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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十ニ章

【1】


 港の空気が、わずかに変わった。


 それは誰かが叫んだからでも、鐘が鳴ったからでもない。

 ただ、帆を畳む音が違った。


 アクルックスの船は、これまでと同じようにゆっくり岸へ寄せている。青地に双龍の旗は湿った風を受け、重く揺れていた。


 しかしその後ろに続く小舟は違う。


 静かだった。


 帆を半ば下ろし、まるで影のように港へ入ってくる。


 そして掲げられている旗は――白。


 そこに描かれているのは、蒼い龍だった。


 単龍。


 それを見たとき、塔の上でヴィルギニスは動かなかった。


 ただ瞬きを一度した。


 それだけだった。


 だがその胸の奥で、遠く忘れていた音が鳴る。


 それは記憶ではない。

 むしろ、記憶の欠片だった。


 白い旗。

 蒼い龍。


 母の国の旗。


 その旗が、この港にある。


 ヴィルギニスは窓枠を握った。

 石が冷たい。


「……残っていたのか」


 呟きは、ほとんど息に近かった。


 母は、滅びたと言っていた。


 王宮は燃えた。

 王族は害された。


 生き残りは、ほとんどいない。


 それが、ヴィルギニスが知っている世界の形だった。


 だが、あの旗は。


 あれは間違えようがない。


 母が何度も語った紋章。

 白地に蒼龍。


 優しい王家の旗。


 その頃、穀倉の前では人々の視線が港へ向いていた。


 誰も声を出さない。


 船は珍しくない。


 だが旗が違う。


 それが、人の胸をざわつかせる。


 ルカは目を細めた。


「なんだ、あれ」


 シャムは答えなかった。


 ただ港を見ている。


 遠くで旗が揺れている。


 白い旗。


 そして青い旗。


 二つの旗が、同じ港で揺れている。


 シャムの胸の奥に、理由の分からない感覚が生まれた。


 それは恐れでも不安でもない。


 ただ、何かが動いたという感覚だった。


 穀倉の前では、カストルも港を見ていた。


 小さな体が、夕暮れの中で影のように立っている。


 ポルックスがその横に来た。


「見えるか」


 カストルは言う。


「見える」


 ポルックスは少し黙った。


 それから言った。


「旗が違う」


 カストルは頷く。


「そうだな」


 ポルックスは視線を船から離さない。


「アクルックスではない」


 カストルは小さく笑った。


「分かっている」


 少し考える。


 それから言う。


「面倒だ」


 ポルックスは兄を見る。


 その顔には怒りも不安もない。


 ただ、計算している顔だった。


 港の船が岸へ着く。


 人影が動く。


 兵が並ぶ。


 双龍の旗の船から降りてくるのは、いつもの商人たちだ。


 だが白い旗の船から降りてきたのは――


 一人の男だった。


 年は四十ほど。


 黒い外套を着ている。


 そして、その背後に小さな箱を持つ従者。


 港の兵がざわめく。


 アクルックスの兵が、その男を止めた。


 言葉を交わしている。


 遠くて聞こえない。


 しかし様子が違う。


 アクルックスの兵は、簡単には通さない。


 男は動かない。


 ただ何かを差し出した。


 それは封書だった。


 蝋が押されている。


 紋章。


 白地に蒼龍。


 それを見たとき、塔の上でヴィルギニスはゆっくり目を閉じた。


 胸の奥で、遠い声が響いた。


 母の声。


「もし」


 昔、母は言った。


「もし蒼龍の旗を見ることがあれば」


 ヴィルギニスはその言葉の続きを覚えていない。


 覚えていないはずなのに。


 なぜか今、胸の奥でその続きを思い出しそうになる。


 港では動きが起きた。


 アクルックスの兵が、道を開けた。


 白旗の男が歩き出す。


 港から王都へ向かう石道を。


 その歩き方は静かだった。


 急ぎもしない。


 怯えもしない。


 まるでここが自分の土地であるかのように。


 その姿を、穀倉の前からシャムが見ていた。


 ルカが言う。


「誰だ、あれ」


 シャムは答えない。


 ただ男を見ている。


 その男は一度だけ顔を上げた。


 視線が城へ向く。


 塔。


 その窓。


 そこにヴィルギニスがいることを、知っているかのように。


 ヴィルギニスは窓辺に立ったまま、動かなかった。


 風が吹く。


 双龍の旗が揺れる。


 蒼龍の旗も揺れる。



【2】


 白旗の男は、港の石道を濡れたまま歩いてきた。足取りは速くない。濡れた外套の裾が踵に触れ、そこから雫が落ちる。その雫が石畳に吸い込まれるまでの間、いま王都に残っている時間の薄さを見せつけるようだった。


 青地に双龍の旗がはためく港の喧噪は背後に置き去りにされ、男の周囲だけが奇妙に静かだった。


 人々が道を空けるのは、貴人の威圧ではなく、何か名づけがたい気配のせいだった。白地に蒼龍。滅びたはずの旗を掲げて歩く者には、こちらが勝手に足を止めてしまう。死者の名を不用意に呼べないのと似ている。


 城へ向かう坂道の途中で、男は一度だけ立ち止まって空を見た。雲はまだ厚い。雨が終わりきらない空気の中に、彼は息を吐き、胸元の封書を指で確かめた。封蝋には蒼龍が押されている。新王朝が嫌悪する印。


 だがその封蝋は、憎しみよりも先に「約束」を思い出させた。王家とは、約束で作られた檻であり、約束でしか守れない檻でもある。男はふたたび歩き出した。


 穀倉の前では、群衆が港を見ていた。


 さっきまで「麦を出せ」と喉の奥で渦巻いていた不満は、白旗の出現で一瞬、別の形を取った。


 飢えは目の前の麦で燃えるが、恐れは目の前の旗で冷える。ルカは口を開けたまま、白い旗の男を指差した。「あれ、なんだよ」シャムは答えなかった。


 答えがないからではなく、言葉が間違った瞬間に現実が変わる気がした。花街で育った子は、言葉を慎重に使う。怒鳴り声ひとつで場が荒れ、酒の匂いが濃くなり、殴り合いが始まることを知っている。


 今の王都は花街より静かだが、静かな分だけ壊れるときは速い。シャムは護衛の気配を背に感じ、金髪を隠すように外套の襟を少し立てた。似ている、という囁きが聞こえたとき、彼はいつも一瞬だけ息を止める。似ているのは顔か、血か、それとも民が求める幻か。求める者の側が決めることだ。


 カストルは穀倉の門前から動かなかった。白旗の男が坂を上がるにつれ、群衆の視線はそちらへ吸い寄せられ、穀倉の扉は一時的に忘れられた。


 飢えが別の種類の飢えへ置き換わる。人は食糧だけでなく、物語も食べる。滅びた王家の旗が現れたなら、その続きを知りたがる。カストルはその欲望を感じ取っていた。赤い瞳が薄暗い夕空を映し、目の奥で何かが燃える。


 彼の胸にあるのは不安ではなく、焦りだった。


 血統は上でも、世界はそれを待ってくれない。王の器は血に刻まれている、と誰かが言った。では器が小さかったらどうする。器は大きくできるのか。


 カストルは己の体の小ささを恥じるより、体が小さいことを知っている他人の視線を憎んだ。視線は彼の胸を焼く。


 ポルックスは兄の横に立ったまま、白旗の男の歩幅を数えていた。歩幅の揺れがない。


 荷車の上で育った者の歩き方ではない。騎士の歩き方でもない。宮廷の歩き方だ。


 言葉より先に身体が身分を語る。ポルックスはそういうものを信じないようでいて、信じていた。盤の上で一番厄介なのは、駒の形を変えずに動く駒だ。


 塔の窓でヴィルギニスは、白旗が城門に近づくのを見ていた。双龍の旗は現王朝の旗、蒼龍は滅びた王家の旗。母の言葉が喉元まで上がってくる。


 もし蒼龍の旗を見ることがあれば──その続きを、彼は思い出せないのではなく、思い出さないようにしてきたのだと気づく。思い出すことは、母をこの国へ連れてきた先代王の決断と、母が背負っていた誇りと、そして母が捨てたはずの国の亡霊を同時に抱きしめることになる。抱きしめた瞬間、自分はこの国の王子でいられなくなる。


