカは肩をすくめる。
「仕事だよ」
そして顎で倉を指した。
「麦運ぶの手伝ってる」
倉の前では男たちが袋を担ぎ上げている。大人の仕事だが、飢饉の時は子供でも動く。動かなければ食べられないからだ。
シャムは言った。
「重いでしょ」
「めちゃくちゃ」
ルカは笑った。
「でもさ」
彼は少し声を落とす。
「今年は麦が来ただけマシ」
シャムは港の奥を見る。
ラルグスの船はまだ停泊していた。青地に双龍の旗が雨に濡れて垂れている。風が吹くと、布は重そうに揺れた。
「ラルグスの船」
ルカが言う。
「でかいよな」
「うん」
「俺、あんな船初めて見た」
ルカは少し楽しそうだった。
飢饉の港でも、珍しいものは珍しい。
「でもさ」
ルカは少し顔をしかめた。
「向こうの兵、怖い」
シャムは振り返る。
確かに港の端にラルグス兵が立っていた。長い外套、銀の紋章、雨でも動かない姿勢。王国の兵と並んでいるが、明らかに雰囲気が違う。
「睨んでくるんだよ」
ルカが言う。
「子供なのに」
シャムは少し考えた。
「兵だからじゃない?」
ルカは首を振る。
「違う」
そして言った。
「なんか、探してるみたい」
その言葉は軽く言われたが、シャムの胸に引っかかった。
探している。
港の向こうを見る。
青地に双龍の旗。
ラルグス。
彼らが本当に探しているものを、シャムはまだ知らない。だが王城の会議で交わされた言葉の空気だけは覚えている。
「五人の王子」
その問い。
そして空いた席。
ルカは鍋の方を見て言った。
「お前、食わないの?」
シャムは首を振る。
「今日はいい」
ルカは少しだけ笑う。
「前もそう言ってたな」
そうだった。
ルカはもう知っている。
シャムが王城の子供であることを。
王子だとは言わなくても、城の者だということは分かっている。
それでも態度は変わらない。
「城の飯の方がうまいだろ」
シャムは少し困った顔をする。
「うん」
ルカはまた笑う。
「正直だな」
列が少し進む。
鍋の湯気が風に流れ、麦の匂いが広がる。
ルカは器を持ち直しながら言った。
「でもさ」
「なに?」
「麦、ほんとに足りるの?」
その言葉は冗談ではなかった。
港の倉には麦がある。
だが街の人間は、それがどれくらいあるのか知らない。知らないから不安になる。
シャムは答えられなかった。
ポルックスの帳面。
会議の数字。
冬まで持つかどうか。
それを思い出す。
「……分かんない」
正直に言う。
ルカは頷いた。
「だよな」
そして小さく笑う。
「でもさ」
彼は鍋の湯気の向こうを見ながら言った。
「お前ら王子いるじゃん」
シャムは顔を上げる。
ルカは続けた。
「なんとかするんだろ?」
その言葉は軽かった。
だが信じているようでもあった。
シャムは少し黙る。
十歳の子供に、国の飢えを止める力はない。
それでも。
「……やる」
小さく言う。
ルカは笑った。
「じゃあ頼む」
列がまた進む。
鍋の前にルカが立つ。
麦粥が器に注がれる。
その湯気の向こうで、ラルグスの船の旗が揺れていた。
そしてその旗の国は、まだ王城の者たちにも言っていない問いを胸に抱えている。
【5】
「ヴィルギニス」
その名が倉の中に落ちた瞬間、雨音が一層強く聞こえた。
屋根を打つ水の音が、まるで遠い太鼓のように重く響く。湿った麻袋の匂いと海の塩の匂いが混ざり、倉の空気は重く沈んでいた。
アルケスは動かなかった。
翡翠の髪の第一王子は、灯りの中で静かに男を見ている。その視線は揺れない。だが胸の奥では、いくつもの思考が走っていた。
ラルグス。
旧王朝。
そして、第四王子。
ヴィルギニス。
カストルがゆっくりと息を吐いた。
小さな体が、ほんのわずかだけ前へ出る。
彼の赤い瞳が男を見据えていた。
「それで」
カストルは言う。
「麦を減らすのか」
男は笑った。
「減らす?」
首を軽く振る。
「違う」
そして倉の中を見渡す。
「飢えを整える」
その言葉はあまりにも静かだった。
ポルックスの眉が動く。
「整える?」
男は頷く。
「人は満ち足りていると、動かない」
彼は麻袋の山を軽く叩く。
