美食亭でのお仕事①
どこからともなく、いい匂いがする。何かを焼いているような、でもお肉ではない香り。ふらふら、とエリスが歩いていくと、そこには——
「起きな! 朝だよ!」
はっとエリスが緑の目を開くと、そこには恰幅のいい中年女性——アンネがいた。エリスは一瞬ここはどこで私は何をしていたんだっけ、なんて思っていたけれど、アンネの顔を見た瞬間に夢の世界から現実へと戻ってきた。
「おはようございます! 何からやればいいですか?」
「おお、その意気だよ。まずは店の掃除さね。それよりも、」
アンネが手に持っていた袋を差し出す。エリスが袋の中を覗き込むと、そこには晴れ渡る空の色の服が入っていた。
「かわいい!」
「エプロンも一緒に入ってるから、着替えて降りておいで」
エリスはアンネが部屋から出た瞬間に袋の中から洋服を取り出して、さっと着替えた。シンプルな作りの空色のワンピースはエリスの銀髪をより美しく見せていた。もう一枚奥に入っていたエプロンは、エリスの瞳と同じ緑を淡くしたパステルカラーのギンガムチェックで、エリスはアンネがどうやってエプロンをつけていたか思い出しながらどうにか背後のリボンをきゅっと締めて、意気揚々と階段を駆け降りていった。
「うん、よく似合ってるね」
「ああ」
アンネもドグラスも深く頷いて、エリスをじっと見ていた。今まで村で狩った生き物たちから取った毛や皮でできた服ばかり着ていたエリスにはなんだかその視線がくすぐったく、エリスは照れながらその場でくるりと回ってみせた。
「すごく可愛いです、気に入りました!」
「うちにあった古いやつだけどね。気に入ってくれたなら何より」
「……掃除」
盛り上がるアンネとエリスを宥めるようにドグラスが呟いたのを聞いて、アンネは慌ててモップを持ってきた。エリスには雑巾を一枚渡してよいしょ、と言いながら服の袖を捲り上げた。
「エリス! あんたは机の上をピカピカに磨いておくれ。あたしは床をやるから。終わったらドグラスに聞いて、洗い終わってない昨日の皿をどうにかすること」
「はい!」
アンネがガシガシと床をモップで擦っている横で、エリスはひとつひとつのテーブルをしっかりと磨いていった。十ほどあるテーブルと、四人ほど座れるカウンター。昨日はあんなに賑わっていたお店が、今はまだしんと静まり返っている。エリスは、こんな空気もいいなあ、と思いながら、昨日のお客さんがこぼしたらしい油汚れをぎゅぎゅっと拭いていた。
全部丁寧に拭くと、あっという間に時間が過ぎていた。ぐう、と腹が鳴ったのに気がついてエリスがはっと顔を上げると、あの強面のドグラスが、ちょいちょい、と手招きをしていた。
「朝のまかないだよ」
「まかない?」
「従業員用の飯だ」
ドグラスがエリスに手渡したのは、簡単なサンドイッチだった。昨日の残りの魚を軽く焼いてほぐした身を卵で閉じたものを、炙ったパンで挟んだシンプルなものだったけれど、もう腹ペコだったエリスには素晴らしいごちそうに見えた。
「いただきます!」
目を輝かせて食べるエリスをドグラスは満足そうに見ていた。なんでも喜んで食べるエリスは、特に食べている時にその美貌が特段輝いていた。感動にぴんと伸びた背筋と一緒にふわりと跳ね上がる銀髪に、きらきら輝く翡翠の瞳。蕩けそうなほどに幸せそうに緩んだ表情でも、その可憐な容姿は微塵も損なわれず、むしろ見ている者の食欲を煽る。
「おいしい!」
「お、今日は朝ごはんが随分早いね」
「腹が鳴っていた」
「はは、エリスは食いしん坊だね」
「ふぁい! 食べるのはひふひふぇす!」
ガツガツと食べながらにっこり笑うエリスに中年夫婦は顔を見合わせて笑顔になった。三人で食器を洗い終わった頃に、いよいよ美食亭に本日最初の来客がやってきた。