History/Story
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<History>
ハーモニカ、ここでは特にダイアトニック・ハーモニカ。原型は欧州で作られたオルガンの調律に使う笛だったと言われ、子供のおもちゃとして長らく愛されていた。しかし、その小さな小さな蕾は大西洋を渡り、チャリオットに揺られてアメリカ南部に辿り着いた時、開花する。
むせる様な熱風、地平線の先まで敷かれた綿花畑、雄大なるミシシッピ川。この大地で、エイブラハム・リンカーン大統領が解放したはずの黒人奴隷はシェアクラッパーと名を変えて、過酷な日々を過ごしていた。苛烈な農作業を、熾烈な人種差別を、輪郭のない純白な未来の質感を、夜、黒人たちはたった10個の穴に吹き込んだ。偉大なる憂いを目一杯吹き込んだ。そして新たな憂いを吸い込む。デフォード・ベイリーは狐を追い、ジェイバード・コールマンは象虫の悪事を告発し、ウィル・シェイドはカンザスシティーに行った。そして『ブルース』が産声を挙げた。
ブルース・ギターは数多の覇者が興隆しては伝説となった。テキサスからはブラインド・レモン、ブラインド・ウィリー・ジョンソン、ヘンリー・トーマス達が、東海岸からはブラインド・ブレイク、ブラインド・ウィリー・マクテル、バーベキュー・ボブらが、ミシシッピデルタからはチャーリー・パットン、サン・ハウス、スキップ・ジェイムズ、ブッカ・ホワイト、そしてロバート・ジョンソンがいた。
そんな中、東海岸の覇者が一人、ブラインド・ボーイ・フラーはある日、同じく盲目のハーモニカ吹きと出会い、意気投合する。サニー・テリー、それが彼の名だった。しかし、この時、1926年頃に本格的に始まったブルースの録音はおよそ十年間もの間、大きな変革もなく、次第にレコードを買う余裕のある白人達は飽きていた。そこでブルースはジャズを参考にバンドを形成する様になる。しかし、バンド形式のブルースでサックスが台頭した時、ハーモニカにはもう居場所はなかった。
1940年代、シカゴ。一人の男がハーモニカを手にすると、《《吸い始めた》》。ここにモダン・ブルースのハーモニカが確立したのだ。その男の名はジョン・リー、またの名をサニー・ボーイ・ウィリアムソン。ブルース・ハーモニカ最初の王者だ。サニー・ボーイは音を歪ませることも、爆発させることもできた。しかし、この王者は短命であった。
彼の死後、ハーモニカの王者たちはシカゴのレコード・レーベル、チェス・レコーズの元に集った。
間にブルースを宿す独特のフレーズ、時代の適合者、フードゥー・マン、クールの王、ジュニア・ウェルズ。
古今折衷の技術と鋭く磨がれた音使い、ブギーの魔術師、ビッグ・ウォルター・ホートン。
ボーラーハットに黒い鞄、圧倒的音圧と深み、そしてストレートな殺人フレーズ、謎大きハーモニカの老王、サニー・ボーイ・ウィリアムソン二世。
王者ジョン・リーの後継者にして、ハーモニカの極地に至った若き天才、傷だらけの顔と甘い声、天下無双の貴公子、リトル・ウォルター。
こうして1950年代から1960年代にかけ、ブルース・ハーモニカは絶頂期を迎えた。
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<Story>
日本にブルース・ハーモニカが伝わったのは1960年代のことであった。オノ・セイジロウという男が当時日本で流行していたフォーク・ブルース・バンドでハーモニカを用い、これがヒットした。それ以降、オノ・セイジロウは自分のバンドを結成、日本中を飛び回ってブルース・ハーモニカを普及させた。多くのブルースマンからも、ロックスターからも、メディアからも日本一のハーモニカプレイヤーとして讃えられた。次第に彼は自身の弟子達と日本ブルース界に派閥を作っていくことになる。
日本にはもう一人、ブルース・ハーモニカの開祖がいた。近所の米軍基地に毎日通い、黒人兵達からブルースを教わった彼は一度ハーモニカを吹けば、音に香りがある、と言われたほどの名プレイヤーだった。その名はイースト・スリム。ブルース・クラブに突然現れてはテネシーウィスキーのロック三杯でどんな曲でも吹く。そして彼が吹けばたちまち皆拍手喝采が吹き荒れたという。彼はブルース界では伝説として語り継がれていたがしかし、世間ではあまり広く知られることはなかった。彼の口癖「ブルースとは先人への敬意だ。」に分かるように、彼は己の道を行くばかりで、決して華やかな音楽界に目を向けることはなかった。
2024年2月、伝説のハーモニカプレイヤー、イースト・スリムが倒れた。
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