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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十章 3

【1】


 広間に落ちた沈黙は、雷鳴の余韻のように長く尾を引いていた。


 カストルの言葉はまだ空気の中に残っている。


 ――僕が王になる。


 その声は幼い。それでも、その瞬間だけは確かに広間の中心に立つ者の声だった。重臣たちの視線が一斉に動く。誰も口には出さないが、胸の奥でそれぞれが別の計算をしている。


 王は黙っていた。


 王妃も、宰相も。


 だがレオニスだけが静かに笑っている。


 その笑みは嘲りではない。むしろ興味だった。


「よいお言葉です」


 そう言って、彼はゆっくりと視線を巡らせた。


 まずカストル。


 次にアルケス。


 そしてポルックス。


 その視線は、ほんの一瞬だけヴィルギニスの上で止まる。


 ほんの一瞬。


 だが、ヴィルギニスにはそれがはっきりとわかった。


(……知っている)


 母の国。


 ラルグスの前王朝。


 その血はもうこの世界から消えたはずだった。王朝は滅び、王族は散り、名前さえ歴史の陰に沈みかけている。


 だが交易国家は忘れない。


 王朝が滅びても、血は消えない。


 その証拠がここにいる。


 ヴィルギニスは視線を落とした。


 気づかないふりをすることは、幼い頃から身についた習慣だった。


 王城の中で生きるための、静かな術。


 そのとき、レオニスの視線が最後にシャムへ移る。


 そこで、ほんの少しだけ止まった。


 金の髪。


 赤い瞳。


 亡き王アレスと瓜二つの顔。


 花街から現れた王子。


 広間の灯りが、その髪を強く照らす。


 レオニスの瞳が細くなった。


「……なるほど」


 小さく呟く。


 それは誰にも聞かせるつもりのない声だったが、ポルックスだけは聞き逃さなかった。


(あの人は、全部見てる)


 盤面を見る者の目だ。


 駒だけではなく、その背後にある手まで見ている。


 レオニスは再び王へ向き直る。


「ラルグスは交易国家です」


 声は穏やかだった。


「我々は友を求めます」


 その言葉に、重臣の一人がわずかに眉を動かした。


 友。


 それは便利な言葉だ。


 だが商人が使うとき、それは契約を意味する。


「今回の麦は、その証」


 レオニスは続ける。


「そして我々は、未来の友を知りたい」


 その言葉が終わると、広間の空気が再び沈んだ。


 未来。


 つまり次の王。


 王はゆっくりと玉座の肘掛けを撫でた。


 雨音はいつの間にか弱くなっている。


 窓の外で、風が雲を少しだけ動かしていた。


「ならば」


 王の声が響く。


 低く、静かな声だった。


「見ていくがよい」


 広間の全員が顔を上げる。


 王の赤茶の瞳が、五人の王子を見渡した。


「龍星逐鹿は続く」


 その言葉は、宣言だった。


 重臣の間に小さなざわめきが広がる。


 交易国家の使節の前で、試練を続けると告げたのだ。


 王は続けた。


「次の試練は、王都の飢えだ」


 その瞬間、空気が凍った。


「この雨が続けば、飢えは広がる」


 王の言葉は淡々としている。


 だがその意味は残酷だった。


「王とは、民を飢えさせぬ者」


 ゆっくりと王は言う。


「五人の王子に問う」


 灯りの炎が揺れる。


「この飢えを、どう止める」


 沈黙。


 広間は息を潜めた。


 アルケスは胸の奥で鼓動が強くなるのを感じた。父の言葉は、いつもまっすぐだ。だが今回は違う。


 これは問題ではない。


 試練だ。


 カストルは唇を噛む。


 体の奥に残る痛みを忘れるように、拳を握る。


 民が飢える。


 その現実が胸に刺さる。


 ポルックスはゆっくりと息を吐いた。


(盤が開いた)


 飢饉。


 交易。


 王子。


 すべてが一つの盤に並んだ。


 ヴィルギニスは静かに立っている。


 だが胸の奥では別の風が吹いていた。


 ラルグスの使節。


 母の国。


 もし彼がその血を知っているなら――。


 シャムはただ、広間の灯りを見ていた。


 民の列の最後にいたルカの顔が、ふいに浮かぶ。


 麦があれば助かる。


 それだけだ。


 だが王城では、それが試練になる。


 王は最後に言った。


「七日」


 その声は静かだった。


「七日のうちに、飢えを止めよ」


 広間の空気が張り詰める。


 七日。


 それはあまりにも短い。


 だが王は動じない。


「それができぬ者は」


 ほんのわずか、言葉を止める。


「王にはなれぬ」


 雷が遠くで鳴った。


 だが雨は、もうほとんど止んでいた。


 雲の隙間から、月の光がわずかに差し込む。


 その光は広間の床に落ち、五人の影を長く伸ばした。


 龍星逐鹿。


 その盤は、いま完全に開かれた。


 そして五人の王子は、それぞれ別の思いを胸に、同じ夜の中に立っていた。


【2】



 七日。


 王の口から落ちたその言葉は、広間の空気を重く沈めた。

 灯りに照らされた石床に、五人の影が長く伸びている。誰もすぐには動かなかった。重臣たちの視線はそれぞれ別の王子に向けられ、誰かが小さく息を吸う音だけが響く。


 七日で飢えを止めよ。


 それは問いではない。

 命令でもない。


 試練だった。


 王はそのまま黙り、玉座の背に身を預ける。赤茶の瞳は静かに五人を見渡しているが、その奥に感情は見えない。


 最初に動いたのはアルケスだった。


 翡翠の髪が揺れ、彼は一歩だけ前へ出る。まだ十歳の体だ。だがその歩みには迷いがなかった。王の嫡子として育てられた者の歩き方だった。


「七日で……ですか」


 声は落ち着いていた。


 王は頷く。


「そうだ」


 それだけだった。


 アルケスは少しだけ考えた。頭の中に王都の地図が浮かぶ。穀倉、川、港、市場、炊き出し。先ほど見た雨の水位。北の堤。南の市場。


(七日でできること)


 答えはまだ見えない。


 だが考え続けるしかない。


 その横で、カストルが拳を握っていた。

 小さな体の中で、血が熱く流れているのがわかる。胸の奥の痛みはまだ消えない。それでも、その痛みを押し込めるように背を伸ばした。


 飢えを止める。


 王の仕事だ。


「……やる」


 小さく呟く。


 それは誰に聞かせる言葉でもなかった。


 だがポルックスだけは聞いていた。


 弟は兄の横顔を見つめる。

 その顔は幼い。まだ十歳の少年の顔だ。けれどその奥には、燃えるような意志がある。


(兄上は本気だ)


 ポルックスは静かに思う。


 そして同時に理解する。


 兄は王になろうとしている。

 本当に。


 その覚悟がある。


 ならば。


(僕は盤を整える)


