1.円盤山にて。Ⅰ
初回のみ1日3話投稿です。1話目になります。
【遺憾】
思っているようにならなくて心残りであること。残念な、そのさま。
――の意を表・する
残念であるという気持ちを表す〔自分の行動を釈明してわびる場合にも、相手の行動に対して非難の気持ちを表す場合にも用いる〕
goo辞書より抜粋
山頂へと続く山道をまだ半分も上がっていないのに、河原由美の息はすっかり上がっていた。由美もすでに二十台後半、まだ未婚のせいかスタイルこそ崩れていないものの、子供の頃のような無尽蔵のスタミナは失われて久しい。
「――やっぱり、スロープカーに、乗れば、よかった、かも」
息を荒げて自嘲気味に呟く由美の頭上を、木立の影から飛び出した野鳥が大気中のフィトンチッドを緩やかに掻き回して飛んでいった。
ちなみにスロープカーとは斜面を登る小規模なモノレールである。
この間までの人出が嘘のような、落葉樹の新芽が浅緑に輝く五月の連休明けだ。
由美が登っているのは標高三百メートルにも満たない里山だが、この辺で『円盤山』といえばちょっとした観光地なのだ。勾配がきつい為、観光用にスロープカーが設置されたのがつい十数年ほど前のことだった。
額の汗を拭ってから、由美は右肩に掛けたトートバックを背負い直す。
バックの中身は財布とスマフォにペットボトルのお茶五百ミリリットル、そして町に一件しかない本屋で取り寄せたばかりの最新の国語辞典5百グラムほどである。占めて一キロぐらいしかないのに、肩に食い込む重さだった。
「まぁ、さすがに、辞書担いで、山登りするヒトも、いない、よね」
由美だって、まさか山に登るつもりなどなかった。
だが、本屋から注文していた辞書が入ったという連絡を受けた途端、由美はいてもたってもいられなくなったのだ。
家業であるイチゴ栽培の温室から抜け出してきたそのままの――ジーンズにカットソー、親が農協で買ったらしい実用一辺倒の上着を引っ掛け帽子を被り――とても若い女性がお出掛けする姿には見えない格好で家を飛び出し、本屋で辞書を受け取ったその足でこのいわく付きの円盤山へやってきてしまったのだった。
山道の途中で見晴台を見付け、由美はペンキの剥げた木製のベンチに腰を下ろす。ペットボトルのお茶を口に含むと、すでに生温くなっていた。見晴台からは、今も昔も変わらず田畑と民家以外は特に目立つもののない町の風景が広がっていた。すべては朧に、新緑の浅緑色の紗が掛かったようにけぶって見える。
その遙か下方、山の入り口にあるスロープカーの乗り場には、シーズンオフを狙ってきたのだろうか、豆粒のように小さな団体客が見えた。
二足歩行の生命体にしては些かぎこちない動作のように感じるが、由美の家業――イチゴ食べ放題の観光イチゴ農園――の上得意でもあった。
この『円盤山』――かつては名もなき里山のひとつに過ぎなかった。
しかし十数年ほど前のとある事件をきっかけに世界的に有名となり、その時に付いた俗称が定着してしまったのだ。
由美が苦々しげに背後を仰ぎ見ると、その山頂には俗称通り円盤状の奇怪なオブジェが鎮座し、傾き掛けた陽光を受けて鈍い銀色の輝きを放っていた。
由美の形の良い眉間にきっちり二本、縦皺が寄る。
「……あんなもの」
高卒で地元の信金に勤めていた時にはすでに鎮座していた不機嫌のサインだが、起源はそれこそ小学生辺りまで遡らねばならない。
それもこれも、すべてアイツが――。
「あのクソバカッ!」
銀色に輝く円盤を親の仇のように――両親はまだ健在である――睨み付けた由美は、ペットボトルを一飲みしてから重い腰を上げる。
帰りはスロープカーに乗ろうと心に決め、山頂に向かって再び歩き出した。