「だが飢えると」
倉の奥を見て言った。
「国は揺れる」
そして王子たちへ視線を戻す。
「王は選ばれる」
シャムの胸がわずかに重くなる。
男は続けた。
「飢えは、良い秤になる」
その言葉を聞いた瞬間、カストルの指が止まった。
秤。
男はそれを知らないはずだった。
だが偶然でも、その言葉は重かった。
カストルは静かに言う。
「秤を知っているのか」
男は少し首を傾ける。
「秤?」
「王の秤だ」
倉の灯りが揺れる。
カストルは言った。
「罪を量る」
「命を量る」
「国を量る」
そしてゆっくり男を見る。
「お前も量る」
男は笑った。
「面白い」
それから言う。
「だが」
彼は肩をすくめる。
「私を量る必要はない」
「なぜなら」
その言葉は冷たかった。
「私は死ぬ」
騎士の一人が動く。
だがその瞬間、男の手が胸元へ動いた。
「止まれ!」
アルケスの声が落ちる。
だが遅かった。
男は小さな瓶を取り出し、口へ運ぶ。
ポルックスが叫ぶ。
「毒だ!」
男は笑ったまま飲み込んだ。
瓶が床へ落ちる。
乾いた音が倉に響く。
そして男はゆっくり膝をついた。
「……王子」
声が低くなる。
呼吸が浅い。
それでも彼は笑っていた。
「飢えは」
息が揺れる。
「始まったばかりだ」
アルケスが前へ出る。
「誰の命令だ」
男は答えない。
ただ息を吸う。
そして最後に言った。
「旧王朝は」
その言葉はかすれた。
「消えない」
体が崩れる。
麻袋の山の前で、男は動かなくなった。
倉の中に沈黙が落ちる。
雨だけが屋根を叩いていた。
シャムが小さく言う。
「……また」
毒。
同じだった。
王太后を倒した毒と、同じ匂い。
ポルックスは男の体を見て、静かに言った。
「これで」
帳面を閉じる。
「口は閉じた」
アルケスは窓のない倉の壁を見る。
外では雨が降っている。
港には麦がある。
だが今の出来事で、一つだけはっきりした。
これはただの飢饉ではない。
カストルが言う。
「ラルグス」
その声は低い。
「探してる」
ポルックスが頷く。
「ヴィルギニス」
シャムが顔を上げる。
そしてその時。
倉の外から、誰かの足音が近づいてきた。
雨の中を歩く足音。
それは急ぎ足ではない。
ゆっくり。
そして確実に近づいてくる。
騎士が振り向く。
扉が開いた。
濡れた外套。
灯りの中へ入った男の顔を見て、アルケスの目が細くなる。
「……ローディン」
ラルグスの使節は、静かに倉の中を見渡した。
倒れている男。
麦袋。
四人の王子。
そして、ゆっくり言った。
「……なるほど」
その声は低く、静かだった。
「秤は」
彼はカストルを見る。
「すでに動いているようですね」
雨はまだ降っている。
港の夜は終わらない。
そしてこの事件は、ついに王城の交渉を本当の場所へ引きずり出した。
【6】
雨は夜の間に少し弱まっていた。
それでも雲はまだ厚く、王城の上空には灰色の天井が低く垂れ込めている。夜明けの光は雲の向こうに滲み、城壁や塔の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。濡れた石畳は鈍く光り、廊下の窓から見える庭の芝も水を含んで暗い色になっている。
港の倉で起きた出来事は、夜のうちに王城へ運ばれていた。
倒れた男。
毒。
そして残された言葉。
旧王朝の血。
その朝、王城の会議の間には再び長い卓が整えられていた。昨日と同じ席。だが空気は明らかに違っている。侍従の動きは静かで、騎士の数も増えていた。誰も声を荒げないが、城の中の者は皆知っている。港の夜は、ただの倉庫の事件ではなかった。
ラルグスの使節、ローディンはすでに席についていた。
黒い外套は乾き、銀の刺繍が灯りを柔らかく反射している。表情は穏やかだったが、その瞳は昨日よりも静かに鋭くなっていた。彼は机の上に両手を置き、向かいの席を見ている。
やがて扉が開いた。
現王が入る。
その後ろに四人の王子が続いた。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
