第十章 3
【1】
広間に落ちた沈黙は、雷鳴の余韻のように長く尾を引いていた。
カストルの言葉はまだ空気の中に残っている。
――僕が王になる。
その声は幼い。それでも、その瞬間だけは確かに広間の中心に立つ者の声だった。重臣たちの視線が一斉に動く。誰も口には出さないが、胸の奥でそれぞれが別の計算をしている。
王は黙っていた。
王妃も、宰相も。
だがレオニスだけが静かに笑っている。
その笑みは嘲りではない。むしろ興味だった。
「よいお言葉です」
そう言って、彼はゆっくりと視線を巡らせた。
まずカストル。
次にアルケス。
そしてポルックス。
その視線は、ほんの一瞬だけヴィルギニスの上で止まる。
ほんの一瞬。
だが、ヴィルギニスにはそれがはっきりとわかった。
(……知っている)
母の国。
ラルグスの前王朝。
その血はもうこの世界から消えたはずだった。王朝は滅び、王族は散り、名前さえ歴史の陰に沈みかけている。
だが交易国家は忘れない。
王朝が滅びても、血は消えない。
その証拠がここにいる。
ヴィルギニスは視線を落とした。
気づかないふりをすることは、幼い頃から身についた習慣だった。
王城の中で生きるための、静かな術。
そのとき、レオニスの視線が最後にシャムへ移る。
そこで、ほんの少しだけ止まった。
金の髪。
赤い瞳。
亡き王アレスと瓜二つの顔。
花街から現れた王子。
広間の灯りが、その髪を強く照らす。
レオニスの瞳が細くなった。
「……なるほど」
小さく呟く。
それは誰にも聞かせるつもりのない声だったが、ポルックスだけは聞き逃さなかった。
(あの人は、全部見てる)
盤面を見る者の目だ。
駒だけではなく、その背後にある手まで見ている。
レオニスは再び王へ向き直る。
「ラルグスは交易国家です」
声は穏やかだった。
「我々は友を求めます」
その言葉に、重臣の一人がわずかに眉を動かした。
友。
それは便利な言葉だ。
だが商人が使うとき、それは契約を意味する。
「今回の麦は、その証」
レオニスは続ける。
「そして我々は、未来の友を知りたい」
その言葉が終わると、広間の空気が再び沈んだ。
未来。
つまり次の王。
王はゆっくりと玉座の肘掛けを撫でた。
雨音はいつの間にか弱くなっている。
窓の外で、風が雲を少しだけ動かしていた。
「ならば」
王の声が響く。
低く、静かな声だった。
「見ていくがよい」
広間の全員が顔を上げる。
王の赤茶の瞳が、五人の王子を見渡した。
「龍星逐鹿は続く」
その言葉は、宣言だった。
重臣の間に小さなざわめきが広がる。
交易国家の使節の前で、試練を続けると告げたのだ。
王は続けた。
「次の試練は、王都の飢えだ」
その瞬間、空気が凍った。
「この雨が続けば、飢えは広がる」
王の言葉は淡々としている。
だがその意味は残酷だった。
「王とは、民を飢えさせぬ者」
ゆっくりと王は言う。
「五人の王子に問う」
灯りの炎が揺れる。
「この飢えを、どう止める」
沈黙。
広間は息を潜めた。
アルケスは胸の奥で鼓動が強くなるのを感じた。父の言葉は、いつもまっすぐだ。だが今回は違う。
これは問題ではない。
試練だ。
カストルは唇を噛む。
体の奥に残る痛みを忘れるように、拳を握る。
民が飢える。
その現実が胸に刺さる。
ポルックスはゆっくりと息を吐いた。
(盤が開いた)
飢饉。
交易。
王子。
すべてが一つの盤に並んだ。
ヴィルギニスは静かに立っている。
だが胸の奥では別の風が吹いていた。
ラルグスの使節。
母の国。
もし彼がその血を知っているなら――。
シャムはただ、広間の灯りを見ていた。
民の列の最後にいたルカの顔が、ふいに浮かぶ。
麦があれば助かる。
それだけだ。
だが王城では、それが試練になる。
王は最後に言った。
「七日」
その声は静かだった。
「七日のうちに、飢えを止めよ」
広間の空気が張り詰める。
七日。
それはあまりにも短い。
だが王は動じない。
「それができぬ者は」
ほんのわずか、言葉を止める。
「王にはなれぬ」
雷が遠くで鳴った。
だが雨は、もうほとんど止んでいた。
雲の隙間から、月の光がわずかに差し込む。
その光は広間の床に落ち、五人の影を長く伸ばした。
龍星逐鹿。
その盤は、いま完全に開かれた。
そして五人の王子は、それぞれ別の思いを胸に、同じ夜の中に立っていた。
【2】
七日。
王の口から落ちたその言葉は、広間の空気を重く沈めた。
灯りに照らされた石床に、五人の影が長く伸びている。誰もすぐには動かなかった。重臣たちの視線はそれぞれ別の王子に向けられ、誰かが小さく息を吸う音だけが響く。
七日で飢えを止めよ。
それは問いではない。
命令でもない。
試練だった。
王はそのまま黙り、玉座の背に身を預ける。赤茶の瞳は静かに五人を見渡しているが、その奥に感情は見えない。
最初に動いたのはアルケスだった。
翡翠の髪が揺れ、彼は一歩だけ前へ出る。まだ十歳の体だ。だがその歩みには迷いがなかった。王の嫡子として育てられた者の歩き方だった。
「七日で……ですか」
声は落ち着いていた。
王は頷く。
「そうだ」
それだけだった。
アルケスは少しだけ考えた。頭の中に王都の地図が浮かぶ。穀倉、川、港、市場、炊き出し。先ほど見た雨の水位。北の堤。南の市場。
(七日でできること)
答えはまだ見えない。
だが考え続けるしかない。
その横で、カストルが拳を握っていた。
小さな体の中で、血が熱く流れているのがわかる。胸の奥の痛みはまだ消えない。それでも、その痛みを押し込めるように背を伸ばした。
飢えを止める。
王の仕事だ。
「……やる」
小さく呟く。
それは誰に聞かせる言葉でもなかった。
だがポルックスだけは聞いていた。
弟は兄の横顔を見つめる。
その顔は幼い。まだ十歳の少年の顔だ。けれどその奥には、燃えるような意志がある。
(兄上は本気だ)
ポルックスは静かに思う。
そして同時に理解する。
兄は王になろうとしている。
本当に。
その覚悟がある。
ならば。
(僕は盤を整える)
怒りではなく、焦りでもなく。
