高校2年生
雨が降る公園に少年は佇む。猛烈な勢いで降る雨は彼の足跡をあっという間に消してしまい、彼の存在さえまでもかき消してしまいそうである。
そんな中で彼は視ている。決して消えることのない過去の足跡を。
山中琥珀は頬杖をつきながら、黒板をぼんやりと眺めながら覚醒と睡眠の間を行き来していた。放課後ということもあってか、周りはガヤガヤと騒がしい。そんな中でも寝ることができるのは琥珀の数少ない特技のひとつである。
ふぁ~とあくびをして、もう一度睡眠に入ろうとした瞬間、琥珀の目の前にローマ彫刻のように濃い顔が現れた。琥珀の高校一年からの友人である伊藤瞬である。
1年の時琥珀と瞬は同じクラスではなかったが、琥珀と同じクラスであり瞬と同じテニス部であった渡辺明人を通じて知り合った。
瞬はニコニコしながらこちらをじっと見ている。
「どうしたんだよ。」琥珀はぶっきらぼうに言った。眠りの邪魔をされて機嫌が悪いのだ。
「いやいや、眠いのかーと思ってな。そういえば、今日は社長出勤じゃなかったもんな。」
その顔からは予想もつかないような高い声で瞬は答える。
まったく意地悪そうなにやけ顔だなと琥珀は思う。
社長出勤とは遅刻のことである。1年の3分の1を悪びれもなく遅刻する琥珀の様子を皮肉る様に瞬が付けたのだ。
「まぁね。2日、いや土日も合わせたら4日ぶりに朝補修から出席した。」
偉いねと撫でようとする瞬の腕を琥珀は振り払う。
「んで、何時の電車で帰る?」
そう聞かれて琥珀は今日からテスト準備期間だということを思い出す。
「明人は?」
「今日は風邪ひいて休みだってさ。土日どしゃ降りの雨だったのにバカ顧問が外で部活の練習させたからだよ。」
「そっか。じゃあ、5時35分のでいいんじやわないか。」琥珀は時計に目をやりながら言った。
「おけ。ってことは5時くらいに学校を出るということで。」瞬はドラマでよく観る探偵のように額に手を当てて言った後自分の席に戻っていった。
琥珀は大きく伸びをする。そろそろ帰りの準備しないとな。そう思いながらもまだ頭はぼんやりとしていた。
ふと今度は廊下側の窓を見る。そこには学年で男子人気ナンバー2と言われる女子がいた。
「美保!はやく!次の電車乗り遅れちゃうよ!」彼女は窓から身を乗り出して黒板にそう叫んでいる。
なんて名前だったっけ。彼女を見つめながら琥珀は思い出そうと眉間にしわを寄せるが、結局思い出せない。
「ちょっと待って。今日は日直なの。」黒板を掃除していた黒川美保が大声で答える。
かなり焦っているのか後ろで長く結んだポニーテールを揺らしながら、黒板の端から端を走って往復している。しかし、黒板は綺麗になるばかりか先程よりも白くなっている。
そこに、2年から転校してきた永田圭が駆け寄る。美保に何か話しかけているようだが、声が小さく琥珀には聞こえなかった。美保は圭に手を合わせ、申し訳なさそうに礼をし、琥珀の隣の席に急ぎ足でやってくる。
「帰るの?」琥珀は少し気だるそうな声で聞く。
「うん、圭くんが黒板掃除変わってくれるって言ってくれてさ。」美保は教科書を学生鞄にぶっきらぼうに詰め込みながら答える。
すべて詰め込み終わった美保は琥珀の方に向く。次の瞬間、琥珀の頭をつかみ、顔を近づけた。
「明日も遅刻せずに学校に来るんだよ」ニヒルな笑みを浮かべながら美保は言う。
多分ねと返した琥珀に大きくため息をつき、美保は廊下へと歩いていった。
ああいう所は黒川さんの魅力でもあり、欠点でもあるな。ジンジンと痛む頭をさすりながら、琥珀はそう思った。
黒川美保は琥珀にとって、学校で数少ないちゃんと目をみて話せる女子である。それは二人が1年の時から同じクラスだったから…とかではなく、彼女自身の性格がそういうものだからだ。男女平等に誰にでも気兼ねなく話せるし、変に媚びたりしない。さっぱりとした性格。琥珀は彼女のその性格、立ち居振舞いが好きだし、羨ましくもあるが、そうでもない人たちもいる。男子と壁をなくして話していれば、ある一定の女子からは嫌われることがある。
彼女自身は悪いことなどひとつもしていないのに、友達が周りからいなくっていく。そしてそれは彼女にとって人格を否定されたように感じ、自己嫌悪に陥る。引きこもり誰にも助けを求められず…琥珀は美保が首を吊っている映像が頭に流れ、ゾクッした。
黒川さんにはそんなことはないと思うけど、今でもどこかではそんな人がいるんだろうな。
琥珀は考えに耽りながらまたしても黒板を眺める。そこには白く細長い手が揺れていた。
昔、家族で長野に行った時に見た木に似ているな。雪が溶けて染み込んだかのように白く細長い木。名前は何だったっけ。
