第十三章3
【1】
穀倉の火が消え、港の秤が守られてから数日。
王都は一見、静かな日常を取り戻していた。
炊き出しの列はまだ長い。
麦袋はまだ足りない。
しかし港ではラルグスから届いた穀物が秤を通り、王都の倉へと運ばれている。
人は完全な希望がなくても、少しの希望があれば息を続けることができる。
王城の大広間では、その「少しの希望」を形にする宴が準備されていた。
外交の宴。
ラルグスの商人たちを迎える席である。
穀物を運んだのは商人であり、王ではない。
ラルグスの現王朝は、今回もまた姿を見せていない。
それは不思議なことではなかった。
あの国の王はめったに表へ出ない。
いや、正確には——
王家そのものが、あまり姿を見せない。
その理由を知る者は、この王城にも少なかった。
だが、現王は知っている。
王太后も知っている。
そして、もう一人。
遠い辺境地にいる王子——
ヴィルギニスも知っている。
ラルグスは、いまだに探している。
姿を消した旧王朝の血を。
かつてその王朝の王女が、この国へ亡命した。
そしてその王女は、先代王の第二妃となり、一人の王子を産んだ。
青い髪の王子。
ヴィルギニス。
もしその存在が知られれば——
ラルグスの政治は大きく揺れる。
だからこそ、ヴィルギニスは辺境にいる。
そして今、王城の大広間にいる王子は四人だった。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
シャム。
長い卓の上には銀の器が並び、葡萄酒の香りが漂っている。
壁に掛けられた織物には王国の歴史が描かれている。
王の席の近くには王太后が座っていた。
老いた女王。
白髪を美しく結い上げ、背筋をまっすぐに伸ばしている。
その目は年齢に反して鋭い。
王太后は宴の空気をよく見ていた。
貴族の視線。
商人の笑顔。
そして——
王子たち。
アルケスは落ち着いた顔で座っている。
第一王子らしい姿だ。
カストルは腕を組み、商人たちを睨むように見ている。
ポルックスは静かに周囲を観察している。
そしてシャム。
シャムは少しだけ席を落ち着かない様子で見ていた。
豪奢な食卓。
銀の皿。
葡萄酒の杯。
花街で育った少年にとって、いまだに慣れない光景だった。
王太后はその様子を見て、小さく微笑んだ。
あの子はまだ王城の空気に慣れていない。
それはむしろ良いことだった。
王城という場所に慣れすぎると、人は他人の顔を見なくなる。
シャムは、まだ見ている。
人を。
その時、給仕たちが杯を配り始めた。
葡萄酒の入った銀の杯。
一つずつ王族の前に置かれていく。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
そして——
シャムの前にも置かれた。
王太后はその瞬間を見ていた。
ほんの一瞬。
本当に小さな違和感だった。
給仕の手。
杯の置き方。
香り。
葡萄酒の香りの中に、わずかな甘さが混じっている。
蜂蜜のような。
薬草のような。
毒。
王太后の瞳がわずかに細くなる。
誰も気づいていない。
現王は商人と話している。
貴族たちは笑っている。
そしてシャムは、何も知らずに杯を見ている。
王太后はゆっくりと手を動かした。
シャムの前にある杯へ。
「……ほう」
穏やかな声で言う。
「良い香りの酒だ」
誰も疑わない声だった。
そしてそのまま、杯を持ち上げる。
シャムが顔を上げた。
「王太后?」
王太后は微笑む。
老いた女王の微笑みだった。
「若い者は急ぐものだ」
ゆっくり言う。
「老いぼれが先に味を見るくらい、許されるだろう」
そして——
杯を口に運んだ。
葡萄酒が喉を通る。
ほんの一口。
それだけだった。
次の瞬間。
王太后の指から杯が落ちた。
銀の音が大広間に響く。
その体がゆっくりと傾く。
シャムが立ち上がる。
「王太后!」
アルケスが椅子を蹴るように立つ。
カストルの赤い瞳が燃える。
ポルックスはすでに杯を手に取っていた。
匂いを嗅ぐ。
その顔色が変わる。
「……毒です」
小さな声だった。
だが、その言葉は宴の空気を切り裂いた。
現王が立ち上がる。
「医官を呼べ!」
兵が走る。
貴族たちは凍りつく。
そしてシャムは——
床に倒れた王太后を抱えていた。
老いた女王の手が、かすかにシャムの袖を掴む。
その唇がわずかに動く。
誰にも聞こえないほど小さく。
「……逃がすな」
王太后は言った。
それが、事件の始まりだった。
【2】
王太后が運び出されたあと、大広間には奇妙な沈黙が残った。
音が完全に消えたわけではない。
侍医の指示、兵の足音、貴族たちの抑えたざわめき。
しかしそれらすべてが、水の底で響くように遠く感じられた。
毒。
しかも王太后が飲んだ。
その意味を理解している者ほど、言葉を失っていた。
現王はしばらく立ったままだった。
玉座の前、宴の卓の中央。
落ちた杯がまだ床に転がっている。
葡萄酒が広がり、赤い染みを作っていた。
王はゆっくりと視線を動かす。
まず給仕たち。
次に兵。
そして、宴に招かれていたラルグスの商人たち。
彼らは跪いていた。
その姿は礼儀正しい。
だが、完全に無関係の顔ではなかった。
王は低く言った。
「……顔を上げろ」
商人たちは顔を上げる。
年齢は様々だ。
若い者、老いた者、太った者、痩せた者。
だが共通しているものがあった。
慎重な目。
彼らは恐れている。
しかしそれは、ただ王の怒りを恐れている目ではない。
何かを知っている者の目だった。
アルケスはそれに気づいた。
「父上」
小さく言う。
現王は答えない。
代わりに一人の商人を指した。
「お前」
その男は四十ほどの年齢だった。
顎に短い髭を生やし、深い青の外套を着ている。
ラルグスの商人団の代表だ。
男は静かに頭を下げた。
「陛下」
「毒はお前たちか」
王の言葉は直接だった。
大広間が凍る。
商人は答えなかった。
代わりに、ゆっくりと首を振った。
「違います」
声は落ち着いていた。
嘘をついている者の声ではない。
だが、それだけでは足りない。
現王の視線は鋭い。
「では誰だ」
商人は一瞬だけ黙った。
そして言う。
「……我らも知りません」
その答えは半分だけ真実だった。
ポルックスがそれを理解する。
「知らないのではなく」
静かに言う。
「関わっていない、ですね」
商人の目がわずかに動く。
ポルックスは続けた。
「あなた方は」
「この事件を望んでいない」
大広間がざわめく。
カストルが言う。
「どういう意味」
ポルックスはラルグスの商人を見た。
