変化
まさかここに来る機会がやってくるとは思ってもみなかった。
あの後、そそくさと教室を抜け出して中庭にやってきた俺達だったが、今は俺一人だけ椅子に腰かけている。提案者である当の本人が、『ここで少し待っててください』と言い残してどこかへ行ってしまったからだ。
手持ち無沙汰になった俺は、グルっと周囲を見渡して中庭の景色を観察する。
中庭とはいえ、今俺がいるのはその一角にある校内カフェだ。壁には絵画が飾られ、椅子や机もお洒落なデザインで揃っている。学内では人気のスポットらしい。
冷房がよく効いているため体の芯まで涼むことができるのだが、昼休みは学生で埋めつくされているのをよく見るので時間帯によりけりだろう。
幸い、今は比較的空いていて、この空間を思う存分堪能できている。
普段は性に合わないと思って避けている場所だが、いざ来てみると、案外悪くない。
落ち着いたこの空間に身を委ねてリラックスしたい……ところだったが。
「ねぇ~~可愛すぎるんだけど!」
「え~嬉しい~! 翔くんもかっこいいよ♡」
「さーちゃん♡」
「翔くん♡」
「はい、あ~ん」
「あ~ん……んっ! 美味っ!」
「でしょ~? 愛情込めたからね~」
「ゆのちゃん俺の事好きすぎ!」
――見渡せば、そこかしこでカップルがいちゃついていた。手を握りあって談笑していたり、お互いに弁当を食べさせ合っていたり。
部屋中に漂う桃色の雰囲気は、俺にとって胸焼けものだった。
「チッ」
おっと申し訳ない、意図せず口が鳴ってしまった。
彼らを見ていると、なんか腹が立ってくる。人目を気にせずそんなことができる精神が分からないし、話している内容も高度に発達した人間の会話とは思えないくらいに中身がない。
まあ、あれで幸福度を得られるのだから、逆にパフォーマンスは良いと言えるか。
――いや、別に羨ましいとかそういったことではない。ほんとに。おい、嘲笑ってる君、見えてるぞ。
(ここがこんなに快適じゃなければわざわざいちゃつくなんてことできないのに)
そんなことを考えながら奴らからできるだけ目線を外して待っていると、丁度花園さんが足早に帰って来るのが見えた。遠目でも分かるくらいに汗をびっしょりかいており、肩で息をしている。
「す、すいません、お待たせしました。外じゃなくて正解くらいの暑さでしたよ」
「そうだろうな。まあ俺も別の意味で熱かったけど」
「……?」
何のことか分からず首をかしげてきょとんとする彼女。それに対して『いや、なんでもない』と軽く流し、椅子に座るよう促す。
そこに腰かける彼女の手元をふと見ると、何やら見慣れないものが握られていた。
「えーっと、それは?」
大きめのパンと果物ジュースを抱えるように持ち、ピンと伸ばした指先をプルプルと震わせている。手が小さいせいか、物を収めておくのに必死だ。
昼ご飯を買ってきたのだろうが、気になったのはそれが二つずつあるからだった。
「これは、その……お詫びの気持ちというか……さっきは失礼なことをしてしまったので」
「失礼なこと?」
「急に手を掴んでしまったので痛くなかったかな、と」
ぎゅっとした感覚が左手に思い起こされる。
確かにあれは血の巡りが止まるほど驚いたが、特に気にしている訳ではない。そうされるのには心当たりがあったので、当然といえば当然だからだ。
そのため彼女の対応には少し気が引けるが、せっかく買ってきてくれたのでここはありがたく受け取っておこう。
「なんかごめん、こんなの貰っちゃって。本当はこっちが謝るべきなのに」
「いえ、遠慮しないでください。皐月さんは焼きそばとコロッケどっちが好みですか?」
「じゃあコロッケで」
それにしても、ここまでするなんて律儀な人だな。もし俺が彼女の立場なら謝罪一つで終わらせてしまうのに。
差し出されたパンを見ると、ふんわりと光沢を持って膨らんだパンの間に大きなコロッケが挟まっている。上から豪快にかけられたソースの濃い色と見た目の迫力が相まって、これ一つで午後を乗り切れそうな程にボリューミーさが出ていた。
ずっしりとした重みを手に持ち、そのまま封を開けて一口齧る。
――その瞬間、ジャンキーな味が口の中いっぱいに広がった。じゃがいものホクホク感とソースの濃厚さが舌に染みる。まさに脳までジンと響くような『学生の味』だ。
しかし、食感はそれとは対称的な面を見せた。衣のサクサク感とパンのふわっとした舌触りによって全体的に軽くまとまっており、噛むたびに心地よい感触を味わえる。
(なにこれ、美味!?)
