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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十三章

【1】


 十一歳になった、という事実は、王城では薄い金箔みたいに扱われる。貼ればめでたく見える。けれど飢饉の年の金箔は、湿気でふやけてすぐに剥がれる。祝いの言葉より先に、穀倉の鍵の音が鳴るからだ。


 春の空は青い日も増えたのに、地面はまだ乾ききらない。王都の石畳は雨を記憶していて、踏むたびにひやりとした湿り気を足の裏へ返す。城壁の下を流れる排水溝は、いつもより太い息を吐き、苔の匂いと泥の匂いが、風に乗って城内へ忍び込んでくる。市場の声は戻ったようで、戻っていない。笑い声の端が短く、売り手の「安いよ」は、喉の奥で引っかかる。麦袋が並ぶほどに、誰もそれに触れない。触れた瞬間、足りないことが指先から伝わるのを、皆が知っているからだ。


 アルケスは執務の間の窓辺に立ち、城門の外に伸びる列を見下ろしていた。炊き出しの鍋に向かう列。去年より短い、というのは事実だが、短くなっただけで「消えた」わけではない。列というものは、消えるときにこそ恐ろしい。列が消えれば飢えが消えたのではなく、列を作る気力すら失ったことになる。アルケスはそれを、去年の冬に一度だけ見た。


 老人が鍋の前で膝を折り、立ち上がらなかった日。兵が慌てて運び、誰も声を出さなかった日。あの沈黙は、王家の肖像画よりも重く心に残る。


 翡翠の髪が、窓からの風にわずかに揺れた。母譲りの髪色は、王家の金ではない。幼いころはそれが少し恥ずかしかった。けれど今は、その恥ずかしさすら贅沢に思える。髪色を気にしている間に、麦は育たない。雨は止まない。隣国は麦を止める。国は、見えないところでいつも先に動く。


 背後で紙の擦れる音がして、アルケスは振り向いた。


 薄桃色の髪は朝の光を柔らかく返し、瞳は静かに澄んでいる。けれどその静けさの中に、揺るがない一点があった。扉を入る前に、彼は視線を一度だけ奥へやる。そこにいないとわかっている人物を、確かめる癖のように。カストルの存在だ。


「兄上」


 ポルックスはアルケスに向かって丁寧に頭を下げる。言葉遣いも礼も、過不足がない。第一王子への敬意、王の直系への礼儀。表面は完璧だ。だがその完璧さは、距離を測る紐のようでもある。近づきすぎず、遠ざかりすぎず。どこまでも均等な温度。


「今日の配分案です」


 帳面を差し出す指先は静かだが、どこか急いでいる。国の呼吸が速いとき、人の指も少しだけ速くなる。


 アルケスが受け取って目を走らせている間、ポルックスは窓の外を見た。列を見ているのではない。列の向こう、城壁の影の深いところを見ている。そこには兄が嫌うものがある。弱さ。怯え。見下される気配。カストルを守るために、ポルックスは時に人の視線の刃を先に見つける。


「アクルックスの使者は?」


 アルケスが問うと、ポルックスは視線を戻し、きちんと答えた。


「今朝、港から城へ入りました。追加の麦と、鉄の引き渡し。それから……旗の話も」


 旗。飢えが腹を削るなら、旗は頭を削る。人は腹が減ると、分かりやすいものにすがる。顔が似ている、血が濃い、旗が古い、龍が沈黙した。


 そういう言葉は粥よりも簡単に配られ、簡単に腹を満たすような顔をする。けれど満たすのは腹ではなく不安だ。


 アルケスは「ヴィルギニスがいれば」と言いかけて、飲み込んだ。第四王子は辺境にいる。王命で。王子の位を保ったまま、下級貴族の子として暮らしている。青い髪はアクルックス旧王朝の影を引き寄せるから、染薬で赤茶に近い色へ落とされた。赤茶は王の瞳の色に似ている、と誰かが言った。似せたのではない、隠したのだ。それでも似るというのは時に皮肉になる。似てしまえば、別の疑いが生まれる。疑いは冬の湿気のように、どこにでも染みる。


 そこへ扉が開いた。空気が一段硬くなる。カストルだとわかる。第二王子。先代王の嫡流。薄桃色の髪と赤い瞳。幼龍症の体は十一歳になっても大きく変わらないが、目の奥は去年より深い。怒りの火種が、薪のように乾いてきている。


「また帳面か」


 吐き捨てるような言葉なのに、声は低い。癇癪の爆発ではない。爆発の前の、圧を溜めた鍋の音だ。


 ポルックスの肩が、ほんのわずかに前へ出た。無意識に兄の風下へ立つ仕草。守る、というより受け止める姿勢だ。彼はカストルを見るときだけ、目が明らかに柔らかくなる。敬意というより、祈りに近い。


「兄上。今日は使者が来ているから」


 呼びかけは優しい。言葉遣いも丁寧で、兄を立てる癖が染みついている。だが、ただ甘やかすだけではない。兄の機嫌という燃えやすい火に、水を一滴ずつ落として冷やすような、細い配慮がある。


「知ってる」


 カストルは短く言い、アルケスへ視線を向けた。


「第一王子は同席するのか」


 試すような問い。アルケスは「する」と答える。父王が求めるのは、王子が国の前に立つ姿だ。立てるかどうかを見られる。立つだけなら誰でもできる。立ったまま折れないのが難しい。


 カストルは小さく笑った。笑いは薄く、刃の背に似ている。


「相手は麦を持ってる。こっちは腹を持ってるだけだ」


「腹だけではありません」


 ポルックスが言う。ここでの言い方は、アルケスに向けた丁寧さとは違う。兄に向けるときだけ、言葉が少し柔らかく、しかし芯がある。兄を否定しない。兄の世界の中で、別の道を示す。


「鉄も木も塩もある。交渉はできます」


 カストルは「交渉」と繰り返し、口の端を歪めた。


「交渉ってのは、負けてる方がやるんだろ」


 アルケスは胸の奥で反論が跳ねたが、言葉にすると自分の喉が乾くのがわかった。乾く喉は弱さだ。弱さは交渉相手に嗅がれる。だから息を整え、言葉を削った。


「負けてるなら、負けないようにする」


 声は静かだった。静かな言葉は、時に叫びより強い。カストルは一瞬だけ黙り、やがて「そうだな」と言った。珍しい同意。だがそれは和解ではない。競争の確認だ。相手が盤の上にいることを互いに確かめる、冷たい握手みたいなもの。


「……シャムは?」


 カストルが問うた途端、廊下から別の足音が近づいた。王城で育った足音ではない。靴の鳴らし方が少し乱暴で、急ぐときは急ぐ。扉が開き、シャムが顔を出した。袖口が少し乱れ、髪が光を跳ね返す。金の髪、赤い瞳、先代王の面影。だがその姿は、王城の整った飾り棚に置かれた人形というより、泥の上を歩いてきた子犬に近い。目が外を知っている。


「呼ばれた?」


 シャムは言い、三人の顔を見た。


 カストルの赤い瞳に触れた瞬間、肩がほんの少しだけ固くなる。怒りの前の匂いを嗅ぐ癖は、花街で生きると自然に身につく。


 ポルックスはシャムにも、アルケスにも、同じ温度の礼を向ける。丁寧で、表面上は同等の敬意。けれど一瞬だけ、兄の袖口へ視線が落ちる。兄が苛立っていないか、疲れていないか。彼の中心は、いつだってカストルにある。


 アルケスが言う。「今朝、城下へ行ってたのか」


「うん。炊き出しの鍋、増やしたって聞いたから」


 増やした、という言葉が軽く響くのは、鍋が増えたところで麦が増えるわけではないからだ。それでも増やす。増やさなければ列は荒れる。荒れれば次に壊れるのは鍋ではなく、国の骨だ。


「今日、アクルックスの使者と会う」


 アルケスが言うと、シャムは目を細めた。


「麦の話?」


「麦の話」


「……嫌な話だね」


 率直な言葉が、室内の空気を少しだけ柔らかくした。嫌だと感じる心が残っているうちは、人はまだ人だ。嫌だと思えなくなったとき、壊れるのはいつも弱い方だ。


 カストルが言った。「嫌でもやる」


 ポルックスはその言葉を肯定も否定もしない。ただ兄の横に立つ。兄の怒りを増やさない位置に。兄の誇りを傷つけない距離に。彼の愛情は、抱きしめる形ではなく、場を整える形で現れる。


 アルケスは窓の外をもう一度見た。列は動いている。ひとつ進んで、ひとつ息を吐いて、またひとつ進む。まるで国の心臓だ。遅いが止まっていない。止まらせないために、王は交渉する。王子は学ぶ。民は待つ。


