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「やっぱり明人がいないと寂しいな。」琥珀の横を歩いている瞬の口から零れ落ちた。
「そうだな。」琥珀は頭の中で熱にうなされている高橋明人を想像しながら答える。
明人と琥珀は高校1年の時に同じクラスであり、最初に隣の席でもあったことからあまり時間をかけずに友達という関係を築き上げた。もちろん、明人と琥珀の相性が良かったのも一理ではある。
友人というものはその場しのぎの関係だと琥珀は思っていた。実際小学校の友達で今も連絡を取り続けている者は一人もいなかった。
そうやって、現在属しているコミュニティを円滑に進めるための一つの道具として琥珀はこれまでの友人のこと見てきていたが、明人は別者であった。
ピンポンがなり、玄関を開けると誰もいず、リビングに戻るといつの間にか座っている。そんな様に彼はいつの間にか琥珀の心の中に住み着いていた。
琥珀は明人と話している時の自分がとても好きであった。嘘偽りのない自分がそこにいて、何も気にすることなく、笑い、怒り、泣き、楽しく過ごすことができる。
彼とはこの先も連絡を取り合っていくだろうと心の片隅で感じていた。
もちろんこの事は瞬にも言えることであった。
琥珀は15年間会うことの出来なかった親友に高校1年間で2人も会うことができたのである。
「あ、琥珀見てみろよ。あの路地に入っていっ た奴らがいるぞ。」瞬はバタバタと琥珀の肩を叩き、その方向を見るよう促す。
「ほんとだな。1年かな。2年生では見たことない顔だ。」
「あいつら絶対あの緑心公園に行くんだよ。」興奮しているのか鼻息荒く瞬が言った。
緑心公園というのは、琥珀たちの通う高校の七不思議の1つである伝説の木がある公園である。なんでもその木の下で告白すると永遠に一緒にいられるらしい。
「いいな~。羨ましいな。」瞬は恍惚の目で彼らを見ている。「あともう少し身長高かったらなぁ。」
お前小さいもんなと琥珀が言うと、ドロップキックが飛んできた。
「まぁ、そのうちできるさ。」琥珀はなだめるような声でそう言った。
駅のホームに着くと、あまり人がいなかったので琥珀はほっと安堵の息をついた。
何人か自分達と同じ服を着た人がいたのでジロジロと見ていると、一番後方にカップルがいることに気づく。
「あっ。」琥珀は思わず声に出てしまい、焦ったが、横にいる瞬にはバレなかった。
胸がズキッと痛むのを琥珀は感じた。
「あれ?永田じゃん。」
琥珀はカップルに夢中で、瞬に言われるまでそこに永田圭がいることに気が付かなかった。
永田圭はホームに等間隔に並べられている4つの木製のベンチの手前から2番目に腰掛けていた。
猫背になりながら、なにかを熱心に読んでいる。
しかし、彼の猫背は周りのそれと違い、とても美しく、その姿勢こそが正解だと言わんばかりのものであった。
相変わらず綺麗だな。と琥珀は思った。
永田圭の静が琥珀は堪らなく好きである。彼が何かに集中しているとき、それはまるで有名美術館にある絵画のように魅力的なものであり、琥珀は目を離すことができなくなる。もしも目を離そうものなら次の瞬間には崩れてしまいそうな、そんな儚さも彼の静にはあった。
もともと顔が良い事と圭の動いている時の頼りなさげな様子がそれを魅力的にさせるのかもしれない。琥珀はそう思っている。
「なーに読んでんの?」瞬が圭に肩を組みに行く。
圭は一瞬ビクついたが、瞬だと気付き、これは英語のテキストだと説明した。
「君たちも同じ列車なんだね。」圭は残念そうとも嬉しそうとも見える顔でそう言った。
「うん。あと何分で来るんだ?」琥珀がそう言った瞬間に空気が軋むような音が聞こえた。
