第三幕
アーサー教授の書斎があるのは、二階の廊下の突き当たりだった。木造のテーブルの下にカシミヤの絨毯が敷いてあり、窓のそばに寄せられた彼の机はわたしと対当していた。
壁を背にして整列する本棚には、ゴシック小説を中心とした文学作品が犇いており、古今の文献や参考書の類もあったが、ほんの一部に過ぎないことは明白だった。
仲間内では有名な話だ。教授の部屋には二つの扉がある。ひとつは廊下に出るが、もうひとつは書庫へと繋がっており、サー・アーサー秘蔵の古文書が眠っているという。
書斎に入ってすぐに教授は噂の書庫へと向かい、わたしはソファーに座らされ、眼鏡拭きでレンズを磨きながら彼が戻るのを待っていた。未知なる書物を閲覧できる喜びと、難解な内容を危惧する不安とは、心の中に交わることのない二重螺旋を構築していた。
「遅れてすまない」扉は唐突に開かれた。「大切なものなのでね、厳重に保管しておいたんだ」
眼鏡を掛け直してアーサーを見上げると、彼は両手で、宝物を扱うようにして一枚の紙を握っていた。それは貧弱な外形で、分厚い本を想像していたわたしはただの紙切れの登場に拍子抜けした気分だった。
「こいつが例のものだよ」
教授は授賞式のような慎重さで、紙片をこちらに差し出してきた。
裏返しの状態で受け取ると、繊維質の柔らかな感触が皮膚を通して伝わってくる。これまでいくつもの書籍に触れてきた指先は、その感覚に心当たりがあった。
「リンネル紙のようですね」
亜麻による紙だという推測は的中したらしい。アーサーは眉を顰めた。
わたしはさらに神経を指先と視覚に集中し、芝居がかった挙動で窓からの陽光に透かしたりしながら、一通りの品定めを済ませた。
「十七世紀くらいのものでしょうか」
「……さすがだな。しかし目的は鑑定ではないぞ」
ここでアーサーの顔を覗いたが、彼はまだ悠然と構えていた。勝負はこれからなのだろう。もちろんわたしもそんな程度で得意になっていたわけではないが、受け取った瞬間に僅かに翻った表面に見えた文字の一部から、このときすでに、大方の見当をつけていたのである。
教授は机のほうへと歩きだし、わたしは紙を反転させて文面を凝視した。
――それっきり、わたしの思考は停まってしまった。
白紙を切り裂く黒インクが、いくつかの奇妙な文様を描いていた。数字なのか記号なのか文字なのか、まったく判別のつかないものだった。
初めてミステリー・サークルを目にしたときのような衝撃を受けた。正体不明なもの、それが暗号の実体なのだから。故に、残念ながら再現することはできない。
わたしはすっかり気勢をそがれてしまった。どんな名探偵であろうと、知識にない材料から推理をすることなど不可能だろう。だが実のところ謎を究明する鍵は、ここに至るまですでに手にしていたのである。
自信をみなぎらせた表情が、徐々に曇っていくのを自覚していた。もう席へと着いていたアーサーは、日蝕に至る過程のような顔色の変化を観察できたろう。
出端をくじかれたわたしは、もはや覇気のない声で呟くしかなかった。
「……オガムかヘブライ文字のようですが」
目星をつけていたものだった。正面から実見してからは見当違いであるのは確実だったが、なにも言えないよりはましだと思ったのだ。
アーサーは途方に暮れるわたしに微笑むと、デスクの引き出しからパイプを取り出して火をつけた。
例の謎掛けの仕草だ。一息吸って煙を吐く。
「暗号解読技術は全て試した。ゲマトリアに……」
「――テムラーやノタリコンも?」
教授の助言を遮って、先に言ってやった。知性の披露の場を失っていたわたしは、どうにかして余裕を取り戻したかった。
三つの単語はユダヤ教神秘主義哲学カバラに用いられる暗号技術で、それぞれ、文字を数字に置き換える数秘法、文字を並べ替える置換法、長い文章を短縮する省略法を示している。
教授からの挑戦なのだと受け取った。彼は暗号文が発見された経緯を語らなかった。これはテストなのだろう、と。
とはいえ、カバラと関係する文書であるならば、通常はヘブライ文字で書かれるはずである。ところが目前にある文章は、どう見ても別物なのだ。
三つの暗号技術だけを借りて、別な文字で記したものなのか。それとも、表面上も意味を成す文章でありながら、そこに暗号を織り込むというカバラ文書の特性を指しているのか。いや、どうにせよ紙に書かれているものは、まず普通に読むこと自体が不可能なのだ。
教授は再びパイプを吸い、煙を吐いた。
「ヒントをやろう。ルイス・キャロル関連だよ」
彼はなんの脈絡もなく、童話作家の突飛な名前を出してきた。これが、わたしをさらなる思考迷路へと追いやることになる。