ただ静かにそう決める。
そのとき、ヴィルギニスの視線が港の使節に向いた。
レオニスはまだ微笑んでいる。あの男は楽しんでいるのだ。飢饉も、王子も、政治も。
すべてを盤として。
ヴィルギニスの胸の奥に、わずかな冷たい風が吹く。
母の国。
ラルグス。
滅びた王朝。
もし彼がそのことを知っているなら。
もしそれを利用しようとするなら。
(……あり得る)
だが彼は何も言わない。
生まれた瞬間から、沈黙は彼の武器だった。
そしてシャムは、広間の灯りをぼんやり見ていた。
七日。
飢え。
王。
その言葉は、まだ頭の中でうまく形にならない。
だが、ひとつだけはわかる。
ルカの顔。
炊き出しの列の最後にいた少年。
あの笑い。
「麦があれば助かるな」
その言葉。
シャムの胸の奥に、静かな熱が灯る。
王子としてではない。
ただ、人として。
(助けないと)
その思いは、単純だった。
王は五人を見ている。
その視線は鋭い。
だがそこには、ほんのわずかな期待もあった。
やがて王は手を軽く振る。
「下がれ」
その一言で、広間の緊張が少しだけ緩んだ。
王子たちは礼をして、静かに広間を出る。
廊下に出ると、外の空気が冷たかった。雨はほとんど止んでいる。石の壁から湿気が立ち上り、夜の風がわずかに吹き込む。
誰もすぐには話さない。
五人は並んで歩く。
その沈黙を破ったのはポルックスだった。
「兄上」
カストルが顔を向ける。
「なに」
ポルックスは柔らかく言った。
「七日ある」
カストルは少しだけ眉をひそめる。
「短い」
「でも、ある」
ポルックスは微笑む。
「やれる」
その言葉は、優しかった。
カストルは小さく息を吐く。
「……当たり前だ」
その声は、さっきより少しだけ軽くなっていた。
前を歩くアルケスは振り返らない。
だがその背中は、考え続けている背中だった。
ヴィルギニスは静かに歩く。
シャムは少し遅れて歩く。
それぞれ違う考えを抱えながら。
廊下の窓から月が見えた。
雲が少しだけ裂けている。
遠く港の灯りが揺れる。
ラルグスの船はまだそこにある。
そして王都のどこかで、空腹の子どもが眠りにつこうとしている。
七日。
その七日で、何かが変わる。
【3】
広間を出たとき、廊下の空気は冷えていた。雨は止みかけている。だが石壁に染みこんだ湿りはまだ残り、窓の外では低い雲が王都の屋根を押し潰すように漂っていた。灯りの火は静かに揺れ、長い廊下に五人の影を伸ばしている。
七日。
王の言葉はまだ胸の奥に残っていた。
誰もすぐには口を開かなかった。王城の廊下は、昼でも夜のように静かだ。靴底が石を擦る音だけが続く。遠くで衛兵が交代する声が聞こえ、どこかの扉が閉まる重い音が響いた。
最初に立ち止まったのはアルケスだった。
窓辺に近づき、濡れた硝子越しに王都を見下ろす。雨のあとで街は暗く沈んでいる。市場の屋根は濡れた布のように重く、通りにはまだ水が溜まっていた。
城下は静かだった。
静かすぎる。
いつもなら夜の市場には灯りがあり、酒場から笑い声が聞こえてくる。だが今は違う。食べるものが減ると、人は早く家に戻る。腹を空かせたまま灯りの下にいるのはつらいからだ。
アルケスはそれを知っている。
「……少ない」
ぽつりと呟く。
後ろにいたシャムが顔を上げた。
「なにが?」
「灯り」
アルケスは答える。
「街の灯りが少ない」
シャムも窓の外を見る。確かに灯りはまばらだった。花街にいた頃の夜は、もっと騒がしくて明るかった。笑い声と歌と酒の匂いが混ざる夜だ。
だが今の王都は、静かだ。
静かで、冷たい。
「みんな早く寝てるのかな」
シャムが言う。
アルケスは首を振る。
「違う」
それ以上は言わなかった。
眠っているのではない。
空腹で、動けないだけだ。
その沈黙の中で、カストルが歩み出る。
小さな背中だったが、その足取りはまっすぐだった。廊下の中央で止まり、振り返る。
「七日ある」
声は低い。
「七日で飢えを止める」
その言葉は自分自身に言い聞かせているようだった。
ポルックスがそっと兄の横に立つ。
「どうするの?」
優しい声だった。
カストルは答えない。代わりに窓の外を見た。濁った川。沈んだ畑。濡れた街。飢えた民。
胸の奥が焼けるように痛む。
王とは民を守る者。
その言葉が頭の中で何度も繰り返される。
「麦を増やす」
やっと出た言葉だった。
ポルックスは少し笑う。
「それができたら、もう王様だ」
カストルは睨む。
「笑うな」
「笑ってない」
ポルックスは首を振る。
「考えてる」
そして廊下の壁にかかる王国地図を指差した。古い羊皮紙の地図には川や街道、穀倉、港が細かく描かれている。
「麦は港にある」
「ラルグス」
カストルが言う。
ポルックスは頷く。
「でも全部じゃない」
指先が王都の周囲をなぞる。
「地方の穀倉」
「洪水」
「でも全部流されたわけじゃない」
カストルは地図を見る。
その視線は真剣だった。
「……集める」
「うん」
ポルックスは微笑む。
「集めて、配る」
単純な話だ。
だがそれは国の仕事だった。
そのとき、少し離れていたヴィルギニスが口を開く。
「問題は道だ」
全員が彼を見る。
青みがかった髪が灯りを受けて暗く光る。彼の声は静かだった。
「川が溢れている。橋も危ない」
ポルックスは頷く。
「だから騎士団」
「……動かす?」
カストルが言う。
ヴィルギニスは淡々と答える。
「兵は道を作る」
言葉は短いが、現実だった。
兵は戦うだけではない。
道を守り、荷を運び、国を動かす。
アルケスはそれを聞きながら、別のことを考えていた。
七日。
飢え。
王。
父が言った言葉。
そしてレオニスの視線。
(見られている)
交易国家は見ている。
どの王子が国を動かせるか。
その重さが、胸に沈む。
「……城下」
アルケスが言う。
四人が振り向く。
「城下も見る」
シャムの目が少しだけ輝く。
「民?」
アルケスは頷く。
「王は民を見る」
それは父の言葉だった。
その瞬間、シャムの胸の奥で何かが動いた。
ルカの顔が浮かぶ。
炊き出しの列の最後にいた少年。
