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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第十章 2

【1】


 ポルックスが路地へ駆け込んだとき、夜の空気は火の熱と湿った石の冷たさで二つに裂けていた。


 中央穀倉の裏手は表の喧噪が嘘みたいに暗い。人は火を見ると明るい方へ集まる。だから影は、こういう時によく働く。荷車の車輪が残した深い轍に雨水が溜まり、その上を火の粉が一瞬だけ赤く映しては消える。壁際には空の樽が積まれ、濡れた麻袋が無造作に置かれていた。焦げた麦の匂いはここまで追ってきているのに、火そのものの光は届きにくい。何かを隠すにはちょうどいい場所だった。


「兄上!」


 ポルックスの声が石壁に跳ね返る。


 返事はなかった。

 だが、少し先で小さな靴音がした。カストルだ。見失ってはいない。ポルックスは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。緩んだすぐ後で、強く息を吸う。まだ安心するには早い。


 曲がり角を抜けると、カストルが立っていた。


 小柄な背中が、路地の先をにらんでいる。赤い瞳は夜の中でも熱を持っていた。その視線の先では、黒い外套の男が壁をよじ登ろうとしていた。身軽だ。兵ではない。兵ならもっと音を立てる。盗賊とも少し違う。盗賊は逃げるときに、もっと周囲を見る。だがこの男は後ろを見ない。後ろを見る必要がない者の逃げ方だ。


「止まれ!」


 カストルが鋭く言う。


 男は止まらなかった。

 壁の縁に手をかけ、身体を持ち上げる。


 その瞬間、カストルの足元に転がっていた小さな石が飛んだ。彼が蹴ったのだ。石は男の手首に当たり、鈍い音を立てる。


「っ」


 男の身体がわずかに揺れる。

 そこへポルックスが追いついた。


「兄上、下がって」


 低い声だった。兄へ向けるときだけ、ポルックスの声音は命令ではなく願いになる。だがカストルは下がらない。下がるという選択肢が、そもそも頭にないようだった。


「お前が回れ」


 カストルが言う。


 ポルックスは一瞬だけ黙る。兄を守りたい。だが兄の前で兄を否定すれば、カストルはもっと危険な方へ行く。そのことを、ポルックスはよく知っている。


「……わかった」


 短く答え、壁際を滑るように動く。礼儀も敬意もある。だが兄に対するものだけは、表面ではなく芯から来ている。ポルックスにとって、カストルは世界の中心だった。だからこそ、その中心が壊れる気配に誰より敏い。


 男はようやく振り向いた。

 顔の下半分を布で覆っている。目だけが見える。その目は不思議なくらい落ち着いていた。穀倉を焼き、追われている男の目ではない。むしろ、予定が少し狂っただけだとでも言いたげな静かな目だった。


 ポルックスはその目を見て、背筋が冷えた。


「この人……」


 カストルが一歩前へ出る。


「誰に頼まれた」


 男は答えない。

 代わりに腰へ手をやった。


「兄上!」


 ポルックスが叫ぶ。


 男が抜いたのは剣ではなかった。小さな瓶だ。月のにじんだ光を受けて、瓶の中の液が鈍く光る。


 蜂蜜と薬草を混ぜたような、あの甘い匂いがふっと漂った。


 毒。


 ポルックスは一瞬で理解した。

 城で見つかったものと同じ系統だ。

 眠りか、あるいはそれ以上。


「口を割らないつもりか」


 カストルの声は低かった。


 男は目だけで笑った。


 その笑いを見た瞬間、ポルックスは嫌な確信を持った。

 この男は最初から逃げ切るつもりではない。捕まることも、死ぬことも、予定のうちだ。


「兄上、近づかないでください」


 ポルックスが言う。

 だがカストルは止まらない。


「お前が何者でもいい」


 カストルは静かに言う。


「誰のために火をつけた」


 男の目が細くなる。


 そして、布の下からくぐもった声が漏れた。


「……秤を」


 聞き取りにくいほど小さい声だった。


 カストルが眉を寄せる。


「何だ」


 男は続けた。


「……秤を壊せば……」


 そこまで言って、急に咳き込む。

 瓶を割ったのだとポルックスは気づいた。小さな音が遅れて足元で鳴る。液体が石畳へ広がり、甘い匂いが一気に濃くなる。


「下がって!」


 ポルックスが兄の腕を強く引いた。

 カストルはよろめくが、転ばない。


 男は壁にもたれ、息を荒くした。

 毒は早い。喉と肺を焼くタイプだ。飲むだけではない。吸っても効く。証言を残さないための毒。誰が選んだのか、冷たい悪意が見える。


 ポルックスは口元を袖で押さえたまま、男の落とした瓶の欠片を見た。透明な液体ではない。少し黄みがかっている。記録しておくべきだ、と思う。こういう時でも数字と種類を拾う自分が、少しだけ嫌になる。だが拾わなければ兄を守れない。


