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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十一章2

【1】


 港に雷が落ちたかのように、人々はざわめいていた。

 雨は港の石畳を黒く濡らし、海は鉛のような色に沈んでいる。


 アクルックスの商船は三隻。

 そのすべてが港に入っていながら、帆を下ろさず、荷を降ろさず、ただ停泊していた。


 青地に双龍の旗が、濡れた風に重く揺れている。


 王都の民は遠巻きにその船を見つめていた。

 穀物の袋が運ばれないという事実は、すぐに街を巡った。


「麦が降りない」

「取引が止まった」

「アクルックスが怒っている」


 噂は雨水のように広がる。


 港の倉庫の屋根の下で、アルケスは船を見上げていた。

 翡翠の髪は湿気を吸って暗く沈み、額に張りついている。


「交渉はどうなっている」


 護衛の騎士が答える。


「船長は王の書簡を求めています」


 アルケスは目を細めた。


「書簡?」


「はい。穀物は王の保証がなければ降ろさないと」


 それは異常だった。

 商人は金を求める。王の保証など必要ない。


 つまりこれは商取引ではない。


 政治だ。


 カストルは港の桟橋に立ち、雨の海を見ていた。

 赤い瞳が船の旗を追う。


「……蒼龍」


 小さく呟く。


 ポルックスが隣で帳面を閉じた。


「可能性は高いですね」


 カストルは笑った。


「飢饉の国を締め上げるにはいい手だ」


 ポルックスは静かに言う。


「輸入を止めれば、二ヶ月で王都は飢えます」


 カストルは振り向いた。


「二ヶ月も持つのか」


「計算上は」


 雨が強くなる。


 カストルは空を見上げた。


「なら時間はある」


 その言葉は強がりだった。

 だが彼はそう言わなければならない。


 王子だからだ。


 そのとき港の人混みの奥で、小さな影が動いた。


 シャムだった。


 護衛の兵が数歩後ろを歩いている。

 彼は王子だ。


 だが足は泥の道を知っている。


 ルカが駆け寄ってきた。


「シャム!」


「静かに」


 シャムは周囲を見た。


 港の人々は不安そうに船を見上げている。


「船はどうなる?」


 ルカが聞く。


 シャムは答えなかった。


 ただ船を見上げる。


 青地に双龍。


 そしてその船の影で、もう一つの旗が揺れていた。


 白地に蒼い龍。


 蒼龍の家令。


 シャムの胸がざわつく。


(やっぱりいる)