「あなた方の王は」
「ヴィルギニス殿下を知っている」
その名前が出た瞬間、空気が変わった。
ヴィルギニス。
亡命王女の子。
旧王朝の血。
商人はゆっくり頷いた。
「……知っています」
その声は静かだった。
「我らの国では」
「その話は伝わっています」
大広間の空気がさらに重くなる。
商人は続けた。
「旧王朝の王女が」
「この国へ亡命したこと」
「そして」
少しだけ視線を落とす。
「その王女が王子を産んだこと」
ポルックスは問う。
「それでも」
「なぜ殺そうとする」
商人はすぐに答えた。
「違います」
その声ははっきりしていた。
「もし我らの王が望むなら」
「毒など使いません」
その言葉は冷たい現実だった。
「王は」
「血を求めている」
大広間の空気が凍る。
「旧王朝の血」
商人は言う。
「それがどこにあるか」
「我らの王は知っています」
ヴィルギニス。
その名前を、誰も口に出さない。
商人は続けた。
「だから」
「我らは麦を運びました」
「関係を壊さないために」
現王は静かに聞いていた。
そして言う。
「では」
「なぜシャムを殺そうとした」
商人は首を振る。
「それは」
「我らではない」
そして、ゆっくり言う。
「ですが」
その目が少し暗くなる。
「誤解した者はいるでしょう」
アルケスが聞く。
「誤解?」
商人はシャムを見た。
金の髪。
赤い瞳。
亡き王の面影。
「……似ている」
小さく言う。
「先代王に」
シャムは動かなかった。
商人は続ける。
「ラルグスには」
「王家の顔を知る者もいます」
「もし」
「旧王朝の血を探す者が」
「この王城に潜んでいたなら」
その言葉は、ゆっくり落ちた。
「……シャム殿下を」
「ヴィルギニス殿下と見間違えた」
沈黙。
カストルの赤い瞳が燃える。
「ふざけるな」
その声は低かった。
「間違えたから毒?」
ポルックスは冷静だった。
「違います」
商人は言う。
「間違えたのではない」
「試した」
その言葉は重かった。
アルケスが聞く。
「何を」
商人は答える。
「旧王朝の血が」
「この城にいるかどうか」
その瞬間。
王城の中の空気が変わった。
穀倉の火。
港の秤。
そして毒。
すべては同じ流れの中にある。
誰かが。
ヴィルギニスを探している。
そしてその誰かは——
王城の中にいる。
現王はゆっくり言った。
「……城内を調べろ」
兵が動く。
王城は完全に封鎖された。
そしてその頃。
遠い辺境地では、青い髪を隠した王子がまだ朝の空を見ていた。
だがその空にも、やがて同じ影が落ちる。
【3】
宴が途切れたあと、王城の空気は明らかに変わっていた。
人の声は消え、廊下には兵が立ち並び、重い扉が一つずつ閉じられていく。普段なら柔らかく響く靴音も、この夜は妙に硬く、乾いた音になっていた。城全体が、何か大きな影に覆われたように静まり返っている。
毒が使われた。
それだけでも重大な出来事だが、その毒は王族の杯に入っていた。そしてその杯を取ったのは――王太后だった。
王太后は城の奥、静養の間へ運ばれていた。王族や重臣が体調を崩した際に使われる部屋で、厚い帳が下ろされ、静かな香の匂いが漂っている。外の騒ぎが届かないよう作られた場所だ。
その扉の前に、四人の王子が立っていた。
アルケスは扉をまっすぐ見つめている。
カストルは椅子に腰掛け、背筋を伸ばしていた。
ポルックスは兄の隣に立っている。
シャムは少し離れた壁際で静かに様子を見ていた。
現王もその場にいた。廊下の中央に立ち、静養の間の扉を見据えている。
やがて扉が開いた。
侍医が姿を現す。
現王が静かに問う。
「容体は」
侍医は深く頭を下げた。
「命に関わる毒ではございません」
その言葉に、廊下の空気がわずかに緩む。
しかし侍医は続けた。
「ただし毒は強く、完全に体から抜けるまで時間がかかります。しばらくは安静が必要でしょう」
王太后はまだ目を覚ましていない。
アルケスはゆっくり目を伏せた。
もしあの時、王太后が杯を取らなければ。
毒を飲んでいたのは――シャムだった。
その事実が胸の奥に沈む。
沈黙の中、カストルが口を開いた。
「……毒はシャムの杯に入っていた」
その声は落ち着いていた。怒鳴るでもなく、ただ事実を確認するように。
現王は頷く。
「そうだ」
カストルは一瞬だけ視線を落とす。
そして静かに言った。
「祖母上が、守った」
短い言葉だったが、そこには王太后への敬意が含まれていた。
ポルックスがゆっくり口を開く。
「理由を考える必要があります」
カストルは頷いた。
「うん」
兄弟の間に余計な言葉はない。
ポルックスは続けた。
「理由は二つ考えられます」
アルケスが視線を向ける。
「一つは港の秤の件です」
穀倉の火。
港の秤を狂わせようとした企み。
それを止めたのは王子たちだった。
カストルは小さく息を吐く。
「それで毒?」
ポルックスは首を横に振った。
「もう一つあります」
そして静かに言う。
「ヴィルギニス」
その名前が出た瞬間、廊下の空気が変わった。
シャムが顔を上げる。
「ヴィル?」
ポルックスは頷く。
「隣国ラルグスは」
「旧王朝の血を探しています」
亡命した王女。
その子であるヴィルギニス。
旧王朝の血。
もしその血をラルグスが手に入れれば、政治の均衡は崩れる。
カストルが言う。
「ヴィルは王都にいない」
「辺境だ」
ポルックスは頷いた。
「はい」
だからこそ、この毒は奇妙だった。
ポルックスはシャムを見る。
「あなたは」
「先代王に似ています」
金の髪。
赤い瞳。
亡き王の面影。
シャムは眉を寄せる。
「それで?」
ポルックスは答える。
「誤認です」
カストルが静かに息を吐く。
「なるほど」
怒りではなく、理解だった。
ポルックスは続ける。
「誰かが」
「ヴィルギニスを探しています」
その声は低かった。
王城の外ではない。
王城の中。
アルケスがゆっくり言う。
「……ヴィルが王城にいると思っている」
ポルックスは頷いた。
「その可能性があります」
毒。
穀倉の火。
港の秤。
すべてが一本の線でつながる。
旧王朝の血を探す者がいる。
現王は四人の王子を見た。
「商人たちは拘束した」
アルケスが問う。
「ラルグスの者ですか」
王は首を振る。
「違う」
短い答えだった。
カストルが視線を上げる。
「では、誰が」
その問いは落ち着いていた。
王は答える。
「まだ分からん」
その言葉は重かった。
敵の姿が見えない。
沈黙が落ちる。
その時、シャムが小さく言った。
「ヴィル」
三人が見る。
シャムは言う。
