第5話
千鶴のお願いを聞き入れたエルネストが退室し、それから半刻もしないうちに戻ってきた。
先ほどの普段着ではなく、騎士の服を身に着けた彼が告げた言葉を、千鶴は驚きの声で聞き返した。
「今夜、ですか?」
「はい。王がこちらにお伺いしたいと」
一国の王が都合をつけるのは大変だろうから、すぐ要望が叶えられるとは思っていなかった。
しかも、千鶴が行くのではなく、王がこの部屋に来るという。
「あの、さすがに一国の王にご足労いただくわけには……」
「王自らそうしたいとの仰せです。どうか、聞き入れていただけないでしょうか」
エルネストは無表情だと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。それは真面目な彼の望むところではないのかもしれないが。
(そんな悲しそうな目で見られたら断れないわ)
エルネストの口下手は相変わらずだが、目は口ほどに物を言う。
王自身がいいと言っているのだし、王に会いたいと言ったのは千鶴自身だ。折角約束を取り付けてくれたエルネストを労う意味でも、おとなしく従うことにする。
「分かりました。あの、図々しいお願いですが、できるだけ少人数でお越しいただけますか? 偉い方が大勢いると、その、緊張しますので」
「ありがとうございます。もちろん、そのつもりです。チヅル様をご不快にさせることがないよう配慮いたします」
明らかにほっとした顔つきになったエルネストが、自分の表情の変化に気づいた様子はない。
約束の時間までそう余裕があるわけではない。話を聞いた侍女たちは、面会に使う部屋を整えるために動き出した。
「それではチヅル様、お伺いする前に先触れを出します。よろしくお願いいたします」
「はい。あの、ひとついいですか? 今さらですけど、わたしは王様に会う時のマナーを知りません。それでも大丈夫なんでしょうか」
エルネストは一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐにそれを和らげて「問題ありません」と言った。
「でも、言葉遣いもそうですけど、常識だってきちんと知らないんです。服装だって豪華なものは苦手だし、テーブルマナーは正直言ってうろ覚えです。そういったことは全部、付け焼き刃なんです」
「先ほどお茶をご一緒させていただきましたが、おかしなところはございませんでした」
エルネストは貴族だ。いくらそれが性に合わないとはいえ、幼い頃から作法を叩き込まれている。千鶴の所作でおかしなところはなかったし、騎士である自分よりもよっぽど優雅に見えた。
そう口にしても、千鶴の表情が晴れることはない。
心配そうに瞳を揺らす彼女を励ますように、エルネストは今までにない柔らかな声で「チヅル様」と呼んだ。
一年間、一度も呼ばれることがなかった名前だ。
自分の名前を呼ばれただけなのに、千鶴にはそれが特別な響きを伴って聞こえた。
「チヅル様、ご安心ください。違う世界からいらっしゃったのですから、常識が違うのは当然です。あなたはこの国で最も尊い御方なのですから、王にかしこまる必要はないのです」
「わたしは、そんな身分じゃ」
「ええ。これも常識の違い、ですね。それに比べたらマナーや服装など、些細なことなのですよ」
千鶴の否定に軽く返したエルネスの手が、彼女の髪に飾られた花にそっと触れる。
「今のお召し物も、大変よくお似合いです。これ以上着飾ったら、王がチヅル様に見とれてお話しができなくなってしまいます。この可愛らしいお姿をわたし以外の男が見るのかと思うと、たとえそれが王であっても嫉妬してしまいますね」
エルネストからの予期せぬ美辞麗句に、千鶴は言葉を失った。
数秒見つめ合ったあと、「ありがとう、ございます」と途切れ途切れに礼を言うだけで精一杯だった。
一方のエルネストも、自身の口から出た言葉に内心驚いていた。
婦人への賛辞はマナーではあるが、挨拶のようなものでもある。形式的な賛辞を口にしたことは何度もあるが、具体的に述べたことは今まで一度もなかった。
それがどうだろう。
千鶴を見て、純粋に「可愛らしい」と思った。
シンプルだが上品なワンピースが似合っていることも、それが自分の瞳と似たような色合いだったことも、偶然とはいえ嬉しく思った。
花に触れた右手をゆっくりと離し、己の左手で強く握りこんだ。