 ヴィルギニスは窓枠から指を離し、爪の間に残った石の冷たさを確かめた。冷たい。母の手もいつも冷たかった。


 病のせいだと侍女は言ったが、本当は国の温度だったのではないかと思うときがある。滅びた国の者は、いつまでも冬の中にいる。


 白旗の男が城門をくぐったとき、門番の兵がいったん槍を交差させた。形式だ。


 けれど形式ほど刃になるものはない。男は封書を差し出し、名を名乗った。


「エルンスト。蒼龍の家の末の家令でございます」


 家令。王ではなく、王の家に仕える者。生き残るのはいつも王ではない。王の周りの者だ。門番が封蝋を見て顔色を変える。蒼龍の印は禁忌に近い。だが彼らは命令に従う。


 命令とは、責任を分配するための道具だ。門番は封書を受け取り、走るように内側へ消えた。男は門前で待った。


 雨の匂いが石から立ち上り、城内の蝋の匂いと混ざる。待つ時間の間に、王城は彼を飲み込むか、吐き出すかを決める。


 執務室では現王が封書を受け取った。封蝋の蒼龍を見た瞬間、王の目がほんのわずかに細くなる。


 怒りではない。疲れでもない。計算だ。王は封を切らずに宰相へ目を向けた。宰相は沈黙した。


 沈黙は反対の形だ。王妃は席を外している。王妃の不在は偶然ではない。


 王が見せたいものと、見せたくないものがある。王は封を切り、書簡に目を走らせた。文字は丁寧で、古い書式だ。礼節がある。礼節は武器になる。


 礼節で刃を包めば、刺された側は痛みを訴えにくい。


「蒼龍の家に連なる者が、ここに生きております。亡き王女殿下の御子、ヴィルギニス殿下に謁見を願い奉ります」


 王は最後の一文まで読み終え、紙を机に置いた。紙の音が乾いていた。雨の日の乾いた音は、異物のように響く。


「来たか」それは誰に向けた言葉でもなく、ただ過去へ向けた言葉だった。先代王が亡命王女を迎えた日の決断、その決断が今になって帳尻を合わせに来る。


 政治とはいつも遅れてくる。雨が止んだ頃に洪水が来るように。


 城下では人々が白旗の話を始めていた。麦の話より速く広がる。噂は飢えより軽いが、飢えより遠くへ飛ぶ。炊き出しの列で女が言う。


「蒼い龍の旗よ。昔の王家だって」別の女が囁く。


「亡命王女がいたでしょう。先代王が迎えた」老人が唾を飲む。「滅んだはずが、まだ生きていたのか」そう言う声の中で、ルカはシャムの袖を引いた。


「お前、あれ知ってるのか」シャムは首を振る。「知らない」嘘ではない。彼は花街で王家と無縁だった。だが今は王家の中にいる。知らないでは済まない。


 シャムは穀倉の門を見た。門は閉じている。閉じているからこそ、あの木の向こうが想像を育てる。


 麦の向こうにあるのは権力であり、権力の向こうにあるのは血だ。血は見えないからこそ、人は血に名前をつける。純血、穢れ、濃い、薄い。そういう言葉は、腹が減るとよく増える。


 夜、王城の廊下でポルックスはカストルの歩調を確かめながら歩いた。兄は平静を装っているが、呼吸が浅い。怒りと緊張が体を削っている。


 ポルックスは言わない。言えば兄は怒る。怒りは兄の鎧だ。鎧は重いが、鎧がなければ兄は壊れる。


 カストルは窓の外を見た。城門の灯りが揺れ、白旗の男の影がまだ中庭にある。「また血か」カストルが吐き捨てるように言った。ポルックスは静かに答える。「血は便利です」カストルが振り向く。「何が便利だ」ポルックスは目を伏せない。


「責任を血に押し付けられるから」


 その言葉にカストルは一瞬、言葉を失った。幼い弟が、あまりに正確なことを言う。


 カストルは怒りたかった。けれど怒りは、今夜は自分を守ってくれない気がした。


 そのころ塔の窓でヴィルギニスは、夜の中庭に立つ白旗の男を見下ろしていた。男は空を見ていた。


 雨が止んだ空を。彼はこの国の空を見て、何を思うのか。母の国の空と比べるのか。


 それとも、母の死を思うのか。ヴィルギニスはふと、自分が母の死を「病」としてしか覚えていないことに気づく。


 病は個人のものだ。けれど亡命者の死は、個人だけのものではない。母はここで生き延び、ここで死んだ。死んだことで、この国の妃になった。


 生きている間より、死んでから政治になった。国葬の時、彼は幼く、ただ白い花を見た。花はきれいだった。きれいだからこそ残酷だった。死はきれいにできる。生はきれいにできない。


 王は夜更け、ひとりで書簡を読み直した。ヴィルギニスに会わせるか、会わせないか。


 会わせればアクルックスの現王朝は何を思う。


 会わせなければ蒼龍の残党はどう動く。だが真に恐ろしいのは、外の反応より内の反応だ。甥たち。


 血統最上位のカストル。影のようなポルックス。民の中に立つシャム。塔に立つヴィルギニス。


 彼らはすでに盤の上にいる。王の直系はアルケスだけ。王はそれを知っている。自分が倒れれば、国は再び血の話に沈む。


 王は手を止め、窓の外を見た。雨はまた降り出しそうだった。雲が厚い。


 龍の加護が弱まっている、という囁きが、今夜はひどく現実味を帯びる。加護が弱まったのではない。人の欲が強くなったのだ。欲が強くなれば、加護は薄く見える。


 翌日、王は決める。


 だがその決め方は、誰に見せる決め方かによって変わる。王は静かに呼んだ。「アルケスを」そして一拍置いて、「ヴィルギニスも」王が呼べば、世界は動く。


 動いた世界の責任は王が取る。


 そういうことになっている。だが本当は、責任はいつだって薄く分配される。


 兵が槍を握り、宰相が署名し、神官が祈り、王子が笑う。責任は薄くなるのに、罪だけは濃くなる。


 城下ではルカがシャムに言った。


「なあ、お前、王子のままでいられるのか」


 シャムは答えられなかった。王子のままでいるとは、何を意味するのか。贅沢な食卓に座り、民の列を眺め、護衛に守られ、そして誰かの飢えに責められる。花街の孤児だった頃、彼は腹が減ることだけを恐れていた。


 今は別の飢えを恐れている。人の目が飢える。噂が飢える。国が飢える。飢えは満たしても、すぐ別の飢えが生まれる。


 こうして王都は、麦の秤の上にもう一つの重りを載せる。白地に蒼龍。滅んだはずの旗。死者の名を呼ぶようにして現れた者。


 秤はきしみ、少しだけ傾く。その音は小さい。だが、聞こえる者にははっきり聞こえる。盤面を読む者には、次の一手の音として。


【3】


 王が「アルケスを」と言い、ひと呼吸置いて「ヴィルギニスも」と続けたとき、侍従は一瞬だけ目を伏せた。硬い顔のまま廊下へ下がり、扉が閉まると、執務室には紙の匂いと湿った石の匂いだけが残った。王は机上の書簡を指で押さえた。封蝋の蒼龍は、押されたまま冷えている。消えたはずのものは、消えたままでいてくれない。消えたはずの旗が港に立ったように、消えたはずの約束は、ある日ふいに形を得て戻ってくる。


 呼びに行った侍従が戻るまでの間、王は窓の外を見た。雲は厚いが、雨は落ちていない。雨が止んでいる時間の方が、かえって不穏だった。降るべきものが降るのを止めている。止めた分だけ、別の場所で溜まっている。その溜まりが、いつか破れて濁流になる。王は濁流を知っている。兄の死が濁流だった。行幸の橋が裂け、濁った水に王が消えた。水はいつも、取り返しのつかないものを運んでいく。


 扉が開いた。先に入ってきたのはアルケスだった。翡翠の髪が整えられている。姿勢も、視線も、王の子としての形を崩さない。彼は王の前で礼をし、何も言わずに立った。続いてヴィルギニスが入る。青みがかった髪は光を吸い、夜の水面のように落ち着いて見えた。彼も礼をしたが、その動きは最小限で、余計な音を立てない。二人が並ぶと、執務室の空気が少し変わる。王の直系と、王の甥。呼吸の仕方からして違う。


 王は机上の書簡を指で弾いた。乾いた音がした。


「港に来た」


 アルケスが頷く。「白い旗ですか」


 ヴィルギニスは黙っている。王はその沈黙を責めない。沈黙は、知らないふりではなく、知っているふりでもない。沈黙は、言葉が政治になるのを理解している者の癖だ。先代王は沈黙の使い方がうまかった。だから国は安寧した。王は自分がそうでないことを知っている。自分は沈黙すると、迷っているように見える。迷いは王の最大の弱点だ。だから、言葉を選んで発する。


「蒼龍の家の家令と名乗った」


 アルケスが眉をわずかに動かす。「蒼龍……旧王家の」


 王が頷く。「亡命王女の家の者だと言う」


 アルケスの視線が、ほんの少しヴィルギニスへ向く。ヴィルギニスは視線を返さない。返せば、視線は会話になり、会話は噂になる。彼はそれを避ける。避けることで、もっと疑われることも知っている。だが疑われるのは慣れている。疑いは彼の影だ。


 王は続けた。「謁見を求めている。ヴィルギニス、お前にだ」


 部屋の空気が一段冷えた。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を走る。アルケスは息を吸い、吐いた。十歳の子がする呼吸ではない。思考の呼吸だ。ヴィルギニスは一度だけ瞬きをした。


「会うべきか」


 王は問いとして言ったが、問いではなかった。王はもう半分決めている。決めていないふりをして、二人の反応を測っている。龍星逐鹿の盤面は執務室にもある。王が問うているのは、蒼龍の家令と会うかどうかではなく、二人がどういう王の形を見せるかだった。


 アルケスはすぐに答えない。唇を少し結び、机上の地図へ視線を落とす。港、穀倉、王都の街路。赤い印。青い印。黒い印。彼の頭の中に、さっき見た炊き出しの湯気が重なる。麦が薄い粥になって配られていた。あれを見れば、会うか会わないかで国の腹が決まると分かる。


「会うべきです」


 アルケスは言った。声は静かだったが、言い切った。


 王が目を細める。「理由は」


 アルケスは「友好」と言わなかった。友好は方便だ。飢えた国に友好は響かない。彼は別の言葉を選ぶ。


「会わないと、外が勝手に物語を作ります」


 王は小さく息を吐いた。アルケスは続ける。


「蒼龍の旗が立った。会わなかった。そうなれば、蒼龍は拒まれた、という噂になります。拒まれれば、反発が生まれます。反発は、いまの飢えに火をつける」


 王都の空気は薄い。火がつけば燃え広がる。アルケスはそれを見ている。彼は王の子だが、血統の議論では弱い。だからこそ、火のつき方に敏感だ。火がつけば自分が燃える。燃えないために、火の元を移す。そういう思考が早い。


 王は視線をヴィルギニスへ移した。


「お前は」


 ヴィルギニスは少し間を置いた。間を置くのは臆病ではない。言葉を重くするための間だ。彼は静かに言った。


「会えば、彼らは生き残りを示す。会わねば、彼らは殉死を演じる」


 アルケスがわずかに眉を動かす。十歳の口から出る言葉ではない、と一瞬思い、すぐに理解する。ヴィルギニスは十歳でも、母の国の崩壊の話を背負って育っている。崩壊の言葉は子どもを早く大人にする。