 男は苦しそうに身体を丸めた。

 その目が、ふいにカストルを捉える。


「……王には……向かぬ」


 その一言は、毒よりも狙いがはっきりしていた。


 ポルックスの中で何かが切れた。


「黙れ」


 普段の彼からは想像しにくい、低く硬い声だった。怒鳴ってはいない。だが怒りははっきりある。兄を侮る言葉に対してだけ、ポルックスは刃になる。


 男は喉を鳴らし、笑ったような音を出す。

 そして、そのまま崩れ落ちた。


 静寂が落ちる。


 遠くではまだ穀倉の火が暴れている。

 だがこの路地だけ、時間が薄く止まったようだった。


 ポルックスはしゃがみ込み、男の首筋に指を当てた。

 脈はある。弱いが、まだ完全には消えていない。


「生きてる?」


 カストルが聞く。


「……今は」


 ポルックスは答えた。

 それから、視線を男の手元へ落とす。


 右手の人差し指に、黒い煤が濃く付いている。

 火をつけたのはこの男で間違いない。

 だが左の袖口には、うっすらと別の色があった。青でも赤でもない。深い紫に近い色。王城の侍従や兵の色ではない。貴族の礼装に使われる裏地の色に似ている。


 ポルックスの瞳が細くなる。


「……兄上」


「何だ」


「この人、一人の仕業じゃありません」


 カストルは何も言わない。

 だが赤い瞳が鋭く光る。


「見ればわかる」


 その声に、さっき男から投げられた「王には向かぬ」という言葉の棘は残っていなかった。あるのは怒りだけだ。怒りが彼の背筋を支えている。


 路地の奥から兵の足音が近づいてきた。

 現王の命で追ってきた者たちだろう。灯りが見える。


 ポルックスは立ち上がり、兄の外套の袖を一瞬だけ払った。

 火の粉か、毒の飛沫か、何かが付いていないか確かめるように。


 その仕草はあまりにも自然で、兄以外には気づかれないくらい短かった。


「大丈夫ですか」


 問いかける声は、また元の静けさを取り戻している。

 けれどポルックスの中ではまだ怒りが燃えていた。兄を侮られたことへの怒り。兄を危険へ晒した自分への怒り。そして何より、この火がただの火事ではなく、もっと大きな誰かの意思だとわかってしまった怒り。


 カストルは少しだけ顔をそらし、鼻を鳴らした。


「平気だ」


 それだけ言う。

 強がりだと、ポルックスは知っている。

 だがそれを崩してしまえば、兄の誇りごと折れる。だから追及しない。


 兵が駆けつけ、男の身柄を押さえる。

 その時にはもう、男はほとんど意識を失っていた。


「殿下!」


 兵が息を切らして礼をする。


 カストルは短く命じた。


「生かして連れていけ」


「はっ」


 兵が男を抱え上げる。

 ポルックスはその顔をもう一度見た。意識が戻る保証はない。けれど、もし戻らなくてもいい。もう拾うべきものは少し拾った。


 秤を壊せば——


 男はそう言った。


 秤。

 港の秤か。

 国の秤か。

 それとも、王を選ぶ秤か。


 穀倉の火は、ただ麦を焼くためのものではない。

 誰かが、この国の「均衡」そのものを焼こうとしている。


 路地を出ると、火の赤がまた夜を染めていた。

 シャムは民衆の列を押しとどめ、アルケスは兵と一緒に北棟の封鎖を指示している。現王は炎の前に立ったままだった。


 ポルックスは兄と並んで、燃える穀倉を見た。

 火の音は、まるで大きな獣が喉を鳴らしているようだった。


「兄上」


 ポルックスが低く言う。


「これは、始まりかもしれません」


 カストルは目を細めたまま答える。


「だったら」


 炎の赤を瞳に映して、静かに言う。


「焼かれた分、焼き返す」


 その言葉は子どもの怒りのようでいて、ひどく王族らしかった。


 夜はまだ終わらない。

 火もまだ消えない。

 けれど、王都の盤は確かに次の形へ動き始めていた。


【2】


 火は夜明け前にようやく勢いを弱めた。


 完全に消えたわけではない。だが、もう獣のように暴れる炎ではなかった。兵たちが崩した梁の隙間から、くすぶる煙が重く立ち上るだけになっていた。南棟の屋根は半分ほど落ち、濡れた麦と灰が混ざり合って泥のようになっている。


 空はまだ暗かった。

 夜と朝のあいだの、色のない時間だった。


 火の粉はもう舞っていない。

 代わりに、湿った焦げの匂いが静かに漂っていた。


 中央穀倉の前には、まだ多くの人がいた。兵が列をつくり、民衆を押し戻している。怒鳴り声は減っていたが、不安は消えていない。火は消えても、焼けた麦は戻らない。誰もがそのことを知っていた。


