11.タイヘンにイカンながら。
「…………健太?」
以前はデフォルメされた漫画の猿のように大きかった耳はなりを潜め、筋張った大きな手には由美から取り上げた辞書が掴まれている。
自宅から二キロ隣りのおじさんの若い頃によく似た面差しのその男性は、かの不実な幼馴染その人、健太だった。
だが、気のせいだろうか。背は高いけれど、高校生みたいに若々しく見える。
何というか、まだスーツに着られている感じがするのだ。
宇宙人相手とはいえ、社会人経験もある程度積んでいるはずで――由美よりもよほど――昨日や今日、スーツに袖を通したばかりの新卒とは訳が違う。
「まだこんなモン、持ち歩いてんのか」
由美が読むはずだった頁を開いて、軽く目をみはる。そして身体を折って大げさに笑った。十年近いブランクもなんのその、由美のよく知る、健太の仕草だった。
「……絶対、アンタのせいだと思うわ」
由美はなぜだか目頭が熱くなり、ついとそっぽを向いた。
「お前も相変わらず、しつこいなぁ」
「あたしの愛すべき辞書にこんな言葉が載るなんて、まさに遺憾の極みだわ」
開かれた頁には『遺憾』が載っていた。
しかも、俗語として『遺憾の【ン】は残念なさまの最上級である』と意味が一つ増えてしまっている。ちなみに、セレプトト語の辞書には地球人との出会い、記念すべきファーストコンタクトが【イカン】という言葉で載っているらしい。活字をこよなく愛する由美としては、とてもではないが納得出来たものではなかった。
「……あたしの目の前で、言葉の意味が変質してしまったわ」
「言葉の意味は時代と共に変わるって、テレビでコメンテーターが言ってたぜ」
白い歯を光らせ笑う健太に、由美はついうっかり、
「久し振りの幼馴染に掛ける言葉はないの? 綺麗になって見違えたとか?」
言ってしまってから、農作業を抜け出してきたままの適当な格好であることに気付いた。健太は由美の頭のてっぺんから足の先までじっくり眺め回してから、
「別に、どこも変わってねぇみてーだな」
由美は脱力のあまり、砕けそうになる膝に喝を入れて立ち上がる。
「変わってないわけ、ないじゃん。何年経ったと思ってんのよ……もう帰るから」
健太の手から辞書をひったくり、沈み掛かる夕日に背を向け山道を歩き出す。
そのあとを、健太が慌てたように追い掛けて来て隣に並んだ。
暗くなってより歩きづらくなった山道を、二人とも黙ったまま下りる。スロープカーだと逃げ場がないので、あえてこちらを選んだ由美だったが、
「ひゃっ」
思わず落ち葉に足を取られて転びそうになった由美に、とっさに健太が腕を伸ばす。由美は黙って首を横に振り、自分で持ち堪えた。由美の手は農作業で荒れていて、お世辞にも触り心地が良いとは言えないからだ。その代わりに、
「アンタ、いったい何しに帰ってきたのよ」
「いや、久しぶりの休暇だし、長いことホッタラカシだったから親孝行でもしようかと思ってよ。そういや、お前は今、何やってんだ?」
「……家業の観光イチゴ農園を手伝ってるの! 手が荒れてガッサガサよ」
「ああ、なるほど。イチゴ食べ放題は、あっちの連中にも地味に人気があるわな」
健太は一端、言葉を切ってから、
「お前まだ、結婚してねぇのか?」
言いながら、何故かすでに体勢を立て直した由美の手を探すように、暗がりで手をワキワキさせ始めた。由美は内心、首を傾げつつも器用に避けながら、
「結婚適齢期は二十六歳だけど、二十七歳だしまだまだこれからよ」
「俺も二十七歳だな。って、同い年だから当たり前か」
――二十七歳になっちゃったよ。もうアラサーだよ。
都会では結婚適齢期でも、田舎ではガッツリ行き遅れ扱いである。
けれど誰のせいでもない、自分の選択の結果だった。付き合ってくれとか結婚して一緒に東京に行こうなどと言われたこともあったが、すべて断ってしまった。優しい人も、カッコイイ人もいたのに。もちろん、お金持ちも。
「ってか、それパワハラっていうかマリハラ――マリッジハラスメントだから。相手が誰でも言っちゃ駄目。これ現代日本の常識だから、よく覚えておきなさい」
「なるほど、あんまり地球にいないせいか、常識が無いんだ。ありがとう」
「……別に、お礼とかいらないから」
由美は疎遠な幼馴染に投げ付ける言葉を長いこと探したけれど見付からず、何だか負けた気がしつつも結局は、
「……おかえりなさい」
「ただいま」
そして健太はついに、由美の手を捉えた。
ここに至るまで、山道を下りながら地味に手を掴む掴ませないの熾烈な攻防戦を繰り広げていたことは、二人だけしか知らない。
(↓続きます)




