第一章
【1】
満月は、王城の白壁を青く染め上げていた。
玉座の間には、龍神院から運び込まれた黄金の燭台に火が静かに揺れている。
天窓から射し込む光はまっすぐに玉座へ落ち、王の背後に掛けられた亡きアレス王の肖像を照らしていた。
金の髪、透き通る赤眼、高く細い鼻筋。
あまりにも整った顔立ち。
その絵姿を、四人の少年はそれぞれの思いで見上げている。
王太子アルケスは、母に似た翡翠の髪をきちんと結い、赤茶の瞳を伏せていた。優しげな面差しだが、細く丸みを帯びた長い目の奥には、油断のない光が宿る。
母譲りの軍気質が、静かな姿勢の端々に現れている。
双子の兄カストルは、段差の上に立っていた。
小柄な体を真っ直ぐに伸ばし、透き通る赤い瞳で広間を見渡す。幼く見える容貌とは裏腹に、視線は鋭い。
半歩後ろのポルックスは、兄の外套の裾を整えながら微笑んでいる。
淡い桃色の髪が灯を受けて柔らかく光る。温顔の奥で、周囲の動きを逃さない。
青みがかった髪のヴィルギニスは柱の影に寄り、静かに立っていた。整った横顔は肖像の王に似ている。
だがその瞳は湖の底のように静まり、容易に感情を映さない。
重い扉が開いた。
侍従に伴われて、もう一人の少年が入ってくる。
広間の空気が、わずかに変わった。
衣は新しいが質素だ。歩みは慎ましく、足音はほとんど立たない。
だが顔が上がった瞬間、ざわめきが波のように広がった。
金の髪。
透き通る赤眼。
高く細い鼻筋。
――アレス王。
誰もが、同じ名を胸中で呟いた。
少年はまっすぐに立ち、王を見上げる。その瞳に怯えはない。
泥にまみれて育ったと聞くが、光は隠しきれていなかった。
「名を」
王の声が落ちる。
「シャム、と申します」
静かな声だった。
カストルの指が強く握られる。
アルケスはわずかに目を細め、ヴィルギニスは息を浅くする。
ポルックスの微笑が消えた。
王は玉座から立ち上がった。
「今宵、龍星逐鹿を始める」
その名が広間に響く。
龍の星の下、王座を逐う試練。
星満ちる満月の日に生まれし五人のうち、真の王を選ぶ。
神官長が前に進み出た。
「第一の試しは、龍脈の間にて」
地下へ続く石段は冷たい。壁に刻まれた古い紋様が、灯を受けてかすかに浮かぶ。石室の中央には水盤があり、天窓からの月光がまっすぐに落ちていた。
五人は円を描くように立つ。
神官長は何も説明しない。ただ水面を示した。
最初に進み出たのはアルケスだった。
水盤に手をかざし、低く告げる。
「国を守る。外敵も、飢えも」
声は揺れない。月光が水面に跳ねる。だがそれ以上の変化はない。
カストルが前へ出る。
小さな体を精いっぱい伸ばし、赤い瞳をまっすぐに向ける。
「王は血。俺にはそれがある」
水は静かなままだ。
ポルックスが一歩進み、兄の言葉を継ぐ。
「血を正しく使える者が王です」
月光が揺れる。だが石室は沈黙を保つ。
ヴィルギニスは水面を見つめたまま言った。
「国を立て直す術なら、いくつか考えています」
冷静な声。波紋は生まれない。
最後にシャムが歩み出る。
足を止め、水盤を覗き込む。
月が、赤い瞳に映る。
「……守りたいものがあります」
それだけだった。
水面が、ふるりと震えた。
小さな波紋が広がり、やがて中心から淡い光が滲む。壁の紋様が一瞬、呼吸するように明滅した。
誰も動けない。
神官長が膝をつく。
「龍が、応えた」
その言葉に、石室の空気が変わる。
カストルの赤眼が揺れ、アルケスは唇を結ぶ。ポルックスは兄の袖を掴み、ヴィルギニスはただ静かにシャムを見る。
光はすぐに消え、水面は何事もなかったように戻った。
だが、五人は知ってしまった。
何かが、選び始めている。
満月は高く、地上では王城の塔が白く浮かび上がっている。龍は眠っているのではない。どこかで息をしている。
その息が、誰に向けられているのか。
答えはまだ、闇の中にあった。
【2】