 港はすでに盤の上だった。


 龍星逐鹿。


 王を選ぶ試練。


 だが今、この港で試されているのは――


【2】


 嵐は三日続いた。

 雨は王都の石壁を洗い、排水路をあふれさせ、市場の匂いを変えた。濡れた穀物の匂い、腐りかけた麦の甘い匂い、そして焦りの匂い。


 港では依然としてアクルックスの船が帆を下ろさず停泊している。青地に双龍の旗は濡れて重く、風に鈍く揺れていた。


 王城の会議室には灯りが多く焚かれていた。曇天の昼は暗く、炎の揺れが壁の紋章をゆがめている。


 現王は静かに座り、五人の王子を見ていた。

 アルケス、カストル、ポルックス、ヴィルギニス、シャム。


 その視線には父の温かさはない。王としての冷たい測量だけがあった。


「毒が入った」


 王は短く言った。


 部屋が静まる。


「狙いはシャムだった」


 アルケスが息を呑む。

 カストルの赤い瞳が細くなる。


 シャムは黙って立っていた。


 王は続ける。


「だが毒を飲んだのは王太后だ」


 ポルックスの手がわずかに止まる。


「杯を取り替えた」


 王の声は静かだった。


「理由はわかるか」


 沈黙。


 カストルが先に口を開いた。


「見せしめだ」


 王は答えない。


 カストルは続けた。


「シャムを殺す理由は簡単だ」


 視線がシャムへ向く。


「民衆」


 一言だった。


「民があいつを見ている」


 アルケスも理解していた。


 シャムは花街出身。

 泥の中から現れた王子。


 そして亡き先代王と瓜二つの顔。


 市場の者たちは囁く。


「あれは本当の王だ」

「アレス王の生き写しだ」


 それは危険だった。


 血統だけではない。

 象徴だ。


 飢饉の国では、人は象徴を求める。


 カストルが笑った。


「民衆の王」


 その言葉は皮肉だった。


 ポルックスが静かに言う。


「民衆の支持は軍より強いことがあります」


 ヴィルギニスが小さく付け加える。


「特に飢饉の時代では」


 王は五人を見ていた。


「つまり」


 アルケスが言った。


「シャムが生きていると困る者がいる」


 王は頷かない。


 だが否定もしない。


 そのときカストルが言った。


「ならヴィルギニスは?」


 赤い瞳が青い瞳を見る。


「お前も殺されかけた」


 ヴィルギニスは静かだった。


「理由は同じではありません」


「違う?」


「はい」


 彼はゆっくり言う。


「私は旗です」


 部屋が静まる。


「アクルックス前王朝の血」


 その言葉は重かった。


 ポルックスが続ける。


「もしヴィルギニスを旗に反乱が起きれば」


 アルケスが言う。


「アクルックスの現王朝は黙っていない」


 戦争になる。


 飢饉の国は戦えない。


 つまりヴィルギニスは――


 危険すぎる血だった。


 王はゆっくり言った。


「二つの血が狙われた」


 視線が二人へ向く。


 シャム。

 ヴィルギニス。


「象徴の血」

「戦の血」


 王の声は冷静だった。


「そしてこの二つを消せば」


 カストルが言った。


「残るのは俺たちか」


 アルケスとポルックス。


 王家の血だが政治的火種ではない。


 王は答えなかった。


 その代わり言った。


「対処はある」


 カストルが興味深そうに笑う。


「聞こう」


 王は言った。


「シャムは城下へ出ろ」


 アルケスが眉を寄せる。


「危険では」


 王は首を振る。


「逆だ」


「隠せば噂が増える」


 つまり――


 見せる。


 民に。


 王子として。


 毒にも負けない存在として。


 シャムは理解した。


 自分は囮だ。


 だがそれでも頷いた。


「……わかりました」


 王は次にヴィルギニスを見る。


 長い沈黙。


 青い瞳は静かだった。


 王は言った。


「お前は城を離れる準備をしろ」


 カストルが眉を上げた。


 ポルックスが目を細める。


 アルケスが息を止める。


 シャムだけが理解した。


 これは追放ではない。


 守るための隔離だ。


 王は続けた。


「まだ命令ではない」


「だが時が来れば行く」


 ヴィルギニスは静かに膝をついた。


「御意」


 声は揺れない。


 彼は最初から知っていた。


 自分の血は城に置いておくには危険だと。


 外では雨が止み始めていた。


 雲の隙間から、かすかに月が見える。


 満月に近い。


 龍星逐鹿。


 王を決める試練。


 だがこの夜、

 盤はもう動いていた。


 誰が王になるかではない。


 誰が生き残るか。


 その試練が始まっていた。


【3】


 雨は四日目の朝、ようやく弱まった。

 王都の空にはまだ灰色の雲が残っているが、裂け目のように淡い光が差している。濡れた石畳は鈍く光り、屋根から落ちる水滴が静かな音を刻んでいた。


 嵐のあと、王宮は奇妙な静けさに包まれていた。

 人は動いている。兵も侍女も役人も、皆いつも通りに働いている。だがその足取りには、見えない緊張が混じっていた。


 毒。

 穀物。

 隣国。


 そして王子たち。


 すべてが水面の下で絡み合っている。


 王の執務室の窓は開かれていた。

 湿った風がカーテンを揺らす。


 現王は机の前に立ち、港の方角を見ていた。

 遠くにはアクルックスの船の帆がまだ見える。


 穀物はまだ降ろされていない。


 背後で扉が静かに開いた。


「ヴィルギニス殿下をお連れしました」


 王は振り向かない。


「入れ」


 第四王子ヴィルギニスは静かに部屋へ入った。

 青みがかった髪は整えられている。だがその表情はどこか遠くを見ているようだった。


 王の背中はしばらく動かなかった。


 やがて言う。


「昨夜の毒」


 ヴィルギニスは答える。


「シャム殿下を狙ったものです」


「そうだ」


 王の声は低い。


「そしてお前を狙った毒もあった」


 ヴィルギニスは黙る。


 王はゆっくり振り向いた。


 赤茶の瞳が息子を見つめる。


「理由は理解しているな」


「はい」


 短い答えだった。


「私はアクルックス前王朝の血を引いています」


 王は頷く。


「その血は、この国にとって危険だ」


 言葉は冷たい。


 だがそこには嘘がなかった。


 ヴィルギニスは知っている。

 生まれた時から知っていた。


 母は亡命王女。

 滅びた王家の最後の血。


 その血は希望にもなり、火種にもなる。


 王はゆっくり言った。


「蒼龍の家令はお前を旗にする」


 ヴィルギニスは静かに答える。


「はい」


「そして宮廷の中には、それを恐れる者がいる」


「はい」


 沈黙。


 雨の雫が窓辺から落ちた。


 王は机の上の地図を見た。


 王国の北。

 東。

 そして西の国境。


 その指が止まる。


「辺境地だ」


 ヴィルギニスの瞳がわずかに揺れた。


 王は言う。


「ここへ行け」


 地図の端。


 アクルックスから遠く、別の国境に近い土地。


 荒れた山地と湿地が広がる、忘れられたような地方だった。


「王子の身分はそのままだ」


 王は続ける。


「だが名は伏せる」


「下級貴族の子として暮らせ」


 言葉は静かだった。


 それは追放ではない。


 だが王都から消える命令だった。


 ヴィルギニスはゆっくり膝をついた。


「御意」


 声は揺れない。


 王は息子を見下ろした。


 青い髪。

 亡き王女の面影。


 先代王がこの子を抱いた日のことを、王は覚えている。


 亡命してきた王女は、まだ若かった。

 病を抱えていた。


 そしてこの子を産んで六年後に死んだ。


 王はその葬儀を見た。


 兄王が国葬を命じた日のことを。


 外交の嵐の中で、それでも兄は言った。


「この子は王の子だ」


 その言葉が、ヴィルギニスをここまで生かした。


 王は言った。


「罰ではない」


 ヴィルギニスは顔を上げない。


 王の声が少しだけ変わった。


「生きるための命令だ」


 沈黙。


 やがてヴィルギニスが答える。


「理解しております」


 そして続けた。


「もし私がここに残れば」


「戦の火種になります」


 王は頷いた。


「そうだ」


 そして静かに言う。


「この国は今、飢えている」


「戦はできない」


 港ではアクルックスの船が停泊している。


 穀物はまだ降ろされない。


 もし戦になれば。


 この国は持たない。


 ヴィルギニスはゆっくり立ち上がった。


「いつ出発しますか」


 王は窓の外を見た。


 雲の隙間から、月が見えた。


 満月。


 龍の伝承で語られる夜。


「三日後だ」


 王は言った。


「龍星逐鹿は続く」


「お前も王子の一人だ」


「だが盤の外から見ることになる」


 ヴィルギニスは静かに頷いた。


 そのとき、廊下の向こうから足音がした。


 アルケス。

 カストル。

 ポルックス。

 シャム。


 四人の王子が立っていた。


 誰も言葉を発さない。


 だが全員、理解していた。


 ヴィルギニスは王都を離れる。


 龍星逐鹿の盤から。


 カストルが言った。


「死ぬなよ」


 短い言葉だった。


 ポルックスは静かに言う。


「手紙を書いてください」


 アルケスは何も言えなかった。


 ただ翡翠の瞳で友を見ている。


 シャムと目が合うとヴィルギニスは少しだけ笑った。


 その笑みは、初めて十歳の少年の顔だった。


 外では雲が切れ、月が王都を照らしていた。


 龍星逐鹿。


 王を決める試練。


 だがその盤は今、静かに変わった。


 第四王子ヴィルギニスは盤の外へ去る。


 そしてその不在が、

 やがてこの国の運命を大きく動かすことになる。


 嵐はまだ終わっていなかった。


【4】


 辺境の朝は、王都よりも早かった。

 まだ夜の名残が空の端に残っている頃、砦の外ではすでに鉄の音が鳴っている。鍛冶場の槌、兵の足音、馬の鼻息。湿った草の匂いに混じって、煙の匂いが漂っていた。


 ヴィルギニスは窓の前に立っていた。


 窓は小さく、王城のものよりずっと粗末だ。厚い硝子ではなく、木枠にはめられた薄い板硝子が風でかすかに鳴る。外には城壁ではなく、石を積み上げただけの防壁が見えた。その向こうには低い丘と湿地が広がっている。