キャロルの代表作『不思議の国のアリス』はオックスフォードで生まれたのだから、関連している可能性はあろう。彼の児童文学と暗号に因果関係を探るとすれば、言葉遊びが思い当たる。発音や表記の類似した単語をうまく文中に織り込み、洒落た言い回しでおもしろく仕立てたものだ。
つまりそういう類いの暗号文なのだろうか。仮にそうだとしても、分類すらままならない文字になにを見出せるというのか。
頭の中では雑多な憶測が駆け巡ったが、それ以前にわたしには、どうしても質問しなければならないことがあった。
「キャロルは、十九世紀の人物ですよね」
そう、紙の作られた年代と彼が生きた時代とでは考証が合わない。
「君は、それが十七世紀に作られたものだと言ったな」
教授は机に両肘をつき、身を乗り出すようにして囁いた。
脳裏で直感が閃いた。常備していた拡大鏡を懐から抜き出し、インクの染みに瞳を凝らす。
霞がかった黒い染色は、ミクロの繊維にくっきりと浸透していた。時間の経過したインクに表れる酸化が、充分に起こっていなかったのだ。
「そうか、書かれている文字は時代が違う! わたしを試しているのですね?」
つまり十七世紀に製紙されたものに、十九世紀の文字が刻印されているということだ。
この頃になってようやく、アーサー教授の魂胆が見え始めた。おそらく教授はとうに暗号の本性を解明しており、わたしの実力を測るために利用したのだろうと。
ところが念入りに調べるうちに、わたしはもっと異様なことに勘付いてしまった。インクの色彩が、あまりにも新鮮すぎたのだ。
「……ひょっとすると、これは最近のものですか?」
「いい線だよ」
やや離れて聞こえた教授の声に顔を上げると、アーサーは回転式の座席を窓に向けて、明るい日差しに照らされていた。先程通ってきた庭に見入り、自慢の口髭を撫ぜながら満足そうに頷いている。
「実はな、そいつは古いものではない」
アーサーは椅子を反転させて、再度、こちらを顧みた。
「家族にエリザベスというルイス・キャロル研究家がいてね。それはキャロルの言葉遊びを参考に、彼女が書いた」
いきなりの自白に、一瞬、その意味が呑み込めなかった。
ようするに、暗号文は発掘されたのではなく、意図して作られたというのだ。
確かにアーサー教授の暴露に偽りがなければ、いくつもの納得のいかない点に理屈がつくことになる。同時に、改めて暗号を見直す必要も出てきた。
真意を探ろうと老人の炯眼を見据えたが、宿っているのは真実の光ばかりだった。
教授は嘘をついていない。おそらく暗号文は、女王陛下と同名のその女性が練りに練って仕上げた代物なのだろう。おぼろげながら、思い当たる人物はいた。もうお気づきの人もいるだろうが、彼女こそがわたしの人生を一変させたフェアレディなのだ。
暗号文の実体が露見しても、わたしはしばらく古紙の文字列を睨んでいた。考案された謎ならば、なおさら解いてみたかったからである。
それでも答えは一向に出ず、秒針が二回りした頃でようやく決断することになった。目前のテーブルに紙を置き、腕組みをして首を横に振ったのだ。
「だめだ、お手上げです」
両手を軽く上げ、おどけた調子で降伏の証を立てた。本当はとても悔しかったのだが、それを悟られたくはなかった。
アーサー教授は感慨深げに頷いた。
「よろしい。今日は息子夫婦が遊びに来ている、解答を聞くといい」
ここで、わたしは曖昧だった犯人像を推定から断定へと変更した。
教授はパイプを灰皿に置いておもむろに席を立ち、廊下に通じるドアを開けて大声で呼び掛けたのである。
「ウィリアム、エリザベス、来てくれ」
まもなく、床板の上を足音が近づいて来た。ドアがノックされ、アーサーの了承を得て開かれる。
まず現れたのは長身の若い男。彼はわたしと目が合うと、相好を崩して手の平を差し出してきた。
「初めまして、ウィリアムです。父からあなたのお話はよく伺っています。長らく親しくしていただいている大切なご友人だと。お会いできて光栄ですよ」
わたしも席を立ち、教授の息子であるウィリアムと握手を交わした。アーサーは遅れて来る淑女のために扉を支えていた。
「どうも、ジョン・フォスターです。……いやあ、奥さんにしてやられましたよ」
エリザベス女史に屈服したことを素直に告げた。笑顔を努めたが、唇の端が引き攣っているのは自覚していた。ところがおかしなことに、妙な反応をしたのはわたしだけではなかった。
ウィリアムは異国の挨拶でも耳にしたかのように、アーサー教授に顔を向けたのだ。教授がウインクのようなアイコンタクトを返すと、ウィリアムはすぐになにかを感知したらしく、悪戯っぽく笑いながらドアの奥へと手招きをした。