 怒りではなく、焦りでもなく。

 ただ静かにそう決める。


 そのとき、ヴィルギニスの視線が港の使節に向いた。

 レオニスはまだ微笑んでいる。あの男は楽しんでいるのだ。飢饉も、王子も、政治も。


 すべてを盤として。


 ヴィルギニスの胸の奥に、わずかな冷たい風が吹く。


 母の国。


 ラルグス。


 滅びた王朝。


 もし彼がそのことを知っているなら。


 もしそれを利用しようとするなら。


(……あり得る)


 だが彼は何も言わない。


 生まれた瞬間から、沈黙は彼の武器だった。


 そしてシャムは、広間の灯りをぼんやり見ていた。


 七日。


 飢え。


 王。


 その言葉は、まだ頭の中でうまく形にならない。


 だが、ひとつだけはわかる。


 ルカの顔。


 炊き出しの列の最後にいた少年。


 あの笑い。


「麦があれば助かるな」


 その言葉。


 シャムの胸の奥に、静かな熱が灯る。


 王子としてではない。


 ただ、人として。


(助けないと)


 その思いは、単純だった。


 王は五人を見ている。


 その視線は鋭い。


 だがそこには、ほんのわずかな期待もあった。


 やがて王は手を軽く振る。


「下がれ」


 その一言で、広間の緊張が少しだけ緩んだ。


 王子たちは礼をして、静かに広間を出る。


 廊下に出ると、外の空気が冷たかった。雨はほとんど止んでいる。石の壁から湿気が立ち上り、夜の風がわずかに吹き込む。


 誰もすぐには話さない。


 五人は並んで歩く。


 その沈黙を破ったのはポルックスだった。


「兄上」


 カストルが顔を向ける。


「なに」


 ポルックスは柔らかく言った。


「七日ある」


 カストルは少しだけ眉をひそめる。


「短い」


「でも、ある」


 ポルックスは微笑む。


「やれる」


 その言葉は、優しかった。


 カストルは小さく息を吐く。


「……当たり前だ」


 その声は、さっきより少しだけ軽くなっていた。


 前を歩くアルケスは振り返らない。


 だがその背中は、考え続けている背中だった。


 ヴィルギニスは静かに歩く。


 シャムは少し遅れて歩く。


 それぞれ違う考えを抱えながら。


 廊下の窓から月が見えた。

 雲が少しだけ裂けている。


 遠く港の灯りが揺れる。


 ラルグスの船はまだそこにある。


 そして王都のどこかで、空腹の子どもが眠りにつこうとしている。


 七日。


 その七日で、何かが変わる。


【3】


 広間を出たとき、廊下の空気は冷えていた。雨は止みかけている。だが石壁に染みこんだ湿りはまだ残り、窓の外では低い雲が王都の屋根を押し潰すように漂っていた。灯りの火は静かに揺れ、長い廊下に五人の影を伸ばしている。


 七日。


 王の言葉はまだ胸の奥に残っていた。


 誰もすぐには口を開かなかった。王城の廊下は、昼でも夜のように静かだ。靴底が石を擦る音だけが続く。遠くで衛兵が交代する声が聞こえ、どこかの扉が閉まる重い音が響いた。


 最初に立ち止まったのはアルケスだった。


 窓辺に近づき、濡れた硝子越しに王都を見下ろす。雨のあとで街は暗く沈んでいる。市場の屋根は濡れた布のように重く、通りにはまだ水が溜まっていた。


 城下は静かだった。


 静かすぎる。


 いつもなら夜の市場には灯りがあり、酒場から笑い声が聞こえてくる。だが今は違う。食べるものが減ると、人は早く家に戻る。腹を空かせたまま灯りの下にいるのはつらいからだ。


 アルケスはそれを知っている。


「……少ない」


 ぽつりと呟く。


 後ろにいたシャムが顔を上げた。


「なにが?」


「灯り」


 アルケスは答える。


「街の灯りが少ない」


 シャムも窓の外を見る。確かに灯りはまばらだった。花街にいた頃の夜は、もっと騒がしくて明るかった。笑い声と歌と酒の匂いが混ざる夜だ。


 だが今の王都は、静かだ。


 静かで、冷たい。


「みんな早く寝てるのかな」


 シャムが言う。


 アルケスは首を振る。


「違う」


 それ以上は言わなかった。


 眠っているのではない。


 空腹で、動けないだけだ。


 その沈黙の中で、カストルが歩み出る。


 小さな背中だったが、その足取りはまっすぐだった。廊下の中央で止まり、振り返る。


「七日ある」


 声は低い。


「七日で飢えを止める」


 その言葉は自分自身に言い聞かせているようだった。


 ポルックスがそっと兄の横に立つ。


「どうするの?」


 優しい声だった。


 カストルは答えない。代わりに窓の外を見た。濁った川。沈んだ畑。濡れた街。飢えた民。


 胸の奥が焼けるように痛む。


 王とは民を守る者。


 その言葉が頭の中で何度も繰り返される。


「麦を増やす」


 やっと出た言葉だった。


 ポルックスは少し笑う。


「それができたら、もう王様だ」


 カストルは睨む。


「笑うな」


「笑ってない」


 ポルックスは首を振る。


「考えてる」


 そして廊下の壁にかかる王国地図を指差した。古い羊皮紙の地図には川や街道、穀倉、港が細かく描かれている。


「麦は港にある」


「ラルグス」


 カストルが言う。


 ポルックスは頷く。


「でも全部じゃない」


 指先が王都の周囲をなぞる。


「地方の穀倉」


「洪水」


「でも全部流されたわけじゃない」


 カストルは地図を見る。

 その視線は真剣だった。


「……集める」


「うん」


 ポルックスは微笑む。


「集めて、配る」


 単純な話だ。


 だがそれは国の仕事だった。


 そのとき、少し離れていたヴィルギニスが口を開く。


「問題は道だ」


 全員が彼を見る。


 青みがかった髪が灯りを受けて暗く光る。彼の声は静かだった。


「川が溢れている。橋も危ない」


 ポルックスは頷く。


「だから騎士団」


「……動かす?」


 カストルが言う。


 ヴィルギニスは淡々と答える。


「兵は道を作る」


 言葉は短いが、現実だった。


 兵は戦うだけではない。


 道を守り、荷を運び、国を動かす。


 アルケスはそれを聞きながら、別のことを考えていた。


 七日。


 飢え。


 王。


 父が言った言葉。


 そしてレオニスの視線。


(見られている)