「行こう。陛下が待ってる」


 アルケスが「父上」と言わず「陛下」と言ったのは、場が場だからだ。現王は、ポルックスにとって父ではない。だが礼儀はある。王に対する礼は、骨のように身体に染みている。骨を折れば歩けない。


 四人は並んで廊下へ出た。

 その並びには、空白がある。第四王子の分の空白。誰も口にはしない。けれど足取りのどこかがそれを覚えている。空白は時に、存在よりも強く意識を支配する。


【3】


 遠い辺境では、赤茶に染めた髪の少年が湿地の水を見ている。ローディス辺境伯だけが、その少年が王子だと知っている。ほかの者は「辺境伯の変人趣味で預かった下級貴族の坊や」くらいにしか思っていない。だが、その坊やが掘った溝の先に、いつか王都の飢えを軽くする芽が生まれるかもしれない。


 芽はまだ土の下だ。見えないものは神話と同じだと思われがちだ。だが神話は信じる者が多いほど力を持つ。土の下の芽も、信じる者が一人いれば伸びる。


 謁見の間へ向かう廊下は、いつもより空気が薄かった。湿気を吸った石が冷え、足音が小さく跳ね返る。王城の廊下というのは、歩く者の心を整えるためにあるのだと誰かが言った。音が響くから、余計な言葉が怖くなる。怖いから黙る。黙るから姿勢が正しくなる。だが今日は、その「正しさ」がどこか仮面に見えた。仮面が剥がれる瞬間の気配が、壁の隙間に潜んでいる。


 先を歩くアルケスの背中は、真っ直ぐだった。翡翠の髪が揺れないように結われている。彼は王の子として育った。王の子は、背中で「正しさ」を示す。カストルはその背中を見て、鼻の奥がむず痒くなる。正しい背中は、しばしば誰かの居場所を奪う。奪うつもりがなくても、奪ってしまう。


 ポルックスはカストルの半歩後ろにいた。兄を追い越さない距離。けれど遅れすぎない距離。兄が転べば手が届く距離。彼はその距離をいつも間違えない。間違えないことが、愛情の形になっていた。


 シャムは列の端を歩いていた。護衛の気配が背後にある。王城の者は彼の金髪を見るたびに、少しだけ視線を滑らせる。見てはいけないものを見るみたいに。似ている、という噂が、まだ湿った空気の中で生きている。


 謁見の間の扉が開くと、香が鼻を打った。甘い香ではない。乾いた香。木と樹脂の匂い。場を「公式」にする匂いだ。床には赤い絨毯が敷かれ、天井は高く、壁には歴代の王の肖像が掛かっている。先代王アレスの肖像もその中にあり、金髪と透き通る赤眼が、燭台の火を受けて静かに光っていた。


 その視線が、シャムの首筋を撫でるような気がして、彼は一瞬だけ呼吸を浅くした。花街で生きていた頃は、誰かに似ているなどと言われたことはなかった。泥と煤で髪は汚れ、顔は隠れ、似ている以前に「見られない」存在だった。今は違う。見られる。見られることが、時に殴られることに似ていると、彼は知っている。


 玉座の前に、青地に双龍の旗を携えた使節団がいた。衣は深い青で統一され、胸元に銀の刺繍がある。双龍は絡み合いながら互いを噛むような形で描かれている。新王朝の旗。勝者の旗。旗という布に勝者の骨が縫い込まれているように見えるのは、飢えた年の目のせいかもしれない。


 使節の長は、笑顔を貼りつけたまま目だけを動かした。王を見、正妃を見、重臣を見、そして王子たちを見る。視線が最後にカストルへ落ちたとき、ほんのわずかに、眉が動いた。小柄な体。だが赤い瞳は強い。血統最上位。話に聞いているのだろう。次に視線がシャムへ移る。金髪。赤眼。ほんの一瞬、笑顔の裏が軋んだ。噂もまた、国境を越える。


 現王は玉座に座っていた。金髪に赤茶の瞳。兄ほどの鋭さはない、と陰口を叩く者はいる。だが玉座に座るだけで、人は王になる。座る者の背に、国が乗る。背が折れるかどうかは、そのあとに決まる。


「ようこそ」


 王は穏やかに言った。声は柔らかいが、言葉が短い。短い言葉は余計な隙を作らない。今の王は、優しさを見せることと、隙を見せないことの間でいつも足を踏み外しそうになっている。だから、短くする。


 使節の長が深く礼をした。


「我がアクルックス王より、友好の印を」


 そして言葉を重ねる。友好。安寧。互恵。どれも美しい。美しい言葉は飢えを隠す布になる。


「貴国の困難を案じ、麦を運ばせました」


 王は頷いた。


「感謝する」


 その時点で、場は一つの取引を終えたように見える。だが、ここからが本当の取引だ。礼は入口でしかない。


 使節の長が続ける。


「ただし——」


 この「ただし」が、麦袋の口を縛る縄の音に似ていた。


「輸送には費用がかかります。相応の対価を」


 王は「当然」と言った。穏やかに。だが穏やかさは、交渉の場では刀の鞘だ。鞘の中に刃があるかどうかが問われる。


 重臣の一人が口を開きかけた。だが王は軽く手で制した。今日は王子を見せる、と決めている。


 アルケスが一歩前へ出た。礼儀は完璧だった。王の子として、そして第一王子として。彼は名を名乗り、礼をし、言った。


「我らは対価を払う。だが国は飢えている。価格を吊り上げられれば、民が死ぬ」


 言葉は静かだが、柔らかさの中に硬い芯がある。死ぬ、という言葉を外交の場で使うのは勇気がいる。だが、飢えの年には死は日常で、隠す言葉ではない。


 使節の長は笑った。


「貴国の民の命は尊い。だからこそ我らも支える」


 支える、と言いながら、縄を緩める気はない笑顔だった。アルケスは眉一つ動かさずに続ける。


「支えるなら、支える形を選んでほしい」


 使節の長が「形」と繰り返す。


「例えば?」


 ここでポルックスが一歩前へ出た。アルケスにもシャムにも、そして玉座の王にも、同じ丁寧な礼をする。礼の角度は正しい。


 言葉遣いは崩さない。現王には父と呼ぶ温度はないが、王としての礼は骨のように身体に入っている。


「我らは麦を買います」


 声は穏やかだ。だが温度がない。秤の声。


「しかし、今の価格では買い続けられません」


 使節の長が目を細める。


「買い続けられない?」


 ポルックスは帳面を開き、数字を示した。数字は人を黙らせる。悲鳴よりも早く、確実に喉を塞ぐ。


「この額では、穀倉が持つのは四十日。貴国が次の船を遅らせれば、三十日で尽きます」


 使節の長が笑顔を保ったまま言う。


「脅しですか」


 ポルックスは首を振る。


「事実です」


 事実は脅しより冷たい。冷たいものは、笑顔の皮膚を薄くする。


「なら、対価を増やせばよい」


 使節の長が言う。


「鉄を」


 その瞬間、カストルが口を開いた。


「鉄は出さない」


 声は低い。小柄な体から出る声が、予想より重く響くのは、赤い瞳のせいだ。瞳は人を刺す。刺された者は、声の重さを感じる。


 使節の長は驚いたふりをした。


「では、何を」


 カストルは短く言う。


「木材」


 王国の森は深い。だが木材は、冬の薪にもなる。外へ出せば国内が寒くなる。飢饉の年は寒さもまた敵だ。


 ポルックスが即座に兄の言葉を拾う。兄を否定しない。兄の言葉を国の言葉にする。これが彼の愛の形だ。


「木材は出せます。ただし量に上限を」


 使節の長が口元を歪める。


「上限」


「上限」


 ポルックスは繰り返す。柔らかく。だが譲らない。


「木材は我が国の冬の命です」


 その瞬間、シャムが息を呑んだ。命。


 命がここでも取引の単位になる。花街では命は銭より軽いことがあった。王城では命は言葉より重いふりをする。だが今、命は帳面の数字の横に並ぶ。


 使節の長は肩をすくめ、別の矢を放つように言った。


「では、旗を」


 空気が一段冷える。旗。蒼龍の旗。旧王朝の旗。あの白地に蒼龍の布が港に立てば、王都の噂は燃える。燃えれば飢えの火も燃える。火は一度つけば、鍋も穀倉も焼く。


「我が国は貴国の港に、交易の印として、我が旗を立てる」


 青地に双龍の旗を指す。これは表の要求だ。けれどその裏に、別の旗がちらつく。ヴィルギニスの母の王家の旗。蒼龍。見せたいのはどちらか。使節の長の笑顔が、答えを言わない形で答えていた。