「ヴィル、知らないよ」
王城で何が起きているか。
まだ知らない。
ポルックスが言った。
「知らせる必要があります」
カストルが少し考える。
そして言う。
「呼び戻すのは危ない」
ポルックスは頷く。
「同意します」
アルケスが続ける。
「なら」
「隠す」
ポルックスは静かに答えた。
「はい」
もし敵がヴィルギニスを探しているなら。
王都へ戻すのは危険だ。
現王は短く言った。
「ヴィルギニスの居場所は守る」
それだけだった。
その頃。
遠い辺境の丘の上で、赤茶に染めた髪の少年が風に立っていた。
染薬で色を変えた髪が揺れる。
その目は遠い空を見ている。
王城で毒が使われたことも。
旧王朝の血が狙われていることも。
まだ知らない。
【4】
王太后が倒れた夜から、王城の空気は目に見えない糸に絡め取られたように張りつめていた。
廊下には常より多くの兵が立ち、門は内側から固く閉じられている。宴の席にいた者たちは全員城内に留め置かれ、商人も貴族も、一人ずつ名前を記録されていた。誰もが静かにしているが、その静けさは安心からではない。誰かが嘘をついていることを、皆が感じているからだ。
静養の間の前で、四人の王子はまだ動いていなかった。
アルケスは窓の外を見ている。夜は深く、雨の気配が近い。
カストルは椅子に腰掛けたまま、指先で膝を軽く叩いていた。
ポルックスは兄の隣に立ち、何かを考えている。
シャムは壁際で静かに立っている。
最初に口を開いたのはポルックスだった。
「毒は、城の中で入れられました」
声は落ち着いていた。
アルケスが視線を向ける。
「宴の前?」
ポルックスは首を横に振る。
「宴の最中です」
カストルが眉を上げた。
「どうしてそう思うの」
ポルックスは言う。
「給仕が替わった」
三人が彼を見る。
ポルックスは続けた。
「途中で一度、杯が下げられています」
アルケスが思い出す。
「葡萄酒を温め直すと言っていた」
「はい」
ポルックスは頷いた。
「その時です」
カストルが椅子から少し身を乗り出す。
「つまり」
「給仕の誰か」
ポルックスは答えた。
「あるいは」
「給仕に紛れた者」
沈黙が落ちる。
王城の給仕はほとんどが長年仕えている者だ。突然現れた人間が紛れる余地は少ない。
だが、完全ではない。
アルケスが言った。
「宴には」
「ラルグスの商人もいた」
カストルが頷く。
「でも」
「毒は彼らのやり方じゃない」
それは皆わかっていた。
ラルグスは商業国家だ。
利益を求める国であって、無意味な暗殺を好む国ではない。
ポルックスは静かに言った。
「彼らはヴィルギニスを欲しがっている」
「殺す理由はありません」
シャムが小さく言う。
「じゃあ」
「誰」
誰もすぐには答えなかった。
そのとき、アルケスが言った。
「秤」
三人が振り向く。
アルケスは続ける。
「港の秤」
「穀倉の火」
カストルが理解する。
「……同じ人間」
アルケスは頷く。
「この国を弱らせたい」
ポルックスが言う。
「そして」
「ヴィルギニスを探している」
その言葉が落ちたとき、廊下の奥から足音が聞こえた。
重臣の一人が現王の前に跪く。
「陛下」
現王は振り向いた。
「報告か」
「はい」
重臣は言う。
「給仕の一人が消えました」
四人の王子が顔を上げる。
「名は?」
現王が問う。
「ケルン」
重臣は答えた。
「三年前から城に出入りしていた男です」
ポルックスが静かに言う。
「三年」
アルケスが理解する。
「ヴィルが城にいた頃」
ポルックスは頷く。
「はい」
重臣は続けた。
「部屋を調べたところ」
「金貨が見つかりました」
カストルが聞く。
「どこの?」
重臣は答えた。
「ラルグス」
その瞬間、空気が変わる。
ポルックスはゆっくり言った。
「……やはり」
アルケスが問う。
「ラルグスの間者?」
重臣は首を振る。
「分かりません」
「ただ」
「金貨は古いものです」
ポルックスが眉を動かす。
「旧王朝の刻印」
重臣は頷いた。
カストルが静かに言った。
「つまり」
「今の王じゃない」
ポルックスが続ける。
「旧王朝の支持者」
その言葉が廊下に落ちる。
ラルグスにはまだ旧王朝を信じる者がいる。
亡命王女の血。
ヴィルギニス。
それは彼らにとって希望の象徴だ。
ポルックスが言った。
「彼らは」
「ヴィルギニスを探している」
「そして」
「王城を揺らそうとしている」
アルケスが窓の外を見る。
遠くの空で雷が光った。
雨が来る。
カストルが静かに言う。
「逃げた給仕」
ポルックスが頷く。
「追う必要があります」
現王は短く命じた。
「門を閉じろ」
兵が動き出す。
そのとき、シャムが言った。
「……でも」
三人が振り向く。
シャムは言う。
「もし」
「ヴィルを探してるなら」
「まだ終わってない」
その言葉は子供のものだった。
だが誰も否定できなかった。
アルケスが静かに言う。
「そうだ」
そして四人を見た。
「これは」
「まだ始まりだ」
雨が降り始めた。
王城の屋根を叩く音が、夜の静けさを崩していく。
そしてその雨は、遠く辺境の地にも降っていた。
赤茶に染めた髪の少年が、城壁の外の丘に立っている。
ヴィルギニス。
【5】
夜半を過ぎるころ、王城の外では雨が本格的に降り始めていた。石畳を打つ雨音は次第に強くなり、城壁の上を流れ落ちる水は白い筋となって暗闇に消えていく。湿った風が廊下の窓の隙間から入り込み、灯火を小さく揺らした。
静養の間の前には、まだ四人の王子と現王がいた。長い夜だったが、誰一人としてそこを離れようとはしない。王太后はまだ目を覚ましていない。侍医たちは帳の向こうで静かに薬を調え、湯を運び、呼吸を確かめている。
アルケスは窓の外を見ていた。濡れた庭の向こうに、王都の屋根が闇の中に沈んでいる。雨は民の畑にも降っているだろう。今年の麦が立たないという言葉が、頭のどこかでずっと響いていた。
カストルが言った。
「……給仕の男」
椅子に座ったまま、静かに続ける。
「逃げたんだよね」
ポルックスが答える。
「城門を閉じています」
「逃げ切るのは難しいでしょう」
カストルは頷いた。
怒っている様子はない。ただ考えている顔だった。
シャムは壁に背を預けながら言った。
「でも」
「もし捕まっても」
三人が彼を見る。
シャムは言う。
「言わないよ」
花街で育った子供の言葉だった。
ポルックスが少しだけ目を細める。
「そうかもしれません」
そして静かに言った。
「けれど」
「彼は一人ではない」
アルケスが頷く。
「城の中に協力者がいる」
毒は一人では入れられない。