 交易国家は見ている。


 どの王子が国を動かせるか。


 その重さが、胸に沈む。


「……城下」


 アルケスが言う。


 四人が振り向く。


「城下も見る」


 シャムの目が少しだけ輝く。


「民?」


 アルケスは頷く。


「王は民を見る」


 それは父の言葉だった。


 その瞬間、シャムの胸の奥で何かが動いた。


 ルカの顔が浮かぶ。


 炊き出しの列の最後にいた少年。


 あの笑い。


「行く」


 シャムは言った。


「城下」


 護衛が少しざわめく。


 だがアルケスは止めない。


「明日だ」


 そう言った。


 廊下の窓から月が見えた。


 雲の隙間から、わずかな光が落ちる。


 王都の屋根に、その光が静かに広がる。


 まだ暗い。


 まだ飢えは終わらない。


 だがその夜、五人の王子の胸の中で、別々の決意が静かに芽生えていた。


 七日。


【4】


 雨は完全には止まなかった。空は裂けかけた灰色の布のように低く垂れ、時折、細い霧のような雨が王城の屋根を濡らしていく。夜の王都は湿った匂いに満ちていた。石畳から立ち上る泥の匂い、濡れた木材の匂い、遠くの港から漂う潮の匂い。それらが混ざり合い、冷たい空気となって城壁の内側に流れ込んでくる。


 王城の長い廊下は灯りが少なく、蝋燭の炎が細く揺れていた。石壁に掛けられたタペストリーは湿気を吸って重く垂れ、遠くで水滴が落ちる音が響く。その静かな廊下を、五人の王子はそれぞれの思いを胸に歩いていた。


 七日。


 王が告げた期限。


 それは短い。だがその短さこそが試練だった。


 飢饉は国の力を試す。

 そしてその飢えは、王の器を試す。


 アルケスは窓辺で足を止めたまま、王都を見下ろしていた。雲の隙間から漏れる月光が、濡れた屋根の上を淡く照らしている。だが街は静かだ。灯りは少なく、通りには人影もほとんどない。


 腹が減れば、人は早く眠る。

 眠れば、空腹を忘れられる。


 それが王都の夜だった。


 アルケスの胸の奥に、重いものが沈む。


(これが、国)


 書物の中の王国ではない。

 訓練場の理想でもない。


 雨に濡れ、麦が足りず、民が静かに耐えている国。


 それを守るのが王だ。


 彼はゆっくり息を吐く。


 背後では、カストルがまだ廊下の中央に立っていた。小さな体で背筋を伸ばし、地図の掛かる壁を見ている。灯りがその横顔を照らし、赤い瞳が暗く光っていた。


「七日……」


 カストルが低く呟く。


 その声には怒りと焦りが混ざっていた。


 彼は拳を握る。

 小さな手だった。


 その手が机を叩いたときの音を、ポルックスは思い出していた。


 兄は怒っている。


 飢えに。

 雨に。

 そして自分の体に。


 長く立つと息が苦しい。

 胸の奥が痛む。


 それでも、王になろうとしている。


 ポルックスは兄の隣へ歩いた。


「兄上」


 声は柔らかい。


 カストルは振り向かない。


「なに」


「七日で全部はできない」


 その言葉に、カストルの肩が動く。


 怒るかもしれない。


 だがポルックスは続けた。


「でも、七日で流れは変えられる」


 カストルが振り返る。


 ポルックスの瞳は静かだった。


「麦を運ぶ。

 倉を開く。

 道を作る。

 民に見せる」


「……何を」


 ポルックスは答えた。


「王が動いているってこと」


 その言葉に、カストルは黙る。


 それは、正しい。


 民はすぐに満腹にはならない。

 だが希望は腹を支える。


 ポルックスはそれを知っていた。


 そのとき、ヴィルギニスが廊下の窓に近づいた。青みがかった髪が月光を受け、銀色に見える。彼は静かに港の方向を見ていた。


 遠くに灯りが揺れている。


 ラルグスの船。


 交易国家の船。


「見ている」


 ヴィルギニスが小さく言う。


 アルケスが振り返る。


「誰が」


「交易国家」


 ヴィルギニスの声は低い。


「彼らは王を見ている」


 その言葉は重かった。


 交易国家は戦わない。

 だが世界を動かす。


 誰と組むか。

 どこへ麦を運ぶか。


 それだけで国の運命が変わる。


 そして今、ラルグスは見ている。


 五人の王子を。


 ヴィルギニスの胸の奥に、遠い記憶が揺れる。


 母の国。


 ラルグスの前王朝。


 燃える宮殿。

 倒れた旗。


 その血は、いま彼の体に流れている。


 もしレオニスがそれを知っているなら。


 もし利用するなら。


(盤はもっと大きい)


 だがヴィルギニスはそれを口にしない。


 沈黙は、彼の鎧だった。


 少し離れた場所で、シャムは壁にもたれていた。石の冷たさが背中に伝わる。廊下の灯りを見上げながら、ぼんやりと考えていた。


 王城は広い。

 広すぎる。


 花街の路地はもっと狭かった。

 人の声が近く、笑い声が重なり、夜は賑やかだった。


 ここは静かだ。


 静かで、遠い。


 だが城下には、ルカがいる。


 炊き出しの列の最後にいた少年。


 泥だらけの靴。


 それでも笑った顔。


「麦があれば助かるな」


 その言葉が頭から離れない。


 シャムはゆっくり立ち上がる。


「……僕、城下に行く」


 四人が振り向く。


 護衛の兵が一歩動いた。


 だがアルケスは止めない。


「明日だ」


 アルケスが言う。


「明日、みんなで城下を見る」


 カストルが眉をひそめる。


「王子が?」


 アルケスは頷く。


「王子だから」


 その言葉は静かだった。


 だが強かった。


 王は民を見る。


 父の言葉だ。


 廊下の窓から月が見えた。


 雲はまだ多い。

 だが少しだけ裂けている。


 王都の屋根の上に、淡い光が落ちる。


 遠く港では、ラルグスの船の灯りが揺れていた。


 交易国家の目。


 民の飢え。


 王の試練。


 すべてが静かに動き始めている。


 そしてその中心にいるのは、まだ十歳の王子たちだった。


 七日。


 その七日で、国は変わるかもしれない。


 あるいは――


 王が決まるかもしれない。


 その夜、王城の高塔では風が少し強く吹き始めていた。雲はゆっくりと流れ、隠れていた月が少しだけ顔を出す。


 龍の加護はまだ戻らない。


 だが試練は、確実に動いている。


【7】



 翌朝、雨は「止んだ」と言い切れない形で残っていた。空はまだ灰色で、雲がゆっくりと重く流れている。風が吹くたびに、木々の葉から溜まっていた雫が落ち、石畳に小さな水の花を咲かせた。王城の中庭は湿り、砂利道は水を含んで鈍い色をしている。


 鐘の音が鳴る。いつもなら儀式めいて響くその音が、今日はどこか焦りを含んで聞こえた。城下の人々も、同じ鐘を聞いている。何かが変わるかもしれない、と。変わらないかもしれない、と。


 王子たちが城下へ出る。


 その知らせが、すでに噂として流れ始めていた。


 アルケスは正装ではなく、動きやすい外套を纏っていた。翡翠の髪は結い上げ、雨で乱れぬように固くまとめている。護衛は増え、前後に計六名。さらに目立たぬ距離で別の兵が付く。王家の子が外へ出るということは、それだけで危険を呼ぶ。