 王は問い返す。「どちらが危うい」


 ヴィルギニスは言った。「殉死は強いです。生き残りは弱い。弱いものは利用できます。強いものは利用されます」


 王は椅子に背を預けた。少しだけ笑った。笑いは薄い。「なるほど」


 執務室の外では、侍従が慌ただしく動く音がした。王は扉の外に向かって短く命じた。「蒼龍の家令を控えの間へ。酒も食も出すな。水だけ」


 それは礼を欠いた扱いではない。むしろ線を引く扱いだ。恩を売らない。恩を売れば借りが生まれる。借りは今すでにある。麦という形で。これ以上借りを増やさない。王は麦の秤を見ている。


 アルケスはその命令を聞き、わずかに息を整えた。ヴィルギニスは表情を変えない。だがその胸の奥で、母の旗が揺れているのを感じている。


 王は続けた。「会談の場は公開しない。だが噂は止めぬ。止めれば増える。増えるなら、こちらが形を与える」


 王が言葉を止めたとき、窓の外で風が吹いた。雲が一瞬だけ薄くなり、港の方向に淡い光が落ちる。双龍の旗と蒼龍の旗が同じ光を受けた、と誰かが言えば、それはまた物語になる。龍の加護が戻った、という物語にもなる。王はそういう偶然を利用する者だ。兄ほど上手くはないが、上手くなろうとしている。


「ヴィルギニス」


 王が呼ぶ。名を呼ぶだけで、責任が乗る。


 ヴィルギニスは「はい」とだけ答える。


「お前は会わない」


 アルケスが目を見開く。ヴィルギニスは瞬き一つしない。


 王は淡々と言った。「お前を会わせれば、蒼龍の家令が勝つ。彼らの目的はお前の顔を見ることだ。顔を見れば、彼らは『生きている』と言える。生きていると言えれば、外は動く。外が動けば、この国の飢えに別の飢えが重なる。耐えられぬ」


 アルケスが言いかける。「でも――」


 王は手を上げ、遮る。「会わせるのは、アルケスだ」


 アルケスは言葉を失った。自分が蒼龍の家令と会う。自分は現王の子。蒼龍とは関係がない。その無関係さが武器になる。王はそれを選んだ。蒼龍の家令が求めるのはヴィルギニスの血の証明。ならば血の外側を出す。血を見せずに場を終わらせる。場を終わらせれば、麦の交渉だけが残る。残すべきは麦だ。王の秤の針が、そこを指している。


 ヴィルギニスの胸の奥に、冷たいものが落ちた。会わないことは守りであり、追放の予兆でもある。守るために遠ざける。遠ざけるために守る。王宮はいつもその逆転をする。母もそうだった。守るために国を捨てた。国を捨てたことで守られた。守られたことで、死んでから政治になった。


 王は最後に言った。「アルケス、会談では三つだけ答えろ。麦の礼。友好の礼。だがヴィルギニスには触れるな。触れれば血の話になる」


 アルケスは小さく頷いた。喉が乾いた。十歳の喉だ。乾きやすい。だが言葉に出すな、と自分に言い聞かせる。王子の恐れは、恐れとして見せると餌になる。


 王が二人を下がらせると、廊下の空気が一気に冷たく感じられた。アルケスは歩きながら、指先が震えるのを外套の中で握り込んだ。ヴィルギニスは何も言わない。言えば、言葉が自分を縛る。縛られるより、沈黙で逃げ道を作る。逃げ道があることが、彼の生存だった。


 城下では、夜の炊き出しが始まっていた。薄い粥の湯気が立ち、ルカは椀を両手で持ってすすっている。シャムは少し離れたところから見ていた。王城の中で動いている血の話は、ここには届かない。届くのは麦の話だけだ。だが麦の話だけで生きられるなら、国はもう安寧している。安寧していないから、血の話が増える。


 ルカがシャムを見上げ、口の端を汚したまま言った。「なあ、あれ、どうなるんだ。白い旗のやつ」


 シャムは答えられなかった。答えの代わりに、遠くの港を見る。夜の闇の中で、旗は見えない。見えないものの方が、よく人を怖がらせる。見えない血、見えない毒、見えない加護。見えないものが増えた国は、いつか見える破滅を呼ぶ。


 その夜、王城の控えの間で蒼龍の家令エルンストは、水だけを与えられて座っていた。水を飲み、口元を拭いもせずに笑った。彼は知っている。会えないのではない。会わせないのだ。会わせないという選択をした王は、弱い王ではない。むしろ強い。強い王には、別の方法で近づく必要がある。エルンストは封書の残り香のように、母の国の亡霊を身にまといながら、次の手を考え始めていた。


 王の秤は揺れている。揺れながら、まだ落ちない。だが秤の上には、麦と血と噂が乗っている。重いものばかりだ。重いものの上で、十歳の王子たちは、まだ自分の体重の軽さを知らない。


【4】


 控えの間は、龍神院の奥を思わせるほどに静かだった。石壁は湿気を含み、蝋燭の匂いが薄く漂う。窓は高く小さく、外の空は切り取られた布切れのように見えるだけだ。そこに座るエルンストは、水の入った杯を指先で弄びながら、笑いとも息ともつかぬものを漏らした。蒼龍の封蝋を押した手紙が受け取られた時点で、彼の旅は半ば成功している。拒まれれば殉死を演じるつもりだった。だが拒まれてはいない。ただ「会わせぬ」と選ばれただけだ。選ぶ者がいる国は、まだ折れていない。折れていない国ほど、扱いづらい。


 その頃、廊下の角を曲がったところで、アルケスは足を止めていた。胸の奥が、息を吸うたびに少し痛む。痛みは恐れの形をしている。王の子であることは、守りにもなるが矢面にもなる。まして相手は蒼龍の家令だ。滅びた王家の亡霊を担いだ者は、言葉の節々に死者を忍ばせる。油断すれば、こちらの息が詰まる瞬間を嗅ぎつけ、そこへ刃を差し込むだろう。


「アルケス」


 背後から声がかかった。振り向くと、王太后がそこにいた。年老いた身体は小さいが、背筋は伸び、衣の襞に一点の乱れもない。灰色の髪はきっちりとまとめられ、耳元の真珠が灯りを受けて白く光っている。歳月は彼女の頬に皺を刻んだが、その皺は崩れではなく刻印のようで、むしろ威を増していた。


「お祖母上」


 アルケスが礼をすると、王太后はゆっくりと頷く。


「顔が固い」


 その一言は責めではなく、観察だった。王太后は息子の王よりも、先に人の揺らぎを見つける。揺らぎは破綻の前触れだと、長年の宮廷で学んできたのだろう。


「蒼龍の者と会うのですってね」


 アルケスは、言葉を探してから頷いた。


「陛下の命です」


 王太后は目を細めた。陛下、と言わせる距離が、彼女には少し可笑しいのかもしれない。彼女はこの国の母であり、王の母であり、先代王の母でもある。血の中心にいる者は、血に縛られている者をよく知っている。


「会うのはあなたで、ヴィルギニスではない」


 王太后は言った。


「賢い選び方ね」


 その賢さが、冷たさと紙一重であることも、彼女は知っている。


「怖い?」


 問いは短い。


 アルケスは答えないまま、廊下の先を見た。石壁の向こうに控えの間があり、そこにエルンストがいる。相手は老人ではない。だが自分より遥かに多くの死を見てきた目をしているはずだ。


「……怖いです」


 嘘はつかなかった。王太后は嘘に気づく。


 王太后は、細い指で自分の袖口を整えながら言った。


「怖がりな子は、案外、王になる」


 アルケスが目を見開くと、王太后は微かに笑った。


「怖いから、慎重になる。慎重だから、人を殺さない。殺さないから、長く座る」


 それは祝福のようで、呪いのようでもあった。


 王太后は続ける。


「ただし、怖さを隠そうとすると、付け込まれる」


 アルケスは喉が乾くのを感じた。


「どうすれば」


 王太后は答えた。


「怖いままで、立ちなさい」


 言葉は簡単だが、十歳には重い。けれど王太后の声は不思議と胸の奥へ沈んだ。沈んで、熱を持った。


 その時、遠くで鐘が鳴った。港の鐘ではない。城内の鐘だ。面会の準備が整った合図である。


 王太后はアルケスの肩に手を置いた。老いた手は冷たいが、その冷たさが逆に心を落ち着けた。


「あなたは陛下の子。だから矢が飛ぶ」


 一拍置き、声が低くなる。


「けれど、矢を受ける盾にもなれる」


 その言葉の意味を、アルケスはまだ十分に理解できない。だが盾とは、壊れるためにあるのではない。守るためにある。守るために壊れることを選ぶ。それが王家だ。


 王太后は踵を返し、ゆっくりと廊下を去っていった。去り際、衣の裾がわずかに鳴った。その音が、宮廷の時間の音に聞こえた。


 アルケスは一人残され、深く息を吸った。胸の痛みは消えない。だが足は動いた。扉の前まで来ると、護衛が扉を開ける。蝋燭の匂いが濃くなる。


 控えの間でエルンストは立ち上がった。礼は深いが、ひざまずかない。ひざまずけば、相手を王と認めることになる。彼は王に会いに来たのではない。蒼龍の家の名を生かしに来たのだ。