龍脈の間を出ても、石の冷たさは足の裏に残っていた。
けれど城を凍らせていたのは冷気ではない。
あの広間にいた者のほとんどが――四人の王子でさえも――今夜初めてシャムの存在を知ったという事実だった。
王家の子は四人。
それが常識であり、記録であり、日常だった。
それが、満月の下で唐突に覆された。
知っていたのは、玉座に座す現王と、シャムを連れてきたあの灰色の瞳の側近だけ。
他は、誰一人として。
回廊に出ると、控えていた侍女たちが一斉に頭を下げる。だがその動きはわずかに遅れ、視線は隠しきれず金髪の少年へ吸い寄せられていた。
十歳の子どもに向けられるには、あまりに重い目だ。
アルケスはそれを感じ取る。
彼もまた十歳。
だが、現王の嫡子として育てられ、常に注目を浴びてきた。
翡翠の髪を揺らしながら、静かに歩く姿は年齢以上に落ち着いて見える。
亡きアレス王の子ではない。
現王――先代王の弟の息子。
王位に最も近いと囁かれてきた少年。
その均衡を、今夜、崩したのがシャムだった。
カストルがくるりと振り返る。
小柄な体に似合わぬ鋭い視線。
「いつからいるんだ」
十歳の声だ。だが言葉は幼くない。
シャムは一瞬戸惑う。
「……今日、呼ばれました」
「違う。王家の子としてだ」
廊下がしんとする。
ポルックスが兄の袖を引く。彼もまた十歳。
淡い桃色の髪が揺れ、困惑を隠しきれない。
ヴィルギニスは静かに観察している。整った横顔は肖像の王に似ているが、その瞳は年相応に揺れていた。
皆、まだ十歳なのだ。
王位を争うには幼すぎる。
だが龍星逐鹿は始まってしまった。
シャムは小さく息を吸う。
「僕も、今日まで知りませんでした」
本心だろう。
その無防備さが、かえって不気味に映る。
アルケスは淡々と言った。
「父上は、何をお考えなのか」
父上――現王。
その言葉で立場がはっきりする。
シャムは亡きアレス王の子。
カストル、ポルックス、ヴィルギニスもまた、先代王の血を引く。
だがアルケスだけは、王の弟の子。
王家の血は同じでも、継承の重みは違う。
そして全員が、まだ十歳。
十歳の子どもたちの前で、十年隠されてきた秘密が明かされたのだ。
回廊の奥で、灰色の瞳の側近が待っている。
彼だけが、動揺を見せない。
「お部屋へご案内いたします」
シャムに向けた声は穏やかだ。
まるで以前から城に住んでいた子のように。
カストルがむっとする。
「ずっと準備してたみたいだな」
側近は表情を変えない。
「陛下のご命令です」
その一言で、すべてが決まる。
現王は知っていた。
そして今、あえて明かした。
満月の夜、龍星逐鹿の始まりに。
アルケスは月を見上げる。
十歳の胸にしては、考えることが多すぎる。
父は何を試しているのか。
自分をか。
それとも、亡き兄の子か。
シャムは侍女たちの視線に気づき、わずかに肩をすくめた。
歓迎ではない。
祝福でもない。
突然現れた第五王子。
龍に応えられた少年。
十歳の小さな背に、城中の疑念が乗っている。
ヴィルギニスがぽつりと言う。
「龍が応えたのも、偶然とは思えない」
その声音は冷静を装っているが、指先はわずかに震えていた。
誰もが怖いのだ。
王位ではなく、選ばれるということが。
月は五人を等しく照らす。
だが、その意味は等しくない。
龍星逐鹿は、まだ始まったばかり。
十歳の王子たちは、初めて“秘密”という重さを知ったのだった。
【3】
満月が細く削れはじめた夜、五人の王子は奥書院へ呼び出された。
低い卓を挟み、現王が座している。
金の髪は燭台の火を受けて柔らかく光り、赤茶の瞳は静かに五人を見渡していた。その顔立ちは亡き兄アレス王に似ている。
だがそこにあるのは、すでに王として即位した者の責任の色だった。
兄王が崩御したあの日。
行幸の折の事故により、王位は空白となった。
そして王弟であったこの男が、正式に即位した。
