第十ニ章
【1】
港の空気が、わずかに変わった。
それは誰かが叫んだからでも、鐘が鳴ったからでもない。
ただ、帆を畳む音が違った。
アクルックスの船は、これまでと同じようにゆっくり岸へ寄せている。青地に双龍の旗は湿った風を受け、重く揺れていた。
しかしその後ろに続く小舟は違う。
静かだった。
帆を半ば下ろし、まるで影のように港へ入ってくる。
そして掲げられている旗は――白。
そこに描かれているのは、蒼い龍だった。
単龍。
それを見たとき、塔の上でヴィルギニスは動かなかった。
ただ瞬きを一度した。
それだけだった。
だがその胸の奥で、遠く忘れていた音が鳴る。
それは記憶ではない。
むしろ、記憶の欠片だった。
白い旗。
蒼い龍。
母の国の旗。
その旗が、この港にある。
ヴィルギニスは窓枠を握った。
石が冷たい。
「……残っていたのか」
呟きは、ほとんど息に近かった。
母は、滅びたと言っていた。
王宮は燃えた。
王族は害された。
生き残りは、ほとんどいない。
それが、ヴィルギニスが知っている世界の形だった。
だが、あの旗は。
あれは間違えようがない。
母が何度も語った紋章。
白地に蒼龍。
優しい王家の旗。
その頃、穀倉の前では人々の視線が港へ向いていた。
誰も声を出さない。
船は珍しくない。
だが旗が違う。
それが、人の胸をざわつかせる。
ルカは目を細めた。
「なんだ、あれ」
シャムは答えなかった。
ただ港を見ている。
遠くで旗が揺れている。
白い旗。
そして青い旗。
二つの旗が、同じ港で揺れている。
シャムの胸の奥に、理由の分からない感覚が生まれた。
それは恐れでも不安でもない。
ただ、何かが動いたという感覚だった。
穀倉の前では、カストルも港を見ていた。
小さな体が、夕暮れの中で影のように立っている。
ポルックスがその横に来た。
「見えるか」
カストルは言う。
「見える」
ポルックスは少し黙った。
それから言った。
「旗が違う」
カストルは頷く。
「そうだな」
ポルックスは視線を船から離さない。
「アクルックスではない」
カストルは小さく笑った。
「分かっている」
少し考える。
それから言う。
「面倒だ」
ポルックスは兄を見る。
その顔には怒りも不安もない。
ただ、計算している顔だった。
港の船が岸へ着く。
人影が動く。
兵が並ぶ。
双龍の旗の船から降りてくるのは、いつもの商人たちだ。
だが白い旗の船から降りてきたのは――
一人の男だった。
年は四十ほど。
黒い外套を着ている。
そして、その背後に小さな箱を持つ従者。
港の兵がざわめく。
アクルックスの兵が、その男を止めた。
言葉を交わしている。
遠くて聞こえない。
しかし様子が違う。
アクルックスの兵は、簡単には通さない。
男は動かない。
ただ何かを差し出した。
それは封書だった。
蝋が押されている。
紋章。
白地に蒼龍。
それを見たとき、塔の上でヴィルギニスはゆっくり目を閉じた。
胸の奥で、遠い声が響いた。
母の声。
「もし」
昔、母は言った。
「もし蒼龍の旗を見ることがあれば」
ヴィルギニスはその言葉の続きを覚えていない。
覚えていないはずなのに。
なぜか今、胸の奥でその続きを思い出しそうになる。
港では動きが起きた。
アクルックスの兵が、道を開けた。
白旗の男が歩き出す。
港から王都へ向かう石道を。
その歩き方は静かだった。
急ぎもしない。
怯えもしない。
まるでここが自分の土地であるかのように。
その姿を、穀倉の前からシャムが見ていた。
ルカが言う。
「誰だ、あれ」
シャムは答えない。
ただ男を見ている。
その男は一度だけ顔を上げた。
視線が城へ向く。
塔。
その窓。
そこにヴィルギニスがいることを、知っているかのように。
ヴィルギニスは窓辺に立ったまま、動かなかった。
風が吹く。
双龍の旗が揺れる。
蒼龍の旗も揺れる。
【2】
白旗の男は、港の石道を濡れたまま歩いてきた。足取りは速くない。濡れた外套の裾が踵に触れ、そこから雫が落ちる。その雫が石畳に吸い込まれるまでの間、いま王都に残っている時間の薄さを見せつけるようだった。
青地に双龍の旗がはためく港の喧噪は背後に置き去りにされ、男の周囲だけが奇妙に静かだった。
人々が道を空けるのは、貴人の威圧ではなく、何か名づけがたい気配のせいだった。白地に蒼龍。滅びたはずの旗を掲げて歩く者には、こちらが勝手に足を止めてしまう。死者の名を不用意に呼べないのと似ている。
城へ向かう坂道の途中で、男は一度だけ立ち止まって空を見た。雲はまだ厚い。雨が終わりきらない空気の中に、彼は息を吐き、胸元の封書を指で確かめた。封蝋には蒼龍が押されている。新王朝が嫌悪する印。
だがその封蝋は、憎しみよりも先に「約束」を思い出させた。王家とは、約束で作られた檻であり、約束でしか守れない檻でもある。男はふたたび歩き出した。
穀倉の前では、群衆が港を見ていた。
さっきまで「麦を出せ」と喉の奥で渦巻いていた不満は、白旗の出現で一瞬、別の形を取った。
飢えは目の前の麦で燃えるが、恐れは目の前の旗で冷える。ルカは口を開けたまま、白い旗の男を指差した。「あれ、なんだよ」シャムは答えなかった。
答えがないからではなく、言葉が間違った瞬間に現実が変わる気がした。花街で育った子は、言葉を慎重に使う。怒鳴り声ひとつで場が荒れ、酒の匂いが濃くなり、殴り合いが始まることを知っている。
今の王都は花街より静かだが、静かな分だけ壊れるときは速い。シャムは護衛の気配を背に感じ、金髪を隠すように外套の襟を少し立てた。似ている、という囁きが聞こえたとき、彼はいつも一瞬だけ息を止める。似ているのは顔か、血か、それとも民が求める幻か。求める者の側が決めることだ。
カストルは穀倉の門前から動かなかった。白旗の男が坂を上がるにつれ、群衆の視線はそちらへ吸い寄せられ、穀倉の扉は一時的に忘れられた。
飢えが別の種類の飢えへ置き換わる。人は食糧だけでなく、物語も食べる。滅びた王家の旗が現れたなら、その続きを知りたがる。カストルはその欲望を感じ取っていた。赤い瞳が薄暗い夕空を映し、目の奥で何かが燃える。
彼の胸にあるのは不安ではなく、焦りだった。
血統は上でも、世界はそれを待ってくれない。王の器は血に刻まれている、と誰かが言った。では器が小さかったらどうする。器は大きくできるのか。
カストルは己の体の小ささを恥じるより、体が小さいことを知っている他人の視線を憎んだ。視線は彼の胸を焼く。
ポルックスは兄の横に立ったまま、白旗の男の歩幅を数えていた。歩幅の揺れがない。
荷車の上で育った者の歩き方ではない。騎士の歩き方でもない。宮廷の歩き方だ。
言葉より先に身体が身分を語る。ポルックスはそういうものを信じないようでいて、信じていた。盤の上で一番厄介なのは、駒の形を変えずに動く駒だ。
塔の窓でヴィルギニスは、白旗が城門に近づくのを見ていた。双龍の旗は現王朝の旗、蒼龍は滅びた王家の旗。母の言葉が喉元まで上がってくる。
もし蒼龍の旗を見ることがあれば──その続きを、彼は思い出せないのではなく、思い出さないようにしてきたのだと気づく。思い出すことは、母をこの国へ連れてきた先代王の決断と、母が背負っていた誇りと、そして母が捨てたはずの国の亡霊を同時に抱きしめることになる。抱きしめた瞬間、自分はこの国の王子でいられなくなる。
ヴィルギニスは窓枠から指を離し、爪の間に残った石の冷たさを確かめた。冷たい。母の手もいつも冷たかった。
病のせいだと侍女は言ったが、本当は国の温度だったのではないかと思うときがある。滅びた国の者は、いつまでも冬の中にいる。
白旗の男が城門をくぐったとき、門番の兵がいったん槍を交差させた。形式だ。
けれど形式ほど刃になるものはない。男は封書を差し出し、名を名乗った。
「エルンスト。蒼龍の家の末の家令でございます」
家令。王ではなく、王の家に仕える者。生き残るのはいつも王ではない。王の周りの者だ。門番が封蝋を見て顔色を変える。蒼龍の印は禁忌に近い。だが彼らは命令に従う。
命令とは、責任を分配するための道具だ。門番は封書を受け取り、走るように内側へ消えた。男は門前で待った。