「第一王子殿下」


 丁寧な声だった。だが、その丁寧さの奥に、刃が隠れているのが分かる。礼節とは、刃を布で包む技術だ。


 アルケスは答える。


「用件を聞く」


 声が少し若い。だが、揺れないように努める。


 エルンストは微笑んだ。


「亡き王女殿下の御子に、お目通り叶わぬのは残念でございます」


 いきなり本題を突く。様子見の雑談などない。相手は子どもだと知っているから、先に形を崩しに来る。


 アルケスは言った。


「ヴィルギニスは会わない」


 エルンストの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。


「なぜ」


 問いは短い。だが答え方で盤が決まる。


 アルケスは王太后の言葉を思い出す。怖いままで立て。怖さを隠すな。だから彼は、言葉を飾らずに言った。


「今、この国は飢えている。血の話を増やす余裕はない」


 エルンストの微笑が、少しだけ深くなる。


「血の話を避けることは、血の話を恐れているということ」


 その一言で、空気が冷える。言葉は優しいが、意味は刺す。


 アルケスは一瞬、息を止めそうになった。だが止めない。止めれば、隙になる。


「恐れている」


 アルケスは言った。


 エルンストが目を見開く。


 アルケスは続ける。


「恐れているから、増やさない」


 沈黙が落ちる。


 エルンストは、子どもが「恐れている」と言うとは思っていなかったのだろう。普通なら虚勢を張る。普通なら言い訳をする。だがアルケスは認めた。認めて、その上で選んだと言った。


 エルンストはゆっくり息を吐き、杯の水を一口飲んだ。


「……なるほど」


 その声には、わずかな愉悦が混ざっていた。こういう子どもは厄介だ。脅せば折れるのではなく、脅したことを理解した上で踏みとどまる。


 エルンストは言った。


「では、お願いがございます」


 アルケスは答えない。続きを促す沈黙を置く。


「蒼龍の旗を、港に一夜だけ掲げさせていただきたい」


 その言葉は、穀倉に火を投げ込むようなものだった。港に蒼龍の旗が立てば、王都は血の噂で沸く。沸けば飢えの怒りも沸く。沸騰した鍋は、誰にも触れない。


 アルケスは思う。これが狙いだ。火をつける。火で国を動かす。


 だが同時に、火で王を試す。


 アルケスは静かに言った。


「陛下に伝える」


 エルンストは微笑んだ。伝えると言った時点で、半分勝っている。拒絶ではないからだ。


 アルケスは礼をして部屋を出た。廊下に出ると、冷たい空気が肺に入る。息が少し震える。怖い。だが立っている。王太后の言葉が、足の裏から背骨へ伝わるように支えている。


 そして塔の窓では、ヴィルギニスが遠い港の旗を見ていた。青地に双龍。その隣に蒼龍が立つ未来を想像し、胸の奥が冷えた。母の旗は、旗として立ってはいけない。旗として立てば、人が死ぬ。母の国はそれで死んだ。


 城下ではルカが粥の椀を舐めるようにして飲み干し、シャムに言った。「旗って、そんなに大事なのか」シャムは答えられなかった。旗は布だ。布のくせに、腹より人を動かす。花街で育った子は、布が人を狂わせるのも知っている。絹の帯一本で、女が泣き、男が奪い合う。旗は帯より大きい。狂い方も大きい。


 王の秤は、麦だけで揺れているのではなかった。旗という布が、血という見えないものを吊り下げ、秤の針をじわじわと動かしていく。


【5】


 城の廊下は、雨上がりのせいでいつもより冷えた匂いがした。石が湿っていると、蝋の匂いが妙に鼻につく。アルケスはその匂いを吸い込みながら、胸の奥のざわつきを押さえた。控えの間を出てきたばかりだというのに、口の中が渇いている。水を飲めば落ち着くのに、今はそんな余裕すら惜しかった。


「殿下」


 護衛の声が低く響く。前方、曲がり角の先に王の執務室がある。報告は急ぐべきだ。蒼龍の旗を港に一夜掲げさせてほしい、という願いは、ただの願いではない。油を撒くようなものだ。


 アルケスは扉に手をかける直前、ふと足を止めた。廊下の端、窓際の陰に、見慣れぬ侍女が立っていた。顔を伏せ、盆を持っている。盆には白い小皿が二つ。片方には小さな菓子、もう片方には透き通った琥珀色の液体が入った小杯。


(こんな時間に?)


 執務室へ運ぶ菓子と酒、というには早すぎる。王が昼間に酒を口にすることはあるが、今は会談の直前だ。ましてや王妃が席を外している。そんな時に「甘いもの」を出すのは、いかにも気を緩ませる仕草だ。


 侍女はアルケスに気づくと、慌てたように膝を折った。


「殿下。こちら、陛下へ……」


 声が震えている。


 アルケスは盆を見た。菓子は見慣れた城のものではない。形が少し不格好で、表面に粉砂糖のような白いものが薄くかかっている。香りが、妙に強い。蜂蜜に、薬草の匂いが混じる。


(薬草?)


 アルケスは不意に思い出す。花街で育った第五王子が、香りに敏いと侍従が言っていた。香の強いものは、匂いで誤魔化すことができる。匂いで何を隠すのか。味か。色か。あるいは――


「誰の命で?」


 アルケスが問うと、侍女の肩がびくりと跳ねた。


「え……ええと、台所の……」


「台所の誰?」


 詰める声ではなく、確かめる声だ。だが侍女はさらに縮こまる。


「……分かりません、伝言で……」


 伝言で酒と菓子を運ぶ。そんなことは、城ではあり得ない。仕事は責任の鎖だ。誰が命じたかが分からないものは、誰も運ばない。運ぶ者は「使い捨て」にされるだけだ。


 アルケスは盆に目を落とす。小杯の液体は、光を受けて美しく見える。琥珀色。まるで良い蜂蜜酒のようだ。だがその表面に、ほんの小さな油膜のような虹色が見えた。


(……酒に油?)


 いや、油膜に見えるだけかもしれない。だが薬草の匂いは確かだ。薬草は、甘さに紛れる。甘いものほど、毒を隠しやすい。


 アルケスはすっと手を伸ばし、小杯を鼻先に近づけた。香りが強い。甘い。だが、その奥に苦みの匂いがある。苦みは薬にも毒にもなる。


「殿下……?」


 侍女の声がさらに小さくなる。彼女も分かっているのだ。これは普通ではないと。


 アルケスは杯を盆に戻し、護衛へ目配せした。


「この侍女を、台所へ連れて行って。誰の指示か確認する」


 護衛が即座に動く。侍女は青ざめた。


「ち、違います、私は……」


「あなたが悪いとは言っていない」


 アルケスは言った。声は静かだ。


「でも、悪いものは止める」


 侍女が連れて行かれると、廊下に残ったのは盆と菓子と酒だけだった。アルケスはそれを見下ろし、胸の奥が冷えるのを感じた。


(毒?)


 そんなはずはない、と言いたかった。だがこの国は飢えている。飢えれば人は焦る。焦れば短絡になる。王を倒せば、何かが変わると思う者が出る。血統論が広がればなおさらだ。現王の直系はアルケス一人。王が倒れれば、王位は甥たちに移る可能性が高い。だからこそ、王を狙う理由が生まれる。


 アルケスは執務室の扉を開けた。


 王は机に向かい、書簡を読んでいた。赤茶の瞳が紙面を追っている。疲れているが、背筋は崩していない。


「陛下」


 アルケスは礼をし、すぐに言った。


「控えの間の家令は、蒼龍の旗を港に一夜掲げたいと申しました」


 王の指が止まる。


「……旗か」


「はい」


 アルケスは続ける。


「それと、陛下に不審な酒と菓子が運ばれそうになりました。台所の指示ではない可能性が高いです」


 王の目が鋭くなる。空気が変わる。王は紙を置き、ゆっくりと立ち上がった。


「菓子?」


「はい。蜂蜜と薬草の匂いが強い」


 王は短く息を吐いた。


「……手が早いな」


 それは怒りではなく、理解の声音だった。王はこの城の「毒」を知っている。剣よりも静かに、確実に人を殺すものを。


 王は護衛に命じた。


「台所と酒蔵を封鎖。配膳の手順を洗い直せ。侍女の動きも記録しろ」


 命令が飛ぶ。執務室の空気がさらに冷える。


 アルケスは胸の奥が少し震えるのを感じた。怖い。だが同時に、妙に落ち着いてもいた。恐ろしいものは、形を持った瞬間に対処できる。見えない恐ろしさが一番厄介だ。


 王は低い声で言った。


「龍星逐鹿は、もう試練ではないな」


 アルケスは眉を寄せる。


 王は続けた。


「政争になり始めた」


 その言葉が落ちたとき、窓の外で風が吹いた。雲がわずかに動き、遠い港の旗が揺れているのが見える気がした。青地に双龍。その隣に、蒼龍を立てたい者がいる。


 そしてこの城の中では、甘い匂いで毒を隠す者がいる。


 飢えは腹を空かせるだけではない。心も空かせる。空いた心には、毒が入りやすい。


 王は机に手を置き、アルケスを見た。


「よく気づいた」


 褒め言葉ではない。確認だ。王として、息子の目を確かめる。


 アルケスは小さく頷いた。


 その時、執務室の外で足音が走った。慌ただしい声がする。


「陛下! 台所の侍女が一人、倒れました!」


 王の瞳が細まる。


 アルケスの背筋が冷えた。


 毒は、もう動いている。


 甘い匂いの向こうで。


【6】


 廊下の奥から運ばれてきた侍女は、まだ若かった。年の頃は十五かそこら。髪は乱れ、口元には白い泡がかすかに残っている。床に敷かれた布の上に横たえられた体は小さく、呼吸は浅い。見ているだけで胸の奥がざわつく。


