第十一章
【1】
穀倉の夜から二日後、雨はようやく弱まっていた。だが空はまだ低く、王都の上には灰色の雲が垂れ込めている。城壁の外では泥に沈んだ畑が広がり、芽の出ない麦畑はただの黒い土の海のようだった。風が吹くたび、湿った土の匂いが城まで届く。
王城の執務室では、灯りが昼でも落とされなかった。
長い机の上に広げられた地図には、赤い印がいくつも打たれている。穀倉、川、港、そしてアクルックスから来る輸送路。王は椅子に腰を下ろし、その地図を静かに見つめていた。
現王は金の髪を持つ男だった。
だがその髪にはすでに白が混じり始めている。
彼の前に、報告が並んでいた。
穀倉の事件。
盗人。
そして――
第二王子カストルの裁定。
扉の外で兵が告げる。
「第二王子殿下をお連れしました」
王は短く言う。
「入れ」
扉が開く。
カストルは一人で入ってきた。
薄桃色の髪は整えられているが、顔色はまだ青い。穀倉の夜から体調は優れない。それでも背筋は伸びている。
王は息子を見る。
そして言った。
「座れ」
カストルは座らない。
「立ったままで」
王は小さく頷いた。
沈黙が落ちる。
外では雨がまだ城壁を叩いている。
やがて王が口を開いた。
「穀倉の盗人」
カストルは答える。
「はい」
「お前が裁いた」
「はい」
王の指が机を叩く。
小さな音だった。
「なぜ」
その問いは短い。
カストルは迷わなかった。
「飢えていたからです」
王は目を細める。
「だから許した?」
カストルは首を振る。
「許してはいません」
王は黙る。
カストルは続ける。
「働かせました」
王の視線が動く。
「盗人を穀倉の番人にした」
「はい」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて王は言う。
「愚かだ」
カストルの瞳が揺れる。
だが言葉は出さない。
王は続ける。
「盗人を穀倉に置くとは」
その声は怒りではない。
冷たい判断だった。
「穀倉は国の腹だ」
カストルは答える。
「はい」
「そこに盗人を置いた」
「はい」
王は息を吐く。
それからゆっくり言う。
「もし盗まれたら」
カストルは答えた。
「斬れと言いました」
王は顔を上げる。
赤茶の瞳が、息子を見る。
「斬れると思うか」
その問いに、カストルは少しだけ言葉を探した。
そして言う。
「兵が」
王は首を振る。
「お前だ」
その言葉は重かった。
カストルは黙る。
王は言う。
「王の裁きとは」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「責任を背負うことだ」
カストルはその言葉を受け止める。
逃げない。
王は言った。
「盗人が麦を盗めば」
指が机を叩く。
「責任はお前に来る」
「はい」
「穀倉が空になれば」
「はい」
「民が飢えれば」
カストルは小さく息を吸った。
「……はい」
王はそれを見ていた。
そして静かに言う。
「覚えておけ」
その声は低い。
「王は慈悲では国を守れない」
その言葉は、部屋の中に重く落ちた。
そのとき、扉の外で声がした。
「陛下」
王は言う。
「入れ」
入ってきたのは、青い外套を着た男だった。
外交官だ。
男は膝をつく。
「アクルックスからの船が到着しました」
王の視線が動く。
「麦か」
「はい」
男は続ける。
「ですが」
一瞬、言葉を止める。
「条件があります」
王の眉がわずかに動く。
「言え」
男は言う。
「アクルックス王は」
そして続けた。
「亡命王女の子の動向を知りたいと」
部屋の空気が変わる。
カストルが顔を上げる。
王はゆっくり言う。
「ヴィルギニスか」
外交官は頷いた。
「はい」
その名は静かに落ちた。
亡国の王女の子。
隣国の血。
そして今、王都の第四王子。
王はしばらく黙っていた。
窓の外では雨が降っている。
その雨を見ながら、王は言う。
「なるほど」
低く、静かに。
「盤面を見ているな」
外交官は答えない。
王はゆっくり椅子に背を預ける。
そして言った。
「龍星逐鹿は」
小さく笑う。
「国外でも始まっているらしい」
そのころ城下では、シャムがまた炊き出しの列に来ていた。
護衛の兵が少し離れて立っている。
ルカが彼を見つけて手を振る。
