表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/37

第十章

【1】


 夜は深まっていた。


 燭台の火が低く揺れる。


 医官と侍女が下がり、部屋に残るのは三人だけ。


 寝台に伏すカストル。


 椅子に座るポルックス。


 そして、立ったままの母妃。


 彼女は座らない。


 将軍家の娘は、弱者の側で腰を落とさない。


 それが習いだ。


 カストルの呼吸は浅いが、安定している。


 熱はまだある。


 だが命に関わるほどではない。


 母妃はそれを一目で見抜いている。


「医官は大げさです」


 静かに言う。


 ポルックスが顔を上げる。


「兄上は高熱です」


「死ぬ熱ではありません」


 冷たい。


 声に情はない。


 事実だけがある。


 ポルックスは一瞬、言葉を失う。


 母は心配していると思っていた。


 だが違う。


 彼女は測っている。


 どこまで持つか。


 どこまで壊れないか。


 カストルの瞼がわずかに動く。


「母上……」


 掠れた声。


 母妃は視線を落とす。


 赤い瞳。


 アレスと同じ色。


 あの男の瞳。


 戦場で迷いなく命令を下した瞳。


 だが、この瞳は。


 熱に揺れ、焦点が定まらない。


「無様です」


 母妃は淡々と言う。


 ポルックスが息を呑む。


「母上!」


 叱責ではない。


 評価だ。


「王は倒れません」


 視線はカストルから逸らさない。


「倒れた王は、象徴を失います」


 カストルの指がわずかに震える。


 聞こえている。


 理解している。


「あなたは血統最上位です」


 冷ややかな声。


「それは誇りであり、責務です」


 その言葉に甘さはない。


 慰めもない。


「弱い体であろうと、立たねばなりません」


 ポルックスは立ち上がる。


「兄上は十歳です!」


 声が震える。


 母妃はゆっくりと視線を移す。


 その目は氷のようだ。


「王は年齢で測られません」


 静かに。


「アレス様も若くして戦場に立たれた」


 その名を出す。


 それだけで空気が変わる。


 カストルの瞳に、わずかな炎が戻る。


 父。


 誇り。


 血。


 母妃はそれを知っている。


 知っていて、突き刺す。


「ポルックス」


 名前を呼ぶ。


 声は低い。


「あなたは強い」


 一瞬だけ柔らぐ。


 だがそれは肯定ではない。


「だが、強い者が王になるとは限らない」


 ポルックスは理解する。


 母は、兄を試している。


 自分をも。


「カストル」


 母妃は再び寝台へ視線を戻す。


「もしあなたが立てぬなら」


 一拍。


「王位はアルケスに移るでしょう」


 室内の空気が凍る。


 その言葉を、母は迷いなく言った。


 感情ではなく、現実として。


 カストルの喉が鳴る。


「……負けない」


 掠れた声。


 だが確かな意志。


 母妃はわずかに頷く。


 満足でも慰めでもない。


 確認だ。


「それでよろしい」


 彼女は背を向ける。


 ポルックスが叫ぶ。


「母上は!」


 言葉が詰まる。


 何を問うのか。


 愛しているのか。


 見捨てるのか。


 母妃は振り返らない。


「私は王妃です」


 それが答え。


 母である前に。


 王妃。


 血統を守る存在。


 将軍家の娘。


 彼女の足音は静かだ。


 だが迷いはない。


 扉が閉まる。


 残されたのは、兄弟だけ。


 ポルックスは拳を握る。


 母は兄を愛している。


 だがそれは。


 “王としての価値”を持つ限りの愛だ。


 カストルは目を閉じる。


 熱に浮かされながら。


(立つ)