 アルケスは濡れた石段に立っていた。

 外套は煤で黒くなり、翡翠の髪にも灰がついている。袖で何度か払ったが、完全には落ちない。


 南棟を見下ろすと、兵が焦げた袋を運び出していた。

 袋の口を開けると、中の麦は黒く崩れている。指でつまめば粉になる。食べることはできない。


 アルケスは息を吐いた。


「……どれくらい」


 横にいた役人に問う。


 役人は帳面をめくりながら答えた。


「乾燥麦は、ほとんど……」


 言い切れなかった。


 代わりにポルックスが言った。


「四百六十袋のうち、三百以上は焼失です」


 声は落ち着いている。

 だが指先は少し白くなっていた。

 帳面を強く持ちすぎているのだ。


 アルケスは黙る。

 数字を聞くと、現実が急に重くなる。


 四百六十袋。


 それはただの数字ではない。

 王都の冬を越すはずだった麦だ。


「種籾は」


 アルケスが言う。


「半分は運び出しました」


 ポルックスが答える。


「半分は……南棟に」


 言葉が途切れる。


 種籾が焼ければ、来年の畑も弱くなる。

 それは飢饉を一年では終わらせない。


 アルケスは南棟の瓦礫を見つめた。


「……残りを探そう」


 小さく言う。


 ポルックスは頷いた。

 そして一度だけ兄の方を見た。


 カストルは少し離れた場所に立っていた。

 焦げた柱の横で、兵と話している。小柄な体は煤で黒くなっていたが、背筋はまっすぐだった。


 ポルックスはその姿を見ると、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 生きている。


 それだけで、夜の半分は終わったようなものだった。


 シャムは穀倉の門の外にいた。


 民衆の列はまだ崩れていない。

 兵の背後で、人々が小声で話している。


「全部焼けたのか」


「いや、まだ残ってるって」


「嘘だろ」


 声は低い。

 だが低い声ほど広がる。


 シャムは列の端に立ち、子どもを抱えた女の前でしゃがんだ。


「大丈夫?」


 女は驚いた顔をする。

 金の髪と赤い瞳を見ると、すぐに目を伏せた。


「……殿下」


 その呼び方に、シャムはまだ少し慣れない。


「殿下じゃないよ」


 いつものように言いかけて、途中でやめる。

 今はそれを言う時間ではない。


 子どもが女の腕の中で泣いている。

 腹が空いている泣き方だ。


 シャムは門の向こうを見た。

 兵が炊き出しの鍋を運んでいる。


「炊き出しは続ける」


 シャムが言う。


 女は驚いたように顔を上げる。


「でも……麦が……」


「残ってる」


 シャムははっきり言った。


 本当に残っているかどうかは、まだ誰にもわからない。

 だが、ここで「ない」と言えば列は崩れる。


 花街で覚えたことの一つは、言葉の重さだった。

 本当のことより、必要なことを言う時がある。


「続くから」


 そう言うと、子どもは泣き止まなかったが、女は少しだけ背筋を伸ばした。


 その頃、現王は穀倉の裏手に立っていた。


 捕らえられた男は、兵の手で運ばれている。

 まだ生きているが、意識はほとんどない。


 現王の隣にはカストルがいた。

 ポルックスも少し後ろに立つ。


「瓶を割ったそうだな」


 王が言う。


「はい」


 ポルックスが答える。


「毒でした」


「自分で飲んだか」


「おそらく」


 現王は男の顔を見下ろした。

 布の下から覗く口元は白くなっている。


「……口を閉じるための毒だ」


 カストルが言う。


 声は落ち着いている。


 現王はちらりと彼を見る。


「そう思うか」


「逃げる気がなかった」


 カストルは言う。


「最初から捕まるつもりだった」


 ポルックスは兄の横顔を見て、少しだけ目を伏せた。

 その推測は正しい。


 だが、それを言葉にするのは勇気がいる。


 現王は少し黙った。


 それから兵に言う。


「生かせ」


「はっ」


 兵が頭を下げる。


 男は運ばれていく。

 だが現王の視線は、もう男を見ていない。


 穀倉の燃え跡を見ていた。


「火をつけたのは一人だ」


 王が言う。


「だが、火を考えたのは一人ではない」


 カストルの赤い瞳がわずかに光る。


「穀倉を燃やす意味を知っている者」


 ポルックスが静かに言う。


「……秤」


 現王が小さく繰り返す。


 ポルックスとカストルが顔を上げる。


「男がそう言ったのか」


「はい」


 ポルックスは頷いた。


「秤を壊せば、と」


 王は穀倉の残骸を見つめた。


 港の秤。

 麦の秤。

 国の均衡。


 どれを壊しても、同じ結果になる。


 混乱だ。


 そして混乱は、誰かにとって利益になる。


「……ラルグス」


 王が低く言う。


 ポルックスはすぐに答える。


「船は三日後に到着予定です」


「その秤を壊せば」


 カストルが言う。


「輸入も止まる」


 王はゆっくり頷いた。


「そうだ」


 穀倉の灰が風に舞う。


 空は少しだけ明るくなっていた。

 雲の向こうに、朝が近づいている。


 だが王都の空気は、夜よりも重かった。


 麦が燃えた。

 火をつけた者がいる。

 そしてそれは、ただの盗人ではない。


 誰かが、秤を壊そうとしている。


 現王は王子たちを見た。


「これは火事ではない」


 静かな声だった。


「戦いだ」


 その言葉は、十一歳の王子たちの胸に静かに落ちた。


 アルケスは遠くでまだ煙を上げる穀倉を見つめた。

 カストルは拳を握り、

 ポルックスは帳面を閉じ、

 シャムは門の向こうの民衆の列を見た。


 そして、誰も口には出さなかったが、同じことを思っていた。


 これはまだ始まりだ。


 火は消えた。

 だが、秤を壊そうとする者たちは、まだどこかにいる。


 そしてその秤の上には、

 この国そのものが乗っている。


【3】


 朝は来たが、王都は明るくならなかった。


 夜を焼いた穀倉の煙は、まだ空に残っていた。灰色の雲と混じり合い、太陽の光を鈍く濁らせる。王都の屋根は湿り、石畳には黒い水が細く流れている。火が消えても、焼けた匂いは消えない。むしろ、朝になってからの方がよくわかった。湿った麦と灰が混ざった、重い匂いだった。