「おい!」
シャムは笑う。
「今日も並んでるの?」
ルカは肩をすくめる。
「王子もだろ」
シャムは頷いた。
二人は列の最後に立つ。
遠くで穀倉の屋根が見える。
そこに、腹を刺された男――イェンが立っていることを、シャムはまだ知らなかった。
そして王城では、王が静かに呟いていた。
「そろそろ」
その声は小さい。
【2】
王城の執務室を出たカストルは、しばらく廊下を歩いていた。
長い石の廊下は昼でも暗く、壁に掛けられた燭台の火が静かに揺れている。窓の外ではまだ雨が降っていた。先ほどより弱くなったとはいえ、止む気配はない。石壁を伝う水の筋が、ゆっくりと下へ落ちている。
カストルは窓の前で足を止めた。
王の言葉が、胸に残っている。
――王は慈悲では国を守れない。
その声は低く、静かだった。怒鳴りつけるようなものではない。ただ、重い現実を置くような声音だった。
カストルは自分の手を見る。
小さな手だ。
拳を握る。
そのとき、後ろから足音が聞こえた。
「兄上」
振り向くと、ポルックスが立っていた。
双子の弟。
同じ薄桃色の髪と赤い瞳。だがポルックスの目はいつも冷静で、物事を少し引いた位置から見ている。
ポルックスは歩み寄る。
「陛下と話していたんですね」
カストルは頷く。
「聞いていたのか」
「廊下の向こうにいました」
ポルックスはわずかに笑う。
「怒られましたか」
カストルは首を振った。
「愚かだと言われた」
ポルックスは肩をすくめる。
「それは、よくある評価です」
カストルは小さく息を吐いた。
窓の外を見る。
遠くに穀倉の屋根が見える。
あの屋根の下に、イェンが立っている。
腹を刺された盗人。今は穀倉の番人。
カストルは言った。
「間違っていたか」
ポルックスはすぐには答えなかった。
しばらく窓の外を見てから言う。
「陛下は王です」
カストルは黙る。
ポルックスは続ける。
「王は国を見る」
そして少しだけ声を柔らげる。
「兄上は、人を見た」
カストルは弟を見る。
ポルックスの表情は穏やかだった。
「違うだけです」
カストルはまた窓を見る。
遠くの穀倉。
そこには今、盗人が立っている。
番人として。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
港の鐘だ。
低い音が、湿った空気を震わせて城まで届く。
ポルックスが言う。
「船ですね」
カストルも港を見る。
雨の向こうに、黒い船影がいくつも見える。
アクルックスの船。
麦を積んだ船だ。
この国の腹を支える船。
カストルは静かに言う。
「借りている」
ポルックスは頷く。
「そうですね」
その言葉は短い。
だが重い。
王都は今、隣国の麦で生きている。
ポルックスは言った。
「陛下は、あの船のことを考えています」
カストルは頷く。
「アクルックス」
その名は静かに落ちる。
ヴィルギニスの母の国。
そして今の王朝は、その王家を倒して建てられた国だ。
ポルックスは静かに言う。
「ヴィルギニス兄上のことも」
カストルは窓から目を離した。
廊下の奥を見る。
遠くの塔。
そこに、青みがかった髪の少年が立っている。
ヴィルギニスだった。
彼は港の方を見ている。
微動だにせず。
その背中は、どこか孤独だった。
カストルは小さく言う。
「……あいつは」
ポルックスが続ける。
「アクルックスの血」
カストルは頷く。
二人はしばらく黙って塔を見る。
ヴィルギニスは動かない。
港の船を見ている。
それは母の国の船。
だが同時に、母の王家を滅ぼした国の船でもある。
そのころ城下では、炊き出しの列がまた伸びていた。
雨上がりの泥の上に、長い列ができている。
その列の最後に、シャムが立っていた。
【3】
炊き出しの鍋から立ち上る湯気は、雨上がりの空気の中で白く広がっていた。
王都の通りはまだ泥に沈んでいる。石畳の隙間には水が残り、人が歩くたびに小さく跳ねる。濡れた布を干す縄が家々の間に張られ、そこを通る風が湿った匂いを運んでいた。
その匂いは、空腹を思い出させる匂いだった。
炊き出しの列は今日も長い。
大人も子どもも、声を出さずに並んでいる。
並ぶという行為は不思議なものだ。
腹が減っていても、人は静かになる。