王座を「預かっている」のではない。
今この国の王は、この男だ。
傍らに立つのは灰色の瞳の側近。
十歳の王子たちは一列に並ぶ。
アルケスは翡翠の髪をきちんと束ね、父をまっすぐ見つめる。赤茶の瞳は父と同じ色だが、髪は母妃から受け継いだ翡翠。王家の象徴たる金ではない。
カストルとポルックスも薄桃色の髪に透き通る赤眼。ヴィルギニスもまた青に近い髪色と赤い瞳を持つ。
そしてシャムは、亡き王そのものの金髪と赤眼。
血の並びが、視覚としてそこにある。
現王が口を開いた。
「シャムのことを話そう」
静かな声だが、逃げ場はない。
「シャムは、兄アレスの子だ」
それは疑いようのない事実。
「十年前、兄の治世下で、王家を巡る火種があった」
赤茶の瞳がわずかに伏せられる。
「外戚の一派が継承を巡り動いた。王妃は病床にあり、城内は不安定だった」
カストルの肩がぴくりと動く。
「もし第五子の存在が公になれば、争いは激化する。そう判断したのは兄だ」
即位前の王弟として、現王もその場にいたのだろう。
「子を守るため、そして国を割らぬために、存在を伏せた」
十年間。
歴史から削ったのではない。
守るために隠した。
シャムが小さく問う。
「どうして、僕に言わなかったのですか」
声は震えていない。だが瞳は揺れている。
現王はまっすぐ答える。
「知れば、狙われる」
王の声音だった。
「王家の血は祝福であると同時に、刃にもなる」
沈黙が落ちる。
アルケスは父を見る。
この男は兄の死後、正式に即位した王だ。
国を背負い、決断を下す立場にある。
「では、なぜ今明かしたのですか」
翡翠の髪の王子が問う。
現王は五人を見渡す。
「龍神院が告げた。満月の年、五つの星が揃うと」
龍星逐鹿。
王を選ぶ儀式。
「そして兄の崩御から三年。国はようやく落ち着いた」
赤茶の瞳が静かに光る。
「隠し続ければ、いずれ歪みになる。ならば正面から問う」
カストルが低く言う。
「ボクたちにか」
「そうだ」
王は即答する。
「私は王として即位した。だが王位継承は一代で終わるものではない」
五人の十歳という幼い子供を、真正面から見据える。
「王とは、血だけではない。選び続ける者だ」
側近が一歩進み出る。
「第二の試しは七日後。王子殿下は選択を迫られます」
「何を」
ポルックスが静かに問う。
「国か、目の前の一人か」
単純で、残酷な問い。
ヴィルギニスが目を細める。
「両立は」
「難しい状況を用意します」
淡々とした説明。
シャムは井戸の少女を思い出す。
あの小さな手は、国の一部か。
それともただの一人か。
現王が立ち上がる。
金の髪が揺れる。
「血は証に過ぎぬ」
その言葉は、病弱という弱点を持つカストルや翡翠の髪のアルケスにも向けられていた。
「王とは、決断する者だ」
灯が揺れ、五つの影が壁に伸びる。
十年間伏せられていた真実は、こうして王の口から語られた。
だがそれは終わりではない。
始まりだ。
龍星逐鹿は続く。
赤い瞳か赤茶の瞳か。
色ではない。
王を決めるのは――選択だ。
そして王は、すでにその先を見ている。
【4】
その先を見ている、と言われた瞬間、アルケスは父の瞳の奥を覗こうとした。
赤茶は、燃える色ではない。
乾いた土に落ちる夕陽の色だ。あたたかくも、どこか容赦がない。
父は彼らを試すのだと子供でも理解した。
だが、父自身もまた、何かを測られているように見えた。
「下がれ」
短い命。
五人は一礼し、奥書院を辞した。
廊下は冷えていた。灯籠の火が長く揺れ、影が絡み合う。
最初に口を開いたのはカストルだった。
「面白いね」
声音は軽い。だが肩で息をしている。
病弱と囁かれる身体は、緊張を隠しきれない。
ポルックスがさりげなく兄の袖を引く。
「面白い、で済ませるの?」
「済ませるしかないでしょ。泣く?」
皮肉めいた笑い。
ヴィルギニスは無言のまま、先を歩く。青に近い髪が月光を受けて淡く光る。