 中央穀倉の前には、まだ兵が立っていた。

 夜の騒ぎは収まったが、人の不安は消えない。門の向こうでは民衆が遠巻きに様子を見ている。声は小さいが、視線は重い。焼けた麦袋が運び出されるたびに、その重さは増していく。


 王城では、朝の会議がすぐに開かれた。


 執務室の中央に地図が広げられている。

 川の流れ、穀倉の位置、港の印。

 その中で、中央穀倉の場所だけが赤く囲まれていた。


 現王はその地図を見下ろしていた。

 金の髪は昨夜の煤をまだ少し残している。眠っていない顔だったが、目は冴えている。


 アルケスは父の右手側に立っていた。

 少し離れてカストルとポルックス。

 シャムは壁際にいる。


 十一歳の少年たちが並んでいる光景は、奇妙だった。

 王国の未来が、まだ子どもの顔をしている。


「南棟はほぼ焼失」


 役人が報告する。


「乾燥麦は三百二十袋、雑穀三十袋ほどが失われました」


 アルケスは目を伏せた。

 数字が胸に落ちる。


 三百二十袋。

 炊き出しなら、王都の民を何日救えただろう。


「種籾は」


 現王が問う。


「半分ほど回収できました」


 ポルックスが答える。

 帳面を持ったまま、一歩前へ出た。


「ですが、来年の作付けには不足します」


 言葉は丁寧だ。

 だがその内容は冷たい。


 来年。

 飢饉は今年で終わらない。


 現王は黙ったまま頷いた。

 そして、カストルを見た。


「火の元は」


 カストルは迷わず答えた。


「悪意です」


 役人がざわめく。


 カストルは続けた。


「盗人じゃない」


 赤い瞳が静かに光る。


「穀倉を焼く意味を知っている」


 現王はゆっくり息を吐いた。


「……秤」


 その言葉に、ポルックスが小さく頷く。


 昨夜、毒を飲んだ男が残した言葉。

 秤を壊せば——。


 現王は窓の外を見た。

 王都の空はまだ灰色だった。


「港の秤」


 王が言う。


「ラルグスの船が来る」


 役人の一人が顔を上げる。


「三日後です」


 ポルックスが答えた。


「その秤が壊れれば」


 カストルが続ける。


「輸入が止まる」


 沈黙が落ちた。


 それは単純な計算だった。

 穀倉が燃える。

 輸入が止まる。

 民が飢える。


 飢えた民は怒る。

 怒りは誰かへ向かう。


 王へ。


 現王はゆっくりと机に手を置いた。


「火は穀倉だけではない」


 静かな声だった。


「国の秤に火をつけた」


 アルケスはその言葉を聞きながら、窓の外を見た。

 城下の屋根が続いている。

 その下に、人がいる。


 昨日見た老婆。

 麦袋を抱えていた男。

 炊き出しの列。


 三百二十袋。


 その数字がまた胸に浮かぶ。


「……父上」


 アルケスが言った。


 現王が視線を向ける。


「炊き出しは続けます」


 声は静かだった。

 だが迷いはない。


 役人の一人が慌てて言う。


「殿下、それでは麦が——」


「止めたら終わる」


 アルケスは言う。


「今止めたら、三日後まで持たない」


 言葉はまだ子どもの声だった。

 だが内容は王だった。


 現王はしばらく黙った。

 そして頷く。


「続けろ」


 役人たちは慌てて帳面を書き直し始める。


 その横で、ポルックスが小さく息を吐いた。


「……計算を変えます」


 帳面を開きながら言う。


 カストルはそれを見ていた。


 弟はいつも静かだ。

 怒らない。

 声を荒げない。


 だが兄は知っている。

 ポルックスが帳面を強く握るときは、怒っているときだ。


「……兄上」


 ポルックスが言う。


「何だ」


「港を見に行きましょう」


 カストルの目が少し細くなる。


「秤?」


「はい」


 ポルックスは頷いた。


「秤を壊すなら、そこです」


 現王はその会話を聞いていた。


 そして静かに言う。


「アルケス」


「はい」


「お前は城下を見ろ」


 アルケスは頷く。


 王はカストルを見た。


「港へ行け」


 短い命令だった。


 カストルの赤い瞳が光る。


「はい」


 ポルックスも礼をする。


 そして王は最後にシャムを見る。


「お前は」


 シャムは顔を上げる。


「民の間にいろ」


 王は言う。


「火の後は、噂が燃える」


 シャムは少しだけ笑った。


「それなら慣れてる」


 花街で覚えたことの一つは、噂の匂いだった。

 噂は火より早く広がる。


 会議が終わる。


 王子たちはそれぞれ動き出した。


 廊下を歩きながら、カストルが言う。


「秤を壊すって言ったな」


 ポルックスは頷く。


「はい」


「壊させない」


 カストルの声は小さい。

 だが強かった。


 ポルックスは兄の横顔を見る。


 兄の体は強くない。

 咳も出る。

 長く走れば息が切れる。


 それでも、誰よりも先に前へ行く。


「……守りましょう」


 ポルックスは言う。


 カストルは鼻で笑った。


「守る?」


 赤い瞳が光る。


「壊しに来た奴を壊す」


 その言葉は子どものものだった。

 だが、その怒りは王族のものだった。


 王都の空はまだ灰色だった。


 穀倉の煙は消えていない。

 港の秤は三日後に動く。

 ラルグスの船は近づいている。


 そしてどこかで、まだ誰かが秤を壊そうとしている。


 火は消えた。

 だが、国の均衡はまだ燃えていた。


【4】


 穀倉の火が消えてから二日目の朝、王都の空気は奇妙な静けさを帯びていた。


 騒ぎが終わったわけではない。むしろ逆だった。焼けた穀物の匂いはまだ城下の風に残り、炊き出しの列は昨日より長くなっている。だが、人は不安を言葉にし続けると疲れるものだ。疲れた沈黙が、街を包んでいた。


 その沈黙の中を、アルケスは歩いていた。


 城の石段を降り、城門を抜け、港へ続く大通りへ出る。護衛の兵が数人、距離を置いてついてきていた。王子が城下へ出る時には必ずつく影のような存在だが、今日はその数が少し多い。穀倉火災の後だからだ。