鍋の前では兵が順番に粥を配っている。
木の椀に、薄い粥。
麦は少ない。
水が多い。
それでも、温かい。
その列の少し離れた場所に、シャムは立っていた。
護衛の兵が後ろにいる。王子である以上、列に紛れることはできない。民の食事を奪うわけにもいかない。だからシャムは、列の端から様子を見ているだけだった。
その隣にルカがいた。
ルカは列の中に立っている。
「今日は遅いな」
ルカが言う。
シャムは鍋を見て答える。
「人が多い」
ルカは肩をすくめた。
「麦が来たって聞いたのに」
シャムは言う。
「来た」
「じゃあなんで増えない」
シャムは少し黙った。
城では理由を知っている。
麦はすぐに配られない。穀倉に入れられ、量が測られ、兵糧や備蓄が計算される。炊き出しに回るのは、その後だ。
けれどそれを説明しても、ここに並ぶ人間には意味がない。
だからシャムは言わなかった。
ルカは前の人の背中を見ながら言う。
「噂知ってる?」
シャムは首を傾げる。
「なに」
ルカは声を少し落とした。
「盗人」
シャムは瞬きをする。
「穀倉の」
ルカは頷く。
「番人になったやつ」
シャムは小さく言う。
「イェン」
ルカが目を丸くする。
「名前知ってんの?」
シャムは頷く。
ルカは笑う。
「お前ほんと変だな」
そして少し真面目な顔になる。
「でもさ」
声をさらに小さくする。
「街じゃ違う噂もある」
シャムはルカを見る。
ルカは言う。
「王子が盗人を許した」
シャムは黙る。
ルカは続ける。
「それで」
顎で城の方向を指す。
「あの城の連中が怒ってる」
シャムは眉を寄せた。
「怒る?」
ルカは頷く。
「そりゃそうだろ」
少し笑う。
「麦は金だから」
シャムは答えない。
ただ穀倉の屋根の方を見る。
あの屋根の下にイェンがいる。
腹を刺された盗人。
そして今は麦を守る番人。
そのとき、鍋の前で声が上がった。
「次!」
列が少し進む。
ルカも前へ動く。
シャムはその場に立ったままだ。
兵が粥を椀に入れる。
湯気が上がる。
ルカが言う。
「なあ」
シャムは顔を向ける。
「なに」
ルカは椀を見ながら言う。
「王子って」
少し考える。
「王になるのか」
シャムは少し考えた。
自分の頭に浮かぶ顔は四つ。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
ヴィルギニス。
その誰か。
あるいは――
分からない。
シャムは言う。
「龍が決める」
ルカが笑う。
「なんだそれ」
シャムは肩をすくめる。
「龍星逐鹿」
ルカは粥をすすりながら言う。
「じゃあ龍ってやつは」
城を見る。
「腹減らないんだろうな」
シャムは少しだけ笑った。
だが答えない。
ただ炊き出しの鍋を見つめる。
並んでいる人々。
湯気。
薄い粥。
花街で育ったころの記憶が、ふと胸の奥に浮かぶ。
あの頃は、並ぶことすらできなかった。
今は違う。
王城で食事が出る。
温かいパンも肉もある。
だからこそ、ここに立っている。
食べるためではなく、見るために。
この国がどうなっているのかを。
その頃、穀倉ではイェンが槍を持って立っていた。
腹の傷はまだ痛む。
それでも扉の横に立っている。
穀倉の前に、影が一つ近づいた。
痩せた男だった。
イェンは槍を少し上げる。
男は言う。
「……麦」
イェンは首を振る。
「だめだ」
男は少し黙った。
それから言う。
「そうだよな」
そして去っていく。
イェンはその背中を見送った。
そして小さく呟く。
「腹は減るよな」
穀倉の中には、まだ麦がある。
だが足りない。
その事実は、王城にも、城下にも、同じように重く落ちていた。
そしてこの飢えは、やがて王家そのものを揺らすことになる。
【4】
城の塔の窓辺に立つヴィルギニスは、長いあいだ港を見ていた。
雨はほとんど止んでいる。だが空はまだ低く、雲は重い灰色をしていた。遠くの海は鉛のように暗く、その上にアクルックスの船がいくつも浮かんでいる。
帆は半ば降ろされ、甲板では荷が降ろされていた。
麦袋だ。
港には兵と荷運びが並び、馬車が行き来している。麦はすぐに穀倉へ運ばれる。
ヴィルギニスはそれを黙って見ていた。
母の国の船。
だが正確には違う。
母の国はもうない。