 その言葉だけが、胸に残る。


 倒れれば、失う。


 立てば、保てる。


 血も。


 父の名も。


 母の視線も。


 外では風が鳴る。

 龍は沈黙している。


 だがこの部屋では。

 血が、冷たく燃えている。


【2】


 夜は深く、廊下の燭台の火が静かに揺れていた。


 侍女が扉を開けると、そこに立っていたのは王太后だった。


 背はわずかに曲がり、歩みも緩やかだ。

 だがその佇まいには、年月を経た絹のような光沢がある。


 銀を含んだ金の髪はきちんと結い上げられ、細やかな皺の刻まれた顔は、老いを隠そうともせず、それを誇りのように纏っている。


 その目。


 澄んだ灰色の瞳だけは、若き日のまま鋭い。


「夜分に失礼いたします」


 声は低く、柔らかい。

 だが響きは澄んでいる。


 母妃は即座に礼をとる。


「お運びいただき、光栄に存じます」


 王太后は軽く頷き、寝台へと近づく。


 カストルは静かに横たわっている。


 薄桃色の髪が汗に濡れ、白い頬に赤みが差している。


 王太后は手巾を取り出し、丁寧にその額を拭った。


 その所作は、驚くほど優雅だ。


「……よく似ております」


 小さく言う。


「アレスに」


 その名は、室内の空気をわずかに震わせる。


 母妃は微動だにしない。


 だがその瞳の奥に、一瞬だけ光が揺れた。


 王太后は椅子に腰を下ろす。


 ゆっくりと。


 老いを隠さず、だが弱さも見せない。


「血について、さまざまな声がございますね」


 穏やかな声音。


 だが問いかけではなく、確認。


「承知しております」


 母妃の返答は端的だ。


 王太后は微笑む。


 それは皮肉ではない。


 ただ、よく分かっているという笑み。


「血は尊いものです」


 静かに続ける。


「ですが、血は“証”であって、“免罪符”ではございません」


 母妃の指先がわずかに強張る。


 王太后はカストルを見つめたまま言う。


「この子は、弱い」


 その言葉は穏やかで、残酷ではない。


 ただ事実を置く。


「けれど、弱さは罪ではありません」


 母妃はゆっくりと息を吸う。


「王は強くなければなりません」


 静かな反論。


 王太后は視線を移す。


「ええ、強くなければ」


 一拍。


「ですが、強さとは何を指すのでしょう」


 母妃は答えない。


 王太后は続ける。


「立ち続けることも強さ。

 倒れても立ち上がることも強さ。

 そして、己の限界を知ることもまた強さ」


 言葉は柔らかい。


 だが、芯がある。


「あなたは、どの強さをお求めですか」


 問いは静かに落ちる。


 母妃は初めて視線を伏せた。


「私は、国を守りたいのです」


 それは正直な言葉。


 王太后は頷く。


「そのお気持ちは、疑いませぬ」


 そして。


「けれど国は、血のみで守られるものではございません」


 カストルの指がわずかに動く。


 王太后はその小さな手に触れる。


 老いた手は、意外にも温かい。


「あなたは、まだ子です」


 カストルに向けた言葉。


「王である前に、子であらねばなりません」


 母妃はわずかに顔を上げる。


 その目に、理解と反発が同時に浮かぶ。


 王太后はそれを見逃さない。


