美食亭でのお仕事②
美食亭でのお仕事②
「おーいドグラス、今日もいいのが釣れたぞ」
お店の扉が乱雑に開かれて、ドグラスに勝るとも劣らないガタイのいい男が入ってきて、エリスは小さく飛び上がった。オレンジがかった茶髪のその男は、テラテラ光る長靴に適当にズボンの裾を突っ込んだまま、アンネがピカピカに磨いた床にどすどすと足跡を作りながらドグラスに声をかけた。背負っていた生臭い袋をドグラスの鼻先にぐいっと押しつけて、それからカウンターの席に座り込んだ。
「ほらエリス、注文を聞いておいで」
「わ、私が!?」
「大丈夫、あの人、うちに魚を仕入れてくれる常連さんだからさ」
アンネに背中を押され、エリスはおそるおそるその男に話しかけようとして、逆に向こうから話しかけられてしまった。
「おおっと、こんな可愛いウエイター、いつの間に雇ったんだよドグラス。すげえべっぴんさんじゃねえか」
「えっ、あ、あの、注文は……」
「ああ、ドグラスに任せる。川は冷えてたからな、あったかいものならなんでもいいよ。ところでお嬢ちゃん、名前は?」
男がそう言ったのを聞いて、ドグラスは黙って料理を始めていた。エリスはそっちが見たかったのだが、男にぐいぐい迫られて戸惑っていた。入ってきた瞬間の粗暴な仕草に気を取られていたが、よく見ると男は割と若い方だ。少なくとも、ドグラスやアンネよりはずっと年下らしい。エリスが答えようとしたところで、背後で見守っていたアンネが呆れたようにため息をついた。
「あんたねえ、自分から名乗んなさい」
「おっとすまねえ。俺はイェンス。この村の漁師だ」
よろしく、と差し出された手をエリスは握り返した。力強い手には細かい傷がたくさんあり、エリスは村の狩人たちのことを思い出して、少し懐かしく思った。
「エリス、です。昨日からこのお店にお世話になってます」
「この子、あの伝説の村から一人で出てきたんだってさ」
「そりゃすごい。つーか実在したのか」
イェンスは目を丸くしながら、ドグラスに差し出された飲み物を受け取ってぐいっと一気に飲み干していた。エリスは、やっぱり自分の村は誰も知らないか、知っていても存在しないと思われるくらいの遠い場所であることを痛感していた。昨日の二人の反応だけでなく、自分とそんなに大きく年齢が離れていないであろうイェンスすらそんな反応をするということは、今後会う人全員にびっくりされるかもしれない……とちょっとだけ寂しくなっていた。
「ここの常識と、村の常識がかなり違うようで、お二人にはご迷惑ばかりで……」
「はは、そうそう、昨日食事のお代ってうさぎの毛皮を出された時はあたしも驚いちまったよ」
通貨というものの存在を教えてもらった今日のエリスからすれば、昨日のことはもう思い出したくないくらい恥ずかしい記憶だったけれど、イェンスは少しだけ笑ってから、エリスの方をじっくりと見つめていた。
「うさぎの毛皮! 自分で狩ったのか?」
「はい! 村の人はみんな、自分の半分より小さい生き物は自分で狩れるように練習するので!」
「はあー、可愛い見た目に反して、案外ワイルドなんだなエリスは。そのうち一緒に漁に行こうぜ」
村から出てきて、初めて自分のできることを認めてもらった気がして、エリスはぱっと明るい笑みを浮かべた。イェンスは少し頬を赤くしてエリスを漁に誘ってくれた。エリスにとっては経験のないことだった。エリスのいた村は、森の奥にあったから、野生の動物はたくさんいたけれど、魚が多くいる川というものはなかった。水は普段は村にひとつだけある井戸から毎朝汲んで使っていたから、川に魚を取りに行ったことはない。新しい食材の狩り方に出会えるかも! とエリスはますます目を輝かせた。
「いいんですか! あっ、でも、お店が」
「そのうち休みもあげるから、その時にでも行っておいで」