アクルックスの前王朝は、内戦で滅びた。
王宮は焼かれ、王族は殺された。
その生き残りの一人が、ヴィルギニスの母だった。
王女。
亡命者。
そして先代王の第二妃。
ヴィルギニスはゆっくり瞬きをする。
港で荷を降ろしている船の旗を見る。
今のアクルックスの紋章。
母の紋章ではない。
そのとき、後ろで足音がした。
振り向くとアルケスが立っていた。
翡翠の髪が窓の光を受けて、少しだけ明るく見える。
アルケスは塔の中へ入ってきて、同じように港を見る。
「船が多い」
ヴィルギニスは答える。
「今年は特に」
アルケスはしばらく黙っていた。
港の麦袋を見る。
そして言う。
「借りている」
ヴィルギニスは小さく頷く。
「そう」
アルケスは少しだけ言葉を探した。
「母上の国の船だな」
ヴィルギニスは微かに笑った。
その笑いには温度がない。
「違う」
静かに言う。
「母の国はもうない」
風が吹く。
港の旗が揺れる。
ヴィルギニスは続ける。
「あるのは」
少しだけ間を置く。
「母の王家を滅ぼした国」
アルケスは言葉を失った。
ヴィルギニスは港を見続ける。
「だが麦は来る」
アルケスは言う。
「飢えているから」
ヴィルギニスは頷く。
「そう」
その声は淡々としている。
感情がないわけではない。
ただ表に出ない。
ヴィルギニスは言った。
「アクルックスは賢い」
アルケスが見る。
「どういう意味だ」
ヴィルギニスは港を指さす。
「麦を売る」
それから城を見る。
「そして」
小さく続ける。
「私を見る」
アルケスは理解する。
アクルックスはただ麦を売っているわけではない。
この国を見ている。
王家を見ている。
そして――
ヴィルギニスを見ている。
亡命王女の子。
かつての王家の血。
アルケスは静かに言う。
「利用するつもりか」
ヴィルギニスは肩をすくめる。
「可能性を見るだけ」
風がまた吹く。
塔の窓に雨の雫が残っている。
そのころ穀倉では、イェンが槍を持って立っていた。
腹の傷はまだ熱い。
布の下で、じわじわと痛む。
それでも彼は立っていた。
穀倉の扉の横。
番人として。
人が通る。
荷車が通る。
麦袋が運び込まれる。
そして、また一人の男が近づいた。
痩せた男。
イェンは槍を少し持ち上げる。
男は言う。
「……麦」
イェンは首を振る。
「だめだ」
男は少し黙る。
それから言う。
「分かってる」
そして去っていく。
イェンはその背中を見た。
それから穀倉の扉を見る。
あの中に麦がある。
この国の命。
イェンは小さく息を吐いた。
「番人か」
誰に言うでもなく呟く。
そのとき、遠くで蹄の音がした。
港からの道だ。
騎兵が一人、穀倉の前を通り過ぎる。
アクルックスの紋章。
イェンはその背中を見送る。
そして小さく言う。
「麦だけじゃないな」
この国に来ているのは。
その頃、王城の奥では現王が静かに書簡を読んでいた。
アクルックスからの書簡。
そこには丁寧な言葉が並んでいる。
麦の供給。
交易の強化。
友好の証。
そして最後に、一文。
王はそこを指でなぞる。
ゆっくりと読んだ。
「――亡き王女の御子の健やかなる成長を、我らも喜ばしく思う」
王は静かに笑った。
その笑みは冷たい。
「なるほど」
低く呟く。
「ヴィルギニスか」
雨はようやく止み始めていた。
だが空の奥には、まだ黒い雲が残っている。
【5】
港には潮と湿った麦の匂いが漂っていた。雨はようやく弱まり、雲の切れ間から淡い光が差し込んでいる。それでも空はまだ重く、海の色は鉛のように鈍い。岸壁には荷車が並び、兵の号令と馬のいななきが交じり合っていた。
その喧騒を、塔の窓からヴィルギニスは見下ろしていた。
港の沖に停泊している船には、青地の旗が掲げられている。
双龍が絡み合う紋章。
アクルックス王国の旗だ。
風が吹くたびに、二匹の龍は互いに牙を向け合うように揺れた。
ヴィルギニスはその旗を見つめたまま、長く瞬きをしなかった。
母の旗ではない。
母の国の旗は白かった。
そして龍は一匹だった。
白地に蒼龍。
穏やかな国を象徴する紋章だったと、彼は幼い頃に聞かされたことがある。
けれどその旗はもう存在しない。
王宮が焼けたあの日、引き裂かれたからだ。
港では兵が麦袋を数えている。