 アルケスは振り返らない。

 ただ、歩く。


 港へ向かう道はいつもより人が少なかった。炊き出しの列に並ぶ者、仕事を探して城下をさまよう者、疲れた顔の商人。皆、歩き方が重い。麦袋を運ぶ荷車もほとんど見えない。


 アルケスはその光景を見ながら思った。


 穀倉の火は、ただ麦を焼いただけではない。

 人の希望も、少し焼いた。


 港へ着くと、海の匂いが風に乗ってきた。

 潮と魚の匂いだ。王都の奥では感じない、生きた匂いだった。


 港の中央には、大きな秤が置かれている。


 ラルグスから来る穀物船の荷を量る秤だ。

 巨大な木枠に鉄の鎖が吊られ、重りがいくつも並んでいる。その秤は王都の食糧の入口だった。


 そして今、その秤が壊される可能性がある。


 アルケスは秤の前に立った。


 潮風で揺れる鎖の音が、静かに鳴る。


「殿下」


 声がかかった。


 振り向くと、港の監督官が深く頭を下げていた。

 年配の男で、潮に焼けた顔をしている。


「お越しになるとは思いませんでした」


 アルケスは短く言う。


「穀倉が燃えた」


 監督官はうなずいた。


「はい」


「次はここだ」


 アルケスは秤を見た。


 監督官の顔が少し変わる。


「……やはり」


 アルケスは言った。


「この秤を守る」


 声は強くない。

 だが、はっきりしていた。


 護衛の兵が一歩前へ出る。


「殿下、危険です」


 アルケスは首を振った。


「ここにいる」


 兵が戸惑う。


 第一王子が港に立つ。

 それは、ただの視察ではない。


「命令だ」


 アルケスは言った。


「秤の周囲を封鎖する」


 兵が顔を上げる。


「城の兵を三十」


 アルケスは続ける。


「港の荷役人も動員」


 監督官が驚く。


「殿下、それでは商人が——」


「秤が壊れたら」


 アルケスは静かに言う。


「船は麦を降ろせない」


 それは事実だった。

 港の秤は、ただの器具ではない。

 秤がなければ荷の量が決められない。量が決められなければ、税も分配もできない。


 秤が壊れれば、輸入は止まる。


 穀倉が焼けた今、それは国の死に等しい。


 監督官はゆっくり頭を下げた。


「……承知しました」


 アルケスは秤の横に立った。


 潮風が翡翠色の髪を揺らす。

 海の向こうはまだ霞んでいる。


 ラルグスの船は、明日か明後日には見える。


 その頃、城では別の動きが始まっていた。


 カストルとポルックスは港の裏通りを調べていた。


 穀倉の放火犯が残した痕跡は少ない。

 だが、完全には消えていない。


「ここ」


 ポルックスが言う。


 石畳の隙間に黒い粉が残っている。


「火薬?」


 カストルがしゃがむ。


「違う」


 ポルックスは指で触る。


「油」


 カストルの赤い瞳が細くなる。


「火は偶然じゃない」


「はい」


 ポルックスは静かに答える。


 その時、遠くから声が聞こえた。


「第一王子が港にいる!」


 人のざわめきだった。


 カストルは顔を上げた。


「……何してる」


 ポルックスは少し笑った。


「守ってるんでしょう」


 カストルは立ち上がる。


「一人で?」


「護衛はいます」


 ポルックスは言う。


「でも」


 カストルは言った。


「俺も行く」


 ポルックスは黙る。

 兄の性格は知っている。


「……わかりました」


 二人は港へ向かった。


 その頃、シャムは城下を歩いていた。


 炊き出しの列は、朝よりさらに長くなっている。

 子どもが泣き、老人が座り込み、鍋の前では兵が必死に秩序を保っている。


 シャムは列の端を歩いた。


「まだある」


 誰かが言う。


「第一王子が港にいる」


 別の声が言う。


 その噂は静かに広がっていた。


 王子が秤を守っている。


 シャムは空を見た。


 海の方角に、かすかな影が見える。


 船だ。


 まだ遠い。

 だが確かに、船だった。


 シャムは小さく笑った。


「来た」


 そして港では、アルケスが海を見ていた。


 遠くに帆が見える。

 白い帆。

 青い旗。


 ラルグスの双龍の旗だった。


 潮風が秤を揺らす。

 鉄鎖が静かに鳴る。


 アルケスはその音を聞きながら思った。


 秤を守る。


 それは麦を守ること。

 民を守ること。


 そして。


 王の役目だった。


 アルケスは秤の横に立ったまま、ゆっくり息を吐いた。


 海の向こうから、船が近づいてくる。

 その船には麦が乗っている。


 そして、その麦を量る秤は、まだここにあった。


【4】


 港に吹く風は、灰の匂いと潮の匂いを半分ずつ運んでいた。


 穀倉の火事から三日。

 王都はまだ煙の気配を抱えたままだが、それでも人々は海を見ていた。理由は一つしかない。遠い水平線の向こうから、白い帆がゆっくりと近づいてきていたからだ。


 ラルグスの穀物船。


 青地に双龍の旗が、朝の風を受けて大きく広がっている。

 その旗を見た瞬間、港の人々のざわめきは少し変わった。飢えた者の声には、わずかな希望が混じる。