 王は沈黙した。沈黙は反対にも賛成にもなる。だが沈黙が長引けば、それは迷いになる。迷う王は舐められる。


 ポルックスが一歩引く。表に出すぎない。第一王子の立場を侵さない。だが兄——カストルの横に戻る。半歩後ろ。兄の影に寄り添う位置。そこが彼の中心だ。


 カストルは椅子のない場で、背を伸ばしたまま言う。


「旗は立てろ」


 使節の長の眉が上がる。


「ただし」


 カストルの赤い瞳が静かに光る。


「双龍だけだ。蒼龍は立てるな」


 空気が凍った。蒼龍という言葉が出た瞬間、謁見の間の壁が少しだけ近づいた気がする。肖像画の先代王の赤眼が、わずかに陰るように見える。禁句ではない。だが触れれば刃が出る言葉だ。


 使節の長は笑った。


「蒼龍?」


 わざとらしく首を傾げる。


「何のことでしょう」


 ポルックスが兄の言葉を拾い、丁寧に整える。兄を立て、同時に王家の面子を保つ。愛情と政治が同じ糸で縫われている。


「我らは貴国の現王朝の旗を尊重します」


 穏やかに言い、笑わない。


「よって、現王朝の旗のみを掲げてください」


 使節の長の目が細くなった。

 そこに一瞬だけ、獣のようなものが覗く。飢えた獣ではない。狩る獣だ。


「……よろしい」


 言葉が落ちた。


「では、麦を増やしましょう」


 その瞬間、謁見の間の空気がわずかに緩む。緩むだけで、救われた気になる。救いとは、しばしば勘違いの形をしている。


 王が静かに頷いた。


「感謝する」


 だが目は笑っていない。王はわかっている。今日の合意は勝利ではない。延命だ。延命は必要だが、延命だけでは国は治らない。


 謁見の間を出た廊下で、アルケスは息を吐いた。石の冷気が喉に触れ、ようやく自分が息を詰めていたことに気づく。シャムは壁に背をつけ、目を閉じる。カストルは何も言わない。ポルックスは兄の袖口をさりげなく整え、兄にだけ聞こえる声で「上手でした」と囁いた。


 カストルは鼻を鳴らしながらも、わずかに肩の力を抜いた。十一歳の兄の背中は、小さくても誇りで膨らんでいる。その背中を、ポルックスは誰より愛している。


 廊下の窓の外では、城門の列が少しずつ動いていた。

 双龍の舌が麦を吐き出すかどうかで、列の長さが変わる。国の命は、いま隣国の舌の先に乗っている。


【4】



 辺境の春は、王都のそれより遅い。

 花が咲く前に霧が居座り、霧が引く頃には風が来る。風は湿地の匂いを連れてくる。黒い泥と、まだ冷たい水と、芽吹ききれない草の匂い。鼻をくすぐるその匂いが、ここでは「国の匂い」だった。


 湿地に掘った溝は、日に日に表情を変えていた。昨日まで靴を飲み込んでいた地面が、今日は少し踏みとどまる。水が逃げ道を覚えたぶんだけ、泥が諦めていく。諦める泥は固くなる。固くなると、人は歩ける。歩けると、働ける。働けると、麦が増える——そんな順番が、この土地では教科書よりも先に身に沁みる。


 ヴィルギニスは溝の端にしゃがみ、水の筋を見ていた。赤茶に染めた髪が風に揺れ、額へ落ちる。染薬の匂いはもう消えているが、鏡を見るたびに自分が自分ではない気がする。それでも、この土地では赤茶の髪など珍しくない。珍しくないことは、ときに守りになる。


 村人たちは彼を「辺境伯のところに居候している中央の下級貴族の坊ちゃん」くらいに見ている。

 坊ちゃん、と呼ぶ者もいるし、名で呼ぶ者もいる——ここでの彼の名は、ローディスが用意した「軽い名」だった。軽い名は噂になりにくい。噂にならなければ、命は重く保てる。


 そこへ、笑い声が降ってきた。


「おやおや。今日も溝と睨めっこかい、坊ちゃん」


 振り向くとローディス辺境伯が立っていた。白髪混じりの茶髪を肩まで垂らし、肌艶は妙に若い。辺境の風と泥の中でも香木の匂いをまとっている。戦場の男の匂いではなく、舞踏会の男の匂い。だから中央貴族は距離を取るのだろう。けれどこの男の香は飾りではない。近づいた者の呼吸を狂わせるための、上等な煙幕だ。


「水は動いてます」


 ヴィルギニスが言うと、ローディスは杖で溝を軽く叩いた。


「うん。水は正直だねえ。正直すぎて、嘘つきには扱えない」


 冗談めいた口調だが、目は笑っていない。笑っていない目が笑っている口元に隠れているのが、ローディスの怖さだった。


「村の長が呼んでる。行こう」


 湿地から村へ下る道はぬかるんでいる。靴が重くなるたび、ヴィルギニスは自分が王都の石畳の上を歩いていたことを思い出す。石畳は、汚れても拭けば終わる。泥は違う。泥は染みる。染みて、重くなる。重くなって、人の足を遅らせる。遅れた足から、国は飢える。


 村の長の家は低い屋根の家だった。土間の囲炉裏には火があり、煙が梁に溜まっている。王城の香とは正反対の匂いだ。目が少し痛くなる。だが、あたたかい。


 村の長は老いた男で、手は節くれ立っている。目だけが濁らない。


「辺境伯さま」


 深く頭を下げる。ローディスは軽く手を振った。


「堅い堅い。腹が減るときに礼を重ねても、腹は鳴くよ」


 長は口元を引き締め、言い出しにくそうに続けた。


「水路のことだ。確かに、水は動き始めた。畑が増える見込みもある。だが——」


 ローディスが促す。「だが?」


「人手が足りぬ」


 長の声が低くなる。村の男たちが視線を落とす。言うだけで恥になる言葉だ。足りない、という言葉は、飢えの年には刃になる。


「男は兵に取られ、若い者は荷運びに取られている。王都へ麦を送るために」


 ヴィルギニスの胸の奥で、何かがひっかかった。王都へ送る麦。ここで働く手が減るほど、王都へ送る麦もいずれ減る。減れば王都が苦しくなる。苦しくなれば中央が騒ぐ。騒げば兵が増える。兵が増えれば村が痩せる。痩せれば畑は荒れる——悪循環は、溝より深い。


 長はさらに唾を飲み込んで言った。


「いま送っている麦を、少し減らしたい」


 囲炉裏の火がぱちりと鳴った。

 誰かが息を止める気配がした。


 ローディスは、しばらく黙って長を見た。黙り方が上手い。沈黙が恐ろしいのは、それが「怒り」ではなく「計算」だからだ。


「減らせば、王都が飢える」


 長は肩をすくめるように言った。


「この村も飢える」


 ローディスはふっと笑った。軽い笑いだ。けれど目が冷たい。


「じゃあ、増やそう」


 長が瞬く。「……は?」


 ローディスは肩をすくめた。


「減らすんじゃなくて増やす。送る分を減らしたいなら、まず村の腹の分を増やせばいい」


「そんな簡単に——」


「簡単じゃない」


 ローディスは即座に切った。軽薄な調子が消える。刃が出る。


「だから掘ってる」


 それだけ言うと、また軽い声に戻す。


「来年の麦は変わる。来年の冬は変わる。変わらなきゃ、変えるまで掘るだけだ」


 村の男が小さく言った。


「来年まで生きていればな」


 一瞬、空気が凍った。

 ローディスの笑顔が消える。


「生きろ」


 短い言葉だった。怒鳴りではない。命令でもない。断定だ。

 その断定が、村の男の喉を塞いだ。


 ローディスは長へ向き直り、今度は淡々と言った。


「人手が足りないなら、砦の兵を回す。二十。工事に出す」


 男たちがざわめく。兵は国境の命だ。だがローディスは平然としている。


「国境は剣だけで守るもんじゃない。腹を守らなきゃ、背中から刺される」


 その言葉は、村の者にも分かる形だった。背中から刺される——盗賊も、飢えも、噂も、いつも背中から来る。


 長はゆっくり頭を下げた。


「……頼む」


 ローディスはにこりと笑った。軽い笑みへ戻す速さが、また怖い。


「任された。坊ちゃんの泥遊びも、ついでに立派な仕事になる」


 村人たちは笑った。坊ちゃん、泥遊び。そういう軽い言葉で包まれたほうが、この土地では動きやすい。名誉を掲げれば、誰かが疑う。軽さで包めば、皆が手を出せる。


 家を出ると風が草を揺らし、遠くで子どもが叫んだ。


「水、速い! 速い!」


 その声は、王都の謁見の間のどんな言葉より明るかった。明るさは、それだけで救いの気配を含む。


 ローディスが歩きながら、わざとらしく溜息をついた。


「ほらね。国を救うのは、だいたい泥だ」


 村人たちには冗談に聞こえる。

 ヴィルギニスには、冗談に聞こえなかった。


 王都では舌が麦を動かす。ここでは鍬が水を動かす。どちらも同じ国のため。どちらも勝たねばならない。

 そして、誰にも知られない場所で動いた水が、いつか王都の飢えを薄くする——その未来が、今日の溝の底に小さく沈んでいた。


【5】


 港の風は、王都の噂を先に運ぶ。帆が膨らむ前に、言葉が膨らむ。青地に双龍の旗が翻るたび、城下の人々は麦袋ではなく「次」を数えるようになった。次の船はいつ来るのか。次の粥は薄くなるのか。次に誰が飢えるのか。飢えた年の未来は、晴れ間よりも短い。