濡れた縄が軋み、荷車の車輪が泥を踏みしめる。
麦はこの国の命だ。
だがその命は、母の王家を滅ぼした国から運ばれてきている。
ヴィルギニスは窓枠に指を置いた。
冷たい石が指先を濡らす。
母はアクルックスの王女だった。
まだ国が穏やかだった頃、庭の白い花を摘み、宮廷の回廊で臣下に笑いかける王女だったと伝えられている。優しい王の娘。争いを嫌う王家。
その優しさが、国を弱くした。
冬の夜、王宮の門が内側から開いた。
味方だった兵が剣を抜き、宮殿は炎に包まれた。
王家は滅びた。
その知らせがこの国へ届いたのは、先代王アレスがまだ壮年の頃だった。
王は書簡を読み、長く黙っていたという。
宰相も将軍も言葉を持たなかった。
アクルックスは遠い国だったが、先代王はその王をよく知っていた。
「優しい王だった」
アレス王はそう言った。
窓の外を見ながら、静かな声で。
「優しい王は、長く続かぬ」
臣下は誰も答えなかった。
数日後、城門に一台の馬車が現れた。
旗はない。
護衛も少ない。
泥にまみれた旅の馬車だった。
扉が開き、若い女が降りてきた。
長い外套をまとい、髪は風に乱れている。
だが背筋はまっすぐだった。
彼女は門前で名乗った。
「アクルックス王家の娘」
そして言った。
「亡命を願います」
城門の空気が凍った。
滅びた王家の王女を受け入れることは、アクルックスの新王朝を敵に回すことになる。臣下は皆、王の判断を待った。
アレス王はしばらく王女を見つめていた。
疲れている。
けれど誇りは失っていない。
王は静かに言った。
「ここは亡命者を拒まぬ」
宰相が口を開こうとする。
だが王は手で制した。
「我が城は、滅びた者を追い出すほど狭くない」
そして、少し笑った。
「追われる王女を拒むほど、私は臆病でもない」
その日、亡命王女は城に迎えられた。
やがて彼女は第二妃となり、
その子としてヴィルギニスが生まれた。
塔の窓から港を見つめるヴィルギニスの瞳は、深く静かだった。
母はもういない。
亡命から六年後、持病で亡くなった。
先代王は彼女を国葬にした。
亡命王女に国葬。
臣下は驚いた。
だが王はただ言った。
「彼女はこの国の妃だ」
それだけだった。
ヴィルギニスは目を閉じる。
母の顔はあまり覚えていない。
けれど声は覚えている。
静かな声。
「ヴィルギニス」
その響きが、今でも雨の夜に聞こえる気がする。
港では、麦袋が次々と荷車へ積まれている。
青地に双龍の旗が風に揺れた。
ヴィルギニスは小さく呟いた。
「皮肉だな」
その頃、城下では炊き出しの列が伸びていた。
雨上がりの泥の上で、人々は静かに順番を待っている。
鍋から立ち上る湯気が白く広がり、薄い麦粥の匂いが漂っていた。
ルカは椀を両手で持ってすすった。
「今日はちょっと濃い」
隣を見る。
シャムは列から少し離れた場所に立っていた。
後ろには護衛の兵が控えている。
王子である以上、列に並ぶわけにはいかない。
シャムは炊き出しをじっと見ていた。
人々の顔。
椀の中の粥。
濡れた麦袋。
花街で暮らしていた頃の記憶が、胸の奥に浮かぶ。
あの頃は並ぶことすらできなかった。
今は違う。
城では温かい食事が出る。
だからこそ、シャムはここに立っている。
食べるためではなく、
この国の現実を見るために。
ルカが言う。
「なあ」
シャムが顔を向ける。
「なんで王子がここにいるんだ」
シャムは少し考えて答えた。
「見たいから」
ルカは笑う。
「変なやつだな」
そのとき、港の鐘が鳴った。
新しい船が入った合図だ。
人々がざわめく。
「またアクルックスの船か」
「助かる」
「今年は飢えずに済むか」
だが別の声も混ざる。
「借りてばかりだ」
「そのうち国が売られる」
シャムはその声を黙って聞いていた。
空はまだ暗い。
雨は止んだが、
飢えは止まっていない。
この国は今、
麦と借りの上に立っている。
そして王城の奥では、現王が新しい書簡を開いていた。
それは麦の話ではなかった。
【6】
雨が止んだ翌朝、王都の空気は重かった。
雲はまだ低く垂れ込め、石畳の隙間には昨夜の水が残っている。街路を行き交う人々の足元は泥に汚れ、乾ききらない空気が肌にまとわりつく。
だが人の流れは止まらない。