 その港の中央に、大きな秤が立っていた。


 木の枠に鉄の鎖。

 そして重りの並んだ秤台。


 王都の食糧は、この秤を通って入る。

 だからこそ、この秤を壊そうとする者がいた。


 秤の横には、アルケスが立っていた。


 翡翠色の髪は潮風に揺れ、外套の裾にはまだ煤が残っている。穀倉の火事の夜から、彼はほとんど休んでいない。それでも姿勢は崩れず、第一王子としてそこに立っていた。


 背後には城の兵。

 そして少し離れた場所に、カストルとポルックス。


 シャムも港にいた。

 だが彼は秤の近くには立たず、人の列の中にいた。民の顔を見るためだ。


 王都にいる王子は四人。

 もう一人——ヴィルギニスは辺境地にいる。


 だから今、この港にいるのは四人だけだった。


 カストルは腕を組んで秤を見ていた。


「……遅い」


 小さく言う。


 ポルックスが答える。


「船は予定通りです」


「そうじゃない」


 カストルは海ではなく、港の広場を見ている。


「壊しに来るやつ」


 ポルックスは少しだけ笑った。


「もう来ているかもしれません」


 カストルは赤い瞳を細めた。


 その時だった。


 港の倉庫の裏から、シャムが現れた。

 その横に、小さな少年がいる。


 ルカだった。


 シャムは秤の前まで歩いてきて言う。


「見つけた」


 カストルが眉を上げる。


「何を」


 シャムはルカの背中を軽く押した。


「この子が見た」


 ルカは少し震えていた。

 だが、必死に言葉を出す。


「黒い箱を……運んでる人がいた」


 ポルックスの目が鋭くなる。


「どこ」


 ルカは倉庫の影を指さした。


「そこ」


 カストルは迷わなかった。


「行く」


 小さな体が一瞬で走り出す。


「兄上」


 ポルックスも追う。


 倉庫の裏は暗かった。

 海風が入りにくく、箱や縄が積まれている。


 その影の中に、人影があった。


 黒い箱を開けている男。


 カストルが言う。


「止まれ」


 男が振り向く。

 その手にあるのは鉄の器具だった。


 秤の重りを外すための道具。


 ポルックスはすぐ理解した。


「やっぱり」


 男は逃げようとする。

 だが出口にはすでに兵が回っている。


 男は立ち止まり、ゆっくり笑った。


「王子が来るとはな」


 カストルが近づく。


「誰の命令だ」


 男は答えない。

 代わりに箱を蹴った。


 箱の中から鉄の重りが転がる。


 ポルックスが拾う。


「……偽物」


 重さが違う。


 この重りを秤に混ぜれば、計量は狂う。

 荷は正しく量れない。

 港は止まる。


 カストルは男の胸ぐらを掴む。


「秤を壊すつもりだったな」


 男は笑う。


「秤が狂えば——」


 言葉が止まる。

 兵が腕を押さえたからだ。


 そこへアルケスが歩いてきた。


 秤の前から離れて、静かに倉庫の影へ入る。


「壊れなかった」


 アルケスが言う。


 声は穏やかだった。


「ここには兵がいる」


 そして少しだけ間を置いて続ける。


「王子もいる」


 男の目がわずかに揺れる。


 シャムが横から言う。


「あと、この子」


 ルカの肩を叩く。


 ルカはびくっとする。


「この子が見つけた」


 アルケスはルカを見た。


 炊き出しの列の最後に立っていた少年。

 痩せた体。

 だが目はまっすぐだった。


「ありがとう」


 アルケスが言う。


 ルカは戸惑った顔をした。


「……ぼく?」


「うん」


 シャムが笑う。


「英雄」


 その時だった。


 港の広場から歓声が上がる。


 船が港に入ったのだ。


 白い帆がゆっくり回り、船体が岸へ寄ってくる。

 青地に双龍の旗が、朝の光で大きく広がった。


 ラルグスの穀物船。


 荷役人たちが走り出す。


 縄が投げられ、船が岸に固定される。


 アルケスは秤の前に戻った。


 重りを並べる。


 ポルックスが確認する。


 カストルが腕を組んで立つ。


 シャムはルカと並んで見ている。


 王都にいる四人の王子が、秤の周りにいた。


 荷袋が降ろされる。


 麦の袋。


 まだ焼けていない麦。


 秤の鎖が揺れる。


 重りが動く。


 そして——


 秤が動いた。


 その音は小さい。

 だが港の人々はそれを聞いた。


 誰かが言う。


「量れる」


 別の誰かが言う。


「麦だ」


 その声は波のように広がった。


 秤は壊れていない。


 麦は入る。


 王都はまだ終わらない。


 アルケスは秤の横で静かに息を吐いた。


 その時、遠くの海の向こうを風が渡る。


 その風は、まだ遠い辺境地にも届いているはずだった。


 そこにはもう一人の王子——

 ヴィルギニスがいる。


【5】


 秤が動いた瞬間、港の空気がわずかに変わった。


 大きな歓声が上がったわけではない。人々は歓声を上げるほどの余裕をまだ持っていなかった。飢えの気配は消えていないし、穀倉の灰はまだ城下の風に残っている。それでも、人の胸の奥で何かが静かにほどけたのは確かだった。