杯を替える者。
運ぶ者。
宴の流れを知る者。
それは城の内側の人間だ。
沈黙が落ちる。
そのとき、静養の間の扉が再び開いた。
侍医が出てくる。
現王が視線を向ける。
「どうだ」
侍医は頭を下げた。
「毒は弱まりつつあります」
アルケスが息を吐く。
侍医は続けた。
「王太后様は、まもなく目を覚まされるでしょう」
その言葉に、四人の王子の表情が少しだけ緩んだ。
カストルが立ち上がる。
「……祖母上」
小さく呟く。
その声には、普段の強い調子とは違う響きがあった。
現王は扉を見たまま言う。
「まだ入るな」
「体が弱っている」
カストルは頷いた。
それ以上は言わない。
ポルックスが静かに話を戻す。
「陛下」
現王が視線を向ける。
「ヴィルギニスの件です」
現王は少しだけ眉を動かす。
ポルックスは続けた。
「敵が探しているのなら」
「王都に戻すのは危険です」
アルケスも言う。
「辺境にいる方が安全です」
カストルは少し考えてから頷いた。
「うん」
そして静かに言う。
「ヴィルは」
「今の場所がいい」
ポルックスが兄を見る。
カストルは続けた。
「王城は」
「今、危ない」
その言葉は静かだった。
だが正しかった。
毒が使われた城。
間者が潜む城。
そこへヴィルギニスを呼び戻すのは危険だ。
現王はしばらく黙っていた。
そして短く言う。
「……そのままにする」
それは決定だった。
ヴィルギニスは辺境に残る。
ポルックスが一歩進み出る。
「ですが」
現王が見る。
「護衛を増やすべきです」
「敵が動く可能性があります」
現王は頷いた。
「ローディス辺境伯には伝える」
その名前が出たとき、シャムが少し顔を上げた。
ローディス辺境伯。
ヴィルギニスが身を寄せている人物だ。
変わり者だが腕は確か。中央の貴族たちから距離を置かれているが、国境を守る力は誰も否定しない。
アルケスが静かに言った。
「辺境は」
「今、国境も不安定です」
ポルックスが頷く。
「はい」
隣国ラルグス。
旧王朝を失った国。
その血を引くヴィルギニス。
その存在は、まだ小さいが確実に政治の火種になる。
現王は廊下の窓へ歩いた。
雨はさらに強くなっている。
石畳を叩く音が低く響く。
王は言った。
「敵は」
「旧王朝の血を探している」
アルケスが答える。
「ですが」
「見つけられません」
現王は頷いた。
「だから試す」
毒。
火。
秤。
すべては王城を揺らす試みだ。
だが。
カストルが静かに言った。
「でも」
三人が見る。
カストルは言う。
「守られてる」
ポルックスが兄を見る。
カストルは続けた。
「祖母上が守った」
「シャムを」
短い言葉だった。
しかしその意味は重い。
王太后は毒を飲んだ。
王族を守るために。
そしてポルックスが言う。
「守るべき血は」
「まだ残っています」
アルケスが窓の外を見た。
雨の向こうに、遠い夜の空がある。
その空の下のどこかに、ヴィルギニスがいる。
まだ何も知らない。
毒のことも。
自分の血を探す者のことも。
だが王城では今、決定が下された。
ヴィルギニスは守られる。
その血は隠される。
そして。
その血を巡る争いは、これから始まる。
雨は夜明けまで降り続いた。
【6】
王都から遠く離れた北西の辺境では、風が絶えず吹いていた。
その風は王都の庭園に吹くものとは違う。柔らかく整えられた空気ではなく、岩と草を削りながら流れる荒い風だ。丘の上に立てば、衣の裾が常に揺れる。耳元で鳴るその音は、まるで遠くから誰かが囁いているようでもあった。
ヴィルギニスはその丘の上に立っていた。
赤茶色の髪が風に揺れている。本来は青みがかった髪だが、王命によって染薬で色を変えていた。王都では一度見れば忘れない髪色だが、この辺境ではただの赤茶の少年にしか見えない。
丘の下には、ローディス辺境伯の館がある。
王城と比べれば簡素な建物だ。だが石壁は厚く、塔は低いながらも重く構えている。装飾ではなく、防衛のための館だった。
ヴィルギニスはその屋根を見下ろしながら、風の流れを目で追っていた。
ここへ来てから三ヶ月。
王城とはすべてが違う。
朝は鐘ではなく、羊の鳴き声で始まる。
侍女の足音ではなく、兵の靴音が廊下に響く。
食卓には銀の皿ではなく、焼いた肉と黒いパンが置かれる。
王子としての暮らしではない。
だが不思議と、嫌いではなかった。
「……また上にいる」
声がした。
振り返ると、ローディス辺境伯が立っていた。
長い茶髪には白いものが混じり、肩まで伸びている。五十を過ぎた男だが、肌のつやは妙に若い。外套の色の合わせ方も、どこか奇妙なほど美しい。紫と灰の組み合わせなど、王城の貴族でもなかなか選ばない。
そして何より、その言葉遣いだった。
「風と話すのが好きなのかい?」
おどけたような調子だ。
ヴィルギニスは答えた。
「話してはいません」
「聞いているだけです」
辺境伯は笑った。
「なるほど」
「それは王の仕事に近い」
ヴィルギニスは眉をわずかに動かす。
辺境伯は続ける。
「王というのはね」
「風の音を聞くものなんだ」
その言葉は冗談のようでいて、妙に真剣だった。
ヴィルギニスは丘の向こうを見た。
遠くの山脈の向こうに、別の国がある。
ラルグスではない。
そのさらに向こう。
だが、風はそちらからも吹いてくる。
辺境伯はヴィルギニスの横に立った。
「王都の空気はどうだ」
唐突な問いだった。
ヴィルギニスは答える。
「重い」
「ほう」
「人が多すぎる」
辺境伯は肩を揺らして笑った。
「確かに」
「ここは逆に人が少なすぎる」
二人はしばらく黙って風を聞いていた。
やがて辺境伯が言う。
「麦が駄目だ」
ヴィルギニスは視線を下に落とす。
丘の下には畑が広がっている。
だが穂はまばらだった。
「王都も同じだ」
ヴィルギニスは言った。
辺境伯は頷く。
「知っている」
「だから商人が動く」
その言葉に、ヴィルギニスは顔を上げた。
辺境伯の目は遠くを見ている。
「ラルグスだ」
その名前が出た瞬間、風の音が変わったように感じた。
ヴィルギニスは何も言わない。
辺境伯は続けた。
「商人は麦を運ぶ」
「だが商人だけではない」
「国も動く」
ヴィルギニスはゆっくり言う。
「……ラルグス」
辺境伯はちらりと彼を見る。
「懐かしい名前かな」
ヴィルギニスは答えない。
その沈黙は、辺境伯には十分だった。
辺境伯は少し笑った。
「心配するな」
「この館では」
「お前はただの貴族の子だ」
その言葉は軽い。
だがその裏には、はっきりした意思があった。
守るという意思だ。