港から穀倉へ向かう道には、荷車が長く列を作っていた。
アクルックスから届いた麦袋を運ぶ車列だ。
兵が先導し、穀倉の前にはすでに数十人の人足が並んでいる。
その門の横に、イェンは立っていた。
槍を握る手はまだ慣れていない。腹の傷は完全には塞がっておらず、布の奥でじくりと痛む。それでも彼は背筋を伸ばしていた。
盗人だった男が、今は穀倉を守る番人だ。
この城下の人間で、それを知らない者はもういない。
荷車が止まり、麦袋が降ろされる。
兵が帳面をめくりながら数を確認している。
「二百四十七」
「二百四十八」
声が響く。
麦袋が穀倉の中へ運ばれていく。
イェンはその様子を黙って見ていた。
この麦がどれほどの命を繋ぐのか、彼には分からない。
だが足りないことだけは分かる。
腹が減るということは、誰よりも知っている。
その時、遠くから足音が聞こえた。
振り向くと、護衛を連れた少年が歩いてくる。
金の髪。
赤い瞳。
シャムだった。
イェンは槍を軽く下げる。
「……王子」
シャムは穀倉を見上げた。
巨大な木の扉。
その奥に、麦。
「増えた」
シャムは言った。
イェンは頷く。
「昨日の船だ」
シャムは麦袋を運ぶ人足たちを見ている。
濡れた服。
疲れた顔。
それでも麦袋を担ぐ腕は力強い。
シャムは言った。
「全部、アクルックス?」
「そうだ」
イェンは答える。
「この国の麦じゃない」
シャムはしばらく黙った。
やがて言う。
「借りてるんだな」
イェンは笑った。
苦い笑いだ。
「そういうことだ」
その言葉を聞いていたのは、シャムだけではなかった。
穀倉の影から一人の兵が歩み出る。
ポルックスだった。
薄桃色の髪が風に揺れる。
赤い瞳は冷静だった。
「借りているだけではない」
ポルックスは静かに言う。
シャムが振り向く。
ポルックスは麦袋を見た。
「価格も払う」
それから続ける。
「将来も」
シャムは首を傾げる。
ポルックスは説明しない。
ただ穀倉の扉を見上げる。
その目は計算している。
麦の量。
人口。
消費。
足りない。
どう計算しても余裕はない。
だが彼はそれを口にしない。
カストルの兄が聞けば、怒るからだ。
ポルックスはイェンを見る。
「傷は」
イェンは肩をすくめた。
「死ぬほどじゃない」
ポルックスは頷く。
それだけで十分だった。
その頃、王城の執務室では地図が広げられていた。
机の上には赤い印がいくつも置かれている。
穀倉。
港。
街道。
そして隣国アクルックス。
現王は椅子に座り、地図を見ていた。
その横にはアルケスが立っている。
翡翠の髪が窓の光を受けている。
王は言った。
「麦は足りぬ」
アルケスは頷く。
「はい」
王は地図を指した。
「アクルックスからの船は三度目だ」
アルケスは言う。
「それでも足りない」
王は静かに笑った。
「よく分かっている」
そして指を別の場所へ動かす。
「だから」
低く言う。
「輸出も止める」
アルケスが顔を上げる。
「塩と鉄」
王は言った。
「今年は外へ出さぬ」
それは大きな決断だった。
交易が止まれば、アクルックスとの関係も変わる。
アルケスはゆっくり息を吸った。
「怒ります」
王は頷く。
「そうだろう」
それから静かに言う。
「だが民が飢えるよりはましだ」
アルケスはその言葉を胸の奥で繰り返した。
王とは決断する者。
その意味を、少しだけ理解する。
同じ頃、城の別の廊下ではカストルが立っていた。
小柄な体。
赤い瞳。
その目は苛立っている。
目の前には穀倉の帳面。
ポルックスが書いた数字だ。
カストルはそれを見て言った。
「少ない」
ポルックスは答える。
「現実だ」
カストルは机を叩いた。
「増やせ」
ポルックスは静かに言う。
「作れない」
カストルは黙る。
その沈黙の奥に、怒りと焦りが混ざる。
自分は血統最上位。
本来なら王太子。
それなのに。
国は飢えている。
自分は何もできない。
その時、窓の外で風が吹いた。
青地に双龍の旗が、港の上で大きく揺れている。
カストルはそれを見た。
そして低く言う。
「借りるのは嫌いだ」
ポルックスは答えない。
ただ静かに帳面を閉じた。
外ではまた荷車の音が響く。
麦袋が穀倉へ運ばれていく。
【8】
穀倉の屋根は、雨を吸って黒く沈んでいた。