あの笑い。
「行く」
シャムは言った。
「城下」
護衛が少しざわめく。
だがアルケスは止めない。
「明日だ」
そう言った。
廊下の窓から月が見えた。
雲の隙間から、わずかな光が落ちる。
王都の屋根に、その光が静かに広がる。
まだ暗い。
まだ飢えは終わらない。
だがその夜、五人の王子の胸の中で、別々の決意が静かに芽生えていた。
七日。
【4】
雨は完全には止まなかった。空は裂けかけた灰色の布のように低く垂れ、時折、細い霧のような雨が王城の屋根を濡らしていく。夜の王都は湿った匂いに満ちていた。石畳から立ち上る泥の匂い、濡れた木材の匂い、遠くの港から漂う潮の匂い。それらが混ざり合い、冷たい空気となって城壁の内側に流れ込んでくる。
王城の長い廊下は灯りが少なく、蝋燭の炎が細く揺れていた。石壁に掛けられたタペストリーは湿気を吸って重く垂れ、遠くで水滴が落ちる音が響く。その静かな廊下を、五人の王子はそれぞれの思いを胸に歩いていた。
七日。
王が告げた期限。
それは短い。だがその短さこそが試練だった。
飢饉は国の力を試す。
そしてその飢えは、王の器を試す。
アルケスは窓辺で足を止めたまま、王都を見下ろしていた。雲の隙間から漏れる月光が、濡れた屋根の上を淡く照らしている。だが街は静かだ。灯りは少なく、通りには人影もほとんどない。
腹が減れば、人は早く眠る。
眠れば、空腹を忘れられる。
それが王都の夜だった。
アルケスの胸の奥に、重いものが沈む。
(これが、国)
書物の中の王国ではない。
訓練場の理想でもない。
雨に濡れ、麦が足りず、民が静かに耐えている国。
それを守るのが王だ。
彼はゆっくり息を吐く。
背後では、カストルがまだ廊下の中央に立っていた。小さな体で背筋を伸ばし、地図の掛かる壁を見ている。灯りがその横顔を照らし、赤い瞳が暗く光っていた。
「七日……」
カストルが低く呟く。
その声には怒りと焦りが混ざっていた。
彼は拳を握る。
小さな手だった。
その手が机を叩いたときの音を、ポルックスは思い出していた。
兄は怒っている。
飢えに。
雨に。
そして自分の体に。
長く立つと息が苦しい。
胸の奥が痛む。
それでも、王になろうとしている。
ポルックスは兄の隣へ歩いた。
「兄上」
声は柔らかい。
カストルは振り向かない。
「なに」
「七日で全部はできない」
その言葉に、カストルの肩が動く。
怒るかもしれない。
だがポルックスは続けた。
「でも、七日で流れは変えられる」
カストルが振り返る。
ポルックスの瞳は静かだった。
「麦を運ぶ。
倉を開く。
道を作る。
民に見せる」
「……何を」
ポルックスは答えた。
「王が動いているってこと」
その言葉に、カストルは黙る。
それは、正しい。
民はすぐに満腹にはならない。
だが希望は腹を支える。
ポルックスはそれを知っていた。
そのとき、ヴィルギニスが廊下の窓に近づいた。青みがかった髪が月光を受け、銀色に見える。彼は静かに港の方向を見ていた。
遠くに灯りが揺れている。
ラルグスの船。
交易国家の船。
「見ている」
ヴィルギニスが小さく言う。
アルケスが振り返る。
「誰が」
「交易国家」
ヴィルギニスの声は低い。
「彼らは王を見ている」
その言葉は重かった。
交易国家は戦わない。
だが世界を動かす。
誰と組むか。
どこへ麦を運ぶか。
それだけで国の運命が変わる。
そして今、ラルグスは見ている。
五人の王子を。
ヴィルギニスの胸の奥に、遠い記憶が揺れる。
母の国。
ラルグスの前王朝。
燃える宮殿。
倒れた旗。
その血は、いま彼の体に流れている。
もしレオニスがそれを知っているなら。
もし利用するなら。
(盤はもっと大きい)
だがヴィルギニスはそれを口にしない。
沈黙は、彼の鎧だった。
少し離れた場所で、シャムは壁にもたれていた。石の冷たさが背中に伝わる。廊下の灯りを見上げながら、ぼんやりと考えていた。
王城は広い。
広すぎる。
花街の路地はもっと狭かった。
人の声が近く、笑い声が重なり、夜は賑やかだった。
ここは静かだ。
静かで、遠い。
だが城下には、ルカがいる。
炊き出しの列の最後にいた少年。
泥だらけの靴。
それでも笑った顔。
「麦があれば助かるな」
その言葉が頭から離れない。
シャムはゆっくり立ち上がる。
「……僕、城下に行く」
四人が振り向く。
護衛の兵が一歩動いた。
だがアルケスは止めない。
「明日だ」
アルケスが言う。
「明日、みんなで城下を見る」
カストルが眉をひそめる。
「王子が?」
アルケスは頷く。
「王子だから」
その言葉は静かだった。
だが強かった。
王は民を見る。
父の言葉だ。
廊下の窓から月が見えた。
雲はまだ多い。
だが少しだけ裂けている。
王都の屋根の上に、淡い光が落ちる。
遠く港では、ラルグスの船の灯りが揺れていた。
交易国家の目。
民の飢え。
王の試練。
すべてが静かに動き始めている。
そしてその中心にいるのは、まだ十歳の王子たちだった。
七日。
その七日で、国は変わるかもしれない。
あるいは――
王が決まるかもしれない。
その夜、王城の高塔では風が少し強く吹き始めていた。雲はゆっくりと流れ、隠れていた月が少しだけ顔を出す。
龍の加護はまだ戻らない。
だが試練は、確実に動いている。
【7】
翌朝、雨は「止んだ」と言い切れない形で残っていた。空はまだ灰色で、雲がゆっくりと重く流れている。風が吹くたびに、木々の葉から溜まっていた雫が落ち、石畳に小さな水の花を咲かせた。王城の中庭は湿り、砂利道は水を含んで鈍い色をしている。
鐘の音が鳴る。いつもなら儀式めいて響くその音が、今日はどこか焦りを含んで聞こえた。城下の人々も、同じ鐘を聞いている。何かが変わるかもしれない、と。変わらないかもしれない、と。
王子たちが城下へ出る。
その知らせが、すでに噂として流れ始めていた。
アルケスは正装ではなく、動きやすい外套を纏っていた。翡翠の髪は結い上げ、雨で乱れぬように固くまとめている。護衛は増え、前後に計六名。さらに目立たぬ距離で別の兵が付く。王家の子が外へ出るということは、それだけで危険を呼ぶ。