雨の匂いが石から立ち上り、城内の蝋の匂いと混ざる。待つ時間の間に、王城は彼を飲み込むか、吐き出すかを決める。
執務室では現王が封書を受け取った。封蝋の蒼龍を見た瞬間、王の目がほんのわずかに細くなる。
怒りではない。疲れでもない。計算だ。王は封を切らずに宰相へ目を向けた。宰相は沈黙した。
沈黙は反対の形だ。王妃は席を外している。王妃の不在は偶然ではない。
王が見せたいものと、見せたくないものがある。王は封を切り、書簡に目を走らせた。文字は丁寧で、古い書式だ。礼節がある。礼節は武器になる。
礼節で刃を包めば、刺された側は痛みを訴えにくい。
「蒼龍の家に連なる者が、ここに生きております。亡き王女殿下の御子、ヴィルギニス殿下に謁見を願い奉ります」
王は最後の一文まで読み終え、紙を机に置いた。紙の音が乾いていた。雨の日の乾いた音は、異物のように響く。
「来たか」それは誰に向けた言葉でもなく、ただ過去へ向けた言葉だった。先代王が亡命王女を迎えた日の決断、その決断が今になって帳尻を合わせに来る。
政治とはいつも遅れてくる。雨が止んだ頃に洪水が来るように。
城下では人々が白旗の話を始めていた。麦の話より速く広がる。噂は飢えより軽いが、飢えより遠くへ飛ぶ。炊き出しの列で女が言う。
「蒼い龍の旗よ。昔の王家だって」別の女が囁く。
「亡命王女がいたでしょう。先代王が迎えた」老人が唾を飲む。「滅んだはずが、まだ生きていたのか」そう言う声の中で、ルカはシャムの袖を引いた。
「お前、あれ知ってるのか」シャムは首を振る。「知らない」嘘ではない。彼は花街で王家と無縁だった。だが今は王家の中にいる。知らないでは済まない。
シャムは穀倉の門を見た。門は閉じている。閉じているからこそ、あの木の向こうが想像を育てる。
麦の向こうにあるのは権力であり、権力の向こうにあるのは血だ。血は見えないからこそ、人は血に名前をつける。純血、穢れ、濃い、薄い。そういう言葉は、腹が減るとよく増える。
夜、王城の廊下でポルックスはカストルの歩調を確かめながら歩いた。兄は平静を装っているが、呼吸が浅い。怒りと緊張が体を削っている。
ポルックスは言わない。言えば兄は怒る。怒りは兄の鎧だ。鎧は重いが、鎧がなければ兄は壊れる。
カストルは窓の外を見た。城門の灯りが揺れ、白旗の男の影がまだ中庭にある。「また血か」カストルが吐き捨てるように言った。ポルックスは静かに答える。「血は便利です」カストルが振り向く。「何が便利だ」ポルックスは目を伏せない。
「責任を血に押し付けられるから」
その言葉にカストルは一瞬、言葉を失った。幼い弟が、あまりに正確なことを言う。
カストルは怒りたかった。けれど怒りは、今夜は自分を守ってくれない気がした。
そのころ塔の窓でヴィルギニスは、夜の中庭に立つ白旗の男を見下ろしていた。男は空を見ていた。
雨が止んだ空を。彼はこの国の空を見て、何を思うのか。母の国の空と比べるのか。
それとも、母の死を思うのか。ヴィルギニスはふと、自分が母の死を「病」としてしか覚えていないことに気づく。
病は個人のものだ。けれど亡命者の死は、個人だけのものではない。母はここで生き延び、ここで死んだ。死んだことで、この国の妃になった。
生きている間より、死んでから政治になった。国葬の時、彼は幼く、ただ白い花を見た。花はきれいだった。きれいだからこそ残酷だった。死はきれいにできる。生はきれいにできない。
王は夜更け、ひとりで書簡を読み直した。ヴィルギニスに会わせるか、会わせないか。
会わせればアクルックスの現王朝は何を思う。
会わせなければ蒼龍の残党はどう動く。だが真に恐ろしいのは、外の反応より内の反応だ。甥たち。
血統最上位のカストル。影のようなポルックス。民の中に立つシャム。塔に立つヴィルギニス。
彼らはすでに盤の上にいる。王の直系はアルケスだけ。王はそれを知っている。自分が倒れれば、国は再び血の話に沈む。
王は手を止め、窓の外を見た。雨はまた降り出しそうだった。雲が厚い。
龍の加護が弱まっている、という囁きが、今夜はひどく現実味を帯びる。加護が弱まったのではない。人の欲が強くなったのだ。欲が強くなれば、加護は薄く見える。
翌日、王は決める。
だがその決め方は、誰に見せる決め方かによって変わる。王は静かに呼んだ。「アルケスを」そして一拍置いて、「ヴィルギニスも」王が呼べば、世界は動く。
動いた世界の責任は王が取る。
そういうことになっている。だが本当は、責任はいつだって薄く分配される。
兵が槍を握り、宰相が署名し、神官が祈り、王子が笑う。責任は薄くなるのに、罪だけは濃くなる。
城下ではルカがシャムに言った。
「なあ、お前、王子のままでいられるのか」
シャムは答えられなかった。王子のままでいるとは、何を意味するのか。贅沢な食卓に座り、民の列を眺め、護衛に守られ、そして誰かの飢えに責められる。花街の孤児だった頃、彼は腹が減ることだけを恐れていた。
今は別の飢えを恐れている。人の目が飢える。噂が飢える。国が飢える。飢えは満たしても、すぐ別の飢えが生まれる。
こうして王都は、麦の秤の上にもう一つの重りを載せる。白地に蒼龍。滅んだはずの旗。死者の名を呼ぶようにして現れた者。
秤はきしみ、少しだけ傾く。その音は小さい。だが、聞こえる者にははっきり聞こえる。盤面を読む者には、次の一手の音として。
【3】
王が「アルケスを」と言い、ひと呼吸置いて「ヴィルギニスも」と続けたとき、侍従は一瞬だけ目を伏せた。硬い顔のまま廊下へ下がり、扉が閉まると、執務室には紙の匂いと湿った石の匂いだけが残った。王は机上の書簡を指で押さえた。封蝋の蒼龍は、押されたまま冷えている。消えたはずのものは、消えたままでいてくれない。消えたはずの旗が港に立ったように、消えたはずの約束は、ある日ふいに形を得て戻ってくる。
呼びに行った侍従が戻るまでの間、王は窓の外を見た。雲は厚いが、雨は落ちていない。雨が止んでいる時間の方が、かえって不穏だった。降るべきものが降るのを止めている。止めた分だけ、別の場所で溜まっている。その溜まりが、いつか破れて濁流になる。王は濁流を知っている。兄の死が濁流だった。行幸の橋が裂け、濁った水に王が消えた。水はいつも、取り返しのつかないものを運んでいく。
扉が開いた。先に入ってきたのはアルケスだった。翡翠の髪が整えられている。姿勢も、視線も、王の子としての形を崩さない。彼は王の前で礼をし、何も言わずに立った。続いてヴィルギニスが入る。青みがかった髪は光を吸い、夜の水面のように落ち着いて見えた。彼も礼をしたが、その動きは最小限で、余計な音を立てない。二人が並ぶと、執務室の空気が少し変わる。王の直系と、王の甥。呼吸の仕方からして違う。
王は机上の書簡を指で弾いた。乾いた音がした。
「港に来た」
アルケスが頷く。「白い旗ですか」
ヴィルギニスは黙っている。王はその沈黙を責めない。沈黙は、知らないふりではなく、知っているふりでもない。沈黙は、言葉が政治になるのを理解している者の癖だ。先代王は沈黙の使い方がうまかった。だから国は安寧した。王は自分がそうでないことを知っている。自分は沈黙すると、迷っているように見える。迷いは王の最大の弱点だ。だから、言葉を選んで発する。
「蒼龍の家の家令と名乗った」
アルケスが眉をわずかに動かす。「蒼龍……旧王家の」
王が頷く。「亡命王女の家の者だと言う」
アルケスの視線が、ほんの少しヴィルギニスへ向く。ヴィルギニスは視線を返さない。返せば、視線は会話になり、会話は噂になる。彼はそれを避ける。避けることで、もっと疑われることも知っている。だが疑われるのは慣れている。疑いは彼の影だ。
王は続けた。「謁見を求めている。ヴィルギニス、お前にだ」
部屋の空気が一段冷えた。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を走る。アルケスは息を吸い、吐いた。十歳の子がする呼吸ではない。思考の呼吸だ。ヴィルギニスは一度だけ瞬きをした。
「会うべきか」
王は問いとして言ったが、問いではなかった。王はもう半分決めている。決めていないふりをして、二人の反応を測っている。龍星逐鹿の盤面は執務室にもある。王が問うているのは、蒼龍の家令と会うかどうかではなく、二人がどういう王の形を見せるかだった。