電車はキーッという不快な高音を出しながら止まり、プシューっと未来から何かが来たような音とともに扉を開けた。
瞬と圭はそそくさと乗る。琥珀も後に続き、乗ろうとするが、一瞬先程のカップルの方に目をやる。すると女子の方と目が合い、ぱっと逸らした。
琥珀は心臓に手を置くと捕らえられた生き物のように暴れ狂っていた。
「僕、黒川さんの事が好きなんだ。」隣に座っていた永田圭が突然言い放つ。
「「え」」琥珀と瞬は聞き返す。
「だから!僕は黒川さんの事が好きなんだ!」
いつもは弱々しい声で話す圭が今までに聞いたことのない大きな声で言ったので琥珀は驚く。周りに乗っている疲れきったサラリーマンもビックリしていた。
「んで、付き合いたいわけ?」瞬が聞いた。
コクンと圭は頷いた。先程の気迫はどこに行ったのやら。いつもの圭に戻っていた。
はぁと瞬がため息をつく。
「悪いことは言わん。やめとけ。」
圭はなんでとは聞かず
、瞬をじっと見 ている。
「永田が思っているよりもあの子はモテる。顔は中の上、スタイルは上の下、性格よし、運動神経よし、学力も素晴らしい。これがモテないわけがない。」
圭がしょぼけて下を向く。追い討ちをかけるように瞬が続ける。
「対して、お前は陰気くさいし、声小さいし、体育の授業を見る限り運動神経も悪い。知り合ってまだ2ヶ月。だいたいその目に掛かってる前髪をどうにかしなさい!お母さん恥ずかしい!」瞬はノリに乗って、母親になりきり圭を叱りつける。
「でも…付き合いたいんだ。い、今まで好きになった人なんて1度もいなかったし。きっと、うん、運命なんだよ。」恥ずかしいのか頬は紅くなっていたが、目は覚悟を決めたようにしっかりとこちらを見ていた。
ガタンという音がして、外が真っ暗になる。トンネルに入ったのだ。瞬は窓に写った自分の姿をチラッと見て、髪を整える。
「それを僕たちに言ってどうするんだよ。」琥珀は聞いた。
「協力してもらいたいんだ。君たちのが方僕より何倍も仲が良いでしょ?」
「別に仲良くはないよ。彼女は誰に対してもあんな感じだよ。」琥珀はあっさりとそう言った。
「んじゃ、まずは俺達よりも黒川さんと仲良くなんないとな。」瞬はまたしても意地悪そうなにやけ顔になっていた。
「琥珀、お前黒川さんの連絡先持ってるか?」
「いや、持ってないけど。」
「俺も持っていない。つまり、連絡先を追加すれば、それすなわち!俺達よりも仲がよいということだ。という事で連絡先を追加しよう。」
圭はスマートフォンを即座に抱え込んだが、瞬が脇腹ををくすぐり、スマートフォンはあっという間に瞬の手の中に入る。
「ほれ、これが黒川さんの連絡先だ。ここに追加っていう文字があるだろ。ここから先は永田が押せ。」瞬はそう言うと圭にスマートフォンを返した。
圭はしばらく、じっとスマートフォンとにらめっこをしていたが、覚悟を決めたのか、右手の親指を追加の文字に近づけ始めた。その指は酷く震えている。
残り、数ミリというところで圭は指を止め、またにらめっこしていたが、次の瞬間ガタンと電車が揺れ、親指は追加という文字を押してしまった。
「あーっ!」3人は辺り構わぬ大きな声を出す。
「どうしよ。どうしよ。どうしよ。」圭は琥珀と瞬を交互に見ながら、指示を仰ぐ。顔はほとんど真っ青であった。
「いいじゃん!付き合う第一歩の友達になる第一歩を踏めたってことで。」瞬は満面の笑みを浮かべながらそう言った。
面倒なことになったな。琥珀はそう心で呟く。
市街地中央に位置する駅に着くと、瞬と圭は電車から降りた。他の人々もずらずらと降りていく。同じ車両に乗っているのは、窓に頭をもたれかけながらぐっすりと寝ているバーコードハゲのおじさんだけであった。少し季節外れのハワイアンなシャツと短パンを着ている。
