山の麓の村がもう別の文化圏でした①
エリスがご機嫌で山を下ること三日。野宿を挟みながら、旅人があのとき息も絶え絶えだった理由が少しわかった気がしてげんなりする頃に、家の屋根がたくさん並んでいるのが見えてきた。
「麓の村だ!」
足取りは軽くなるけれど、町の屋根はまだまだ米粒ほどの大きさで、これからもう一つ山を越えなければたどり着かない。自分の住んでいた場所がいかに田舎だったのか思い知って、エリスはため息をついた。
「こんな都会に行って、私、浮かないかしら……」
これでも一番きれいな服を選んできた。皮をなめして作った茶色いワンピースは、動きやすくてかわいい、とエリスは思っている。中に着ている長袖のシャツだって、今まで自分が作った中では一番のお気に入りだ。エリスの作る服はいつも多くの食材と交換してもらえたせいで、エリスは自分の服が相当原始的である、ということを知らずにいた。
春とはいえ、まだ冷え込む。名前もない小さな村では、こんなときは飼っている家畜たちの毛をたっぷり詰め込んだ布団にくるまって寝ていたけれど、野宿ではそうもいかない。エリスは起こした火にあたりながら、はあ、と自分の手に息を吐きかけた。
「早くベッドで寝たいなあ……」
うとうとしていると、エリスのそばに野ウサギが現れた。穏やかにうとうとしているエリスに油断しているのだろう。エリスが手を伸ばせば届くところまで通りかかった。その瞬間に。
「よいしょ!」
エリスは手元に忍ばせていたナイフをウサギに突き立てて、そのままぐっと力を入れた。暴れていたウサギが少しずつ大人しくなるのを見守って、エリスは一度ナイフを抜くと、そのまま丁寧にウサギの皮を剝ぎ始めた。
「このあたりの動物、あんまり人間には会わないのかしら?」
あまりにも油断しきった姿は、地元の近くの村ではありえなかった。エリスは慣れた手つきでうさぎの皮を剥き終えると、そのまま木で作った串に刺して火にくべた。ここ数日野草ばかり食べていたから久しぶりのお肉で、エリスはうきうきしながら鞄の中からハーブを取り出した。パリパリに焼いたウサギに、これをかけて食べるのは、ちょっとしたご馳走なのだ。
ぱちぱちと燃える火の中へ脂がしたたり落ちていく。手早く捌いた新鮮な肉は、香ばしくお腹の減る匂いがした。冷えた体があたたまるのと同時に、肉はいい具合に焼けていった。
「そろそろ頃合いね」
ぱらぱらとハーブを振りかけて、がぶりと豪快にかぶりつく。口の中に肉汁と旨味がじゅわりと広がって、エリスは満面の笑みを浮かべた。村では定番の味だけれど、お肉を食べると心がお腹いっぱいになる。エリスの母がよく言っていたことだ。
「これよりも美味しいものを食べられるなんて、夢みたい!」
遠くに見える街並みに、エリスは翠の瞳を輝かせた。いよいよ明日には街に着くと思うと、そわそわしてしまって寝つけそうにない。エリスはじっと星を数えて、眠くなるのを待っていた。
「すごい! 人がいっぱいいる……!」
ようやく辿り着いた街は人で賑わっていた。山の麓の村は、規模は大きくないけれど、林業が盛んだ。エリスはまだ知らないが、この村も大概田舎に位置しており、全く都会ではないのである。
「まずはご飯を食べたいわ!」
エリスは早速街の食堂を探し始めた。この旅の目的は、なんと言ってもおいしいものを食べることなのだ。エリスはくんくんとあたりの空気を思いっきり吸い込んで、何やら焼いている匂いのする方へと向かっていった。
エリスが辿り着いた先には、小さな一軒家があった。木製のぬくもりを感じる看板に『美食亭』と書いてある。次々と出入りするお客さんを見る限り、お手軽な大衆食堂のようだった。エリスはそっと店の中へと入っていった。
「いらっしゃい!」
恰幅のいい女性が出迎える。白髪混じりの茶髪を頭のてっぺんでお団子のようにまとめたその女性に案内されて、エリスはキッチンのよく見えるカウンター席に座った。
エリスはキッチンの中を見て思わず笑顔になった。見たこともない調理器具がたくさんある。村では、基本的にナイフ一本でできる料理が好まれていて、少し手が込んだものでも鍋くらいしか使わなかった。どんなものが出てくるんだろう、そう思いながら注文した。
「この店一番の美味しいものをください!」
おかみさんは少しだけ目を丸くして、待ってな、と豪快にニカッと笑ってキッチンの中にいる男の人に声をかけていた。きっとご馳走が出てくるに違いない。エリスはワクワクしてお尻を浮かせてキッチンの中を覗き込んだ。
男の人はおかみさんから受けた注文を聞くと、エリスに一度にっこりと笑いかけて、それから一匹の魚を取り出した。キラキラと輝く銀色の魚を、包丁で豪快に切って、それから平たくて丸い鍋の中に放り込んだ。一緒にいれた白い四角いものが溶けて、そこからふんわりと甘い香りがする。エリスはその香りにうっとりしながらできあがっていく料理を見ていた。魚の次は野菜をいくつか入れている。エリスは名前も知らないその野菜に火が通っていくのをじっと眺めていた。最初に入れた白っぽい野菜が半透明になる頃、平たい鍋から深さのある鍋に中身が移し替えられた。どういうことだろう、とエリスが思っていると、男の人は鍋に大量に水を入れ始めた。スープにするのか、と思ってエリスはじっと眺めていた。くつくつと煮えてくるに従って、いい匂いがまたしてくる。ぼこぼこと煮えている鍋に、エリスも知っているハーブが入れられて、最後に白い液体が注がれる。どう見てもおいしそうなスープができあがって、エリスが息を呑んでいると、一緒に丸い茶色い塊も渡された。
「パンと一緒に食べるとおいしいわよ」
おかみさんが目をきゅっと細める。大きくてちょっと怖い人かもしれない、なんて思っていたエリスの気持ちは、その笑顔とおいしい匂いにすっかり吹き飛んでいた。
「いただきます!」
大きな木製のスプーンに目一杯スープを掬って、エリスはぱくりと丸ごと口に含んだ。
「おいしい!」
一度炒められたことでほんのりと香ばしさのある魚と野菜の香りがふわりと口の中に広がって、その風味を甘みのあるスープが調和している。渡された茶色い塊を周りのお客さんを見て真似してちぎって、少しスープに浸して食べて、エリスはまた叫んだ。
「おいしい!」
さっきの甘めのスープに、カリッと焼けたパンが抜群に合う。サクサクした食感と、スープでくたっとなった食感が口の中で混ざり合うのも楽しい。こんなにいろいろな香りと食感のする食べ物は、エリスのいた村にはなかった。
食べるエリスの手は止まることを知らず、お皿が全部空っぽになるまでそう時間はかからなかった。村で躾けられた通りに、美味しい食事の材料と料理人への感謝の一礼をして、エリスはお店を出ようとした。
「ああお嬢ちゃん、お代は……」
「こちらのうさぎの皮でどうかしら?」
エリスがリュックから取り出した新鮮な毛皮に、ガタイのいい女将さんから、絹を裂くような悲鳴が響き渡ったのであった。