カストルは歩く前から息を整えていた。小さな体に外套が少し大きい。それでも彼は背筋を伸ばし、誰より前へ出ようとする。赤い瞳の光は強いが、頬の白さが際立っていた。
ポルックスは兄のすぐ隣に立つ。淡い桃色の髪が外套の襟からのぞき、目は穏やかだ。だが視線はいつも周囲を測っている。兄がふらつけば支える位置。護衛が動けば気づける位置。自然にそこへ立っている。
ヴィルギニスは少し後ろで、静かに歩き出す準備をしていた。青みがかった髪は濡れた空の色に馴染み、彼の存在は目立たない。それが彼の生き方だった。目立てば、血が語り出す。母の国の血が、呼び水になる。
シャムは城門の石段を降りながら、胸の奥が妙にざわつくのを感じていた。花街の道なら目を閉じても歩ける。だが王都の大通りは広く、視線が多い。しかも今日は「見られる」日だ。自分が王子として、民に。
城門が開くと、湿った空気と街の匂いが押し寄せた。泥、濡れた木、焦げた薪、そしてわずかに漂う煮粥の匂い。炊き出しの鍋は今日も動いている。だが列は長い。人々は肩を寄せ合い、息を白くして並んでいた。
王子たちが姿を現した瞬間、列の空気が変わった。
ざわり、と音がしたように思えた。誰かが囁く。誰かが息を呑む。子どもが母の袖を引く。老人が杖を強く握る。王子の姿は「救い」ではない。だが「目印」だ。国がまだ折れていないという目印。
アルケスは歩みを止め、列の端から端まで視線を走らせた。乾いた顔、濡れた髪、削れた頬。王城の窓から見る景色とは違う。ここには数字ではない命がある。
「……多い」
口に出た言葉は小さかった。
カストルは列を見るなり、胸の奥が熱くなるのを感じた。怒りとも違う。悔しさとも違う。ただ、重い。自分の血が誇りだと教えられてきた。その誇りの上に、今この列が乗っている。血が濃いなら、救えなければならない。
彼は一歩、前へ出ようとした。
その瞬間、足元の石畳が滑り、体がわずかに揺れた。
ポルックスの手がすぐに伸び、兄の肘を支える。支える動きは目立たない。だがカストルにはそれが屈辱のように感じられた。
「放せ」
低い声。
ポルックスはすぐに離す。離すが、距離は変えない。いつでも支えられる距離に、ただ戻る。
カストルは唇を噛み、何事もなかったように歩き続ける。護衛の兵が視線を交わす。誰も声には出さないが、その一瞬は確かに見られた。
そして見られたものは、すぐに噂になる。
「第二王子は……」
「体が……」
「でも血は……」
民の囁きは、雨より静かに広がる。
ポルックスはその囁きを聞きながら、胸の奥が冷えるのを感じた。兄の弱さを見られることが、盤面を変える。だが彼は表情を変えない。変えれば、余計に燃える。
(兄上は王になる)
(そのために、僕が壁になる)
そう決めている。
列の最後のほうで、ルカがこちらを見ていた。昨日より顔が汚れている。髪が濡れて額に張りつき、手は赤く冷えている。それでも目はしっかりしていた。生きる目だ。
シャムはその目を見つけた瞬間、胸の奥がほどけるような気がした。
ルカは列から抜け出しはしなかった。護衛が目を光らせているし、そんなことをすれば叱られる。だが、彼は小さく手を振った。ほんの一瞬。
シャムは同じように指先だけで返す。
それだけで、何かがつながったように感じる。
アルケスは炊き出しの鍋を見た。鍋は大きい。だが、足りるようには見えない。王都の腹を満たすには、もっと必要だ。彼は護衛の隊長に小声で言った。
「倉へ案内して」
隊長が一瞬だけ目を見開く。王子が自分で穀倉へ行くのか。だが拒むことはできない。
「承知しました」
ヴィルギニスはそのやり取りを見ていた。アルケスは盤面を動かそうとしている。城から眺めるだけでなく、現場を掴む。王のやり方だ。
そのとき、港の方向から鐘が鳴った。
短く、乾いた音。
港の合図だ。
人々がざわめく。ラルグスの船が動くのか。麦が降ろされるのか。希望か、借りか。
ヴィルギニスは空を見上げた。雲の隙間はまだ小さいが、風が確かに変わってきている。
(外が動く)
外が動けば、内も動く。
国境も、血も、次の王も。
誰かの意思とは関係なく、盤は進む。
シャムはルカの方をもう一度見た。ルカは粥を受け取り、母らしき女のところへ走っていく。走る足は裸足で、濡れた石畳を蹴っている。それでも転ばない。必死だからだ。
シャムは息を吸う。
七日。
その七日で、救える命があるなら、救いたい。
それは王子の義務ではなく、かつて靴を磨いて生きてきた自分の約束だった。
王子たちはそれぞれの方向へ動き出した。穀倉へ向かう者、港へ目を向ける者、民の列を記憶に刻む者。護衛がその動きに合わせて配置を変える。剣の音がかすかに鳴り、外套が雨を払う。
王都はまだ飢えている。
だがこの朝、王都は初めて見た。
王子たちが「見る側」ではなく「動く側」に回る瞬間を。
雲の隙間から、わずかな光が落ちた。濡れた石畳がその光を受け、短くきらりと輝く。
それは小さな兆しだった。
龍の加護ではない。
まだ奇跡でもない。
けれど確かに、盤面がひとつ動いた音がした。
【5】
穀倉へ向かう道は、城下の大通りから少し外れていた。石畳はところどころ崩れ、雨水が細い流れとなって溝へ落ちている。昨日まで続いていた長雨のせいで、道は柔らかく、荷車の轍が深く刻まれていた。
王子たちが通ると、人々は自然と道を空けた。
ひざまずく者もいれば、ただ黙って見送る者もいる。
王子の姿を見るのは初めてという者も多い。
その視線は、温かいものばかりではなかった。
「……あれが」
「金の髪……」
「アレス王の……」
小さな囁きが広がる。
それはシャムへ向けられたものだった。
シャムは気づいていた。
自分の髪が目立つことも、顔が亡き王に似ていることも。
だが花街で育った彼にとって、見られることは珍しくない。
それでも、今日の視線は違った。
花街の客の目は値踏みだった。
だが今の目は、何かを探している。
希望かもしれない。
あるいは――
王か。
シャムは足を止めずに歩いた。