 王都とはまるで違う景色だった。


 彼は指先で自分の髪を触った。

 青みがかった髪はもうそこにはない。代わりに指先に絡むのは、赤茶に近い色の髪だ。


 染薬の匂いはもう消えているが、鏡を見るたびに違和感が残る。


 アクルックスの血を示す青い髪は、今は隠されていた。


「……」


 ヴィルギニスは小さく息を吐いた。


 王命。

 この地では王子ではない。


 ただの下級貴族の子。


 それが今の自分の身分だった。


 扉が軽く叩かれた。


「起きているかな、若い殿」


 軽い声だった。

 どこか芝居がかった調子。


 ヴィルギニスは振り向く。


「どうぞ」


 扉が開く。


 ローディス辺境伯はそこに立っていた。


 長髪の茶色の髪はところどころ白く、肩のあたりまで流れている。年齢は五十に近いはずだが、肌の艶は妙に若い。目元には笑い皺があり、どこか愉快そうな表情をしていた。


 その姿は王城で見てきた重臣たちとはまるで違う。


 彼は扉の枠に寄りかかり、ヴィルギニスを眺めた。


「ほう」


 ゆっくり言う。


「赤茶の髪も似合うじゃないか」


 ヴィルギニスは答える。


「一時的なものです」


「だろうね」


 ローディスは肩をすくめた。


「青い髪はこの辺りじゃ目立ちすぎる」


 それから、少しだけ笑った。


「王子様」


 部屋の空気が止まった。


 ヴィルギニスは表情を変えない。


「違います」


 短く言う。


 ローディスはしばらく彼を見ていたが、やがて楽しそうに笑った。


「そういうことにしておこう」


 彼は部屋の中に入ると、窓の外を見た。


「よく眠れたかい?」


「はい」


「それは結構」


 軽い口調だが、目は鋭い。


 ローディスは窓枠に手を置き、外を指さした。


 丘の下では兵が隊列を組んでいる。まだ若い兵も多く、装備は王都の近衛ほど整っていない。だが動きは速い。


「ここでは朝が早い」


 ローディスは言う。


「王都より三刻は早い」


 ヴィルギニスは黙って景色を見た。


 王城では侍従が起こしに来る。服も整えられ、食卓にはすでに料理が並ぶ。兵の訓練は城の外で行われる。


 ここでは違う。


 すべてが近い。


 兵の声も、馬の匂いも、鍛冶の火も。


 ローディスが言った。


「飯を食うかい?」


 ヴィルギニスは頷いた。


 二人は廊下に出た。


 廊下といっても王城のような長い回廊ではない。石壁の短い通路で、床は木板だった。歩くと音が鳴る。


 侍女はいない。


 代わりに兵が歩いている。


 彼らはヴィルギニスを見ると一瞬視線を向けたが、すぐに外した。


 誰も礼をしない。


 誰も頭を下げない。


 それが普通だった。


 食堂は砦の中央にあった。


 長い木の机。

 兵がすでに座っている。


 パン、麦粥、燻肉。


 王城の朝食とは比べ物にならない。


 ローディスは席につき、パンをちぎった。


「ほら」


 ヴィルギニスにも皿を押す。


 ヴィルギニスは自分でパンを取った。


 その瞬間、兵の一人が少し驚いた顔をした。


 王都の貴族なら侍従に取らせるからだ。


 ローディスはそれを見て、楽しそうに言った。


「気にするな」


 兵に言う。


「この坊やは自分で食える」


 兵たちは小さく笑った。


 ヴィルギニスは黙ってパンを食べる。


 粗い味だ。

 だが悪くない。


 ローディスが言った。


「王都はどうだった?」


 ヴィルギニスは少し考えた。


「静かでした」


 ローディスは笑う。


「ここはうるさいだろう」


「はい」


「慣れるさ」


 それから少し声を落とす。


「ここでは王子じゃない」


 ヴィルギニスは頷いた。


「理解しています」


 ローディスはパンをかじりながら言った。


「理解する必要はない」


「え?」


「そのうち勝手にわかる」


 彼は窓の外を指した。


 丘の下で兵が走っている。

 遠くの畑にはまだ霧が残っていた。


「ここが国だ」


 その言葉は軽い調子だったが、どこか重みがあった。


 ヴィルギニスはその景色を見た。


 王城の高い塔から見た国とは違う。


 ここでは人の顔が見える。

 兵の汗が見える。

 畑の土が見える。


 ローディスは言った。


「王都は頭だ」


 そして笑う。


「だがここは脚だ」


 ヴィルギニスはその言葉を覚えた。


 食堂の外で風が吹いた。

 湿地の匂いを運んでくる風だった。


【5】


 辺境の昼は、王都よりも騒がしい。

 それは人の数が多いからではなく、音が隠れないからだった。


 砦の外へ出ると、すぐに風が変わる。湿地の匂い、湿った土、刈り残された草の青い匂い。それらが混じり合って、王都にはない濃い空気を作っていた。


 ヴィルギニスはローディス辺境伯の後ろを歩いていた。護衛は二人。だが彼らは距離を取っている。王子の護衛ではなく、ただの客人の護衛という距離だった。


 砦の門を抜けると、小さな集落が広がっている。石と木で組まれた家。屋根は藁。壁には乾かした薪が積まれている。


 王都では見ない光景だった。


「ここが領都だ」


 ローディスが言う。


「……」


 ヴィルギニスは少し意外だった。領都という言葉から、もう少し整った町を想像していた。


 ローディスは振り返り、笑った。


「王城と比べるなよ」


「いえ」


 ヴィルギニスは答える。


「ただ、思っていたより小さい」


「小さいさ」


 ローディスは肩をすくめた。


「だが生きている」


 その言葉の意味はすぐにわかった。


 通りでは人が動いている。薪を運ぶ女、荷車を引く老人、犬を追い回す子供。市場と呼べるほどではないが、小さな屋台も出ていた。


 人々はローディスを見ると軽く頭を下げる。だが深くは礼をしない。


「殿様」


 と呼ぶ声もあれば、


「伯爵」


 と呼ぶ声もある。


 ローディスはどちらにも同じように手を振った。


 ヴィルギニスを見た人々は、一瞬だけ視線を止める。赤茶色の髪の少年。見慣れない顔。


 だがすぐに興味を失う。


 王都なら違った。

 王子が歩けば、人は膝をつく。


 ここでは誰も膝をつかない。


「新鮮かい?」


 ローディスが聞いた。


「はい」


 ヴィルギニスは正直に答えた。


「誰も気にしません」


「それが普通だ」


 ローディスは笑った。


「王子なんて生き物は、ここにはいない」


 そのときだった。


 通りの向こうで叫び声が上がる。


「やめろって!」


 少年たちが走り回っている。木の棒を振り回して、互いを追いかけていた。


 戦いごっこだ。