アルケスはすぐに答えない。唇を少し結び、机上の地図へ視線を落とす。港、穀倉、王都の街路。赤い印。青い印。黒い印。彼の頭の中に、さっき見た炊き出しの湯気が重なる。麦が薄い粥になって配られていた。あれを見れば、会うか会わないかで国の腹が決まると分かる。
「会うべきです」
アルケスは言った。声は静かだったが、言い切った。
王が目を細める。「理由は」
アルケスは「友好」と言わなかった。友好は方便だ。飢えた国に友好は響かない。彼は別の言葉を選ぶ。
「会わないと、外が勝手に物語を作ります」
王は小さく息を吐いた。アルケスは続ける。
「蒼龍の旗が立った。会わなかった。そうなれば、蒼龍は拒まれた、という噂になります。拒まれれば、反発が生まれます。反発は、いまの飢えに火をつける」
王都の空気は薄い。火がつけば燃え広がる。アルケスはそれを見ている。彼は王の子だが、血統の議論では弱い。だからこそ、火のつき方に敏感だ。火がつけば自分が燃える。燃えないために、火の元を移す。そういう思考が早い。
王は視線をヴィルギニスへ移した。
「お前は」
ヴィルギニスは少し間を置いた。間を置くのは臆病ではない。言葉を重くするための間だ。彼は静かに言った。
「会えば、彼らは生き残りを示す。会わねば、彼らは殉死を演じる」
アルケスがわずかに眉を動かす。十歳の口から出る言葉ではない、と一瞬思い、すぐに理解する。ヴィルギニスは十歳でも、母の国の崩壊の話を背負って育っている。崩壊の言葉は子どもを早く大人にする。
王は問い返す。「どちらが危うい」
ヴィルギニスは言った。「殉死は強いです。生き残りは弱い。弱いものは利用できます。強いものは利用されます」
王は椅子に背を預けた。少しだけ笑った。笑いは薄い。「なるほど」
執務室の外では、侍従が慌ただしく動く音がした。王は扉の外に向かって短く命じた。「蒼龍の家令を控えの間へ。酒も食も出すな。水だけ」
それは礼を欠いた扱いではない。むしろ線を引く扱いだ。恩を売らない。恩を売れば借りが生まれる。借りは今すでにある。麦という形で。これ以上借りを増やさない。王は麦の秤を見ている。
アルケスはその命令を聞き、わずかに息を整えた。ヴィルギニスは表情を変えない。だがその胸の奥で、母の旗が揺れているのを感じている。
王は続けた。「会談の場は公開しない。だが噂は止めぬ。止めれば増える。増えるなら、こちらが形を与える」
王が言葉を止めたとき、窓の外で風が吹いた。雲が一瞬だけ薄くなり、港の方向に淡い光が落ちる。双龍の旗と蒼龍の旗が同じ光を受けた、と誰かが言えば、それはまた物語になる。龍の加護が戻った、という物語にもなる。王はそういう偶然を利用する者だ。兄ほど上手くはないが、上手くなろうとしている。
「ヴィルギニス」
王が呼ぶ。名を呼ぶだけで、責任が乗る。
ヴィルギニスは「はい」とだけ答える。
「お前は会わない」
アルケスが目を見開く。ヴィルギニスは瞬き一つしない。
王は淡々と言った。「お前を会わせれば、蒼龍の家令が勝つ。彼らの目的はお前の顔を見ることだ。顔を見れば、彼らは『生きている』と言える。生きていると言えれば、外は動く。外が動けば、この国の飢えに別の飢えが重なる。耐えられぬ」
アルケスが言いかける。「でも――」
王は手を上げ、遮る。「会わせるのは、アルケスだ」
アルケスは言葉を失った。自分が蒼龍の家令と会う。自分は現王の子。蒼龍とは関係がない。その無関係さが武器になる。王はそれを選んだ。蒼龍の家令が求めるのはヴィルギニスの血の証明。ならば血の外側を出す。血を見せずに場を終わらせる。場を終わらせれば、麦の交渉だけが残る。残すべきは麦だ。王の秤の針が、そこを指している。
ヴィルギニスの胸の奥に、冷たいものが落ちた。会わないことは守りであり、追放の予兆でもある。守るために遠ざける。遠ざけるために守る。王宮はいつもその逆転をする。母もそうだった。守るために国を捨てた。国を捨てたことで守られた。守られたことで、死んでから政治になった。
王は最後に言った。「アルケス、会談では三つだけ答えろ。麦の礼。友好の礼。だがヴィルギニスには触れるな。触れれば血の話になる」
アルケスは小さく頷いた。喉が乾いた。十歳の喉だ。乾きやすい。だが言葉に出すな、と自分に言い聞かせる。王子の恐れは、恐れとして見せると餌になる。
王が二人を下がらせると、廊下の空気が一気に冷たく感じられた。アルケスは歩きながら、指先が震えるのを外套の中で握り込んだ。ヴィルギニスは何も言わない。言えば、言葉が自分を縛る。縛られるより、沈黙で逃げ道を作る。逃げ道があることが、彼の生存だった。
城下では、夜の炊き出しが始まっていた。薄い粥の湯気が立ち、ルカは椀を両手で持ってすすっている。シャムは少し離れたところから見ていた。王城の中で動いている血の話は、ここには届かない。届くのは麦の話だけだ。だが麦の話だけで生きられるなら、国はもう安寧している。安寧していないから、血の話が増える。
ルカがシャムを見上げ、口の端を汚したまま言った。「なあ、あれ、どうなるんだ。白い旗のやつ」
シャムは答えられなかった。答えの代わりに、遠くの港を見る。夜の闇の中で、旗は見えない。見えないものの方が、よく人を怖がらせる。見えない血、見えない毒、見えない加護。見えないものが増えた国は、いつか見える破滅を呼ぶ。
その夜、王城の控えの間で蒼龍の家令エルンストは、水だけを与えられて座っていた。水を飲み、口元を拭いもせずに笑った。彼は知っている。会えないのではない。会わせないのだ。会わせないという選択をした王は、弱い王ではない。むしろ強い。強い王には、別の方法で近づく必要がある。エルンストは封書の残り香のように、母の国の亡霊を身にまといながら、次の手を考え始めていた。
王の秤は揺れている。揺れながら、まだ落ちない。だが秤の上には、麦と血と噂が乗っている。重いものばかりだ。重いものの上で、十歳の王子たちは、まだ自分の体重の軽さを知らない。
【4】
控えの間は、龍神院の奥を思わせるほどに静かだった。石壁は湿気を含み、蝋燭の匂いが薄く漂う。窓は高く小さく、外の空は切り取られた布切れのように見えるだけだ。そこに座るエルンストは、水の入った杯を指先で弄びながら、笑いとも息ともつかぬものを漏らした。蒼龍の封蝋を押した手紙が受け取られた時点で、彼の旅は半ば成功している。拒まれれば殉死を演じるつもりだった。だが拒まれてはいない。ただ「会わせぬ」と選ばれただけだ。選ぶ者がいる国は、まだ折れていない。折れていない国ほど、扱いづらい。
その頃、廊下の角を曲がったところで、アルケスは足を止めていた。胸の奥が、息を吸うたびに少し痛む。痛みは恐れの形をしている。王の子であることは、守りにもなるが矢面にもなる。まして相手は蒼龍の家令だ。滅びた王家の亡霊を担いだ者は、言葉の節々に死者を忍ばせる。油断すれば、こちらの息が詰まる瞬間を嗅ぎつけ、そこへ刃を差し込むだろう。
「アルケス」
背後から声がかかった。振り向くと、王太后がそこにいた。年老いた身体は小さいが、背筋は伸び、衣の襞に一点の乱れもない。灰色の髪はきっちりとまとめられ、耳元の真珠が灯りを受けて白く光っている。歳月は彼女の頬に皺を刻んだが、その皺は崩れではなく刻印のようで、むしろ威を増していた。
「お祖母上」
アルケスが礼をすると、王太后はゆっくりと頷く。
「顔が固い」
その一言は責めではなく、観察だった。王太后は息子の王よりも、先に人の揺らぎを見つける。揺らぎは破綻の前触れだと、長年の宮廷で学んできたのだろう。
「蒼龍の者と会うのですってね」
アルケスは、言葉を探してから頷いた。
「陛下の命です」
王太后は目を細めた。陛下、と言わせる距離が、彼女には少し可笑しいのかもしれない。彼女はこの国の母であり、王の母であり、先代王の母でもある。血の中心にいる者は、血に縛られている者をよく知っている。
「会うのはあなたで、ヴィルギニスではない」
王太后は言った。
「賢い選び方ね」
その賢さが、冷たさと紙一重であることも、彼女は知っている。
「怖い?」
問いは短い。
