反論
私のような人間は周りからぼっちと呼ばれる。
何をするにしても一人で、朝起きてから学校に行き、家に帰るまで誰一人として私と言葉を交わす者はいない。他者から見れば真顔でそこにいるだけの存在。いや、その存在すら認識していない人もいるかもしれない。
そのような呼び方は至極当然で、理解できる話だ。
しかし、あえて私は彼らに問いたい。本当に私のことをぼっちに分類しても良いのか、と。
私からすれば、一人でいるからぼっちだという話は理解できても共感し難いことなのだ。以下に説明しよう。
ぼっちという言葉の意味を検索すると次のような文が出てくる。
「ぼっちとは…友人がいない人のこと。俗に、何かを一緒に行う仲間がいない人のこと」
この定義から考えれば、何かを一緒に行う人がいればぼっちの枠組みからは外れることになる。さらに行う内容については定義されていない。
つまり、こういうことだ。一緒にご飯を食べたり、授業を受けたり、隣を歩いたり、友達を作ったり。それらを誰かと行うだけで簡単に友達は作れるのだ。
そして、こうは考えられないだろうか。この世界にはぼっちが何万人もいて(たぶん)、
その皆が友達を作ろうと日々奮闘している。ならば、一緒に友達を作ろうとしている私たちぼっちは数多の友人がいる立派なリア充と言っても過言ではないではないか!
結論を述べよう、私はぼっちではない!!
――という理論で自分を正当化しようと試みたのだけれど。うん、やっぱりちょっと無理あるかも。友達がいないから作ろうとしてるのに、既に友達が居るって意味分かんない。それに、実際のところすごく寂しい。
集団の学生が行き交う中、一人で登校、授業、下校までをこなす。
お昼も当然一人で、楽しく会話する人たちを横目に黙々とご飯を食べる。彼女らは栄養補給なんて二の次で、食事でさえも仲間とのコミュニケーションのツールにしているというに、私ときたら機械的にものを口に運ぶだけの作業ゲー。
この理論ではとても陽キャに張り合えるとは思えない。
「はぁ……あの場所に戻りたい…………」
今日も人混みで一人お昼を食べている中、私はあの日の記憶を思い起こしていた。