 一人の少年が転んだ。泥が跳ねる。だがすぐに起き上がり、笑いながらまた棒を振る。


 ヴィルギニスは足を止めた。


 王城では見たことのない遊びだった。


 王子の遊びは、もっと整っている。木剣、教師、決められた型。


 だがここには型がない。


 ただ走り、叫び、笑っている。


 その中の一人がローディスに気づいた。


「伯爵!」


 少年は手を振る。


 ローディスも振り返す。


「生きてるか?」


「生きてる!」


 少年たちは笑った。


 ローディスはヴィルギニスを見た。


「兵の子だ」


 そして少し声を落とす。


「未来の兵でもある」


 少年たちは再び走り始めた。泥が跳ねる。木の棒がぶつかる音が響く。


 ヴィルギニスはその様子を見ていた。


 王城では、王子の周囲には必ず教師がいた。侍従がいた。決められた距離があった。


 だがここには何もない。


 ただ子供たちがいる。


「……」


 ヴィルギニスは小さく言った。


「強いですね」


 ローディスは笑った。


「まだ弱い」


 そして続ける。


「だが腹が減ると強くなる」


 その言葉は冗談のようだったが、どこか本当の匂いがした。


 二人は通りを歩く。


 畑の方へ出ると、景色はさらに変わった。


 広い畑。

 だが麦は低い。


 葉は細く、色も薄い。


 ヴィルギニスは立ち止まった。


「……」


 ローディスは何も言わない。


 ヴィルギニスは畑を見ていた。


 王都では穀倉の数字しか見ない。帳面の数字、収穫量、輸入量。


 だがここでは違う。


 土が見える。


 麦が見える。


 そしてそれが育っていないことも。


 遠くで子供たちの笑い声が聞こえた。

 さっきの少年たちだ。


 彼らはまだ走っている。


 泥だらけになりながら。


 ローディスは静かに言った。


「王都は頭だ」


 ヴィルギニスはその言葉を覚えている。


 ローディスは続ける。


「だがここは脚だ」


 そして畑を見た。


「脚が弱れば」


 少しだけ笑う。


「頭は転ぶ」


 風が吹いた。


 湿地の匂いと、麦の匂いが混ざる。


 ヴィルギニスはその風の中で、初めて思った。


 王城で学んだ国と、

 目の前の国は、

 同じものではないのかもしれないと。


【5】


 同じ頃、王都では雲がまだ低く垂れ込めていた。

 雨は止みかけているが、空気は重く、街の石畳は湿り気を帯びている。港ではアクルックスの船が相変わらず帆を畳まず停泊し、青地に双龍の旗が湿った風に揺れていた。


 王城の廊下は静かだった。高い天井に灯された燭台の火がゆらぎ、長い影を床に落としている。ヴィルギニスの姿が消えてから、その廊下の広さが妙に際立つようになっていた。


 アルケスは窓辺に立ち、城下を見下ろしていた。翡翠の髪が窓から入る風にわずかに揺れる。市場では人々が集まり、炊き出しの列が伸びているのが見えた。


 背後から足音がした。


「兄上」


 ポルックスだった。淡い桃色の髪はいつも通り整えられているが、その手には帳面が握られている。食糧の計算帳だ。


「穀倉の残量を更新しました」


 アルケスは振り向かずに聞いた。


「どうだ」


 ポルックスは静かに答えた。


「三週間」


 短い言葉だった。


「それ以上は持ちません」


 アルケスの眉がわずかに動く。


「アクルックスの船が動かなければ」


 ポルックスはうなずいた。


「はい」


 しばらく沈黙が続く。

 やがてアルケスがぽつりと言った。


「……ヴィルギニスがいたら」


 言葉はそこで止まった。


 ポルックスは何も言わない。だが帳面を閉じる音が、わずかに大きく響いた。


 別の廊下では、カストルが杖をついて歩いていた。体調は良くない。だが歩みは止めない。


 護衛が後ろに控えている。


「穀倉の鍵を持ってこい」


 カストルは言った。


「今から見に行く」


 護衛が戸惑う。


「殿下、雨で足元が――」


「構わない」


 赤い瞳が冷たく光る。


「倉庫が空になるのに、王子が寝ていられるか」


 その言葉に護衛は黙った。


 城の裏門の方では、シャムが子供たちに囲まれていた。炊き出しの鍋の前で、配給の手伝いをしている。


 護衛が数歩離れて立っている。

 王子である以上、完全に自由ではない。


 だがシャムはその距離を気にしていないようだった。


「次」


 声をかける。


 痩せた子供が皿を差し出す。


 麦粥をよそいながら、シャムは思った。


 ヴィルギニスなら、この状況をどう見るだろう。


 あの青い瞳は、いつも冷静だった。


「……」


 シャムは鍋の中を見た。


 湯気の向こうで、麦がゆっくり揺れている。


 その光景のどこかに、王城にはない現実があるような気がした。


【6】


 辺境の夕方は早い。

 太陽が山の向こうへ沈むと、風が急に冷たくなる。


 ヴィルギニスは砦の外壁に立っていた。遠くの湿地に霧が広がり、夕焼けの光がそれを赤く染めている。


 ローディス辺境伯が隣に立った。


 手には細い枝を持っている。庭の花を整えていた途中らしい。


「どうだい」


 軽い声だった。


「辺境は」


 ヴィルギニスは少し考えた。


「静かです」


 ローディスは笑う。


「王都より?」


「はい」


 ローディスは枝をくるくる回した。


「静かに見えるだけさ」


 そして顎で下を示す。


 城壁の下では兵が焚き火を囲んでいる。鎧は古いが、手入れは行き届いている。


「彼らは冬を越える計算をしている」


 ローディスは言った。


「薪、干し肉、麦」


 そして畑の方を見る。


「だが麦が育たない」


 ヴィルギニスは黙って畑を見た。


 昼に見た低い麦。

 葉の色は薄く、風に弱く揺れていた。


 ローディスが言う。


「王都はまだ数字だ」


「だがここは土だ」


 少し笑う。


「土は嘘をつかない」


 ヴィルギニスはその言葉をゆっくり飲み込んだ。


 王城では、食糧は帳面の数字だった。

 収穫量、輸入量、消費量。


 だがここでは違う。


 麦が育たないことは、畑を見ればわかる。


 遠くで犬が吠えた。

 湿地から冷たい風が吹いてくる。


 ローディスはふと空を見上げた。


「君の母の国は、あの向こうだ」


 ヴィルギニスの瞳がわずかに動く。


 アクルックス。


 今は別の王朝が治めている国。


 ローディスは続けた。


「昔は強かった」


「そして優しかった」


 ヴィルギニスは何も言わない。


 ローディスは肩をすくめた。


「王家というのはね」


 枝を折る。