 カストルは歩く前から息を整えていた。小さな体に外套が少し大きい。それでも彼は背筋を伸ばし、誰より前へ出ようとする。赤い瞳の光は強いが、頬の白さが際立っていた。


 ポルックスは兄のすぐ隣に立つ。淡い桃色の髪が外套の襟からのぞき、目は穏やかだ。だが視線はいつも周囲を測っている。兄がふらつけば支える位置。護衛が動けば気づける位置。自然にそこへ立っている。


 ヴィルギニスは少し後ろで、静かに歩き出す準備をしていた。青みがかった髪は濡れた空の色に馴染み、彼の存在は目立たない。それが彼の生き方だった。目立てば、血が語り出す。母の国の血が、呼び水になる。


 シャムは城門の石段を降りながら、胸の奥が妙にざわつくのを感じていた。花街の道なら目を閉じても歩ける。だが王都の大通りは広く、視線が多い。しかも今日は「見られる」日だ。自分が王子として、民に。


 城門が開くと、湿った空気と街の匂いが押し寄せた。泥、濡れた木、焦げた薪、そしてわずかに漂う煮粥の匂い。炊き出しの鍋は今日も動いている。だが列は長い。人々は肩を寄せ合い、息を白くして並んでいた。


 王子たちが姿を現した瞬間、列の空気が変わった。


 ざわり、と音がしたように思えた。誰かが囁く。誰かが息を呑む。子どもが母の袖を引く。老人が杖を強く握る。王子の姿は「救い」ではない。だが「目印」だ。国がまだ折れていないという目印。


 アルケスは歩みを止め、列の端から端まで視線を走らせた。乾いた顔、濡れた髪、削れた頬。王城の窓から見る景色とは違う。ここには数字ではない命がある。


「……多い」


 口に出た言葉は小さかった。


 カストルは列を見るなり、胸の奥が熱くなるのを感じた。怒りとも違う。悔しさとも違う。ただ、重い。自分の血が誇りだと教えられてきた。その誇りの上に、今この列が乗っている。血が濃いなら、救えなければならない。


 彼は一歩、前へ出ようとした。


 その瞬間、足元の石畳が滑り、体がわずかに揺れた。


 ポルックスの手がすぐに伸び、兄の肘を支える。支える動きは目立たない。だがカストルにはそれが屈辱のように感じられた。


「放せ」


 低い声。


 ポルックスはすぐに離す。離すが、距離は変えない。いつでも支えられる距離に、ただ戻る。


 カストルは唇を噛み、何事もなかったように歩き続ける。護衛の兵が視線を交わす。誰も声には出さないが、その一瞬は確かに見られた。


 そして見られたものは、すぐに噂になる。


「第二王子は……」

「体が……」

「でも血は……」


 民の囁きは、雨より静かに広がる。


 ポルックスはその囁きを聞きながら、胸の奥が冷えるのを感じた。兄の弱さを見られることが、盤面を変える。だが彼は表情を変えない。変えれば、余計に燃える。


(兄上は王になる)

(そのために、僕が壁になる)


 そう決めている。


 列の最後のほうで、ルカがこちらを見ていた。昨日より顔が汚れている。髪が濡れて額に張りつき、手は赤く冷えている。それでも目はしっかりしていた。生きる目だ。


 シャムはその目を見つけた瞬間、胸の奥がほどけるような気がした。


 ルカは列から抜け出しはしなかった。護衛が目を光らせているし、そんなことをすれば叱られる。だが、彼は小さく手を振った。ほんの一瞬。


 シャムは同じように指先だけで返す。


 それだけで、何かがつながったように感じる。


 アルケスは炊き出しの鍋を見た。鍋は大きい。だが、足りるようには見えない。王都の腹を満たすには、もっと必要だ。彼は護衛の隊長に小声で言った。


「倉へ案内して」


 隊長が一瞬だけ目を見開く。王子が自分で穀倉へ行くのか。だが拒むことはできない。


「承知しました」


 ヴィルギニスはそのやり取りを見ていた。アルケスは盤面を動かそうとしている。城から眺めるだけでなく、現場を掴む。王のやり方だ。


 そのとき、港の方向から鐘が鳴った。


 短く、乾いた音。


 港の合図だ。


 人々がざわめく。ラルグスの船が動くのか。麦が降ろされるのか。希望か、借りか。


 ヴィルギニスは空を見上げた。雲の隙間はまだ小さいが、風が確かに変わってきている。


(外が動く)


 外が動けば、内も動く。


 国境も、血も、次の王も。


 誰かの意思とは関係なく、盤は進む。


 シャムはルカの方をもう一度見た。ルカは粥を受け取り、母らしき女のところへ走っていく。走る足は裸足で、濡れた石畳を蹴っている。それでも転ばない。必死だからだ。


 シャムは息を吸う。


 七日。


 その七日で、救える命があるなら、救いたい。


 それは王子の義務ではなく、かつて靴を磨いて生きてきた自分の約束だった。


 王子たちはそれぞれの方向へ動き出した。穀倉へ向かう者、港へ目を向ける者、民の列を記憶に刻む者。護衛がその動きに合わせて配置を変える。剣の音がかすかに鳴り、外套が雨を払う。


 王都はまだ飢えている。


 だがこの朝、王都は初めて見た。


 王子たちが「見る側」ではなく「動く側」に回る瞬間を。


 雲の隙間から、わずかな光が落ちた。濡れた石畳がその光を受け、短くきらりと輝く。


 それは小さな兆しだった。


 龍の加護ではない。

 まだ奇跡でもない。


 けれど確かに、盤面がひとつ動いた音がした。


【5】


 穀倉へ向かう道は、城下の大通りから少し外れていた。石畳はところどころ崩れ、雨水が細い流れとなって溝へ落ちている。昨日まで続いていた長雨のせいで、道は柔らかく、荷車の轍が深く刻まれていた。