シャムは少し遅れた。
アルケスはそれに気づき、足を緩める。
「……怖いか」
問いは短い。
シャムは驚いたように瞬きをし、それから首を振った。
「わからない」
正直な答え。
「選べと言われても、何を選ぶのか、まだ見えない」
アルケスは頷いた。
自分も同じだ。
国と一人。
天秤にかけられるのは、どちらも命だろう。
廊下を抜け、庭に出ると、夜気が濃かった。池の水面が月を揺らす。
ヴィルギニスが振り返る。
「七日だ。短い」
「準備できることはあるのか?」
ポルックスの問い。
「状況を読むこと」
即答。
「父上は、感情で選ぶか、理で選ぶかを見たいのだろう」
シャムが小さく呟く。
「ことわり?ってなに……」
誰もすぐには答えない。
カストルが肩をすくめる。
「理が正しいなら、世はいつも平和だよ」
咳が漏れる。ポルックスが眉を寄せる。
アルケスは月を見上げた。
翡翠の髪に銀が落ちる。
父は言った。
血は証に過ぎぬ、と。
ならば自分の髪色も、カストルの弱さも、シャムの出自も、等しく“証”にすぎないのか。
それでも人は、色を見る。
見て、測る。
「井戸の少女」
ふいにヴィルギニスが言った。
シャムの肩が跳ねる。
「なぜ」
「見ていた。あの日」
淡々とした声音。
「お前は手を離さなかった」
シャムは唇を結ぶ。
「あれは……離したら落ちると思ったから」
「理だな」
ヴィルギニスは小さく笑った。
「国の井戸を守るのも理だ。だが、少女を守るのも理だ」
ポルックスが静かに呟く。
「国と一人は、分けられないかもしれない」
カストルが首を振る。
「分けさせるのが試しだよ」
風が吹き、池の水面が砕ける。
アルケスは思う。
父は王だ。
即位して三年。揺らぐ国を立て直してきた。
その父が、あえて残酷な問いを投げる。
そこには、迷いがある。
迷いを持つ王を、民は許すか。
「七日後、何が起こると思う」
アルケスが問う。
ヴィルギニスは少し考えた。
「災いを装うか、あるいは真の災いか」
「真?」
「今年は水が不安定だ。上流の雪解けが早い」
現実的な観察。
カストルが眉を上げる。
「じゃあ、洪水で誰かが流されるとか?」
「あり得る」
シャムの喉が鳴る。
再び、水。
王を呑んだ濁流。
アルケスはふいに理解する。
父は、あの日の選択を繰り返させるのかもしれない。
兄王は、民を先に渡らせた。
己は最後だった。
それは王として正しい。
だが、結果として死んだ。
王の正しさは、必ずしも生を保証しない。
「……父上は」
アルケスは呟く。
「兄としての先代王を、どう思っているのだろう」
誰も答えない。
夜は深まる。
五人はそれぞれの思索を抱え、散っていく。
シャムが最後に残った。
池を見つめる。
水面に映る金の髪。
亡き王の面影。
王様の椅子の背後に飾られた肖像画は自分で見ても似ていると感じた。
花街では王家とは程遠いから顔も存在も国の仕組みも知らなかった。
「選ぶって、なんだ」
問いは月に吸われる。
そのとき、背後で衣擦れの音がした。
振り向くと、灰色の瞳。
王の側近だった。
「王子」
柔らかな声。
「眠れぬ夜は、誰にでもあります」
シャムは黙る。
「だが、覚えておきなさい。王は孤独だが、独りではない」
意味を測りかね、視線を向ける。
側近は微笑む。
「七日後、あなたが何を選んでも、国は続く」
慰めか、宣告か。
足音は闇に溶けた。
シャムは再び水面を見る。
波紋が広がり、月が歪む。
歪んでも、月は落ちない。
国も、そうであればいいと、ふと思った。
だがもし、落ちるなら。
掴むのは、誰の手か。
満ちきらぬ月が、静かに天を渡っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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