「あなたもまた、母であられます」


 優雅に言う。


「母が子を秤にかけるとき、国は静かに軋みます」


 非難ではない。


 忠告でもない。


 ただ、真理を置く。


 室内は静まり返る。


 外では風が鳴る。


 龍は沈黙している。


 王太后はゆっくりと立ち上がる。


 老いた足取りだが、揺るぎはない。


「龍星逐鹿は続きます」


 振り返らずに言う。


「けれど、命を削ることが王道とは限りません」


 扉へと向かう。


 そして、ふと足を止める。


「血は誇りでございます」


 静かな声。


「けれど、誇りに溺れぬこともまた、王家の務め」


 扉が静かに閉まる。


 残された母妃は、しばらく動かない。


 やがてゆっくりと、カストルの頬に触れる。


 その指先は冷たい。


 だが震えていない。


「立ちなさい」


 小さく囁く。


 それは命令か。


 願いか。


 祈りか。


 本人にも分からない。


 寝台の上で、赤い瞳がわずかに揺れた。


 老いた女王の言葉が、静かに室内に残る。


 血は証。


 だが王は、血だけではない。


 嵐は去らない。


 だが夜は、静かに更けていく。



【3】




 扉が閉まる音は、やけに小さかった。


 王太后の去った後の部屋には、燭台の火がひとつ、揺れているだけだ。


 火は静かに、しかし執拗に揺れている。


 まるで、迷いのように。


 カストルの寝息は浅い。

 規則正しいとは言い難い、どこか引きずるような呼吸。


 母妃は立ったまま、それを聞いていた。


 将軍家に生まれた女は、泣かぬように育てられる。

 感情は武器にならぬと教えられてきた。


 アレス王の正妃として迎えられたあの日も、涙は見せなかった。


 歓喜も、恐れも。


 ただ、背を伸ばし、王の隣に立った。


 王は美しかった。


 金の髪、透き通る赤眼。

 誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも遠い人だった。


 その血を最初に宿したのが、この子だ。


 母妃はゆっくりと寝台に腰を下ろす。


 指先で、カストルの頬に触れる。


 白い。

 驚くほど白い。


「……弱い」


 吐息のように言葉が零れた。


 生まれたときから知っていた。


 産声は細く、抱き上げた体は軽すぎた。


 医官が目を伏せた。


 あのときの空気は、今も覚えている。


 将軍家の娘として、どれだけの兵を見送っただろう。

 どれだけの死を見たか。


 けれど、我が子の“欠け”を告げられた瞬間ほど、胸を刺したものはない。


 幼龍症。


 その言葉を聞いたとき、最初に思ったのは――


 王になれぬ。


 それだった。


 母としてではない。


 王妃としての反応だった。


 それを今も、忘れられない。


「私は……母として、失格ね」


 小さく笑う。


 燭台の火が揺れる。


 カストルは、眠ったままだ。


 この子は、アレスの瞳を受け継いだ。


 あの澄んだ赤。


 怒りも悲しみも、炎のように燃える色。


 だが体は、炎に耐えられぬ。


 王は倒れてはならぬ。


 そう教えられた。


 将軍家の女は、強い者を尊ぶ。


 強く立つ者を。


 では、弱い者は?


 守られるだけの者は?