 王子たちが通ると、人々は自然と道を空けた。

 ひざまずく者もいれば、ただ黙って見送る者もいる。

 王子の姿を見るのは初めてという者も多い。


 その視線は、温かいものばかりではなかった。


「……あれが」


「金の髪……」


「アレス王の……」


 小さな囁きが広がる。


 それはシャムへ向けられたものだった。


 シャムは気づいていた。

 自分の髪が目立つことも、顔が亡き王に似ていることも。

 だが花街で育った彼にとって、見られることは珍しくない。


 それでも、今日の視線は違った。


 花街の客の目は値踏みだった。

 だが今の目は、何かを探している。


 希望かもしれない。

 あるいは――


 王か。


 シャムは足を止めずに歩いた。

 護衛の兵が少し距離を詰める。

 民衆の中に王子がいると、空気はいつもより張りつめる。


 前を歩くアルケスは穀倉の門に着くと立ち止まった。

 大きな木の扉は半分開いており、濡れた麦袋がいくつも運び込まれている。倉番たちが忙しそうに走り回り、兵がその動きを見守っていた。


「殿下」


 倉番の老人が慌てて頭を下げる。

 白い髭が胸まで伸び、長年穀倉を守ってきた顔だった。


「お見苦しいところを」


 アルケスは首を振る。


「見に来た」


 それだけだった。


 王子が穀倉に来ることなど、ほとんどない。

 倉番は戸惑いながらも、内部へ案内する。


 倉の中は乾いた麦の匂いに満ちていた。

 だがその匂いは薄い。


 棚の半分が空いている。


 積み上げられた袋の高さも、以前より低い。


 ポルックスはそれを一目見て理解した。

 帳簿の数字が、目の前に形を取っている。


「……三分の一」


 小さく呟く。


 カストルが聞き返す。


「なにが」


「残り」


 ポルックスは言う。


 カストルは唇を引き結ぶ。

 その光景は、胸の奥をえぐるようだった。


 王の国の穀倉。


 それが空いている。


 カストルは一歩前へ出た。

 小さな体で、倉の中央に立つ。


「全部でいくつある」


 倉番が答える。


「王都の穀倉は五つです」


「残っているのは」


「……二つ」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が止まる。


 アルケスは棚を見つめた。

 ヴィルギニスは黙って床を見ている。


 ポルックスは計算していた。


 二つ。


 それはつまり、王都の胃袋の残り時間だった。


 シャムは袋に触れてみた。

 粗い麻布の感触が手に残る。


 重い。


 それでも足りない。


 花街の厨房で見た袋より、ずっと大きい。

 だが街全体には小さすぎる。


 そのとき、外から怒鳴り声が聞こえた。


「待て!」


 兵の声だった。


 王子たちは顔を上げる。


 穀倉の門の外で、人が押し合っている。

 炊き出しの列とは違う、荒い声。


「盗みだ!」


 兵が叫ぶ。


 痩せた男が一人、袋を抱えて走ろうとしていた。

 その腕は震え、足は泥に取られている。


 兵が捕まえる。


 袋が地面に落ち、麦が散る。


 一瞬、静寂が落ちた。


 散った麦粒が石の上で小さく転がる。


 それは小さな音だった。


 だが、その音はやけに大きく聞こえた。


 男は地面に押さえつけられながら叫ぶ。


「子どもがいるんだ!」


 声は掠れている。


「三日食ってない!」


 兵が腕を押さえる。


「盗みは罪だ!」


 その言葉は正しい。


 だが、誰もすぐに動かなかった。


 カストルはその光景を見ていた。


 拳が震えている。


 怒りなのか、悲しみなのか。


 自分でもわからない。


 王とは民を守る者。


 その言葉が胸を叩く。


 カストルは一歩踏み出した。


「……離せ」


 兵が振り向く。


「殿下?」


 カストルの赤い瞳が光る。


「離せと言った」


 兵は戸惑う。


 だが命令は命令だった。


 男の腕が放される。


 男は呆然としている。


 カストルは散った麦を見た。


 泥の中に落ちた麦粒。


 それを見つめたまま、言う。


「持っていけ」


 兵が息を呑む。


 倉番も驚いた。


 だがカストルは振り向かない。


「子どもがいるなら」


 声は小さい。


 それでも確かだった。


「食わせろ」


 男の目から涙が落ちた。


 深く頭を下げる。


「……ありがとうございます」


 その背中が去っていく。


 穀倉の前には、まだ沈黙が残っていた。


 ポルックスは兄を見ていた。


 その小さな背中を。


 怒りでもなく、慈悲でもなく。


 ただ、王になろうとしている背中だった。


 アルケスはゆっくり息を吐く。


 ヴィルギニスは空を見上げる。


 雲が少しだけ裂けている。


 光がわずかに差し込む。


 シャムは散った麦粒を一つ拾った。


 小さな粒だった。


 だがそれは、命だった。


 そしてその日、王都のどこかでまた一つ噂が生まれる。


 第二王子が、麦を与えた。


 その噂は静かに広がる。


 雨より静かに。


【7】


 王都の雨は、止んだあとも街に残る。


 それは雫として軒から落ち、石畳の隙間に沈み、溝の泥に混じる。空気は冷たく、湿った麦の匂いが漂っていた。飢えた街には、独特の匂いがある。焦げた薪、湿った衣服、そして煮えきらない粥の湯気。