「まだ息はあるのか」


 王が低く問う。


 侍医が膝をついて侍女の脈を取り、瞼を持ち上げる。しばらくして、静かに答えた。


「あります。ただし……強い薬です」


 王は眉を寄せる。


「毒か」


 侍医は慎重に言葉を選ぶ。


「断言はできませんが、意識を失わせる薬草が混ざっている可能性があります。甘い香りの薬に、少量の苦味のあるものを……」


 アルケスはその言葉を聞いて、先ほどの杯を思い出した。蜂蜜の匂い。薬草の香り。あれはやはりただの酒ではない。


「この侍女は」


 王が問う。


 侍医は首を振った。


「口にしたようです。自分で。恐らく……恐怖から」


 毒を運ばされると気づいたのか。あるいは捕らえられる前に黙らされると思ったのか。理由は分からない。ただ一つ確かなのは、この侍女は「運ぶ役」だったということだ。毒を作った者ではない。


 王はゆっくりと息を吐いた。


「死なせるな」


 侍医は深く頷き、侍女を運ばせた。


 廊下に残ったのは、王とアルケス、そして護衛だけだった。蝋燭の火が揺れ、壁に影が伸びる。


 王は言った。


「毒は剣より静かだ」


 アルケスは黙って聞く。


 王は続ける。


「剣は誰が振るったか分かる。毒は違う。毒は影が振るう」


 言葉は淡々としているが、その奥には重さがある。王宮の毒は、何代もの王が見てきたものだ。毒は一人で生まれない。必ず、誰かの意志と、誰かの恐れと、誰かの欲が混ざって出来る。


 アルケスは言った。


「蒼龍の家令と関係があると思いますか」


 王はすぐには答えなかった。窓の外を見る。雲が低い。風は湿っている。


「……分からん」


 やがて言った。


「だが、偶然ではない」


 蒼龍の家令が来た日に、王の酒に毒が混じる。偶然だと言うには出来すぎている。


 アルケスは考える。蒼龍の家令が狙ったのか。それとも、この城の誰かが狙ったのか。もし後者なら、毒を盛った者は「今の王」を消したい者だ。


 王が死ねばどうなるか。


 王の直系はアルケスだけ。だが血統の順位で言えば、先代王の子であるカストルとポルックスが上に立つ。王太子選抜、龍星逐鹿。その盤が一気に傾く。


 アルケスは胸の奥が冷えるのを感じた。


 王はその顔を見て、小さく言った。


「顔に出るぞ」


 アルケスははっとした。


 王は続ける。


「怖いか」


 アルケスは少し考え、それから頷いた。


「はい」


 王は短く笑った。


「それでいい」


 そして、椅子に座り直す。


「怖くない者は、毒を見逃す」


 言葉は静かだが、重い。王は息子を慰めているのではない。王としての目を持て、と教えている。


 その時、扉が軽く叩かれた。


「入れ」


 王が言う。


 扉が開き、ポルックスが入ってきた。淡い桃色の髪が灯りを受けて柔らかく光る。後ろにはカストルがいる。カストルの顔色は少し青いが、目は鋭い。


「何かあった」


 カストルが言う。問いではなく断言だ。城の空気が変われば、彼は気づく。


 ポルックスは一歩下がって立ち、静かに部屋を見渡す。机、杯、廊下の騒ぎ。彼の目は早い。


「毒ですか」


 ポルックスが言った。


 アルケスは頷く。


「まだ断定ではないが」


 カストルの赤い瞳が細くなる。


「誰が」


 王は答えない。答えれば、疑いが名前になる。名前になった疑いは消えない。


 代わりに王は言った。


「城の中に、毒を扱える者がいる」


 カストルは笑った。笑いは鋭い。


「そんなもの、昔からいる」


 言葉は子どものものではない。王家の子として、幼い頃から毒の話を聞いてきた者の声音だ。


 ポルックスが兄を見た。兄の肩が少し強張っている。怒りと興奮で呼吸が早い。ポルックスは何も言わない。ただ静かに、机の上の杯を見る。


「その酒、まだ残ってますか」


 王が頷く。


 ポルックスは近づき、杯を覗き込む。指先で匂いを扇ぎ、鼻先で香りを取る。


「蜂蜜ですね」


 言う。


「それに……苦草」


 アルケスが驚く。


「分かるのか」


 ポルックスは肩をすくめる。


「穀倉の薬草庫で見ました」


 そして少し笑う。


「飢饉のときは、毒も薬も同じ棚に並びます」


 その言葉に、王は少しだけ目を細めた。


 城の外では、炊き出しの煙が上がっている。麦は足りない。人は飢えている。そんな時代では、薬草も毒も同じ顔をしている。


 カストルが言った。


「蒼龍の家令は」


 王が答える。


「控えの間だ」


 カストルの口元がわずかに歪む。


「ちょうどいい」


 アルケスが眉を寄せる。


「何が」


 カストルは静かに言った。


「毒が出た日に、亡国の家令がいる」


 そして赤い瞳で王を見た。


「話を聞く理由は十分だ」


 部屋の空気が少し変わった。


 龍星逐鹿は、もはや試練ではない。飢饉、旗、毒。


 王宮の盤は、ゆっくりと、だが確実に動き始めている。


 そしてその盤の上に立っているのは、まだ十歳の王子たちだった。


【7】


 執務室の空気は、蝋燭の火が揺れるたびにわずかに軋んだ。毒の話が出た瞬間から、部屋の温度が変わっている。甘い蜂蜜の香りはもう残っていないはずなのに、誰もがその匂いを嗅いだ気になっていた。毒という言葉は、それだけで空気を汚す。


 王は椅子に深く腰掛けたまま、机上の杯を見ている。杯はまだそこにある。毒が入っているかもしれない酒が、まるで何事もないように置かれている。


「蒼龍の家令は控えの間だ」


 王はもう一度言った。言葉は落ち着いているが、意味は重い。


 カストルはその言葉を聞くと、ほんの少し口元を歪めた。


「毒が出た日に、亡国の家令がいる」


 赤い瞳が細くなる。


「偶然とは思えない」


 アルケスはすぐに反論しようとした。だが言葉が喉に引っかかる。確かに、出来すぎている。蒼龍の家令が来た日。王の酒に毒。二つの出来事は別かもしれない。だが宮廷では、別の出来事は簡単に一つの物語になる。


 ポルックスは黙って杯を見ていた。兄の言葉に反応しない。ただ、机の上に落ちた酒の跡を指先でなぞるように見つめる。


「兄上」


 ポルックスが言った。


「毒を盛る者は、目立たない者です」


 カストルが眉を寄せる。


「何が言いたい」


 ポルックスは顔を上げた。


「蒼龍の家令は、目立ちすぎています」


 静かな声だった。


「毒を盛る者は、もっと静かです」


 部屋に沈黙が落ちる。


 王はその言葉を聞いて、わずかに頷いた。ポルックスの考えは正しい。毒は影の武器だ。目立つ者が振るう刃ではない。


 カストルは少し苛立ったように息を吐いた。


「だが関係がないとも言えない」


 ポルックスは否定しない。ただ言う。


「関係があるなら、もっと巧妙です」


 そして少しだけ笑う。


「こんな分かりやすい毒ではなく」


 王は杯を指先で押した。酒がわずかに揺れる。


「毒の種類は」


 侍医が答える。


「眠りを誘う薬草に、少量の苦毒を混ぜたものと思われます」


 カストルが言った。


「殺す毒ではない」


 侍医は頷く。


「恐らく」


 王の赤茶の瞳が細くなる。


「つまり」


 アルケスが言う。


「陛下を殺すのではなく、眠らせる」


 ポルックスが続ける。


「そして、その隙に何かをする」


 部屋の空気が重くなる。


 その時、外から慌ただしい足音が聞こえた。扉が叩かれる。


「陛下!」


 護衛の声だ。


「入れ」


 扉が開く。


「穀倉の前で騒ぎが起きています!」


 アルケスが顔を上げた。


「騒ぎ?」


 護衛は息を切らしている。


「炊き出しの列で盗みがありました」


 王の眉がわずかに動く。


「盗みは珍しくない」


 護衛は首を振った。


「違います。盗人が……」


 言葉を探すように口を閉じる。


「処刑されそうになっています」


 カストルがすぐに立ち上がった。


「誰に」


 護衛は答える。


「民衆にです」


 その瞬間、ポルックスの目が動いた。


 飢饉の国では、盗みは罪だ。だが飢えた民は、罪を裁く権利も欲しがる。怒りの行き場が必要だからだ。


 王は低く言った。


「穀倉の前か」


 護衛が頷く。


「はい」


 王は少し考え、それから言った。


「アルケス」


 アルケスは背筋を伸ばす。


「行け」


 カストルが口を開く。


「私も」


 王は頷いた。


「好きにしろ」


 そしてポルックスを見る。


「お前もだ」


 ポルックスは静かに頭を下げた。


 三人の王子が扉へ向かう。廊下を出ると、城の空気が変わっているのが分かる。下の方からざわめきが上がってくる。怒号、悲鳴、押し合う音。


 アルケスは階段を下りながら胸の鼓動を感じた。


 毒。


 旗。


 そして盗人。


 すべてが同じ日に起きている。偶然ではない気がする。だが何が繋がっているのかは見えない。


 城門を出ると、穀倉の前には人だかりが出来ていた。炊き出しの鍋がひっくり返り、粥が地面に広がっている。


 その中央で、少年が一人、地面に押さえつけられていた。


 ルカだった。


 シャムがその前に立っている。護衛が周囲を押し止めているが、群衆の怒りは簡単には引かない。


「盗人だ!」


 誰かが叫ぶ。


「穀倉の麦を盗んだ!」


 別の声が重なる。


「飢えた子どもから盗んだんだ!」


 怒号が膨らむ。


 アルケスが一歩前に出る。


「離れろ」


 声は大きくない。だが王子の声だ。群衆がざわめく。


 その時、カストルが前へ出た。


 赤い瞳が群衆を見渡す。


「盗人は」


 静かな声だった。


「誰だ」


 押さえつけられているルカが顔を上げる。血が唇から流れている。


「……俺じゃない」


 掠れた声だった。


 群衆が怒鳴る。


「嘘だ!」


「麦袋を持ってた!」


 その瞬間、シャムが言った。


「違う」


 声は小さいが、はっきりしていた。


「その袋は」


 シャムは地面の袋を指差す。


「炊き出しの余りだ」


 群衆がざわめく。


 カストルは袋を見る。確かに穀倉の袋とは違う。粗末な布袋だ。


 ポルックスが静かに言った。


「炊き出しの粥は、余れば捨てます」


 カストルの瞳が細くなる。


「つまり」


 ポルックスは言う。


「盗んだのは」


 群衆の奥を見る。


「別の誰か」


 その瞬間、人だかりの奥で誰かが走った。


 逃げる影。


 護衛が叫ぶ。


「止めろ!」


 だが影は人混みを割って走る。


 そしてその男の袖から、小さな瓶が落ちた。


 瓶の口から、甘い香りが漂った。


 蜂蜜と薬草の匂い。


 アルケスの背筋が冷えた。


 毒は、城の中だけではなかった。


【8】


 瓶は石畳に当たって乾いた音を立て、くるりと転がった。栓が外れたのか、口元からとろりとした液がわずかに滲み出る。湿った空気の中に、甘い匂いが広がった。蜂蜜に似た香りだが、その奥にかすかな苦みが潜んでいる。アルケスは、執務室で嗅いだ匂いと同じだとすぐに気づいた。