 その問いに、答えはない。


 母妃はもう一度、頬に触れる。


 この子は美しい。


 壊れやすい陶器のように。


 触れれば割れてしまいそうなほど、繊細で、可憐で。


 愛おしい。


 それは確かだ。


 だがその愛は、どこか遠い。


 抱きしめたい衝動と、遠ざけたい理性。


 交わらない。


 ポルックスの顔が浮かぶ。


 健やかな体。

 澄んだ目。

 兄を支えようとする優しさ。


 同じ腹から生まれた双子。


 だが、まるで違う。


 ポルックスを見ていると、安心する。


 未来を想像できる。


 だがカストルを見ると――


 祈るしかない。


「可哀想に」


 口にして、すぐに悔いる。


 哀れみは優しさではない。


 王太后の言葉がよぎる。


 分かっている。


 分かっているのに。


 カストルの指が、わずかに動く。


 母妃は反射的にその手を握る。


 小さい。


 十歳の少年の手。


 本来ならば、庭を駆け回り、剣を振り、笑うべき年頃。


 なのに、この子は。


「王に、なりたいの?」


 問いかける。


 返事はない。


 眠りの中で、睫毛が震えるだけ。


 もし、アレスが生きていたら。


 王は、この子を立太子しただろうか。


 血統最上位。


 嫡流。


 誰も否定できぬ資格。


 だが、あの人は――


 きっと、迷った。


 母妃は目を閉じる。


 アレスの横顔を思い出す。


 強く、しなやかで、決断を恐れぬ男。


 あの人ならば、どうしただろう。


 この子を守ったか。


 それとも、国を選んだか。


 分からない。


 分からないから、苦しい。


 母妃は立ち上がる。


 窓辺へ歩み、夜を見つめる。


 空は重く、雲が低い。


 龍の加護が弱まっていると囁かれる国。


 血が、問われている。


 ならば。


 この子の血は、何を証明する。


 高貴であることか。


 それとも、脆さか。


「私は、王妃よ」


 低く呟く。


「情に溺れてはならない」


 だが。


 背後で、かすかな咳が響く。


 振り返る。


 寝台の上で、カストルがうっすらと目を開けている。


 赤い瞳が、こちらを見た。


 幼い。


 まだ、ただの子供。


 母妃の胸の奥で、何かが崩れる。


 ほんのわずかに。


 ほんのわずかに。


「……母上」


 掠れた声。


 その一言が、すべてを裂く。


 母妃は、ゆっくりと寝台に戻る。


 そして、はじめて。


 ほんの一瞬だけ。


 その額に口づけた。


 それは王妃ではない。


 ただの母の仕草だった。


 燭台の火が、静かに揺れる。


 外では風が鳴る。


 龍は沈黙している。


 だがこの部屋には、確かに血がある。


 そして、愛も。


 歪で、冷たく、未熟な。


 それでも、確かに。


 試練は続く。


 王も、子も、母も。


 誰一人、逃れられぬままに。


【2】


 廊下はやけに静かだった。


 いつもなら、侍女の靴音や兵の鎧が触れる音がどこかで鳴っているのに、今夜は火の揺れる音しか聞こえない。


 僕は、角を曲がる前で立ち止まった。


 向こうから、ひそひそ声が聞こえる。


「……第二王子殿下が、また」


「熱が下がらぬとか」


「龍星逐鹿の最中に……」


 そこで声が小さくなった。


 僕の名前は出なかったけれど、空気が少し変わったのが分かった。


 僕は、戻ろうとした。


 聞いてはいけない気がしたから。


 でも、足は動かなかった。


 第二王子――カストル。


 同い年の、薄桃色の髪の王子。


 小さい体で、いつも背筋を伸ばしている人。


 怒ると、声が高くなる。


 癇癪を起こすと、近くの物が壊れる。


 でも。


 僕は知っている。


 壊した後、ほんの一瞬だけ、彼の目が揺れることを。


 誰も見ていないと思っているときの、あの目。


 僕は、花街で育った。


 病気の人も、弱い人も、たくさん見た。


 咳が止まらなくなって、夜中に息が苦しくなる人も。


 それでも朝になれば、笑って客を迎える人も。


 弱いことは、恥じゃない。


 でも、ここでは違う。


 ここでは、弱いことは――


「王になれない理由」になる。


 僕は、初めて豪奢な食卓に座った日のことを思い出す。


 ナイフを持てなくて、手が震えた。


 王太后が、静かに見ていた。


 笑わなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、見ていた。


 あの視線は、怖かった。


 でも、優しかった。


 王宮の優しさは、柔らかい布の下に刃が隠れているみたいだ。


 僕は、自分の手を見る。


 泥にまみれていた手。


 妓楼の床を磨き、客の靴を拭いた手。


 あの頃は、王なんて遠い話だった。


 金の髪も、泥で汚れていた。


 赤い目も、誰も気にしなかった。


 綺麗にしてもらえるのは、年に数回。


 水浴びを許される日。


 その日だけ、妓楼の女たちが僕を囲んで、


「もったいないねぇ」


 って言った。


 何が、もったいなかったのか。


 今なら分かる。


 でも、あの頃は知らなかった。


 カストルは、最初から王子だった。


 僕は、違う。


 だから。


 彼が熱を出したと聞いて、胸が変な音を立てた。


 安心じゃない。


 喜びでもない。


 怖い、に近い。


 もし、彼が倒れたら。


 血統最上位の王子が。


 この国は、どうなる。


 そして。


 僕は、どうなる。


 僕は、彼の代わりじゃない。


 なれない。


 なりたくもない。


 ……本当に?