 謁見の間で交わした合意は、紙の上では整っていた。

 麦の追加。木材の上限。鉄の制限付き引き渡し。旗は双龍のみ。蒼龍は触れない。――どれも正しい言葉で、正しい形をしている。けれど正しさは、現実の手触りを持たないことがある。王城の書簡は美しいが、麦袋は重く、船は遅れ、民の腹は待ってくれない。


 その日の午後、王は重臣たちを集め、別室で密やかな会議を開いた。大広間ではなく、窓の少ない執務に近い間。壁に掛けられた地図は、雨の季節に一層くすんで見える。赤い印が港に集中し、青い印が国境へ伸びている。国が息をしているのではなく、血を流しているような地図だ。


 アクルックス使節の長は、謁見の間の笑顔をそのまま持ち込んできた。笑顔は礼儀であり、盾であり、時に刃だ。彼は王に向かって深々と頭を下げ、声音を柔らかく整える。


「陛下。先ほどの合意、誠に喜ばしく存じます」


 現王は頷いた。赤茶の瞳が微動だにせず相手を捉える。兄王のように鋭いわけではない、と言う者はいる。だが鋭さだけが王の武器ではない。鈍さは鈍さで、折れにくい。


「こちらも感謝する。麦は命だ」


「まさしく」


 使節の長は言い、そこで一度、わざとらしく息を吐く。ここからが裏の話だという合図のように。


「ただ、陛下。旗については……我が王も、民も敏感でございます」


 王の指先が机の端で止まる。敏感。つまり、弱み。弱みは交渉の場では武器になる。敏感だと言いながら、相手の敏感さを突くための前置きだ。


「双龍の旗のみで、十分でしょう」


 王が淡々と言うと、使節の長は笑った。


「もちろん。ですが——」


 その「ですが」が、縄を締める音に似ていた。


「我が国では、旧い物語が生きております。蒼龍の旗のことを、民が勝手に口にする。口にした者を罰すれば、さらに口が増える。……陛下もご存じでしょう。言葉は閉じ込めるほど腐り、匂いを強めます」


 王は答えない。沈黙は同意にも反対にもなるが、長引けば迷いに見える。だが王は迷っていない沈黙を使う。沈黙の質が違う。重臣たちはそれを知っているから、誰も口を挟まない。


 その沈黙を破ったのはポルックスだった。

 会議に王子が同席すること自体、異例だ。だがこの国では、異例が日常になりつつある。飢えは秩序を擦り減らし、擦り減ったところから本音が覗く。


 ポルックスは丁寧に礼をした。現王に向ける礼儀は骨のように揺るがない。父と呼ぶ温度はないが、王として扱う温度は崩さない。その線引きが、彼の「表面上の同等の敬意」だった。


「使節殿」


 静かな声だった。笑わない声。秤の声。


「蒼龍の話が広がるのは、飢えが広がっているからです」


 使節の長が眉を上げる。子どもが大人の核心を突くとき、大人は笑うか怒るかで誤魔化す。だがポルックスの言葉は、誤魔化しにくい。濡れた布のようにまとわりつく。


「飢えが薄くなれば、噂は薄くなります」


 ポルックスは続ける。


「つまり、貴国が約束通り麦を運べば、旗の噂も静まる」


 使節の長の笑顔が、ほんの少しだけ固くなる。

 なるほど、と言いたいが、言えば自分の首が締まる。交渉は常に、言った方が損をする。


 カストルが隣で、小さく鼻を鳴らした。ポルックスの言葉を否定するのではない。誇らしさの音だ。弟が兄のために刃を立てたときの、猫のような唸り。ポルックスはその気配を感じると、ほんのわずかに背筋を伸ばす。誰よりも敬愛する兄に、恥をかかせないために。


 使節の長は、穏やかに言った。


「なるほど。理屈は正しい。しかし、海は理屈で動きません。嵐もあります」


 王が短く返す。


「嵐は貴国の事情か」


 使節の長の目が細くなる。

 王が柔らかいだけの男なら、ここで「理解する」と言う。だが王は理解のふりをしない。理解した瞬間、舌を握られる。


「……ええ。事情です」


 使節の長は笑みを保ったまま言った。「そして事情には、支えが要る。貴国の鉄は、その支えになります」


 言葉の上では穏やかだが、これは脅しに近い。麦を止められたくなければ鉄を寄越せ。飢えの年の外交は、花街の値切りよりも露骨だ。


 その瞬間、アルケスが一歩前に出た。第一王子としての姿勢は崩さないが、瞳の奥に熱がある。熱は時に若さだ。若さは軽視されるが、熱そのものが相手の油断を焼くこともある。


「鉄は出す。ただし——」


 アルケスは言った。「武器になる鉄は出さない。農具になる鉄なら出す」


 重臣の一人が息を呑む。農具の鉄。つまり、刃を鈍らせる取引だ。武器を与えず、食料を得る。賢い。だが難しい。相手が本当に欲しいのは武器の鉄なのだから。


 使節の長が笑った。「農具の鉄、ですか。貴国は優しい」


「優しさではない」


 アルケスは即座に言う。「貴国が内部の争いを早く終わらせ、交易を安定させるためだ」


 言い切った後、アルケスは自分の心臓の音が耳の奥で鳴るのを感じた。怖い。怖いが、言った。言ってしまえば、戻れない。決断とは刃に似ている。抜けば戻らない。だからこそ、抜いた刃をどう振るうかが王の仕事になる。


 ポルックスはその言葉を聞き、わずかに目を伏せた。兄——カストルに向ける敬愛とは別の、静かな敬意がアルケスに向く。表面上の同等の敬意。けれど内心の熱量は、やはり兄が中心だ。ポルックスの心は、兄の影の中で呼吸をする。


 カストルは机の端を指先で叩いた。苛立ちではない。考える癖だ。小柄な体の中で、王の血が煮えたぎる音がする。彼は言った。


「双龍の旗を港に立てるなら、こちらも立てる」


 使節の長が目を見張る。


「何を?」


 カストルの赤い瞳が、ひどく静かに光る。


「秤を」


 一瞬、意味がわからない沈黙が落ちる。

 ポルックスが兄の言葉を拾い、柔らかく整える。兄の言葉を、国の言葉にする。これが彼の愛情の一番強い形だ。


「交易の秤です」


 ポルックスは言う。「港の荷に対して、双方の役人が同席し、量と質を共同で検める」


 つまり、誤魔化すなということだ。

 誤魔化しは、飢えの年に最も簡単に人を殺す。


 使節の長は笑った。だが笑いの中に、小さな苛立ちが混じる。


「疑われているのですか」


 王が言った。


「疑うのではない。確かめる」


 確かめる、という言葉は冷たい。

 だが冷たい言葉ほど、争いを減らすことがある。温い言葉は誤魔化しの余地を残す。


 会議はそれ以上、荒れなかった。荒れないことが、逆に怖い。互いに刃を見せずに刃を突きつけ合うとき、言葉は丁寧になり、声は静かになる。静かな争いほど、人は血を流す。


 やがて使節の長は深く礼をし、「本国へ伝える」と言って引いた。扉が閉まり、部屋に残ったのは王家の面々と重臣だけになる。空気がふっと緩む。緩んだ瞬間に、疲れが襲ってくる。