「待て!」


 護衛が叫び、逃げた男を追う。だが炊き出しの列は密集している。人が押し合い、鍋の周りで転んだ者が叫び、混乱は一気に膨らんだ。追い手はすぐには進めない。


 ポルックスがしゃがみ込み、落ちた瓶を拾った。鼻先に近づけると、すぐに眉をひそめる。


「同じ匂いですね」


 カストルが低く言う。


「城の酒と同じか」


 ポルックスは頷いた。


「恐らく」


 アルケスの胸の奥が冷たくなる。毒は城の中だけではない。穀倉の前でも動いている。もしこの薬が炊き出しの鍋に入れられていたら――。


 シャムもそれを考えたらしく、鍋を見て顔色を変えた。


「粥は?」


 炊き出しの女が震えながら答える。


「……まだ配ってないよ」


 鍋の中には、まだ半分ほど粥が残っていた。湯気は立っているが、誰も手を伸ばさない。匂いが広がったせいか、人々は本能的に距離を取っている。


 ポルックスが鍋の縁に近づき、匂いを確かめた。


「……入ってはいません」


 小さく言った。


 アルケスは胸をなで下ろした。だが安心は長く続かない。毒を持っていた男は逃げた。狙いは何だったのか。粥か、穀倉か、それとも――。


「ルカ」


 シャムが地面に押さえつけられていた少年を起こした。ルカは唇を切っているが、意識はある。


「お前、あの男見たか」


 ルカは息を整えながら頷いた。


「……並んでた」


「列に?」


「うん」


 ルカは袖で血を拭いながら言う。


「麦袋持ってた」


 カストルが眉を寄せる。


「麦袋?」


「穀倉のじゃない」


 ルカは首を振る。


「小さい袋」


 アルケスとポルックスが顔を見合わせる。毒の瓶、麦袋、炊き出しの列。すべてが少しずつ繋がり始めている。


 カストルが群衆を見渡した。


「その男は」


 ルカが指を伸ばす。


「……あっち」


 指した先には、人混みが割れた跡だけが残っていた。逃げた男はもう見えない。


 護衛が戻ってきた。


「見失いました」


 息を切らしている。


 カストルは舌打ちをしそうになったが、飲み込んだ。群衆の前で苛立ちを見せれば、火に油だ。


 ポルックスが静かに言った。


「狙いは炊き出しではないかもしれません」


 アルケスが振り向く。


「どういう意味だ」


 ポルックスは瓶を軽く振る。


「これだけの薬を、粥一鍋に入れても効果は弱い」


 そして穀倉を見た。


「でも、麦袋に入れたら」


 言葉を切る。


 アルケスの背筋に冷たいものが走る。穀倉の麦に毒が混じればどうなるか。炊き出しどころではない。王都中に毒が広がる。


 カストルが言った。


「穀倉を確認しろ」


 護衛が走る。門の中へ消える。


 群衆のざわめきが少しずつ広がる。人は敏い。何かが起きていると察すると、噂は瞬く間に広がる。


「毒だってよ」


 誰かが囁く。


「炊き出しに毒」


「王城が隠してたんだ」


 言葉は歪んで増えていく。


 アルケスは歯を食いしばる。噂は止められない。だが放置すれば、恐怖は暴動に変わる。


 その時、シャムが一歩前に出た。


「違う」


 大きな声ではない。だがはっきりしていた。


 群衆が一斉に彼を見る。金の髪が濡れた光を受けて輝く。赤い瞳がまっすぐ人々を見る。


「粥は安全だ」


 誰かが怒鳴る。


「証拠は!」


 シャムは少しだけ迷った。ほんの一瞬だ。そして鍋に近づいた。


「おい」


 アルケスが止めようとする。


 だがシャムは椀を取り、鍋から粥をすくった。そして、躊躇なく口に運ぶ。


 群衆が息を呑む。


 湯気の中で、シャムは粥を飲み込んだ。


 何も起きない。


 シャムはもう一口食べる。


「……ほら」


 静かに言う。


「大丈夫だ」


 その言葉は不思議な力を持っていた。群衆のざわめきが少しずつ収まる。人は理屈より先に、目の前の行動に引きずられる。


 カストルはその様子を見て、目を細めた。


(……愚かだ)


 だが同時に思う。


(使える)


 ポルックスは兄を横目で見た。兄の目が冷たく光っている。


 アルケスは胸の奥が痛むのを感じた。シャムは命を張ったわけではない。ただの粥だ。それでも、あの一口で群衆は静まった。


 護衛が戻ってきた。


「穀倉は無事です!」


 アルケスは深く息を吐いた。


 だが安心は一瞬だった。


 護衛は続けた。


「ただし――」


 言葉が詰まる。


 カストルが言う。


「言え」


 護衛は答えた。


「麦袋が一つ、なくなっています」


 沈黙が落ちた。


 穀倉の麦が一袋消えた。それが何を意味するか。


 ポルックスが小さく言った。


「毒は……まだ動いています」


 風が吹き、穀倉の扉がわずかに軋んだ。灰色の空の下で、王都の空気はゆっくりと重くなっていく。


【9】


 穀倉の前に、重い沈黙が落ちた。


 群衆はまだ完全には散っていない。炊き出しの粥をすすりながら、互いに目配せをしている。恐怖と疑いが、薄い湯気のように漂っていた。


 麦袋が一つ消えた。


 その事実は、毒の瓶よりも重い。


 もしその袋に毒が混ぜられていれば、炊き出しどころではない。王都のあちこちで、同じ麦が使われる。パン、粥、酒。人はそれを食べ、何も知らずに倒れる。


 それはもう事故ではない。


 都市そのものを揺らす毒だ。


 カストルは穀倉の門を見つめていた。赤い瞳は冷たく澄んでいる。


「袋はいつ消えた」


 護衛が答える。


「今朝の確認ではありました」


「今朝、か」


 カストルは小さく呟く。


 つまり、今日だ。


 蒼龍の家令が来た日。毒の酒が見つかった日。そして麦袋が消えた日。


 偶然ではない。


 カストルはゆっくりと群衆の方を振り返った。人々は王子の視線に気づくと、慌てて目を逸らす。


 飢えた民は従順ではない。だが王家の血には、まだ本能的な畏れが残っている。


 カストルは一歩前に出た。


「聞け」


 声は大きくない。だが不思議と遠くまで通った。


「麦袋が一つ盗まれた」


 ざわめきが広がる。


 カストルは続ける。


「だが毒は穀倉には入っていない」


 群衆のざわめきが少しだけ弱まる。


「粥も安全だ」


 シャムが飲んだ椀を見せる。


 それだけで、人の顔色は変わる。


 人は理屈よりも証拠を信じる。


 だが、安心は長く続かない。


 誰かが叫んだ。


「じゃあ毒はどこだ!」


 群衆の奥から声が飛ぶ。


「盗まれた袋だ!」


「麦に毒が入ってる!」


 恐怖は形を得ると、すぐに増殖する。


 アルケスは歯を食いしばった。


(まずい)