「滅びる」


 軽い調子だったが、その声はどこか静かだった。


【7】


 夜が深まるにつれて、辺境の空はゆっくりと晴れていった。

 昼間は低く垂れ込めていた雲が風に引き裂かれ、湿地の上に白い月が現れる。


 満月だった。


 湿地の水面は銀色に光り、静かな湖のように見える。風が通るたび、水面の光が揺れて、砦の石壁にも淡い反射が踊った。


 ヴィルギニスは砦の外壁に立っていた。

 護衛は少し離れた場所に控えている。王子としてではなく、あくまで「辺境伯の客人」として守る距離だった。


 風が冷たい。


 湿地から吹き上げてくる夜風は水の匂いを含んでいる。王都では感じたことのない匂いだった。湿った草、泥、遠くで燃える薪の煙。


 ヴィルギニスは黙って遠くを見ていた。


 その視線の先には、暗い丘陵と、黒く広がる畑がある。


 昼間に見た畑だ。


 麦は低く、葉は細く、色も弱い。

 風が吹くたび、頼りなく揺れる。


 ローディス辺境伯がゆっくり歩いてきた。

 相変わらず長い髪を後ろでまとめ、手には小さな剪定鋏を持っている。庭の木を整えていたらしい。


「まだ起きていたのかい」


 軽い声だった。


 ヴィルギニスは振り向いた。


「眠れません」


 ローディスは笑った。


「王都の寝台が恋しいか」


「いえ」


 ヴィルギニスは少し考え、首を振る。


「……ただ、考えていました」


「何を?」


 ヴィルギニスは畑の方を見た。


「麦です」


 ローディスは肩をすくめる。


「いい観察だ」


 そして隣に立ち、同じ方向を見る。


「王都では数字だろう」


「はい」


「だがここでは違う」


 ローディスは顎で畑を示した。


「見ればわかる」


 ヴィルギニスは静かに頷いた。


 畑の土は黒く湿っている。雨が続いたせいだ。だが麦は育たない。


 普通なら水は恵みだ。

 しかし今年の雨は違う。


 長く、重く、冷たい。


 ローディスが言う。


「この土地は湿地に近い」


「雨が続くと、根が腐る」


 ヴィルギニスは麦の列を見つめた。


「……王都の穀倉に入る麦は」


「もっと高い土地で育つ」


 ローディスが答える。


「ここは辺境だ」


 そして少し笑う。


「条件が悪い」


 風が吹いた。


 湿地の匂いが強くなる。


 ローディスは空を見上げた。


 満月が雲の隙間からのぞいている。


「龍の加護が弱まっている」


 誰に言うでもなく呟いた。


 ヴィルギニスの瞳がわずかに動く。


 ローディスは続ける。


「王都では神官がそう言っているだろう」


 ヴィルギニスは答えなかった。


 だが否定もしない。


 龍星逐鹿。

 神官たちが告げた言葉。


 龍の加護が弱まり、王を試す時代が来る。


 ローディスは軽く笑った。


「私は神官ではない」


「だが雨が続くと麦は育たない」


 それだけの話だ。


 ヴィルギニスは畑を見た。


 遠くの農家に灯りがともっている。

 小さな光だ。


 そこに人が住み、土を耕している。


 王都では見えない景色だった。


 ローディスがふと指を伸ばした。


「見えるか」


 湿地の向こう。


 暗い水面の奥に、細い道がある。


「川の古い流れだ」


 ヴィルギニスは目を細める。


「……道ですか」


「昔は川だった」


 ローディスは言った。


「この湿地は昔、もっと広い川だったらしい」


「だが流れが変わった」


 そして少しだけ笑う。


「水は移動する」


 ヴィルギニスはその言葉をゆっくり理解した。


「……つまり」


「そう」


 ローディスはうなずく。


「水の流れを変えれば」


 そして畑を見る。


「土は乾く」


 ヴィルギニスの視線が畑へ戻る。


 低い麦。


 湿った土。


 もし水が逃げれば。


「……」


 ローディスは肩をすくめた。


「簡単ではない」


「川を動かすには人手がいる」


「金もいる」


 そして笑う。


「だが不可能でもない」


 ヴィルギニスは黙ったまま湿地を見た。


 水面は月を映している。

 ゆっくり揺れながら。


 王都の穀倉、

 アクルックスから来る船、

 そしてこの湿地。


 すべてが、どこかで繋がっている気がした。


 ローディスが言う。


「君は王都で学んだ」


「数字も、政治も」


 そして視線を向ける。


「だが国は土で出来ている」


 ヴィルギニスはゆっくり息を吐いた。


 遠い王都のことを思い出す。


 アルケス。

 カストル。

 ポルックス。

 シャム。


 同じ月を見ているはずだった。


 ローディスが静かに言った。


「王都は頭だ」


 その言葉をヴィルギニスは覚えている。


「ここは脚だ」


 ローディスは続けた。


「脚が動かなければ」


 畑を指す。


「頭は飢える」


 風が強く吹いた。


 湿地の水面が大きく揺れる。

 月の光が崩れる。


 ヴィルギニスはその揺れる光を見ていた。


 やがて小さく言う。


「……王都は今、飢えています」


 ローディスは否定しない。


「その通り」


「だからアクルックスから麦を買う」


 そして少し笑う。


「だが輸入だけでは足りない」


 ヴィルギニスは湿地を見つめた。


 この水。


 この土地。


 もし水の流れを変えれば。


 低い麦も変わるのか。


 ローディスは何も言わず、ただその横顔を見ていた。


 そしてふと、おどけた声で言う。


「まあ」


「今すぐ王都を救えるわけじゃない」


 鋏をくるくる回す。


「だが覚えておくといい」


 月を見上げる。


「国を救うのは、たいてい土だ」


 ヴィルギニスはその言葉を胸の奥に沈めた。


 満月が湿地を照らしている。


 遠い王都でも、同じ光が城壁を照らしているはずだった。


 アルケスは地図を見ているかもしれない。

 ポルックスは帳面をめくっているかもしれない。

 カストルは穀倉の鍵を握っているかもしれない。

 シャムは炊き出しの列を見ているかもしれない。


 そして自分はここにいる。


 湿地の上で。


 ヴィルギニスは静かに思った。


 王は遠い。


 だが国は近い。


 そして、この土地がいつか王都の飢えを救う日が来るのかもしれない。


 夜風が湿地を渡った。


 満月の光の下で、低い麦が静かに揺れていた。


【7】


 翌朝、辺境の空は驚くほど澄んでいた。

 長く続いていた雨がようやく遠くへ去り、湿地の上には薄い霧が漂っている。朝日が昇るにつれ、その霧がゆっくりと解けていく様子は、まるで土地そのものが眠りから覚めていくようだった。