護衛の兵が少し距離を詰める。
民衆の中に王子がいると、空気はいつもより張りつめる。
前を歩くアルケスは穀倉の門に着くと立ち止まった。
大きな木の扉は半分開いており、濡れた麦袋がいくつも運び込まれている。倉番たちが忙しそうに走り回り、兵がその動きを見守っていた。
「殿下」
倉番の老人が慌てて頭を下げる。
白い髭が胸まで伸び、長年穀倉を守ってきた顔だった。
「お見苦しいところを」
アルケスは首を振る。
「見に来た」
それだけだった。
王子が穀倉に来ることなど、ほとんどない。
倉番は戸惑いながらも、内部へ案内する。
倉の中は乾いた麦の匂いに満ちていた。
だがその匂いは薄い。
棚の半分が空いている。
積み上げられた袋の高さも、以前より低い。
ポルックスはそれを一目見て理解した。
帳簿の数字が、目の前に形を取っている。
「……三分の一」
小さく呟く。
カストルが聞き返す。
「なにが」
「残り」
ポルックスは言う。
カストルは唇を引き結ぶ。
その光景は、胸の奥をえぐるようだった。
王の国の穀倉。
それが空いている。
カストルは一歩前へ出た。
小さな体で、倉の中央に立つ。
「全部でいくつある」
倉番が答える。
「王都の穀倉は五つです」
「残っているのは」
「……二つ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が止まる。
アルケスは棚を見つめた。
ヴィルギニスは黙って床を見ている。
ポルックスは計算していた。
二つ。
それはつまり、王都の胃袋の残り時間だった。
シャムは袋に触れてみた。
粗い麻布の感触が手に残る。
重い。
それでも足りない。
花街の厨房で見た袋より、ずっと大きい。
だが街全体には小さすぎる。
そのとき、外から怒鳴り声が聞こえた。
「待て!」
兵の声だった。
王子たちは顔を上げる。
穀倉の門の外で、人が押し合っている。
炊き出しの列とは違う、荒い声。
「盗みだ!」
兵が叫ぶ。
痩せた男が一人、袋を抱えて走ろうとしていた。
その腕は震え、足は泥に取られている。
兵が捕まえる。
袋が地面に落ち、麦が散る。
一瞬、静寂が落ちた。
散った麦粒が石の上で小さく転がる。
それは小さな音だった。
だが、その音はやけに大きく聞こえた。
男は地面に押さえつけられながら叫ぶ。
「子どもがいるんだ!」
声は掠れている。
「三日食ってない!」
兵が腕を押さえる。
「盗みは罪だ!」
その言葉は正しい。
だが、誰もすぐに動かなかった。
カストルはその光景を見ていた。
拳が震えている。
怒りなのか、悲しみなのか。
自分でもわからない。
王とは民を守る者。
その言葉が胸を叩く。
カストルは一歩踏み出した。
「……離せ」
兵が振り向く。
「殿下?」
カストルの赤い瞳が光る。
「離せと言った」
兵は戸惑う。
だが命令は命令だった。
男の腕が放される。
男は呆然としている。
カストルは散った麦を見た。
泥の中に落ちた麦粒。
それを見つめたまま、言う。
「持っていけ」
兵が息を呑む。
倉番も驚いた。
だがカストルは振り向かない。
「子どもがいるなら」
声は小さい。
それでも確かだった。
「食わせろ」
男の目から涙が落ちた。
深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その背中が去っていく。
穀倉の前には、まだ沈黙が残っていた。
ポルックスは兄を見ていた。
その小さな背中を。
怒りでもなく、慈悲でもなく。
ただ、王になろうとしている背中だった。
アルケスはゆっくり息を吐く。
ヴィルギニスは空を見上げる。
雲が少しだけ裂けている。
光がわずかに差し込む。
シャムは散った麦粒を一つ拾った。
小さな粒だった。
だがそれは、命だった。
そしてその日、王都のどこかでまた一つ噂が生まれる。
第二王子が、麦を与えた。
その噂は静かに広がる。
雨より静かに。
【7】
王都の雨は、止んだあとも街に残る。
それは雫として軒から落ち、石畳の隙間に沈み、溝の泥に混じる。空気は冷たく、湿った麦の匂いが漂っていた。飢えた街には、独特の匂いがある。焦げた薪、湿った衣服、そして煮えきらない粥の湯気。
人は腹が減ると、よく匂いを覚える。
その日の夕暮れ、炊き出しの列はいつもより長かった。
人々は互いに押し合うことなく、ただ黙って並んでいる。怒りを出すほどの力も残っていないからだ。
列の最後にいた少年――ルカは、鍋から立ち上る湯気を見つめていた。
湯気は白く、ゆらゆら揺れている。
その奥に、ほんの少しだけ粥がある。
それだけで、人は並ぶ。
「……まだあるかな」
ルカは誰に言うでもなく呟いた。
答えはない。
けれど今日は、いつもと違う。
噂が流れていた。
第二王子が盗人を許した。
麦を持たせた。
その噂は、雨のあとに広がる水のように街へ染みていた。
人々はその話をする。
「王子様がな」
「袋ごとだってよ」
「子どもがいるって言ったらしい」
話すとき、人々の声は小さくなる。
それは希望の話だからだ。
希望は、声を大きくすると壊れる気がする。
だが同じ話を、違う場所で聞いた男がいた。
男は倉庫の裏に立っていた。
濡れた木壁にもたれ、煙草の代わりに細い藁を噛んでいる。
名前はイェン。
もともとは荷運びだった。
港で袋を運び、船の縄を引き、冬には魚をさばいた。
だが今は違う。
仕事がない。
港の船は減り、麦は足りず、荷を運ぶ仕事は兵がやるようになった。
そして腹は減る。
「……王子が麦をくれた?」
イェンは鼻で笑った。
その話を持ってきたのは、同じ裏通りに住む男だった。
「見たやつがいる」
「ほう」
「袋ごとだ」
イェンは藁を吐き出した。
「運がいい奴もいるもんだ」
男は言う。
「子どもがいるって言ったらしい」
イェンは少し考えた。
それから肩をすくめる。
「なら俺にも子どもがいる」
「お前いないだろ」
「腹はある」
その言葉に、二人は短く笑う。
笑いはすぐ消えた。
腹が減ると、長く笑えない。
そのとき、遠くから鐘の音が聞こえた。