 恐怖が広がれば、次は疑いが広がる。


 疑いは必ず「敵」を作る。


 敵が出来れば、人は攻撃する。


 そして飢饉の国では、攻撃はすぐ暴動になる。


 その時だった。


 ルカが言った。


「……違う」


 声は小さい。だが近くの者は聞いた。


「袋は盗まれてない」


 カストルの視線が鋭くなる。


「何を見た」


 ルカは躊躇した。シャムが肩を軽く叩く。


「言え」


 ルカは唾を飲み込んだ。


「男は……袋を持ってなかった」


 ざわめきが止まる。


「持ってたのは……」


 ルカは手で形を作る。


「小さい箱」


 ポルックスがすぐに反応した。


「箱?」


「うん」


 ルカは頷く。


「木の箱」


 アルケスの胸が強く鳴る。


 木箱。


 穀倉の麦は袋だ。箱には入れない。


 つまり――


 ポルックスが言った。


「毒は麦ではない」


 カストルが続ける。


「別のものだ」


 群衆がざわめく。


「じゃあ何だ!」


 カストルは答えない。


 答えはまだない。


 だが一つだけ分かる。


 毒を持った男は、麦を盗んだのではない。


 別の「何か」を運んでいた。


 その時、穀倉の門の中から兵が走ってきた。


「殿下!」


 息を切らしている。


「穀倉の裏門が開いていました!」


 アルケスが振り向く。


「裏門?」


「はい」


 兵は続けた。


「そこから外へ出た足跡があります」


 カストルが低く言った。


「どこへ向かっている」


 兵は答えた。


「……王城です」


 空気が凍った。


 アルケスの背筋に冷たいものが走る。


 毒は穀倉を狙ったのではない。


 城を狙っている。


 王城。


 そこには誰がいるか。


 王。


 王太后。


 王妃。


 そして王子たち。


 ポルックスが小さく呟いた。


「……囮だ」


 アルケスが振り向く。


「何?」


 ポルックスは言う。


「穀倉の騒ぎは囮」


 そして静かに続ける。


「本命は城の中」


 カストルの赤い瞳が鋭く光る。


「毒は、もう運ばれている」


 その言葉と同時に、遠くで鐘が鳴った。


 王城の警鐘だった。


 群衆が一斉に城を振り向く。


 灰色の空の下で、鐘の音は不吉に響いた。


 アルケスの胸が強く鳴る。


【10】


 警鐘の音は、雨雲の低い空にぶつかって鈍く広がった。王城の塔から鳴る鐘は、火事でも祝祭でもない、ただ一つ――城内の異変を告げるときのものだ。


 穀倉の前に集まっていた群衆がざわめく。

 誰もが城の方を見上げた。


 アルケスは息を呑む。

 城の中で何かが起きている。


「城へ戻る」


 カストルが言った。

 命令ではない。だがそれに逆らう者はいない。


 ポルックスはすでに歩き出していた。

 護衛が道を開く。


 シャムは一度だけルカを振り返った。


「家に帰れ」


「でも」


「いいから」


 シャムの声は強かった。ルカは口を閉じる。


 王子たちは城門へ向かった。


 雨はまだ降っていない。だが空気は湿り、遠くで雷が鳴っている。嵐が近い。


 城門をくぐったとき、アルケスは異様な静けさを感じた。

 警鐘は鳴っているのに、人の動きが少ない。


「妙だな」


 カストルが低く言う。


 普通なら兵や侍従が慌ただしく走り回っているはずだ。だが廊下は静かだった。


 ポルックスが床を見た。


「足跡が少ない」


 石床は湿っている。雨のせいで靴の跡が残りやすい。

 だが――


「さっきの足跡は……裏門から一直線でした」


 ポルックスが指差す。


 足跡は城の奥へ続いている。


 アルケスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 その先にあるのは、王の執務室ではない。


「……塔」


 ポルックスが言った。


 カストルの赤い瞳が細くなる。


 塔。


 そこに住んでいる者は一人しかいない。


 ヴィルギニス。


 カストルが歩き出した。


 石の階段を登る足音が響く。


 塔の階段は狭い。

 窓が少なく、薄暗い。


 途中で、倒れている兵が見つかった。


「気絶しているだけです」


 ポルックスが脈を確かめる。


「眠り薬……さっきの毒と同じでしょう」


 アルケスの胸がざわつく。


 狙いは王ではないのか。


 それとも――


 塔の最上階の扉が見えた。


 扉は半開きだった。


 カストルが手をかける。


「ヴィルギニス」


 声をかける。


 返事はない。


 扉を押し開ける。


 部屋の中は薄暗い。


 窓が開いている。

 湿った風がカーテンを揺らしていた。


 そして――


 ヴィルギニスは、窓の前に立っていた。


 青みがかった髪が風に揺れている。

 背中は静かだった。


「……何だ」


 カストルが言う。


 ヴィルギニスは振り向いた。


 表情は落ち着いている。

 むしろ、少し呆れたように見えた。


「遅かったですね」


 静かな声だった。


 アルケスが目を見開く。


「無事なのか」


 ヴィルギニスは頷く。


「毒を持った男が来ました」


 部屋の隅を見る。


 そこには、男が一人倒れていた。


 腕を後ろに縛られている。


 カストルの眉が上がる。


「お前がやったのか」


 ヴィルギニスは首を傾けた。


「兵が眠っていたので」


 それだけ言う。


 説明はそれだけだった。


 ポルックスが男を調べる。


 袖の中から小さな木箱が出てきた。


 ルカが言っていたものだ。


 ポルックスが箱を開ける。


 中には――


 小瓶が三つ。


 琥珀色の液体。


 蜂蜜と薬草の匂い。


 アルケスの胸が冷える。


「同じ毒だ」


 カストルが言う。


 ポルックスは首を振った。


「少し違います」


 瓶を光にかざす。


「濃い」


 短く言う。


 ヴィルギニスが窓の外を見たまま言った。


「それは眠り薬ではありません」


 三人が彼を見る。


 ヴィルギニスの瞳は静かだった。


「殺す毒です」


 部屋の空気が凍る。


 カストルが低く言った。


「誰を」


 ヴィルギニスは少し考えるようにしてから答えた。


「恐らく……私でしょう」


 アルケスが息を呑む。


 ポルックスが男を見る。


「蒼龍の家令の使いですか」


 ヴィルギニスはゆっくり首を振った。


「違います」


 そして窓の外を見たまま言った。


「蒼龍の家令は、もっと上手くやります」


 その言葉は静かだったが、妙に確信があった。


 カストルの赤い瞳が光る。


「つまり」


 ヴィルギニスが振り向く。


 青い髪が揺れた。


「蒼龍とは別の誰かが」


 少し間を置く。


「私を殺そうとしている」


 外で雷が鳴った。


 今、盤の上で最初に血を流そうとしているのは――


 第四王子、ヴィルギニスだった。


【11】


 塔の中は、死のあと特有の静けさに包まれていた。

 外では雨が石屋根を打ち続けている。だが塔の上では、その音さえ遠くに感じられた。


 床に横たわる男の身体からは、すでに生の気配が抜けている。

 ポルックスは男の瞼をそっと閉じた。


「……終わりました」


 その声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。

 だが指先はほんのわずかに冷えている。


 カストルはしばらく男を見下ろしていたが、やがてふっと息を吐いた。


「つまらないな」


 誰に向けた言葉でもない。

 けれど空気はわずかに張り詰めた。


「せっかく捕まえたのに、何も聞けない」


 カストルの声は苛立ちを含んでいる。

 しかし怒鳴りはしない。ただ静かに怒っている。


 ポルックスはそれを知っていた。

 兄が一番危険なのは、この声のときだ。


「兄上」


 やわらかな声で呼ぶ。


「この男は捨て駒です。喋らせるつもりなど最初からない」


 カストルの赤い瞳が細くなる。


「それはわかっている」


 そしてゆっくり振り向いた。


「だから腹が立つ」


 雷が鳴った。

 窓の外で白い閃光が走る。


 その瞬間、ヴィルギニスの青い髪がわずかに光った。


 アルケスはその姿を見て、胸の奥がざわつくのを感じていた。

 今、城の中で最も危険な立場にいるのはヴィルギニスだ。


 毒を向けられた。

 理由ははっきりしている。


 血だ。


 アクルックス前王朝の血。

 亡びた王家の最後の影。


「……」


 アルケスは言葉を選んだ。


「ヴィルギニス」


 青い瞳が向く。


「お前を狙う理由は、血だと言ったな」


「はい」


 短い答えだった。


 アルケスは続ける。


「だが、今この国は飢えている」


 窓の外を指す。


 雨はまだ止まない。

 穀倉は空になり始めている。


「こんなときに、隣国と戦になるようなことをする者がいるのか?」


 ヴィルギニスはしばらく黙っていた。

 そして静かに言った。


「いるでしょう」


 アルケスが眉を寄せる。


「なぜ」


 ヴィルギニスは窓の外を見たまま答えた。


「飢饉は国を弱くします」


 雨音が強くなる。


「弱い国は、奪われます」


 ポルックスが小さく息を吐いた。


「……確かに」


 そして続ける。


「穀物の輸入はアクルックスに頼っています」


 アルケスがうなずく。


「商船は三日に一度入港する」


 ポルックスは静かに言った。


「その船が止まれば、王都は二ヶ月持ちません」


 部屋の空気が冷えた。


 カストルが笑った。


 だがそれは楽しそうな笑いではない。


「なるほど」


 赤い瞳が光る。


「つまり」


 ゆっくり言う。


「この国を飢えさせたい者がいる」


 雷が鳴った。


 アルケスの背筋に冷たいものが走る。


「……城の中に」


 ポルックスが頷く。


「ええ」


 そして続ける。


「そしてその者は」


 男の死体を見下ろした。


「毒を使う」


 カストルの口元が歪む。


「卑怯だな」


 ヴィルギニスが静かに言う。


「戦では普通です」


 カストルは肩をすくめた。


「僕は嫌いだ」


 そして死体を軽く蹴った。


「こういうやり方は」


 ポルックスは何も言わない。

 兄が苛立っているのを理解している。


 だがヴィルギニスは静かだった。


「王宮は昔からこうです」


 淡々とした声。


「血と毒で動く」


 アルケスが彼を見る。


「お前は平気なのか」


 ヴィルギニスは少し考えた。


「平気ではありません」


 そして続ける。


「ですが、慣れています」


 その言葉は重かった。


 亡命王女の子。


 生まれたときから政治の影の中にいた。


 カストルが言う。


「嫌な人生だな」


 ヴィルギニスはわずかに笑った。


「兄上の人生ほどではありません」


 カストルの眉がぴくりと動く。


 ポルックスが慌てて言った。


「ヴィルギニス」


 だがカストルは怒らなかった。


 むしろ少し楽しそうだった。


「続けろ」


 ヴィルギニスは言う。


「兄上は血統最上位です」


 赤い瞳を見る。


「ですが身体が弱い」


 沈黙。


 雷。


 カストルはゆっくり笑った。


「知っている」


 そして低く言う。


「だからこそ腹が立つ」


 拳を握る。


「この程度の毒で僕を止められると思われていることが」


 その声には怒りがあった。


 だが同時に――誇りがあった。


 ポルックスはその横顔を見ていた。


 兄は病弱だ。

 だが弱くはない。


 むしろ、誰よりも王になろうとしている。


 アルケスは静かに思った。


 龍星逐鹿。


 王を決める試練。


 だが本当の試練は――

 もう始まっている。


 毒。

 飢饉。

 隣国。

 宮廷の闇。


 そして五人の王子。


 そのときだった。


 塔の下から足音が響いた。


 石の階段を上がる音。


 鎧の音。


 護衛だ。


 扉が開いた。


「アルケス殿下!」


 兵士が息を切らしていた。


「王より急ぎの命です!」


 アルケスが振り向く。


「何だ」


 兵士は言った。


「港です」


 息を整えながら続ける。


「アクルックスの商船が――」


 雨の音が強くなる。


 兵士の声が震えた。


「入港を拒否しました」


 部屋の空気が凍った。


 ポルックスの手が止まる。


 アルケスが聞き返す。


「……拒否?」


 兵士は頷いた。


「はい」


 そして言った。


「麦を降ろさないと」


 雷が鳴った。


 カストルの赤い瞳が、ゆっくりと細くなる。


「なるほど」


 低い声だった。


「面白くなってきた」


 窓の外では雨が王都を打ち続けていた。


【13】


 謁見の間は静まり返っていた。


 高い天井に吊された燭台の火が揺れ、金の装飾がわずかに光を返している。貴族たちは壁際に並び、誰も声を出さない。石床の上に立つ少年の声だけが、その広い空間に落ちていた。