 麦袋が一つ、秤に乗せられる。


 鎖が軋む。

 鉄の重りが揺れる。

 秤はゆっくりと傾き、やがて止まった。


「……量れる」


 港の監督官が低く言った。


 その声は、思っていたよりずっと静かだった。

 だがその一言で、荷役人たちが動き出す。


 縄が解かれ、麦袋が次々に降ろされる。

 積み上げられた袋は、焦げた穀倉の麦とは違う色をしていた。淡い黄金色の粒が袋の隙間からこぼれ、石畳に落ちる。


 それを見て、遠巻きにしていた民衆の中から、小さなざわめきが起こった。


 麦だ。


 ただそれだけのことなのに、人の顔は少しだけ変わる。


 秤の横では、アルケスが静かに立っていた。


 外套の裾が潮風に揺れる。翡翠色の髪は、海の湿気で少し重く見えた。

 彼は何も言わない。ただ秤が動くのを見ている。


 その横にポルックスがいた。


 帳面を開き、数字を書き込んでいる。

 麦袋の数、秤の重り、荷の順番。


 手は速い。

 そして正確だった。


 ポルックスはふと顔を上げる。


 兄を見た。


 カストルは秤の少し後ろに立っている。

 腕を組み、港の広場を見渡していた。赤い瞳は鋭い。まだ怒りが残っている顔だ。


 穀倉の火。

 秤を壊そうとした男。


 それらは終わっていない。

 ただ、いまは止めただけだ。


 ポルックスはその横顔を見て、小さく息を吐いた。


 兄はまだ立っている。


 それで十分だった。


 少し離れた場所では、シャムがしゃがんでいた。


 隣にいるのはルカだった。


 ルカはまだ少し信じられない顔で港を見ている。


「……ほんとに来た」


 シャムが笑う。


「言ったろ」


「でも」


 ルカは言う。


「秤が壊れてたら」


 シャムは肩をすくめる。


「そしたら別のこと考える」


 花街で育った子どもは、未来を一つしか持たないという考え方をしない。道が一つ塞がれたら、別の道を探す。それだけだ。


 ルカはシャムを見た。


「王子って」


 少し迷ってから言う。


「……大変なんだな」


 シャムは笑った。


「まあね」


 そして立ち上がり、秤の方を見る。


 アルケス、カストル、ポルックス。

 三人が並んでいる。


 王都にいる王子は四人。

 もう一人——ヴィルギニスは遠い辺境地にいる。


 その不在を、シャムは少しだけ感じた。


 もしヴィルギニスがここにいたら、どんな顔をしただろう。


 青い髪を風に揺らして、きっと静かに秤を見ていただろう。


 その頃、王城では現王が報告を受けていた。


 窓の外には、まだ灰色の空が広がっている。

 穀倉の煙は薄くなったが、完全には消えていない。


 重臣が言う。


「秤は守られました」


 王は黙って聞いている。


「第一王子が港で指揮を」


 王は小さく頷いた。


 その顔には、安堵も誇りも表れていない。

 ただ王としての静かな理解があるだけだった。


 秤が守られた。


 それは麦を守ったという意味ではない。


 均衡を守ったのだ。


 国というものは、秤の上にある。

 片方に飢えが乗り、片方に希望が乗る。


 少しでも傾けば、民は倒れる。


 王は窓の外を見た。


 遠くの港の方角に目を向ける。


 そこには四人の王子がいる。


 そしてもう一人は遠い辺境地。


 まだ子どもだ。

 十一歳。


 だが、もう秤の上に立っている。


 王は静かに言った。


「……始まったな」


 誰に向けた言葉でもない。


 穀倉の火は消えた。

 秤は守られた。

 麦は港から王都へ入る。


 だが、それで終わりではない。


 秤を壊そうとした者はいる。

 そして、その背後にはまだ誰かがいる。


 王都の空はゆっくりと明るくなり始めていた。


 港では麦袋が積み上げられ、炊き出しの鍋に新しい穀物が入る。

 人々の声は少しずつ戻っていく。


 秤は、静かに揺れていた。


 それはまだ均衡の上にある。


 だが、いつまた傾くかは誰にもわからない。


【6】


 王都から遠く離れた辺境地では、海の匂いは届かない。


 代わりに、乾いた土と草の匂いが風に乗る。

 夜露の残る草原を風が渡るたび、地面の冷たさが朝の光に溶けていく。


 ローディス辺境伯領。


 そこは王都から何日も馬を走らせた場所にあり、王国の外縁に近い土地だった。遠い国境を守る拠点であり、交易路が細く通る、静かだが油断できない地域でもある。