港の鐘だ。
船が動く合図。
ラルグスの船が、また荷を降ろしている。
麦。
その言葉だけで、腹が鳴る。
イェンはゆっくり立ち上がった。
「どこ行く」
男が聞く。
「穀倉」
イェンは答える。
男は顔をしかめる。
「兵がいる」
「知ってる」
「捕まるぞ」
イェンは振り向く。
その目は静かだった。
「昨日は許された」
男は黙る。
確かにそうだ。
王子が許した。
麦をやった。
なら。
「……二人目も許されるかな」
男が言う。
イェンは笑わない。
ただ言う。
「やってみる」
その夜、王都の穀倉は静かだった。
兵は増えている。
王子が来た日から、警備は厳しくなった。
だが夜は長い。
兵も人間だ。
疲れる。
眠くなる。
そして飢えた街には、静かな足音が増える。
穀倉の裏の塀に、影が二つ現れた。
イェンと、その男だ。
塀は高い。
だが雨で石が滑る。
手をかける場所を探しながら、イェンは登る。
指が冷たい。
腕が震える。
腹が空いているからだ。
それでも登る。
人は、腹が減ると強くなる。
塀を越えた瞬間、穀倉の中庭が見えた。
灯りは少ない。
袋が積まれている。
麦。
その匂いが風に乗る。
イェンの喉が鳴った。
「……見ろ」
男が囁く。
「本当にある」
イェンは頷く。
そのとき、もう一つの影が動いた。
中庭の奥。
袋の陰。
誰かがいる。
そして、その男は袋を抱えていた。
イェンは目を細める。
その顔は見覚えがあった。
昨日、王子に許された男だ。
麦をもらった男。
袋をもらった男。
そして今、また盗みに来ている。
沈黙が落ちる。
イェンの胸の奥で、何かが音を立てた。
飢えではない。
怒りでもない。
もっと静かな何か。
「……あいつ」
男が呟く。
「もうもらったくせに」
イェンは答えない。
ただ、その男を見ていた。
昨日、王子に許された男。
今日、また盗む男。
そして、許されていない自分。
雨の匂いが強くなる。
遠くで犬が吠える。
そしてその夜。
王都の穀倉で、
二人の盗人が、同じ麦袋に手を伸ばした。
【8】
二人の手が、同じ袋に触れた。
夜の穀倉は、静まり返っている。遠くの門で兵が足踏みする音がかすかに響く。濡れた地面に灯りが滲み、積まれた麦袋は影の塊のように見えた。
袋に触れた瞬間、三人の男は互いの存在をはっきりと認識した。
昨日、王子に許された男。
そして、今まさに盗もうとしている二人。
最初に声を出したのは、袋を抱え込んでいた男だった。
「……やめろ」
声は低い。震えていた。
イェンは手を離さない。
「やめるのはお前だ」
男の顔は青白かった。頬はこけ、目の下には濃い影がある。昨日の男だ。王子の前で土に頭をつけ、麦袋を抱えて帰った男。
その男が、またここにいる。
「これは俺のだ」
男が言う。
イェンは笑った。
声のない笑いだった。
「王子にもらったんじゃないのか」
男は黙った。
沈黙は短かった。
「足りなかった」
その言葉は、ほとんど吐息だった。
雨の雫が軒から落ちる。ぽたり、と。
イェンは袋を握る力を強める。
「俺だって足りない」
横にいた仲間の男が、袋の端を掴む。
「三人で分ければいい」
その提案は、静かなものだった。
だが袋を抱えている男は首を振る。
「だめだ」
「なぜ」
「……子どもが三人いる」
その言葉は、空気を重くした。
イェンはしばらく何も言わなかった。
そして静かに答える。
「こっちにも腹がある」
それは真実だった。
この街の人間は、みんな腹を抱えている。
そのとき、遠くで兵の足音が聞こえた。
三人の男は一瞬だけ顔を見合わせる。
盗みの最中に、最も危険な瞬間だった。
袋を持つ男が言う。
「離せ」
イェンは言う。
「離さない」
その言葉のあと、動いたのはほんの一瞬だった。
袋を持つ男が体を引き、イェンが腕を伸ばす。
麦袋は地面に落ち、鈍い音を立てた。
麻袋が破れ、麦が石畳に散る。
黄金色の粒が、暗闇の中で小さく光った。
その瞬間、袋を持っていた男が叫んだ。
「やめろ!」
声は必死だった。
だがその声は、盗人同士の争いの合図でもあった。
イェンの仲間が男の腕を掴む。
男は振りほどこうとする。
三人の体がぶつかる。
泥が跳ねる。
麦が足の下で潰れる。
「離せ!」
「お前こそ!」
「これは俺のだ!」
怒鳴り声が、穀倉の壁に跳ね返る。
遠くの兵の足音が止まった。
気づかれた。
だがもう遅い。
袋を持っていた男が腰を振る。
その瞬間、何かが光った。
短い刃。
包丁だった。
本当は、袋を切るための刃だ。
だが今は、人の腹の高さにある。
イェンの仲間が後ろに跳ぶ。
「おい、やめろ!」
だが刃は止まらない。
振られた。
鈍い音がした。
それが肉の音だと理解するまで、一瞬の時間があった。
イェンは自分の腹を見た。
刃は深くない。
だが血が滲む。
雨に濡れた布が、暗く染まる。
三人とも動きを止めた。
沈黙。
ただ雨の音だけが聞こえる。
そして遠くから、兵の声が響いた。
「誰だ!」
灯りが近づいてくる。
その光を見て、三人の男は同時に動いた。
逃げる。
だが三人とも、同じ袋を見た。
破れた麦袋。
散った麦。
それは、誰のものでもなくなっていた。
袋を持っていた男が、突然ひざをつく。
「……くそ」
その声は、泣き声に近かった。
イェンは血を押さえながら立つ。
兵の灯りが近い。
もう逃げる時間はない。
そのとき、仲間の男が叫んだ。
「走れ!」
彼は麦袋を蹴り飛ばす。
麦がさらに散る。
地面が黄金色に広がる。
兵の灯りが揺れる。
そしてその夜。
穀倉の中庭で、三人の盗人は別々の方向へ走り出した。
だが――
その中の一人だけが、走らなかった。
麦をもらった男。
彼は散った麦を両手で掬っていた。
地面に落ちた麦を、必死に拾っていた。
兵の灯りが彼の背に落ちる。
そして次の瞬間、兵の怒号が夜を裂いた。
「動くな!」
雨はまだ止んでいなかった。
【8】
「動くな!」
兵の怒号は、夜の穀倉に鋭く響いた。
灯りが一つ、また一つと近づいてくる。松明の炎は雨に濡れた空気の中で不安定に揺れ、石畳に落ちた麦粒を赤く照らしていた。