いつも食堂で昼ご飯を食べているせいで、購買のことなんて気にも留めなかった。そのことを後悔するくらいには俺好みの味だ。
食堂のメニューにも飽きてきたところだったし、これなら購買に変えるのもありだな。
思わず二口目にいこうとしてふと隣を見ると、彼女は『いただきます』と小さく手を合わせて思い切りパンにかぶりついていた。
目を細くして頬を緩め、とても幸せそうな顔をする。口元に焼きそばのソースをつけて口をモグモグと動かす姿は、まるで小さな子供のようだ。
……そういえば、彼女の表情がさっきと比べて少し柔らかくなった気がする。まだ言葉の節々に緊張が感じられるものの、目が合うようになってきたし、彼女の素顔が少しずつ見えてきたのかもしれない。
豪快な食べっぷりに見とれていると、いつの間にか彼女がこちらを見て気まずそうに眉を寄せていた。
「……な、なんでしょうか。あまり見られていると食べにくいんですが……」
「いや~、美味しそうに食べるなぁと思って。あと口元にめちゃくちゃソースついてる」
そう指摘すると、彼女はハッとした表情で目線を泳がせ、慌ててハンカチを取り出して口を拭った。
「意外と子供っぽいところあるんだな。もっとしっかりした人だと思ってたけど」
「た、たまたまですよ……いつもはそんなことありませんから」
そう言うと、俺の言葉を気にしてか、今度は一口を小さなクルミ程度の大きさにしてパンを齧る。
『いや、それは気にしすぎだろ』とツッコみたくなったが、そんな間柄でもないので、その言葉はそっとパンと共に飲み込んだ。
昼食を終える頃には、中庭の影もすっかり短くなっていた。
相変わらず俺達はカフェの中で、ここにきたばかりの時と同じように会話が続いている。
しかし、一つだけ先程と変わったことがあった。それは――
「……それで、俺はどうすればいいのかな……?」
「そうですね……まずは謝罪、ですかね。あの時の皐月君はかなりひどかったですし。何せ気持ちが落ち込んでいるところへ追い打ちをかけるように『魅力ない』ですからね。さらにそんな私を放って逃げようなんて、どれだけ罪を重ねるつもりですか」
「本当にすみませんでした……」
俺は、間髪入れずに土下座する勢いで謝る。
そんな哀れな姿を見下ろすのはもちろん花園さん――のはずなのだが。
「はい、許してあげましょう……って、まあ実際のところはそんなに怒ってないんですけどね。八割冗談です」
そう言うと、いたずらっぽくクスッと微笑む彼女。
……どうやら二割はマジで怒っているらしい。怖いので、一応警戒しておこう。
「頑張って慰めようとしてくれたのは伝わりましたし、ちょっと言葉選びを間違えただけだと思うので軽く言うだけに留めておきます」
「それは助かる。女の子に本気で怒られると泣いちゃうからな……」
「よく分かってますね。そうです、女の子は怒ると怖いので気をつけてください」
含みのある言い方をすると、ふんっとドヤ顔でこっちを見てくる。
その圧力に押され、苦笑いを浮かべながら俺は――
(……いや、誰!?)
花園さんの変わり様に、動揺を隠すので精一杯だった。