昼になっても空は明るくならない。雲は裂けず、ただ低く垂れ込めている。遠くの港では、青地に双龍の旗が風に揺れていた。濡れた布のように重く、しかし確かな形を保っている。
穀倉の門前に立つイェンは、その旗を一度だけ見上げてから、視線を下ろした。
目の前では麦袋が運び込まれている。
濡れた麻袋は人の肩に食い込み、担ぎ手の背を丸めさせる。
荷を降ろすたび、湿った麦の匂いが広がった。
その匂いは、飢えを知る者には甘い。
「……増えたな」
イェンは小さく言った。
返事をしたのは隣に立つ兵ではなく、後ろから歩いてきた少年だった。
「増えた」
金の髪が淡く光る。
シャムだった。
護衛の兵が数歩離れて控えている。
彼らは声を出さない。ただ周囲を見ている。
王子の護衛というのは、声のない壁のようなものだ。
シャムは穀倉の扉を見上げた。
巨大な木の扉は閉じられている。
その向こうに麦がある。
「……これで」
シャムは少し言葉を探した。
「足りる?」
イェンはすぐには答えなかった。
麦袋を運ぶ男たちを見て、少ししてから言った。
「足りない」
言葉は短かった。
シャムは黙った。
風が吹き、穀倉の屋根から水が落ちる。
ぽた、ぽた、と石を叩く。
その音を聞きながら、シャムは言った。
「じゃあ、どうする」
イェンは笑った。
「それを考えるのが王だろ」
そして槍を持ち直す。
「俺じゃない」
シャムは何も言わない。
ただ穀倉の扉を見つめていた。
その時、門の外から声がした。
「どけ!」
怒鳴り声だった。
人足たちが振り向く。
門の前に、荷車が止まっていた。
御者が怒鳴っている。
「道が詰まってる!」
だが詰まっているのは荷車ではない。
人だ。
炊き出しを終えた人々が、穀倉の周りに集まり始めていた。
腹が減れば、人は麦の匂いに引き寄せられる。
門の向こうに麦があると知れば、なおさらだ。
兵が声を張り上げる。
「下がれ!」
だが声は弱い。
人は動かない。
列の後ろから、子どもの泣き声が聞こえる。
シャムはその声を聞いた。
振り向く。
泣いているのは、ルカの弟だった。
ルカが慌てて背を叩いている。
「泣くな」
だが子どもは泣き止まない。
腹が減っている。
シャムは一歩だけ前に出た。
護衛の兵がすぐに動く。
「殿下」
低い声。
止める声。
シャムは首を振った。
「大丈夫」
そして人々の方へ歩く。
人々はざわめいた。
金の髪。
赤い瞳。
亡き王の面影。
その中を、シャムはゆっくり進む。
ルカが目を丸くする。
「おい」
シャムはしゃがんだ。
泣いている子どもを見た。
泥で汚れた顔。
鼻水。
震える肩。
シャムはしばらく黙っていた。
それから言った。
「もうすぐ粥が来る」
子どもは泣きながら顔を上げる。
「ほんと?」
シャムは頷いた。
「ほんと」
その様子を見ていたイェンは、何も言わなかった。
ただ穀倉の扉を見ている。
この扉の向こうにある麦が、どれほど人を狂わせるか知っている。
盗人だったからだ。
その時、別の足音が近づいた。
軽い足音。
ポルックスだった。
薄桃色の髪が風に揺れる。
彼は状況を一目見て理解した。
穀倉の門。
人の群れ。
泣く子ども。
シャム。
ポルックスは兵に言った。
「炊き出しを増やせ」
兵が驚く。
「しかし」
ポルックスは静かに言う。
「薄くする」
それだけだった。
兵は走った。
ポルックスは穀倉の扉を見る。
「開けるな」
イェンに言う。
イェンは頷く。
「分かってる」
ポルックスは少しだけ空を見た。
雲はまだ重い。
雨は止んだが、天気は変わらない。
そして遠くの港では、双龍の旗が揺れている。
母の国を滅ぼした旗。
その旗を、塔の上からヴィルギニスが見ていた。
彼は動かない。
ただ港を見る。
双龍の旗の向こうに、かつての旗を思い出す。
白地に蒼龍。
母の旗。
母の国。
そして滅びた王家。
ヴィルギニスは小さく呟いた。
「麦か」
それは救いか、
それとも鎖か。
誰にもまだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは、
この国の秤が、
今、静かに傾き始めているということだった。
【9】