 ただし、その国境はラルグスではない。


 ラルグスはもっと遠く、海を越えた向こう側にある国だ。

 この辺境地の向こうにあるのは、別の小国だった。山岳の民が住む国で、交易はあるが政治的な距離を保つ、慎重な相手である。


 つまりここは、王都の秤とは別の均衡の上にある土地だった。


 朝。


 辺境伯の館の裏庭で、一人の少年が立っていた。


 赤茶に染められた髪。

 細い体。

 静かな目。


 ヴィルギニスだった。


 染薬で色を変えた髪は、王都で知られている青みがかった色ではない。遠目には普通の貴族の少年にしか見えない。だが、その立ち姿はどうしても隠しきれない。


 王族の姿だった。


 彼は空を見ていた。


 辺境の空は広い。

 王都のように塔も屋根も多くない。

 空はそのまま地平線まで続いている。


 そこへ足音がした。


「朝が早いな」


 振り向くと、ローディス辺境伯が立っていた。


 白髪混じりの茶髪を長く後ろに束ね、年齢のわりに肌は妙に若い。着ている上着は深緑と金の組み合わせで、普通の貴族ならまず選ばない配色だった。


 変人。


 中央貴族は彼をそう呼ぶ。


 だが、その手腕を疑う者はいない。

 辺境を安定させているのは、この男だった。


 辺境伯は軽く笑う。


「眠れなかったのか?」


 ヴィルギニスは首を振る。


「眠りました」


「そうか」


 辺境伯は空を見る。


「王都は今ごろ騒がしい」


 ヴィルギニスは何も言わない。


 だが、報告は届いている。


 穀倉の火。

 港の秤。

 ラルグスの穀物船。


 すべて知っている。


 辺境伯が言う。


「秤は守られた」


 ヴィルギニスの目がわずかに動く。


「……そうですか」


 声は静かだった。


「第一王子が港に立ったそうだ」


 ヴィルギニスは少しだけ目を伏せた。


 アルケス。


 翡翠色の髪の王子。


「そうするでしょう」


 ヴィルギニスは言う。


 辺境伯は笑った。


「お前は驚かないな」


「驚く理由がありません」


 ヴィルギニスは答える。


「第一王子です」


 辺境伯は顎を撫でる。


「第二王子は?」


 ヴィルギニスは少し考える。


「怒ったでしょう」


「第三王子」


「計算している」


 辺境伯は声を出して笑った。


「はは、よく見ている」


 ヴィルギニスは黙る。


 王都を離れていても、四人の王子のことはよくわかる。


 カストルは怒る。

 ポルックスは考える。

 アルケスは立つ。

 シャムは人の中へ入る。


 それぞれ違う。


 それぞれ王族だった。


 辺境伯はふと真顔になる。


「寂しいか?」


 ヴィルギニスは少し驚いた顔をする。


「……いいえ」


 答える。


 完全な否定ではなかった。


 王都には四人の王子がいる。


 ここには一人。


 風が草を揺らす。


 辺境伯は肩をすくめた。


「まあいい」


 そして丘の向こうを指す。


「見ろ」


 遠くに細い道が見える。

 山の谷間を通る交易路だ。


 その道は、この国の国境へ続いている。


 ラルグスではない。

 別の国だ。


 小さな山岳国。

 騎馬と鉱石の交易で知られる国。


 辺境伯は言う。


「商隊が来る」


 ヴィルギニスは顔を上げる。


「塩と鉄だ」


 辺境伯が続ける。


「穀物じゃない」


 ヴィルギニスは理解する。


 王都の問題は穀物だ。

 だが国はそれだけで回っているわけではない。


 塩。

 鉄。

 交易路。


 それらもまた国の秤だった。


 辺境伯は笑う。


「王都は港を守った」


「はい」


「なら」


 辺境伯は言う。


「ここは道を守る」


 ヴィルギニスは丘の向こうを見た。


 国境の風が吹いている。


 その風は王都のものとは違う。


 だが同じ国の風だった。


 ヴィルギニスは静かに息を吐く。


 そして言った。


「わかりました」


 声は静かだった。


 だが、その声には王族の響きがあった。


 王都では秤が動いた。

 港では麦が量られている。


 そしてこの辺境では——


 別の秤が、静かに動き始めていた。



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