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皐月誠

 カーテンから漏れる日ざしが瞼を柔らかく刺激し、暗闇の中にある意識が徐々に覚醒していく。

 海底から浮かび上がっていくようなその感覚は、まだ休息が完了していない脳からすれば抵抗したいものらしく、強引に意識を底へ引きずり込もうとしていた。

 瞼越しの刺激と脳の戦いは一進一退の攻防を重ね、激戦の末ついに盤面が後者に傾いた。 

 意識が再び水底に沈んでゆき、次第に心地の良い感覚に襲われる。

 やはり朝日ごときで俺に勝つのは不可能だったようだ。まあ実際は俺の意識も脳側に加担していたので、この戦は完全勝利が確定していた出来レースだったのだが。

 満足行く結果に、ニヤリと笑みを浮かべる俺。勝利の祝杯を上げようと枕に顔を埋め、そのまま二度寝をする――はずだった。

 

 ジリリリリリリ!!!

 

 自分を忘れてくれるなと言わんばかりに耳の奥に刺さるような音が部屋中に鳴り響く。

 ……ああ、本隊のお出ましだ。

 勝利に慢心していた俺の意識は完全に不意を突かれて叩き起こされる。脳はそれに抵抗し、懸命に目をつむるよう指令を出しているが、それも本隊の前には無力だ。

 巨大な力を目の前にして何もできず、俺の脳と意識は戦になる前に完全敗北を喫した。


 仕方なくゆっくりと上体を起こし、まだ半分開かない目をこすりながらアラームを止める。


「眠っ」


 気だるく言葉をこぼして、しばしの静止――。……朝だというのに、モヤモヤとした不快感がある。たまにはスッキリと起きれないものだろうか。

 そう愚痴をこぼすが、いつまでもこうしてはいる訳にはいかない。今日はバリバリ平日の月曜日なので、大学へ行くための準備をしなければならないのだ。

 ベッドから手を伸ばして時計を手繰り寄せると、時刻は九時九分を指していた。うちの大学の授業開始時刻は九時半からなので、残り時間を計算するとざっと二十分ほどだ。二十分か……うん、二十分……。


「やっべ、遅刻だ!」


 どうやら本当の敵は自分自身だったらしい。

 先程の不快感は箒で掃かれたかのように意識の遠くへ消え去り、完全に覚醒した俺は転げ落ちるようにしてベッドから飛び起きた。 


 洗顔、歯磨き、そして外出用の服に着替えるまでの慣れたルーティーンをスムーズにこなす。

 次に朝食だが、冷凍食品を温めている時間はない。何かないかと部屋を見回すと、一昨日スーパーで買ってきたクッキーの缶が目に入った。

 駆け寄ってその中に手を突っ込んで探ってみれば、三枚程感触がある。それを素早く取り出して開封し、無理やり口の中に詰め込んだ。パサパサとした舌触りが口内を占領して少し不快に感じるが、それを水道水で強引に押し流す。

 一通り支度を終えた俺は、最後に電気や冷房の消し忘れがないかを確認してから、鞄を荒く掴み取って家を出た。


 六月に差し掛かり、今の時期外に出るとむわっとした空気が身を包むような感覚がある。 

 大気中に押し込められた熱気が鼻の奥にまで届いて不快感を与え、アスファルトに跳ね返った陽光が肌をジリジリと炙る。

 街行く人もさすがにこの暑さには耐えられないのか、フェイスカバーや日焼け防止の長袖などを身に着けていた。

 まだ六月だというのにこの暑さだ。地球温暖化の影響で徐々に夏が長くなっているという話も聞くが、今でこれなら五十年後とかはどうなるんだ。もしかして春が無くなってたりするのだろうか。


 ラクダも汗をかきそうな気温の中、俺は顔中を汗まみれにして、グリップから手を滑らしそうな程のスピードで自転車を漕いでいた。


 皐月誠 一八歳の大学一年生。


 俺は今、何故このような状態に陥っているのかを考えている。端的に言えば寝坊なのだが、気になるのはその理由だ。

 最近買った新作のRPGゲームにハマって夜更かしをしていたからか、はたまたその時の夜食としてカップラーメンを二杯食べてしまったからか。いや、どちらもそれっぽいが決定的な理由にはならない。

 しばしの間思いつく限りの候補を挙げていると、これだという一番有力な回答が見つかった。

 ずばりそれは、アラームを無意識に止めていたことだ。


 朝に弱い俺は、この回避不可能な現象を度々体験していた。

 毎日出発時間に余裕を持てるよう早めにアラームを設定しているのだが、朝が来る度に寝ぼけたもう一人の俺がアラームを止めているのだ。

 そんなことを繰り返している内に欠席が積み重なり、フル単を目指していた四月の俺はどこへやら、今日の一限目の授業に至っては休んだら落単というほどに追い込まれてしまった。