 廊下の奥で、医官が出てくるのが見えた。


 疲れた顔。


 深い皺。


 僕は柱の陰に隠れる。


 見つかりたくなかった。


 僕のせいじゃない。


 でも。


 僕が現れてから、空気が変わった。


 民が僕を見て、ざわめいた。


「アレス王の面影」


 そう言われた。


 僕は、その王を知らない。


 肖像画でしか。


 でも、皆は僕を通して、死んだ王を見る。


 それは、嬉しいことなのか。


 分からない。


 僕は、そっとカストルの部屋の前まで歩いた。


 扉は閉じている。


 中から、かすかな咳が聞こえた。


 小さくて、でも深い咳。


 胸の奥が、ぎゅっとする。


 花街の夜を思い出す。


 薄暗い部屋。


 苦しそうな息。


「大丈夫?」


 そう言っても、大丈夫じゃない人。


 僕は、扉に手を伸ばしかけて、止めた。


 入る資格は、ない。


 僕は、第五王子。


 後ろ盾のない王子。


 養子に入ったとはいえ、血は変わらない。


 僕の母は、花街の妓女だ。


 正妃も、先代王妃も、きっと心のどこかで、僕を穢れたものだと思っている。


 触れはしない。


 でも、近づきすぎもしない。


 僕は、それでいい。


 それが、当たり前だったから。


 けれど。


 扉の向こうの咳を聞いていると、ただの同い年の子供に思えてくる。


 怒りっぽくて。


 強がりで。


 でも。


 怖いのかもしれない。


 僕は、小さく息を吐いた。


「王なんて、なりたくない」


 ぽつりと呟く。


 本音だ。


 王になるには、誰かが倒れなきゃいけないみたいだ。


 誰かが弱くならなきゃ、誰かが強くなれないみたいだ。


 そんなの、嫌だ。


 でも。


 もし、龍が選ぶなら。


 血が選ぶなら。


 僕は、逃げられない。


 扉の向こうで、咳が止まった。


 静かになる。


 その静けさが、余計に怖い。


 僕は、何もできないまま、そこに立っていた。


 王宮の空気は重い。


 花街の夜より、ずっと。


 あそこでは、皆、弱さを知っていた。


 ここでは、弱さは隠される。


 僕は、王じゃない。


 まだ、ただの子供だ。


 でも、明日も試練は続く。


 龍星逐鹿。


 龍は、本当に見ているのか。


 それとも。


 僕たちが、勝手に空を見上げているだけなのか。


 廊下の火が揺れる。


 僕は、そっとその場を離れた。


 誰にも気づかれないように。


 それが、僕のやり方だから。


【4】



 僕は、逃げるみたいに歩いていた。


 足音を立てないように、けれど早足で。

 背中に、閉じた扉の気配がまだ張りついている。


 廊下の燭台がひとつ、ふっと揺れた。

 風なんてないのに。


 その明かりの向こうから、影が現れた。


「……シャム?」


 柔らかい声だった。


 胸の奥が、ひどく跳ねる。


 ポルックスだった。


 薄桃色の髪が、夜の灯りを受けて淡く光っている。

 兄と同じ色なのに、なぜか印象はまるで違う。


 カストルの桃は、刃物のように尖る。

 ポルックスの桃は、春の花びらみたいだ。


「……眠れないの?」


 彼は、問い詰める声を出さない。


 責めない。


 ただ、そこに立っている。


 僕は一瞬、言葉を探して、それから諦めた。


「うん」


 それだけ言う。


 嘘じゃない。


 でも本当の全部でもない。


 ポルックスは、僕の顔をじっと見た。

 目は澄んでいるのに、奥が深い。


「兄上のところに、いたね」


 胸が詰まる。


 見られていたのか。


 僕は視線を逸らす。


「入ってないよ」


 言い訳みたいな声になる。


 ポルックスは少しだけ笑った。


「知ってる」


 その声は、優しいのに、どこか寂しい。


 彼は一歩、近づいた。


 僕より少し背が高い。


 同い年なのに。


「怖い?」


 突然の問い。


 僕は、何に、と聞き返せなかった。


 怖いものが、ひとつじゃないから。


 兄が倒れること。

 龍星逐鹿のこと。

 自分が、選ばれるかもしれないこと。


 花街で生きていた頃、怖いものはもっと単純だった。


 空腹とか。

 怒鳴り声とか。

 酔っぱらいの足。


 でもここは違う。


 ここでは、笑顔の奥が怖い。


 沈黙が怖い。


「……わからない」


 正直に答える。