アルケスは答えないまま、廊下の先を見た。石壁の向こうに控えの間があり、そこにエルンストがいる。相手は老人ではない。だが自分より遥かに多くの死を見てきた目をしているはずだ。
「……怖いです」
嘘はつかなかった。王太后は嘘に気づく。
王太后は、細い指で自分の袖口を整えながら言った。
「怖がりな子は、案外、王になる」
アルケスが目を見開くと、王太后は微かに笑った。
「怖いから、慎重になる。慎重だから、人を殺さない。殺さないから、長く座る」
それは祝福のようで、呪いのようでもあった。
王太后は続ける。
「ただし、怖さを隠そうとすると、付け込まれる」
アルケスは喉が乾くのを感じた。
「どうすれば」
王太后は答えた。
「怖いままで、立ちなさい」
言葉は簡単だが、十歳には重い。けれど王太后の声は不思議と胸の奥へ沈んだ。沈んで、熱を持った。
その時、遠くで鐘が鳴った。港の鐘ではない。城内の鐘だ。面会の準備が整った合図である。
王太后はアルケスの肩に手を置いた。老いた手は冷たいが、その冷たさが逆に心を落ち着けた。
「あなたは陛下の子。だから矢が飛ぶ」
一拍置き、声が低くなる。
「けれど、矢を受ける盾にもなれる」
その言葉の意味を、アルケスはまだ十分に理解できない。だが盾とは、壊れるためにあるのではない。守るためにある。守るために壊れることを選ぶ。それが王家だ。
王太后は踵を返し、ゆっくりと廊下を去っていった。去り際、衣の裾がわずかに鳴った。その音が、宮廷の時間の音に聞こえた。
アルケスは一人残され、深く息を吸った。胸の痛みは消えない。だが足は動いた。扉の前まで来ると、護衛が扉を開ける。蝋燭の匂いが濃くなる。
控えの間でエルンストは立ち上がった。礼は深いが、ひざまずかない。ひざまずけば、相手を王と認めることになる。彼は王に会いに来たのではない。蒼龍の家の名を生かしに来たのだ。
「第一王子殿下」
丁寧な声だった。だが、その丁寧さの奥に、刃が隠れているのが分かる。礼節とは、刃を布で包む技術だ。
アルケスは答える。
「用件を聞く」
声が少し若い。だが、揺れないように努める。
エルンストは微笑んだ。
「亡き王女殿下の御子に、お目通り叶わぬのは残念でございます」
いきなり本題を突く。様子見の雑談などない。相手は子どもだと知っているから、先に形を崩しに来る。
アルケスは言った。
「ヴィルギニスは会わない」
エルンストの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「なぜ」
問いは短い。だが答え方で盤が決まる。
アルケスは王太后の言葉を思い出す。怖いままで立て。怖さを隠すな。だから彼は、言葉を飾らずに言った。
「今、この国は飢えている。血の話を増やす余裕はない」
エルンストの微笑が、少しだけ深くなる。
「血の話を避けることは、血の話を恐れているということ」
その一言で、空気が冷える。言葉は優しいが、意味は刺す。
アルケスは一瞬、息を止めそうになった。だが止めない。止めれば、隙になる。
「恐れている」
アルケスは言った。
エルンストが目を見開く。
アルケスは続ける。
「恐れているから、増やさない」
沈黙が落ちる。
エルンストは、子どもが「恐れている」と言うとは思っていなかったのだろう。普通なら虚勢を張る。普通なら言い訳をする。だがアルケスは認めた。認めて、その上で選んだと言った。
エルンストはゆっくり息を吐き、杯の水を一口飲んだ。
「……なるほど」
その声には、わずかな愉悦が混ざっていた。こういう子どもは厄介だ。脅せば折れるのではなく、脅したことを理解した上で踏みとどまる。
エルンストは言った。
「では、お願いがございます」
アルケスは答えない。続きを促す沈黙を置く。
「蒼龍の旗を、港に一夜だけ掲げさせていただきたい」
その言葉は、穀倉に火を投げ込むようなものだった。港に蒼龍の旗が立てば、王都は血の噂で沸く。沸けば飢えの怒りも沸く。沸騰した鍋は、誰にも触れない。
アルケスは思う。これが狙いだ。火をつける。火で国を動かす。
だが同時に、火で王を試す。
アルケスは静かに言った。
「陛下に伝える」
エルンストは微笑んだ。伝えると言った時点で、半分勝っている。拒絶ではないからだ。
アルケスは礼をして部屋を出た。廊下に出ると、冷たい空気が肺に入る。息が少し震える。怖い。だが立っている。王太后の言葉が、足の裏から背骨へ伝わるように支えている。
そして塔の窓では、ヴィルギニスが遠い港の旗を見ていた。青地に双龍。その隣に蒼龍が立つ未来を想像し、胸の奥が冷えた。母の旗は、旗として立ってはいけない。旗として立てば、人が死ぬ。母の国はそれで死んだ。
城下ではルカが粥の椀を舐めるようにして飲み干し、シャムに言った。「旗って、そんなに大事なのか」シャムは答えられなかった。旗は布だ。布のくせに、腹より人を動かす。花街で育った子は、布が人を狂わせるのも知っている。絹の帯一本で、女が泣き、男が奪い合う。旗は帯より大きい。狂い方も大きい。
王の秤は、麦だけで揺れているのではなかった。旗という布が、血という見えないものを吊り下げ、秤の針をじわじわと動かしていく。
【5】
城の廊下は、雨上がりのせいでいつもより冷えた匂いがした。石が湿っていると、蝋の匂いが妙に鼻につく。アルケスはその匂いを吸い込みながら、胸の奥のざわつきを押さえた。控えの間を出てきたばかりだというのに、口の中が渇いている。水を飲めば落ち着くのに、今はそんな余裕すら惜しかった。
「殿下」
護衛の声が低く響く。前方、曲がり角の先に王の執務室がある。報告は急ぐべきだ。蒼龍の旗を港に一夜掲げさせてほしい、という願いは、ただの願いではない。油を撒くようなものだ。
アルケスは扉に手をかける直前、ふと足を止めた。廊下の端、窓際の陰に、見慣れぬ侍女が立っていた。顔を伏せ、盆を持っている。盆には白い小皿が二つ。片方には小さな菓子、もう片方には透き通った琥珀色の液体が入った小杯。
(こんな時間に?)
執務室へ運ぶ菓子と酒、というには早すぎる。王が昼間に酒を口にすることはあるが、今は会談の直前だ。ましてや王妃が席を外している。そんな時に「甘いもの」を出すのは、いかにも気を緩ませる仕草だ。
侍女はアルケスに気づくと、慌てたように膝を折った。
「殿下。こちら、陛下へ……」
声が震えている。
アルケスは盆を見た。菓子は見慣れた城のものではない。形が少し不格好で、表面に粉砂糖のような白いものが薄くかかっている。香りが、妙に強い。蜂蜜に、薬草の匂いが混じる。
(薬草?)
アルケスは不意に思い出す。花街で育った第五王子が、香りに敏いと侍従が言っていた。香の強いものは、匂いで誤魔化すことができる。匂いで何を隠すのか。味か。色か。あるいは――
「誰の命で?」
アルケスが問うと、侍女の肩がびくりと跳ねた。
「え……ええと、台所の……」
「台所の誰?」
詰める声ではなく、確かめる声だ。だが侍女はさらに縮こまる。
「……分かりません、伝言で……」
伝言で酒と菓子を運ぶ。そんなことは、城ではあり得ない。仕事は責任の鎖だ。誰が命じたかが分からないものは、誰も運ばない。運ぶ者は「使い捨て」にされるだけだ。
アルケスは盆に目を落とす。小杯の液体は、光を受けて美しく見える。琥珀色。まるで良い蜂蜜酒のようだ。だがその表面に、ほんの小さな油膜のような虹色が見えた。
(……酒に油?)
いや、油膜に見えるだけかもしれない。だが薬草の匂いは確かだ。薬草は、甘さに紛れる。甘いものほど、毒を隠しやすい。
アルケスはすっと手を伸ばし、小杯を鼻先に近づけた。香りが強い。甘い。だが、その奥に苦みの匂いがある。苦みは薬にも毒にもなる。
「殿下……?」
侍女の声がさらに小さくなる。彼女も分かっているのだ。これは普通ではないと。
アルケスは杯を盆に戻し、護衛へ目配せした。
「この侍女を、台所へ連れて行って。誰の指示か確認する」
護衛が即座に動く。侍女は青ざめた。
「ち、違います、私は……」
「あなたが悪いとは言っていない」
アルケスは言った。声は静かだ。
「でも、悪いものは止める」
侍女が連れて行かれると、廊下に残ったのは盆と菓子と酒だけだった。アルケスはそれを見下ろし、胸の奥が冷えるのを感じた。
(毒?)
