出会い
教室が学生の声で満たされた頃、俺はその隅で震えながら思索を巡らせていた。教授にどう言い訳するのか考えているのである。
体調が悪いと言って休ませてもらおうか、それともトイレに行くふりをしてそのまま抜け出すか。でも落単寸前の講義を抜けるのは得策ではないのか。
話によると、この教授は厳しいことで有名らしい。なんでも自分に従わない学生には容赦がないのだとか。一見、温厚な人物に見えるが、ネット上の口コミでそう書かれていたので舐めてかかると大怪我するだろう。
額が少し熱を帯びる程一生懸命考えていると、ふと背中にむず痒さを感じた。
(……なんだ、誰かに見られてるような?)
そんな感覚を持った俺は、そっと顔を上げた。
教授に見つかったかもしれない、そんな可能性が頭をよぎり、不安がじわじわと湧いてくる。
しかし、教授は教壇に立って黙々と板書を続けていた。周りを見ても、学生はガヤガヤと課題と格闘していてこちらに注意を向けている様子はない。
「気のせい…か…」
ホッと胸を撫でおろして再度机に向かう。
――が。
その感覚が消えることはなかった。むしろ時間が経つ程はっきりと感じる。誰かの意識がこちらに向いているのだと。
その違和感に耐えきれず俺は、もう一度顔を上げた。ゆっくりとなぞるように目線を動かして教室内を見回す。
そして――見つけた。
数列隔てた席に、一人の女子学生が座っていた。そして、彼女は静かに俺を見つめている。
(……誰だ?)
心臓がトンと跳ね、声が詰まる。知らない人がジッと見てくるこの状況に、不気味さと少しの恐怖を感じていた。
(……何か俺に用があるのか?)
そう思ったが、彼女は他の動きは一切見せずただ見つめてくるのみ。視線は未だ合ったまま、膠着状態が続いていた。
本当に誰なんだ……。大学での数少ない記憶を辿って検索をかけるも、その顔は一つもヒットしない。やはり全く知らない他人で間違いない。
(――もういいや)
アクションを見せない彼女に対してしびれを切らした俺は、再度机に向き直ろうとした。
しかしその時――
「あ……っ」
蚊の鳴くような声が聞こえ、彼女の手が俺を引き止めるように空を掴んだ。
反射で振り返って見れば、口をもごもごとさせて何か言いたげな彼女の姿が目に映る。なんだか悲しげな顔で、潤った瞳とは対称的にその奥は燃え尽きた灰ように光がない。さらによく見れば唇にキュッと力が入っているのが分かった。
(えっ……)
無表情から一転して悄然とした表情を浮かべる彼女に戸惑いを隠せない。先程から入ってくる情報量が多すぎて脳が混乱している。
どう対処したらいいか分からず、お互いに膠着状態が続く。
――しかし、二の足を踏んで動かない彼女を見て、俺はあることに気づいた。さっきから見るに、彼女の周りに人がいないのだ。そして、その情報から物事がパズルのように繋がり始める。
(……ああ、分かった。……けどどうする、声をかけるべきか?)
導かれた答えはただ一つ、彼女はぼっちでペアを探しているということだ。
そう、彼女の悲しそうな表情や何か訴えるような目線も、俺と同じ状況にあるとなれば納得がいくのだ。
初めから簡単な事だった。この状況で一人ならそれ以外にないじゃないか。
全てに合点がいき、彼女の目的がはっきりとする。そして、それは俺の目的と合致していた。
本来ならば、そう分かった時点で声をかけに動き出していただろう。何故ならこの状況は地獄行き列車から抜け出すためのチャンスと言っても良いのだから。彼女と組めば、晴れて俺も周囲に溶け込むことができ、トラウマのようなことにならなくて済むのだ。
しかし、それを躊躇う理由があった。
(だ、大丈夫か……?)
下手を打てば砂のように脆く砕けていきそうな様子をした彼女に、そう易々と話しかけられない。それ以前に相手は初対面でじっとこちらを見てくるような人物だ。不安がつきまとうのも無理はない。
でも、やはりここは勇気を出していくべきだろう。そう決意を固めた俺は足に力を込めた。
俺は小さく深呼吸をし、気持ちを整えてからゆっくりと歩き出す。
真正面から直接向かうのは気が引けた。驚かせたくない気持ちもあって、できるだけ目を合わせず、少し寄り道するルートで距離を詰める。
しかし、こちらの動きに気づいた彼女は目を見開いて顔を強張らせた。
(やっぱり警戒されるか……)
その表情に若干の焦りを感じたものの、もう引き返すことはできない。止まることなく歩みを進め、ついに彼女の前に立った。
硬直してこちらを見上げる彼女に対し、俺は思い切って口を開く。
「あの~。よ、良かったらでいいんですけど、一緒にペア組みませんか?べ、別に嫌なら全然断ってもらっても大丈夫なんですが…」
……少しどもってしまった。
ぼっちは基本会話することがないので、声帯が衰えて声の出し方を忘れることがある。だから急に話すことはできないのだ。
(発声練習でもしとけばよかったな……)
そう後悔しながら見ると、彼女はポカンと目を丸くしていた。
やっぱりダメだったか――と思ったその時。
「あっ、はい! ぜ、是非お願いします!!」
突如として、彼女の顔がぱっと明るくなった。先ほどまでの暗い雰囲気が嘘のように、口元に柔らかな笑みが浮かんでいる。声のイメージもさっきとは別人のように弾んでいた。
そして彼女は、いそいそと鞄を持って立ち上がり、俺の隣の席に移動する。
その動きはどこか軽やかで、こちらを振り返った瞳はまるで「早く来て」と言っているようだった。
あまりの変わりように少し面食らってしまったが、それ以上に妙な安心感を得た。
俺も小さく笑い返し、席に戻って彼女の隣に腰をおろす。
こうして俺たちは、遅れながらも作業を始めた。