 砦の中庭では兵たちが既に動き始めている。

 馬の蹄が石畳を叩き、桶に汲まれた水が朝の光を反射する。鍛冶場からは金属を叩く乾いた音が響き、台所からは焼かれた黒パンの匂いが漂っていた。


 王城の朝とは違う。


 ヴィルギニスはその光景を静かに見ていた。

 赤茶に染められた髪は、朝の光の下ではわずかに赤味を帯びて見える。アクルックス王家の血を示す青い髪は、今は影を潜めていた。


 ローディス辺境伯は、庭で花をいじっていた。

 白髪混じりの茶髪を後ろで束ね、妙に上等な刺繍の入った上衣を着ている。辺境の領主とは思えないほど洒落た格好だった。


「起きるのが早いねえ」


 鋏を鳴らしながら言う。


 ヴィルギニスは少し頭を下げた。


「眠れませんでした」


 ローディスはくすりと笑った。


「王都の子は考えすぎる」


 そう言いながら花の枝を整える。


「土はもっと単純さ」


 彼は振り返り、畑の方を指さした。


 朝日を浴びた麦畑が広がっている。

 だがやはり背は低く、色も弱い。


「ほら」


 ローディスは言った。


「昨日と同じ顔をしている」


 ヴィルギニスは畑を見つめた。


 昨日と同じだ。

 確かに。


 雨が止んでも、麦はすぐには変わらない。


「人は雨が止むと安心する」


 ローディスは続けた。


「だが畑は昨日のままだ」


 その言葉を聞きながら、ヴィルギニスは湿地の方を思い出していた。


 昨夜見た古い川の跡。


 水の流れ。


「辺境伯」


 ヴィルギニスは静かに言った。


 ローディスが眉を上げる。


「なんだい」


「この湿地は」


 少し言葉を選ぶ。


「昔は川だったのですよね」


 ローディスは頷く。


「そう聞いている」


 そして笑う。


「祖父の祖父の話だがね」


 ヴィルギニスは続けた。


「水の流れを変えれば」


「畑は乾きますか」


 ローディスは鋏を止めた。


 そしてしばらく何も言わない。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「理屈ではな」


 軽く肩をすくめる。


「だが川は子供の積み木じゃない」


「人手がいる」


「石もいる」


「そして時間も」


 ヴィルギニスは黙って聞いていた。


 ローディスは少し目を細める。


「王都に送るつもりかい」


 ヴィルギニスは首を振った。


「いえ」


 そして小さく言う。


「まず見たい」


 ローディスの口元が楽しげに歪んだ。


「なるほど」


 鋏を懐にしまう。


「いいね」


「実にいい」


 彼は振り返り、大声で兵を呼んだ。


「馬を二頭」


 兵が驚いた顔をする。


「今から湿地を見に行く」


 兵はすぐに動き出した。


 ヴィルギニスは少しだけ驚いていた。


 ローディスは笑っている。


「王都の子は、まず地図を見る」


「だが私は」


 馬の鞍を叩く。


「まず泥を見る」


 馬が連れてこられた。


 黒い馬だ。

 小柄だが筋肉が締まっている。


 ローディスは軽く鞍にまたがった。


「さあ」


 ヴィルギニスを見る。


「泥の勉強だ」


 二頭の馬は砦を出た。


 道はすぐに土になる。

 昨夜の雨でぬかるんでいる。


 遠くの湿地からは鳥の声が聞こえる。

 白い鳥が水面を滑るように飛んでいた。


 ヴィルギニスはその風景を見ながら思った。


 王都では見たことのない景色だ。


 城の塔、石の道、整えられた庭。


 ここにはそれがない。


 あるのは土と水だけだ。


 ローディスが前を走りながら言った。


「王都の穀倉が空になる」


「そう聞いている」


 ヴィルギニスは頷いた。


「はい」


 ローディスは肩をすくめる。


「アクルックスの船が止まれば」


「終わりだ」


 その言葉は軽かった。


 だが重い。


 ヴィルギニスは馬を進めながら思った。


 アクルックス。


 母の国。


 今は別の王家が治める国。


 そこから麦を買う。


 王都の穀倉はそれで持っている。


 もし止まれば。


 ローディスが言った。


「国というのは妙なものだ」


 湿地を指す。


「ここで育つ麦は王都に届かない」


「だが王都が飢えれば」


「ここも終わる」


 ヴィルギニスはその言葉を考える。


 砦の向こうに湿地が見えてきた。


 広い水面。

 昨日と同じ景色。


 だが朝日がそれを金色に染めている。


 ローディスは馬を止めた。


「ここだ」


 二人は馬を降りた。


 足元の土は柔らかい。


 靴が少し沈む。


 水の流れが細く続いている。

 古い川の跡だ。


 ローディスが言った。


「見えるか」


 ヴィルギニスは頷いた。


 もしここに堰を作れば。


 水の流れは変わる。


 畑が乾く。


 麦が育つ。


 だが。


「……時間がかかる」


 ヴィルギニスは言った。


 ローディスは笑った。


「そう」


 そして静かに言う。


「だが国というのは」


 湿地を見渡す。


「たいてい時間で救われる」


 風が湿地を渡った。


 水面が揺れる。


 ヴィルギニスはその光景を見つめていた。


 遠く離れた王都を思い浮かべながら。


 アルケス。


 カストル。


 ポルックス。


 シャム。


 それぞれが今、違う場所で国を見ている。


 そして自分はここにいる。


 湿地の真ん中で。


 ヴィルギニスは静かに思った。


 この土地が。


 いつか王都を救う日が来るかもしれない。


 そしてそのとき、誰が王であっても。


 国はきっと、この土の上で生きていく。


 朝の風が麦畑を揺らした。

 まだ低い麦が、細く、しかし確かに揺れていた。


【8】


 湿地の朝は、静かなようでいて、耳を澄ませばさまざまな音が重なっている。

 遠くで水鳥が鳴き、葦が風に擦れ、細い流れが泥の間を抜けていく。王都の庭園の水音とは違う、粗く、だが確かな水の声だった。


 ヴィルギニスは足元の泥を見下ろした。靴の先がわずかに沈み、黒い水がにじみ出る。湿地の土は柔らかく、歩くたびにゆっくりと形を変えた。


 ローディス辺境伯は少し先で立ち止まり、杖の先で地面を軽く叩いた。

「ここだ」


 低い声だった。


 ヴィルギニスが近づくと、そこには細い水の流れがあった。幅は人の腕ほど。だが水は絶えず動き、湿地の奥からゆっくりと流れ出している。


「昔の川の名残りさ」


 ローディスは言った。


 彼はしゃがみ込み、泥を掬う。

 湿った黒い土が指の間から崩れ落ちる。


「この土地はね、もともと川の腹の中だった」


 ヴィルギニスはその言葉を静かに聞いていた。


 ローディスは続ける。


「流れが変わり、川は向こうへ移った。だが水は残る」


 彼は遠くの低い丘を指差した。

 丘の向こうには、かすかに別の水面が光っている。


「今の本流だ」


 ヴィルギニスはその方向を見た。

 確かに、遠くに銀色の帯が見える。


 ローディスが立ち上がる。


「つまり」


 杖で湿地の線をなぞる。


「ここを繋げば、水は戻る」


 ヴィルギニスの視線が地面を追う。

 細い流れは曲がりながら湿地を横切っている。


 もしここを掘り広げれば。


 水は動く。


 ローディスが言う。


「昔の領主がやろうとしたらしい」


「だが途中で諦めた」


 ヴィルギニスは聞いた。


「なぜですか」


 ローディスは肩をすくめる。


「戦だ」


 短い答えだった。


「人手は兵になり、畑は荒れた」


 風が吹き、葦が揺れた。

 湿地の水面に波紋が広がる。


 ヴィルギニスは少し考えた。


 もしこの水を動かせば。


 湿地は乾く。


 畑が増える。


 麦も育つ。


 だが同時に別の疑問が浮かぶ。


「辺境伯」


 ローディスが振り向く。


「なんだい」


「王都の穀倉が尽きるのは三週間ほどです」


 ローディスはうなずいた。


「聞いている」


「この工事は」


 ヴィルギニスは湿地を見た。


「間に合いません」


 ローディスは笑った。


「もちろんだ」


 そして杖を肩に担ぐ。


「だから王都はアクルックスから麦を買う」


 彼は空を見上げる。


 雲は薄くなり、青い空が広がっている。


「だが」


 ローディスは言葉を続けた。


「輸入は薬だ」


 ヴィルギニスは黙って聞く。


「効く」


 ローディスは言う。


「だが治らない」


 そして湿地を見た。


「国を治すのは土だ」


 その言葉は昨夜と同じだった。

 だが今は意味が少し違って聞こえる。


 ヴィルギニスは水の流れを見つめた。

 細い流れ。だが止まらない。


「辺境伯」


 ローディスが振り向く。


「この土地の農民は」


 ヴィルギニスは少し言葉を選んだ。


「何人いますか」


 ローディスは眉を上げた。


「農民か」


 少し考える。


「村が五つ」


「男だけなら三百ほどだ」


 ヴィルギニスは湿地を見た。


 三百。


 兵に比べれば少ない。

 だが土を動かすには十分かもしれない。


 ローディスはその視線を見て、にやりと笑った。


「君」


「十歳の顔じゃないね」


 ヴィルギニスは何も言わない。


 ローディスは楽しそうに続ける。


「だが面白い」


 そして湿地を見渡す。


「この土地を本気で考えた王子は、初めてだ」


 風が吹いた。


 遠くの麦畑が揺れる。

 低い麦が、細く、しかし確かに動く。


 ローディスはふと空を見上げた。


「君の母の国も」


 静かな声だった。


「かつては水の国だった」


 ヴィルギニスの瞳がわずかに揺れる。


 アクルックス。


 母の祖国。


 今は別の王朝が治めている。


 ローディスは続けた。


「水を治めた王は長く続く」


 そして湿地を見る。


「水を放置した王は滅びる」


 ヴィルギニスはその言葉を胸の奥で受け止めた。


 遠い王都では、王子たちがそれぞれの戦いをしている。


 アルケスは地図を見ている。

 ポルックスは穀倉を計算している。

 カストルは王としての決断を迫られている。

 シャムは民の列の中で現実を見ている。


 そして自分はここにいる。


 泥の上で。


 ヴィルギニスは静かに思った。


 王は城にいる。


 だが国はここにある。


 水の流れの中に。


 湿地の風が強く吹いた。

 細い流れの水面がきらりと光る。


 その光はまるで、遠くの王都へ続く細い道のようだった。


【9】


 湿地の風は昼になると少し暖かくなった。朝の霧はすでに消え、低い空の下に黒い土が広がっている。水は相変わらず細い筋となって湿地を横切り、ゆっくりと流れていた。


 ヴィルギニスはその流れの前に立っていた。足元の泥は重く、踏み込むと鈍い音を立てる。砦から連れてきた兵が数名、少し離れて様子を見守っていた。王命によって王子の身分は伏せられているが、それでも完全に放っておくことはできない。護衛は距離を保ちつつ、しかし常に視界の中にいた。