そんなはずはない、と言いたかった。だがこの国は飢えている。飢えれば人は焦る。焦れば短絡になる。王を倒せば、何かが変わると思う者が出る。血統論が広がればなおさらだ。現王の直系はアルケス一人。王が倒れれば、王位は甥たちに移る可能性が高い。だからこそ、王を狙う理由が生まれる。
アルケスは執務室の扉を開けた。
王は机に向かい、書簡を読んでいた。赤茶の瞳が紙面を追っている。疲れているが、背筋は崩していない。
「陛下」
アルケスは礼をし、すぐに言った。
「控えの間の家令は、蒼龍の旗を港に一夜掲げたいと申しました」
王の指が止まる。
「……旗か」
「はい」
アルケスは続ける。
「それと、陛下に不審な酒と菓子が運ばれそうになりました。台所の指示ではない可能性が高いです」
王の目が鋭くなる。空気が変わる。王は紙を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「菓子?」
「はい。蜂蜜と薬草の匂いが強い」
王は短く息を吐いた。
「……手が早いな」
それは怒りではなく、理解の声音だった。王はこの城の「毒」を知っている。剣よりも静かに、確実に人を殺すものを。
王は護衛に命じた。
「台所と酒蔵を封鎖。配膳の手順を洗い直せ。侍女の動きも記録しろ」
命令が飛ぶ。執務室の空気がさらに冷える。
アルケスは胸の奥が少し震えるのを感じた。怖い。だが同時に、妙に落ち着いてもいた。恐ろしいものは、形を持った瞬間に対処できる。見えない恐ろしさが一番厄介だ。
王は低い声で言った。
「龍星逐鹿は、もう試練ではないな」
アルケスは眉を寄せる。
王は続けた。
「政争になり始めた」
その言葉が落ちたとき、窓の外で風が吹いた。雲がわずかに動き、遠い港の旗が揺れているのが見える気がした。青地に双龍。その隣に、蒼龍を立てたい者がいる。
そしてこの城の中では、甘い匂いで毒を隠す者がいる。
飢えは腹を空かせるだけではない。心も空かせる。空いた心には、毒が入りやすい。
王は机に手を置き、アルケスを見た。
「よく気づいた」
褒め言葉ではない。確認だ。王として、息子の目を確かめる。
アルケスは小さく頷いた。
その時、執務室の外で足音が走った。慌ただしい声がする。
「陛下! 台所の侍女が一人、倒れました!」
王の瞳が細まる。
アルケスの背筋が冷えた。
毒は、もう動いている。
甘い匂いの向こうで。
【6】
廊下の奥から運ばれてきた侍女は、まだ若かった。年の頃は十五かそこら。髪は乱れ、口元には白い泡がかすかに残っている。床に敷かれた布の上に横たえられた体は小さく、呼吸は浅い。見ているだけで胸の奥がざわつく。
「まだ息はあるのか」
王が低く問う。
侍医が膝をついて侍女の脈を取り、瞼を持ち上げる。しばらくして、静かに答えた。
「あります。ただし……強い薬です」
王は眉を寄せる。
「毒か」
侍医は慎重に言葉を選ぶ。
「断言はできませんが、意識を失わせる薬草が混ざっている可能性があります。甘い香りの薬に、少量の苦味のあるものを……」
アルケスはその言葉を聞いて、先ほどの杯を思い出した。蜂蜜の匂い。薬草の香り。あれはやはりただの酒ではない。
「この侍女は」
王が問う。
侍医は首を振った。
「口にしたようです。自分で。恐らく……恐怖から」
毒を運ばされると気づいたのか。あるいは捕らえられる前に黙らされると思ったのか。理由は分からない。ただ一つ確かなのは、この侍女は「運ぶ役」だったということだ。毒を作った者ではない。
王はゆっくりと息を吐いた。
「死なせるな」
侍医は深く頷き、侍女を運ばせた。
廊下に残ったのは、王とアルケス、そして護衛だけだった。蝋燭の火が揺れ、壁に影が伸びる。
王は言った。
「毒は剣より静かだ」
アルケスは黙って聞く。
王は続ける。
「剣は誰が振るったか分かる。毒は違う。毒は影が振るう」
言葉は淡々としているが、その奥には重さがある。王宮の毒は、何代もの王が見てきたものだ。毒は一人で生まれない。必ず、誰かの意志と、誰かの恐れと、誰かの欲が混ざって出来る。
アルケスは言った。
「蒼龍の家令と関係があると思いますか」
王はすぐには答えなかった。窓の外を見る。雲が低い。風は湿っている。
「……分からん」
やがて言った。
「だが、偶然ではない」
蒼龍の家令が来た日に、王の酒に毒が混じる。偶然だと言うには出来すぎている。
アルケスは考える。蒼龍の家令が狙ったのか。それとも、この城の誰かが狙ったのか。もし後者なら、毒を盛った者は「今の王」を消したい者だ。
王が死ねばどうなるか。
王の直系はアルケスだけ。だが血統の順位で言えば、先代王の子であるカストルとポルックスが上に立つ。王太子選抜、龍星逐鹿。その盤が一気に傾く。
アルケスは胸の奥が冷えるのを感じた。
王はその顔を見て、小さく言った。
「顔に出るぞ」
アルケスははっとした。
王は続ける。
「怖いか」
アルケスは少し考え、それから頷いた。
「はい」
王は短く笑った。
「それでいい」
そして、椅子に座り直す。
「怖くない者は、毒を見逃す」
言葉は静かだが、重い。王は息子を慰めているのではない。王としての目を持て、と教えている。
その時、扉が軽く叩かれた。
「入れ」
王が言う。
扉が開き、ポルックスが入ってきた。淡い桃色の髪が灯りを受けて柔らかく光る。後ろにはカストルがいる。カストルの顔色は少し青いが、目は鋭い。
「何かあった」
カストルが言う。問いではなく断言だ。城の空気が変われば、彼は気づく。
ポルックスは一歩下がって立ち、静かに部屋を見渡す。机、杯、廊下の騒ぎ。彼の目は早い。
「毒ですか」
ポルックスが言った。
アルケスは頷く。
「まだ断定ではないが」
カストルの赤い瞳が細くなる。
「誰が」
王は答えない。答えれば、疑いが名前になる。名前になった疑いは消えない。
代わりに王は言った。
「城の中に、毒を扱える者がいる」
カストルは笑った。笑いは鋭い。
「そんなもの、昔からいる」
言葉は子どものものではない。王家の子として、幼い頃から毒の話を聞いてきた者の声音だ。
ポルックスが兄を見た。兄の肩が少し強張っている。怒りと興奮で呼吸が早い。ポルックスは何も言わない。ただ静かに、机の上の杯を見る。
「その酒、まだ残ってますか」
王が頷く。
ポルックスは近づき、杯を覗き込む。指先で匂いを扇ぎ、鼻先で香りを取る。
「蜂蜜ですね」
言う。
「それに……苦草」
アルケスが驚く。
「分かるのか」
ポルックスは肩をすくめる。
「穀倉の薬草庫で見ました」
そして少し笑う。
「飢饉のときは、毒も薬も同じ棚に並びます」
その言葉に、王は少しだけ目を細めた。
城の外では、炊き出しの煙が上がっている。麦は足りない。人は飢えている。そんな時代では、薬草も毒も同じ顔をしている。
カストルが言った。
「蒼龍の家令は」
王が答える。
「控えの間だ」
カストルの口元がわずかに歪む。
「ちょうどいい」
アルケスが眉を寄せる。
「何が」
カストルは静かに言った。
「毒が出た日に、亡国の家令がいる」
そして赤い瞳で王を見た。
「話を聞く理由は十分だ」
部屋の空気が少し変わった。
龍星逐鹿は、もはや試練ではない。飢饉、旗、毒。
王宮の盤は、ゆっくりと、だが確実に動き始めている。
そしてその盤の上に立っているのは、まだ十歳の王子たちだった。
【7】
執務室の空気は、蝋燭の火が揺れるたびにわずかに軋んだ。毒の話が出た瞬間から、部屋の温度が変わっている。甘い蜂蜜の香りはもう残っていないはずなのに、誰もがその匂いを嗅いだ気になっていた。毒という言葉は、それだけで空気を汚す。
王は椅子に深く腰掛けたまま、机上の杯を見ている。杯はまだそこにある。毒が入っているかもしれない酒が、まるで何事もないように置かれている。
「蒼龍の家令は控えの間だ」
王はもう一度言った。言葉は落ち着いているが、意味は重い。
カストルはその言葉を聞くと、ほんの少し口元を歪めた。
「毒が出た日に、亡国の家令がいる」
赤い瞳が細くなる。
「偶然とは思えない」
アルケスはすぐに反論しようとした。だが言葉が喉に引っかかる。確かに、出来すぎている。蒼龍の家令が来た日。王の酒に毒。二つの出来事は別かもしれない。だが宮廷では、別の出来事は簡単に一つの物語になる。
ポルックスは黙って杯を見ていた。兄の言葉に反応しない。ただ、机の上に落ちた酒の跡を指先でなぞるように見つめる。
「兄上」
ポルックスが言った。
「毒を盛る者は、目立たない者です」
カストルが眉を寄せる。
「何が言いたい」
ポルックスは顔を上げた。
「蒼龍の家令は、目立ちすぎています」
静かな声だった。
「毒を盛る者は、もっと静かです」
部屋に沈黙が落ちる。
王はその言葉を聞いて、わずかに頷いた。ポルックスの考えは正しい。毒は影の武器だ。目立つ者が振るう刃ではない。
カストルは少し苛立ったように息を吐いた。
「だが関係がないとも言えない」
ポルックスは否定しない。ただ言う。
「関係があるなら、もっと巧妙です」
そして少しだけ笑う。
「こんな分かりやすい毒ではなく」
王は杯を指先で押した。酒がわずかに揺れる。
「毒の種類は」
侍医が答える。
「眠りを誘う薬草に、少量の苦毒を混ぜたものと思われます」
カストルが言った。
「殺す毒ではない」
侍医は頷く。
「恐らく」
王の赤茶の瞳が細くなる。
「つまり」
アルケスが言う。
「陛下を殺すのではなく、眠らせる」
ポルックスが続ける。
「そして、その隙に何かをする」
部屋の空気が重くなる。