その光の中で、男は動かなかった。
膝をつき、両手で麦を掬っている。
泥に混じった麦だ。
兵の靴に踏まれ、雨に濡れ、石に叩きつけられた麦。
それでも男は拾っていた。
一粒ずつ。
掌に乗せ、震える指で袋の切れ端へ入れる。
兵の足音が迫る。
イェンは息を呑んだ。
走るべきだった。
だが体が動かなかった。
腹の傷は浅い。
だが熱を持ち、血がゆっくりと滲み出ている。
それよりも――
目の前の光景から目を離せなかった。
兵が男の前に立つ。
「何をしている」
声は冷たい。
男は顔を上げない。
「……麦を」
かすれた声だった。
兵は袋を見る。
破れた袋。
散った麦。
「盗みだ」
その言葉は短い。
男は首を振る。
「違う」
兵が眉をひそめる。
「昨日……」
男は言葉を探すように口を開いた。
「昨日、王子が」
そこまで言って、言葉が止まる。
兵の目が変わった。
王子。
その言葉は重い。
「……昨日?」
兵の後ろで、別の兵が呟く。
「聞いたぞ」
「麦をやったって話だ」
「この男か?」
松明が近づく。
光が男の顔を照らした。
昨日、許された男。
穀倉の兵の何人かは覚えていた。
王子の前で土に頭をつけ、泣きながら麦袋を抱えた男。
その男が、またここにいる。
兵は低く言う。
「昨日、袋をもらったな」
男はゆっくり頷く。
「……足りなかった」
その言葉に、兵は黙る。
怒るべきか。
笑うべきか。
判断がつかない。
後ろで誰かが言う。
「飢えたんだ」
別の兵が言う。
「だからって盗むのか」
沈黙が落ちる。
その間に、男はまた麦を拾い始めた。
必死に。
手の中の麦は泥だらけだ。
だが男は気にしない。
兵が足で麦を踏む。
粒が砕ける。
男の手が止まる。
そして、ゆっくり顔を上げた。
その目は、怒りではなかった。
諦めでもない。
ただ――
空っぽだった。
「……子どもがいる」
それだけ言った。
イェンはそれを聞いていた。
暗闇の中で、壁にもたれている。
逃げる機会はあった。
だが足が動かなかった。
腹の傷が疼く。
そして胸の奥が、もっと痛む。
昨日、王子が許した男。
今日、また盗んだ男。
そして今、麦を拾う男。
イェンは歯を食いしばる。
怒りが込み上げてくる。
だが、それは男に向けたものではなかった。
この街に向けた怒りだった。
麦が足りない。
仕事がない。
船は遠い。
そして王子が一度だけ、慈悲を与える。
それで終わりだ。
イェンは笑いそうになった。
笑えない。
血が流れている。
腹が減っている。
そして――
兵が剣を抜いた。
短い音だった。
「立て」
男は立たない。
「立て」
兵が肩を掴む。
男は麦を握りしめたまま、ゆっくり立つ。
手の中から麦がこぼれる。
石畳に落ちる。
兵は言う。
「盗みは罪だ」
男は頷いた。
そのときだった。
イェンが動いた。
壁から離れ、灯りの中へ歩き出す。
兵が振り向く。
「誰だ」
イェンは腹を押さえながら言う。
「そいつだけじゃない」
兵が目を細める。
「……盗人か」
イェンは頷く。
「そうだ」
そして男を指さす。
「でも」
その声は低い。
「昨日は許された」
兵の顔が曇る。
確かにそうだ。
王子が許した。
麦を与えた。
それは事実だ。
イェンは続ける。
「今日は違うのか」
兵は答えない。
その沈黙の中で、雨が強くなる。
石畳に落ちる音が広がる。
麦粒が流れていく。
誰も動かない。
穀倉の中庭は、静かな戦場のようだった。
そのとき。
遠くの門が開く音がした。
兵が振り向く。
そして声が上がる。
「殿下――!」
松明が一斉に揺れる。
その灯りの中に、五つの影が現れた。
王子たちだった。
アルケス。
カストル。
ポルックス。
ヴィルギニス。
そしてシャム。
雨の夜に、王子たちが穀倉へ来た。
その瞬間、兵も盗人も、誰もが息を止めた。
そして誰も知らなかった。
この夜の出来事が、王都の歴史に残る事件になることを。
【9】
雨はやまず、穀倉の石畳に落ち続けていた。
松明の火が湿った空気に揺れ、炎の色が王子たちの顔を順に照らしていく。五人は門の前で足を止めた。護衛の兵がその後ろに並ぶが、誰も声を出さない。
最初に動いたのはアルケスだった。
翡翠の髪は雨で濡れ、額に張り付いている。十歳の少年の顔だが、その表情には不思議な静けさがあった。アルケスはゆっくりと中庭を見渡す。
散った麦。
血の滴。
兵に囲まれた男。
腹を押さえ立つイェン。
そして、泥の中で麦を拾う男。
それらを、順番に。
アルケスの視線はそこで止まった。
「……なぜ拾っている」
その声は大きくない。
だが穀倉の中庭に、はっきりと響いた。
男は顔を上げる。
雨に濡れた顔。
目の奥は、もう何も残っていないように見える。
「麦だからです」
それだけだった。
誰も言葉を挟まない。
カストルが一歩前へ出る。
小さな体は、松明の光の中で影を落としている。
彼の赤い瞳は、地面を見ていた。
泥の中の麦粒。
その光景を、ずっと見ていた。
「……昨日」
カストルは言う。
「お前を許した」
男は頷く。
「はい」
「なぜまた来た」
男は少し考えた。
それから答える。
「食べたからです」
その言葉は、あまりにも単純だった。
だがそれ以上の理由はない。
食べた。
そしてまた腹が減った。
それだけだ。
ポルックスが兄を見る。
兄の横顔は、静かだった。
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、何かを考えている。
そのとき、兵が一歩前へ出た。
「殿下」
声は硬い。
「この者は穀倉への侵入と盗みの罪です」
兵は剣を下げない。
「処罰が必要です」
その言葉は正しい。
穀倉を守らなければならない。
一人を許せば、百人が来る。
ポルックスはそれを理解していた。
アルケスも理解している。
ヴィルギニスは黙って立っている。
そしてシャムは――
地面を見ていた。
泥に落ちた麦粒。
それを見て、胸の奥が痛くなる。
花街で見たことがある。
床に落ちた米を拾う手。
それを踏みつける靴。
シャムは唇を噛む。
言葉が出ない。
