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第二幕

 月日というのは不可解だ。子供の頃、時間はゆっくりと流れた。それはあらゆることが新鮮で、日常が感動に溢れていたからだともいわれる。待ち遠しい日も、想いを巡らせる心情がそう感じさせるのかもしれない。


 アーサー教授の招待を受けてからというもの、星々は結託して天を巡る速度を落とした。

 わたしはロンドンのこの図書館で、暗号解読の参考になりそうな本を読み漁りながら、期待に胸を躍らせていた。例の児童書がもたらしたファンタジーブームに苛立つ心気も、読書中には鎮まったのだ。

 冬がすっかり明け、春の大地に新たな命が芽生えてくると、特別な日はごく自然に訪れた。〝暇ができた〟との極めて簡潔な通知は、手紙というアナクロな手法で届いたが、暗号文とやらの詳細については、一切触れられていなかった。


 ずいぶん前から待ち侘びていたわたしは、地図を片手にすぐさま車に乗り込んだ。荷物はたいして積まなかった。携帯電話とアクセサリー的に常に懐へ忍ばせてある拡大鏡、それとは逆の凹レンズたる近視用眼鏡、年代物の財布くらいだ。


 暗号に悩んだとしても、相当の知識は頭に詰まっている。それらを駆使して解けないものはないと自負していた。どうしてもわからなかった場合でも、教授の家には古今の文献が収蔵されている、それらを借用すればことは足りるだろうという判断だった。

 自分でいうのもなんだが、わたしの暗号解読力の優れた点は推理力にあるらしい。持っている知識をうまく組み合わせるのが得意なのだ。あの頃は、ホームズさえ負かす自負があった。



 ロンドンから車で一時間余り、明確な目的地へと快走する旅はとても有意義だった。

 本に囲まれてばかりの生活では、さすがのわたしも気が滅入る。副業である古語を翻訳する仕事が入らなかったかといえば、決してそうではなかったが、グラストンベリーでの体験もあってか、また皆から嫌悪の視線を浴びるのではないかという危惧が、夢に満ちた伝説の生きる土地と関係することを控えさせていた。

 オックスフォードも多彩な物語の発祥の地として名高いが、目指す先が盟友の家なので安心していた。それに、あの街はとても落ち着けるのだ。中心部を横切っても、都会のような騒々しさはない。


 サー・アーサー・C・ブライトマン教授の屋敷は、さらに閑静な街外れにあった。テムズ川を渡ると林の奥におぼろげな影が見え始め、緩やかなカーブを曲がってようやく全貌を拝めた。

 立派な塀に囲まれた、焦げ茶の屋根を頂く白壁の家。無用な装飾を削ぎ落とした鈍重なロマネスク様式の産物は、円錐形の王冠を被る塔が美しく、天辺に十字架でも掲げてあれば、教会と見紛うような佇まいだった。鉄柵は拒むことなく開けてあり、門柱の上には一対のガーゴイル像が睨みを利かせていた。

 敷地に入って初めに出会ったのは、使用人ではなく、家主のアーサー本人だった。


「ようこそワトソン君」

 冗談めかした彼に、わたしは慌ててパワーウインドウを開けた。

「出迎えて下さるとは光栄です。素晴らしい豪邸ですね」

「ハドソン夫人のアパート(シャーロック・ホームズとワトソンの住居)程度にはくつろげるはずだよ」

「むしろアーサー王の居城、キャメロットと呼称したほうが相応しいですな」

 アーサーは口髭の陰に親しみの籠もった笑みを湛え、駐車スペースまで誘導してくれた。高級車に並べてセダンを停めると、愛車は酷く地味な印象を与えた。


 庭園は春の花々に飾られ、英国の誇るガーデニングを代表するかのような美観に包まれていた。石畳のアプローチは芝生を縫って屋敷へと延び、教授に案内されながら、屋内に至るまでの短い旅路を堪能した。不思議なことが起きたのは、表玄関が見えたときだ。もし奇跡に予兆があるなら、徴と呼ぶべき現象だったのかもしれない。

 このことについて考察すると、コティングリー妖精事件を思い出す。二人の少女が妖精の写真を撮ったというあの逸話は、何度か映画化されている。それらのひとつで、撮影に当たって行われたという取材の様相について著された本を読んだことがある。実際に妖精と遭遇した、と主張する人々に話を聴いたところ、多くの者がこう証言したそうだ。


 〝視界の端に妖精がいた〟と。


 ――まさにこの刹那、アーサー教授の邸宅の前で、蝶のような翅を持つ仄かな光が、わたしの視界を横切ったのだ。今でもモネの睡蓮の絵画のように、鮮明に光景を喚起することができる。論理的思考に閉ざされていた当時のわたしはすぐに錯覚だと思ったが、本能はそれを許さなかった。視線は反射的に光を追尾し、目線はそのまま花畑の一角に釘付けとなってしまった。

 草花の織り成す天然の絨毯の上に、麗しい女性が座っていたのである。


 ふんわりと広げたロングスカートの合間から、折り曲げたしなやかな脚が微かに覗いていた。肩で踊る栗色の髪の先端は、控えめに笑う彼女に合わせて揺らぎ、澄んだ瞳が賢そうに輝いている。キャミソールと重ね着したカーディガンの袖元からは、ギリシャの彫刻のごとき細く美しい手が伸びており、傍らの編み籠に湛えられた雛菊を、芸術家並みの繊細な動作で花冠へと変えているのだ。

 女性と対面する位置には、こちらもまた愛くるしい幼女が、似たような姿勢で座っていた。植物による戴冠式に備え、花編みの手解きを受けていたのだろう。彼女はフリルつきのエプロンドレスに身を包んだブロンドの長髪で、不思議の国のアリスのような美少女だった。


 来客に勘付いた女性は挨拶をしてきた。わたしも言葉を返したが、アーサー教授は彼女たちへと軽く微笑み掛けただけで、特になにも言わずにそそくさと歩を進めた。

 彼の家族構成について詳しくなかったわたしは、女性たちを親族か使用人かの誰かだろうとしか想定しなかったが、今日にして思えば、このときすでに教授の術中に嵌まっていたのである。

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