 ローディス辺境伯は相変わらず軽い調子で言った。


「さて、どうする?」


 ヴィルギニスは湿地を見渡した。昨日見た麦畑、遠くの村、湿った低地。どれも小さいが、確かにこの国の一部だ。


「水を逃がします」


 短い言葉だった。


 ローディスは愉快そうに眉を上げる。


「ほう」


「この流れを広げる」


 ヴィルギニスは細い水路を指した。


「川の跡に繋げば、水は戻るはずです」


 ローディスは笑った。


「言うのは簡単だ」


「ええ」


 ヴィルギニスはうなずいた。


「だから掘ります」


 その声は静かだったが、迷いはなかった。


 辺境伯はしばらく黙って少年を見ていた。赤茶に染められた髪。十歳の体。だが目は大人のそれに近い。


 やがて彼は手を叩いた。


「面白い」


 そして振り向き、兵に言う。


「村に伝えろ」


「人手を集める」


 兵が驚いた顔をする。


「本気ですか、閣下」


 ローディスは笑った。


「もちろん」


 そしてヴィルギニスを見る。


「王子様の勉強に付き合うのも領主の仕事さ」


 その日の午後、村から農民が集まった。鍬を担いだ男たち、籠を持つ女たち、泥だらけの子供たち。


 湿地の端に人が並ぶ。


 ヴィルギニスはその光景を見ていた。王都では見たことのない種類の集まりだった。ここでは命令ではなく、生活が人を動かす。


 ローディスが声を上げる。


「ここを掘る!」


 杖で地面を叩く。


「川を戻す!」


 農民たちは顔を見合わせた。

 そしてやがて、一人が鍬を振り下ろした。


 土が崩れる。


 湿った黒い土が掘り起こされ、水が少しだけ速く流れ始めた。


 ヴィルギニスはその光景を見ていた。

 国はこうして動くのかもしれない、と初めて思った。


【10】


 湿地の工事は、翌日から静かに始まった。


 空は相変わらず重い雲に覆われていたが、雨は降らない。湿った空気の中で、農民たちがゆっくりと集まり始める。鍬を担ぐ男、籠を持つ女、裸足で泥を踏みしめる子供。村の者たちは最初、何が始まるのか半信半疑だった。