 王は机に手を置き、短く息を吐いた。

 その横顔は、十一歳の王子たちが想像するよりずっと老けて見えた。王という仕事は、背中を削る。


 アルケスが口を開く前に、ポルックスが一歩下がって礼をした。王への礼儀は崩さない。だが視線は一瞬だけ兄へ走る。兄が無理をしていないか、顔色が変わっていないか。十一歳の少年がそんなふうに誰かを気にするのは早熟だ。けれど飢饉の年は、子どもを早くする。


 カストルはぽつりと言った。


「……面白いな」


 それは勝利の言葉ではない。

 盤が動く音を聞いた者の言葉だ。


 シャムは窓の外を見た。城門の列。麦袋。人の肩。

 そして思った。いまこの部屋で交わされた言葉は、あの列の誰にも届かない。届くのは、鍋の底に残る粥の量だけだ。言葉と腹の距離は、国境より遠い。


 王が言った。


「今日はここまでだ。次は港の検めを整える」


 そして王子たちを見渡す。


「龍星逐鹿は続く。お前たちは、これを“他人事”にするな」


 他人事。

 その言葉が、妙に胸に残った。


 王都が揺れるとき、揺れは王城の外から来る。

 だが揺れを大きくするのは、いつだって王城の中だ。

 噂。血。旗。毒。

 それらはすべて、扉の内側で育つ。


 遠い辺境では、泥の溝を水が流れ、誰も知らない小さな畑が乾き始めている。

 王都では、秤の話が決まり、誰もが「正しさ」を装って息をつく。


 その夜、アルケスは自室の窓から港の灯を見た。

 灯は揺れ、双龍の旗は闇の中で見えない。

 見えないからこそ、人はそれを想像する。

 想像は腹を満たさないが、恐れを増やす。


 十一歳の盤は、今日も一段、音もなく回った。


【5】


 港の朝は、海より先に人が揺れる。

 潮が満ちる前に肩がぶつかり、帆が膨らむ前に声が尖る。アクルックスの船が入る日、王都はひとつの生き物みたいに息を詰める。吐き出される麦袋を待つ腹が多すぎるからだ。


 空は薄曇りで、陽はあるのに影が淡い。石畳はまだ湿り、荷車の車輪がきしむたびに泥が跳ねる。匂いは混ざり合っていた。濡れた縄、海藻、鉄、そして麦の粉。麦の匂いは本来甘いはずなのに、今年はどこか刺々しい。飢えた年の鼻は、甘さより先に不安を嗅ぐ。


 港の外れ、臨時に設けられた検めの場には、木の机が並べられていた。秤が置かれている。大きな天秤と、分銅の入った箱。分銅は光を吸い、鈍い金属の色をしている。分銅は嘘をつかない——そう言い切れる者は少ない。分銅は嘘をつかないが、分銅を置く手は嘘をつくからだ。


 王の命で、双方の役人が同席する。アクルックス側の役人は青地の外套を着て、胸に銀糸の刺繍を揺らしている。こちらの役人は灰と黒の衣で、泥の色に近い。泥の色は目立たない。目立たない者ほど、帳面に強い。


 アルケスは検めの場の端に立っていた。護衛が一歩後ろを固めている。王子が港に出ること自体、危険だ。人は飢えると人ではなくなる。腹が鳴るだけで、目が獣に近づく。だが王が「見せろ」と言った。王家が逃げていないと見せろ、と。


 アルケスは背を伸ばしながら、喉の奥が乾くのを感じていた。潮風は乾かないのに、乾く。怖いからだ。怖さは喉を乾かす。けれど怖さを隠すと、もっと舐められる。王太后が以前言った「怖いままで立て」を思い出し、息をゆっくり吐く。


 その隣に、ポルックスがいる。薄桃色の髪を整え、表情は穏やかだ。だが穏やかさは皮膚で、骨は硬い。彼は手に帳面を持っている。港の荷の数、袋の重さ、欠損の割合、湿気の具合——数字が整っているほど、心が落ち着く。落ち着くのは自分のためではない。兄のためだ。


 カストルは少し離れて立っていた。体が冷えると顔色が変わる。だから護衛が風下を選び、外套を厚くさせる。だが本人はそれを嫌がり、外套の襟を乱暴に整えた。小柄な体に似合わぬ鋭い目。赤い瞳が秤の動きを追っている。秤が傾くたび、彼の瞳も微かに揺れた。あれは怒りではない。誇りの反射だ。自分の国が、誰かの指先で軽く扱われるのが許せない。


 シャムは検めの場のさらに外側にいた。護衛に囲まれ、列の方を見ている。列は今日も長い。炊き出しの鍋が港にも運ばれ、船が遅れれば鍋が増える。鍋が増えれば、薄い粥が増える。増えるのは安心ではなく、覚悟だ。シャムの胸の奥には、花街の朝の光景が重なる。靴を磨き、客を見送り、残り物の匂いで腹が鳴った日々。今は腹は満たされているのに、列を見ると胃が縮む。満たされていることが、罪のように感じる瞬間がある。


「では、検めを」


 役人が言い、麦袋がひとつ秤に載せられた。袋は湿っている。港の空気は湿り、麦は汗をかく。汗をかいた麦は重く見えるが、重いのは水であって、食べられる量ではない。飢饉の年は、重さの意味が変わる。


 分銅が置かれ、針が揺れる。

 ぴたり、と止まった。


「規定通り」


 こちらの役人が言う。アクルックスの役人が頷く。

 最初の袋は問題ない。問題ない最初は、いつも安心の餌になる。


 二袋目、三袋目。

 同じように秤が揺れ、止まり、帳面に印がつく。

 淡々とした作業が続く。淡々としているほど、緊張は溜まる。溜まった緊張は、些細な違いに爆発する。


 七袋目。

 針が、わずかに沈んだ。


 こちらの役人が眉を寄せる。

「……軽い」


 アクルックスの役人が即座に首を振る。

「湿り具合です。袋が乾いているので軽く見えるだけ」


「乾いていれば軽いのは当然ですが、軽いのは中身です」


 こちらの役人は淡々と言った。淡々とした声ほど、刃になる。

 場の空気が一瞬止まる。列のざわめきが遠くに聞こえた。人々は何も知らないのに、空気の硬さだけで不安になる。


 アルケスは唇を結び、口を挟もうとした。だがポルックスが先に一歩出る。兄のように目立ちたいわけではない。ここで目立つのは危険だ。だが兄がいる。兄が苛立てば、場は燃える。燃えれば麦が燃える。燃えたら列が暴れる。だから、ポルックスは前へ出た。


「この袋を開けて、含水を測りましょう」


 丁寧な声。相手を責めない言葉。けれど逃がさない提案。

 アクルックスの役人が躊躇する。躊躇は罪の匂いを持つ。


 その瞬間、カストルが言った。

「開けろ」


 短い命令だった。王子の声は小さくても通る。赤い瞳が釘のように相手に刺さる。相手は笑顔を作る暇もなく、「規定では」と言いかけ、飲み込んだ。


 袋が切られる。

 麦が皿へ移される。


 匂いが立った。

 甘さではなく、かすかな酸。濡れた麦が少し傷んだ匂いだ。傷みは毒ではない。だが傷みは飢えに直結する。食えない麦は、麦ではない。


「……」


 シャムの喉が鳴った。列の向こうにいる子どもの顔が浮かぶ。

 この匂いを嗅がせたら、子どもは泣くかもしれない。泣けば母親が怒る。怒れば誰かを殴る。殴れば兵が動く。動けば血が出る。血が出れば噂が生まれる。噂が生まれれば旗が立つ。旗が立てば国が裂ける。麦の匂いひとつで、国が裂ける——飢饉の年とはそういう年だ。


 含水の測りが行われた。

 数字が出る。

 規定より少しだけ高い。

 たった少し。だがその「少し」が、四十日を三十五日に変えることがある。


 アクルックスの役人は言い訳を探す顔をした。こちらの役人は帳面に淡々と印をつける。

 そしてポルックスが、静かに言った。


「この袋は、貴国の責で保管し直してください」


「次からは乾きやすい倉で積み、袋を二重に」


「こちらも港の倉を整えます。双方の責任です」


 言い方は柔らかい。だが逃げ道はない。

 アクルックスの役人は、やがて頷いた。

 争いにはならなかった。争いにしなかったのは、ポルックスの口調と、カストルの眼差しと、アルケスの沈黙が揃っていたからだ。


 アルケスはその場で初めて、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

 国を救うのは英雄の一太刀ではなく、こういう小さな調整なのかもしれない。秤の歯音を聞き分け、欠けた歯を交換する。歯を交換するのは地味で、誰も褒めない。だが歯が欠ければ噛めない。噛めなければ生きられない。