ヴィルギニスは丘の下を見た。
兵が訓練している。
農夫が畑を見ている。
子どもたちが走っている。
誰も彼を王子として見ていない。
それは奇妙な感覚だった。
王城では、誰もが彼の立場を知っていた。
ここでは違う。
誰も知らない。
辺境伯が言った。
「さて」
「一つ聞こう」
ヴィルギニスは振り向く。
辺境伯は地図を広げた。
風で紙が揺れる。
「もし」
「麦が足りなくなったら」
「どうする?」
ヴィルギニスは地図を見る。
王城で何度も見た形だ。
だが今は違う。
ここは王城ではない。
辺境だ。
しばらく考え、言った。
「奪う」
辺境伯の眉が上がる。
ヴィルギニスは続けた。
「商人は売る」
「国は貸す」
「でも」
「戦争は奪う」
辺境伯はしばらく黙った。
そして笑った。
「面白い」
「王の血だ」
ヴィルギニスは何も言わない。
辺境伯は地図を閉じた。
「だが」
「今はまだ」
「その時ではない」
風がさらに強くなる。
その風は、遠い国の匂いを運んでいた。
ラルグス。
旧王朝が滅びた国。
そしてその血が、今ここに立っている。
ヴィルギニスはまだ知らない。
王城で毒が使われたことも。
その毒が、シャムを狙ったことも。
そして。
自分を探す者が動き始めていることも。
だが風は知っていた。
風はいつも、国より先に動く。
そしてその風は今、確実に戦の匂いを運んできていた。
【7】
辺境の朝は王都よりも早い。
まだ空が白み始めただけの時間、ローディス辺境伯の館ではすでに兵が起きていた。門の前では夜番の兵が交代し、厩舎では馬が鼻を鳴らしている。霜の残る地面を踏む靴の音は乾いており、空気は冷たく澄んでいた。
ヴィルギニスは館の裏手にある小さな訓練場にいた。
赤茶色に染めた髪が朝の風に揺れている。剣はまだ重く、腕も細い。だが動きは静かだった。王城での訓練とは違い、ここでは誰も「王子」として彼を見る者はいない。
ただ一人、遠くから眺めている男がいた。
ローディス辺境伯である。
白髪混じりの長い茶髪を風に流しながら、彼は壁にもたれ、腕を組んでいた。口元にはいつものおどけた笑みがあるが、目だけは鋭い。
ヴィルギニスの剣が止まる。
「……見ていましたか」
辺境伯は肩をすくめた。
「見ていたとも」
「君は不思議な剣を振るう」
ヴィルギニスは眉を動かす。
「どういう意味です」
辺境伯は歩み寄った。
「王城の剣だ」
「戦場の剣ではない」
ヴィルギニスは少し考える。
そして言った。
「王城では、戦場に行かない王子もいるからです」
辺境伯は笑った。
「なるほど」
「ではここで覚えるといい」
そう言って彼は木剣を拾った。
「辺境の剣を」
その一撃は速かった。
ヴィルギニスはかろうじて受け止める。
木がぶつかる音が響いた。
辺境伯は楽しそうだった。
「そうだ、それでいい」
「王子の剣ではなく」
「生きる剣を振るえ」
ヴィルギニスは何も言わない。
だが、その言葉は胸の奥に残った。
訓練が終わる頃には、太陽が山の上に顔を出していた。
館の屋根が赤く染まり、遠くの畑に光が落ちる。だがその畑は豊かではない。穂はまばらで、風が吹くたびに土が見える。
麦は足りない。
この国も、王都も。
そしておそらく――隣国も。
辺境伯が言った。
「商人が来る」
ヴィルギニスは振り向く。
「どこから」
「ラルグス」
その名前が空気を少しだけ変えた。
ヴィルギニスの母の国。
旧王朝が滅びた国。
辺境伯は平然と言う。
「商人は政治より早い」
「麦の匂いがすれば、どこへでも来る」
ヴィルギニスは丘の向こうを見る。
ラルグスはさらに西だ。
山脈の向こう。
母が生まれた国。
そしてもう存在しない王朝。
辺境伯がふと真面目な顔になる。
「だがな」
「麦だけじゃない」
ヴィルギニスは黙って聞いている。
辺境伯は言った。
「人も動く」
「血を探す者もな」
その言葉に、ヴィルギニスの指がわずかに止まった。
だが彼は何も聞かなかった。
辺境伯はそれ以上言わない。
ただ空を見た。
雲が西から流れてくる。
遠くで雷が鳴った。
「雨だな」
その頃――
王都では、まだ夜が終わっていなかった。
王城の廊下には灯りが残り、兵が静かに立っている。静養の間の扉は閉ざされたままだ。
王太后はまだ眠っている。
毒は弱まったが、体は回復していない。
その廊下の奥で、四人の王子が話していた。
アルケスが窓の外を見る。
「雨だ」
カストルが言った。
「辺境も降るかな」
ポルックスは首を振る。
「西の雲です」
「こちらに来るでしょう」
シャムは壁にもたれている。
その表情はいつもより静かだった。
毒は自分を狙ったものだった。
それを、祖母が飲んだ。
その事実は、まだ胸の奥で整理できていない。
カストルが言った。
「……逃げた給仕」
ポルックスが答える。
「まだ見つかっていません」
アルケスは窓から離れた。
「城の外には出られない」
「門は閉じている」
ポルックスは静かに言う。
「ですが」
「協力者がいれば」
言葉はそこで止まった。
城の中に敵がいる。
その事実が、四人の頭の中に重く残っている。
カストルが椅子の背にもたれる。
「毒」
小さく呟く。
「穀倉の火」
「港の秤」
ポルックスが続ける。
「同じ流れです」
アルケスは言う。
「ヴィルギニスを探している」
その名前が出たとき、シャムが顔を上げた。
「ヴィル」
その声は小さかった。
ポルックスは頷く。
「はい」
「敵は旧王朝の血を探しています」
カストルが静かに言う。
「でもヴィルはここにいない」
ポルックスは答える。
「だから」
「試している」
シャムを見る。
金の髪。
赤い瞳。
亡き王の面影。
「誤認」
アルケスが言った。
カストルはしばらく黙っていた。
そして言う。
「なら」
三人を見る。
「ヴィルは守られてる」
ポルックスが兄を見る。
カストルは続けた。
「王都にいないから」
その言葉は静かだった。
だが確信があった。
ヴィルギニスは辺境にいる。
王城から遠く離れて。
毒も陰謀も知らない場所で。
その頃、辺境では雨が降り始めていた。
ヴィルギニスは丘の上に立っていた。
赤茶の髪が濡れ、風に貼りつく。
遠くの空を見る。
その空の向こうに王都がある。
そしてそこでは今、毒が使われた。
血を巡る戦いが始まっている。
【8】
雨は夜明け近くまで降り続いていた。
王城の屋根を打つ音は低く重く、石畳を流れる水は細い川となって門の外へ流れていく。夜の宴の華やかさはすでに跡形もなく、大広間には濡れた空気と静かな灯りだけが残っていた。
王太后は城の奥、静養の間で眠っている。