シャム。
昨日と同じ並び。
そして、やはり一つの席が空いている。
ローディンの視線は一瞬そこへ向かった。
だがすぐに王へ戻る。
現王が席に着く。
沈黙。
外ではまだ雨が降っていた。
その音が高窓を叩き、遠くで低く響いている。
最初に口を開いたのは、ローディンだった。
「昨夜」
彼は静かに言う。
「港で騒ぎがあったそうですね」
アルケスが答える。
「穀倉で不審な動きがあった」
ローディンは頷く。
「報告は受けました」
少しだけ間を置く。
「……我が国の者が関わっていた、と」
その言葉は驚きの形をしていない。
すでに知っていたようだった。
ポルックスが言う。
「死んだ」
ローディンの目がわずかに動く。
ポルックスは続ける。
「毒だ」
シャムが思い出す。
王太后の杯。
同じ毒。
ローディンは小さく息を吐いた。
「愚かなことを」
その声は怒りでも焦りでもない。
ただ静かな失望だった。
カストルが言う。
「部下か」
ローディンは首を振る。
「違います」
そしてはっきり言う。
「残党です」
その言葉は重かった。
ポルックスが目を細める。
「旧王朝」
ローディンは頷いた。
「ええ」
雨が少し強くなる。
ローディンは机の上で指を組んだ。
「ラルグスの旧王朝は、完全には消えていません」
彼は静かに言う。
「王族の血が外へ逃げたからです」
アルケスの瞳がわずかに動く。
ローディンは続ける。
「亡命した王女」
「そして」
視線が四人の王子を順に見て。
「その子」
空気がわずかに張る。
シャムが息を止める。
ポルックスは動かない。
カストルだけが、ローディンをまっすぐ見ていた。
「ヴィルギニス」
ローディンは言った。
その名は静かだった。
「彼は旧王朝の血です」
沈黙。
雨音だけが続く。
ローディンは続ける。
「残党は彼を探している」
「担ぎ上げるために」
アルケスが言う。
「王として」
ローディンは頷いた。
「そうです」
「そして」
彼はゆっくり言う。
「我が国の現王朝もまた」
「それを恐れている」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
ポルックスが言う。
「だから探している」
「ええ」
ローディンは答える。
「旧王朝の象徴は危険です」
シャムが小さく言う。
「……殺すため?」
ローディンは首を振る。
「いいえ」
そして静かに言う。
「捕らえるため」
アルケスの声が落ちる。
「引き渡せ、と」
ローディンは沈黙した。
それは肯定でも否定でもない。
カストルが椅子に背を預けた。
小さな体がゆっくり動く。
そして言う。
「断る」
その言葉は短かった。
ローディンはカストルを見る。
カストルの赤い瞳は揺れない。
「ヴィルギニスは」
彼は続ける。
「王子だ」
ローディンは言う。
「旧王朝の血でもある」
「関係ない」
カストルは即答した。
その声は低いが、はっきりしていた。
「ここでは」
彼は言う。
「王子だ」
沈黙。
ローディンはしばらくカストルを見ていた。
そして、小さく笑った。
「……なるほど」
彼は椅子にもたれる。
「そう言うと思いました」
アルケスが言う。
「条件を変える気はあるか」
ローディンは頷く。
「あります」
その言葉に、ポルックスが少し顔を上げた。
ローディンは言う。
「ヴィルギニスを求めない」
「その代わり」
彼は続ける。
「正式な交易を」
アルケスの瞳が細くなる。
「麦の供給」
「航路」
「商人の往来」
ローディンは言った。
「互いに利益になる形で」
ポルックスが静かに言う。
「飢饉を止める」
ローディンは頷く。
「そうです」
沈黙。
そしてシャムが小さく言った。
「麦」
皆が彼を見る。
シャムは続ける。
「なくならない?」
ローディンは少し笑った。
「約束します」
そして言う。
「我が国は」
「飢えた国を望みません」
カストルが言う。
「信じる」
ローディンは答える。
「秤にかけてください」
その言葉を聞いた瞬間、カストルは少し笑った。
「もうかけた」
雨が窓を叩く。
港にはまだ麦がある。