アンネがにやにやと笑みを浮かべながら言うのにエリスは首を傾げつつ、でもいずれもらえるお休みというものがとても楽しみになった。そんな話をしているうちに、いい匂いがしてきて、エリスがはっとキッチンの方を振り返ると、ドグラスが深く頷いた。料理ができあがったのだ。
「今日は豆のスープかあ」
「おいしそう……!」
くつくつと煮られたスープからは、とびきりいい香りがした。細かく細かく、原型がわからないほどに刻まれて煮込まれた食材が黄色いスープの中で一つになっていて、スープ皿の真ん中にはカリカリに焼かれた塩漬け肉が美しく散らしてあり、それをぐるりと囲うように香草も散らしてある。
「エリスも食うか?」
「いいんですか?」
「イェンスがいいなら、いいんじゃないか」
アンネに後押しされて、エリスは口を開けてイェンスがスープを分けてくれるのを待った。村ではいつもそうしていたから、何の抵抗もない。イェンスは首まで真っ赤になって、スプーンに掬ったスープを一口分エリスに分けて、大慌てでドグラスに替えのスプーンを頼んでいたけれど、エリスはそれどころではなかった。
まず最初に野菜と豊かな豆の風味が口の中に広がって、そこの中に塩漬け肉の熟成された旨みが溶け出してきている。香草の香りはスープの味全体をまとめるいいアクセントになっていて、シンプルながら何度でも食べたくなるような奥行きのある味わいになっていた。
「おいしい!」
エリスは今回も頬を手で押さえながら叫んだ。村ではこんな風に素材がわからなくなるほど細かく刻まれた料理なんて食べたことがなかった。もったりとしたスープの後味が、また幸福感をもたらす。
「この野菜の香りがとってもいい! 昨日のスープとは違いますよね、何を使ってるんですか? あと村のお肉より塩漬け肉が臭みが少なくて旨みが深いの! すごく不思議で!」
「ええっと、エリスさん?」
はしゃぐエリスの反応に、イェンスは少し戸惑っていた。お腹が空いているのかと思って少し分け与えたらこうまで喜んで早口でドグラスに詰め寄っているのだから当然だ。
「エリス、料理の修行は店を閉じてからだよ」
「あっ、ごめんなさい。私ったらつい」
「しかしドグラスの飯は美味いよなあ。昔アウメリンコの街のでかい食堂で修行してたって噂、ほんと?」
ドグラスははしゃぐエリスを穏やかに眺めていたが、イェンスに聞かれて静かに頷いた。
「レストラン、だ。五年ほど修行した」
エリスは初めて聞く言葉になんだかドキドキした。レストラン。村では一度も聞いたことがない。あの旅人が、もしかしたら言っていたかもしれない。この食堂よりも大きいとなると、エリスのいた村の集会所よりも大きいかもしれない、そんなことを思っていると、興味津々なのを見透かしたようにドグラスがふっと笑った。
「その話は、いずれ。イェンス、時間は大丈夫か」
「いっけね、ありがとドグラス! エリス、またな!」
「明日もイキのいいやつを頼むよ!」
「任せろ!」
イェンスは食べきっていなかったパンをポケットに突っ込んで、つむじ風のように美食亭を去っていった。朝一番のお客様は随分賑やかだったな、と思いながら、エリスは皿を下げていた。
「イェンスは村の若者でも景気のいい方さ。朝はイェンスくらいしか来ないけど、昼になったらたくさん来るからね。覚悟はいいかい?」
「はい!」
賑わうお店、というのは、旅人の話の中だけで聞いて、ずっとどんなだろうかと想像していたもので、エリスには願ったり叶ったりだった。お店の混雑のピークの忙しさも知らずに、エリスは機嫌よくイェンスの使った食器をドグラスに言われるままに洗い始めたのだった。
更新を火曜土曜でやってみようかと思います。やってみて無理そうなら変更していく可能性あり。いつもありがとうございます。