侍医の言葉では、毒はすぐ命を奪う類のものではなかった。しかし老いた体には強すぎる毒であることに変わりはなく、まだ目を覚まさない。
廊下には、四人の王子がいた。
アルケスは窓際に立っている。
カストルは椅子に座り、背筋を伸ばしていた。
ポルックスは兄の後ろに立つ。
シャムは柱の影に寄り、静かに床を見ていた。
沈黙を破ったのはポルックスだった。
「……給仕は見つかりました」
アルケスが振り向く。
「どこで」
「城の中です」
ポルックスは続ける。
「逃げてはいませんでした」
カストルの赤い瞳が細くなる。
「どういうこと」
ポルックスは答えた。
「見つかった時には、すでに倒れていました」
その言葉で空気が止まる。
アルケスが静かに聞く。
「死んでいた?」
ポルックスは首を振る。
「まだ息はありました」
「ですが……」
少し間を置く。
「毒を飲んでいました」
シャムが顔を上げる。
「……自分で?」
ポルックスは頷いた。
「穀倉の火をつけた男と同じです」
その言葉で、皆が理解する。
穀倉の放火犯は捕まる前に毒を飲んで死んだ。
そして今回も同じだった。
カストルが言った。
「つまり」
「口を閉ざすつもりだった」
ポルックスは静かに答える。
「はい」
アルケスが低く言う。
「黒幕を守るため」
廊下の外ではまだ雨が降っている。
静養の間の扉は閉じられたままだ。
ポルックスは続けた。
「給仕は息が残っているうちに少しだけ話しました」
カストルが視線を上げる。
「何を」
ポルックスは言う。
「王の血」
シャムが小さく息を吸う。
ポルックスは続けた。
「旧王の血を探している、と」
アルケスが静かに言う。
「ヴィルギニス」
ポルックスは頷いた。
「そうです」
その名前が落ちた瞬間、廊下の空気が重くなる。
カストルは椅子の背にもたれた。
「……なるほど」
声は静かだった。
怒りではない。
理解だった。
ポルックスは言う。
「給仕は」
「シャムを見て」
「旧王の血だと思ったそうです」
シャムの指が少しだけ動く。
金の髪。
赤い瞳。
亡き王に似た顔。
誤認。
カストルが言う。
「それで毒」
ポルックスは答える。
「はい」
「そして」
少しだけ声を落とす。
「王の血が守られるかどうかを試した」
アルケスが静かに息を吐く。
守られるかどうか。
結果は出ている。
王太后が杯を取った。
カストルが小さく言う。
「守られた」
その声は落ち着いていた。
ポルックスが兄を見る。
カストルは続けた。
「祖母上が守った」
短い言葉だった。
だがそれで十分だった。
アルケスは窓の外を見る。
夜明けが近い。
雨はまだ止まない。
「黒幕は」
静かに言う。
「まだいる」
ポルックスが頷いた。
「はい」
「旧王朝の残党」
「ラルグスの中か」
「あるいは」
少し間を置く。
「王国の中」
沈黙が落ちる。
その時、静養の間の扉が少しだけ開いた。
侍医が顔を出す。
「……王太后様が」
四人の王子が振り向く。
侍医は言った。
「目を覚まされました」
空気がわずかに動く。
カストルがゆっくり立ち上がった。
「祖母上」
だが侍医は首を振る。
「まだお休みください」
「毒が残っています」
カストルは頷いた。
それ以上は言わない。
ポルックスが静かに言う。
「ヴィルギニス」
三人が彼を見る。
ポルックスは続けた。
「敵はまだ」
「彼を探しています」
カストルが答える。
「でも」
その声は確信だった。
「ヴィルはここにいない」
ポルックスが頷く。
「はい」
アルケスが窓の外を見た。
雨の向こうに遠い空がある。
その空の下のどこかに、ヴィルギニスがいる。
辺境。
風の国境。
そこは王城から遠い。
だからこそ――守られている。
カストルが言った。
「今は」
「それでいい」
雨はまだ降り続いていた。
王城の嵐は、ようやく一つ終わった。
だが。
血を探す者は、まだ動いている。
【9】
雨は、王城の石をよく冷やした。
夜のあいだ降り続いた水は、朝になってもやむ気配を見せず、屋根の端から細い糸のように垂れ落ちている。中庭の砂利は暗く濡れ、踏めば小さく沈み、白い回廊——ではなく、長い廊下の窓硝子には水滴が絶え間なく走っていた。遠くの塔の輪郭は滲み、城壁の上を見回る兵の姿さえ、今日はぼんやりとしている。
王城は広い。
だが雨の日の王城は、広いというより深い。
扉の向こうにまた扉があり、その先にもまだ別の扉があるような、重たい奥行きが生まれる。そこに毒の事件が起きたのだから、空気が沈むのも当然だった。灯りはついている。人も動いている。侍女も兵も役人も、それぞれの役目を果たしている。それでもどこか、皆がひとつ浅く呼吸しているように見えた。
王太后はまだ静養の間にいる。
毒はすぐに命を奪うものではなかったが、老いた体には強すぎた。侍医の言葉では、峠は越えた。だが「越えた」というのは安心の言葉ではない。越えた先にも道があるというだけの話だ。毒はまだ体の奥に残り、熱とだるさを置いている。目を覚ます時間は増えたが、長く話せるほどではない。
静養の間の前の廊下には、昨夜より少ない兵が立っていた。少ないとはいえ、普段よりはずっと多い。兵の数が増えれば安心する者もいるが、王城に長く仕える者ほど逆に不安になる。兵が多いということは、それだけ守るものがあるということだからだ。
その廊下を、アルケスはゆっくり歩いていた。
窓の外を一度見て、それから視線を戻す。翡翠の髪はいつも通り整えられている。衣も乱れがない。第一王子は、乱れていてはならない。誰が決めたわけでもないが、そういうものだと知っている。知っているから整える。整えることで、かろうじて自分も立っていられる。
昨夜から一睡もしていない。
けれど眠いという感覚はもう薄かった。
毒が使われた。
王太后が倒れた。
狙われたのはシャムだった。
そして敵は、まだ城のどこかにいるかもしれない。
考えるべきことは多いのに、頭の中は妙に澄んでいた。疲れすぎると、人はかえって静かになる。波立つ力すらなくなり、水面だけがぴたりと止まる。それに似ていた。
廊下の先に、ポルックスが立っていた。
薄桃色の髪が、窓からの淡い光を吸ってやわらかく見える。だがその表情は柔らかくない。彼は帳面を抱えていた。穀倉の残量、炊き出しの消費、港にある在庫、地方への配分。こういう時に数字へ逃げ込むのではない。数字の中にしか現実がないから、そこへ戻るのだ。
「兄上」
ポルックスはアルケスに気づくと、きちんと頭を下げた。