夕暮れが近づくにつれ、空の色はさらに重く沈んでいった。雲は裂けることなく低く垂れ、王都の屋根の上に灰色の天井のように広がっている。雨は止んでいるのに、空気は濡れていた。街の石畳は乾かず、靴底が踏むたびに鈍い音を返す。
穀倉の前に集まった人々は、いつの間にか増えていた。
最初は数十人だった。
だが夕刻には、その倍ほどになっている。
炊き出しの鍋はすでに空になっていた。
兵が粥を配ったあと、人々は散るはずだった。だが今日は違う。
麦袋が運び込まれるのを、皆が見ていたからだ。
穀倉の中に麦がある。
その事実は、人を動かす。
ざわめきが広がる。
怒りでも、叫びでもない。
ただ、腹の奥から湧き上がる不安のざわめきだった。
穀倉の門の前に立つイェンは、その音を黙って聞いていた。
槍の柄が手の中で少し汗ばむ。
扉の向こうには麦がある。
この国の命。
だが開けるわけにはいかない。
麦は数えられ、配られ、計算されなければならない。
今ここで人々に渡せば、三日でなくなる。
そのあとに残るのは――本当の飢えだ。
イェンは唇を噛んだ。
かつてなら、自分はこの扉を破る側の人間だった。
腹が減れば、人は盗む。
それを知っている。
「……下がれ」
イェンは言った。
声は大きくなかった。
だが人々は聞いた。
しかし動かない。
その時、群衆の奥から怒鳴り声が上がった。
「麦があるんだろ!」
誰かが叫ぶ。
「なんで出さない!」
別の声が重なる。
「子どもが腹を空かせてる!」
ざわめきが波のように広がる。
イェンは槍を少し上げた。
兵が前へ出る。
緊張が空気を固める。
その時だった。
「やめろ」
声は低かった。
しかしよく通る。
人々が振り向く。
小柄な少年が歩いてきていた。
赤い瞳。
第二王子カストルだった。
護衛の兵が後ろにいる。
だが彼は一人で歩いているように見えた。
人々の間に静かな波が走る。
「王子だ」
誰かが囁く。
カストルは穀倉の前まで来ると、立ち止まった。
イェンを見る。
「開けてないな」
イェンは頷く。
「命令がない」
カストルは少しだけ笑った。
「正しい」
そして振り向く。
人々を見る。
その視線は鋭かった。
十歳の少年のものとは思えないほど冷たい。
「麦はある」
カストルは言った。
ざわめきが起きる。
だが彼は続ける。
「だが今は出さない」
人々の顔が変わる。
怒り。
不満。
カストルはそれを見ていた。
一歩だけ前へ出る。
背丈は低い。
それでも、声は揺れなかった。
「ここで配れば三日でなくなる」
誰も声を出さない。
「そのあとどうする」
沈黙。
カストルは言った。
「飢えたいのか」
その言葉は刃のようだった。
ざわめきが止まる。
人々は黙った。
その時、群衆の後ろでルカが息を呑んだ。
シャムもその横で立っている。
カストルの言葉は冷たい。
だが嘘ではない。
ポルックスが少し離れた場所から、その光景を見ていた。
兄の背中を見る。
小さい背中。
だが、今は大きく見えた。
カストルは続ける。
「麦は計算して配る」
「冬まで持たせる」
そして言う。
「王の仕事だ」
人々の中で、誰かが言った。
「お前が王か」
静かな挑発だった。
カストルは少しだけ首を傾げた。
「まだ違う」
そして続ける。
「だが」
赤い瞳が光る。
「王になる者は、こうやって決める」
沈黙が落ちた。
誰も動かない。
カストルはイェンを見る。
「門を守れ」
イェンは槍を握り直す。
「はい」
その時、遠くで鐘が鳴った。
港の鐘だ。
人々が振り向く。
海の向こうに、また船が見えた。
青地に双龍の旗。
アクルックスの船。
だがその船の形は、どこか違っていた。
ポルックスは目を細める。
船はゆっくり港へ入ってくる。
そして気づいた。
甲板に立っている人影。
商人ではない。
兵だ。
ポルックスは小さく呟いた。
「……使者か」
その頃、塔の窓からヴィルギニスがその船を見ていた。
双龍の旗。
そして兵。
彼の瞳が、わずかに細くなる。
母の国を奪った王朝。
その国の船が、今この港へ来ている。
ヴィルギニスは小さく言った。
「なるほど」
風が吹く。
双龍の旗が大きく揺れた。
この国の秤は、
今、さらに重いものを載せられようとしていた。
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