4.タイヘンにイカンです、からの……⁉
「イカン? イカンのイって、なんだ?」
そしてまた、この無知振りも由美にとっては耐え難い問題だった。
小学五年であれば別にそれほど無知なわけではないのだが、健太は知らない言葉を他の子供らのように聞き流すことは無かった。いちいち、由美に聞き返してくるものだから、なにげに酷く面倒臭いヤツなのである。
きっちり結ったはずのお下げ髪の隙間から毛がボウボウはみ出すぐらいの脱力感のあまり、由美は軽い眩暈を覚えた。どうにか気持ちを立て直し、運動靴で大地を踏み締めやおらランドセルから新調したばかりの国語辞典を取り出す。
あ行の最初の方を捲りながら、
「イカンのイって言ったら、遺憾の意に決まってるでしょーっ? 遺憾自体は残念ですっていう意味だけど、これが遺憾の意になると自分の行動を釈明してわびる場合にも、相手の行動に対して暗に非難する気持ちなんかを表したり出来るタマムシ色の言葉なのっ。よく国会答弁で政治家なんかが使ってるでしょ!」
由美が声を嗄らして怒鳴り終えるのを待ってから、健太がしみじみと言った。
「へー。お前、博識だなぁ」
「これ、あたしがベラベラ喋っちゃったら、全然あてこすりにならないよっ?」
「アテコスリ?」
「あああ」
由美は頭を掻き毟った。あてこすりも辞書を引けというのか。やってられない。
「だからっ、ひとつの言葉でも受け取る側の知識によっていかようにも受け取れるっていうか、だからバカにしたのもバレにくい……あーっ、もう質問しないで!」
由美は国語辞典や新聞を端っこから丁寧に読むのが趣味だった。
そんな由美からすれば、色黒の幼馴染は言葉を知らないどころか日本に来たばかりの外国人の方がまだものを知っている気がする。
いや、同じ星の生まれならまだ通じる、それこそ健太は宇宙人並みだと由美は思った。当然ながらまったくあてこすれてないようで、
「ふーん、言葉って難しいんだなぁ。イカンのイっていうのか……」
しきりと感心する健太を、由美は不思議なイキモノを見るかのように眺めた。
「でもよぅ、ヤンキーじゃあるめぇし、わざわざ難しい言葉なんか使う必要もねぇんじゃねーのか? 伝わってこその言葉だろ?」
その一言に、由美の中の何かが切れた。
「……誰が、春になると何処からか湧いてくる田舎のヤンキーみたいですって?」
「そこまで言ってねぇし」
由美の額に縦皺がきっちり二本寄った、まさにその時である。
一瞬、青空が真っ白に輝いたのだ。
それと共に、耳をつんざく轟音が青空に響き渡る。
反射的に瞑った由美の目蓋の隙間から、何かが煙を噴きながら空を斜めに落ちてくるのが見えた。頭を抱えてしゃがみ込んだ由美の遥か上空を、翼も尾翼も伺えないないつるんとした銀色の何かが、目の前の里山に突っ込んでいく――。
田んぼのあぜ道が崩れるような大音響を最後に、辺りは静かになった。
「ん……?」
恐る恐る目を開いた由美と空の間に別の何かが存在して、影を落としている。
由美の上に覆い被さっていた細い色黒の手足の持ち主は……健太だった。見開かれて倍になった健太の目と、同じくらい驚いている由美の目が合う。
「そっ、空から火の玉が降って来るなんて……あんごるもあの大王ってのは確か、一九九九年七の月だぞ。これじゃあ、遅れてきたあんごるもあ……ってヤツか⁉」
健太の口から早口で出る言葉の意味が、由美にはチンプンカンプンだ。それに、庇われたのがなんだか無性に苛立って、答える代わりに健太の身体を両手でぐいと押し退けた。かの里山を振り仰ぐと、山頂付近からうっすら白煙が上がっている。
「飛行機じゃなかったみたい。隕石とか……あー、気象観測用気球とかかも?」
「なんだよ、味気ねぇなぁ」
健太が露骨にガックリと肩を竦める。
「アンタこそ、あんごるもあってなによ。女の子の名前みたいだけど?」
「げっ、ノストラダムスを知らねぇのか」
「そんな胡散臭そうなの知らない」
由美は即答である。残念ながら、陰謀論はテリトリーの範囲外なのだ。
けれど、男子らが教室で回し読みしている怪しい本の中に、そんなタイトルがあったような気はする。ノストラダムス世紀の大予言……とかなんとか。
いえ、もう新世紀ですけどねと、内心ごちる由美である。
「胡散臭いだって?」
先に立ち上がっていた健太は、笑いながら手を差し伸べる。
「そいつは知っているも同然だ――よし、行くぞ」
由美は半ば無意識にその手を握って、
「は?」
何処へ、という問いを顔に浮かべた由美に、健太はさも当たり前のように顎でしゃくって見せる。白煙たなびく、目の前の里山に向かって。