その時、外から慌ただしい足音が聞こえた。扉が叩かれる。
「陛下!」
護衛の声だ。
「入れ」
扉が開く。
「穀倉の前で騒ぎが起きています!」
アルケスが顔を上げた。
「騒ぎ?」
護衛は息を切らしている。
「炊き出しの列で盗みがありました」
王の眉がわずかに動く。
「盗みは珍しくない」
護衛は首を振った。
「違います。盗人が……」
言葉を探すように口を閉じる。
「処刑されそうになっています」
カストルがすぐに立ち上がった。
「誰に」
護衛は答える。
「民衆にです」
その瞬間、ポルックスの目が動いた。
飢饉の国では、盗みは罪だ。だが飢えた民は、罪を裁く権利も欲しがる。怒りの行き場が必要だからだ。
王は低く言った。
「穀倉の前か」
護衛が頷く。
「はい」
王は少し考え、それから言った。
「アルケス」
アルケスは背筋を伸ばす。
「行け」
カストルが口を開く。
「私も」
王は頷いた。
「好きにしろ」
そしてポルックスを見る。
「お前もだ」
ポルックスは静かに頭を下げた。
三人の王子が扉へ向かう。廊下を出ると、城の空気が変わっているのが分かる。下の方からざわめきが上がってくる。怒号、悲鳴、押し合う音。
アルケスは階段を下りながら胸の鼓動を感じた。
毒。
旗。
そして盗人。
すべてが同じ日に起きている。偶然ではない気がする。だが何が繋がっているのかは見えない。
城門を出ると、穀倉の前には人だかりが出来ていた。炊き出しの鍋がひっくり返り、粥が地面に広がっている。
その中央で、少年が一人、地面に押さえつけられていた。
ルカだった。
シャムがその前に立っている。護衛が周囲を押し止めているが、群衆の怒りは簡単には引かない。
「盗人だ!」
誰かが叫ぶ。
「穀倉の麦を盗んだ!」
別の声が重なる。
「飢えた子どもから盗んだんだ!」
怒号が膨らむ。
アルケスが一歩前に出る。
「離れろ」
声は大きくない。だが王子の声だ。群衆がざわめく。
その時、カストルが前へ出た。
赤い瞳が群衆を見渡す。
「盗人は」
静かな声だった。
「誰だ」
押さえつけられているルカが顔を上げる。血が唇から流れている。
「……俺じゃない」
掠れた声だった。
群衆が怒鳴る。
「嘘だ!」
「麦袋を持ってた!」
その瞬間、シャムが言った。
「違う」
声は小さいが、はっきりしていた。
「その袋は」
シャムは地面の袋を指差す。
「炊き出しの余りだ」
群衆がざわめく。
カストルは袋を見る。確かに穀倉の袋とは違う。粗末な布袋だ。
ポルックスが静かに言った。
「炊き出しの粥は、余れば捨てます」
カストルの瞳が細くなる。
「つまり」
ポルックスは言う。
「盗んだのは」
群衆の奥を見る。
「別の誰か」
その瞬間、人だかりの奥で誰かが走った。
逃げる影。
護衛が叫ぶ。
「止めろ!」
だが影は人混みを割って走る。
そしてその男の袖から、小さな瓶が落ちた。
瓶の口から、甘い香りが漂った。
蜂蜜と薬草の匂い。
アルケスの背筋が冷えた。
毒は、城の中だけではなかった。
【8】
瓶は石畳に当たって乾いた音を立て、くるりと転がった。栓が外れたのか、口元からとろりとした液がわずかに滲み出る。湿った空気の中に、甘い匂いが広がった。蜂蜜に似た香りだが、その奥にかすかな苦みが潜んでいる。アルケスは、執務室で嗅いだ匂いと同じだとすぐに気づいた。
「待て!」
護衛が叫び、逃げた男を追う。だが炊き出しの列は密集している。人が押し合い、鍋の周りで転んだ者が叫び、混乱は一気に膨らんだ。追い手はすぐには進めない。
ポルックスがしゃがみ込み、落ちた瓶を拾った。鼻先に近づけると、すぐに眉をひそめる。
「同じ匂いですね」
カストルが低く言う。
「城の酒と同じか」
ポルックスは頷いた。
「恐らく」
アルケスの胸の奥が冷たくなる。毒は城の中だけではない。穀倉の前でも動いている。もしこの薬が炊き出しの鍋に入れられていたら――。
シャムもそれを考えたらしく、鍋を見て顔色を変えた。
「粥は?」
炊き出しの女が震えながら答える。
「……まだ配ってないよ」
鍋の中には、まだ半分ほど粥が残っていた。湯気は立っているが、誰も手を伸ばさない。匂いが広がったせいか、人々は本能的に距離を取っている。
ポルックスが鍋の縁に近づき、匂いを確かめた。
「……入ってはいません」
小さく言った。
アルケスは胸をなで下ろした。だが安心は長く続かない。毒を持っていた男は逃げた。狙いは何だったのか。粥か、穀倉か、それとも――。
「ルカ」
シャムが地面に押さえつけられていた少年を起こした。ルカは唇を切っているが、意識はある。
「お前、あの男見たか」
ルカは息を整えながら頷いた。
「……並んでた」
「列に?」
「うん」
ルカは袖で血を拭いながら言う。
「麦袋持ってた」
カストルが眉を寄せる。
「麦袋?」
「穀倉のじゃない」
ルカは首を振る。
「小さい袋」
アルケスとポルックスが顔を見合わせる。毒の瓶、麦袋、炊き出しの列。すべてが少しずつ繋がり始めている。
カストルが群衆を見渡した。
「その男は」
ルカが指を伸ばす。
「……あっち」
指した先には、人混みが割れた跡だけが残っていた。逃げた男はもう見えない。
護衛が戻ってきた。
「見失いました」
息を切らしている。
カストルは舌打ちをしそうになったが、飲み込んだ。群衆の前で苛立ちを見せれば、火に油だ。
ポルックスが静かに言った。
「狙いは炊き出しではないかもしれません」
アルケスが振り向く。
「どういう意味だ」
ポルックスは瓶を軽く振る。
「これだけの薬を、粥一鍋に入れても効果は弱い」
そして穀倉を見た。
「でも、麦袋に入れたら」
言葉を切る。
アルケスの背筋に冷たいものが走る。穀倉の麦に毒が混じればどうなるか。炊き出しどころではない。王都中に毒が広がる。
カストルが言った。
「穀倉を確認しろ」
護衛が走る。門の中へ消える。
群衆のざわめきが少しずつ広がる。人は敏い。何かが起きていると察すると、噂は瞬く間に広がる。
「毒だってよ」
誰かが囁く。
「炊き出しに毒」
「王城が隠してたんだ」
言葉は歪んで増えていく。
アルケスは歯を食いしばる。噂は止められない。だが放置すれば、恐怖は暴動に変わる。
その時、シャムが一歩前に出た。
「違う」
大きな声ではない。だがはっきりしていた。
群衆が一斉に彼を見る。金の髪が濡れた光を受けて輝く。赤い瞳がまっすぐ人々を見る。
「粥は安全だ」
誰かが怒鳴る。
「証拠は!」
シャムは少しだけ迷った。ほんの一瞬だ。そして鍋に近づいた。
「おい」
アルケスが止めようとする。
だがシャムは椀を取り、鍋から粥をすくった。そして、躊躇なく口に運ぶ。
群衆が息を呑む。
湯気の中で、シャムは粥を飲み込んだ。
何も起きない。
シャムはもう一口食べる。
「……ほら」
静かに言う。
「大丈夫だ」
その言葉は不思議な力を持っていた。群衆のざわめきが少しずつ収まる。人は理屈より先に、目の前の行動に引きずられる。
カストルはその様子を見て、目を細めた。
(……愚かだ)
だが同時に思う。
(使える)
ポルックスは兄を横目で見た。兄の目が冷たく光っている。
アルケスは胸の奥が痛むのを感じた。シャムは命を張ったわけではない。ただの粥だ。それでも、あの一口で群衆は静まった。
護衛が戻ってきた。
「穀倉は無事です!」
アルケスは深く息を吐いた。
だが安心は一瞬だった。
護衛は続けた。
「ただし――」
言葉が詰まる。
カストルが言う。
「言え」
護衛は答えた。
「麦袋が一つ、なくなっています」
沈黙が落ちた。
穀倉の麦が一袋消えた。それが何を意味するか。
ポルックスが小さく言った。
「毒は……まだ動いています」
風が吹き、穀倉の扉がわずかに軋んだ。灰色の空の下で、王都の空気はゆっくりと重くなっていく。
【9】
穀倉の前に、重い沈黙が落ちた。
群衆はまだ完全には散っていない。炊き出しの粥をすすりながら、互いに目配せをしている。恐怖と疑いが、薄い湯気のように漂っていた。
麦袋が一つ消えた。
その事実は、毒の瓶よりも重い。
もしその袋に毒が混ぜられていれば、炊き出しどころではない。王都のあちこちで、同じ麦が使われる。パン、粥、酒。人はそれを食べ、何も知らずに倒れる。
それはもう事故ではない。
都市そのものを揺らす毒だ。
カストルは穀倉の門を見つめていた。赤い瞳は冷たく澄んでいる。
「袋はいつ消えた」
護衛が答える。
「今朝の確認ではありました」
「今朝、か」
カストルは小さく呟く。
つまり、今日だ。
蒼龍の家令が来た日。毒の酒が見つかった日。そして麦袋が消えた日。
偶然ではない。
カストルはゆっくりと群衆の方を振り返った。人々は王子の視線に気づくと、慌てて目を逸らす。
飢えた民は従順ではない。だが王家の血には、まだ本能的な畏れが残っている。
カストルは一歩前に出た。
「聞け」
声は大きくない。だが不思議と遠くまで通った。
「麦袋が一つ盗まれた」
ざわめきが広がる。
カストルは続ける。
「だが毒は穀倉には入っていない」
群衆のざわめきが少しだけ弱まる。
「粥も安全だ」
シャムが飲んだ椀を見せる。
それだけで、人の顔色は変わる。
人は理屈よりも証拠を信じる。
だが、安心は長く続かない。
誰かが叫んだ。
「じゃあ毒はどこだ!」
群衆の奥から声が飛ぶ。
「盗まれた袋だ!」
「麦に毒が入ってる!」
恐怖は形を得ると、すぐに増殖する。
アルケスは歯を食いしばった。
(まずい)
恐怖が広がれば、次は疑いが広がる。
疑いは必ず「敵」を作る。
敵が出来れば、人は攻撃する。
そして飢饉の国では、攻撃はすぐ暴動になる。