 ポルックスは、少しだけ頷いた。


「僕も」


 意外だった。


 彼は、いつも落ち着いている。


 兄の癇癪にも動じない。


 壊れた箱の破片を拾いながら、静かに「わかった」と言う。


 そのあと、そっと手を離して、破片を床に落とす。


 命令に従う。

 でも、自分のやり方で。


 そんな人が、怖いと言う。


「兄上はね」


 ポルックスの声が、少し低くなる。


「怒ってるんじゃない」


 僕は顔を上げる。


「怒るときもあるけど」


 小さく笑う。


「本当は、怖いんだと思う」


 その言葉は、灯りよりもあたたかかった。


「王子であることが?」


「ううん」


 ポルックスは首を振る。


「置いていかれること」


 廊下の奥で、風が鳴る。


「兄上は、ずっと前を歩こうとする」


 僕は思い出す。


 背筋を伸ばして、無理をして、息を切らしても。


 誰よりも先に立とうとする姿。


「でも、体が追いつかない」


 ポルックスの声は、震えていない。


 だけど、ぎゅっと握られた拳が白くなっている。


「だから、怒る」


 僕は喉が熱くなるのを感じた。


「僕のせいじゃないよ」


 思わず言っていた。


 ポルックスは、すぐに首を振る。


「うん」


 それは即答だった。


 迷いのない。


「兄上の体は、君のせいじゃない」


「でも」


 僕は言葉を失う。


 僕が来てから、空気は変わった。


 民がざわめいた。


 貴族が囁いた。


 血が、どうのこうのと。


 ポルックスは、まっすぐ僕を見る。


「君がいなくても、兄上は戦ってた」


 その言葉は、やわらかいのに強い。


「君がいるから、戦いが見えるようになっただけ」


 月が雲間から顔を出す。


 廊下の窓から、白い光が差し込む。


 その光が、僕の金の髪を照らす。


 ポルックスは、ほんの少しだけ目を細めた。


「似てるね」


 誰に、とは言わない。


 言わなくても、わかる。


「でも」


 彼は続ける。


「君は、兄上じゃない」


 胸の奥が、じんわりと広がる。


 それは安心なのか、寂しさなのか。


 分からない。


「僕は、兄上を守る」


 ポルックスは言う。


 当たり前みたいに。


「でも、君も守りたい」


 唐突だった。


「え?」


 間抜けな声が出る。


「同い年だし」


 笑う。


 春みたいな笑い。


「誰かが一人で怖がるの、嫌いなんだ」


 廊下の燭台が、また揺れる。


 さっきより、穏やかに。


 僕は、初めて、この王宮で少しだけ息ができた気がした。


 花街で、夜に屋根の上から月を見たときみたいに。


 寒いけど、空が広い、あの感じ。


「……ありがとう」


 小さく言う。


 ポルックスは肩をすくめる。


「明日、また忙しいよ」


 少しだけ、理性的な顔に戻る。


「龍星逐鹿は、待ってくれない」


 僕は頷く。


 怖さは消えていない。


 でも、少しだけ、形が分かった。


 僕たちは、同い年だ。


 王子である前に。


 ただの、十歳の子供。


 それでも。


 明日もまた、血が問われる。


 月が、雲に隠れる。


 闇が戻る。


 でも、さっきより暗くない。


 ポルックスが、隣にいるから。


 僕は、もう一度、カストルの部屋の扉を見る。


 今は、入らない。


 でも、逃げもしない。


 ポルックスが歩き出す。


 僕も並ぶ。


 足音が、二つ。


 静かな廊下に、確かに響いていた。



【5】


 市場で聞いた声が、アルケスの胸に残っている。


「今年は麦が実らないよ」


 濡れた麦袋を抱えた老婆は、そう言って視線を落とした。あの言葉は雨よりも重い。


 アルケスは窓辺に立ち、曇った硝子を袖で拭った。翡翠の髪が湿気を含み、額に張りつく。北の川は濁り、水位は確実に上がっている。父王の執務室では地図が広げられ、赤い印が増えていると聞いた。堤が決壊すれば、王都の半分が水に沈む。


 王とは決断する者だと教えられてきた。だが雨は理屈を聞かない。自然は命令を受け取らない。


 それでも、立たねばならない。


「負けない」


 小さく呟いた言葉は、自分自身に向けたものだった。


 一方、第二王子カストルは薄暗い室内で雨音を聞いていた。窓を打つ水滴が、規則正しくも不安定な拍を刻む。咳は出ていない。だが胸の奥に、湿った布を押し込まれたような重さがある。