「……わたしは、王にお伝えしてまいります。チヅル様は、お時間までゆっくりお過ごしください」
「分かりました。ありがとうございます」
エルネストは跪いて礼をとると、平素の無表情で立ち去る。
幸いにも、その頬がわずかに染まっていることに気づく者はいなかった。
「姫様、これから王がお見えになるそうです」
「……分かりました」
あっという間に面会時間になった。
用意された夕食は昼に食べたものよりも豪華になっていたが、緊張のためか味わう余裕はなかった。それでもしっかり完食した千鶴は、自身の図太さに感心する。
王とは食後のお茶を一緒にするという名目で、千鶴の前には豪華なお茶菓子が並べられていた。
――――コンコン。
静かな部屋に、扉を叩く音が響く。
扉の向こうから聞こえたのは、エルネストの声だ。
千鶴は一度深呼吸をしてから立ち上がると、「どうぞ」と言って入室を促す。
開かれた扉の前にいたのはエルネストではなく、金髪が美しい細身の男性だった。それは比べる対象がエルネストだったからで、決して華奢であるわけではない。
表情が険しいわけではないのに放つ威厳は王のそれで、千鶴は一瞬反応が遅れた。
このとき王がとったのは臣下の礼だったが、普通であれば一国の王がするものではない。しかし、千鶴がその事実を知るのはしばらく先のことになる。
「ご尊顔を拝しまして、恐悦至極に存じます。わたしはこの国の王、ロドルフ=シャルロ=ジェルヴェーズと申します」
それはわたしの台詞だと、千鶴が思わず突っ込まずにはいられない決まり文句。
それに対し、千鶴は慌てて頭を下げた。
侍女に何度も確認してもらった淑女の礼をとり、飾らない自分の言葉で挨拶を口にする。
「はじめまして、王様。神崎千鶴と申します」
千鶴はなるべく優雅に見えるように、ゆっくりと顔を上げて背筋を伸ばす。このとき、彼女の視界に入ったのは王とエルネストだけで、それ以外の者は見当たらなかった。
王は侍女たちに下がるよう指示を出す。必要であれば呼ぶと言って、その場に残ったのはエルネストだけだった。そんな彼も扉の前に控えており、指示があるまでなにもするつもりはないようだ。
(少人数でと言ったのはわたしだけど、いくら王宮とはいえ王の護衛が一人でいいの?)
すぐにその疑問を口にすることもできたが、それよりもこの状況を早くなんとかしたかった。
目の前にいるのは一国の王だ。事の経緯を説明してもらうとはいえ、どのように事が進むのか皆目見当がつかない。
どのように切り出すべきか悩んでいると、王がテーブルに近寄る。そのまま座るのかと思いきや、千鶴が座っていた方の椅子に手をかけた。
その行動に、千鶴はぎょっと目を見開く。
「お、王様!」
「どうぞお座りください」
エルネスト以外に誰もいないとはいえ、まさか王に給仕されるとは思っていなかった千鶴はおおいに慌てた。助けを求めるようにエルネストを見ても、彼は無表情のまま前を見据え、一歩たりとも動くことはない。
動揺を隠せないまま王に視線を戻すと、彼は苦笑いで千鶴を見ていた。
「聖女様。あなたは王であるわたしよりも立場が上なのです。部屋にお伺いしたのも、あなたに給仕したいと申し出たのもわたしなのです。ご理解いただけませんか?」
「そう言われましても……」
「これから夜になるという時間に女性と二人きりというわけにはいきませんので、エルネストを控えさせていますが……ほかには誰もおりません。わたしを王ではなく、この国の民の一人と思っていただけませんか?」
王の懇願するような声と強い視線に押し切られるように、千鶴はおずおずと椅子に腰かけた。
このまま王も着席してくれるのかと思いきや、侍女顔負けの無駄のない動きでカップにお茶を注ぐ。
驚く千鶴に、王は照れたように笑った。
王は自分用のカップにもお茶を注ぐと、次はお菓子を取り分け始めた。
恐縮しきりの千鶴だったが、目の前に並べられていく綺麗なそれらを見て、「シェフが張り切っておりました」と侍女が言っていたことを思い出す。一口サイズのお菓子はどれも美味しそうで、千鶴の口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
王は自分で椅子を引いて席に着くと、千鶴にお茶を勧める。彼女が一口飲んだことに満足そうに頷くと、自身もカップに手をかけた。