 検めは続いた。

 軽い袋は数袋あったが、大きな不正は出なかった。

 それが逆に、怖い。大きな不正がないなら、悪意は別の場所に潜っている。悪意は、いつも派手な場所にはいない。派手な場所は目が多いからだ。悪意は、影にいる。影は王城の中にもある。


 作業が一段落したとき、港の向こうで旗が揺れた。双龍の旗。今日は風が強い。旗はまるで、舌のようにひらひらと動く。舌は真実を語る道具でも、嘘を舐める道具でもある。外交とは、舌の戦いだとアルケスは思った。ならばこの秤の場は、歯の戦いだ。舌と歯が揃わなければ、食べられない。


 そのとき、使者が駆けてきた。

 王城の印の封がついた小さな包みを、アルケスへ差し出す。

「陛下より」


 封を切ると、短い文があった。


 ――辺境より報告あり。湿地の水路、進捗。

 ――ローディス辺境伯の名にて、将来の穀増の見込み。

 ――ただし、外へ漏らすな。


 アルケスはその文を読み、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 辺境で、誰にも知られずに動いている水。

 その水が、いつか王都の腹を満たすかもしれない。

 希望は、こういう形で届く。封の中に隠れて。声高に叫ばれずに。


 ポルックスが横から覗き込み、すぐに視線を逸らした。秘密は紙よりも薄い。見たと知られた瞬間に裂ける。


 カストルは気づいたが、何も言わなかった。

 言わないのは優しさではない。盤面の計算だ。

 今は言葉を増やすと燃える。燃えれば麦が燃える。


 シャムは列の方を見た。

 列はまだ長い。だが鍋の匂いの中に、ほんの少しだけ「明日」が混じった気がした。

 明日は今日より少しだけマシかもしれない。

 その「かもしれない」が、飢饉の年には命になる。


 秤は今日も歯音を立てていた。


【6】


 港の検めが終わった夕方、王都の空はひどく静かだった。雲は薄く、風は弱く、海は凪いでいる。凪いだ海は優しいようでいて、腹の底に何かを溜め込んでいる顔をする。飢饉の年の国も同じだ。落ち着いたように見えるときほど、どこかがきしむ音がする。耳を澄ませる者だけが聞く。


 王城へ戻る石畳の道すがら、アルケスは手の中の紙の感触を確かめていた。辺境からの報告。湿地の水路の進捗。ローディス辺境伯の名。外へ漏らすな、の一文。紙は軽いのに、胸の奥に置くと重い。重いのは期待だ。期待は膨らむほど、裏切られたときに刃になる。


「兄上」


 ポルックスが隣から声をかける。声は柔らかいが、どこか硬い。彼は兄の顔色を見ている。検めの場で兄が無理をしていないか。怒りを溜めていないか。カストルの呼吸が浅くなる瞬間を、誰より早く拾う。


 カストルは少し前を歩き、外套の襟を乱暴に整えた。小柄な背中は風に負けそうなのに、意地だけで立っている背中だ。背中は小さいが、そこに乗る誇りは大きい。ポルックスはその誇りを何より愛している。誇りが折れれば兄が折れると知っているから、誇りを守るように歩く。


 シャムは少し後ろで、列の方角を何度も振り返っていた。港の列、城門の列。列は腹の裂け目だ。裂け目がある限り、国は完全には繋がらない。花街の列はもっと乱暴だった。争いが起き、殴り合いが起き、笑いも起きた。王都の列は静かだ。静かな列は、怒りを内側に溜める。内側に溜めた怒りは、ある日突然裂ける。


 王城へ入ると、空気が少し乾いた。石の匂いが濃くなる。香の匂いが混じる。王城の匂いは整っている。整いすぎて、逆に怖い。整っているものは壊れたときに音が大きいからだ。


 その夜、王は重臣を集めた。

 王子たちも呼ばれた。

 龍星逐鹿が「国の試練」になった以上、王子の席は玉座の陰ではなく、灯の届くところにある。


 会議の間は窓が少ない。外の空を遮ると、人は紙を見る。紙を見ると人は「管理できる」と錯覚する。錯覚はときに必要だ。錯覚がなければ国は回らない。


 机の上には港の検めの報告書が並び、穀倉の残量、配分案、アクルックス船団の次便の予定が整然と置かれている。整然としているほど、誰も「足りない」を言いたくなくなる。言えば整然が崩れるからだ。


 王が静かに言った。


「港の検めは成功だ」


 誰も歓声を上げない。成功は当たり前で、当たり前が崩れる年だから、誰も油断しない。


「だが」


 王は続ける。「これは延命だ。治癒ではない」


 延命。治癒。言葉の違いが、骨に響く。アルケスは喉の奥が乾くのを感じた。延命の間に何をするか。それが龍星逐鹿の本質だ。王が求めているのは、麦を買う舌でも、秤を整える歯でもなく、国を治す手だ。


「報告がある」


 重臣の一人が立ち上がり、低い声で言う。


「城下で、蒼龍の噂が再び」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が僅かに冷える。蒼龍。旧王朝。滅びた旗。噂は、麦が増えれば消えるはずだった。だが噂は消えない。噂は麦ではなく不安を食べて増える。


「原因は」


 王が問う。


 重臣が言う。


「アクルックスの船に、蒼い刺繍の布が混じっていたと」


 布。刺繍。旗ではない。だが人は布で旗を見る。特に飢えた目は、何でも旗に見える。旗は物語の取っ手だからだ。


 カストルが低く言った。


「わざとか」


 重臣は肩をすくめる。


「偶然とも言える。だが偶然は利用される」


 ポルックスが兄の言葉を拾うように言う。


「噂を育てる者がいるなら、偶然は餌になります」


 王が頷いた。

 そして視線をアルケスへ向ける。


「第一王子」


 アルケスは背筋を伸ばす。


「城下へ出ろ」


 短い命令だった。

 だが重い。


 王子が城下へ出れば、噂は増える。増えるが、噂を押さえるには「見せる」しかない。王家が逃げていないと見せる。蒼龍の噂に飲まれないと見せる。


 アルケスは頷いた。


「はい、陛下」


 その言葉の隣で、ポルックスが一瞬だけ動いた。兄を見たのだ。カストルを。兄がこの命令をどう受け取るか。カストルは静かに机の端を指で叩いている。苛立ちではない。計算だ。王家の直系が前へ出る。血統最上位は後ろにいる。盤がどう動くか。カストルの中で、駒が動いている。


 シャムは小さく息を吐いた。城下へ出る。列へ近づく。列は危険だ。毒の事件を思い出す。狙われたのは自分だった。狙われた理由は象徴。象徴は輝くほど狙われる。


「私も行きます」


 シャムが言うと、重臣が眉を寄せる。だが王はすぐには否定しない。王はシャムの価値を知っている。民に近い象徴。だが象徴は刃にもなる。使い方を間違えれば、王家ごと切れる。


「護衛を倍に」


 王が短く命じる。「そしてポルックス、お前は穀倉に残れ」


 ポルックスが礼をする。礼儀は揺るがない。


「御意」


 その声は静かだ。けれど目は兄へ向く。カストルを残すのか、と思うより先に、兄の体調を思う。城下へ出るより、穀倉の冷えた空気のほうが兄には危険だ。だが兄は「残れ」と言われることを嫌う。置いていかれることを嫌う。ポルックスはその矛盾を抱え、表情を崩さない。


 カストルが口を開いた。


「僕も行く」


 部屋の空気が一段硬くなる。

 王はカストルを見た。

 視線の中に、父ではない計算がある。


「体調は」


 王が問う。


 カストルは笑った。


「十一歳だ」


 答えになっていない。だが彼にとっては答えだ。十一歳なら立つ。立たねば血統最上位の意味がない。小柄な体を理由に外されるのが、何より嫌だ。嫌だという感情は、カストルの命綱でもある。


 ポルックスが一歩だけ前に出た。兄を止めるためではない。兄の言葉を支えるためだ。支え方で兄を守る。これが彼の愛だ。


「兄上が行くなら、私も」


 言いかけたところで、王が手を上げる。


「ポルックスは残れ」


 短い。切る。


 ポルックスは一瞬だけ唇を噛み、すぐに頭を下げた。


「……御意」


 声は崩れない。崩れないが、目の奥が揺れる。兄を見守れない。兄の背中を支えられない。けれど王命に逆らうことはできない。礼儀は骨だ。骨を折れば立てない。立てなければ、兄の隣に立つ未来もない。