礼儀は崩れない。現王に対しても、アルケスに対しても、他の者に対しても、表面上は同じだけの敬意を払う。だがその均等な礼の奥に、ただ一人だけ、例外がある。
カストルだ。
それは言葉の端より、視線の動きに表れる。今も、ポルックスの目は一度、廊下の長椅子へ向いていた。そこに兄がいるかを確かめるように。
「穀倉の計算、終わった?」
アルケスが尋ねる。
ポルックスは小さくうなずいた。
「一応は」
その「一応」が重い。
「焼失した分を差し引いて、港から入った分を足し、炊き出しを続けた場合——」
言葉を切る。帳面を開く指先は静かだ。
「王都だけなら、四ヶ月」
アルケスは目を伏せた。
四ヶ月。
長いようで短い。
春の終わりから夏の終わりまで。
だが農は待ってくれない。次の収穫が必ずあるわけでもない。
「地方に回したら?」
「三ヶ月半です」
ポルックスは淡々と答える。
「雨が長引けば、さらに減ります」
廊下の外で、雨脚が一度強くなった。窓を打つ音が細かく続く。
アルケスは言った。
「……結局、まだ足りない」
「はい」
ポルックスはそれを否定しない。
「だからラルグスです」
その国名が出た瞬間、二人の間に短い沈黙が落ちた。
ラルグス。
青地に双龍の旗を掲げる隣国。
旧王朝が滅び、新しい王朝が座を奪った国。
そして今、王国へ麦を送ってくる国。
だが麦だけが来るわけではない。
噂も来る。視線も来る。探りも来る。
ヴィルギニスの母がその国の王女だったことを、向こうは知っている。旧王朝の血がこの国に流れていることも知っている。知っていて、なお動かないふりをしている。沈黙は、無関心とは違う。沈黙ほど、相手の内側を見えなくするものはない。
「正式使節が来る」
アルケスが低く言った。
ポルックスは顔を上げる。
「もう聞かれましたか」
「さっき陛下から」
アルケスは窓の外を見たまま続ける。
「三日後。麦の追加と港税の話」
ポルックスの目が少し細くなる。
「……早いですね」
「火と毒の直後だからこそ、だろうね」
アルケスは苦く笑う。
「向こうも、こっちが弱ってるのを知ってる」
それは責め言葉ではなかった。ただ事実だった。弱っている国には、友好も親切も、少し形を変えて入ってくる。麦は命だ。だが命を受け取る時、人は必ず何かを差し出す。
その時、長椅子の方から声がした。
「朝から暗い顔だな」
カストルだった。
いつのまにか目を覚ましていたらしい。小柄な体を深く椅子へ預けていたが、姿勢は崩れていない。薄桃色の髪は少し乱れ、赤い瞳だけが妙に冴えて見えた。昨夜の疲れは当然あるはずだ。だがそれを見せたくない顔だった。
ポルックスはすぐに兄のそばへ寄る。
それは癖のようなものだった。手を貸すわけではない。ただ、必要ならすぐ支えられる場所に立つ。
「兄上、起きて平気ですか」
声がわずかに柔らかくなる。
兄にだけ向ける声だ。
カストルは鼻を鳴らした。
「寝てる方が苦しい」
それからアルケスを見る。
「使節が来るんだって?」
「うん」
アルケスが答えると、カストルは小さく笑った。
「いい時に来る」
「悪い時だから来るんだよ」
ポルックスが静かに言う。
「向こうにとっては、いい時だ」
カストルの口元がわずかに歪む。
「嫌いだな、そういうの」
その時、廊下の反対側から足音が近づいてきた。
シャムだった。
金の髪は今日は結われていない。昨夜からほとんどそのままなのだろう。だが顔は妙に静かだった。騒いでいない分、かえって胸の内が見えない。シャムのような子は、本当に怖い時ほど静かになる。
「王太后、まだ?」
小さく尋ねる。
アルケスがうなずく。
「起きたけど、まだ休んでる」
シャムは扉の方を見た。
その視線には、はっきりとした負い目があった。
自分の杯を、王太后が取った。
それは偶然ではなく、守ったのだともう皆が知っている。
「……ごめん」
ぽつりとこぼした声は、ほとんど独り言だった。
カストルが顔をしかめる。
「何が」
シャムは少し黙って、それから言う。
「だって、僕のせいで」
「違う」
カストルはすぐに切った。
鋭い声ではなかった。
むしろ低く、はっきりしていた。
「お前のせいじゃない」
シャムが顔を上げる。
カストルは続けた。
「毒を入れたやつが悪い」
単純な言葉だった。だがこういう時、単純な言葉ほど人を救う。
ポルックスは兄の横顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。兄は不器用だ。だが時々、まっすぐすぎる言葉で誰かを助ける。
廊下の向こうから、侍従がやって来た。現王の呼び出しだった。
王は執務の間にいた。
夜のあいだ使われ続けた部屋で、机の上には地図と帳面と封の開いた書状が重なっている。窓の外は雨で白く煙り、部屋の中には濡れた紙と蝋の匂いが漂っていた。現王は立ったまま、五つほどの書状を見ていた。その表情には疲れがある。だが疲れていることを見せている暇もない。
四人の王子が入ると、王は顔を上げた。
「王太后は落ち着いた」
それが最初の言葉だった。
四人の肩から、見えない力が少しだけ抜ける。
だが王は続けた。
「そして、ラルグスの正式使節が来る」
部屋の空気が改めて張る。
「三日後だ。麦の追加と、交易条件の見直しを持ってくる」
ポルックスが小さく言った。
「港税……」
王はうなずく。
「それだけでは終わらんだろう」
アルケスは机の上の書状を見る。封蝋には双龍。青地に双龍の旗は、王都の人間にとってすでに見慣れたものになりつつあった。だが見慣れることと、安心することは違う。
「四人とも同席しろ」
王が言う。
アルケスがわずかに顔を上げる。
「……四人」
「ヴィルギニスは戻さない」
王の声は短く、はっきりしていた。
「今、あれを王都に入れるわけにはいかん」
誰も反論しない。
ヴィルギニスの不在は危うさでもあり、今は唯一の防壁でもある。
カストルが低く言った。
「じゃあ、向こうは気づく」
「気づくだろう」
王は答える。
「だがそれでいい。いないことを見せる」
ポルックスが静かに目を伏せる。
気づく。探る。計る。使節は必ずそうする。四人しかいない席は、それだけで一つの答えになる。
シャムが言った。
「僕も?」
王はその問いに視線を向けた。
「お前もだ」
短く答える。
「昨夜の標的だったからこそ、隠さない」
シャムの喉がわずかに動く。
狙われた者を出す。
危険だ。
だが、狙われたからといって引っ込めば、敵に正しさを与えることになる。王家が怯えた、と民に見えれば、それだけで国は傾く。
王は四人を見渡した。
「飢えはまだ終わっていない。毒も火も、終わったわけではない」