 ポルックスは帳面を閉じたまま、アクルックスの使節団を見ていた。


 使節の長は、ゆっくりと眉を上げる。

 目は笑っているが、完全には笑っていない。


「取引、と」


 低い声だった。


「ええ」


 ポルックスは頷く。


「貴国は麦を持っている」


「我々は鉄を持っている」


 謁見の間の空気がわずかに動いた。


 鉄。


 それは王国が誇る資源だった。北の鉱山から採れる鉄は質が高く、武具にも農具にも使われる。


 使節の長は少しだけ微笑む。


「鉄は確かに魅力的です」


 そして続ける。


「ですが、我が国にも鉄はあります」


 ポルックスは静かに言った。


「ありますね」


 一拍。


「ですが」


 帳面を開く。


「我が国の鉄は、武器に向いています」


 その言葉に、貴族たちの何人かが視線を上げた。


 使節の長も沈黙する。


 ポルックスは続けた。


「農具ではなく」


「武器です」


 そして帳面を閉じる。


「貴国は今、北方で戦をしていますね」


 謁見の間の空気が凍った。


 それは事実だった。

 アクルックスの新王朝は、まだ国内を完全にまとめきれていない。北方の貴族が反乱を起こしている。


 使節の長は、わずかに笑みを崩した。


「情報が早い」


 ポルックスは答えない。


 ただ静かに立っている。


 玉座の上で現王が口を開いた。


「王国は争いを望まない」


 穏やかな声だった。


「だが隣国が飢えるのも望まない」


 使節の長はその言葉を受け止めた。


 しばらく沈黙が続く。


 そしてゆっくり言う。


「……麦の量を増やしましょう」


 貴族たちの空気が一瞬動いた。


 使節は続ける。


「ただし」


「鉄の輸出は制限付きで」


 現王は頷いた。


「当然だ」


 その短いやり取りで、交渉の流れはほぼ決まった。


 ポルックスはその様子を静かに見ていた。


 王城の窓の外では、雲の隙間からわずかに光が差している。雨は止み、空はまだ重いが、確かに変わり始めていた。


 謁見が終わると、貴族たちは静かに退いた。


 廊下に出たポルックスの横に、アルケスが並ぶ。


「やりすぎだ」


 アルケスが小さく言った。


 ポルックスは答える。


「必要でした」


「外交の席だ」


「だからです」


 アルケスは少し笑った。


「お前は」


 窓の外を見る。


「王より冷たい」


 ポルックスは否定しなかった。


「兄が王になるなら」


 静かに言う。


「私は秤になります」


 その言葉にアルケスは何も言わなかった。


 少し離れた廊下では、シャムが柱にもたれていた。

 交渉の話は全部は聞こえない。


 だが空気はわかる。


 城の中の人間は、飢えを数字で語る。


 城の外の人間は、腹で語る。


 その差を、シャムはまだ埋められない。


 その頃、穀倉の前ではカストルが立っていた。


 体調は良くない。

 だが彼は鍵を手にしていた。


 倉庫の扉が開く。


 中には麦袋が並んでいる。


 兵が言った。


「殿下、これで少しは」


 カストルは首を振る。


「少しじゃ足りない」


 赤い瞳が麦袋を見つめる。


「この国は」


 静かに言う。


「まだ飢えている」


 その夜、王城の上に月が出た。


 雲はまだ多い。

 だが雨は降らない。


 港ではアクルックスの船が新しい帆を張っていた。

 次の麦を運ぶ準備が始まっている。


 そして遠い辺境では――


 湿地の水が、ゆっくりと新しい川筋へ流れ始めていた。


 細い流れ。


 だが確かに動く水。


 その流れは、やがてこの国を変えていく。


 王都の塔の上で、鐘が鳴った。


 国はまだ危機の中にある。

 だが、その中で静かに形を変え始めていた。


【14】


 春の終わり、王都の空は久しぶりに青かった。

 長く続いた雨雲は北へ押し流され、王城の塔の上を軽い風が渡っていく。石壁の上には乾いた光が落ち、城門の前に積み上げられた麦袋が淡く金色に見えた。


 アクルックスの船は三度、港に入った。


 最初の船は麦を運び、二度目の船は塩と乾燥肉を運び、三度目の船は――鉄を積んで帰っていった。


 王都の市場はまだ静かだったが、飢えの声は少しずつ遠ざかっている。炊き出しの列は短くなり、穀倉の扉が開く回数も減っていた。


 城の高い塔の上から、それを見ていたのはアルケスだった。


 翡翠の髪を風が撫でる。遠くの港に並ぶ船を見つめながら、彼は小さく息を吐いた。


「……助かった」


 その言葉は誰に向けたものでもない。


 だが後ろから声がした。


「まだ終わっていません」


 振り返ると、ポルックスが立っていた。相変わらず帳面を抱えている。


「穀倉の計算では、来年の収穫まで油断できません」


 アルケスは少し笑う。


「お前はいつもそうだ」


「秤ですから」


 ポルックスは淡々と言った。


 その言葉にアルケスは何も返さなかった。

 ただ港を見下ろす。


 船の帆には青地に双龍の紋章。

 アクルックスの旗だった。


 かつてその国には、別の王家があった。


 それを思い出したのは、たぶんこの城でただ一人――ヴィルギニスの存在を知っている人間たちだけだ。


 その頃、王城の庭ではシャムが子供たちと話していた。

 城下から働きに来ている下働きの少年たちだ。


 彼らは麦袋を運び終え、木陰で休んでいた。


「王子ってさ」


 少年の一人が言う。


「毎日何してるんだ?」


 シャムは少し考えた。


 そして答える。


「……わからない」


 少年たちが笑う。


「わからないのかよ」


 シャムも少し笑った。


 花街で育った頃、王子の生活など想像もしなかった。

 だが今ここにいる。


 豪奢な城、整った食卓、重い沈黙。


 それでも城門の外には、まだ炊き出しの鍋がある。


 シャムは思った。


 国はまだ完全には救われていない。


 同じ頃、穀倉ではカストルが静かに立っていた。


 体調は相変わらず良くない。

 だが彼は倉庫の鍵を握っている。


「全部、数えたか」


 兵が頷く。


「はい」


 カストルは麦袋を見渡した。


 以前より多い。

 だが足りない。


 赤い瞳が少し細くなる。


「……まだ少ない」


 兵は何も言えなかった。


 そのとき、廊下の向こうから足音が近づく。


 アルケスだった。


 二人の視線が交わる。


 同じ十歳。

 同じ年に生まれた王子。


 だが立場は違う。


 アルケスが言った。


「外交はまとまった」


 カストルは短く答える。


「知っている」


 沈黙。


 そしてカストルが続けた。


「だが」


 倉庫を見渡す。


「これでは足りない」


 アルケスは頷く。


「だから龍星逐鹿だ」


 その言葉に、カストルの瞳がわずかに揺れた。


 龍星逐鹿――王太子選抜。


 王が五人の王子に課した試練。


 国を救う者が、王となる。


 廊下の窓から春の風が吹き込む。

 遠くの空は澄んでいた。


 だが王城の奥では、別の話が静かに進んでいた。


 王太后の部屋。


 老いた女は窓辺に座り、港を見下ろしていた。

 白髪を丁寧に結い、背筋はまだまっすぐだ。


 その前に立つのは現王だった。


「アクルックスは動きました」


 王は言う。


 王太后はゆっくり頷く。


「当然です」


 静かな声だった。


「飢えた国は、取引に従う」


 王は黙った。


 王太后は続ける。


「だが」


 窓の外を見る。


「龍の加護は戻っていない」


 遠くの畑はまだ弱い。


 雨は止んだが、収穫は不確かだ。


 王太后の視線がゆっくり王へ向く。


「だから王を選ぶのです」


 王は答えなかった。


 ただ窓の外を見る。


 港の船。


 麦袋。


 そしてその向こうの海。


 その海の向こうにはアクルックスがある。

 そしてさらに遠くには――かつての王家を失った国がある。


 その王女の子が、今は辺境にいる。


 ヴィルギニス。


 王は静かに呟いた。


「国はまだ揺れている」


 王太后は微笑んだ。


「だから面白い」


 春の風が城を通り抜ける。


 王子たちはまだ十歳だった。

 だがその一年は、すぐに終わる。


 やがて夏が来て、秋が来て、冬が来る。


 そして次の春――


 五人の少年は十一歳になる。


 龍星逐鹿は終わっていない。

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