 王はカストルに言った。


「行け。ただし、護衛を付ける。ポルックスの代わりに、医官も」


 カストルは鼻を鳴らし、受け入れた。受け入れたのは従順だからではない。医官が付くのは、自分が弱いと認めることになる。だがここで拒めば、行けない理由が増える。増えれば置いていかれる。置いていかれるのが一番嫌だ。


 会議が終わり、王子たちはそれぞれの役目へ散る。

 アルケスは城下へ。シャムも。カストルも。

 ポルックスは穀倉へ。


 廊下の途中で、ポルックスは兄の袖口に視線を落とした。整っていない。整っていないのに、手を伸ばせない。手を伸ばせば止めてしまう。止めれば兄が怒る。怒れば兄の呼吸が乱れる。乱れれば倒れる。倒れれば兄が恥をかく。恥をかけば兄が折れる。ポルックスはそれを避けたい。避けたいのに、命令がある。


「兄上」


 ポルックスは低い声で呼び、カストルの目を見る。赤い瞳が短く光る。


「……死なないでください」


 言葉はそれだけだった。愛している、と言うより切実で、祈りに近い。カストルは一瞬だけ黙り、やがて「当たり前だ」と吐き捨てるように言った。吐き捨てた言葉の裏で、ポルックスの祈りを受け取ったのがわかった。受け取ってしまうから、兄は強がる。強がるのは弱いからではない。愛されていると知っているから、怖いのだ。


 窓の外では、春の光が石畳を鈍く照らしていた。

 蒼龍の噂は、消えない。

 噂の裂け目の上に、王子たちは立たされる。


 裂け目は、埋めるより先に踏まれて広がることがある。

 広がる前に、誰かが橋を架けなければならない。

 十一歳の足で、橋を架ける——その無茶が、龍星逐鹿だった。


【7】


 王城の門を出ると、空気が変わった。

 石の冷たい匂いよりも、人の生活の匂いが強くなる。湿った布、焦げた薪、薄い麦粥の蒸気。春のはずなのに、空気はどこか重く、腹の底に沈むようだった。


 城門の外には今日も長い列ができている。

 炊き出しを待つ列だ。


 老人、子ども、痩せた女、肩を落とした男。皆、黙って前の背中を見て並んでいる。

 飢えた列は騒がない。騒ぐ力が残っていないからだ。


 アルケスは足を止め、その列を見渡した。

 胸の奥に鈍い痛みがある。


「王太子」という言葉は、こういう場所では何の役にも立たない。

 腹を満たすのは称号ではなく、鍋の中の粥だ。


 護衛が自然に周囲を囲む。

 剣は見せないが、隠しもしない。

 城下では剣が光るだけで人の空気が変わる。怖がらせることは簡単だ。だが怖がらせた民は、いずれ石を握る。


 アルケスの隣にはシャムがいた。

 金の髪は布で軽く隠してある。完全には隠れないが、それでも目立ちは和らぐ。


 シャムは列を見て、小さく息を吐いた。

 花街にも似た光景はあった。だがあそこは騒がしかった。怒鳴り声、笑い声、酒の匂い。

 ここは静かすぎる。


 静かな飢えは、怖い。


 その少し後ろにカストルが立っていた。

 小柄な体だが、背筋はまっすぐだ。赤い瞳が列をまっすぐ見ている。


 医官がすぐ横で様子を見ているが、カストルは気にも留めていない。


「……思ったより多い」


 カストルが言った。


 アルケスは頷く。


「昨日より増えてる」


 シャムが鍋の方を見て言う。


「鍋も増えてる」


 三人はゆっくり炊き出しの鍋の近くまで歩いた。

 大きな鉄鍋が火の上で揺れている。中の粥は薄い。麦を水でのばしただけのものだ。

 色は白ではなく灰色に近い。


 香りは弱い。

 それでも、列の人々は鍋を見るとほんの少し表情が緩む。


 鍋のそばでは役人が桶で粥をよそっていた。

 その手がふと止まる。


 アルケスに気づいたのだ。


 慌てて頭を下げようとする。

 アルケスは手を上げて止めた。


「続けてください」


 役人は少し迷い、それから頷いて粥をよそい続けた。

 礼をするより、粥を渡す方が大事だと理解したのだ。


 列の先にいた子どもが、アルケスを見上げた。

 痩せているが、目はまだ強い。


「……王子?」


 子どもがぽつりと言う。


 護衛が少し動く。

 アルケスは首を振った。


「ただの見回りだ」


 子どもは少し考えてから粥を受け取り、すぐに食べ始めた。

 その様子を見て、シャムの胸がわずかに軽くなる。


 食べている顔は怒っていない。

 怒っていない顔を見ると、人は少し安心する。


 そのとき、列の後ろでざわめきが起きた。


 声は小さい。

 だが静かな列ではよく響く。


「……アクルックスだ」


 誰かが言った。


 アルケスの背筋がわずかに固くなる。


 列の外れ、屋台の陰に、青い布を腕に巻いた男が立っていた。

 その青は、アクルックスの色に似ている。


 男は低い声で言った。


「アクルックスの王家なら、こんな飢えにはならない」


 周囲の人間が顔を上げる。

 声は小さいが、耳は飢えの年ほど敏感になる。


 護衛が前に出ようとする。

 カストルが手を上げて止めた。


「待て」


 カストルは男を見た。

 怒っている顔ではない。

 考えている顔だ。


 ポルックスならどう言うだろう。

 ふと、そう思う。


 ポルックスは今、穀倉にいる。

 だが頭の中には弟の声がある。

 感情より先に状況を見る声。


 カストルは一歩前へ出た。


「アクルックスの王家が、この鍋を置くのか」


 静かな声だった。


 男は一瞬驚く。

 予想していた反応ではない。


「少なくとも、今よりは——」


 言いかけたところでカストルが鍋を指す。


「今は食べている」


 男は言葉を止めた。


 カストルは続ける。


「アクルックスの王家は、今この場所に鍋を置けるのか」


 男は答えられない。

 周囲の視線が集まる。


 やがて男は視線を落とした。


 カストルはそれ以上言わなかった。

 護衛に目で合図する。


 男は静かに列の外へ連れて行かれた。


 誰も暴れない。

 列は再びゆっくり動き始める。


 アルケスは小さく息を吐いた。

 もし言い争いになっていたら、列は崩れていた。

 鍋が倒れ、粥がこぼれ、暴動になったかもしれない。


 シャムが言う。


「アクルックスの噂、広がってるね」


 アルケスは答える。


「飢えてるからだ」


 そして鍋を見る。


「食べていれば、少しは静かになる」


 カストルは何も言わず列を見ていた。

 赤い瞳に、人々の影が映る。


 王とは何だろう。


 アクルックスの王家。

 血。

 旗。


 だが目の前の鍋は、血では煮えない。

 火と水と麦でしか煮えない。


 カストルはぽつりと呟いた。


「……王って面倒だな」


 シャムが小さく笑う。


「今さら?」


 アルケスも苦笑した。


 城下の空は少しだけ明るくなっていた。

 雲の隙間から春の光が落ちる。


 その光の中で、列はゆっくり動いている。

 ゆっくりでも、動いている。


 止まってはいない。


【7】


 夜の王都は、昼よりも飢えがよく見えた。


 昼のあいだ人々は、まだ働くふりができる。市場で声を張り、荷車を押し、鍋の前で順番を待ち、腹が鳴る音に聞こえぬふりをする。


 だが夜になると、その無関心の虚勢は剝がれる。石畳に残った雨の湿りが冷えに変わり、冷えはそのまま空腹の形になる。窓辺の灯りは早く消え、路地は静かになり、静けさの底で、誰かの咳だけが小さく響く。


 空には雲が薄くかかり、月はにじんだ銀盤のようにぼんやりと城壁の上へ浮かんでいた。風は弱い。だからこそ、最初の匂いは異様に早く広がった。


 焦げた匂いだった。


 それは薪の燃える匂いとは違う。冬の囲炉裏や鍛冶場の火が持つ、親しい温かさのない匂いだった。乾いたものが一気に焼ける匂い。しかもそれは、王都でいちばん焼けてはならないものの匂いに似ていた。


 麦だ。


 火を見たのは、夜回りの兵が先だった。


 中央穀倉の南壁、その屋根の継ぎ目から、赤いものがひと筋だけ立ち上っていた。最初は舌のように細く、ためらいがちだった炎が、次の瞬間には獣のように屋根裏へ食らいついた。乾いた板が鳴り、梁が小さく爆ぜる。その音は短いのに、王都の夜気の中で妙に遠くまで届いた。


