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清算

作者: 雉白書屋

「うぅ……うぅ……サ……ヨ……うぅ…………」


「若……」

「若様……」

「凛太朗さま……」

「ああ、わかさまぁぁ」


 かくして、ここら一帯の領主である凛太朗は息を引き取った。


「若……じいやにお任せを……」


 そう呟き、女中たちのすすり泣く声に背を向け、屋敷から飛び出した正蔵は、腰に携えた刀を揺らし、脱兎を追う犬の如く走り出したのである。


「若……若……!」


 そう、若君。しきりに正蔵が呟くあの若君が領主を継いだのは数年前のこと。彼の母親は流行り病でとうに死に、父親も落馬で追った傷が悪化したことにより死んだ。若くして跡を継いだ凛太朗もまた先刻のように病で死に、残るものはなし。

 無念なり。親子三代に仕えるはずが、まさかこんな最期を迎えることになるとは。

 正蔵は歯を食いしばり、田畑から町へと走り抜ける。


 ――まあ、お侍さんが

 ――あんなに急いでどこへ

 ――怖いお顔

 ――きっと敵討ちだ。


 風の音と自身の荒い呼吸の隙間。町の者の声が断片的に耳に届く。

 当たらずとも遠からず。否、これは紛うことなき、敵討ちだ。

 正蔵は意識を腰の刀に向け、次いで目の前の水溜まり、それを軽快な足さばきで飛び越えた。自身はとうに老い、慌てることもなければ何かに燃えることはないと思っていたがいやはや、今の自分のこの滾りは何だ? 漲る力は何だ? 主君のためだ。これは使命なのだ。

 数十年若返ったような感覚に自分自身どこか戸惑いもあったが、正蔵は己の猛りに身を委ねることにした。


 憎き、憎きサヨめ。


『うぅ……サ……サヨ……うぅ……』


 病床にて、凛太朗の口から何度その名を耳にしたか。

 サヨとは凛太朗の想い人のこと。残念ながら凛太朗は奥手で一度として自分の想いを伝えることはできなかった。ゆえにその想いは死の間際まで胸の内側から凛太朗を焼き続けたのである。

 凛太朗が健在の頃、正蔵は自分が何かきっかけをと、ついつい幼い頃からの世話焼きを発揮しようとしたが、凛太朗にきつく咎められその機会は流れた。

 ゆえに息を引き取る前もサヨなる女を連れてこようとは思わなかった。そして何よりも最期、凛太朗のその口からは幼い頃から傍にいた自分、もはや唯一の肉親と言っていい自分の名前を口にして欲しかったと正蔵は思っていた。

 嫉妬。だが無論、頼まれれば何が何でもサヨを連れて来ただろう。しかし、そうはならなかった。その後悔もまた正蔵を内から焼く、呪いとなっていた。


 おのれ、サヨ……おのれ……


 敵討ちだ。病床に伏した若が一度、ボソッと漏らした。サヨは峠の茶屋で働いていると。行ってすぐさま切り捨てるのだ。

 無論、お咎めなしとはいくまいがどうでもいい。帰るべき家はもうないのだ。サヨの死を見届けたら潔く、腹を切るのだ。そしてあの世で二人の仲人をしよう。祝言を上げるのだ。

 息を切らしながら笑う正蔵。しかし、狂気に満ちたその顔も脳内を泳ぐ呪詛も茶屋に着き、格子窓から覗き、そのサヨの姿を目にした瞬間、地に落ちた桜の花びらを箒で掃くように吹き飛んだ。


 美しい……。


 若が好くのも無理もない。いや、むしろようよう見つけたと褒めてやりたい。と、そう正蔵は頷き、そして気づいた。

 下を向いた瞬間。己の股間部分の膨らみ。少し冷静さを取り戻した正蔵と違い、今なお猛り狂うイチモツを。そしてそれに気づくと同時に熱が下から上へ、頭へと流れ込む感覚がした。


 何もそう急いで殺すことはない。抱いた後でも良いではないか。そうともそうとも、わしは凛太朗の親であり祖父であり友であり兄弟でありつまりそう、あの女を介すことであの世で凛太朗と真の家族、肉親となるのだ。


 再び狂気が宿った正蔵の顔はさらに数十年若返ったようだ。血気盛んな時期に。

 店に入った正蔵のその様子にサヨがギョッとしたのは一瞬のこと。すぐに笑顔を見せ、注文がお決まりになったらお気軽にどうぞと柔らかな声で言った。

 

 正蔵がその声に絆されたのは一瞬のことだが、それで十分であった。

 大人しく、入り口脇の空いている席に腰を下ろし、刀が壁に突っかかると正蔵は鞘ごと腰から引き抜き、そっと抱えるようにして持った。


 わしは何を考えているのだ……。ここへは何しに来た……。


 と、刀に触れたことで正蔵は武士としての本分、己の目的を思い出し、さらに心を落ち着かせようとフッーと息を吐く。

 そして、サヨを見つめた。すると、どうしたのだろうか。股間の猛りは治まりつつあったが、サヨが前へ後ろへ右へ左へ、目で追うその姿がこちらへ近づく度に心臓が高鳴り、離れれば自然とはぁと息を漏らす。

 ご注文どうなさいますか? とまた聞かれれば正蔵の顔は赤面、口は池の鯉。身はまな板の上の魚。どうぞどうぞお好きなようにとへへへと笑うばかり。正蔵はまたも数十年若返り、色を知らない若造のようになってしまったのだ。

 では、おすすめを適当にお持ちしますね、とサヨがニッコリ笑うと正蔵は背を丸め、コクンと頷く。出された茶もあっという間に飲み干し、落ち着かない様子。

 次いで出された団子も目にすれば、わあと声をあげ、子供のようにはしゃいで見せた。そうすればサヨが笑ってくれるのではないかと、どこか打算的ではあったが子供でもそんな知恵は働くものだ。

 そう、またも正蔵は若返り、もじもじとサヨを見つめ、そしてサヨの視界に映ったならおずおずと手を上げ、また団子を注文した。

 それを繰り返すこと何度目か。正蔵は突然泣き出した。始めはメソメソとやがて大きくワンワンと。


 どうしたことかと他の客に奇異な目で見られる中、サヨが駆け寄り、どうなさったのと訊ねる。

 正蔵は嬉しさと恥ずかしさと情けなさで何も言えず、赤子のようにただ泣き続けた。サヨが隣に座り、その身を寄せると正蔵は肩のあたりにそっと頭を寄せ、また泣いた。何がそんなに悲しいの? と訊かれるとその声の優しさにまた涙が出た。


 ぼくはなにがかなしいかわからないけどかなしいんだ。


 正蔵は泣いた。泣いた。泣き腫らしてサヨの膝を枕にするとぐっすり眠った。

 見た夢は人生の大半暮らした領主の家ではなく故郷のボロ屋であった。


 しばらく経って目を覚ました正蔵は、サヨに粛々とした態度で礼を言い、代金を置くと領主の家に帰った。

 その時も歩いている間もその後、女中たちに給与や今後の整理をする間も、元の翁の顔であった。

 やがて清算が終わり、がらんとした家の中、一人眠る正蔵の心はとても穏やかであり、そのまま旅立った。

 行き先は多分、母のところ。凛太朗たちも自分の母親のところにいる。正蔵はそう思った。

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