街には炊き出しの列がある。
そして遠い辺境には、まだ戻らない第四王子がいる。
【7】
雨は、ようやく止んでいた。
王都の空にはまだ重たい雲が残っていたが、雲の隙間から淡い光が降りていた。石畳に溜まっていた水はゆっくりと引き、屋根から落ちる雫がぽつり、ぽつりと静かに響く。
嵐のようだった数日が、終わろうとしていた。
港では、ラルグスの船が荷を下ろしていた。青地に双龍の旗が風に揺れ、濡れた帆がゆっくりと畳まれていく。大きな麦袋が次々と桟橋へ運ばれ、王都の兵と商人が慎重に運搬していた。
その様子を、王城の高い窓から見ている者がいた。
アルケスだった。
翡翠の髪が、薄い光を受けて静かに揺れる。
「……来た」
その言葉は、ほとんど独り言だった。
背後で足音がした。
ポルックスだった。
薄桃色の髪を整え、いつもの静かな表情をしている。だがその瞳の奥には、まだ少し疲れが残っていた。
「港は落ち着いたようですね」
アルケスは頷く。
「炊き出しの列も短くなる」
ポルックスは窓の外を見る。
港の麦。
あれだけの量があれば、王都は当面持つ。穀倉の秤もようやく安定する。
ポルックスは言う。
「兄上も安心します」
アルケスは少しだけ微笑んだ。
「カストルか」
「ええ」
ポルックスの声は穏やかだった。
「昨夜は久しぶりに眠れたようです」
カストルはまだ体調が完全ではない。毒の事件、穀倉の混乱、飢饉の不安。それらはすべて彼の体を削っていた。
だが今、秤は戻りつつある。
アルケスは言う。
「王の秤」
ポルックスは視線を戻す。
アルケスは続けた。
「今回は」
「動いたな」
ポルックスは静かに頷いた。
「ええ」
そして少しだけ笑う。
「兄上が」
その頃。
王城の中庭では、シャムが立っていた。
雨上がりの土の匂いが濃い。濡れた芝が足元で柔らかく沈む。空を見上げると、雲の間から細い光が差していた。
城の中は静かだった。
事件が終わると、城はいつも通りの顔を取り戻す。
侍女は歩き、騎士は巡回し、廊下では侍従の声が聞こえる。
何も変わらないように見える。
だがシャムは知っている。
この城の中で、いくつもの秤が動いていたことを。
毒。
火。
麦。
そしてヴィルギニス。
シャムは空を見た。
「……兄弟」
小さく呟く。
四人は王都にいる。
一人は遠くの辺境にいる。
だがその一人は、今も王子だった。
その頃。
遠い国境の町。
ローディス辺境伯の城の庭では、少年が木剣を振っていた。
赤茶に染めた髪。
だが、その下にある青みがかった色は隠しきれない。
ヴィルギニスだった。
木剣が空を切る。
乾いた音。
それを見ている男がいる。
ローディス辺境伯。
白髪混じりの茶髪を長く垂らし、妙に若々しい肌をした変わり者の伯爵は、腕を組んで笑っていた。
「ふむ」
「上達したねえ」
ヴィルギニスは剣を下ろす。
「まだです」
辺境伯は肩をすくめた。
「まだ?」
「君はまだ十一歳だよ?」
ヴィルギニスは答えない。
ただ木剣を見ていた。
遠い王都。
兄たち。
そして母の国。
ラルグス。
その王朝はもう無い。
だが血は残った。
自分の中に。
辺境伯が言う。
「王都から手紙が来たよ」
ヴィルギニスの目がわずかに動く。
「飢饉は落ち着いた」
「外交もまとまった」
そして笑う。
「君の兄たちは、なかなか面白いことをしている」
ヴィルギニスは静かに空を見る。
同じ空。
同じ雲。
遠い王都とつながっている空。
そして小さく言った。
「……そうですか」
辺境伯はその横顔を見て、少しだけ優しい顔になった。
「帰る日も来る」
ヴィルギニスは答えない。
ただ剣を握り直す。
遠くで風が吹いた。
旗が揺れる。
王都の城壁の上でも、旗が揺れていた。
龍の紋章。
王家の旗。
その旗の下で、五人の王子はまだ子供だった。
十一歳。
だが秤は動き始めている。
誰が王になるのか。
まだ誰も知らない。
だが後の世の人々は語る。
この時代。
龍の加護が弱まり、国は雨と飢えに揺れていた。
だが五人の王子がいた。
そしてその中の一人が、やがて――
龍に選ばれる。