その時だった。
ルカが言った。
「……違う」
声は小さい。だが近くの者は聞いた。
「袋は盗まれてない」
カストルの視線が鋭くなる。
「何を見た」
ルカは躊躇した。シャムが肩を軽く叩く。
「言え」
ルカは唾を飲み込んだ。
「男は……袋を持ってなかった」
ざわめきが止まる。
「持ってたのは……」
ルカは手で形を作る。
「小さい箱」
ポルックスがすぐに反応した。
「箱?」
「うん」
ルカは頷く。
「木の箱」
アルケスの胸が強く鳴る。
木箱。
穀倉の麦は袋だ。箱には入れない。
つまり――
ポルックスが言った。
「毒は麦ではない」
カストルが続ける。
「別のものだ」
群衆がざわめく。
「じゃあ何だ!」
カストルは答えない。
答えはまだない。
だが一つだけ分かる。
毒を持った男は、麦を盗んだのではない。
別の「何か」を運んでいた。
その時、穀倉の門の中から兵が走ってきた。
「殿下!」
息を切らしている。
「穀倉の裏門が開いていました!」
アルケスが振り向く。
「裏門?」
「はい」
兵は続けた。
「そこから外へ出た足跡があります」
カストルが低く言った。
「どこへ向かっている」
兵は答えた。
「……王城です」
空気が凍った。
アルケスの背筋に冷たいものが走る。
毒は穀倉を狙ったのではない。
城を狙っている。
王城。
そこには誰がいるか。
王。
王太后。
王妃。
そして王子たち。
ポルックスが小さく呟いた。
「……囮だ」
アルケスが振り向く。
「何?」
ポルックスは言う。
「穀倉の騒ぎは囮」
そして静かに続ける。
「本命は城の中」
カストルの赤い瞳が鋭く光る。
「毒は、もう運ばれている」
その言葉と同時に、遠くで鐘が鳴った。
王城の警鐘だった。
群衆が一斉に城を振り向く。
灰色の空の下で、鐘の音は不吉に響いた。
アルケスの胸が強く鳴る。
【10】
警鐘の音は、雨雲の低い空にぶつかって鈍く広がった。王城の塔から鳴る鐘は、火事でも祝祭でもない、ただ一つ――城内の異変を告げるときのものだ。
穀倉の前に集まっていた群衆がざわめく。
誰もが城の方を見上げた。
アルケスは息を呑む。
城の中で何かが起きている。
「城へ戻る」
カストルが言った。
命令ではない。だがそれに逆らう者はいない。
ポルックスはすでに歩き出していた。
護衛が道を開く。
シャムは一度だけルカを振り返った。
「家に帰れ」
「でも」
「いいから」
シャムの声は強かった。ルカは口を閉じる。
王子たちは城門へ向かった。
雨はまだ降っていない。だが空気は湿り、遠くで雷が鳴っている。嵐が近い。
城門をくぐったとき、アルケスは異様な静けさを感じた。
警鐘は鳴っているのに、人の動きが少ない。
「妙だな」
カストルが低く言う。
普通なら兵や侍従が慌ただしく走り回っているはずだ。だが廊下は静かだった。
ポルックスが床を見た。
「足跡が少ない」
石床は湿っている。雨のせいで靴の跡が残りやすい。
だが――
「さっきの足跡は……裏門から一直線でした」
ポルックスが指差す。
足跡は城の奥へ続いている。
アルケスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
その先にあるのは、王の執務室ではない。
「……塔」
ポルックスが言った。
カストルの赤い瞳が細くなる。
塔。
そこに住んでいる者は一人しかいない。
ヴィルギニス。
カストルが歩き出した。
石の階段を登る足音が響く。
塔の階段は狭い。
窓が少なく、薄暗い。
途中で、倒れている兵が見つかった。
「気絶しているだけです」
ポルックスが脈を確かめる。
「眠り薬……さっきの毒と同じでしょう」
アルケスの胸がざわつく。
狙いは王ではないのか。
それとも――
塔の最上階の扉が見えた。
扉は半開きだった。
カストルが手をかける。
「ヴィルギニス」
声をかける。
返事はない。
扉を押し開ける。
部屋の中は薄暗い。
窓が開いている。
湿った風がカーテンを揺らしていた。
そして――
ヴィルギニスは、窓の前に立っていた。
青みがかった髪が風に揺れている。
背中は静かだった。
「……何だ」
カストルが言う。
ヴィルギニスは振り向いた。
表情は落ち着いている。
むしろ、少し呆れたように見えた。
「遅かったですね」
静かな声だった。
アルケスが目を見開く。
「無事なのか」
ヴィルギニスは頷く。
「毒を持った男が来ました」
部屋の隅を見る。
そこには、男が一人倒れていた。
腕を後ろに縛られている。
カストルの眉が上がる。
「お前がやったのか」
ヴィルギニスは首を傾けた。
「兵が眠っていたので」
それだけ言う。
説明はそれだけだった。
ポルックスが男を調べる。
袖の中から小さな木箱が出てきた。
ルカが言っていたものだ。
ポルックスが箱を開ける。
中には――
小瓶が三つ。
琥珀色の液体。
蜂蜜と薬草の匂い。
アルケスの胸が冷える。
「同じ毒だ」
カストルが言う。
ポルックスは首を振った。
「少し違います」
瓶を光にかざす。
「濃い」
短く言う。
ヴィルギニスが窓の外を見たまま言った。
「それは眠り薬ではありません」
三人が彼を見る。
ヴィルギニスの瞳は静かだった。
「殺す毒です」
部屋の空気が凍る。
カストルが低く言った。
「誰を」
ヴィルギニスは少し考えるようにしてから答えた。
「恐らく……私でしょう」
アルケスが息を呑む。
ポルックスが男を見る。
「蒼龍の家令の使いですか」
ヴィルギニスはゆっくり首を振った。
「違います」
そして窓の外を見たまま言った。
「蒼龍の家令は、もっと上手くやります」
その言葉は静かだったが、妙に確信があった。
カストルの赤い瞳が光る。
「つまり」
ヴィルギニスが振り向く。
青い髪が揺れた。
「蒼龍とは別の誰かが」
少し間を置く。
「私を殺そうとしている」
外で雷が鳴った。
今、盤の上で最初に血を流そうとしているのは――
第四王子、ヴィルギニスだった。
【11】
塔の中は、死のあと特有の静けさに包まれていた。
外では雨が石屋根を打ち続けている。だが塔の上では、その音さえ遠くに感じられた。
床に横たわる男の身体からは、すでに生の気配が抜けている。
ポルックスは男の瞼をそっと閉じた。
「……終わりました」
その声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。
だが指先はほんのわずかに冷えている。
カストルはしばらく男を見下ろしていたが、やがてふっと息を吐いた。
「つまらないな」
誰に向けた言葉でもない。
けれど空気はわずかに張り詰めた。
「せっかく捕まえたのに、何も聞けない」
カストルの声は苛立ちを含んでいる。
しかし怒鳴りはしない。ただ静かに怒っている。
ポルックスはそれを知っていた。
兄が一番危険なのは、この声のときだ。
「兄上」
やわらかな声で呼ぶ。
「この男は捨て駒です。喋らせるつもりなど最初からない」
カストルの赤い瞳が細くなる。
「それはわかっている」
そしてゆっくり振り向いた。
「だから腹が立つ」
雷が鳴った。
窓の外で白い閃光が走る。
その瞬間、ヴィルギニスの青い髪がわずかに光った。
アルケスはその姿を見て、胸の奥がざわつくのを感じていた。
今、城の中で最も危険な立場にいるのはヴィルギニスだ。
毒を向けられた。
理由ははっきりしている。
血だ。
アクルックス前王朝の血。
亡びた王家の最後の影。
「……」
アルケスは言葉を選んだ。
「ヴィルギニス」
青い瞳が向く。
「お前を狙う理由は、血だと言ったな」
「はい」
短い答えだった。
アルケスは続ける。
「だが、今この国は飢えている」
窓の外を指す。
雨はまだ止まない。
穀倉は空になり始めている。
「こんなときに、隣国と戦になるようなことをする者がいるのか?」
ヴィルギニスはしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「いるでしょう」
アルケスが眉を寄せる。
「なぜ」
ヴィルギニスは窓の外を見たまま答えた。
「飢饉は国を弱くします」
雨音が強くなる。
「弱い国は、奪われます」
ポルックスが小さく息を吐いた。
「……確かに」
そして続ける。
「穀物の輸入はアクルックスに頼っています」
アルケスがうなずく。
「商船は三日に一度入港する」
ポルックスは静かに言った。
「その船が止まれば、王都は二ヶ月持ちません」
部屋の空気が冷えた。
カストルが笑った。
だがそれは楽しそうな笑いではない。
「なるほど」
赤い瞳が光る。
「つまり」
ゆっくり言う。
「この国を飢えさせたい者がいる」
雷が鳴った。
アルケスの背筋に冷たいものが走る。
「……城の中に」
ポルックスが頷く。
「ええ」
そして続ける。
「そしてその者は」
男の死体を見下ろした。
「毒を使う」
カストルの口元が歪む。
「卑怯だな」
ヴィルギニスが静かに言う。
「戦では普通です」
カストルは肩をすくめた。
「僕は嫌いだ」
そして死体を軽く蹴った。
「こういうやり方は」
ポルックスは何も言わない。
兄が苛立っているのを理解している。
だがヴィルギニスは静かだった。
「王宮は昔からこうです」
淡々とした声。
「血と毒で動く」
アルケスが彼を見る。
「お前は平気なのか」
ヴィルギニスは少し考えた。
「平気ではありません」
そして続ける。
「ですが、慣れています」
その言葉は重かった。
亡命王女の子。
生まれたときから政治の影の中にいた。
カストルが言う。
「嫌な人生だな」
ヴィルギニスはわずかに笑った。