二人は手を降りながら、階段を登っていく。琥珀も二人が見えなくなるまでは手を降り続けた。
二人が消えると琥珀は横に置いていたリュックサックからスマートフォンとイヤホンを取り出し、音楽を聴き始める。
琥珀は音楽を聴くことが唯一の趣味である。音楽を聴いていれば、スーパーヒーローになった自分や芸能人として成功した自分などいろんな妄想が膨らんでいく。それがストレス発散になった。
今日も琥珀は家の最寄り駅まで着くまで妄想を堪能する。
海が見えてきたな。琥珀はそろそろかと降りる準備を始める。
琥珀たちが通学に使うこの路線は山から海へと下っていくので、自然をめいいっぱい堪能することができる。そのため乗客の中には観光客と思われる人もたまにいるのだ。
先程のおじさんも観光客だったらしく、海が見え始めると歓声をあげながら写真を撮っている。
駅に着く直前に琥珀は自分が切符をどこにしまったか分からなくなり、慌ててリュックサックの中を探し始めた。
扉が開いても切符が見当たらなく、ヤバいっと思っていたときに、胸ポケットからポロっと切符が零れ落ちた。
まったく、と自分の太ももを思いっきり叩く。自分への罰だ。
ギリギリ扉が閉まる前に駅に降りることができた。
ふぅ~と一息つき、改札の方へ歩きだす。すると前にカップルの女子の方が歩いているのが分かった。
鼓動が速くなるのが分かり、琥珀はそれを静めようと止まり、深呼吸をして再び歩きだした。
いつ話掛けよう、突然話しかけたら気持ち悪いよな、話すだけだったら男友達とは普通にするだろ、など無数の肯定と否定を頭に抱えながら、琥珀は少しずつ彼女に近づく。
十分近づくころには改札を通り、駅を出ていた。
よし。琥珀は話しかける決心をする。
「そこのお嬢さん。一人で帰ったら危ないよ。」いたずら心に声を紳士のように低くして、呼び掛けた。
女の子はぱっと振り向き、髪からシャンプーのいい匂いがする。
「ビックリした!山中君か。」笑いながらそう言う。
「新山さん一緒に帰ろうよ。」赤い火照りを頬に浮かべながら琥珀はそう聞いた。
新山唯は電車に揺られながら窓の外をじっと見ている。
外はかなりの大雨であり、雨粒は彼女に襲いかかろうと突進してきては哀れにも電車の窓に阻まれ、下に落ちていく。
「次は~駅、~駅。足元にご注意して降りてください。」
そのアナウンスを聞き、唯は窓の枠に掛けていた傘を握る。これは彼女の勝負傘なので忘れるわけにはいかないのだ。
唯は自分が傘におしゃれさ求め出した日を鮮明に覚えている。それまでは傘というものはただ雨や風を凌ぐための道具としか思っていなかったので、ビニール傘や無地の傘を使っていた。
その日は学校から帰る時間まで全く雨の降る気配のない良い天気であった。
いつものように家の最寄りの駅から降りると、湿っぽい匂いがして、上を見上げるといつもよりも近く、重苦しい雲が空を覆っていた。
そういえば夕方から雨って言ってたっけ。唯は天気予報を思い出し、念のために持ってきた折り畳みの傘を背負っていたリュックサックか取り出す。
「そこのお嬢さん。一人で帰ったら危ないよ。」
唯はドキッとした。声色を変えているが間違いなくこれはあの人の声だ。顔が紅くなるのを防ぐためにミミズのことを想像しながら後ろを振り返る。
「ビックリした!山中君か。」唯は平然を装い、そう答えた。
「一緒に帰ろうよ。」そう言いながら琥珀が横に並び、二人は歩き始めた。
「ちゃんと勉強してる? 」琥珀が聞いた。
「うーん。まぁまぁかな。」
「そっか。僕は全然してないや。」
「嘘つき。そーやって前も言ってたけど、学年1位だったじゃん!」唯は頬を膨らませながらそう言った。
「いや、嘘じゃないよ!あんまり家で勉強はやらないんだ。でも、授業中はかなり集中してるからそれで覚えてるんだと思うよ。」