「リズ、おいで」
わたしは庭園で出会ったあの女性が、優雅に姿態を現すものと空想していた。
けれども、ドアが僅かに動いても女性は姿を見せなかった。ウィリアムの視線はあらぬ方向に注がれており、実際のところ彼女は入ってきていた。ことの真相を理解したとき、わたしは視界の端に妖精を目撃してしまった。
ウィリアムが注目していたのはわたしの目線の遥か下、ドアの陰から恥ずかしそうに顔を出している六歳くらいの女の子だった。庭園で出会った少女が、そこにはいたのだ。
口を開けたまま呆然とするわたしを尻目に、アーサーは顔をほころばせて紹介した。
「孫娘のエリザベスだ。以前も遊びに来たことがあってな。そのときはもっと小さかったんだが、楽しんでくれたのだろう。彼女は手紙をくれたんだ」
少女はわたしと目が合っても特に臆することもなく、くりくりとした瞳を瞬かせていた。その頑是無い仕草はあまりにも無防備で、いじらしく、そして謎めいていた。
暗号文の制作に至る経緯について、ウィリアムは軽快に語りだした。
「ぼくは古書修復業を営んでいまして、家には古い紙がたくさんあるんです。エリザベスは、それに書いちゃったんですよ」
彼が指差したのは、わたしが卓上に置いた紙切れだった。
「当時まだ字が書けなかった娘は、キャロルの絵本などを真似たようなんですが、これがでたらめでしてね」
ウィリアムは、我が子との思い出を自慢する父親の顔をしていた。
アーサー教授と真剣に知恵比べをしていたつもりのわたしは、大きな肩透かしをくらった気分だった。子供の悪戯書きに躍起になっていたのだから、なぞなぞを論理的に解こうとしていたようなものだ。
「き、教授、これは反則ですよ。だってキャロル研究家と……」
反論するわたしに、アーサー教授は幼い姫君の髪を愛しげに撫でながらうそぶいた。
「間違いはないよ、本人がそう名乗ったんだ。エリザベスはルイス・キャロルの童話が好きでね」
すかさずエリザベスは祖父を見上げると、高らかに宣言した。
「だってケンキューカだもん!」
……まさに、意味の取れない文章は、ありのままのものだった。
字の書けない幼子が見よう見まねで執筆した形の崩れた一節は、編み出した当人にしか解くことのできない、この世で一つの暗号なのである。表面上は暗号文として認識されるが、少女にとってはありふれた手紙としての意味を持つ、ある種カバラ文書のような特性を有し、ルイス・キャロルの言葉遊びが自由な発想のままに描かれた芸術なのだ。それが、巧い具合にどこぞの古代文字のような形状を成したのだから、彼女はやはり、秀でた才能を備えたフェアレディかもしれない。
エリザベスとウィリアムは、食卓でのたわいない親子の会話に勤しむように微笑み合っていた――これはあとで聞いたのだが、庭でエリザベスと一緒にいた婦人は彼女の母でありウィリアムの妻だった。
机に戻ったアーサーは、椅子に座ると明言した。
「ジョン、君の欠点はだな――」紫煙の残り香越しに、消えかけたパイプの先を自らの頭に向ける。「考えすぎることだ」
教授の推理は、見事にわたしの心を暴いた。
このときになってようやく、アーサーの計画の全貌を知った。
彼は誰よりもわたしを理解してくれていた。偏った思考に囚われ、仕事を失い苦しんでいた友人を心配していたのである。
人心は気まぐれだ。親しい友人同士であっても、喧嘩をすれば一時的に相手を嫌いになったりする。そのときの心情を書き留めれば、友に対する不満が溢れることだろう。ところが冷静になってから読み返すと、もはや憤怒は薄れていたりもする。ある瞬間に心を支配した感情を残してしまい、気持ちが冷めてから後悔しても、そうしたものがもはや胸中にないのなら、それによって過去を誰かに責められたとしても、いつまでも自身が固執する必要はないのだ。
人は常に変化していく。かつて字が書けなかったエリザベスが、文字を覚えたように。
わたしには、少女のように夢見る者まで否定するつもりはなかったし、児童文学への主観的な批判を世間に強要する必要もなかった。あれは、己の押しつける価値観が受け入れられないことに苛立ち、発作的にした発言に過ぎなかった。自分が非難されたことが悔しくて、反論しようとするあまり、もはや心から消え去った思いにいつまでも執着し、進んで孤独に引き籠もっていたのである。
アーサー教授は孫娘へと優しく微笑み掛けた。
「エリザベス、なんて書いたのか教えてあげなさい」
小さな女王陛下は、どんな怪物でも音を上げるであろう暗号を、いとも簡単に解読してみせた。
少女特有の屈託のない笑顔でわたしの顔を覗きこむと、いたずら好きの妖精は、そっと答えを囁いたのである。
「〝また遊んでね〟」