 今年から一人暮らしを始めたので、朝起こしてくれる人はいない。細かいところまで口うるさく指示してくるストレッサーがいないのは快適なことだが、単位を落としやすいというデバフを考えると良し悪しは五分五分といったとこだろう。


(朝だけ親来てくんないかな)


 そんな親がブチ切れそうな都合の良いことを考えながら、俺は残りの道を駆け抜けた。


 汗をかいた甲斐あって、俺は授業開始のチャイムが鳴る直前でなんとか教室に入ることができた。

 教室には講義を受けるであろう多くの学生があちこちで談笑していて、何人かがこちらに気づいて振り向くが、すぐにまた会話に戻っていく。

 そのサラッと向けられた視線に若干の居心地の悪さを覚えたものの、気にすることなく歩いてゆく。

 そして、俺の定位置である右端、一番前の隅の角席に鞄を置いた。自由席なのでどこに座ってもよいのだが、俺はここがお気に入りなのだ。

 

 椅子に深く腰かけ、爆走したことで上がった体温を落ち着けるために服を扇いで少しでも熱気を逃がそうと試みる。

 髪とインナーが汗で肌に張り付いて気持ち悪いが、これを見越してタオルを持って来ている程俺は用意周到ではない。ここはしばらく教室のクーラーにお世話になるしかなさそうだ。

 

 しばらくして体温と息がだいぶ落ち着いてきたところで、俺は鞄からいくつかの教材を取り出して机に置く。そして勉強のために教材を開く――ことはなく、代わりに新しい本を取り出してしおりが挟まれたページを開いた。


 『教材は出すだけだしてメインは読書』、それが退屈な講義における俺のモットーだ。

 

 何故このような褒められないことをしているのかというと、俺は講義の大半を理解できない頭を持っているからだ。

 ここ二か月で分かった事だが、どうやら俺はどんなに学習しても糸が切れた糸電話のように知識が脳に到達しないらしい。

 ならばいっそのこと、授業で時間を潰すより好きな本を読んだ方が時間を有効活用できるではないかという結論に落ち着いた訳だ。

 まあ親がこの光景を見たら何しに大学へ行っているのだと説教されるだろうが、その時は日頃の労をねぎらって肩でも揉んであげよう。


 ちなみに読むジャンルはファンタジーや推理系、哲学など幅広い。大学では常に本を読んでいるので、この二か月で大抵のジャンルは網羅してしまった。

 今日持ってきたのは最近ハマっている宇宙を題材とした小説だ。幻想的で壮大なその表紙に魅かれたのもあるが、作者が誠という俺と同じ名前で親近感が湧いたので購入を決めた。意外とこういう直感が良い本に巡り合わせてくれたりするものだ。


 そうこうしている内にチャイムが鳴り、授業が開始された。

 一限目は統計学の授業で、小太りな中年の教授がカッカッとチョークで専門用語や数式を黒板に書き始める。

 俺は教授が書くその文字列を一瞥すると――


(うん、やっぱ分かんない)


 それを一蹴して本に目を落とした。 



 授業が始まって五十分後、小説の残りのページを読み終えて暇になった俺は、ボーっと窓から外の景色を眺めていた。


 授業をしている今の教室は校舎の六階に位置しており、その高さから学校全体を見渡すことができる。

 この席からは、欠伸をして睡魔に耐えている授業中の生徒や、グラウンドで楽しそうに球技をする体育中の生徒、中庭で雑談を楽しむ男女グループの学生など、「ザ・学校の日常」とでもいうべき風景が見られる。

 その様子に今日も平和だと安心するのだが、注目すべきなのは学校の敷地内だけではない。


 ――学校の柵を超えたその向こうを見ると、一面に海が広がっており、その表面が鏡のように太陽の光を反射して美しく輝いている。

 特に最近は快晴が続いているので、その輝きがより一層映えて見えた。

 宝石でも浮かべているのではないかと思うその光景は日常で疲れた俺の心を浄化し、もはや平凡な日常に少し彩を加えてくれる存在となっている。


(やっぱり俺はこの時間が好きだ)


 誰にも邪魔されることなく、景色を楽しみながらゆっくりと落ち着くことができる、そんな時間。  

 普通なら早く過ぎ去ってほしいと思う授業の時間でさえ、この景色の前には秒針が止まることを願わずにはいられなかった。


 しばらく幸せな時間に身を預けてまったりしていると、だんだん睡魔に襲われ始めた。瞼が少しずつ重くなり、目に入る光が遮断されていく。

 その感覚はマッサージを受けて眠るような、本能に全てを任せてただリラックスする心地よさがあった。

 もうここまできたら引き返すことはかなわない、そう悟った俺は、机の上で組まれた腕に顔をうずめて入眠体制に入った。

 そして、目を閉じてゆっくりと夢の中の船を漕ぎだそうとした、その瞬間――


「ではこの統計の問題について少し話し合って発表してもらいます。各々で班作ってー」


 好き勝手していたバチが当たったのか、そんな想定外の死刑宣告が俺の耳を突き刺さした。

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