 人は腹が減ると、よく匂いを覚える。


 その日の夕暮れ、炊き出しの列はいつもより長かった。

 人々は互いに押し合うことなく、ただ黙って並んでいる。怒りを出すほどの力も残っていないからだ。


 列の最後にいた少年――ルカは、鍋から立ち上る湯気を見つめていた。


 湯気は白く、ゆらゆら揺れている。

 その奥に、ほんの少しだけ粥がある。


 それだけで、人は並ぶ。


「……まだあるかな」


 ルカは誰に言うでもなく呟いた。


 答えはない。


 けれど今日は、いつもと違う。


 噂が流れていた。


 第二王子が盗人を許した。


 麦を持たせた。


 その噂は、雨のあとに広がる水のように街へ染みていた。


 人々はその話をする。


「王子様がな」

「袋ごとだってよ」

「子どもがいるって言ったらしい」


 話すとき、人々の声は小さくなる。

 それは希望の話だからだ。


 希望は、声を大きくすると壊れる気がする。


 だが同じ話を、違う場所で聞いた男がいた。


 男は倉庫の裏に立っていた。

 濡れた木壁にもたれ、煙草の代わりに細い藁を噛んでいる。


 名前はイェン。


 もともとは荷運びだった。

 港で袋を運び、船の縄を引き、冬には魚をさばいた。


 だが今は違う。


 仕事がない。


 港の船は減り、麦は足りず、荷を運ぶ仕事は兵がやるようになった。


 そして腹は減る。


「……王子が麦をくれた?」


 イェンは鼻で笑った。


 その話を持ってきたのは、同じ裏通りに住む男だった。


「見たやつがいる」


「ほう」


「袋ごとだ」


 イェンは藁を吐き出した。


「運がいい奴もいるもんだ」


 男は言う。


「子どもがいるって言ったらしい」


 イェンは少し考えた。


 それから肩をすくめる。


「なら俺にも子どもがいる」


「お前いないだろ」


「腹はある」


 その言葉に、二人は短く笑う。


 笑いはすぐ消えた。


 腹が減ると、長く笑えない。


 そのとき、遠くから鐘の音が聞こえた。

 港の鐘だ。


 船が動く合図。


 ラルグスの船が、また荷を降ろしている。


 麦。


 その言葉だけで、腹が鳴る。


 イェンはゆっくり立ち上がった。


「どこ行く」


 男が聞く。


「穀倉」


 イェンは答える。


 男は顔をしかめる。


「兵がいる」


「知ってる」


「捕まるぞ」


 イェンは振り向く。


 その目は静かだった。


「昨日は許された」


 男は黙る。


 確かにそうだ。


 王子が許した。


 麦をやった。


 なら。


「……二人目も許されるかな」


 男が言う。


 イェンは笑わない。


 ただ言う。


「やってみる」


 その夜、王都の穀倉は静かだった。


 兵は増えている。

 王子が来た日から、警備は厳しくなった。


 だが夜は長い。


 兵も人間だ。

 疲れる。


 眠くなる。


 そして飢えた街には、静かな足音が増える。


 穀倉の裏の塀に、影が二つ現れた。


 イェンと、その男だ。


 塀は高い。

 だが雨で石が滑る。


 手をかける場所を探しながら、イェンは登る。


 指が冷たい。


 腕が震える。


 腹が空いているからだ。


 それでも登る。


 人は、腹が減ると強くなる。


 塀を越えた瞬間、穀倉の中庭が見えた。


 灯りは少ない。


 袋が積まれている。


 麦。


 その匂いが風に乗る。


 イェンの喉が鳴った。


「……見ろ」


 男が囁く。


「本当にある」


 イェンは頷く。


 そのとき、もう一つの影が動いた。


 中庭の奥。


 袋の陰。


 誰かがいる。


 そして、その男は袋を抱えていた。


 イェンは目を細める。


 その顔は見覚えがあった。


 昨日、王子に許された男だ。


 麦をもらった男。


 袋をもらった男。


 そして今、また盗みに来ている。


 沈黙が落ちる。


 イェンの胸の奥で、何かが音を立てた。


 飢えではない。


 怒りでもない。


 もっと静かな何か。


「……あいつ」


 男が呟く。


「もうもらったくせに」


 イェンは答えない。


 ただ、その男を見ていた。


 昨日、王子に許された男。


 今日、また盗む男。


 そして、許されていない自分。


 雨の匂いが強くなる。


 遠くで犬が吠える。


 そしてその夜。


 王都の穀倉で、

 二人の盗人が、同じ麦袋に手を伸ばした。


【8】


 二人の手が、同じ袋に触れた。


 夜の穀倉は、静まり返っている。遠くの門で兵が足踏みする音がかすかに響く。濡れた地面に灯りが滲み、積まれた麦袋は影の塊のように見えた。


 袋に触れた瞬間、三人の男は互いの存在をはっきりと認識した。


 昨日、王子に許された男。

 そして、今まさに盗もうとしている二人。


 最初に声を出したのは、袋を抱え込んでいた男だった。


「……やめろ」


 声は低い。震えていた。


 イェンは手を離さない。


「やめるのはお前だ」


 男の顔は青白かった。頬はこけ、目の下には濃い影がある。昨日の男だ。王子の前で土に頭をつけ、麦袋を抱えて帰った男。


 その男が、またここにいる。


「これは俺のだ」


 男が言う。


 イェンは笑った。


 声のない笑いだった。


「王子にもらったんじゃないのか」


 男は黙った。


 沈黙は短かった。


「足りなかった」


 その言葉は、ほとんど吐息だった。


 雨の雫が軒から落ちる。ぽたり、と。


 イェンは袋を握る力を強める。


「俺だって足りない」


 横にいた仲間の男が、袋の端を掴む。


「三人で分ければいい」


 その提案は、静かなものだった。


 だが袋を抱えている男は首を振る。


「だめだ」


「なぜ」


「……子どもが三人いる」


 その言葉は、空気を重くした。


 イェンはしばらく何も言わなかった。


 そして静かに答える。


「こっちにも腹がある」


 それは真実だった。


 この街の人間は、みんな腹を抱えている。


 そのとき、遠くで兵の足音が聞こえた。


 三人の男は一瞬だけ顔を見合わせる。


 盗みの最中に、最も危険な瞬間だった。


 袋を持つ男が言う。


「離せ」


 イェンは言う。


「離さない」


 その言葉のあと、動いたのはほんの一瞬だった。


 袋を持つ男が体を引き、イェンが腕を伸ばす。

 麦袋は地面に落ち、鈍い音を立てた。


 麻袋が破れ、麦が石畳に散る。


 黄金色の粒が、暗闇の中で小さく光った。


 その瞬間、袋を持っていた男が叫んだ。


「やめろ!」


 声は必死だった。


 だがその声は、盗人同士の争いの合図でもあった。


 イェンの仲間が男の腕を掴む。

 男は振りほどこうとする。


 三人の体がぶつかる。


 泥が跳ねる。


 麦が足の下で潰れる。


「離せ!」


「お前こそ!」


「これは俺のだ!」


 怒鳴り声が、穀倉の壁に跳ね返る。


 遠くの兵の足音が止まった。


 気づかれた。


 だがもう遅い。


 袋を持っていた男が腰を振る。

 その瞬間、何かが光った。


 短い刃。


 包丁だった。


 本当は、袋を切るための刃だ。


 だが今は、人の腹の高さにある。


 イェンの仲間が後ろに跳ぶ。


「おい、やめろ!」


 だが刃は止まらない。


 振られた。


 鈍い音がした。


 それが肉の音だと理解するまで、一瞬の時間があった。


 イェンは自分の腹を見た。


 刃は深くない。


 だが血が滲む。


 雨に濡れた布が、暗く染まる。


 三人とも動きを止めた。


 沈黙。


 ただ雨の音だけが聞こえる。


 そして遠くから、兵の声が響いた。


「誰だ!」