その沈黙の中で、イェンが笑った。
乾いた笑いだった。
「処罰?」
兵が睨む。
「黙れ」
イェンは肩をすくめる。
腹の傷から血が滲む。
「俺も盗人だ」
兵が言う。
「お前もだ」
「そうだ」
イェンは頷く。
「でもな」
彼は地面を指さす。
「これは誰の麦だ」
松明の光の中で、麦粒が散っている。
泥と血に混じった麦。
誰の袋かも分からない。
誰の物かも分からない。
イェンは言う。
「王の麦か」
誰も答えない。
「それとも」
イェンはゆっくり続ける。
「この街の麦か」
その言葉は、静かだった。
だが重かった。
アルケスの胸に落ちる。
カストルの胸にも。
ポルックスの胸にも。
ヴィルギニスの胸にも。
シャムの胸にも。
雨が強くなる。
松明の火が揺れる。
そのとき、カストルが言った。
「兵」
兵が姿勢を正す。
「はい」
カストルは男を見る。
泥の中で麦を握る男。
そしてイェンを見る。
血を流す男。
それから地面を見る。
麦。
それを見つめたまま言う。
「……拾え」
兵が聞き返す。
「殿下?」
カストルは顔を上げた。
「全部」
その声は弱くない。
「拾え」
兵は動かない。
カストルはもう一度言う。
「全部拾え」
そして静かに続けた。
「踏むな」
その言葉は、怒りだった。
小さな王子の怒り。
兵たちは戸惑いながらも動き始める。
松明を地面に立て、麦を拾う。
一粒ずつ。
泥の中から。
血の横から。
イェンはそれを見ていた。
そして笑った。
今度は少しだけ、まともな笑いだった。
男も拾い始める。
兵と一緒に。
泥だらけの麦を。
ポルックスは兄を見ていた。
その小さな背中。
壊れそうな体。
それでも、誰よりも強い背中。
ヴィルギニスは静かに目を細める。
アルケスは、ゆっくり息を吐いた。
【8】
雨は細くなっていたが、止んではいなかった。
穀倉の中庭では、まだ兵たちが麦を拾っている。石畳の隙間に入り込んだ粒を指先で掻き出し、泥に濡れた麦を布袋へ戻していく。松明の火が揺れ、濡れた石の上に赤い光を落としていた。
その光の中で、血が見えた。
石畳の端。
雨に流されながら、まだ消えきらない血。
イェンは壁にもたれて立っていた。
腹を押さえている。
指の隙間から血が滲み、雨水と混ざり、ゆっくり地面へ落ちている。彼は逃げなかった。逃げる力がもう残っていないことを、本人が一番よくわかっていた。
兵の一人が気づく。
「殿下」
その兵はカストルの方を見た。
「この者、傷を負っています」
カストルはゆっくり歩いた。
小さな足音が、濡れた石の上で静かに響く。
兵たちが自然と道を空ける。
カストルはイェンの前で止まった。
イェンは笑った。
乾いた笑いだった。
「……運が悪いな」
その声は低い。だが皮肉はまだ残っていた。
カストルは言う。
「お前は盗んだ」
イェンは頷く。
「そうだ」
「兵と争った」
「そうだ」
「そして」
カストルの目が、腹の傷を見る。
「刺された」
イェンは肩をすくめる。
「自業自得だ」
雨が落ちる。
石の上の血が、ゆっくりと広がる。
兵の一人が言う。
「殿下、この者は盗人です。規律のためにも――」
言葉は途中で止まった。
カストルが振り向いたからだ。
赤い瞳。
その視線は鋭かった。
「分かっている」
小さな声だった。
だが兵は黙った。
ポルックスが一歩前へ出る。
兄の肩を見つめる。
小さな背中。
その体は震えている。
寒さではない。
怒りでもない。
何か別のもの。
カストルはイェンに言った。
「なぜ戻った」
イェンは笑う。
「腹が減った」
「それだけか」
「それだけだ」
カストルはしばらく黙っていた。
雨音が続く。
遠くで犬が吠えた。
穀倉の中庭には、拾われた麦袋が積み直されている。
そのとき、カストルは言った。
「兵」
兵が姿勢を正す。
「はい」
カストルは静かに言う。
「この男を縛れ」
兵が動く。
縄が出される。
イェンは抵抗しない。
腕を後ろに回されても、何も言わない。
ただ小さく息を吐く。
腹の傷が痛む。
だが、それよりも。
「……やっぱりか」
イェンは言う。
「盗人は盗人だ」
カストルは答えない。
兵が縄を締める。
カストルはゆっくり歩いた。
イェンの周りを一周する。
その姿は、小さな裁判官のようだった。
そして止まる。
「お前は盗んだ」
カストルはもう一度言う。
「はい」
「人を傷つけた」
「はい」
「そして」
カストルの声が低くなる。
「穀倉の麦を散らした」
イェンは苦笑する。
「それは……」
弁解しようとして、やめた。
事実だった。
カストルは言う。
「王の穀倉を荒らす罪は重い」
兵たちが息を呑む。
それは本来、王が裁く罪だった。
カストルは続ける。
「だが」
その声は少しだけ弱くなる。
「お前は血を流している」
イェンは肩をすくめる。
「死ぬかもしれない」
「そうだな」
沈黙。
雨音。
そしてカストルは言った。
「だから」
兵たちを見る。
「殺さない」
誰かが息を呑む。
イェンが顔を上げる。
カストルの赤い瞳は、まっすぐだった。
「だが罰は与える」
兵が問う。
「どのように」
カストルは穀倉を見る。
積まれた袋。
拾われた麦。
そして言った。
「この男に」
指を向ける。
「穀倉で働かせろ」
兵が驚く。
「殿下?」
カストルは続ける。
「逃げれば斬れ」
「だが」
その声は静かだった。
「逃げなければ」
穀倉を見る。
「麦を守らせろ」
イェンは目を瞬かせる。
理解できない。
「盗人に?」
兵が言う。
カストルは頷く。
「盗人だからだ」
その言葉は、重かった。
「麦の重さを知っている」
誰も反論できなかった。
イェンは笑った。
今度は、少しだけ苦い笑いだった。
「……変な王子だ」
カストルは言う。
「王じゃない」
イェンは言う。
「でも」
空を見る。
雨が降っている。
「そのうちなる」
カストルは答えなかった。
ただ穀倉の扉を見た。
そして静かに言う。
「麦を守れ」
イェンは頷く。
その夜、穀倉には新しい番人が生まれた。
腹を刺された盗人。
だが――
誰よりも麦を知る男だった。




