第23話
夕暮れ時、千鶴が部屋で読書をしていると、扉を叩く音が部屋に響いた。
「チヅル姫、ビセンテです。入室の許可をいただきたい」
どこか堅苦しいそれは、彼が仕事としてここを訪れたということを暗に示していた。
ビセンテが部屋を訪れることはさほど珍しくない。しかし、彼はいつも決まってバルコニーから千鶴の部屋を覗き込む。最初は驚いて小さく悲鳴を上げていた千鶴も、彼の突拍子のない行動には慣れつつあった。
室内に侍女がいない時間帯を把握したうえでの行動は、確信犯だと言っても過言ではないだろう。そんな彼の行動を千鶴は黙認しているが、たまにエルネストと鉢合わせをしては、口論――エルネストの説教をビセンテが聞き流しているだけだが――をしている。
そんな光景も、千鶴にとっては穏やかな日常にすぎない。
千鶴が入室を許可すると、ビセンテが静かに扉を開けた。
室内には千鶴以外見当たらないにも関わらず、いつもの気安い声がかからない。
ビセンテはエルネストのようにぴしりと姿勢を正すと、恭しく礼をとった。
「チヅル姫におかれましては、本日もご機嫌麗しゅう」
「ビセンテさんたら、今日はなんだか畏まっちゃって……。なにかあったんですか?」
よくぞ聞いてくれたと微笑んだ彼は、少し困ったような声色で「王を探しているんだ」と言った。
その言葉に数回瞬きをした千鶴は、すぐに浮かんだ疑問を口にする。
「王様は、行き先も言わずに?」
「まあ、そうだね。『息抜きをしてくる』と言って、三時間前に」
「三時間前……」
それは随分と長い息抜きだと、千鶴とビセンテはそれぞれ複雑な表情を浮かべた。
「王様は普段からお一人で出歩かれるんですか?」
「そうだね。王宮内は単独で行動されることも少なくないね」
「……王様なのに?」
「王だからといって、常に護衛を連れているわけじゃないよ」
ビセンテは、ヒエラルキーの頂点にいる王を襲おうと考える獣人はいないに等しいと言う。数が集まれば不可能ではないものの、本能がその行為を躊躇させる。ただの獣だった頃の名残だというそれは、純人である千鶴には理解できなかった。
また、王は気配を消すことを得意としており、気まぐれに護衛を撒いては息抜きをしているのだという。王の意外な一面に千鶴は笑うが、ビセンテは珍しく苦い顔をする。
「今日中に処理いただく必要がある書類が山ほどあるのに、ちっともお戻りにならない」
だから探しに来たのだと、深いため息をついた。
王だけでなくビセンテの意外な一面を見た千鶴は、笑いを堪えきれずに吹き出した。まさかビセンテほどの男が誰かに振り回されることがあるのかと。
笑い続ける千鶴に、エルネストは「チヅル姫」と諫めるように名前を呼んだ。
「もう、そんなに笑うことないのに」
「ごめんなさい。まさかビセンテさんを振り回すことのできる人がいるなんて……」
「……僕にだってね、敵わない相手はいるんだよ」
どこか拗ねたような言い方に、千鶴は口元を引き締めた。何度も笑ってビセンテの機嫌を損ねてはいけない。完璧だと思っていた男の新たな表情は、距離が近くなった証拠のようで純粋に嬉しい。千鶴がそれを口には出さずにビセンテを見つめると、彼は苦笑を浮かべてため息をつく。
そろそろ退室すると言ってビセンテが扉に近づくと、否が応でも目に入るものがあった。うず高く積み上げられた分厚い書類のようなもの。
まるで王の書斎のようだとビセンテが笑うと、今度は千鶴がため息をついた。
「相変わらずの釣書の量だね」
「お断りしても、次から次へと送られてくるんです」
「王が領主たちに控えるように言っていたはずだけど?」
千鶴はまだ十七歳だが、この国では成人を迎えていることになる。彼女の年齢を知った領主たちは、自分の息子や領地の若者を会わせたがるようになった。唯一の純人である聖女はどの種族とも番うことができるが、それを抜きにしても彼女を一族に迎えたいと願う獣人は少なくない。
「見るだけでもいいからと言われてしまうと、断り切れず」
「優しすぎるのも考え物だよ、チヅル姫。でも、それが君の魅力だからね」
「褒めています?」
呆れたように言いながらも、彼女の瞳は笑っていた。
ビセンテは「もちろん」と言ったと同時に、なにかに気づいたのかそのまま黙り込んだ。その真剣な表情に、千鶴はどうしたのかと問いかける。
「この中に僕の釣書も忍び込ませておけば、あわよくばチヅル姫とお見合いできるんじゃないかと思って」
「もう! また冗談を言って!」
「……冗談じゃないって言ったら、どうする?」
おどけたように言ったかと思えば、今度は焦がれるような熱っぽい声を響かせた。
ビセンテの切り替えの早さに、千鶴はついていくことができない。
「冗談、ですよね?」
「……さあ、どうでしょう」
含みを持たせてにっこりと笑ったビセンテに対し、千鶴は眉間に皺を寄せた。
「チヅル姫、可愛い顔が台無しだよ」
「誰のせいですか」
それには答えることなく、ビセンテは扉の前で姿勢を正した。
「おくつろぎのところ、大変失礼いたしました。あまり時間がございませんので、これで失礼いたします」
「……はい。お気をつけて」
「もしも、王とお会いすることがあれば、今から一時間以内に必ずお戻りくださいと伝えていただけますか?」
ビセンテの視線が、言い聞かせるように千鶴を射貫く。千鶴は数度瞬きをして、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「分かりました。わたしはこのまま部屋にいるつもりですが、万が一にもお会いすることがあれば、お伝えしますね」
「まだまだ仕事がございますので、一時間以内です。分かりましたか?」
「……はい。一時間以内、ですね」
「くれぐれも、よろしくお願いいたします」
ビセンテが繰り返し念を押すと、綺麗な礼をして退室した。
その姿を見送った千鶴は、扉が完全に閉まったことを確認すると、大きくため息をついて椅子の背もたれに沈み込んだ。
「……どこにいるのか、ばれているんじゃないかしら」
ぽつりと呟いた千鶴の声に反応したのは、彼女の膝に座った一匹の猫だった。
テーブルクロスで隠れていたその姿は、ビセンテには見えていないはずだ。その猫は小さく欠伸をして背筋を伸ばすと、また先ほどと同じように膝の上で丸くなる。まるでここから動く気はないとでも言うように。
千鶴が猫の首を撫でると、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
しばらくしてから千鶴を見上げた猫は、まるでにやりと笑うように、にゃあと鳴いた。
王は、しばらく執務室には戻らないだろう。
果たして、一時間以内に姿を現すのだろうか。
行く末を知るのは、千鶴と、ここにいる一匹の猫だけだ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