「兄上の人生ほどではありません」
カストルの眉がぴくりと動く。
ポルックスが慌てて言った。
「ヴィルギニス」
だがカストルは怒らなかった。
むしろ少し楽しそうだった。
「続けろ」
ヴィルギニスは言う。
「兄上は血統最上位です」
赤い瞳を見る。
「ですが身体が弱い」
沈黙。
雷。
カストルはゆっくり笑った。
「知っている」
そして低く言う。
「だからこそ腹が立つ」
拳を握る。
「この程度の毒で僕を止められると思われていることが」
その声には怒りがあった。
だが同時に――誇りがあった。
ポルックスはその横顔を見ていた。
兄は病弱だ。
だが弱くはない。
むしろ、誰よりも王になろうとしている。
アルケスは静かに思った。
龍星逐鹿。
王を決める試練。
だが本当の試練は――
もう始まっている。
毒。
飢饉。
隣国。
宮廷の闇。
そして五人の王子。
そのときだった。
塔の下から足音が響いた。
石の階段を上がる音。
鎧の音。
護衛だ。
扉が開いた。
「アルケス殿下!」
兵士が息を切らしていた。
「王より急ぎの命です!」
アルケスが振り向く。
「何だ」
兵士は言った。
「港です」
息を整えながら続ける。
「アクルックスの商船が――」
雨の音が強くなる。
兵士の声が震えた。
「入港を拒否しました」
部屋の空気が凍った。
ポルックスの手が止まる。
アルケスが聞き返す。
「……拒否?」
兵士は頷いた。
「はい」
そして言った。
「麦を降ろさないと」
雷が鳴った。
カストルの赤い瞳が、ゆっくりと細くなる。
「なるほど」
低い声だった。
「面白くなってきた」
窓の外では雨が王都を打ち続けていた。
【13】
謁見の間は静まり返っていた。
高い天井に吊された燭台の火が揺れ、金の装飾がわずかに光を返している。貴族たちは壁際に並び、誰も声を出さない。石床の上に立つ少年の声だけが、その広い空間に落ちていた。
ポルックスは帳面を閉じたまま、アクルックスの使節団を見ていた。
使節の長は、ゆっくりと眉を上げる。
目は笑っているが、完全には笑っていない。
「取引、と」
低い声だった。
「ええ」
ポルックスは頷く。
「貴国は麦を持っている」
「我々は鉄を持っている」
謁見の間の空気がわずかに動いた。
鉄。
それは王国が誇る資源だった。北の鉱山から採れる鉄は質が高く、武具にも農具にも使われる。
使節の長は少しだけ微笑む。
「鉄は確かに魅力的です」
そして続ける。
「ですが、我が国にも鉄はあります」
ポルックスは静かに言った。
「ありますね」
一拍。
「ですが」
帳面を開く。
「我が国の鉄は、武器に向いています」
その言葉に、貴族たちの何人かが視線を上げた。
使節の長も沈黙する。
ポルックスは続けた。
「農具ではなく」
「武器です」
そして帳面を閉じる。
「貴国は今、北方で戦をしていますね」
謁見の間の空気が凍った。
それは事実だった。
アクルックスの新王朝は、まだ国内を完全にまとめきれていない。北方の貴族が反乱を起こしている。
使節の長は、わずかに笑みを崩した。
「情報が早い」
ポルックスは答えない。
ただ静かに立っている。
玉座の上で現王が口を開いた。
「王国は争いを望まない」
穏やかな声だった。
「だが隣国が飢えるのも望まない」
使節の長はその言葉を受け止めた。
しばらく沈黙が続く。
そしてゆっくり言う。
「……麦の量を増やしましょう」
貴族たちの空気が一瞬動いた。
使節は続ける。
「ただし」
「鉄の輸出は制限付きで」
現王は頷いた。
「当然だ」
その短いやり取りで、交渉の流れはほぼ決まった。
ポルックスはその様子を静かに見ていた。
王城の窓の外では、雲の隙間からわずかに光が差している。雨は止み、空はまだ重いが、確かに変わり始めていた。
謁見が終わると、貴族たちは静かに退いた。
廊下に出たポルックスの横に、アルケスが並ぶ。
「やりすぎだ」
アルケスが小さく言った。
ポルックスは答える。
「必要でした」
「外交の席だ」
「だからです」
アルケスは少し笑った。
「お前は」
窓の外を見る。
「王より冷たい」
ポルックスは否定しなかった。
「兄が王になるなら」
静かに言う。
「私は秤になります」
その言葉にアルケスは何も言わなかった。
少し離れた廊下では、シャムが柱にもたれていた。
交渉の話は全部は聞こえない。
だが空気はわかる。
城の中の人間は、飢えを数字で語る。
城の外の人間は、腹で語る。
その差を、シャムはまだ埋められない。
その頃、穀倉の前ではカストルが立っていた。
体調は良くない。
だが彼は鍵を手にしていた。
倉庫の扉が開く。
中には麦袋が並んでいる。
兵が言った。
「殿下、これで少しは」
カストルは首を振る。
「少しじゃ足りない」
赤い瞳が麦袋を見つめる。
「この国は」
静かに言う。
「まだ飢えている」
その夜、王城の上に月が出た。
雲はまだ多い。
だが雨は降らない。
港ではアクルックスの船が新しい帆を張っていた。
次の麦を運ぶ準備が始まっている。
そして遠い辺境では――
湿地の水が、ゆっくりと新しい川筋へ流れ始めていた。
細い流れ。
だが確かに動く水。
その流れは、やがてこの国を変えていく。
王都の塔の上で、鐘が鳴った。
国はまだ危機の中にある。
だが、その中で静かに形を変え始めていた。
【14】
春の終わり、王都の空は久しぶりに青かった。
長く続いた雨雲は北へ押し流され、王城の塔の上を軽い風が渡っていく。石壁の上には乾いた光が落ち、城門の前に積み上げられた麦袋が淡く金色に見えた。
アクルックスの船は三度、港に入った。
最初の船は麦を運び、二度目の船は塩と乾燥肉を運び、三度目の船は――鉄を積んで帰っていった。
王都の市場はまだ静かだったが、飢えの声は少しずつ遠ざかっている。炊き出しの列は短くなり、穀倉の扉が開く回数も減っていた。
城の高い塔の上から、それを見ていたのはアルケスだった。
翡翠の髪を風が撫でる。遠くの港に並ぶ船を見つめながら、彼は小さく息を吐いた。
「……助かった」
その言葉は誰に向けたものでもない。
だが後ろから声がした。
「まだ終わっていません」
振り返ると、ポルックスが立っていた。相変わらず帳面を抱えている。
「穀倉の計算では、来年の収穫まで油断できません」
アルケスは少し笑う。
「お前はいつもそうだ」
「秤ですから」
ポルックスは淡々と言った。
その言葉にアルケスは何も返さなかった。
ただ港を見下ろす。
船の帆には青地に双龍の紋章。
アクルックスの旗だった。
かつてその国には、別の王家があった。
それを思い出したのは、たぶんこの城でただ一人――ヴィルギニスの存在を知っている人間たちだけだ。
その頃、王城の庭ではシャムが子供たちと話していた。
城下から働きに来ている下働きの少年たちだ。
彼らは麦袋を運び終え、木陰で休んでいた。
「王子ってさ」
少年の一人が言う。
「毎日何してるんだ?」
シャムは少し考えた。
そして答える。
「……わからない」
少年たちが笑う。
「わからないのかよ」
シャムも少し笑った。
花街で育った頃、王子の生活など想像もしなかった。
だが今ここにいる。
豪奢な城、整った食卓、重い沈黙。
それでも城門の外には、まだ炊き出しの鍋がある。
シャムは思った。
国はまだ完全には救われていない。
同じ頃、穀倉ではカストルが静かに立っていた。
体調は相変わらず良くない。
だが彼は倉庫の鍵を握っている。
「全部、数えたか」
兵が頷く。
「はい」
カストルは麦袋を見渡した。
以前より多い。
だが足りない。
赤い瞳が少し細くなる。
「……まだ少ない」
兵は何も言えなかった。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づく。
アルケスだった。
二人の視線が交わる。
同じ十歳。
同じ年に生まれた王子。
だが立場は違う。
アルケスが言った。
「外交はまとまった」
カストルは短く答える。
「知っている」
沈黙。
そしてカストルが続けた。
「だが」
倉庫を見渡す。
「これでは足りない」
アルケスは頷く。
「だから龍星逐鹿だ」
その言葉に、カストルの瞳がわずかに揺れた。
龍星逐鹿――王太子選抜。
王が五人の王子に課した試練。
国を救う者が、王となる。
廊下の窓から春の風が吹き込む。
遠くの空は澄んでいた。
だが王城の奥では、別の話が静かに進んでいた。
王太后の部屋。
老いた女は窓辺に座り、港を見下ろしていた。
白髪を丁寧に結い、背筋はまだまっすぐだ。
その前に立つのは現王だった。
「アクルックスは動きました」
王は言う。
王太后はゆっくり頷く。
「当然です」
静かな声だった。
「飢えた国は、取引に従う」
王は黙った。
王太后は続ける。
「だが」
窓の外を見る。
「龍の加護は戻っていない」
遠くの畑はまだ弱い。
雨は止んだが、収穫は不確かだ。
王太后の視線がゆっくり王へ向く。
「だから王を選ぶのです」
王は答えなかった。
ただ窓の外を見る。
港の船。
麦袋。
そしてその向こうの海。
その海の向こうにはアクルックスがある。
そしてさらに遠くには――かつての王家を失った国がある。
その王女の子が、今は辺境にいる。
ヴィルギニス。
王は静かに呟いた。
「国はまだ揺れている」
王太后は微笑んだ。
「だから面白い」
春の風が城を通り抜ける。
王子たちはまだ十歳だった。
だがその一年は、すぐに終わる。
やがて夏が来て、秋が来て、冬が来る。
そして次の春――
五人の少年は十一歳になる。
龍星逐鹿は終わっていない。