窓の外で雨が強まる。
「だが国は止められない」
その言葉は、命令というより現実だった。
アルケスはまっすぐうなずいた。
カストルは背筋を伸ばしたまま、黙っている。
ポルックスは兄の顔色を一瞬確かめ、それから礼をした。
シャムは少し遅れて、しかし確かに頭を下げた。
王が最後に言った。
「三日後、双龍の旗が王都に入る」
その言葉は、部屋の中に重く落ちた。
青地に双龍。
雨の向こうから来る隣国。
飢えを握る国。
そして、ヴィルギニスの血を知る国。
王城の雨はまだやまない。
【10】
雨は三日続いていた。
王都の屋根瓦は濡れた鱗のように光り、城壁を伝う水は細い川となって石の継ぎ目を流れている。朝の空は灰色の布を広げたようで、太陽はどこにも見えなかった。雨音は強くはないが絶え間ない。王城の高窓を叩き、塔の屋根を撫で、静かに、しかし執拗に降り続いている。
港の見張り塔から鐘が鳴ったのは、その雨の中だった。
短く三度。
外港に船団。
王都の港は普段から船が多い。内陸からの川船、地方の荷船、商人の小型帆船。だが今日の鐘はそれとは違う響きを持っていた。塔の兵は旗を掲げる。濡れた布が風に重く揺れ、その色が港の役人たちの視線を引き寄せた。
青。
そしてその中央に、双龍。
青地に双龍。
ラルグスの旗だった。
雨の中、港の人々は自然と動きを止めた。荷を担いでいた男は肩の縄を握ったまま立ち、魚籠を運んでいた女は桶を地面に置いた。船着き場の商人たちは互いの顔を見る。誰も大声では言わないが、視線だけで理解していた。
――来た。
それは予告されていた使節団だったが、実際に旗を見ると意味が違う。言葉の中にある国と、目の前に現れる国は別物だ。旗は雨に濡れても色を失わない。青は深く、双龍の白はむしろ際立っていた。
船は三隻。
中央の船は長く高く、帆柱には同じ双龍の旗が掲げられている。両脇の船は護衛だろう。船腹には穀袋が積まれているのが見えた。雨に濡れた麻袋が山のように並び、その重みが甲板を低く沈ませている。
麦。
王都の港で働く者たちは、あの袋の中身を知っていた。袋の数を数えようとする者もいる。だが途中でやめる。数えたところで自分の家に入るわけではない。それでも目は離せない。飢えは、人の視線を変える。
船団がゆっくり岸へ寄ると、港の兵が整列した。役人が前に出る。雨を弾く外套の下で、皆の顔は硬い。麦を持ってくる国は、同時に力も持ってくる。笑って受け取るだけの話ではない。
やがて舷梯が降ろされた。
最初に降りてきたのは兵だった。ラルグスの兵は長い外套をまとい、肩に双龍の紋を付けている。鎧は軽いが整っており、雨に濡れて鈍く光っていた。彼らは無言で左右に分かれ、道を作る。
その中央を、一人の男が歩いた。
年は四十ほど。
黒い外套の縁に銀の刺繍。
背は高く、歩き方はゆっくりしているのに迷いがない。
港の役人が進み出た。
「ラルグス王国使節、ようこそ王都へ」
男はわずかに頭を下げる。
「ラルグス王国、王命使節ローディンと申します」
声は低く、よく通る。雨音の中でもはっきり聞こえた。
「我が王より、穀物と友誼を携えて参りました」
港の者たちはその言葉を聞いても安堵はしない。穀物と友誼。両方が同じ重さで置かれる時、そこには必ずもう一つ、見えないものがある。
取引。
役人は礼を返す。
「王城へご案内いたします」
ローディンは微笑んだ。
「ありがたい」
その笑みは礼儀正しい。だが温かさではなく、よく研がれた刃のような整い方をしていた。
港から王城へ向かう馬車の列が動き始める。先頭には王城の兵。中央に使節団。後ろには麦を積んだ荷車。雨はやまない。車輪は濡れた石畳を滑るように進み、王都の街路をゆっくり通り抜けた。
人々は道の端に寄る。
子供を抱えた母親。
痩せた犬を連れた老人。
濡れた外套を頭から被った職人。
皆が青地に双龍の旗を見る。
麦を見る。
その視線は、祈りに近かった。
城門の上では、王城の兵がその列を見下ろしていた。矢は番えられていない。だが手は弓に近い。形式上は歓迎でも、警戒は解かない。それが王都の流儀だった。
門が開く。
重い扉が雨を弾き、内庭へ馬車が入る。濡れた石畳に車輪の音が響く。兵が整列し、侍従が並び、王城は静かに迎えの形を整えていた。
その頃、城の上階の窓からその様子を見ていた者がいる。
アルケスだった。
高窓から見下ろす城門の景色は小さく見える。馬車も人も、玩具のように動く。だが旗だけははっきり見えた。青地に双龍。濡れても色が沈まない、不思議な青。
アルケスは窓枠に手を置いた。
冷たい。
「来たね」
後ろからポルックスの声がする。
振り返ると、彼も窓へ近づいていた。帳面は持っていない。今日は数字ではなく、人を見る日だと理解しているからだ。
「麦の数、見えた?」
アルケスが聞く。
ポルックスは少し目を細める。
「ざっと三百袋以上」
「王都だけなら、一ヶ月は延びるか」
「地方まで回すなら半分です」
ポルックスはすぐ答える。
計算はもう頭に入っている。
その時、扉が開いた。
カストルだった。
今日は衣をきちんと整えている。薄桃色の髪も結われているが、顔色は少し白い。それでも背筋はまっすぐだった。彼は窓の外を見て、すぐ旗を見つけた。
「双龍」
短く言う。
ポルックスがうなずく。
「そうです」
カストルは少しだけ笑った。
「雨の日に来るのが好きな国だな」
アルケスが答える。
「雨の日に来れば、麦がよく見える」
カストルの赤い瞳がわずかに光った。
「なるほど」
彼は窓から離れた。
「じゃあ、見せてやろう」
「何を」
アルケスが聞く。
カストルは振り向いた。
「王家」
その言葉は静かだった。
だが、はっきりしていた。
ポルックスは兄の横顔を見て、ほんのわずかに口元を緩める。
兄は病弱だ。
体は長く持たない。
それでもこういう時、誰よりも王らしい顔をする。
その頃、別の廊下ではシャムが歩いていた。
金の髪は今日はきちんと結われている。侍女が無理に整えたのだろう。だが彼はまだその姿に慣れていない。豪奢な衣は軽く、靴は泥を知らない。花街で履いていた靴とは別物だった。
窓の外を見る。
青地に双龍の旗が城門をくぐる。
シャムはその旗をしばらく見ていた。
なぜだろう。
見覚えがある気がした。
花街で見たことはない。
それでも、どこか遠い記憶の奥に触れる。
雨の音が強くなる。
使節団は、もう王城の中へ入っていた。
そしてその旗の国は、まだ一度も口にしていない問いを胸の奥に隠していた。
――旧王朝の血は、どこにいる。