「へぇ!そうなんだ。私は授業中他の事ばっかり考えてるな。お弁当の事とか、好きなアイドルの事とか。あと」山中くんの事とかと言いそうになり、慌てて口を紡ぐ。
「あと?」琥珀は疑問に思ったのかそう聞いてきた。
「あと、弁当の事とか。」
「食いしん坊やな!」琥珀は大笑いしながら言った。
唯は若干恥ずかしくなったが、彼が笑ってくれたのが嬉しく笑顔になる。
幸せな時間だな。そう思いながら琥珀と他愛もない話していると所々コンクリートの色が濃くなっていることに気づく。
「雨かな。」唯は手のひらを上に向け、雨が降っているか確認する。
ポツポツと手に雨粒が当たる。
「まじか!ヤバいな。今日傘持ってきてない。
」琥珀は上を向きながらそう言った。
「私持ってきたけど、一緒に入る?」唯は何も考えずに言ったが、次の瞬間に後悔する。
琥珀は呆気にとられた顔をする。
「いや、濡れると風邪引くしさ。」唯は平然と取り繕う。
「でも悪いよ。新山さん彼氏いるし、誰かに見られたら彼氏さんショック受けるよ。」
心臓が誰かに握られたように痛んだ。ショックを受けてるのは私の方だ。
唯は傘を開き、「私の彼氏はそんな事気にしないよ。」と言い、琥珀を傘の中に招いた。
戸惑いながらも琥珀は入ってきた。
鼓動が今まで生きてきた中で一番速くなっている。彼の体温も呼吸もすぐそばに感じられる。唯の心は無限に満たされていく。
だが、唯はその時にふと傘がビニールであることが堪らなく嫌になった。
ロマンチックの欠片もないな。唯はその日から
傘をおしゃれにすることに決めた。
唯は電車から降りると改札を出て傘を開いた。黒と赤のチェックであり、派手すぎず、質素すぎない。傘専門店でひとめぼれしたものである。
学校までの坂を登っていく。雨がかなり降っていて、道路が小さい川のようになっていた。
道路端に等間隔に植えられた街路樹の葉が落ちて、流されていく。
それを見て唯は私のようだなと思った。
唯はこれまでの人生で人の意見に流されることが多々あった。習い事も部活も誰かに勧められて入ったものばかりだし、付き合った人も友達に言われるがままくっついた人だけであった。
彼女が自分で選んだことといえば、高校と2年生になるときの文系と理系の選択、そして今ある場所に向かっていることである。
その選択のすべてに山中琥珀の姿がある。それほどまでに唯は彼を愛しているのだ。
唯は路地に入る。琥珀がそこにいる情報は何ひとつないが、彼女には確証があった。
絶対にここにいる。唯はそう思いながら緑心公園に足を踏み入れる。
「いた。」唯の声はすぐさま雨にかき消される。
琥珀は傘も差さずに何かを夢中に見ていた。
一歩ずつゆっくりと近づいていく。そうしなければ、彼が逃げてしまうように感じた。
十分近づいたところで唯は傘の中の入れた。
「素敵な傘だ。」琥珀はいつから唯の存在に気づいていたのか、彼女の方を振り向きもせずに言った。
「葬式も出ないでこんなところで何をしてるの?」
「いや、気が付いたらここにいて。あいつが呼んだのかな。」
「そっか。」
沈黙の中雨の音だけが鮮明に聞こえる。
「あの日、あいつが告白するって聞いて心配で見に行ったんだ。そしたら、案の定フラれてて。それで励ましたんだ。大丈夫、これからいくらでもチャンスはあるとか。でも、あいつ急に怒りだして、喧嘩になって僕は帰ろうと思って駅まで行って電車待ってたんだ。けど、やっぱり心配だったから見に行ったら、首吊ってて。」琥珀は泣きそうな声で話し始めた。唯は彼の手を握りしめる。
「思い出したんだ。あいつの細い腕に似ている木。白樺って名前だった。」
「うん。」
「そしてもうひとつ思い出した。あの日ここにヒールの足跡があったんだ。」