琥珀は眉間にシワを寄せて考えるが思い出せない。まぁいっかと重い腰を持ち上げると、黒板の方に向かう。
「手伝うよ。」琥珀は永田圭に話しかける。
「ありがとう。」周りの騒音にすぐにかき消されてしまいそうな声をしっかりと掴みとり、いいよと返した。
新山唯は正面玄関から正門を見ていた。大勢の生徒がなだれるように門を通っていく姿に既視感を覚える。はっとそれがよくテレビのニュースでみる通勤ラッシュの改札口であることに気づく。前に制鞄持っていない生徒が門番の先生に首根っこを捕まれて、連れていかれたのを思いだし、制鞄が改札券だろうなと思った。
自分の靴棚から革靴をだし、床に落とすとコトンと乾いた高い音が出る。唯はこの音がたまらなく好きであった。ミュージカルの歌う部分が始まるときの何か楽しいことが始まるようなそんな感じがする。その音を聞くだけでちょっと幸せになる。
革靴をはこうとすると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「唯じゃん。今帰り?」
後ろを振り返ると黒川美保がいた。
「うん。美保も?」
「そうだよ。ねぇ、美保。もしかして彼氏と?」眉を上げて聞いてくる。いつでも大きい目がいつもよりも大きくなって吸い込まれそうだ。
「まぁね。」唯は照れ臭そうに答える。
「ラブラブだねぇ。いいなー。」美保はにやけながら言う。そっちはと聞こうとした瞬間、美保を呼ぶ声が聞こえ、美保はじゃあねといい、急ぎ足で玄関から出ていく。
美保の横を歩くのは彼女と同じ陸上部の山崎みどりである。唯がぼぉっと彼女を見ていると、彼女がこちらを振り返った。その瞬間唯は鳥肌がたち、すぐさま彼女から目を反らした。
新山唯は自分が容姿端麗であるということを自覚している。別に毎日鏡の中の自分を見て私可愛いなどと思っているわけではない。むしろ彼女自身は自分の顔が好きではない。左右均等で目立った特徴のない面白味のない顔だといつも感じていた。(スタイルに関してはまぁまぁ自負している)しかし、小学校から中学校までに20回以上男子に告白され、クラス替えの度に女子から囲まれて友達になろうと言われることがあれば、誰もが自分は他人から見れば魅力的な容姿であると分かるであろう。
「唯、行くよ。」どっしりと低いが少し掠れている声が聞こえた。
靴を履き終えると彼女はその声の方に小走りで駆け寄る。
声の主は唯の彼氏でサッカー部のエースである小山田潤だ。
ごめんごめんと唯が言うといいよと笑って潤は答えた。
二人はゆっくりと歩きだす。
唯の通う高校は市街地からは遠く離れた場所にあり、ほとんどの人が電車かスクールバスで登校している。
スクールバスで通う人は学校にそのままバスが停まるからいいのだが、電車で通うものは最寄りの駅に着くと200メートル程のくねくねと曲がった急傾斜の坂を登らなければならない。
思ったよりもとてもきつく、夏になると学校に着くまでに汗でびっしょりと制服が濡れる。女子たちは教室に入ると毎回のようにそのことを愚痴っている。
帰りは帰りで傾斜が急なので、膝が痛くなる。
唯は今も膝をあまり痛めないように足を気にしながら歩いている。
先程から潤との会話は全くない。そのせいか周りに空気がないのかと思うくらい息苦しい。
痺れを切らした唯は夕日を指しながらこの前物理の授業で習ったことを話し出す。
「今日夕日綺麗だよね。」
「うん。すごい綺麗だね。…でも、君のほ」
「でも、夕日が綺麗な時ってね、空気は汚いんだっ
て。この前物理で習ったの。なんか凄いショック
だったんだ。見た目だけで判断するのって駄目な
んだなって思った。」唯は沈みそうな夕日を見ながらそう言った。
潤はなにか返事をしたのかもしれないが、唯には聞こえていなかった。頭の中がみどりの自分を見る冷たい瞳のことでいっぱいであったからだ。
人は見かけによらない。多分あの子も。潤君を奪ったと思っているに違いない。確か彼女は元カノだったはず。今までこんなことは何回もあった。これが容姿がいいことの欠点だ。だけど、あの子の目線は他の子のそれよりもはるかに冷たく、怖い。もしかすると…。
「唯、唯。大丈夫?」肩を揺すられ、現実に戻ってくる。
「大丈夫だよ。」
いつの間にか駅の近くに来ていた。駅の中は高校の生徒たちでごった返し、駅員が必死に黄色い線までお下がりくださいと叫んでいる。
「次の電車に乗れるかな。」唯は独り言のように小さい声で言ったが、潤はどうだろうと答えた。
「次の次に乗ろうか。」唯は潤を見てそう言った。
潤はまじまじと見られて、少し照れたのか目線を外すように時計を確認した。
「次の電車は5時35分だね。」