 灯りが近づいてくる。


 その光を見て、三人の男は同時に動いた。


 逃げる。


 だが三人とも、同じ袋を見た。


 破れた麦袋。


 散った麦。


 それは、誰のものでもなくなっていた。


 袋を持っていた男が、突然ひざをつく。


「……くそ」


 その声は、泣き声に近かった。


 イェンは血を押さえながら立つ。


 兵の灯りが近い。


 もう逃げる時間はない。


 そのとき、仲間の男が叫んだ。


「走れ!」


 彼は麦袋を蹴り飛ばす。


 麦がさらに散る。


 地面が黄金色に広がる。


 兵の灯りが揺れる。


 そしてその夜。


 穀倉の中庭で、三人の盗人は別々の方向へ走り出した。


 だが――


 その中の一人だけが、走らなかった。


 麦をもらった男。


 彼は散った麦を両手で掬っていた。


 地面に落ちた麦を、必死に拾っていた。


 兵の灯りが彼の背に落ちる。


 そして次の瞬間、兵の怒号が夜を裂いた。


「動くな!」


 雨はまだ止んでいなかった。


【8】


「動くな!」


 兵の怒号は、夜の穀倉に鋭く響いた。


 灯りが一つ、また一つと近づいてくる。松明の炎は雨に濡れた空気の中で不安定に揺れ、石畳に落ちた麦粒を赤く照らしていた。


 その光の中で、男は動かなかった。


 膝をつき、両手で麦を掬っている。


 泥に混じった麦だ。

 兵の靴に踏まれ、雨に濡れ、石に叩きつけられた麦。


 それでも男は拾っていた。


 一粒ずつ。


 掌に乗せ、震える指で袋の切れ端へ入れる。


 兵の足音が迫る。


 イェンは息を呑んだ。


 走るべきだった。

 だが体が動かなかった。


 腹の傷は浅い。

 だが熱を持ち、血がゆっくりと滲み出ている。


 それよりも――


 目の前の光景から目を離せなかった。


 兵が男の前に立つ。


「何をしている」


 声は冷たい。


 男は顔を上げない。


「……麦を」


 かすれた声だった。


 兵は袋を見る。


 破れた袋。


 散った麦。


「盗みだ」


 その言葉は短い。


 男は首を振る。


「違う」


 兵が眉をひそめる。


「昨日……」


 男は言葉を探すように口を開いた。


「昨日、王子が」


 そこまで言って、言葉が止まる。


 兵の目が変わった。


 王子。


 その言葉は重い。


「……昨日?」


 兵の後ろで、別の兵が呟く。


「聞いたぞ」


「麦をやったって話だ」


「この男か?」


 松明が近づく。


 光が男の顔を照らした。


 昨日、許された男。


 穀倉の兵の何人かは覚えていた。


 王子の前で土に頭をつけ、泣きながら麦袋を抱えた男。


 その男が、またここにいる。


 兵は低く言う。


「昨日、袋をもらったな」


 男はゆっくり頷く。


「……足りなかった」


 その言葉に、兵は黙る。


 怒るべきか。


 笑うべきか。


 判断がつかない。


 後ろで誰かが言う。


「飢えたんだ」


 別の兵が言う。


「だからって盗むのか」


 沈黙が落ちる。


 その間に、男はまた麦を拾い始めた。


 必死に。


 手の中の麦は泥だらけだ。


 だが男は気にしない。


 兵が足で麦を踏む。


 粒が砕ける。


 男の手が止まる。


 そして、ゆっくり顔を上げた。


 その目は、怒りではなかった。


 諦めでもない。


 ただ――


 空っぽだった。


「……子どもがいる」


 それだけ言った。


 イェンはそれを聞いていた。


 暗闇の中で、壁にもたれている。


 逃げる機会はあった。


 だが足が動かなかった。


 腹の傷が疼く。


 そして胸の奥が、もっと痛む。


 昨日、王子が許した男。


 今日、また盗んだ男。


 そして今、麦を拾う男。


 イェンは歯を食いしばる。


 怒りが込み上げてくる。


 だが、それは男に向けたものではなかった。


 この街に向けた怒りだった。


 麦が足りない。


 仕事がない。


 船は遠い。


 そして王子が一度だけ、慈悲を与える。


 それで終わりだ。


 イェンは笑いそうになった。


 笑えない。


 血が流れている。


 腹が減っている。


 そして――


 兵が剣を抜いた。


 短い音だった。


「立て」


 男は立たない。


「立て」


 兵が肩を掴む。


 男は麦を握りしめたまま、ゆっくり立つ。


 手の中から麦がこぼれる。


 石畳に落ちる。


 兵は言う。


「盗みは罪だ」


 男は頷いた。


 そのときだった。


 イェンが動いた。


 壁から離れ、灯りの中へ歩き出す。


 兵が振り向く。


「誰だ」


 イェンは腹を押さえながら言う。


「そいつだけじゃない」


 兵が目を細める。


「……盗人か」


 イェンは頷く。


「そうだ」


 そして男を指さす。


「でも」


 その声は低い。


「昨日は許された」


 兵の顔が曇る。


 確かにそうだ。


 王子が許した。


 麦を与えた。


 それは事実だ。


 イェンは続ける。


「今日は違うのか」


 兵は答えない。


 その沈黙の中で、雨が強くなる。


 石畳に落ちる音が広がる。


 麦粒が流れていく。


 誰も動かない。


 穀倉の中庭は、静かな戦場のようだった。


 そのとき。


 遠くの門が開く音がした。


 兵が振り向く。


 そして声が上がる。


「殿下――!」


 松明が一斉に揺れる。


 その灯りの中に、五つの影が現れた。


 王子たちだった。


 アルケス。


 カストル。


 ポルックス。


 ヴィルギニス。


 そしてシャム。


 雨の夜に、王子たちが穀倉へ来た。


 その瞬間、兵も盗人も、誰もが息を止めた。


 そして誰も知らなかった。


 この夜の出来事が、王都の歴史に残る事件になることを。


【9】


 雨はやまず、穀倉の石畳に落ち続けていた。


 松明の火が湿った空気に揺れ、炎の色が王子たちの顔を順に照らしていく。五人は門の前で足を止めた。護衛の兵がその後ろに並ぶが、誰も声を出さない。


 最初に動いたのはアルケスだった。


 翡翠の髪は雨で濡れ、額に張り付いている。十歳の少年の顔だが、その表情には不思議な静けさがあった。アルケスはゆっくりと中庭を見渡す。


 散った麦。

 血の滴。

 兵に囲まれた男。

 腹を押さえ立つイェン。


 そして、泥の中で麦を拾う男。


 それらを、順番に。


 アルケスの視線はそこで止まった。


「……なぜ拾っている」


 その声は大きくない。


 だが穀倉の中庭に、はっきりと響いた。


 男は顔を上げる。


 雨に濡れた顔。

 目の奥は、もう何も残っていないように見える。


「麦だからです」


 それだけだった。


 誰も言葉を挟まない。


 カストルが一歩前へ出る。

 小さな体は、松明の光の中で影を落としている。


 彼の赤い瞳は、地面を見ていた。


 泥の中の麦粒。


 その光景を、ずっと見ていた。


「……昨日」


 カストルは言う。


「お前を許した」


 男は頷く。


「はい」


「なぜまた来た」


 男は少し考えた。


 それから答える。


「食べたからです」


 その言葉は、あまりにも単純だった。


 だがそれ以上の理由はない。


 食べた。

 そしてまた腹が減った。


 それだけだ。


 ポルックスが兄を見る。


 兄の横顔は、静かだった。


 怒っているわけではない。

 悲しんでいるわけでもない。


 ただ、何かを考えている。


 そのとき、兵が一歩前へ出た。


「殿下」


 声は硬い。


「この者は穀倉への侵入と盗みの罪です」


 兵は剣を下げない。


「処罰が必要です」