「火だ!」


 叫び声が上がる。


 次いで鐘が鳴った。警鐘だった。


 王城の高い塔からではない。穀倉区画に備えられた、小さな警鐘だ。それでも充分だった。夜の王都に火の報せほど人の血を速くするものはない。しかもそれが穀倉だと知れた瞬間、人々は火事より先に飢えを想像する。火の粉より早く不安が飛ぶ。


 王城の奥では、アルケスが眠れずにいた。


 眠れない夜はこのところ珍しくなかった。帳面の数字、アクルックスの船、炊き出しの列、王の顔。考えれば考えるほど眠りは遠ざかる。十一歳になったばかりだというのに、眠りがこんなにも遠いものになるとは、数年前まで思いもしなかった。


 警鐘が鳴ったとき、彼はほとんど跳ね起きるように立ち上がった。


 扉の向こうで侍従が息を切らしている気配がする。


「アルケス王子殿下!」


「穀倉か」


 アルケスは扉を開く前にそう言っていた。自分でも驚くほど、声は静かだった。


 侍従は目を見開き、それから深くうなずく。


「中央穀倉に出火です!」


「父上は」


「すでに起きておられます」


 アルケスは外套を取った。手が少しだけ冷たい。だが震えてはいない。震えたら終わる、とどこかで思っていた。終わるのは自分ではなく、見ている誰かの安心だ。


 廊下へ出ると、別の方向から足音が響いてきた。


 カストルだった。薄桃色の髪は急いで整えたばかりらしく、片側だけが少し跳ねている。小柄な体に濃色の外套を羽織り、赤い瞳だけが夜の中で鋭く光っていた。そのすぐ後ろにポルックスがいる。兄の歩幅に合わせ、半歩後ろを保ちながらも、少しでも体勢が崩れれば支えられる距離にいる。その距離の取り方が、愛情そのものだった。


「聞いたか」


 カストルが言う。


「うん」


 アルケスは短く答えた。


 ポルックスはすでに顔色を変えていた。青ざめているわけではない。数字を計算している顔だ。中央穀倉が焼ける。その意味を、この場の誰より早く、正確に理解している。


「どの区画ですか」


 侍従に問う声は静かで、現王に向ける時と同じく礼を失わない。


「南棟から火の手が」


 ポルックスの眉がわずかに寄る。


「……乾燥保管区」


 その一言で、三人とも意味を理解した。そこには比較的状態の良い麦が置かれている。水気を避け、炊き出しではなく中長期の配給と種籾の一部にも回される、いわば王都の未来だ。


 その未来が燃えている。


 そこへ、別の廊下から金の髪が現れた。シャムだった。眠りから引き剥がされたばかりの顔だが、目はもう覚めている。王城育ちの者とは違う早さだった。危機の気配に目を覚ます速さは、花街で身についたものかもしれない。


「行くんだろ」


 誰にともなく、シャムは言った。


 アルケスはうなずく。


「うん」


「なら早く」


 それだけ言うと、シャムはもう走り出していた。


 王城の門が開く。夜の空気が一気に流れ込む。冷たい。だが冷たさよりも、焼ける匂いの方が強かった。穀倉へ向かう途中、遠くの空が赤く染まっているのが見える。炎は本当に色を持っているのだと、アルケスはその時あらためて思った。怒りの色にも、飢えの色にも似ている。


 中央穀倉の前は、すでに地獄の入り口のようだった。


 兵が走っている。桶が運ばれる。井戸から水が引かれる。人々の叫びが飛び交い、馬のいななきまで混じる。炎は南棟の屋根を食い破り、夜空へ赤い舌を何本も突き出していた。火の粉が舞い、風もないのに生き物のように広がっていく。


「近づくな!」


 兵が叫ぶ。


 だが人は近づく。穀倉だからだ。火事を見に来たのではない。自分たちの明日が燃えるところを、確かめに来てしまうのだ。


 泣き声がした。どこかで女が叫んでいる。兵の怒鳴り声の間に、誰かが「麦が!」と叫ぶ。麦、麦、麦。まるで祈りの言葉のように、そのひとつだけが何度も聞こえた。


 現王はすでにいた。


 燃える穀倉の前に立ち、兵に指示を飛ばしている。金の髪は炎の色を映して赤みを帯び、横顔はいつもより硬い。王は振り返り、四人の王子を一目見た。


「アルケス」


 その声にはためらいがなかった。


「北棟へ回れ。民を下がらせろ」


「はい」


「カストル」


「わかってる」


 カストルはもう南側の構造を見ていた。火がどこまで回れば何が危ないか、小さな体の中で必死に読んでいる。


 王はポルックスを見た。


「被害の計算を」


「はい」


 短い礼。現王に対しても礼は揺らがない。だがポルックスの視線は一度だけ兄へ向く。兄をここへ残すことへの不安が、喉元で棘のように引っかかっているのがわかる。それでも彼は王の命に従った。


 従うことでしか、兄の隣に立ち続けられないからだ。


「シャム」


 王が呼ぶ。


 シャムは炎ではなく、民衆の方を見ていた。


「城下へ回れ。列を崩すな。騒ぎを広げるな」


「うん」


 シャムは答えると、すぐに動いた。


 火は物だけを焼かない。人の心も焼く。焼かれた心は、すぐに誰かを憎む。憎む相手が見つかれば、夜のうちに暴動になる。シャムはそれを知っていた。花街では、騒ぎが大きくなる瞬間には必ず匂いが変わる。汗と酒と怒りの匂いだ。今この場で変わり始めている匂いは、それに似ていた。


 アルケスは北側へ走った。穀倉の正面にはすでに人が集まり始めている。兵が押し返しているが、押し返されるほど人は前へ来る。自分の食い扶持が燃えているのだから当然だった。


「下がって!」


 アルケスが声を張る。


 その声に、最初は誰も従わなかった。兵の声も王子の声も、火の前では同じくらい弱い。だが彼はもう一度叫んだ。


「ここで押し合えば、北棟まで燃える!」


 その一言が、少しだけ人を止めた。火の怖さは、具体的な方が効く。


 カストルは南棟の横手へ回っていた。兵よりも低い目線で、燃え移り方を見ている。小柄な体はこういう時、不思議と役に立つ。大人の足と足の間から、火の根元が見える。


「そっちじゃない!」


 彼が叫ぶ。


「梁の下に水をかけろ! 屋根を落とせ!」


 兵が一瞬ためらう。だが現王が即座にうなずいた。


「やれ!」


 命令が飛ぶと、数人の兵が槍の柄で壁板を打ち崩し始めた。穀倉を壊すことは、本来ならあってはならない。だが焼けるままにするよりはいい。カストルの目にはそれが見えていた。失うものを選ぶしかない時、何を捨てるか。その選択が、王の仕事だ。


 ポルックスは火から少し離れた場所で、役人に次々と問いを投げていた。


「南棟の在庫は」


「乾燥麦が四百六十袋、雑穀三十七、種籾——」


「種籾はどこまで運び出した」


「まだ半分」


 ポルックスの喉が一瞬詰まる。半分。半分という数字は、救いにも絶望にもなれる。彼はすぐに帳面へ書きつけた。手が速い。速いが、乱れない。乱れないのは、兄のためでもあった。ここで自分が乱れれば、兄はもっと乱れる。


 そこへ、一人の兵が駆け込んできた。


「殿下!」


 息が上がっている。


「南棟の裏手で、不審な男を一人!」


 ポルックスの目が鋭くなる。


「捕らえた?」


「いえ、逃げ——」


 その瞬間、カストルが振り向いた。赤い瞳がぎらりと光る。


「どっちへ!」


「裏の荷路地を——」


 カストルは躊躇なくそちらへ走り出した。ポルックスの顔が変わる。


「兄上!」


 その声は、今夜初めて明らかな焦りを帯びていた。敬意でも礼儀でもない、ただ兄を失いたくない者の声だった。


 だがカストルは止まらない。小さな背中が火の赤に照らされ、影のように路地へ消える。ポルックスも走り出そうとする。けれど王の命と、目前の帳面と、兄の背中。その三つが彼を引き裂く。


 現王が低く言った。


「行け」


 その一言で、ポルックスは礼も忘れそうになりながら頭を下げ、兄の後を追った。


 火はまだ燃えていた。

 民のざわめきは広がっていた。

 そして王都の夜のどこかで、誰かが火の向こうの混乱を見て笑っているかもしれなかった。


 穀倉火災は、ただの火事ではなかった。

 誰かが、意図を持って火を置いたのだ。

 その意図がどこへ向かっているのか、まだ誰にもわからない。


 ただ一つ確かなのは、燃えているのが麦だけではないということだった。

 王都の均衡そのものが、炎にあぶられていた。

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