 龍星逐鹿。血統最上位。王の器。


 言葉が、頭の中で渦を巻く。


 彼は小さな拳を握りしめた。弱くない、と自分に言い聞かせる。だが体は正直だ。長く立っていれば息が乱れ、訓練の後には胸が焼けるように痛む。


 もし、堤が決壊したら。


 もし、民が飢えたら。


 そのとき、自分は王として立てるのか。


 赤い瞳が、雷の閃光に一瞬きらめいた。


 ポルックスは兄の隣で帳面を開いていた。淡い桃色の髪が灯りを受けて柔らかく光る。穀倉の残量、輸入船の到着予定、分配比率。数字は冷たいが、嘘をつかない。


 足りない。


 どれほど計算を重ねても、余裕はない。


 ならば何を優先するか。子どもと老人。病人。兵。


 兄が王になる未来を、ポルックスはまだ疑っていない。疑わないと決めている。だからこそ、裏で支える。壊れた器の破片を拾うように、静かに、確実に。


 その頃、シャムは城下を歩いていた。雨に濡れた屋根の下で、人々は肩を寄せ合っている。水が溜まり、麦袋は湿り、笑い声は消えていた。


 花街の雨は、もっと軽かった。泥の匂いと混じり、騒がしさに紛れていた。だがここでは、雨は重い。沈黙を連れてくる。


 濡れた麦袋を運ぶ男の腕が震えているのを見て、シャムは思わず手を貸した。王子の手ではない。泥にまみれて育った、あの頃の手だ。


「すまないな」


 男はそう言ったが、目は彼をまっすぐ見なかった。金の髪と赤い瞳が、亡き王を思わせるからだ。


 シャムは俯く。自分は王ではない。ただの十歳だ。それでも、何かをしなければならない気がしてならなかった。


 雨は四日目に入っていた。空は裂ける気配を見せず、灰色の雲が王都の上に重く垂れ込めている。城壁を伝う水は白く泡立ち、中庭の砂利道はすでに細い流れを作っていた。石畳の隙間から立ちのぼる湿った土の匂いは、どこか甘く腐りかけている。


 ──そして、飢えは静かに広がっていた。


 穀倉の扉は固く閉ざされ、兵が見張る。湿りを帯びた穀物は乾燥室へ運ばれているが、追いつかない。南の平野では長雨で根腐れが起き、北の丘陵では増水した川が畑を削った。麦の穂は黄金に染まる前に黒ずみ、農民たちは空を睨みつけるしかない。


 王都の港には、二隻の大型帆船が沖合に停泊していた。濡れた帆には、隣国ラルグスの紋章──蒼い円環の中に刻まれた双頭鷲。


 ラルグスは乾燥した高原と温暖な内海を持つ交易国家だ。今年は幸いにも豊作だったと聞く。だが、彼らは慈善では動かない。麦は金と引き換えにのみ渡される。


 輸入は救いであると同時に、屈辱でもあった。


 王宮の会議室では、宰相と重臣たちが地図を囲んでいた。港から王都、王都から各地方への輸送路が赤く塗られている。泥に埋もれた道、崩れかけた橋、盗賊の出没地。


「対価は?」


 父王の声は静かだった。


「鉄鉱の優先輸出と、来年の関税軽減を求めています」


 宰相が答える。


 鉄はこの国の誇りだ。剣も農具も、この国の鍛冶が支えている。それを優先的に渡すということは、来年以降の軍備や農具生産に影響が出る。


 アルケスはその報告を聞き、胸の奥がざらついた。


 国を守るために、国の力を削る。


 それが王の決断なのか。


「父上は……」


 言いかけて、口を閉ざす。


 頭を下げるのか、と問うのは簡単だ。だが、飢えた民の前で誇りを守ることが何になるのか。彼は拳を握りしめた。決断とは、正しいかどうかではなく、選ぶことなのだ。


 そのとき、会議室の端で控えていたポルックスが一歩進み出た。まだ幼い声だが、震えてはいない。


「分配を改めるべきです」


 重臣の視線が集まる。


「ラルグスの麦は、まず都市部の子どもと老人に。兵糧は一時的に減らしても、輸送護衛に必要な最低限だけを確保する」


 ざわめきが起きる。


「兵を減らせば、治安が乱れるぞ」


「だが子どもが死ねば、未来がなくなる」


 ポルックスは続ける。


「来年、鉄を渡すならば、鍛冶場は今のうちに農具を増産しておくべきです。来季の種蒔きに間に合うように」


 計算は終えてある。帳面の端は雨で少し滲んでいたが、数字は正確だった。


 父王はしばらく沈黙し、やがて低く言った。


「採用する」


 その一言で、方針は変わった。


 一方、城下ではシャムが港へ向かっていた。沖合のラルグス船から小舟が出て、積荷の確認が始まっている。濡れた桟橋に並ぶ麻袋。異国の言葉が飛び交い、通訳が慌ただしく動く。