 その言葉は正しい。


 穀倉を守らなければならない。


 一人を許せば、百人が来る。


 ポルックスはそれを理解していた。


 アルケスも理解している。


 ヴィルギニスは黙って立っている。


 そしてシャムは――


 地面を見ていた。


 泥に落ちた麦粒。


 それを見て、胸の奥が痛くなる。


 花街で見たことがある。


 床に落ちた米を拾う手。


 それを踏みつける靴。


 シャムは唇を噛む。


 言葉が出ない。


 その沈黙の中で、イェンが笑った。


 乾いた笑いだった。


「処罰?」


 兵が睨む。


「黙れ」


 イェンは肩をすくめる。


 腹の傷から血が滲む。


「俺も盗人だ」


 兵が言う。


「お前もだ」


「そうだ」


 イェンは頷く。


「でもな」


 彼は地面を指さす。


「これは誰の麦だ」


 松明の光の中で、麦粒が散っている。


 泥と血に混じった麦。


 誰の袋かも分からない。


 誰の物かも分からない。


 イェンは言う。


「王の麦か」


 誰も答えない。


「それとも」


 イェンはゆっくり続ける。


「この街の麦か」


 その言葉は、静かだった。


 だが重かった。


 アルケスの胸に落ちる。


 カストルの胸にも。


 ポルックスの胸にも。


 ヴィルギニスの胸にも。


 シャムの胸にも。


 雨が強くなる。


 松明の火が揺れる。


 そのとき、カストルが言った。


「兵」


 兵が姿勢を正す。


「はい」


 カストルは男を見る。


 泥の中で麦を握る男。


 そしてイェンを見る。


 血を流す男。


 それから地面を見る。


 麦。


 それを見つめたまま言う。


「……拾え」


 兵が聞き返す。


「殿下?」


 カストルは顔を上げた。


「全部」


 その声は弱くない。


「拾え」


 兵は動かない。


 カストルはもう一度言う。


「全部拾え」


 そして静かに続けた。


「踏むな」


 その言葉は、怒りだった。


 小さな王子の怒り。


 兵たちは戸惑いながらも動き始める。


 松明を地面に立て、麦を拾う。


 一粒ずつ。


 泥の中から。


 血の横から。


 イェンはそれを見ていた。


 そして笑った。


 今度は少しだけ、まともな笑いだった。


 男も拾い始める。


 兵と一緒に。


 泥だらけの麦を。


 ポルックスは兄を見ていた。


 その小さな背中。


 壊れそうな体。


 それでも、誰よりも強い背中。


 ヴィルギニスは静かに目を細める。


 アルケスは、ゆっくり息を吐いた。



【8】



 雨は細くなっていたが、止んではいなかった。


 穀倉の中庭では、まだ兵たちが麦を拾っている。石畳の隙間に入り込んだ粒を指先で掻き出し、泥に濡れた麦を布袋へ戻していく。松明の火が揺れ、濡れた石の上に赤い光を落としていた。


 その光の中で、血が見えた。


 石畳の端。

 雨に流されながら、まだ消えきらない血。


 イェンは壁にもたれて立っていた。

 腹を押さえている。


 指の隙間から血が滲み、雨水と混ざり、ゆっくり地面へ落ちている。彼は逃げなかった。逃げる力がもう残っていないことを、本人が一番よくわかっていた。


 兵の一人が気づく。


「殿下」


 その兵はカストルの方を見た。


「この者、傷を負っています」


 カストルはゆっくり歩いた。


 小さな足音が、濡れた石の上で静かに響く。

 兵たちが自然と道を空ける。


 カストルはイェンの前で止まった。


 イェンは笑った。


 乾いた笑いだった。


「……運が悪いな」


 その声は低い。だが皮肉はまだ残っていた。


 カストルは言う。


「お前は盗んだ」


 イェンは頷く。


「そうだ」


「兵と争った」


「そうだ」


「そして」


 カストルの目が、腹の傷を見る。


「刺された」


 イェンは肩をすくめる。


「自業自得だ」


 雨が落ちる。


 石の上の血が、ゆっくりと広がる。


 兵の一人が言う。


「殿下、この者は盗人です。規律のためにも――」


 言葉は途中で止まった。


 カストルが振り向いたからだ。


 赤い瞳。


 その視線は鋭かった。


「分かっている」


 小さな声だった。


 だが兵は黙った。


 ポルックスが一歩前へ出る。


 兄の肩を見つめる。

 小さな背中。


 その体は震えている。


 寒さではない。


 怒りでもない。


 何か別のもの。


 カストルはイェンに言った。


「なぜ戻った」


 イェンは笑う。


「腹が減った」


「それだけか」


「それだけだ」


 カストルはしばらく黙っていた。


 雨音が続く。


 遠くで犬が吠えた。


 穀倉の中庭には、拾われた麦袋が積み直されている。


 そのとき、カストルは言った。


「兵」


 兵が姿勢を正す。


「はい」


 カストルは静かに言う。


「この男を縛れ」


 兵が動く。


 縄が出される。


 イェンは抵抗しない。


 腕を後ろに回されても、何も言わない。


 ただ小さく息を吐く。


 腹の傷が痛む。


 だが、それよりも。


「……やっぱりか」


 イェンは言う。


「盗人は盗人だ」


 カストルは答えない。


 兵が縄を締める。


 カストルはゆっくり歩いた。


 イェンの周りを一周する。


 その姿は、小さな裁判官のようだった。


 そして止まる。


「お前は盗んだ」


 カストルはもう一度言う。


「はい」


「人を傷つけた」


「はい」


「そして」


 カストルの声が低くなる。


「穀倉の麦を散らした」


 イェンは苦笑する。


「それは……」


 弁解しようとして、やめた。


 事実だった。


 カストルは言う。


「王の穀倉を荒らす罪は重い」


 兵たちが息を呑む。


 それは本来、王が裁く罪だった。


 カストルは続ける。


「だが」


 その声は少しだけ弱くなる。


「お前は血を流している」


 イェンは肩をすくめる。


「死ぬかもしれない」


「そうだな」


 沈黙。


 雨音。


 そしてカストルは言った。


「だから」


 兵たちを見る。


「殺さない」


 誰かが息を呑む。


 イェンが顔を上げる。


 カストルの赤い瞳は、まっすぐだった。


「だが罰は与える」


 兵が問う。


「どのように」


 カストルは穀倉を見る。


 積まれた袋。


 拾われた麦。


 そして言った。


「この男に」


 指を向ける。


「穀倉で働かせろ」


 兵が驚く。


「殿下?」


 カストルは続ける。


「逃げれば斬れ」


「だが」


 その声は静かだった。


「逃げなければ」


 穀倉を見る。


「麦を守らせろ」


 イェンは目を瞬かせる。


 理解できない。


「盗人に?」


 兵が言う。


 カストルは頷く。


「盗人だからだ」


 その言葉は、重かった。


「麦の重さを知っている」


 誰も反論できなかった。


 イェンは笑った。


 今度は、少しだけ苦い笑いだった。


「……変な王子だ」


 カストルは言う。


「王じゃない」


 イェンは言う。


「でも」


 空を見る。


 雨が降っている。


「そのうちなる」


 カストルは答えなかった。


 ただ穀倉の扉を見た。


 そして静かに言う。


「麦を守れ」


 イェンは頷く。


 その夜、穀倉には新しい番人が生まれた。


 腹を刺された盗人。


 だが――


 誰よりも麦を知る男だった。


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