 湿地の端に立つ少年――赤茶色の髪の客人を、皆がちらりと見ていた。


「誰だ?」


「辺境伯の客だろ」


「貴族の子らしい」


 噂は低く交わされるだけで、深くは広がらない。

 ローディス辺境伯が一言「手伝え」と言えば、この土地の人間は動く。それだけの関係だった。


 ローディスは杖で泥を叩きながら、集まった農民を見渡した。


「昔の川を戻す」


 短く言う。


「湿地の水を逃がす」


 農民たちは顔を見合わせた。


 一人の老人が言う。


「そんなこと出来るのか」


 ローディスは笑った。


「出来なきゃ諦める」


 そして杖を振る。


「だが試す価値はある」


 その軽い調子に、場の空気が少し和らぐ。

 そして最初の男が鍬を振り下ろした。


 泥が崩れ、黒い土が掘り起こされる。


 それを合図に、他の者も動き始めた。


 ヴィルギニスはその様子を少し離れて見ていた。

 彼はまだ鍬を持っていない。客人の立場である以上、最初から混ざるわけにはいかなかった。


 だがしばらくして、ローディスが振り返る。


「坊主」


 軽い声だった。


「見ているだけかい」


 ヴィルギニスは答えなかった。

 ただ一歩前に出る。


 農民の一人が予備の鍬を差し出した。


「使うか?」


 ヴィルギニスはそれを受け取る。


 鍬は重い。王城で使う訓練用の道具とは違い、柄も粗く、鉄も黒い。


 だが彼は泥の中へ足を踏み入れた。


 足元が沈む。

 泥が靴を掴む。


 最初の一振りはうまくいかなかった。

 鍬の刃が浅く滑り、湿った土が崩れるだけだった。


 それでも彼はもう一度振る。


 泥が跳ねる。


 農民の一人が笑った。


「貴族の坊ちゃんにしては悪くねえ」


 ヴィルギニスは何も言わない。


 ただ鍬を振る。


 時間が過ぎるにつれ、作業の形が見えてきた。

 細い水路が少しずつ広がり、湿地の水が動き始める。


 水は正直だった。


 土が崩れると、すぐに流れが変わる。


 ローディスは少し離れた場所で腕を組んでいた。


「いい顔だ」


 誰にともなく言う。


 ヴィルギニスの額には泥が跳ねている。

 赤茶の髪も湿気で額に張り付いていた。


 王城の王子には見えない。


 ただの少年だった。


 だがローディスだけは知っている。


 その背中がどこから来たのかを。


 夕方になる頃、掘られた溝はかなり長くなっていた。

 湿地の水が細い筋となって流れ始めている。


 まだ大きな変化ではない。


 だが確かに動いていた。


 農民たちは鍬を肩に担ぎながら溝を見下ろす。


「水が速くなったな」


「ほんとだ」


「明日も掘るか」


 誰かがそう言った。


 ローディスは笑う。


「そのつもりだ」


 そして視線をヴィルギニスに向ける。


 少年は泥の中で静かに水の流れを見ていた。


 王城の地図には載らない種類の地図が、今、彼の頭の中で形になり始めていた。


 湿地の水。


 古い川の跡。


 畑の高さ。


 村の位置。


 それらが繋がっていく。


 ローディスはぼそりと呟いた。


「王子というのは」


 風に紛れるほどの小さな声だった。


「面白い生き物だ」


 だがその声は誰にも届かなかった。


【12】


 湿地の工事は、思ったよりも静かに広がっていった。


 誰かが命令したわけではない。

 だが翌朝、昨日より多くの人間が集まっていた。


 鍬を担いだ農民、薪を運ぶついでに立ち寄った女、子供を背負ったまま土を運ぶ若い母親。村の人間たちは湿地の端に立ち、掘られた溝を覗き込む。


「水が動いてる」


 誰かが言った。


 確かに昨日より速い。

 細い流れだった水が、溝に吸い込まれるように流れている。


 ローディス辺境伯は相変わらず軽い顔をしていた。


 長髪の茶色に白が混じり、朝の風に揺れる。衣服は辺境の土に似つかわしくないほど美しく刺繍されていた。


「ほら」


 彼は杖で水を指す。


「動くだろ」


 農民たちは黙って頷く。


 湿地は彼らにとって長い間の諦めだった。

 春は水、夏は虫、秋は泥。


 麦が育たない土地。


 だが今、その水が逃げている。


 ヴィルギニスは少し離れた場所で鍬を振っていた。


 赤茶に染められた髪は汗で額に貼りついている。王都では侍従が必ず拭いてくれた汗だが、ここでは誰も気にしない。


 泥は重かった。


 鍬を振るたびに腕が震える。


 だが昨日よりうまく土が割れる。

 刃の入れ方を覚えてきたのだ。


 隣で作業していた老人が言った。


「坊主、手つきが良くなったな」


 ヴィルギニスは小さく頭を下げた。


 老人は笑う。


「最初は貴族の坊ちゃんかと思ったが」


 そして鍬を振る。


「意外と粘る」


 ヴィルギニスは何も言わない。

 ただ泥を掘る。


 その様子をローディスが見ていた。


 彼の目は細く、どこか楽しそうだった。


「いいねえ」


 誰にともなく言う。


「土は嘘をつかない」


 昼になる頃、溝はさらに伸びていた。

 湿地の水が、はっきりと流れを持ち始める。


 細い水路が蛇のように曲がりながら、古い川筋へ近づいていく。


 ローディスはしゃがみ込み、水を手で掬った。


 冷たい。


 そして流れは確かに強くなっている。


「うん」


 彼は満足そうに頷く。


「もう戻らない」


 誰かが聞いた。


「何がです」


 ローディスは立ち上がる。


「水さ」


 そして溝を見る。


「一度道を覚えた水は」


 杖で軽く叩く。


「戻らない」


 農民たちは黙ってそれを見ていた。


 その言葉は、水の話でありながら、どこか別の意味を持っていた。


 ヴィルギニスはその言葉を聞きながら鍬を止めた。


 視線を遠くの丘へ向ける。


 その向こうにあるのはアクルックス。


 母の国。


 今は別の王家の土地。


 水の道のように、国の流れも変わる。


 そして一度変われば、元には戻らない。


 ローディスが近づいてきた。


「どうだい」


 軽い声だった。


 ヴィルギニスは溝を見た。


 水が動いている。


「……少しだけ」


 彼は言う。


「国を見た気がします」


 ローディスは目を細める。


「ほう」


「王都では」


 ヴィルギニスは少し言葉を探した。


「国は帳面でした」


 ポルックスの帳面。

 穀倉の数字。


「だがここでは」


 湿地を見渡す。


「水です」


 ローディスは笑った。


「いい答えだ」


 そして肩を叩く。


「王子様の教育としては上出来だ」


 ヴィルギニスは何も言わない。


 ただ水の流れを見ていた。


 溝はまだ小さい。


 だが確かに湿地を変え始めている。


 遠くで農民の子供たちが走り回っていた。

 泥を跳ねながら、笑い声を上げている。


 ローディスはその光景を見て、ぼそりと呟いた。


「国というのは」


 風に紛れる声だった。


「だいたい、こういう所で決まる」


 湿地の風が吹いた。


 掘られた溝を水が流れる。


【13】


 王都の空は、辺境とは違う重さを持っていた。

 湿った灰色の雲が低く広がり、城壁の上を鈍く覆っている。遠くの塔の先端は霞に包まれ、鐘楼の鐘の音がいつもより鈍く響いていた。


 王城の廊下には、珍しく人の往来が多い。侍従、書記官、兵、そして見慣れない衣服の使節団。青地に双龍の旗を掲げたアクルックスの商人たちが、王城の中庭に並んだ荷馬車を見守っていた。


 その光景を、アルケスは窓辺から見下ろしていた。


 翡翠色の髪が窓から入る湿った風に揺れる。彼の視線は港の方へ向いていた。そこには帆を畳んだ船団が静かに並び、積み荷の麦袋が岸壁に運ばれている。


 その数は多い。

 だが、それでも王都全体を支えるには足りない。


「兄上」


 背後から声がした。


 振り向くと、ポルックスが立っていた。淡い桃色の髪を整え、いつもの帳面を腕に抱えている。彼の足取りは静かで、廊下の石床にほとんど音を立てない。


「穀倉の計算が出ました」


 ポルックスは言った。


 アルケスは窓から視線を外さずに答える。


「どうだ」


 ポルックスは帳面を開いた。細かな数字が整然と並んでいる。


「港に入った麦をすべて穀倉へ回した場合、王都は四十日持ちます」


 アルケスは少しだけ眉を動かした。


「四十日」


「はい」


 ポルックスはページをめくる。


「ただし、地方への配分を減らした場合です」


 アルケスは黙った。


 それはつまり、地方の村や町が飢えるという意味だった。


「アクルックスの第二船団が来れば」


 ポルックスは続けた。


「六十日です」


「来れば」


 アルケスが言う。


 ポルックスは頷いた。


「来れば」


 沈黙が落ちる。


 廊下の外では荷車の軋む音が響いていた。麦袋が運ばれ、兵が数を数える声が混ざる。


 その音を聞きながら、アルケスは静かに言った。


「交渉は」


 ポルックスは帳面を閉じた。


「まだです」


「今日、王が使節団と会います」


 その言葉に、アルケスは振り向いた。


「お前は」


「同席します」


 ポルックスは淡々と答える。


「穀倉の管理を任されていますから」


 アルケスはわずかに笑った。


「相変わらずだな」


 ポルックスは答えない。


 だがその目は静かだった。


 少し離れた別の廊下では、シャムが城下を見下ろしていた。

 城門の前には長い列ができている。


 炊き出しの列だ。


 雨に濡れた石畳の上に、人々が並んでいる。痩せた男、子供を抱いた女、年老いた老人。


 その列の前には、大きな鍋が据えられていた。

 兵と侍女が麦粥をよそい、皿に配る。


 シャムはその光景を黙って見ていた。


 花街で育った頃、食べ物を求める列は珍しくなかった。

 だが王都の城門の前にそれがあるのは、どこか現実ではないように感じた。


「殿下」


 後ろから護衛の声がする。


「ここは風が強い」


 シャムは小さく首を振った。


「平気」


 そしてもう一度列を見る。


 あの中に、ルカのような子供がいるかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎる。


 同じ頃、王城の奥では別の空気が流れていた。


 謁見の間。


 高い天井、長い赤絨毯、壁には古い王の肖像が並ぶ。その中央に、青地に双龍の旗を掲げたアクルックスの使節団が立っていた。


 彼らの衣は深い青。

 胸には銀の刺繍。


 王国の貴族たちが両側に並び、静かにその様子を見守っている。


 現王は玉座に座っていた。

 その背後には金の紋章が掲げられている。


 使節団の長が一歩前に出た。


「陛下」


 低く頭を下げる。


「我が王より、挨拶を」


 現王は静かに頷く。


「歓迎する」


 声は穏やかだった。


 だが謁見の間の空気は張り詰めている。


 使節団の長は続ける。


「我が国は、貴国との友誼を重んじております」


 言葉は礼儀正しい。


 だがその裏には計算がある。


 麦は武器だ。


 この飢饉の年、食糧は剣より強い。


 そのとき、後方に控えていたポルックスが前へ進んだ。


 貴族たちの視線が集まる。


 十歳の少年。


 だがその手には帳面がある。


 使節団の長が少し目を細めた。


「殿下」


 ポルックスは静かに言った。


「港に入った麦は感謝します」


 その声は穏やかだった。


「ですが」


 一拍置く。


「この国は、まだ飢えています」


 謁見の間が静まり返る。


 そしてポルックスは続けた。


「我々は麦を買います」


「ですが、それだけでは終わりません」


 使節団の長が問い返す。


「では?」


 ポルックスは真っ直ぐ相手を見た。


「取引をしましょう」


 その言葉は、十歳の少年が口にするにはあまりにも静かで、そして重かった。


 玉座の上で、現王はわずかに目を細めた。


 王都の空はまだ曇っている。


 だが王城の中では、別の流れが動き始めていた。

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