 ラルグスの商人は細い目をした男だった。金貨を弾く指が速い。


「品質は保証する。ただし追加はない」


 冷たい声。


 シャムはそのやり取りを遠くから見つめる。麦は命だ。だが、金と引き換えにしか渡らない。


 花街で見た取引と、どこか似ていると思った。


 違うのは、賭けられているものの重さだけだ。


 雨に濡れた子どもが桟橋の端で立ち尽くしている。シャムはその肩に手を置いた。


「大丈夫だよ」


 自分に言い聞かせるように。


 龍の加護が弱まっている、と民は囁く。だから雨が止まないのだと。


 だが、港に麦は届いた。


 それは龍ではない。人の交渉の結果だ。


 カストルは窓辺でその報告を聞いた。胸の奥が重い。自分は何をしているのか。


 祈るだけで良いのか。


「ラルグス……」


 小さく呟く。


 遠い国の名前が、命を握っている。


 赤い瞳が雨空を映す。


 守れるのか。


 守らなければならない。


 龍星逐鹿は儀式ではない。


 嵐の中で、王が試されている。


 そして、まだ十歳の五人もまた、それぞれの場所で、国の重さに触れ始めていた。


 雨は止まない。


 だが、蒼い円環の帆は確かに港に揺れている。



【6】


港に積み下ろされた麦袋は、雨に濡れながらも次々と倉へ運び込まれていった。麻袋が石畳に落ちる鈍い音が、湿った空気を震わせる。ラルグスの商人たちは無駄な口をきかず、帳簿と秤だけを信じていた。積荷は約束通りだが、余分はない。銀貨が足りなければ、その場で引き返す冷淡さがあった。


桟橋の端で、シャムはその様子を見ていた。異国の言葉は耳に馴染まないが、やり取りの緊張は理解できる。命は重さで量られている。麦の重さが、そのまま人の生死になる。


一袋を抱えようとした兵の足が滑り、袋が倒れた。中身が少しこぼれる。周囲の視線が一瞬で集まった。兵は慌てて拾い集めるが、濡れた粒は泥に沈む。


シャムはしゃがみ込み、泥と混じった麦を手に取った。使えないと分かっていても、拾わずにはいられなかった。指の間からこぼれる粒が、まるで砂のように軽い。


「王子様の手が汚れますよ」


通訳の青年が苦笑する。


シャムは顔を上げる。


「汚れるのは、ここだけじゃない」


自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。


王宮では、アルケスが父王の傍らに立っていた。重臣たちの議論は続いている。麦は届いたが、足りる保証はない。次の便は三週間後。その間に川が氾濫すれば、輸送路は断たれる。


「ラルグスは追加を拒みました」


宰相が告げる。


「代わりに、鉄の前渡しを求めています」


アルケスの胸がざわめく。鉄はこの国の背骨だ。それを前倒しで渡すということは、来季の武器生産を削ることになる。


「受け入れますか」


重臣の一人が問う。


父王は沈黙した。雨音だけが響く。


その沈黙を、アルケスは重く感じた。決断する者であれ。教えは胸にある。だが、自分はまだ王ではない。


それでも、口を開いた。


「来年の種を守るためなら、農具を優先すべきです。武器は……最低限で」


部屋の空気がわずかに変わる。十歳の声は軽い。だが言葉の重みは、軽くない。


父王はゆっくりと息を吐いた。


「鉄の一部を農具用に回し、残りを対価にする。兵の再編は後日」


それが決定だった。


一方、カストルは龍神院へ向かっていた。雨に濡れた石段は滑りやすい。侍従が手を差し出すが、彼は払う。


「自分で歩ける」


小さな体で、ゆっくりと登る。胸は重い。それでも立つ。


龍の加護が弱まっていると民は囁く。ならば、祈りを強めるしかない。


祭壇の前に立ち、目を閉じる。


(守れ)


祈りがどこへ届くのかは分からない。だが、何もしないよりはましだ。


ポルックスはその間も帳面を閉じない。輸送経路を書き換え、護衛の配置を調整する。兄が倒れれば、全てが崩れる。だから兄を守る。


「無理しないで」


小さく囁くと、カストルは顔を背けた。


「弱くない」


その言葉が震えているのを、ポルックスだけが知っている。


ヴィルギニスは港と城を行き来し、ラルグス側の動きを観察していた。商人の視線、護衛の人数、船の積載量。彼らはただの商人ではない。情報も持ち帰る。国の弱さを。


「隙を見せるな」


彼は自分に言い聞かせる。母の国が滅びたとき、隙は命取りだった。


夜、王都の灯は少しだけ増えた。麦が配られ、炊き出しが始まる。子どもたちが椀を抱え、湯気を吸い込む。


シャムはその列の最後に立つ少年を見つけた。裸足で、目だけが大きい。


椀を渡すと、少年は小さく笑った。


その笑顔が、胸を締めつける。


まだ足りない。


まだ安心できない。


だが、今日を越えた。


雨は降り続く。川はなお膨らむ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